展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

ミラクル エッシャー展 感想

見どころ

…この展覧会はマウリッツ・コルネリス・エッシャー(1898~1972)の生誕120年を記念して、イスラエル博物館が所蔵するエッシャーのコレクション152点を日本で初公開するものです。コレクションはニューヨークの弁護士で美術コレクターでもあったチャールズ・クレイマー氏からの寄贈品で、イスラエル博物館でも常設展示されておらず、これまでスペイン(2004~5年)と台湾(2014~15年)で公開されたのみであり、非常に貴重な機会となります。
エッシャーの作品は日本でも非常に人気があり、今回、展覧会を見に行ったときも会場には入場待ちの行列ができるほど盛況でした。私も去年から楽しみにしていた一人ですが、エッシャーの父ヘオルフ・アルノルト・エッシャーが1873年から78年の五年間、河川工学の専門家として明治政府に雇用されていたことは初めて知りました。エッシャーは日本とも縁があったんですね。ヘオルフ氏は当時の記憶を詳細に書き留めていて、エッシャーは父を通じて日本の影響も受けているそうです。
エッシャーというと何と言っても「だまし絵」が思い浮かびます。「滝」や「上昇と下降」などの作品を一度は目にしたことのある人も多いのではないでしょうか。今回の展覧会には勿論そうした代表作も出品されていますが、それ以外に、聖書や風景などを主題とした作品も多数見ることができます。特に切り立った崖や狭い丘の上に建築物が犇めく中世の面影を残したイタリアの都市風景は、エッシャーの作品のルーツを感じさせてくれました。
…ハールレムの建築装飾美術学校で建築を学んでいたエッシャーは、版画家サミュエル・イェッスルン・ド・メスキータとの出会いにより版画家の道を選びました。本展に出品されている作品は数点の習作を除くと全て版画作品ですが、エッシャーは自分の世界を表現するため、作品に応じて異なる版画技法を駆使しています。明快なコントラストと力強い線が魅力の木版(板目木版)、同じ木版でもシャープで硬質な印象の木口木版、繊細な描画が再現されているリトグラフ、微妙な濃淡も表現できるメゾティントと、それぞれの持ち味が生かされていることが分かると共に、エッシャーが様々な技法に通じた優れた版画家だったことが分かりました。
…三次元の世界を二次元の平面上にいかに再現するかというのは、絵画における重要なテーマの一つだと思いますが、一見三次元のようでいて二次元上でしかあり得ない世界を作り出すエッシャーの作品は、このテーマを逆手に取ったものだと言えるかもしれません。コンピューターが普及する以前の時代、自身の目と手と頭脳によって緻密で論理的な独自の世界を作り上げたエッシャーに改めて驚嘆させられました。

 

 

概要

会期

…2018年6月6日~7月29日

会場

上野の森美術館

構成

 1 科学
   …正多面体、螺旋、グリッドなど視覚的イリュージョンの構成要素19点
 2 聖書
   …聖書や聖人のエピソードに基づく作品11点
 3 風景
   …主にイタリアの風景を描いた作品30点
 4 人物
   …自画像及び家族の肖像12点
 5 広告
   …グリーティングカードなど6点
 6 技法
   …エッシャーが駆使した様々な版画技法による作品38点
 7 反射
   …鏡や水面に写る像など反射像を取り入れた作品7点
 8 錯視
   …平面の正則分割や錯視を用いた作品29点
…「6 技法」の章以外は主題別の章立てとなっています。作品の制作年代を見ると「聖書」の章は1920年代、「風景」の章は1930年代、「人物」は1910~20年代が中心で、エッシャーが若い頃に取り組んだ主題であることが分かります。一方、「科学」の章は主に1940年代~50年代、「反射」・「錯視」の章は1930年代~50年代で、作風が確立して以降の作品を中心に構成されています。エッシャーの主要な作品は「錯視」の章に展示されています。

版画の技法

エッシャーが主に用いている版画技法について、簡単にまとめてみました。リノカット、木版、木口木版は彫り残した部分にインクが付く凸版、メゾティントは削った部分にインクが付く凹版、リトグラフは平版です。

リノカット

…20世紀に入ってから開発された技法で、使用する道具や工程は木版と同じだが、リノリウムでできた版木を用いる。リノリウムとは床材などに用いられる樹脂の板で、柔らかく彫りやすいという特徴がある。エッシャーが最初に学んだ技法。

木版(板目木版)

古代エジプトに遡る最も歴史の長い版画技法。木の幹を縦方向にカットした版木に図像を描き、彫刻刀などでインクが着かない(刷り上がりが白い部分)を削り取る。木目が微かに浮き出る。白と黒の明快なコントラストが特徴だが、日本の浮世絵のように版を重ねる多色刷り木版画もある。エッシャーは師のド・メスキータから木版画の技法を学んだ。本展の出品リストで単に「木版」と記載されている場合は板目木版のこと。

木口木版

…18世紀に考案された技法。ツゲなど堅い木を横に輪切りにした版木を用いるため木目が目立たない。非常に鋭い彫刻刀によって線刻するため、精緻な描写が可能である。

リトグラフ

…18世紀に発明された技法で、水と油の反発作用を利用した技法。石灰やジンク(亜鉛)の版に油性の描画材で描画し、化学的処理によって描画部分を親油性に、他の部分を親水性に変化させ、油性のインクを載せて刷る。元となる描画の風合いをそのまま生かすことができる。19世紀末にはロートレックナビ派の画家たちが多色刷りリトグラフ作品を数多く制作した。エッシャーリトグラフの作品を制作するようになるのは1929年以降。

メゾティント

…17世紀に開発された技法で、「ロッカー」と呼ばれる鋸歯状の多数の歯を持つ道具で銅板を傷つけて、黒く刷り上がる素地を作る。描画部分は磨いて円滑にすることでインクが着かず明るく仕上がる。白黒の微妙な階調を表現できるが、「ステート(刷りの段階)」と呼ばれる事前の試し刷りを重ねる必要があり、また、版板がデリケートなため少数しか刷ることができないといった難しさもある。エッシャーがメゾティントにより作品を制作したのは1946年から1951年までで、8点と限られている。

感想

「画廊」(メゾティント)

…画面の中心に向かって何処までもまっすぐに続く画廊「画廊」。奥行きの強調された空間の壁や床、天井はいずれもくり抜かれていて、アーチの向こうには地表をクレーターに覆われた天体や星雲など宇宙空間が広がっています。絵画は伝統的に世界に向かって開かれた窓によって象徴されますが、窓の外が宇宙であるところに現代性を感じます。四方には四羽の人面鳥(シームルグ)がいて、その上から魚を模したランプが吊られているのですが、左右のシームルグは横からの視点で描かれているのに、天井のシームルグは画面前方から、床のシームルグは逆に画面奥からの視点で描かれています。じっと見ていると、正面からでなく上から底の見えない深みを覗いているようにも、あるいは下から無限の高みを見上げているようにも見えてきて眩暈にも似た感覚を覚えます。実はこの空間は複数の消失点を持つ三次元ではあり得ない仮想空間なんですね。複数の視点からモチーフを描くという点で同様のキュビスムの作品は、私たちが日頃慣れ親しんでいる視覚との齟齬を引き起こし、二次元に収まりきらない三次元の存在感を提示していますが、エッシャーの表現は逆で、鑑賞者の気付かぬうちに画面に矛盾を紛れ込ませ、二次元でしかあり得ない世界を描き出しています。奇妙な夢のようにも感じられる精巧な仮想空間ですが、重力のない宇宙空間には上下も左右もありませんから、こんな「画廊」もありなのかもしれません。

「楽園」(木版)、「人類の堕落」(木版)

エッシャーは敬虔なカトリック教徒であり、初期には伝説や宗教を題材とした作品も制作していました。「楽園」はエデンの園を描いたもので、知恵の樹を中心にアダムとイヴ、動物たちが左右対称に配されています。虎やライオン、ラクダなどエキゾチックな動物が選ばれているのは、家畜化されていない野生の動物であることを示すためでもあるかもしれません。木に止まり翼を広げているフクロウは知恵を象徴する動物でもあります。木版の素朴な風合いは古い伝説や神話の主題と相性が良く、力強い線と明快なコントラストが単純化された描写、平面的な構成を引き立てていると思います。「人類の堕落」は知恵の実を食べてしまった後の場面で、知恵の樹や蜥蜴の鱗などに見られる装飾性の高い表現にアールヌーヴォーの影響が感じられます。額に手を当て座り込むアダムの表情には後悔や苦悩が窺えますが、隣に佇むイヴは食べかけの実を手に微笑を浮かべています。背後の知恵の木にはフクロウに代わり大きな蜥蜴がいて、イヴの耳元で知恵の実を食べるよう唆していますね。聖書の記述に従うならイヴは恥じらう場面なのですが、挑発的な微笑を浮かべているのは世紀末美術の宿命の女のイメージが重ねられているからかもしれません。

「サンジミニャーノ」(木版)、「アマルフィ海岸」(木版)他

…1920年代にイタリアを旅行したエッシャーは、旅先で目にした自然や都市のスケッチを描き、ローマに定住するようになってから素描を元に版画を制作しています。エッシャーの生まれ育ったオランダは国土の大半が平坦な低地ですから、起伏に富んだイタリアの地形はエッシャーにとって新鮮な驚きがあり、インスピレーションを受けたのかもしれません。丘の上に高い塔が競い合って立ち並ぶサンジミニャーノ。海に面した断崖に建物が建ち並ぶアマルフィ。居住可能な土地が限られた地形において、建築物は必然的に高く積み上げられていきます。建築物が多く描かれているのは、元々建築を学んでいたとことも大きいでしょう。勾配の急な都市内の至る所に長い階段が見られ、あるいは道そのものが階段状になり、谷間には狭い土地を繋ぐ橋が架かっています。街路が入り組んで見通しの利かない古の都市には、そのまま迷い込んでしまいそうな謎めいた雰囲気が漂っているように感じられます。また、サンジミニャーノのオリーブ畑やジェナッツァーノの空に浮かぶ雲などは様式化されて軽快なリズムを感じさせる一方、丹念に描写されたカストロヴァルヴァの山肌やトロペアの崖はそれ自体が堅牢な建築物のようです。1934年にファシズムが台頭するイタリアを離れたあと、エッシャーが風景画を手がけることはほとんどなくなりますが、高低差のある複雑な都市構造への関心は、後年のエッシャーの錯視を効果的に用いた作品などに形を変えて生き続けたように思います。

「椅子に座っている自画像」(木版)、「婚姻の絆」(リトグラフ

…ハールレムの建築美術学校に入学した翌年の1920年に制作された「自画像」は、椅子に座る若きエッシャー自身を描いた作品です。頬杖は伝統的に憂鬱や瞑想を象徴するポーズで、建築と版画のどちらの道に進むべきかという迷いを抱えていた当時のエッシャーの内心が表現されているように思われます。足元から見上げる構図は珍しい気がしますが、この角度から仰ぎ見ることでエッシャーの頭部のちょうど両脇に版画作品が位置することになります。物思いに耽るエッシャーの脳裏を占めていたのは、おそらく版画の世界なのでしょう。
…初期のエッシャーは自身や家族など身近な人物をモデルとした版画作品を手がけています。しかし、こうした認知可能な特定の人物を描いた作品は後年制作されなくなります。人物だけでなく、風景にしても現実をそのまま写し取って描くことはなくなっていて、内面や個人生活、人生など、パーソナルな部分が投影された作品をほとんど作らなくなったように思います。制作を続けているうちに関心のあるテーマが変化するのは自然なことでしょうし、科学の進歩に伴って視覚、認知に対するエッシャーの研究も深まったのでしょう。多くの代表作を含む後年のエッシャーの作品は、感情に訴えて共感を求めるのではなく、常識や先入観に働きかけて発見をもたらすものであり、美的である以上に知的な作品だと思います。そしてそれ故に、普段美術に慣れ親しんでいる人以外の関心も広く集めることができるのだろうとも思います。また、ユダヤ人への迫害で恩師であるド・メスキータを失ったことも深い痛手となったようです。ファシズムが台頭したことで、結婚以来住み続けたイタリアからも離れることになりました。エッシャー人間性への素朴な信頼に懐疑を抱き、的な表現から遠ざかったのかもしれません。私は人間的な愛や希望が無意味で無力なものとは思わないのですが、むしろ大事なものだからこそ慎重になることはあるかもしれないと思います。
…「婚姻の絆」は、顔を寄せて微笑み合うエッシャーと妻イエッタの顔貌が螺旋状のリボンによって形作られている作品です。同様の手法は先行する「表皮」という作品で用いられていますが、エッシャーはこうした表現についてH.G.ウェルズの「透明人間」から想を得ているそうです。リボンの隙間から見える人物の内部は空洞ですが、星のようにも原子のようにも見える粒子に満たされた背景の空間に溶け込んでいて、個別の人格の核には広大な世界があるように感じられます。あるいは球状の粒子は二人から溢れ出した婚姻の絆を確かなものにする愛や信頼、婚姻の絆がもたらした子孫や思い出といった果実なのかもしれません。表皮という個別の人格を閉じ込める輪郭を超えて、二人の人生は一つに分かちがたく結びつけられ、豊かに満たされているのでしょう。

「球面鏡のある静物」(リトグラフ)、「写像球体を持つ手(球面鏡の自画像)」(リトグラフ)他

…櫛や歯ブラシ、コップ、海綿など雑多な生活の品に取り巻かれている鏡台。鏡の右隅に貼ってあるシールは、幼子のキリストを抱いたパドヴァの聖アントニオでしょうか。「鏡のある静物」に描かれた鏡には建物の狭間の細い路地が映っていて、一見背後に窓があるように思えます。しかし、鏡の高さや大きさを考えると部屋の中が映るはずですし、鏡の正面にある燭台も映っていませんから、鏡像は本来ならあり得ないものだと分かります。外の景色でないならば鏡の中の街は存在しない虚像なのか、あるいは鏡の中に存在するのかという疑問も湧いてきます。鏡の奥へと向かう路地の先は何処に続いているのでしょうね。
…「鏡のある静物」を一歩進めた表現が「球面鏡のある静物」です。この作品では、本と畳んだ新聞の上に置かれた球面鏡とシームルグの置物が描かれています。球面鏡には奥行きの強調された室内の様子が映りこんでいて、両側の壁の窓、テーブル、そしてテーブルで版画を制作しているエッシャーと思しき人物の姿が見て取れます。球面鏡が映しているのは鏡の外のようですが、他に何も見当たらない背後の暗闇には、鏡像の世界―窓やテーブルや作者自身―が実在する証拠は見当たりません。そう気付いたとき、自明のはずの内と外は反転して世界は鏡の中に閉じ込められ、不可解な笑みを浮かべたシームルグが宇宙の外からあたかも神のごとく全てを見下ろしているようにも思えてくるのです。
…他方、「三つの世界」という作品では、落ち葉が浮かぶ池の中を大きな魚が泳いでいます。「三つの世界」とは「言葉」という作品の副題でもある地球(陸)、空、水を指すと思われます。水面には葉を落とした立木の影と、その枝の先にある空が映り込んでいます。しかし、じっと見ていると冬枯れの樹木は池の岸ではなく、水の中を下に向かって生えているようでもあり、空を背景にした魚は鳥のように空を飛んでいるようにも見えてきます。水面=鏡は世界を映し出すスクリーンであると同時に、空や陸という他の世界への入口としても機能しているのでしょう。
…「写像球体を持つ手(球面鏡の自画像)」では、手の中の球面鏡に本棚や椅子の置かれた室内とエッシャー自身の姿が映っています。鏡の中心はエッシャーの目ですが、エッシャーは「彼がいくらよじったりひっくり返ったりしても、その中心点から逃れられない。彼のエゴはゆるぎなく彼の世界の核であり続ける」と語っています。世界は自己を通して内側からしか見ることができず(主観)、外から見る(客観)ことは不可能です。自明のものと思っている外界が実は自分の主観でしかなく、自意識の限界に閉じ込められて真理に辿り着けないというもどかしさ。鏡はそんな己自身の姿を映してみせることで単一の視点を揺るがせ、主観を相対化することで自意識の外へ向かう扉ともなり得るのかもしれません。

「昼と夜」(多色刷り木版)、「ベルヴェデーレ」(リトグラフ

アルハンブラ宮殿の構造と装飾に触発されたエッシャーは、1936年以降、平面の正則分割という手法に基づく作品を制作するようになります。幾何学的な形体の巧みな組み合わせと有機的なモチーフへの変容はまるで魔術を見るようですが、そうした作品の一つ、「昼と夜」は平坦で空の大きさが印象的なオランダらしい風景の中に正則分割の手法が馴染んでいて、絵画的で親しみやすく感じられます。地平線まで続く耕地のパッチワークから抜けだして空に飛翔し、昼に向かう黒い鳥と夜に向かう白い鳥。地上を見下ろすと橋のたもとには教会を中心とした村落と風車が見えます。蛇行する川には海に向かって下る数隻の船が浮かんでいますが、よく見るといずれのモチーフも中央を境とした左右対称に配置されていて、互いに反転した鏡像になっていることが分かります。また、本作では耕地が鳥に変容することで大地と空の境目が消失し、上から見ていたはずの風景がいつの間にか横からの視点に変化しているのですが、二つの視点はシームレスに連続していて三次元ではあり得ないにもかかわらず自然に融合しています。平面の正則分割や錯視を効果的に生かしている、エッシャーらしさの詰まった一枚だと思います。
…「ベルヴェデーレ=belvedere」はイタリア語で見晴台を意味します。この作品の主要なモチーフとなる三層の物見の塔には中世風の衣装を纏った貴婦人や紳士などが描かれていて、見晴台になっている二階と三階は壁がなく、柱のアーチの間から周囲に連なる急峻な山並みが見えています。二階と三階の間には梯子がかかっていて、従者に手引きされた男性が最上階に登ろうとしていますが、よく見ると二階の柱は手前と奥が互い違いになっていて、三次元ではあり得ない空間になっています。果たして男性は最上階にいる貴婦人の元へ行くことができるのでしょうか。一方、最も下の層は壁で閉ざされ、窓には格子が嵌まっています。格子を掴んで間から顔を出している男性は囚人のようですが、男性は何故閉じ込められているのでしょう?もしかすると彼が囚われているのは遠近法に基づく古典的な空間認識かもしれません。二層目の捻れた仮想空間を超えることができると、最上階に辿り着くことができます。見晴台の貴婦人が眺めている世界は、二層目の見晴台に佇む男性の目に映るものとはおそらく違う世界でしょう。捻れた空間は二次元上に三次元を再現することの困難や、現実世界を映すスクリーンとしての視覚の限界を象徴しているとも考えられます。梯子を登ろうとしている男性の愛とは、そうした限界を超えて真の世界を捉えたいという熱情なのかもしれません。階段の脇のベンチにひっそりと座る男性は塔と同様の構造をした模型と思しき物体を手にしていて、この中でただ一人塔の秘密に気付いているようです。足元には図面も落ちていますし、男性はこの謎めいた物見の塔を造った当人とも考えられます。もっとも、エッシャーは象徴的な解釈に消極的だったそうです。様々に深読みしたくなる興味深い作品ではありますが、素直にエッシャーの仕組んだトリックに驚嘆するのが最良なのかもしれません。

その他 混雑状況、会場内の様子等

…私が見に行ったのは6月23日(土)の午前中でしたが、行列ができていて入場まで40分待ちでした。会場内に入ってからも、特に入場直後の「1 科学」のコーナーは見ている時間より待っている時間が長いという状況でした。「2 聖書」のコーナー以降になると会場内で両側の壁面に作品が展示されていることもあって、列がばらけるので比較的見やすくはなります。ただし、基本的に作品が小さく細密なため、前が空くまで待つ必要はあるでしょう。グッズ売り場はスペースが狭く、特にポストカードの置き場所が一カ所しかないためこちらもかなりの混雑でしたが、レジの数は多いので支払いはそれほど待たずに済みました。美術館を出たお昼過ぎには入場待ちの行列が午前中の半分ぐらいになっていたので、タイミングもありそうですね。所要時間は入場してから2時間程度、週末であればプラス待ち時間も上乗せして見込んでおく必要があると思います。蒸し暑い季節ですので体調にご注意の上、事前にチケットを準備して行かれることをお勧めします。