展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

ヌード展~英国テート・コレクションより 感想

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見どころ

…この展覧会は人間にとって最も身近であり、西洋芸術の永遠のテーマでもある裸体表現=ヌードについて、ヴィクトリア朝から現代に至る200年間の歴史の変遷を紐解くものです。出品作品は絵画、彫刻、版画、写真など約130点で、西洋近現代美術の充実したコレクションを誇るイギリスの国立美術館テートの所蔵品です。特に、1913年に英国のルイス市庁舎に貸し出された際に物議を醸して、覆いをかけられてしまったというエピソードもある官能的なロダンの大理石彫刻「接吻」は、今回が日本初公開となります。
…ヌードをテーマにした展覧会ということで、私は昨年から楽しみにしていたのですが、実はヌードを切り口にした大規模な展覧会というのはあまり前例がないのだそうです。テーマとしては大きすぎるのかもしれないですね。例えるなら、恋愛をテーマに文学を語ろうとしたら逆にどこから手を付けて良いか戸惑ってしまうようなものでしょうか。この展覧会はその大きなテーマに正面から取り組んでいますが、ヌードという共通項以外は時代背景や作風、テーマによって大きく表現の異なる幅広い作品が集まっていて、展示を見ている間はヌードを意識するよりも、それぞれの作品に込められたものについて考えさせられました。モデルの個性に着目する作家もあれば、より普遍的な身体の形状に着目する作家もあり、愛や性が描かれている作品もあれば、生命を問う作品もありと、多義性をはらみつつ、いずれも人間の本質と直接結びついているのがヌードなのだと思います。私は美術作品を見るのが好きで、正直、美術館に裸体を表現した作品があるのは当たり前という感覚になってしまっているのですが、もしかしたら今回の展覧会は普段ヌードを見慣れていない方のほうが発見があり、面白く感じられるかもしれません。

概要

会場

横浜美術館

会期

…2018年3月24日~6月24日

構成

1 物語とヌード:19世紀ヴィクトリア朝時代
2 親密なまなざし:19世紀後半
3 モダン・ヌード:20世紀初め
4 エロティック・ヌード
5 レアリスムとシュルレアリスム戦間期
6 肉体を捉える筆触:1950年代以降
7 身体の政治性:1970年代
8 儚き身体:1980年代
…19世紀以降現代まで、概ね時代順の構成ですが、同じヌードというテーマでありながら、200年の間に表現方法が大きく変化したことが感じられる内容となっています。変わったのは裸体ではなく、社会であり認識なのでしょう。なお、4章のみはセクシャルな表現のある作品が時代横断的に集められて展示されています。

ロダンの「接吻」について

…この展覧会に出品されているロダンの「接吻」はテートの所蔵作品ですが、「接吻」は複数存在し、たとえば国立西洋美術館にはブロンズ製の「接吻」が所蔵されています。しかし、ロダンの生存中に制作された大理石像の「接吻」はロダン美術館、ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館、そしてテートの3体のみです。なお、本作は他の大理石彫刻と同じく、ロダンの指示のもと彫刻家リゴーが大部分を制作したそうです。
…「接吻」はもともと「地獄の門」の一部として構想されたものの、その後切り離されて独立した作品となりました。最初の大理石像はフランス政府からの発注を受けて制作され、リュクサンブール美術館を経て現在ロダン美術館に所蔵されています。テートのコレクションとなっている作品は、英国在住のアメリカ人コレクター、エドワード・ベリー・ウォーレンが1900年に依頼したものですが、1913年にウォーレンからルイス市庁舎に貸し出されたところ、不倫を扱った上にエロティックすぎるという理由から騒ぎになり、わずか2年で返却されてしまいます。ウォーレンが亡くなった後は競売に掛けられたものの買い手がつかず、紆余曲折を経て1953年にテートのコレクションとなりました。真実の愛の姿を形にしたために物議を醸した「接吻」ですが、安住の地を得て今日では世界的に広く称賛を勝ち得ています。

テート(TATE)とは

…テート(TATE)とは、1897年、実業家のヘンリー・テートのコレクションとナショナル・ギャラリーが所蔵するイギリスの作品を元に開設されたテート・ギャラリーが2000年に改組されたもので、テート・ブリテン、テート・モダン、テート・リヴァプール、テート・セント・アイヴスの4つの施設から構成されています。16世紀から現代に至る英国美術を展示するテート・ブリテン、国内外の近現代美術を展示するテート・モダンというように、施設ごとの特色・役割分担がある一方で、美術館の核となるコレクションは4つの施設で共有されているそうです。展覧会のサブタイトルが「テート・コレクションより」となっているのはこうした経緯の上でなんですね。

感想

フレデリック・レイトン「プシュケの水浴」

…「プシュケの水浴」は縦の長さが横幅の約3倍と細長く、腕を上げたプシュケの立ち姿と背後の柱、すらりと伸びたプシュケの裸体に纏い付く白い衣の襞が垂直性を強調していて、脱ぎ捨てられた黄色い服が流れ落ちるように足元の水の中へと視線を誘導しています。水鏡に映った自分の姿に見入る描写はナルシスの神話を連想させますが、思わず見惚れるのも無理はない美しさですね。神話では人間のプシュケが女神のアフロディテより崇拝を集めたため女神の怒りに触れてしまうのですが、女神の怒りはエロスとプシュケを引き合わせるきっかけともなりました。地上のものではないようなプシュケの美しい姿は同時にエロス=愛を得た魂の美しさであり、この作品は愛のもたらす幸福に魂が陶酔している様を描いているようにも思われます。愛を得て完全なものとなった魂を表現するには、非の打ち所のない理想的な肉体こそ相応しいのかもしれません。

アンナ・リー・メリット「締め出された愛」

…建物の外に立ち、腕を伸ばして精一杯ドアを押している裸の人影。小柄で性別の見分けがつかない後ろ姿から、人影は子供だと思われます。女性画家がヌードを描くことにまだ社会の抵抗があった19世紀末において、子供の裸体は素朴で自然なものと見なされ、女性が描くことも許容されていました。この作品の主眼の一つが、緩やかな曲線を描く裸体の表現にあることは確かでしょう。それにしてもどうして締め出されたのだろうか、と思ってよく見ると子供の足元には矢が落ちていて、タイトルにある愛とはクピドのことを指していると分かります。描写は写実的ですが、描かれているのは象徴的な場面なんですね。薔薇の花はクピドの母ヴィーナスのアトリビュートで愛の象徴であり、穴の開いた容れ物は失われたものは取り返しがつかないことを暗示していると考えられます。実は「締め出された愛」は結婚して間もなく亡くなってしまった夫への追悼としてメリットが描いたものであり、扉は墓所の扉なのだそうです。クピドの後ろ姿は、黄泉への扉に隔てられて締め出されてしまったやり場のない愛の姿でもあります。俯いたクピドの表情は影になって見えませんが、緩やかな曲線を破って真横に突き出された両腕には、聞き分けのない子供のように、喪失を受け入れがたく感じている画家の悲しみが込められていると思います。

ハーバート・ドレイパー「イカロス哀悼」

…岩の上に仰向けに横たわる裸体の青年。その両腕に取り付けられた翼から青年はイカロスだと分かります。周りには水の精が集まってイカロスの死を嘆き、背後の断崖を日没前の太陽が照らしています。水の精に抱えられたイカロスのポーズはピエタに準えたものですが、一方で、画面一杯に広げられた翼は背中から生えているようにも見えて、あたかも天使のようです。神話のとおりであれば蝋が溶けた翼は宙に散って海に落ちたはずですから、ドレイパーは身体の何倍もあるこの大きな翼を描きたかったのでしょう。神話自体には若者の無謀さや人間の奢りを戒める意味合いがあると思われますが、この作品では教訓よりも悲劇性が前面に出ている印象を受けます。叶わぬ憧れを抱いて挫折する人間の宿命。あるいは、人類の永遠の夢でもある空への飛翔は、天上の世界への魂の希求と重なるとも考えられます。力なく横たわる土気色の肉体と対照的に、残された天使の翼は再び羽ばたきそうにも見えますが、儚い現し身から解放されたことで、イカロスの魂は天上の世界へと飛び去ったのかもしれません。

ピエール・ボナール「浴室の裸婦」「浴室」

…ボナール「浴室の裸婦」は、明るく温かみのある色彩に柔らかく包み込まれるような皮膚感覚を覚える作品です。レースのカーテン越しに昼の日差しが差し込む浴室には白い浴槽が置かれ、赤と黄の敷物や椅子に置かれた青い服(あるいはタオル)と色彩が対比されています。見下ろすような視点から、入浴中の人物の湯の中に漂う脚のみが描かれている構図が印象的ですね。浴槽に浸かっているのはボナールの妻のマルトで、もう一人、部屋の奥に立っていてやはり脚のみが見える人物はボナール自身だと考えられるそうです。では、この画面は誰の視点で描かれているのでしょうか。ボナールは対象の第一印象を大切にするために、あえて記憶を頼りに描くことを好んだそうですから、この作品も記憶にある情景を元に再構成された可能性があります。また、ボナールは制作に当たって写真を活用したそうなので、身体の一部のみが切り取られたインパクトのある構図は写真の影響もあるかもしれません。ところで、ヌードを描いた作品にはしばしば水が存在します。泳いだり入浴したり、水に入るときには自然と裸体になるため、ある意味当然のことなのですが、例えばレイトンの作品ではプシュケの姿を写す鏡としての役割、ローレンス・アルマ=タデマの作品では裸体のフィルターとしての役割と、作品ごとに異なる意味合いを持って描かれています。ボナールの「浴室」に描かれたマルトの場合、浴槽に寝そべり水に浸かっている姿は、まるで揺り籠に身を委ねているように感じられます。ボナールの描く水は羊水のような水であり、デリケートな裸体は剥き出しの外気に晒されることなく、部屋、浴槽、水という三つの膜に包まれて守られている、そんな印象を受けます。マルトは結核の治療のために水療法を試みていたそうで、頻繁に入浴する妻の日常はそのままボナールの日常だったのでしょう。妻を労り、優しく見守る画家の眼差しに見る者までが包み込まれるような作品だと思います。

ウォルター・リチャード・シッカート「オランダ人女性」

…ホイッスラーとドガに学んだウォルター・リチャード・シッカートは、1880年代後半からロンドンの新しい美術の中心的存在となり、主に都会の労働者階級をテーマに作品を制作しました。写真をもとに描いた後年の作品はポップアートの先駆とされるなど、イギリスのモダン・アートの発展に寄与した画家として評価されてもいます。しかし、切り裂きジャック事件に強い関心を寄せてジャックが一時住んでいたと言われる部屋を借りたり、「切り裂きジャックの寝室」など事件に触発された作品を残したりしたため、「切り裂きジャック」事件の容疑者の一人として有名になってしまいました。*1。百三十年も前の事件の真相は不明ですが、シッカートの作品に社会の暗部を取り上げたものが多いことは確かでしょう。「オランダ人女性」に描かれた裸婦は暗い部屋の中で粗末な鉄柵のベッドに身を横たえ、容貌も判別できません。女性は足を組んで見せつけるような挑発的なポーズをとっていますが、愛や官能の気配は感じられず、即物的に描かれています。売春で糊口を凌ぐ女性の苦労や嘆きへの共感、あるいは逆に自堕落さや淫蕩さへの批判といった価値判断もここでは一切介在せず、冷徹な画風だと思います。シッカートは、ヌードは現実の環境に置かれることによってはじめて、裸であることが意味を成すと主張したそうですが、無情な現実に容赦なく晒される裸体は、ぎりぎりの日常を生きる名もなき人々の身一つ分の尊厳を訴えているのかもしれまません。

アルベルト・ジャコメッティ「歩く女性」

ジャコメッティの「歩く女性」は、女性であることを示す胸の膨らみ以外はほとんど平板な上体と円筒形の脚という単純な形から成っています。縦に細長く引き伸ばされたフォルムを支える両脚にはどっしりと量感があり、僅かに半歩前に踏み出された足がこの彫刻に生気を与えています。ジャコメッティはこの作品を1933年のシュルレアリスム展に出品するに当たって、腕と頭部を取りつけました。床に向けられた左腕の先端には羽が、上に伸ばされた右腕には花のような手が付けられ、頭部はチェロの首と頭でできていたそうで、非現実的であり得ない組み合わせが確かにシュルレアリスム的ですね。それはそれで見てみたかった気もしますが、最終的には1936年に現在の形に落ち着いたそうです。歩く姿に焦点を絞り、表情や個性、あるいは様式的な修辞といったある種の「贅肉」を削ぎ落とすことで、本質に迫ったのがこの形なのでしょう。腕や頭部がなくても気にならないのは、本作がそれ自体で過不足なく完結しているからだと思います。アルカイック期の彫刻のように素朴ながら力強さに満ちている作品だと思います。

オーギュスト・ロダン「接吻」

…個人的にはロダンの「接吻」を見るためにこの展覧会に来たと言っていいほどですが、実際に彫刻の周りを歩いてみて、まずは男性の腕の太さに気がつき、像の大きさを実感させられました。抱擁する男女は二人とも座っているので、一見しただけではピンとこないんですね。固く抱き合う直前、まさに唇が触れた瞬間を捉えた作品で、彫刻が高い位置にあるため顔は見えづらかったのですが、その分手や背中といった全身の表情から昂揚する恋情が伝わってきました。女性が受け身ではなく、積極的に表現されているのも印象的です。この彫刻はダンテの「神曲」に基づくもので、女性のほうはフランチェスカ・ダ・リミニ、男性はパオロ・マラテスタ。二人は13世紀の実在の人物で、グイネヴィアとランスロットのロマンスを読んで感動して接吻を交わすものの、不貞を目撃したフランチェスカの夫に殺されてしまったのだそうです。「神曲」では地獄に落とされて罰を受けている二人ですが、この彫刻は恋に身を投じた二人が身も心も分かちがたく結びついている姿を、英雄のような巨大さで石に刻んでいると思います。

バルテュス「長椅子の上の裸婦」

…薄暗い室内で、目を閉じて仰向けに横たわる裸婦。女性は長椅子の背からずれてのけぞり、腕を左右に広げて上半身は開かれているのに、下半身は閉じた窮屈な体勢です。図録の解説にもありますが、この不自然なポーズは十字架の形に見えます。バルテュスルーブル美術館に通って大画家の作品を研究していたそうですが、例えばジャン・ジューヴネの「十字架降下」に描かれたキリストのポーズなどは、伸ばされた腕や斜めに立てかけるように傾いだ身体などが共通しています。赤い靴は磔刑によって流れた血をイメージさせるためとも考えられますし、長椅子の肘掛けに掛けられた白い布は聖骸布の代わりでしょう。「眠りは死の似姿」という言い回しがありますが、この作品は少女と言ってもいい若さの女性に死を想起させるポーズを取らせることで、肉体の儚さを暗示している一種のヴァニタス画と考えることができると思います。あるいは穢れのない乙女の犠牲によって、欲望に塗れた人々の罪が赦されることを示していると考えることもできるでしょうか。人はしばしば建前だけでは収まりきらない逸脱や混沌を抱えていますが、そうした真実を排除せずに向き合い、受け入れていくのが芸術の一つのありようではないかと思います。ゴルゴダの丘で十字架に掛けられたキリストの犠牲は衆目に明らかですが、少女の犠牲は閉ざされた室内で人知れず払われるのかもしれません。

ポール・デルヴォー「眠るヴィーナス」

…「眠るヴィーナス」の舞台は周囲を高い山で囲まれ、外界から隔絶された幻想の都市です。古典的な建築に囲まれた広場では、裸の女性たちが夜空を仰いで恐れおののき、あるいは蹲って絶望しています。唯一服を身につけているのは命のないマネキンで、無機質な微笑を浮かべて鑑賞者を作品の世界に案内するかのように手を挙げています。その向かいに描かれている不気味な骨格標本は足を前に踏み出していて、これから広場のほうに向かおうとしているのかもしれません。不穏な気配に満ちた情景の中で、ヴィーナスだけが超然と長椅子に横たわっています。画面に登場するヴィーナスや骨格標本といったモチーフは、いずれもブリュッセル博覧会の呼び物であったスピッツナー博物館の展示に基づいているそうですが、人間の身体が着衣、裸体、骨格という三つの様相で表現されていることが興味深いです。特に、マネキンと標本はヴィーナスを挟んで同じ仕草をしていますから、両者は対として描かれているのでしょう。着衣のマネキンは人間の日常的な姿であり、衣服のみならず、社会的な属性などによって本質が覆われてしまっていることの暗喩だと考えられます。一方で、骨格標本は全ての人間の中身であり、ある意味で真の姿と言えますが、生物学的な存在であって人間性は感じられません。デルヴォーは骨格の外側を包む肉の表面であり、隠された内なる姿でもある裸体こそ本質的な存在と捉えて、命ある姿で描いたのかもしれません。また、本作は第二次大戦中にブリュッセルが爆撃被害を受けている中で描かれたものですが、怯え惑う人々を裸体で描くことで、極限の状況下における命の生々しい実感を表現していると思われます。広場の背後に小さく描かれている人の列は葬列でしょうか。しかし、そうした状況下であっても、女神の静謐な眠りが妨げられることはないようです。眠るヴィーナスは博覧会という祝祭空間の喧噪の中であろうと、戦火の中で爆撃に晒されていようと、美は揺るぎないものであることを象徴しているのではないかと思います。

ルシアン・フロイド「布切れの側に佇む」

ルシアン・フロイドの「布切れの側に佇む」という作品では、裸体の女性が自分の身長ほどにも高く積み上げられた白い布切れの前に佇んでいます。壁と床が同色で、画面の奥行きも浅いため、一見すると女性は立っているのか横たわっているのか見分けがつきません。布切れの山はベッドのようでもあり、女性はまるで眠っているかのように無防備に裸体を晒しています。彼女の肌は日頃服から出ている日に焼けた部分とそうでない部分とで色が異なり、ところどころ赤みが差し、腹部は弛んでいます。描かれているのは物語もメッセージもないただの彼女自身であり、血の通った生活感のある自然な裸体です。背後の白い布切れは絵筆を拭くために使用されたものだそうですから、画家の存在の痕跡とも言えるでしょう。そう考えてみると、右腕を上げた女性は画家と身を寄せ合っているようでもあり、画面の中の親密度が高まります。フロイドはヌードを静物ではなく肖像として描きたいと考えていたそうですが、対象を生々しく描くことで曝け出されるのは画家自身でもあるのかもしれません。

その他

…私が見に行ったのは会期最初の日曜日でしたが、まだ序盤なので混雑もなく、ゆっくり鑑賞できました。天気が良かったので皆さんお花見に行っていたのかもしれませんね。第2章「親密なまなざし」の展示室はややスペースが狭かったので、混雑してくると作品が見づらいかもしれませんが、他のコーナーは気になりませんでした。
…「エロティック・ヌード」の展示室は他の展示室から独立したスペースが当てられていましたが、特に注意表意等はなかった気がします。展覧会によってはセクシャルな表現のある作品を展示したコーナーがかなり明確に仕切られていて、ちょっと入りづらい場合もあるのですが、この展覧会では自然に順路に従った形で見て回ることができました。
…コレクション展では下村観山によるミレイ「ナイト・エラント」の模写をはじめ、特別展のテーマに関連する横浜美術館の所蔵作品が展示されているので、時間が許せばそちらもご覧になることをお勧めします。個人的には諏訪敦氏の作品が良かったです。
…所要時間はコレクション展も含めて2時間程度を見込んでおくといいと思います。

※2018.4.6誤記訂正しました。米国の市庁舎→英国のルイス市庁舎です。

*1:「怖い絵展(2017年10月7日~12月17日、上野の森美術館)」図録P142