展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

プーシキン美術館展~旅するフランス風景画 感想

見どころ

…風景画は、その土地を知らない者が見ても描かれた景色の美しさを感じることができる、むしろ未知の土地であれば一層興味を惹きつけられることもある、誰にでも馴染みやすいジャンルではないかと思います。この展覧会はプーシキン美術館のコレクションのうちそうした風景画に焦点を当て、17世紀から20世紀のフランス絵画65点によって、近代フランス風景画の流れを紹介するものです。中でも日本初公開となるモネ「草上の昼食」は、明るい日差しにきらめく瑞々しい木立の緑がこの季節に相応しく、見る者を爽やかな戸外のひとときへと誘い出すような一枚です。
…絵画のジャンルとして風景画が生まれるのは17世紀以降であり、当初はその位置づけも決して高くはありませんでした。しかし、ジャンルとして成立する以前より、風景を前にした人々は壮大な自然や珍しい異国の風物、のどかな田園や華やかな都市にきっと驚きや憧れを心に抱いてきたことと思います。風景画の成立とは、素朴な感動が絵画という形になって表現されることで定着し、人々のあいだで共有されることで改めて風景の見方としてフィードバックされ、洗練され深化していく過程でもあるのではないかと思います。
…ところで、ロシアの美術館になぜフランス絵画なのだろうかと思いますが、これは18世紀以降フランス美術に憧れを抱いたロシアの王侯貴族が積極的に作品を収集したためとのことです。さらに19世紀後半に入り鉄道網が発達すると、最先端の美術品を求めて40時間以上の道のりをフランスまで出かける新たなコレクターたちも現れました。王侯貴族に代わって美術収集の活発な担い手となったのは実業家たちで、プーシキン美術館のフランス近代絵画コレクションの礎を築いたセルゲイ・シチューキンやイワン・モロゾフは当時を代表するコレクターでした。フランスの内外の地を実地で、あるいは空想の中で旅した画家たちの作品、それを求める情熱的なコレクターたちのロシアからフランスへの旅、そして今回、展覧会のために遙々海を渡ったコレクションの日本への旅。こうして考えると、一つ一つの作品の背後に幾重もの旅が重なり合っていることが分かります。旅はしばしば新しい世界を開く体験となりますが、絵画を眺めることもまた、描かれた世界――場合によっては現実に目にすることの叶わない遠い過去や空想の世界とそこに生きた人々、そして作品に託された画家の思いを体験するひとつの旅と言えるかもしれません。

 

 

概要

会期

…2018年4月14日~7月8日

会場

東京都美術館

構成

 第1部 風景画の展開
  第1章 近代風景画の源流…クロード・ロランなど18点
  第2章 自然への賛美…ジャン=バティスト=カミーユ・コローなど8点
 第2部 印象派以後の風景画
  第3章 大都市パリの風景画…オーギュスト・ルノワールなど9点
  第4章 パリ近郊…クロード・モネなど14点
  第5章 南へ…ポール・セザンヌなど11点
  第6章 海を渡って/想像の世界…アンリ・ルソーなど5点 
…構成は印象派の登場を契機として、大きく2つの部に分けられています。第1部は風景画が絵画のジャンルとして確立する過程で、年代に従い19世紀以前の第1章と、19世紀前半の第2章に分けられています。第2部は印象派の登場以降で、裾野が広がり多様な展開を見せる風景画を、描かれた場所ごとにさらに4つの章に分けています。モネの「草上の昼食」をはじめ印象派が集まる第4章ですが、マティスピカソの作品も含まれていて、同じようにパリ近郊の風景を題材としていながら関心の在処の違いが表現に現れているのが興味深いです。

感想

ブーシェ「農場」、クールベ「水車小屋」

ブーシェ「農場」は水を巡る日常の場面が散りばめられた作品です。画面中央には簡素な木の橋が渡された川が流れ、橋のたもとでは馬が水を飲み、せき止められた池ではアヒル又はガチョウと思われる家禽が水浴びをしています。対岸の水車小屋のそばに桶を携えた人の姿が見えますが、水を汲みに来たか、あるいは洗い物をするのでしょう。一方で、建物の二階から使い終わった水を川に捨てている人もいます。そして、中心に描かれているのは動力源となる水車です。人々の暮らしと生き物にとって、なくてはならない水の役割が一つ一つ描かれていますね。水車小屋の隣の高い塔には鳥たちが巣を作っているようで、鄙びた風情を感じさせます。画面は背の高い森の木立に包まれた右側手前が高く、左奥に向かって低くなる構成で、遠景は描かれず遠近感はさほど強調されていませんが、視線が画面左側の青空に抜けるため閉塞感はありません。川の流れのようにゆったりと、弛むことなく営まれる素朴な農場の生活が描かれた、穏やかな田園風景です。
ブーシェの「農場」は実景のような自然さをまとっていますが、同じモチーフを描いたクールベの「水車小屋」と共に見ると、ブーシェが一種の理想化、類型化によって田園風景のイメージを作り上げていることが感じられます。郷里のオルナンの風景を描いたクールベの「水車小屋」では、水車小屋を含む建物が狭隘な土地に密集していて、手前に迫り出してくるような圧迫感があります。川は背後の山から流れてきているのでしょうか。川幅は狭く、流れも急なようで水飛沫が上がっていますが、その流れの速さが水車の動力に必要なのかもしれません。険しい地形は自然の恵みとしての側面も併せ持つのでしょう。荒い筆致と褐色の大地が力強さを感じさせる風景だと思います。

コロー「嵐、パ=ド=カレ」「夕暮れ」

…コローの「嵐、パ=ド=カレ」に描かれている一帯は家屋の点在する川沿いの低地です。岸辺に葦が生い茂っているので夏の風景と思われますが、画面の大部分を占める広大な空は湧き起こる灰色の雲に覆われて今にも天候が急変しそうな気配が漂っています。画面左下に描かれている人々は家へと急ぐ途中でしょうか。Pas-de-Calaisとはフランス北部のカレー海峡のことで、日本ではイギリス側の呼称であるドーバー海峡のほうが通りが良いでしょう。コローと言うと銀灰色の靄のかかったような穏やかな風景画のイメージがあり、「嵐、パ=ド=カレ」のような筆致も情景も荒々しい作品はあまり見ないため、こういう作品も描いていたのかと驚きました。理想化された美しさとはまた違う、騒がしい雲が激しい大気の動きをリアルに感じさせる作品だと思います。一方、「夕暮れ」はコローらしい叙情的な風景画で、森の向こうに赤みがかった夕暮れ時の空が広がり、木立の下には佇んで空を眺めている人影が描かれています。「スヴニール(思い出)」と呼ばれるこうした作品には、画家が目にしたイタリアの風景と故郷であるフランスの風景が混ざり合っているそうです。実在しない風景ですが、黄昏時の空の色というのは家路に向かう記憶と結びついているためか郷愁を呼び起こすようで、日本人の私が見ても懐かしさを覚えます。当時は産業革命の進行によって、人と自然のバランスが大きく変化した時代でもあります。現実には見ることも行くこともできない場所だからこそ描くということもあるでしょう。画家がカンヴァスの中に産み出したのは、人と自然が穏やかに調和した世界だったのだろうと思います。

モネ「草上の昼食」「ジヴェルニーの積みわら」「白い睡蓮」

…森の木陰で食事を広げ、ピクニックを楽しむ若い男女。梢越しに垣間見える晴れた空からは明るい日差しが降り注ぎ、最新のドレスをまとう女性たちは緑の森に花のような彩りを添えています。「草上の昼食」は郊外の自然と陽光のきらめきを、印象派の始まりを感じさせる明るい色彩とざっくりとした筆触で捉えた瑞々しい作品です。描かれているのは流行に敏感な都会の若い男女ですが、彼らは産業革命の進展と共に台頭してきた新興のブルジョワ層でもあり、社会層としても若く新鮮な活力に溢れた人々です。一方で、郊外の自然の中で余暇を楽しむ男女の姿は、狩猟画や雅宴画といったロココ美術の伝統を踏まえたものでもあり、木の幹には恋を暗示するような矢に射貫かれたハートとPの頭文字も刻まれています。しかし、作品全体の雰囲気としては雅宴画らしい優美な艶っぽさより、爽やかな印象が勝るように感じられます。前者が成熟した貴族階級を描いたものであるのに対し、後者の対象は成長の途上にある階級だからというのも理由の一つでしょう。何より描いたモネが当時まだ20代半ばという若さで、画家として始まったばかりでした。この作品は始まりや若さ、新しさといったものが輝きを放っている、様々な意味での春の瑞々しさが魅力なのだと思います。
…「ジヴェルニーの積みわら」は連作「積みわら」が制作される少し前、1884年から1889年頃の作品です。この作品では日陰の暗い緑、日差しに照らされた草地の明るい緑、乾いた褐色の土の道、緑の濃い丘、雲の浮かぶ薄い水色の空が水平に積み重なり、心地よいリズムを産み出しています。手前の積みわらと画面左奥の積みわらの大きさの違いが遠近感を演出していますが、全体として画面は浅く、平坦な色彩の層と垂直に交わるポプラ並木とが織物のように一体となっていて、装飾的とも言える印象です。しかし、本作の主要なモチーフである干し草の積みわらは、そんな形体と色彩の調和を破って視界を遮る大きな茶色の塊として描かれ、背景に溶け込まないしっかりとした輪郭を持ち、物体としての存在感を放っています。その異物感こそが、モネの目を引いたのかもしれません。
…「白い睡蓮」はほぼ画面全体を覆う緑の描き分けが見事です。柳やその奥の木立、群生する睡蓮と岸辺に茂る草、そして画面中央を横切る橋と、異なる筆致を巧みに使い分けてそれぞれの形状、質感の違いを感じさせます。睡蓮と水面とが交互に現れる池に映り込んだ柳は、まるで水の中まで続いているようでもあり、睡蓮が浮き出しているような、あるいは地面の位置が不確かになるような効果をもたらしています。画家が描く対象を無造作に選ぶことはないでしょうが、「ジヴェルニーの積みわら」も「白い睡蓮」も、構成の妙や効果を念頭に極めて注意深く画面が切り取られているように感じます。晩年のモネは睡蓮をモチーフに装飾的、さらには抽象的と言ってもいい作品を制作するようになりますが、それより少し以前の時期に描かれたこれらの作品は、目に見えるままを描く自然主義と装飾的な画風との間で、両者の要素を併せ持ちつつ成立しているように思いました。

アルベール・マルケ「パリのサン=ミシェル橋」、マティス「ブーローニュの森」、ピカソ「庭の家(小屋と木々)」

…すっきりと整理された線と明るく平坦な色面によって描かれたマルケ「パリのサン=ミシェル橋」は、軽快でモダンな印象の都市風景です。サン=ミシェル橋はセーヌ左岸とセーヌ川の中州であるシテ島との間に架かる橋で、その橋の上を通行人や馬車に混じって行き来している乗り物は路面電車だそうです。昔ながらの馬車と路面電車が同居しているところが面白いですが、画家にとっても時代を象徴する興味深い風景だったのではないかと思います。橋の下を流れるセーヌ川の水面にはサン=ミシェル橋や河岸の建物、そして空が綺麗に映り込んでいます。道や橋など画面の大半が薄い色彩で描かれているため、河岸の並木の濃い緑が一層鮮やかに引き立って感じられます。実はマルケの作品を見ていて何だか見覚えのある風景だと思ったのですが、現在国立新美術館で開催中の「至上の印象派~ビュールレ・コレクション展」に出品されているマティスの「雪のサン=ミシェル橋、パリ」とほぼ同じ構図なんですね。マティスと交流もあったマルケは、かつてマティスがアトリエを構えたサン=ミシェル河岸19番地に住み、マティスと同じように部屋から見下ろす視点でこの橋を描いているそうです。荒いタッチで描かれ、雲と煙と蒸気が渾然一体となっているマティスの作品が描かれたのは1897年、本展に出品されているマルケの作品は1908年の制作ですが、改めて両者を見比べてみて、10年の間に絵画の様式が大きく変化したことを感じました。
…そのマティスですが、このプーシキン美術館展では「ブーローニュの森」という作品が出品されています。同じように森や木を描いた印象派の作品と比べると、形体は単純化され、色彩は面的な広がりを持って描かれています。特に目を引くのが草地の鮮やかな赤、小道のくすんだ赤で、フォーヴィスムへ繋がる力強い色彩表現の萌芽が見て取れます。ピカソの「庭の家」はキュビスムで描かれた風景画です。私はピカソに風景画のイメージがなかったので珍しく感じたのですが、キュビスムセザンヌの影響を受けているので、風景が描かれるのは必然なのかもしれません。この作品ではモチーフとなる木や家が幾何学的な形体に単純化され、家の周りを囲む塀は上から見下ろすように描かれる一方、中心の家は下から見上げるような視点で描かれています。歴史や神話の背景から身近な実際の風景へ、理想的な風景からありのままの風景へと変遷してきた風景画ですが、20世紀に入り自然主義的な風景の再現から離れて新たな表現へと踏み出していく、そうした挑戦の一端を窺うことができると思います。

ボナール「夏、ダンス」

…「夏、ダンス」はボナールが香水産業で有名なグラースで暮らしていた時期に手がけられたものです。夕暮れ時なのか風景全体が赤みがかった色調をしていて、庭には木が生い茂り、眼下にはグラースの町が広がっています。画面下には手すりのようなものが見えるので、画家はテラスから庭を見下ろしているのでしょう。白い服を着て思い思いに踊っている子供たちは、何か楽しいことがあったからというより、踊ることそのものに夢中な様子で、こみ上げる生きる喜びを小さな身体一杯で表現しているように見えます。子供のひとりに手を取られている黒いドレスの女性はボナールの妻のマルトですが、彼女もこのイノセントなダンスに誘われているのでしょうか。妻や子供たちのそばでは、山羊と猟犬を連れた白い髭の男性が腰掛けてパイプをふかしています。実際にそうした男性が通りがかったとも考えられますが、牧歌的な雰囲気を演出するために描かれたのかもしれません。永遠を感じさせる神話的な南仏の夏の情景は、アルカディアに準えられていると考えることもできるでしょう。男性はアルカディアの牧人のようでもあり、踊る子供たちはのどかな自然のなかで戯れる妖精たちにも見えますね。光に満ちた庭を見下ろすボナールの幸福感が込められた一枚だと思います。

ドニ「ポリュフェモス」

…ドニの「ポリュフェモス」は一見楽園のようでいて謎めいた雰囲気があり、会場で見ていて何だか居心地が悪く、それでいて見終わった後も気に掛かるという奇妙な印象を抱きました。タイトルはギリシャ神話に登場する一つ目の巨人の名で、ポリュフェモスはガラテイアという美しい海のニンフに叶わぬ恋をした挙げ句、ガラテイアの恋人の青年を殺してしまいます。岩に腰掛け、海に向かって葦笛を吹いているポリュフェモスを他所に、浜辺では人々が恋の戯れに興じていますが、不相応な恋に身をやつす醜い巨人の滑稽さを嘲笑っているようにも感じられますし、彼らが楽しげであるほど巨人の孤独と絶望が一層深まるようにも感じられます。女性が着衣で現代的な装い、男性が裸体というのはマネの「草上の昼食」とは逆だなと思いました。横たわる赤いワンピースの女性の近くには、砂浜にもかかわらず花が咲いています。この女性は本作と対になる「バッカスアリアドネ(本展には未出品で図録に参考図版のみ掲載されています)」にも登場しているので、神話と現実の入り交じった風景への案内役なのかもしれません。ポリュフェモスの心を捕らえたガラテイアは海の中に小さく描かれるにとどまっていますが、画面右下の岩に凭れている女性はその代わりとも考えられる存在で、性的な魅力によって見る者を誘惑しています。輝く砂浜の明るさと対照的に海は暗く、空には黒雲が兆していて不安をかき立て、仮初めの楽園の崩壊を予感させます。この作品は恋のもたらす非日常的な陶酔と秩序の混乱を象徴しているのかもしれません。

ルソー「馬を襲うジャガー

…ルソーの作品の前に立って感じたのは何より緑の美しさで、丹念に描かれた植物の葉一枚一枚を彩る絵の具の輝きや葉脈を思わせる微細な筆跡を見て取ることができます。植物園の温室より遠くへ旅行したことはなかったというルソーですが、その温室で目にした植物からイメージを豊かに膨らませ、キャンバスの上に幻想の熱帯を生み出しました。そうした作品の一つである「馬を襲うジャガー」は、鬱蒼とした熱帯の密林で白い馬がジャガーに襲われた、まさにその瞬間を描いています。逆立つ馬のたてがみはジャガーに噛みつかれた瞬間の痙攣的な衝撃を表現していますが、まっすぐ鑑賞者に向けられた馬の見開かれた目には苦痛や抵抗といった表情は窺えません。馬は自然の摂理に従い、より強い生き物に喰らわれる宿命を受け入れているのでしょうか。その静けさが、ジャングルから一切の音を消し去っているようです。一方で、生い茂るジャングルの植物は旺盛な生命力を感じさせ、蛇のようにうねる葉は今にも動き出しそうです。太陽の下、動物たちの繰り広げる容赦のない闘争と死と、植物の象徴する生との対比が鮮やかな一枚だと思います。

その他 混雑状況、会場内の様子等

…私が行ったのは会期2週目の土曜の昼でしたが、会場内は出品数に比してスペースが広いため混雑を感じることはなく、じっくり作品を見ることができました。グッズ売り場は商品が多く選ぶのに時間がかかるためかやや混雑していて、レジ待ちの列もできていました(待ち時間は数分程度でした)。
…会場内では全ての作品に解説が付されていました。また、音声ガイドも、一般的には全部で30分程度なのですが、本展の場合は本編解説+コラムでトータル50分とボリュームあり、解説の充実ぶりが印象的でした。所要時間は90分程度を見込んでおくと良いと思いますが、音声ガイドも利用して全部しっかり聞こうとすると、2時間ぐらい必要になると思います。
…本展の図録は横長の仕立てで、作品ごとに見開きの左側のページに解説が、右側のページに図版が掲載される形式で編集されています。あまり見ない体裁で珍しいなと思いましたが、空間の広がりを表現する風景画は横長の作品が多いのも確かですから、合理的な形とも言えそうです。逆に肖像画など、人物をメインに描いた作品の場合は縦長の作品のほうが多い気がしますね。図録を開くと時々図版の真ん中に綴じ目があったりして、製本の都合ですから仕方ないことと思っているのですが、制作者の工夫が感じられる仕立てだと思います。