展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

【過去記事再掲】2015年3月22日(日) グエルチーノ展 国立西洋美術館

 たぶん日本では、グエルチーノの名を知っている人のほうが少ないのではないでしょうか。私もこの展覧会のチラシを手にするまで知らなかったのですが、特別展に行ってみようと思ったのは何よりチラシに印刷された「聖母被昇天」の絵が素敵だったこと。日本では馴染みのない画家だけに、この機会を逃したらなかなか纏めて作品を見るチャンスがないだろうこと。そして、画家の故郷であるイタリアのチェント市が震災に見舞われ、市立絵画館は現在も閉鎖されてしまっている状況にあるということ。多少なりとも復興の一助になるなら、という思いから行くことにしました。

 グエルチーノの本名はジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ。短い期間ローマで活動した以外は、人生のほとんどを故郷のチェントや近郊のボローニャで過ごしました。イギリスの宮廷画家やフランス王家からの誘いも断ったというのですから、故郷を離れがたい気持ちが強かったのだと思います。実はグエルチーノは「斜視の小男」という意味のあだ名なのですが、「グエルチーノと言えば神聖な名前であって、子供や老人の口にも膾炙している」と評されるほど故郷の人々に愛されている存在でもあります。

 グエルチーノが活躍したのは17世紀、宗教改革の時代です。偶像崇拝を禁止したプロテスタントに対して、カトリックは一般の信徒に分かりやすく、写実的で感情に訴える美術表現を推進しました。そうして花開いたのがバロック美術です。先行するマニエリスムの作品は教養ある宮廷人しか読み解けないような複雑な寓意が散りばめられていたのに対し、バロック時代の作品は特別な知識がなくても見た目で直接理解できます。また、宗教的な、時に超自然的な出来事が具体的なイメージとして描かれています。こういった表現はともすると陳腐になる恐れがあるのですが、そう見せないところに画家の技量や作品の持つオーラがあると思います。作品自体の大きさと表現された時空のスケールに圧倒されるんですね。グエルチーノの大作が飾られた美術館内は聖堂のような厳かな雰囲気でした。描かれた人物に見上げるような眼差しが多いのは、神のいる場所を見ていると共に、絵を見る人=一般の信徒にも天を意識させたかったからなのかなと思いました。

 グエルチーノの画家としての道のりは、大ざっぱに言うと、ドメニコ・カラッチの作品から影響を受けつつバロック的な表現を自己のものとして確立していく前半と、グイド・レーニを意識しつつ古典的で静謐な作品を制作していった後半に分けられそうです。カラッチの影響といっても直接カラッチ一族のアカデミーで学んだわけではなく、地元の教会の祭壇画「聖母子と聖人たち」に感銘を受けて、ほぼ独学で技術を身につけていったそうです。また、大胆な構図やドラマティックな明暗はカラヴァッジョを彷彿させますが、直接カラヴァッジョから影響を受けたのではなく、カラヴァッジョも影響を受けた北イタリアの画家を手本にしたようです。例えば、「聖母被昇天」の見上げるような大胆な構図や「聖イレネに介護される聖セバスティアヌス」の複雑に入り組んだ陰影は、バロックらしく劇的で躍動感に満ちています。

 しかし、グエルチーノはローマにおける短い活動期間のあと、次第に静謐で秩序のある画面に移行していきます。「聖母のもとに現れる復活したキリスト」はこの過渡期の作品ですが、以前の作品に比べるとすっきりとして見やすく、その分場面の緊張感や厳粛さが伝わってくるように思います。画家に限らず、若い頃は奇抜なことをしてみたかったり、またそれがその人の勢いやエネルギーを感じさせたりするのですが、派手な身振りをせずとも控えめな表現の中に伝えたいものを込めることができるなら、無駄を削ぎ落とした表現にもまた違った魅力があると思います。晩年の「洗礼者ヨハネ」など堂々として非の打ち所がない作品です。独学で絵画を学んだグエルチーノが、最終的にはアカデミーの基準にもなるような境地に到達するまでにどれほどの研鑽を積んだか想像すると、非常に感慨深いものがあります。

 ところで、グエルチーノはモデルを前に目で見たとおり描くタイプで、グイド・レーニはモデルがいなくても理想の美女を描くことができたそうです。グイド・レーニは自分の頭の中に美のビジョンのようなものがあったのでしょう。一方、グエルチーノの場合は、「聖母被昇天」の星の冠を戴き微笑むマリアも優しげでどこか可愛らしく、人間的な部分がかえって魅力のように思えます。

 大作も素晴らしいのですが、個人的には聖母子と雀のような小品に見ていて心安らぐものを感じました。眠るエンデュミオンは美少年だし、憂いを帯びたヨハネの横顔にも惹かれました。

 今回、国立西洋美術館でグエルチーノの特別展が開かれることになった理由の一つに、西洋美術館が「ゴリアテの首を持つダヴィデ」を所蔵していたという縁もあったそうです。私は常設展は特別展のついでに、時間があるとき見るという具合だったので、今まで見逃していて勿体ないことをしたと思いました。同時に、重要な画家の作品をしっかり所蔵している西洋美術館の地力を改めて感じました。