展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

モネ それからの100年 感想

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見どころ

…この展覧会はモネを印象派の巨匠としてではなく、現代美術の始まりとして捉え直す企画で、日本各地の美術館が所蔵するモネの作品25点と、モネの作品からインスパイアされた内外の現代美術の作家たちによる作品66点で構成されています。「あなた方は世界を哲学的に理解しようとするが、私はひたすら外観の全てを捉えようと努力する。なぜならそれは知られざる真実と結びついているからだ」という言葉も残しているモネですが、戸外の光や大気の移ろいをありのままに表現しようとした結果、晩年には抽象画を思わせるような表現に到達しました。モネが「睡蓮」の装飾壁画に取り組み始めてから約100年、印象派という美術史の枠組みにとどまらず、美術の新たな可能性を切り拓いたモネの画業が現代の作家たちにも影響を与え、新たな作品に受け継がれていることを知ることができると思います。
…本展で提示されているモネが残した「遺産」について、私なりに簡単にまとめてみると以下の四点になると思います。
①対象が何であるかを忘れて目に見えるままを表現しようとした:モネは対象をありのままに捉えようとしたのですが、逆説的に色彩や形体が対象から自立した作品の誕生に繋がることにもなりました。②連作によって時間を作品化した:モネは同一のモチーフの見え方の変化を捉えることで、光や大気といった形のないものを表現しようとしましたが、その結果変化や移ろいそのものがテーマとなり、一枚では完結しない連作が多数制作されました。瞬間や場面を切り取るのではなく、時間の経過、体験の重層性が織り込まれているのが特徴だと思います。③鏡像と実像の入り混じった世界を描いた:実体とイメージとの関係性は「見る」ことの根源につきまとう、哲学的なテーマと言っても良いと思います。④作品世界がカンヴァスの外にも拡張することで、鑑賞するのではなく体験する作品を作り出した:まさにモネの「睡蓮」の装飾壁画のテーマですね。観客が能動的に関わると共に、他者と共有可能な体験をもたらす、開かれた作品を創造したと言えると思います。
…個人的には現代美術は難解な印象を持っていたのですが、今回の展覧会ではモネを媒介に、現在最前線で制作している作家の作品に多数触れることができて良かったです。どの作品でも実物を見なければ分からないものですが、特に現代美術の場合は伝統に囚われない多様な手法が用いられていて、実際に照明が当たることで生まれる効果もあれば、作品を見る観客の存在も織り込んだ上での作品もありますので、ぜひ多くの人に直接会場で見て欲しいと思います。

 

 

概要

会期

…2018年7月14日~9月24日

会場

横浜美術館

構成

 1 新しい絵画へ―立ち上がる色彩と筆触
    モネ10点(一部展示の入替あり)
    ウィレム・デ・クーニングなど15点
 2 形なきものへの眼差し―光、大気、水
    モネ8点
    マーク・ロスコなど19点
 3 モネへのオマージュ―さまざまな「引用」の形
    ロイ・リキテンスタインなど15点
 4 フレームを越えて―拡張するイメージと空間
    モネ7点
    サム・フランシスなど17点(特別出品1点含む)
…モネは妻や友人たちなど身近な人物を描いた作品も残していますが、出品作はモネの代名詞でもある「睡蓮」をはじめとした風景画が揃っています。また、ロンドンの風景はあるものの、ジヴェルニーの自宅の庭や田園風景、旅先の景色など、自然を主題に描いた作品が中心の構成となっています。
…現代美術の作家は総勢24名で、ほとんどの作家が複数の出品となっています。テーマに従って多数の作家の作品で構成される展覧会では一作家につき作品一点という場合が多いように思うのですが、本展では複数の作品を比べて見ることができるため、それぞれの作家の作風の一端を知ることができると思います。作品は油彩画が多いですが、他に版画、写真、映像などがあります。また、一部に金属が使われていたり照明が使われていたりと素材も多様で、絵画や版画という単純な区別ではおさまらないようなユニークな作品もあります。なお、湯浅克俊氏、水野勝規氏、福田美蘭氏はこの展覧会のために新たな作品を制作、出品されています。

感想

クロード・モネ「サン=タドレスの断崖」、「アヴァルの門」

…サン=タドレスはモネが育ったノルマンディー地方の港町ル・アーブルにある保養地です。たびたび当地を訪れていたモネは、1867年の夏にもしばらく滞在して「サン=タドレスの断崖」を含む多くの作品を制作しました。崖下の海沿いをステッキを手に歩く人の影が長いことから、この作品は午前中の早い時間を描いたものと見られています。明るい空を背景に左手の崖は逆光でくっきりとした影になり、海に向かって画面を対角線に横切っています。断崖越しには青く霞んだ一際高い尖塔とル・アーブルの町が描かれ、遮るもののない海辺を吹き抜ける風が立木の枝を大きく撓らせています。本作は第1回印象派展(1874年)よりも前の作品ですが、色彩の明るさと自由なタッチは後の印象派を予感させるものがあります。特に、画面半分を占める大きな空は生彩に富んでいて、夏の日差しを浴びる雲の流れが感じられます。風景は不動のものではなく、色彩も形体もとどまることなく変化していく、モネはその移ろいこそを表現したかったのでしょう。夏の朝の爽やかな光と風に溢れた流動感、開放感の感じられる作品だと思います。
…「アヴァルの門」はコローやクールベも描いた景勝地エトルタの断崖にあるアーチ状の奇岩の名前です。1883年からほぼ毎年のようにこの地に通ったモネはあらゆる角度からこの断崖を作品に描いていて、この作品は1886年2月から3月に訪れたときのものだそうです。断崖は画面右手前から海に向かって突き出ていますが、日の当たる明るい部分は薄いピンクの混じった白、影になった部分は赤みがかった色調で描かれていて、時刻は夕方と見られています。崖に向かって寄せる波間に帆を掛けた小さな船が描かれていますが、夕刻の風景ですからこれから港に戻るところでしょうか。画面手前では深緑を帯びている海の色は遠ざかるにつれて黄緑、青、紫と変化するグラデーションを成していて、夕靄が掛かっているのか空と海の境目は曖昧に霞んでいます。モネは「クールベが素晴らしい絵を描いた後に、こんなことを試みるのはずいぶん大胆なことだとわかっていますが、私なりの違ったやり方で描いてみるつもりです」と妻のアリスに書き送っているそうですが、デリケートな色合いで表現された海は確かにモネにしか描けないものかもしれません。画面手前のごつごつとした奇岩の存在感に対して、柔らかな早春の光に染まった空と海が混じり合い、包み込むように一体となっている様子とが対比され、互いに呼応し合っている作品だと思います。

ルイ・カーヌ「彩られた空気」

…ルイ・カーヌの「彩られた空気」は金網に樹脂絵具を塗ったユニークな作品です。会場の照明が透過することで壁に映った絵具の影に色がついていたのですが、物体の色ではなく、色そのものが宙に浮いているように見えるというのが面白かったです。カーヌは自作について「色の喜びの源を再現するもの」と語っているのですが、当然のように黒いものと思っている影に色が付いているだけで思わず目を引かれる、ささやかな好運に巡り合わせたような気持ちになると思います。カーヌは絵画は幻像(イリュージョン)ではなく、支持体に塗られた絵具の塊であることを強く主張する「シュポール/シュルファス」(シュポールは布、板、紙などの支持体を指し、シュルファスはそうした素材の上に生まれる画(画面)を意味する)の運動に参加し、今日でもフランスの現代美術を代表する作家の一人として活動しています。モネは対象が何かということをいったん忘れて、色や形そのものをありのままに見るように説いていますが、そうしたモネの追求した表現が、対象やエピソードを再現する手段ではなくそれらから自立した自由な表現、意味や物語の価値ではなく形体や色彩そのものの美しさを表現する作品に繋がり、発展していったんですね。

クロード・モネ「セーヌ河の日没、冬」、「テムズ河のチャリング・クロス橋」

…1880年の1月4日から5日にかけて、前年の暮れから厳しい寒波に見舞われて凍結していたセーヌ川の氷が大音響と共に解氷するという出来事がありました。モネはその様子を4日で20点以上の作品に描いていて、「セーヌ河の日没、冬」もその中の一点です。大音響…どんな音だったんでしょうね。この作品はすでに解氷がかなり進んだ段階のようですから、川面に浮くまばらな氷の名残が時折音を立てるくらいでしょうか。川岸の木立や遠景の青い夕闇に沈む街並みが素早い筆遣いで描かれ、赤々とした落日が屋根の上に沈もうとしています。冬の澄んだ空気の中、鮮やかな夕映えが波のない川面にも映り込んで風景全体を染め上げているのが印象的です。モネは前年の1879年に最初の妻カミーユを失い、なかなか作品の評価が得られないことやそれに伴う経済的困窮など、様々な苦難も相まって打ちひしがれ、制作が進まない状況に陥っていました。しかし、本作を含むセーヌ河の解氷を描いた一連の作品を機に再び制作に取り組むようになります。もちろん、20点全てを一気に完成させた訳ではなく、アトリエで仕上げているそうですが、それにしても凄い集中力ですよね。セーヌ河が凍結するのは滅多にないことだそうで、珍しい出来事に接したモネは見ることへの飽くなき執着を再び呼び起こされ、凍える寒さの中でも描き留めておかずにはいられない衝動に駆られたのではないでしょうか。氷(形)が解けて水が現れる過程を写し取ったという意味で、一連の作品は自然の移ろいや変化そのものをテーマとしているとも言えるでしょう。とどまることなく姿を変え、同じ瞬間は二度とない――ともすれば虚しさにも囚われそうなのですが、凍えた冬枯れの景色にもたらされた光と熱が表現されたこの作品からは、再び息づき始めた色彩の力強さを感じることができると思います。
…「テムズ河のチャリング・クロス橋」で真っ先に目に入ったのは橋を渡る機関車からたなびく蒸気の煙でした。画面中央を一文字に横切る橋、それに対してロンドン塔が垂直をなす構図ですが、橋もロンドン塔もスモッグと思しき立ちこめる霧に溶け込む影となっています。虹色を帯びた乳白色の風景は正午に近い時間帯を描いたものと見られ、中央高く位置した太陽の光が煤混じりの霧に乱反射して、テムズ河の波頭や煙の縁を最も明るく照らし出しています。霧自体は定まった形もなく捉えどころがありませんが、霧を透過したモチーフを描くことで間接的にその存在を表現することができるんですね。そもそも私たちが見ていると思っているのはそうした霧、あるいは大気のフィルター越しの光の反映なのかもしれません。モネは「ロンドンで好きなのは冬だけです。霧がなければロンドンは魅力がないでしょう。霧はロンドンに驚くべき広がりを与えます。ロンドンの規則正しい堅牢な建築群は、この神秘的なヴェールによって静かな偉大さを獲得するのです」と語っています。「規則正しい堅牢な建築群」は遠近法で表現するには格好の素材にも思えるのですが、そうした整然とした空間の再現よりも、霧が生み出す無限の表情に関心があるところがモネらしさと言えるでしょう。モネは特定のモチーフを繰り返し描き続けることで、実は大気や水や光といった見えないものこそを可視化し、移ろうものを画面に定着させようとしていたと言えるのかもしれません。

根岸芳郎「91-3-8」、水野勝規「holography」他

…根岸芳郎「91-3-8」は、最初に作品を目にしたとき、どこにキャンバスの面があるか分からなくて遠近感が狂うような、色が立体的に浮き上がっているような不思議な感覚に陥りました。これはアクリル絵具の透過性を活かした手法とのことで、一瞬見間違ったのかと思って作品に近づくとキャンバスの面が確認できるのですが、画面の奥から別の色が現れてくるような不思議な作品です。モネは形なきものを捉えて表現しようとしましたが、複雑に重なり合う色の層そのもので構成される作品はそうしたモネのテーマと相通じるものがあるように思います。
…本展には絵画以外の作品や、ジャンルを分類できないような作品もあって、現代美術の表現の多様さが実感できます。映像作品があるのも現代美術ですね。水鏡に映し出された岸辺の風景の僅かな揺らぎを捉えた「reflection」や、水面に反射する光のきらめきが画面に溢れる「photon」など複数の作品が出品されていて、個人的には揺らめく光と共に色合いを変化える水面を錦鯉が優雅に横切る「holography」が良かったです。時間と体力が許せばどの作品も最初から最後まできちんと見たかったのですが…どんな風に映像が展開するかという内容も気になりますが、本来なら作品とともに時間の経過を体感することが必要なのだろうと思います。ただ、その一方で、その時々に違う場面を目にして、気が向いたらじっくり向き合っていても良いし、ちらっと眺めてそのまま通り過ぎるというのもありかもしれません。普段何気なく景色を見るときの対し方に近い気がしますし、その時々で変わるというのは映像ならではですよね。私たちはよく見知っている風景についてぼんやりとした一定のイメージを抱いていますが、そうしたイメージの背後には異なる時間や季節に繰り返し目にしてきたいくつもの風景、体験の積み重ねがあると思います。改めてイメージを構成する要素を丁寧に解いてみたとき、見過ごしていた思いがけない美しさを発見することもきっとあるでしょう。モネは連作という手法で時間を作品化したと言えますが、もし現代に生きていれば映像作品も制作していたかもしれないですね。

クロード・モネ「睡蓮」(1906年)

…「睡蓮」(1906年)はほぼ正方形のカンヴァスに、青い水を湛えた波一つない池に群生する睡蓮が描かれています。睡蓮が花を付けているので季節は夏でしょう。よく見ると水面の色は映り込んだ空の色であり、池の周囲は描かれず上下逆さの木立によってその気配が窺われるのみで、「水平線も岸辺もない」フラットな水面に水と陸と空の三界全てが描かれています。「ヴァランジュヴィルの風景」の作品解説でモネが実景をそのまま写すのではなく構図を変化させて描いていることが触れられていましたが、この作品にしてもモネは丹精込めた自邸の庭をリアルに見たまま描いたのではなく、日々の観察に基づいて効果的な構図に再構成しているのでしょう。鏡のような池が映し出す鏡像は鮮明で、睡蓮という図と水面=空という地とがほとんど同等の関心をもって、容易に入れ替わり得るものとして描かれています。薔薇色の雲が浮かぶ空が水の底まで続いているようでもあり、群生する睡蓮が雲のように浮かんでいるようにも見えてくる作品だと思います。

平松礼二「夏の気流(モネの池)」、ロイ・リキテンスタイン「日本の橋のある睡蓮」、福田美蘭「モネの睡蓮」

平松礼二「夏の気流(モネの池)」はモネの1906年の「睡蓮」と構図がよく似ています。日本美術から影響を受けたモネの作品が再び日本画の中に取り込まれることで、「睡蓮」の平面性や装飾性が一層明確になる一方、モネの流動的な筆触とは異なる日本画らしい細緻な描写、絵具の発色や質感の差異なども感じられます。真っ青な空と白い雲の映り込んだ池に睡蓮が浮かんでいる様は、「蜘蛛の糸」でお釈迦さまがその畔を歩いていたという極楽浄土の蓮池のようにも見えますね。
…ロイ・リキテンスタイン「日本の橋のある睡蓮」は実像である睡蓮が黒い線で縁取られ、縁取りのない木立や橋は水に映った鏡像なのですが、鏡像の一部にステンレスが用いられていて、作品の前に立つ人の姿が映り込む仕掛けになっています。虚実が幾重にも入り混じった一筋縄でいかない構造に面白さがあると共に、額縁の外から見る人も含めての作品なのだと思います。
福田美蘭「モネの睡蓮」では睡蓮の咲く池にモネの作品にはない石造りの建物が写っていますが、建物は大原美術館の工芸館、池は美術館の中庭の池だそうです。画面右上の池の縁のブロックは池の所在地を示すために、あえて描かれているのでしょう。この睡蓮はモネのジヴェルニーにあるモネの池から株分けされたものとのことで、本作のタイトルにはモネの睡蓮という作品を踏まえているという意味と共に、文字通りモネの睡蓮がモチーフであるという意味があることが分かります。また、大原美術館には作品としてのモネの睡蓮(1906年、本展未出品)もあるそうですが、本来は実像である美術館の建物がここでは水に映る鏡像となっている一方で、作品であるはずのモネの池が実像となっていて、虚実が逆転していると考えることもできそうです。既製品の額縁に収められているのは、「モネの睡蓮という作品」を作品化したという印でしょうか。モネの睡蓮は作品としても、実景の庭としても繰り返しコピーされ、モネ自身の手がけた作品を越えてそのイメージを広げ続けているんですね。モネの池に咲く睡蓮を描いたモネの作品が収められた美術館の庭に咲くモネの睡蓮を描いた作品…と考え始めると段々混乱してくるのですが(笑)、リアルとイメージが何度も反転することでその境界が意外にも曖昧なこと、イメージはリアルを映し出し、リアルがイメージを元にしていることで、卵と鶏のようにどちらが始まりともつかず、実は優劣のない関係であることが感じられる作品だと思います。

クロード・モネ「睡蓮」(1914-17年)、「柳」、「バラの小道の家」

…「睡蓮」(1914-17年)は本展の会場冒頭に展示されていた作品ですが、1906年の作品と比べると表現は大きく変化し、視点は前のめりになり一層水面に近づいて、睡蓮の一つがクローズアップで描かれています。池には岸辺の柳が写っているそうですが、荒々しいタッチによる明るい緑の点描が水面に反射する日差しの輝きなのか、岸辺の景色の反映なのか、水中の水草なのか判別が付かないぐらいです。何を描くかという再現をほとんど離れて、色彩と筆触の違いにより画面が構成されている印象ですが、辛うじて保たれている睡蓮の花と葉に「見る」という行為に踏みとどまっているモネの目を感じます。何を描いているのか判別しにくいほどの荒々しいタッチは「柳」という作品にも見られます。「北斎ジャポニスム展」(国立西洋美術館、2017~18年)にもほぼ同じ主題と構図の「木の間越しの春」という作品が出品されていたのですが、20年前の「木の間越しの春」から感じられた軽やかな風や明るい木漏れ日に変わって、「柳」では強烈な風に乱舞する緑が印象的です。柳の枝は大きく撓んで水面に浸かりそうになっていますが、伝統的な風景画の構図に従うなら画面下の波立つ水面が手前になるにもかかわらず、生い茂る柳の葉が最も近くにあるように見えます。対岸には樹木や家の屋根が僅かに垣間見えているのですが、視界に覆い被さる柳の枝葉によって飲み込まれ、画面内の空間構成を一層曖昧なものにしています。しかし、木や川や家を遠近法に基づいて正確に配置しても再現できない、むしろ失われるものがあるのでしょう。対象よりも体験の再現、強い風を受けて柳が揺れる様子や、川岸でモネが感じたであろう風そのものの印象が表現されているような作品です。「バラの小道の家」は最晩年の作品の一つです。晴れた青空の下で、道の両脇に植えられた薔薇が満開の赤い花を付けています。道の先にある家が陽炎のように揺らいで見える一方で、咲き誇る薔薇の花弁や日差しを浴びる緑の葉からはその旺盛な生命力が溢れ出すように色彩が滲み出して互いに浸食し合っています。噎せ返るような草いきれのなかで狂い咲く色彩に、鬼気迫る画家の制作への執着が感じられる作品だと思います。

その他 会場内の様子、混雑状況など

…私が見に行ったのは会期初日の午後だったのですが、比較的混雑していました。連休に加えて、子どもたちはそろそろ夏休みだったからかもしれませんね。特にモネの作品は、数メートルを超えるサイズの作品も多い現代美術に比べると小型な上にどうしても人が集まってしまうので、空くのを待って見る状態でした。作品に付される解説文は一般的な説明文のほか、子どもが読むことを意識したのか易しい文章の説明が付されているものもありました。所要時間は2時間程度を見込んでおくと良いと思いますが、映像作品が複数あり、1点につき14分ぐらいかかるものもあるので、最初から最後まで見るともう少し時間がかかると思います。なお、音声ガイドでは湯浅克俊氏、松本陽子氏、鈴木理策氏によるモネの作品についての考察や自作についての解説を聞くことができます。同じアーティストとしてモネの作品をどう捉えているのか、ご自分の作品で何を表現しようとしているのか、作家のメッセージを直接受け取ることができる良い機会だと思いますので、興味がおありの方はご利用をお勧めします。