展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

生誕160年 マックス・クリンガー版画展

会場
神奈川県立近代美術館葉山館
会期
…2017年9月16日~11月5日

生誕160年 マックス・クリンガー版画展:神奈川県立近代美術館<葉山館>

感想

 

概要

…好天に恵まれた文化の日、思い切って神奈川県立近代美術館葉山館まで遠出しました。初めて行きましたが、目の前に海が広がる綺麗な美術館ですね。道中、葉山マリーナ付近で、バスの窓から穏やかな海の向こうに雲一つかかっていない富士山を見ることができました。写真は撮れませんでしたが、北斎の浮世絵を思い起こさせるような姿はしっかり脳裏に収めました。
マックス・クリンガーは19世紀末から20世紀の転換期にドイツで活躍した彫刻家、画家、版画家です。私はクリンガーの作品を先月の「怖い絵展」で初めて見たのですが、作品に興味を持って調べていたところ、こちらの展覧会を見つけて会期終了間際ながら行くことができました。この展覧会はクリンガーの多彩な活動のうち版画に焦点を当てたもので、展示内容は素描・彫刻各1点を除き版画作品となっています。出品作品は以下の通りです。
・「イヴと未来」 全6葉
・「間奏曲」 全12葉
・「手袋」 全10葉
・「ブラームス幻想」 
・「ドラマ」 全10葉
・「ある愛」 全10葉
・「死について 第2部」 全12葉
…「ドラマ」は町田市立国際版画美術館、「死について 第2部」は静岡県立美術館の所蔵品、それ以外は神奈川県立近代美術館の所蔵品です。「ブラームス幻想」は大きな版画作品9葉と、楽譜や詩の余白を飾る小さな作品とからなっています。また、「アモールとプシュケー(町田市立国際版画美術館所蔵)」は表紙を閉じた形で展示されていて、版画を見ることは出来ませんでした。
…クリンガーに版画制作を勧めたのは画商で版画家のヘルマン・ザーゲルトだそうですが*1、美術界では1850年から80年のあいだに二度の「エッチングの復興(再評価)」があり*2、そうした動向も背景にあって、クリンガーの数々の連作が制作されたのだと思います。クリンガーの版画作品を見ると、初期はエッチングのみ、またはエッチングとアクアチント*3を組み合わせたものが多いのですが、次第にエッチングとエングレーヴィング、又はエングレーヴィングのみという作品が増えていきます。この変化は、ニードルを用いるエッチングが自在な線描が可能なのに比べて、ビュランと呼ばれる鋭利な刃物で線を彫るエングレーヴィングの場合、常に一定方向にしか彫り進めることができず技術の熟練が必要とされるためだと思われます。エングレーヴィングの代表的な作家には傑作「メランコリアⅠ」などを残したデューラーがいますから、クリンガーの脳裏には当然母国の偉大な芸術家の存在があったことでしょう。

「イヴと未来」

…「イヴと未来」はアダムとイヴの原罪について描いた三葉と、人間が直面する三つの死の恐怖について描いた三葉で構成されています。第一葉、水辺の草地に腰を下ろし、長い髪を手で梳くイヴは官能的な美しさのある女性として描かれています。第二葉で蛇の差し出す鏡に映る自分の姿に見入るイヴ。これは伝統的な虚栄の寓意の図像に則っていると思われます。若さは永遠のものではなく、外見の美しさは儚く失われるものであり、生命の有限を象徴します。ここでは蛇に唆されて知恵の実を食べたイヴが、永遠の生命を失うことを暗示していると思われます。原罪はイヴの子孫である人間に自然との闘い、人間同士の争い、最後の審判という三つの死の恐怖をもたらします。第5葉、アダムはイヴを担いで、エデンを後にしています。背後には巨石の門があり、剣を手にした天使が立ちはだかっています。しかし、楽園から追放されるアダムは項垂れてはおらず、荒野に踏み出す姿には力強さがあり、未来にあるものは必ずしも絶望ばかりではないと感じられました。

「手袋」

…この連作版画は、クリンガー自身の恋愛をきっかけに描かれた素描連作「手袋取得に関するパラフレーズ――それを失くした婦人に捧ぐ」が元になっているそうです。しかし、肝心の女性の顔は描かれていません。「行為」では後ろ姿ですし、「願望」では非常に遠くにいるので見えないんですよね。個性が描かれないことで、女性は不特定の、見る人が心に想う誰かを仮託することが可能になるでしょうし、女性よりその従属物であるはずの手袋自体が執着の対象として存在感を主張することにもなります。「敬意」では、波立つ海の泡がバラとなって描かれていますが、バラをアトリビュートとするのはアフロディテですから、この祭壇は愛と美の神アフロディテに捧げられたものと考えられます。悪夢にうなされる「不安」から一転して静穏な場面、「休息」に描かれた背後のカーテンをよく見ると全て吊された手袋なんですよね。気がついて、これはむしろ「不安」より怖いかも…と思いました。手袋に埋め尽くされた世界の安寧には、いささか常軌を逸したものを感じます。その閉じた夢に介入する怪物。「アモール」も小さな作品なのですが、間近で見てみて、頬に手をあてるアモールは泣いているのかもしれないと思いました。「手袋」のシリーズは、観念ではなく経験に基づいているためなのか、奇妙で幻想的ではあるけど、難解という印象はありません。見たことがないのに覚えがある夢のようなイメージを備えていて、無意識の世界が垣間見える作品だと思います。

「ドラマ」

…「ドラマ」は象徴的、幻想的な他の連作とはひと味違って、現実の社会の負の側面を描いた作品です。妻の恋人を撃ち殺す夫、娼婦と客を取り持つ老婆、森の中に残された畳んだ上着と一通の遺書。大衆向けの新聞が成長した19世紀、絶え間なく起こる事件は情報として速やかに消費されても、当事者はそれぞれに抜き差しならない事情を背負っていて、そうしたドラマの集合体が社会だとも言えるでしょう。「ある母親Ⅰ」に描かれた母子は、集合住宅と思しき建物の通路の端に追い詰められています。詰め寄る父親は周りの人々に止められていますが、母親は暴力に耐えかねて我が子とともに飛び降りようとしています。建物は足元をのぞき込むと目がくらみそうな高さがあり、まさに断崖のようなぎりぎりの場所に追い詰められている母親の心理を象徴しているようにも見えます。私は心中、特に母子の心中は何となく日本的なものだと思い込んでいたんですよね。だから少し驚きましたし、同時に問題の普遍性、根の深さのようなものを感じました。「ある母親Ⅲ」では、子供を殺して自身は死に損なった母親が法廷で裁かれています。しかし、発端となった母子への暴力を責められるべき父親はこの場に見当たりません。罪を裁くのは法ですが、気の毒な母子もまた法で守られるべきで、やりきれないものを感じます。この母親の物語には10葉のうち3葉が費やされていますから、クリンガーにも思い入れがあったのではないかと想像します。

「ある愛」

…「ある愛」はこの連作のテーマを象徴する第1葉と第6葉、ロマンスの成り行きを具体的に描いたそれ以外の作品から構成されています。第1葉は右側に運命の糸を握るノルニル、左側にケンタウロス、そして中央には少年がいて女神の一人に弓の扱いを教えられています。女神たちは裸体ですが、イヴやアフロディテの官能的な女性美とは異なり、威厳や力強さを備えていて、運命を支配する神への畏怖が感じられます。第2葉からは地上の物語で、出会った二人は恋に落ちて結ばれます。第5葉は抱き合う二人の部屋の窓が、そのまま生い茂る木立と回廊がめぐらされた池のある庭園の風景に繋がっていてとても叙情的です。しかし、幸福は長くは続きません。第6葉は跪くアダムとイヴ、二人を指さす「死」、そして片手で巻紙を掲げた悪魔が描かれています。これは作中の女性の辿る運命が原罪と結び付けられていることを暗示するそうで、神話的な世界を描いた第一葉に対して宗教的なイメージとなっています。やがて道ならぬ二人の恋は世間の非難を浴びることになり、最後は女性が赤ん坊を産むものの、女性も赤ん坊も亡くなり、残された男性が嘆く結末となっています。同じ恋愛について描いた「手袋」に比べてストーリーは明快ですが、この救いのない物語は何を意味しているのでしょうか。人間は運命に翻弄される弱くて小さな存在なのでしょうか。禁忌を破って報いを受ける愚かで罪深い存在なのでしょうか。あるいは、人知を超えた何者かに試されるかのようにもたらされる愛と、課されるモラルの狭間で揺れ動く人間としての苦悩、困難そのものを描きたかったのかもしれません。なお、第1葉にはアルノルト・ベックリンへの献辞が記されています。ベックリンはクリンガーの三十歳年長、主にドイツとイタリアで活動した象徴主義の画家で、「死の島」などの代表作があります。クリンガーはベックリンと交流があり、ベックリンの原画に基づく「死の島」の版画も制作していますが、その版画にラフマニノフがインスピレーションを受けて交響詩「死の島」を作曲したそうです。こうした芸術家相互の影響関係も興味深いですね。

その他

…グッズのポストカードブックは神奈川県立近代美術館の所蔵品から26枚をセレクトしたもので、一般書籍扱い、web通販でも購入可能です。文庫本サイズなので手軽でいいですね。各連作についての解説文と略年譜も掲載されています。

「イヴと未来」より第1葉《イヴ》

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「ある愛」より第1葉《献辞「アルノルト・ベックリンに」》

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*1:マックス・クリンガー ポストカードブック」P18

*2:「パリ・グラフィック」P12

*3:デッサンや水彩のような濃淡を表現できる版画技法の一つ。以下版画技法については、現代美術用語辞典ver2.0を参考にさせていただきました。