展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

パリ・グラフィック ロートレックとアートになった版画・ポスター展

会場
三菱一号館美術館

会期
…2017年10月18日~2018年1月8日

mimt.jp

 

 

概要

…この展覧会は19世紀末に一世を風靡した版画芸術について紹介するもので、出品作品は三菱一号館美術館アムステルダムのファン・ゴッホ美術館のコレクションで構成されています。出品数は147点(参考出品を除く)、そのうち副題にもあるロートレックの作品は40点余りとボリュームがあり、充実した内容になっています。私はロートレックの名前につられて見に行ったのですが、この時代の版画芸術について初めて知ることが多く、勉強になりました。個人的にちょっと版画に興味を持ちかけていたところだったので、タイムリーな展覧会でもありました。

版画とポスター

…この展覧会は「庶民向けの版画」と「知的階層向けの版画」の大きく二つに分けて構成されていますが、二つだけというのはなかなか思い切った分け方で、他ではあまり見たことがない気がします。このテーマを象徴するかのような作品がウジェーヌ・グラッセの「版画とポスター」です。下着姿でブラシを手にしているオレンジの髪の女性と、襟の詰まったドレスを着て腕に版画のポートフォリオ(紙挟み)を抱えている黒髪の女性。これはポスターを娼婦、版画を淑女に準えて描いているのだそうです。ポスターが大衆のもの、版画が愛好家のものとして対比され、実際そのように制作されていたというのは初めて知りました。確かに、ポスターは商業的なメッセージを背負って道行く人を誘惑するのが役割です。また、誰が見ても一目で分かる必要がありますし、流行と共に移ろう期間限定の華でもあります。じっくりと鑑賞し吟味する深みのある作品、時代を超えて永続する価値のある作品とは言えないと考える人がいたのも分かりますし、優れたポスターばかりではなかっただろうことも想像がつきます。しかし、ここではポスターと版画が同一の次元に並べて描かれています。その上、ポスターは上品な版画をからかうように笑っていますね。この作品においてはポスターも版画と対等な芸術表現の一つと見なされていると言えそうです。ポスターや楽譜の表紙、本の挿絵などを手がけた多くの若い芸術家たちは、自分の作品が人々の生活の中で息づくことに新しい芸術の可能性を見出したのでしょう。

ナビ派リトグラフ

…ポール・ゴーガンの「ヴォルピーニ・シリーズ」はジンコグラフ(ジンク=亜鉛板を用いたリトグラフ)による作品で、1889年、パリ万博の開催に合わせてカフェ・ヴォルピーニで行われた「印象主義と総合主義のグループによる絵画展」に出品されたそうです。「人間の悲劇」は「ゴッホゴーギャン展(2016年、東京都美術館)」で油彩の作品が出品されていたのですが、ゴーガンは1888年に制作した最良の自信作とみなしていたそうです。こちらのジンコグラフは1889年ですから、自信作のモチーフを版画でも取り上げたんですね。モーリス・ドニ「『ラ・デペッシュ・ド・トゥールーズ』紙のためのポスター」は空に浮かぶ雲、女性のカールした髪、ドレスの花模様及び襞の織りなす曲線が呼応し合う軽やかで優美な作品です。自然から離れることで獲得された装飾性がここでは十分生かされていると言えるでしょう。ナビ派は「目に見える現実を己の個人的な経験や感情をもとに統合しなおす」ために、装飾的な表現に取り組みましたが、その作品の特徴としては細部の省略、形態や色彩の単純化、明瞭な輪郭線といった点が思い浮かびます。多色刷りリトグラフは筆で描き込む絵画のような繊細さ、直接性はありませんが、その不自由さと表裏一体のシンプルさや平坦さはナビ派の特徴と相性が良いように思います。同時に、ナビ派の芸術家たちは多色刷りリトグラフ作品を制作する過程で、版画に適したデザインになるよう工夫し単純化や様式化を進めていくことにもなった、そうした技法と表現が相互に影響し合った一面があったのではないかと想像します。エドゥアール・ヴュイヤールの「仕立屋」は画面上半分を占める窓がほとんど余白となっています。油彩だったら塗り残しとみなされてしまいそうですが、外の明るさや空間の広がりを感じさせる効果がありますね。わずかに配された色彩やドレスの模様はそれぞれ形から自立しているように見えますが、そうした自由な表現も版画だから可能だったのでしょう。見る者が身構える必要のない親しみやすさを感じる作品だと思います。

画家とモデルの関係性

…アンリ・ド・トゥールーズロートレックが手がけたポスターには、ムーラン・ルージュやカフェ・コンセールで活躍した当時のパリの有名人たちが数多く登場しますが、いずれも個性的で一癖ありそうな人物に見えます。例えば「ディヴァン・ジャポネ(=日本の長椅子の意)」に描かれているジャヌ・アヴリルは決して美女ではないのですが、鮮やかなオレンジの髪と尖った顎が印象的で、一目見たら忘れられない容貌です。グラッセの「版画とポスター」で版画が着ていた堅苦しい黒のドレスも、この作品では洒落た装いに見えますね。オーケストラのシルエットをバックに、扇子を前に突き出す仕草も舞台の上でのポーズのように決まっていて、粋で大胆な印象を受けます。ポスターには、見る者を描かれた対象の消費に向かわせる魅力が必要ですが、歌手やダンサーの場合は本人が商品、見た目が売り物と言って良いと思います。実物以上によく見せたくなるのが人の常ですし、そこが画家の腕に期待される部分でもあるでしょう。しかし、ロートレックは美化することなく、描く人物の容貌と内面を同時に表現することを心がけていたそうです。娯楽と共に消費される上辺の綺麗なイメージではなく、描く相手の人格や生き様も表現したことで、ロートレックのポスターは当初の役割を終えた後も、なお人を惹きつける魅力が褪せないのだと思います。同時に、ロートレックを取り巻くパリの立役者たちの心意気のようなものも感じます。彼らの皮肉とユーモアを湛えた表情を見ていると、ただ綺麗なだけの絵なんてつまらない、と言いそうな気がするんですよね。モデルたちもただ一方的に描かれるだけの対象ではない、生きた人間としての姿を残したわけで、そうした画家とモデルとの絆、信頼関係が作り上げた作品と言えるでしょう。

モノクロの魅力

…19世紀末、多くの若い芸術家がカラフルなリトグラフを積極的に手がけた一方で、モノクロの版画に取り組んだ芸術家たちもいます。ジャン=エミール・ラブルールの連作「化粧」は、朝の身支度をする女性の日常を描いたものです。木版画の素朴な太い輪郭線はすっきりと単純で、壁紙や寝具の装飾的なパターンとも相まってむしろ新鮮なものに映ります。描かれた女性はいずれも俯いたり後ろを向いていたりと無防備で、見る者の欲望に直接働きかけてくるポスターとは対照的な、隠し撮りのようにも見えます。フェリックス・ヴァロットン「アンティミテ」は木版の濃密な黒いインクが存在感を放っている連作です。「お金」の画面右半分以上を占める黒は、危うい成り行きに対する不吉な兆しとして作用すると共に、背徳感を強調するニュアンスも感じられますね。黒という色の持つ心理的な効果を巧みに生かしていますし、あえて描かないことでかえって想像力を掻き立てられると思います。この時代のパリは産業革命の進展によってブルジョワジーが台頭し、街はオスマンの都市計画によって清潔に整備され、豊かな生活、華やかな文化が享受されていましたが、一方でそうした明るい世界から閉め出された闇への関心もまた強まったのでしょう。無彩色の版画は密やかで仄暗い主題を描くのに適していたのだろうと思います。

幻想的な風景

…今回出品されていた作品には風景を描いたものがあまり見当たりませんでした。偶然なのか、もともとこの時代の版画に風景画が少ないのかは分かりません。そうした中で、北フランスの景色に基づくシャルル・マリー・デュラックの「連作風景画」は目を引きました。「図版Ⅰ」はよく見ると左側の岸に二つの人影が描かれていますが、その姿は両岸に立ち並ぶ木立の高さに比べてとても小さく、静寂が支配する風景に動きを与えているのはむしろ水面に広がる波紋のほうです。セピア色の風景には憂愁が漂い、見る者を瞑想に誘うような世界だと思います。ジョルジュ・ド・フールの「神秘的で官能的なブリュージュ」は、ジョルジュ・ローデンバックの小説「死都ブリュージュ(1892年)」に触発されて制作されたものでしょう。同小説にインスピレーションを受けた絵画としてはフェルナン・クノップフの「見捨てられた街」が有名ですが、ド・フールも中世の名残をとどめたまま時代に取り残された街の情景を幻想的なイメージで描いています。大判でカラフルなリトグラフのポスターが街路を彩る傍ら、版画は芸術に理解のある愛好家に収集され、書斎で鑑賞されました。油彩画など伝統的な絵画と違って、版画は紙挟みに収納することができますし、新興の上流階級による旺盛な美術への需要にも応えやすかったのでしょう。一方で、限られた層に向けて制作されたため、デリケートな主題も扱うことができた面もあるようです。

…20世紀に入ると版画のブームは去ってしまうのですが、その原因の一つは、ポスターが愛好家の収集の対象として街路から室内を飾るものになり、カラフルなリトグラフが室内の装飾品としてポートフォリオから取り出されて飾られるようになった結果、それぞれの特性が失われて面白みがなくなってしまったため、とのことです。また、商業用のポスターについては、大衆消費社会の進展とともに芸術性より直接的な効果、手間や費用のかからない効率性が求められるようになったのではないかと思います。あとは、単純ですが新鮮さが失われたから、収集家だけでなく、芸術家たちにとっても出来ること、思いつくことが一通り試みられたからかもしれません。そうしたひと所に留まらない精神が、従来の枠組みに囚われず、新しいもの、カジュアルなものにも積極的に挑戦することを可能にしたのでしょう。若い芸術家たちの柔軟さと、時代の技術や流通手段、社会のニーズ、そして版画という技法の幸運な巡り合わせがあったことで、19世紀末の版画芸術の隆盛があったのだろうと思います。

その他

…会場内では「庶民向けの版画」の一部で撮影可能でした。また、BGMが流れていましたが、展覧会の雰囲気に合っていて良かったと思います。図録は筑摩書房出版の一般書籍のため、web通販などで購入することも可能です。ただ、19世紀末の版画芸術に関する解説の分量が多く詳細な反面、掲載順と展示順が一致していなかったり、作品ごとの解説文がなかったりするので、その点は注意が必要かと思います。
(2017年10月28日)