展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

オルセーのナビ派展 美の預言者たち――ささやきとざわめき 2017年3月31日

オルセーのナビ派展 美の預言者たち――ささやきとざわめき
会期
…2017年2月4日~5月21日
会場
三菱一号館美術館
感想
…「ナビ派を、我が国で初めて総合的に紹介する展覧会」(三菱一号館美術館館長高橋氏)。正直意外に思いました。同じ三菱一号館美術館の「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」ではボナール、ヴュイヤールの作品が出品されていましたし、ベルナールやセリュジエの作品は、パナソニックミュージアムの「ゴーギャンとポン・タヴァンの画家たち展」でも目にしていたからです。でも、私が昔勉強した限りでは印象派セザンヌゴッホゴーギャンキュビスムフォーヴィスムという流れに、世紀末美術として象徴主義アールヌーボーがちょっと紹介される程度、ナビ派は名前を聞いたか聞かないか…そんな印象でもあります。ゴーギャンとの関連で、あるいは印象派以後の美術史の動向としてこれまで部分的に紹介されることはあっても、ナビ派そのものが主役としてスポットが当たるのは日本で初めてなのでしょう。
ナビ派の作品は西洋美術の伝統的な作品に比べると、軽さが印象的です。現代の漫画やイラストに近い感じでしょうか。平面的で色彩が明るく、描かれるのは身近な人々、場面も室内や庭など、親しみやすさが魅力ですね。絵画は「軍馬や裸婦や何らかの逸話である前に、本質的に、一定の秩序の下に集められた色彩で覆われた平坦な表面である(図録P55)」というドニの言葉がありますが、彼らはある意味絵の原点に戻って、絵画だからできること、絵画ならではの美しさを追求したと言えそうです。「預言者」を名乗り、お互いにあだ名をつけ合い、会合を開くアトリエを「神殿」と呼んで秘教的な儀式をしてみたりと、若干中二っぽい一面もある気がしますが、世紀転換期という時代の空気と彼らの若さもあったのでしょう。ナビ派としての創作活動は十年ほどで、その後はそれぞれが独自の世界を歩んでいくことになります。
ナビ派の特徴の一つが装飾性。マイヨールの「女性の横顔」は、女性の被る黒い帽子、その飾りの赤い花がまず目を引きます。背景を描き込まず、余白を感じさせる画面の右端には様式化されたイチジクの木。女性のバラ色のドレスにも模様や皺は見当たりません。余分なものを排した形と色彩のバランスの絶妙さが際立っています。
…また、ナビ派の画家たちはイーゼル画だけでなく、家具や日用品も手がけ、生活の中に「美」を取り入れようとしました(図録P17)。ドニの制作した屏風「鳩のいる風景」は、画家の生前に公開されることはなく、アトリエで私的に使われていたそうです。作品は花咲く果樹園で木の幹に愛する人の名前を刻む女性が優しい色調で描かれていて、今の季節に相応しく春めいた情景です。一方で、鳩が水を飲む噴水は命と若さを司る天井の泉の象徴でもあり、描かれた春は儚く過ぎ去る季節ではなく、永遠性を帯びているのです。ナビ派は目に見える世界と見えない世界を芸術によって仲介しようと試み、象徴的な意味を宿した作品を制作しました。
…ヴァロットンは他のナビ派の画家たちの優しい、柔らかい印象とはひと味違ったクールな画風で、微妙な構図が何の変哲もない情景に不穏なドラマを予感させます。「ボール」は視点の異なる二枚のスナップショットの合成に基づく作品(図録P122)で、ボールを追いかける幼い女の子が上からのぞき込むように描かれる一方、奥行きが極度に深く、二人の女性はごく小さく描かれています。この絵に不安を覚えるとしたら、明るいにもかかわらず奇妙な静けさを感じるせいでしょうか。女の子は一人きり、二人の女性は遠く離れて話し声も聞こえそうにありません。思わず物語を想像したくなる、絵の中に引き込まれるような場面仕立てもナビ派らしい表現です。
…私が行った日はたまたまプレミアムフライデーだったのですが、人出はほどほど、一枚一枚ゆっくり鑑賞することができました。作品数は80点、身近な人物や情景を描くという特性もあり小さめの作品が多いので、胃もたれせずにさらっと見られます。グッズは通常の絵と塗り絵の二枚組のポストカード、図録も2種類の表紙から選べるなど凝っています。図録は電子版もあり。図録は欲しいけど置き場所に困っている身にはとてもありがたいです。ぜひ広まって欲しいですね。

ミュシャ展 2017年3月25日

会期

 2017年3月8日~6月5日

会場

 国立新美術館

感想

 週末は混んでるだろうな、でも会期後半になると余計混むだろうから今のうちに、と覚悟して行きました。入場待ちはなく、同時開催されていた「草間彌生展」のほうが行列ができていましたね。展示は「スラブ叙事詩」20点とそれ以外の作品80点の2部構成ですが、見所は何と言ってもチェコ以外では世界で初めて全作品が揃って展示された「スラブ叙事詩」でしょう。「66歳になるまでムハは日々、長ければ10時間、6メートルの高さにある足場に上り、カンヴァスの隅々まで筆を走らせた(図録P24)」そうですが、とにかく巨大で、これを20枚も制作する労苦がすごいし、その労苦を厭わないミュシャの母国への情熱に圧倒されました。主題も先史時代から20世紀までのスラブ民族の歴史という壮大さ。4つの顔を持つ多神教の神スヴァントヴィートや隻眼の戦士ヤン・ジシュカ、シゲットをめぐるトルコとの激しい攻防など、私は彼の地域について初めて知ることが多く、興味をかき立てられました。まさに絵で読むスラブ民族チェコの歴史という感じです。また、「ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々」を見たときはフリードリヒの「海辺の僧侶」が脳裏を過ぎりました。一方で、衣服や装身具、建築の内装にはミュシャらしいディテールの緻密さが伺えますし、色使いも繊細で柔らかい雰囲気があります。ミュシャは「スラブ叙事詩」を描くに当たり、油彩とテンペラを併用しているため現在でも色彩が明るさを保っているのだそうです(図録P24)。この大作を見ながらモニュメンタルな大作、象徴的な内容と装飾的な画風がシャヴァンヌを思い出すな、などと考えていたら、ミュシャはシャヴァンヌと個人的な交流があったとのこと(図録P206)でした。ミュシャ展から話が逸れてしまうのですが、シャヴァンヌの名は先般見に行った「シャセリオー展」でも、あるいは昨年末の「ゴッホゴーギャン展」でも見かけていて、文化村の特別展以降、美術の流れを考える上で要になる画家の一人じゃないかとずっと気になっています。
 会場内では「スラブ叙事詩」のうち一部の作品は撮影が可能でした。上野の森美術館で開催されていた「デトロイト美術館展」も曜日限定で撮影が可能でしたが、こうした試みは今後増えていきそうですね。さて、「スラブ叙事詩」は大きな作品だったので展示室に人が多くても見ることができたのですが、馴染み深いサラ・ベルナールのポスターなど小さな作品が展示してあるコーナーのほうは、絵の前に列ができてしまっていたのでやむなく解説を読むのを諦め、後ろから眺めるにとどめました。一番混んでいたのはグッズ売り場でしょうか。お客さんがぎっしりで、商品を取るにも苦労しましたし、売り切れの商品も。「四芸術」のポストカードセット欲しかったなあ。レジが多かったこともあり、待ち時間は10分もありませんでしたが、重い荷物・大きい荷物は展示室に入る前にロッカーに預けておいたほうが楽だと思います。日本におけるミュシャの人気の高さを改めて実感しました。

【過去記事再掲】2015年3月22日(日) グエルチーノ展 国立西洋美術館

 たぶん日本では、グエルチーノの名を知っている人のほうが少ないのではないでしょうか。私もこの展覧会のチラシを手にするまで知らなかったのですが、特別展に行ってみようと思ったのは何よりチラシに印刷された「聖母被昇天」の絵が素敵だったこと。日本では馴染みのない画家だけに、この機会を逃したらなかなか纏めて作品を見るチャンスがないだろうこと。そして、画家の故郷であるイタリアのチェント市が震災に見舞われ、市立絵画館は現在も閉鎖されてしまっている状況にあるということ。多少なりとも復興の一助になるなら、という思いから行くことにしました。

 グエルチーノの本名はジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ。短い期間ローマで活動した以外は、人生のほとんどを故郷のチェントや近郊のボローニャで過ごしました。イギリスの宮廷画家やフランス王家からの誘いも断ったというのですから、故郷を離れがたい気持ちが強かったのだと思います。実はグエルチーノは「斜視の小男」という意味のあだ名なのですが、「グエルチーノと言えば神聖な名前であって、子供や老人の口にも膾炙している」と評されるほど故郷の人々に愛されている存在でもあります。

 グエルチーノが活躍したのは17世紀、宗教改革の時代です。偶像崇拝を禁止したプロテスタントに対して、カトリックは一般の信徒に分かりやすく、写実的で感情に訴える美術表現を推進しました。そうして花開いたのがバロック美術です。先行するマニエリスムの作品は教養ある宮廷人しか読み解けないような複雑な寓意が散りばめられていたのに対し、バロック時代の作品は特別な知識がなくても見た目で直接理解できます。また、宗教的な、時に超自然的な出来事が具体的なイメージとして描かれています。こういった表現はともすると陳腐になる恐れがあるのですが、そう見せないところに画家の技量や作品の持つオーラがあると思います。作品自体の大きさと表現された時空のスケールに圧倒されるんですね。グエルチーノの大作が飾られた美術館内は聖堂のような厳かな雰囲気でした。描かれた人物に見上げるような眼差しが多いのは、神のいる場所を見ていると共に、絵を見る人=一般の信徒にも天を意識させたかったからなのかなと思いました。

 グエルチーノの画家としての道のりは、大ざっぱに言うと、ドメニコ・カラッチの作品から影響を受けつつバロック的な表現を自己のものとして確立していく前半と、グイド・レーニを意識しつつ古典的で静謐な作品を制作していった後半に分けられそうです。カラッチの影響といっても直接カラッチ一族のアカデミーで学んだわけではなく、地元の教会の祭壇画「聖母子と聖人たち」に感銘を受けて、ほぼ独学で技術を身につけていったそうです。また、大胆な構図やドラマティックな明暗はカラヴァッジョを彷彿させますが、直接カラヴァッジョから影響を受けたのではなく、カラヴァッジョも影響を受けた北イタリアの画家を手本にしたようです。例えば、「聖母被昇天」の見上げるような大胆な構図や「聖イレネに介護される聖セバスティアヌス」の複雑に入り組んだ陰影は、バロックらしく劇的で躍動感に満ちています。

 しかし、グエルチーノはローマにおける短い活動期間のあと、次第に静謐で秩序のある画面に移行していきます。「聖母のもとに現れる復活したキリスト」はこの過渡期の作品ですが、以前の作品に比べるとすっきりとして見やすく、その分場面の緊張感や厳粛さが伝わってくるように思います。画家に限らず、若い頃は奇抜なことをしてみたかったり、またそれがその人の勢いやエネルギーを感じさせたりするのですが、派手な身振りをせずとも控えめな表現の中に伝えたいものを込めることができるなら、無駄を削ぎ落とした表現にもまた違った魅力があると思います。晩年の「洗礼者ヨハネ」など堂々として非の打ち所がない作品です。独学で絵画を学んだグエルチーノが、最終的にはアカデミーの基準にもなるような境地に到達するまでにどれほどの研鑽を積んだか想像すると、非常に感慨深いものがあります。

 ところで、グエルチーノはモデルを前に目で見たとおり描くタイプで、グイド・レーニはモデルがいなくても理想の美女を描くことができたそうです。グイド・レーニは自分の頭の中に美のビジョンのようなものがあったのでしょう。一方、グエルチーノの場合は、「聖母被昇天」の星の冠を戴き微笑むマリアも優しげでどこか可愛らしく、人間的な部分がかえって魅力のように思えます。

 大作も素晴らしいのですが、個人的には聖母子と雀のような小品に見ていて心安らぐものを感じました。眠るエンデュミオンは美少年だし、憂いを帯びたヨハネの横顔にも惹かれました。

 今回、国立西洋美術館でグエルチーノの特別展が開かれることになった理由の一つに、西洋美術館が「ゴリアテの首を持つダヴィデ」を所蔵していたという縁もあったそうです。私は常設展は特別展のついでに、時間があるとき見るという具合だったので、今まで見逃していて勿体ないことをしたと思いました。同時に、重要な画家の作品をしっかり所蔵している西洋美術館の地力を改めて感じました。

【過去記事再掲】2015年4月11日(土) マグリット展 国立新美術館

 マグリットというと、私は灰色の空に翼を広げた大きな鳥の姿の中に青空が見える「大家族」や、空は昼の明るさなのに街路や建物は夜の闇に包まれている「光の帝国」などが浮かびますが、今回は本格的な回顧展ということで、これまで目にしたことのない初期作品なども見ることができました。マグリット未来派キュビスム、キリコやエルンストやダリなど様々な画家から影響を受けていますが、一方で作品を特徴付ける銀の鈴やビルボケ(西洋のけん玉)などのオブジェは初期の頃から繰り返し登場しています。画風に変遷はあっても、マグリットの関心があるもの、描きたいものはある程度一貫していたのだろうと思います。

 「恋人たち」は睦まじく口付ける恋人たちを描いた作品ですが、男女の顔は白い布で覆われています。恋は盲目とばかりに相手が見えていないのか、逆に本当の自分を見せないようにしているのか。顔がないことで恋人たちは匿名の、普遍的な存在となり、見る者は自分たち自身の姿を重ね合わせて時にどきりとするのかもしれません。

 「人間の条件」では窓と、窓の向こうに広がっているはずの緑の風景を描いたキャンバスが重なっています。絵は絵であって、決して風景そのものではありません。しかし、目の前にある実物を見るだけでは飽きたらず、あえて描き、それを鑑賞することを楽しむことこそ創作の始まりであり、人間らしさでもあります。

 「自由の入り口で」は部屋を取り囲む壁に女性や森、青空、炎などが描かれ、真ん中に大砲が置かれています。イメージの薄い膜に包まれた日常に安住せず、固定観念の殻を打ち破りイメージの向こう側にある事物そのものへ迫ること、「存在についての真実の感情」を喚起しようとしているのでしょうか。

 私たちは世界をあるがままに受け止めず、名前を付け、感情を持ち込み、イメージによって認識しています。それが複雑な思考を可能にし、想像力の飛翔を可能にもしているのですが、しばしば惰性に流され、見えるはずのものも見落としていることがあります。事物とイメージの原初の緊張を取り戻し、創造の新たなエネルギーを得たいというのがマグリットの意図だったのかもしれません。

 マグリットは「私が手に入れたいと望んでいた抒情性は…不変の中心を持っていた…それは、純粋で力強い感情、すなわちエロティシズムでした」と語り、しばしば女性を描きましたが、その中には妻のジョルジェットがモデルを務めた作品がいくつもあります。そんな愛妻の名を冠した「ジョルジェット」には妻を始め、マグリットの作品に繰り返し登場するさまざまなオブジェが描かれています。マグリットは自分の愛するものを一枚の絵に詰め込んだようにも見えます。

 「アルンハイムの地所」はエドガー・アラン・ポーの短編に由来する作品です。手前には卵の入った鳥の巣、彼方に聳える山脈は鷲の姿をしていて、空には細い月が浮かんでいます。岩の親鳥が卵を抱いているのでしょうか、それとも親鳥から引き離された卵の憧憬が遙かな山容に投影されているのでしょうか。あるいは安全な建物の中で守られている卵と大自然の中にいる野生の鷲との対比かもしれません。実はこの作品、私の中学時代の美術の教材に載っていたのですが、実物は思ったより小さく感じました。物語性があり、空間のスケールを感じる作品なので、心の中でイメージが膨らんでいたんでしょうね。

 「へーゲルの休日」は傘の上に水の入ったコップが描かれています。傘は雨を避けるための道具ですが、雨が降らなければ必要のない道具でもあります。両者は一見相対立する存在ですが、本質的には切り離すことのできないものです。

 「ガラスの鍵」は、険しい山の尾根に巨岩が置かれた唐突な光景です。しかし、私たちが堅固なものと思いこんでいる大地=地球そのものが宇宙空間に浮かんでいるのであり、岩や私たち人間が地面から振り落とされないのは目に見えない重力が働いているからなのです。

 「白紙委任状」は馬に乗って森の中を進む女性を描いていますが、見えるはずの部分と隠されている部分が巧妙に入れ替えられていて、木と馬と女性の配置がだまし絵のようになっています。目に見えるものは、同時に何かを隠すものでもあります。マグリットは作品を通して、日頃習慣や常識によって隠されがちな真実への気づきを促しているのではないでしょうか。

 「絵画自体に感情はありません」という言葉の通り、マグリットの作品はタッチや色彩がほぼ均一で、画家の個人的な感情を窺うことはできません。意味付けするのは見る側次第、私たちはマグリットの作品を通して己の意識を見つめ直しているのかもしれません。

【過去記事再掲】2015年3月28日(土) 遠藤湖舟写真展「天空の美、地上の美。」 日本橋高島屋

 4月4日に皆既月食があるので、おそらくそれに併せての展覧会なのでしょう。遠藤さんについては今回初めてお名前を知ったのですが、ブラッドフィールド彗星を撮影した写真をきっかけに注目されるようになったそうです。子供の頃天体望遠鏡が欲しかった私にとっては、小さい頃から星の写真を撮ることが好きだったという遠藤さんに勝手ながら親近感を感じ、また、個展を開催するようになったのは50歳を過ぎてからとのことで、好きなことを続ける意志というのは大切だなとも思いました。

 最初のコーナー「第一楽章「月」」。月の夜の部分が、地球の反射する太陽光に照らされてうっすら見えることを地球照と言うそうです。月齢が27~3ぐらいで月が細い時、特に冬だと肉眼でも観察しやすいようなので、これから三日月を見る時はちょっと注意して見てみたいです。他の星は遠すぎて満ち欠けや表面の様子を肉眼で見ることはできませんが、その点、月というのは宇宙を生々しく実感させてくれる存在ではないでしょうか。また、青空に浮かぶ「碧空浮月」は飛行機の中から撮影したのか、白い月の下に雲海が広がっていて、月が月でないような幻想的な作品でした。

 「太陽」のコーナーでは「凍れる太陽」が印象的でした。天に向かって枝を広げる裸木の頭上、雪混じりの空を照らす弱々しい冬の太陽。活気をもたらす朝日の輝き、あるいは溶けた鉄のような夕日の熱さと違って、このモノクロの作品では熱のない冬の白い日差しが舞い散る雪と混じって凍えた世界を満たしています。見ているうちにふと、池澤夏樹の「スティル・ライフ」にある海に降る雪の場面を思い出しました。

 空気は透明で目に見えないものですが、雲を見れば空気の形が見える気がします。気温や湿度や風といった大気の状態によって自在に変容し、同じものは二度となく、不断に姿を変えていく雲はいつ見ても見飽きることがありません。「天空の色彩」は残照で赤く染まった暗い雲間から暮色が迫る空のグラデーションが見える絵のように美しい一枚ですが、これが自然が織りなす偶然の光景であることに意味があると思います。人の手、人の意志を離れたところにある美しさ。人の作為の限界を認識させられますが、その美を見出すのもまた人の目なんですよね。

 「星」のコーナーの「星々他」はスクリーンに投影される写真が徐々に別の写真に切り変わっていく仕掛けなので、椅子に座ってゆっくり眺めているとちょっとしたプラネタリウムの気分を味わえます。「昇る金星」は金星の星明かりが海を照らしている作品。月明かりなら珍しくありませんが、金星がこんなに明るいことを初めて知りました。遠藤さんが世に知られるきっかけになった「ブラッドフィールド彗星」の写真も展示されていました。ブラッドフィールド彗星は2004年、リニア彗星という別の彗星が注目されていた時に突然発見されて一躍話題になった彗星で、遠藤さんの写真にもその美しく長い尾が捉えられています。

 「ゆらぎ」はそれぞれがまるでCGのような作品です。いずれも水面を撮影した写真なのですが、織物のようであったり、金属のような光沢があったり、水面が周りの色彩を取り込み、風で波立つことでこれほど多彩な表情を見せることに驚きました。いかなるものにも染まる水の柔軟さ、そしてこの国の四季の色鮮やかさを感じます。個人的には岸辺の新緑を映し出した作品の瑞々しさに惹かれました。なお、会場ではこのコーナーは撮影が可能でした。

 「かたわら」は遠くの月や星から一転、身近な花や虫が対象となっています。掛軸にプリントされた「花」は和の装い。「雨の曼陀羅」の虹色に染まった蜘蛛の巣は、それを見つけた遠藤さんの目の鋭さに驚かされます。普段ぼんやり見過ごしがちな身近な生物も、改めて見るとこんな形をしていたのかと自然の妙に気づかされ、新鮮に見えてくることがあります。思いこみを捨て、時には見つめ直してみると新しい美を発見できるのかもしれません。

 最後に。たぶんですが、私が会場を訪れたとき、ご本人がいらっしゃっていて外国人のお客様に応対されていました。邪魔しないようにと思ってそーっと通り過ぎたので、しっかり確かめた訳ではありませんが。絵とか写真とか、言葉の壁を超えて美しさが通じるというのは表現として大きな強みだと思います。もちろん、遠藤さんはお客様たちと英語で会話が弾んでいらっしゃいました(笑)。