展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

ピエール・ボナール展 感想

見どころ

…この展覧会は19世紀末から20世紀前半に活動したピエール・ボナール(1867~1947)の大規模な回顧展で、オルセー美術館のコレクションを中心に、油彩72点、素描17点、版画・挿絵本17点、写真30点など130点超の作品で構成されています。
…ボナールの個々の作品については、たとえば今年だけでも「ヌード展」(横浜美術館)に「浴室」及び「浴室の裸婦」が、「プーシキン美術館展」(東京都美術館)には「夏、ダンス」が出品されていて目にする機会が多いような気もするのですが、大規模な回顧展が日本で開催されるのは37年ぶりとのことです。ボナールは20世紀の前衛美術とは一線を画していたため、美術批評家の一部から省みられない時期もあったのですが、近年は本国フランスでもボナールを含むナビ派の芸術が再評価されているそうです。今回の展覧会もですし、昨年三菱一号館美術館で開催された「オルセーのナビ派展」なども、そうした変化を受けてのものでしょう。
…ボナールの作品というと、私はボナールの画業の出発点となった「フランス=シャンパーニュ」など商業的なグラフィック作品や浴室のマルトを描いた裸婦画が思い浮かぶのですが、今回はノルマンディーや南仏などを描いた風景画も数多く目にすることができました。印象派後の世代で「日本かぶれのナビ」とも呼ばれ、浮世絵から影響を受けた大胆な構図を特徴の一つとするボナールですが、後半生においてはモネを初めとする印象派の画家たちを発見したことで、制作における自由と解放感を得たのだそうです。一方で、ボナールは見たものから受けた印象を描くことは変わっていないとも感じました。ボナールは目にした光景の印象を絵画化することを「視神経の冒険」と呼びましたが、こだわりのあるモチーフを繰り返し描きつつも、個別のモチーフの存在には還元しきれない印象、ふとした瞬間に美を見出した全体の調和を捉え、表現したかったのかもしれません。この展覧会では豊かな色彩で彩られた穏やかな情景の背後に秘められている、ボナールの飽くなき冒険の足跡を辿ることが出来るのではないかと思います。

概要

会期

…2018年9月26日~12月17日

会場

国立新美術館

構成

第1章 日本かぶれのナビ:油彩16点。デトランプ1点、リトグラフ1点
第2章 ナビ派時代のグラフィック・アート:油彩4点、リトグラフ7点、書籍3点
第3章 スナップショット:写真(モダン・プリント)30点
第4章 近代の水の精(ナイアス)たち:油彩9点、リトグラフ2点、インク1点、鉛筆5点、黒鉛2点
第5章 室内と静物「芸術作品―時間の静止」:油彩14点、水彩1点、鉛筆8点
第6章 ノルマンディーやその他の風景:油彩12点
第7章 終わりなき夏:油彩13点、リトグラフ3点
…ジャンル、主題の別による構成を取りつつ、概ね時系列に沿った構成となっていますが、ボナールの手がけた作品は裸婦画をはじめ、静物画、風景画、さらにポスターやイラスト、室内装飾と多岐にわたっていることが分かります。ボナールの画業の出発点となった商業美術作品や、絵画作品の下絵としても使われた写真には、それぞれ一章ずつが割かれていますね。また、第4章及び第5章には油彩の完成作と共にデッサンも出品されていて、制作の過程が見えるようにという意図を感じることができます。第1章で展示されている「庭の女性たち」や「親密さ」などは「オルセーのナビ派」展にも出品されていたのですが、同展で目にしたときはナビ派の芸術家たちに共通するテーマ、特徴を考えさせられたのに対し、今回の展覧会ではボナール個人の画業における位置づけや個性を意識させられて、同じ作品でも展覧会によって違った印象を受けるのが興味深く感じられました。

感想

「庭の女性たち」

…ボナールは当初、この作品を屏風の形に仕立てる構想だったのですが、描いてみたところ「屏風にするにはあまりにタブロー(イーゼル画)的である」*1という理由から、ばらばらのまま装飾パネルに仕上げたのだそうです。四双一曲の屏風である「散歩」が全体で一つの場面になっているのと比べると、確かにそれぞれのモチーフや色彩の主張が強く、一枚で完結している印象ですね。一方で、四枚はいずれも女性の全身像と植物を組み合わせるという構成が共通していて、奥行きのない平面的な画面やパターン化された植物の描写、女性の服装や色遣いから感じられる四季を連想させるデザイン性など、装飾性の高い作品でもあります。女性の顔は二人が斜め前から、残る二人は浮世絵の見返り美人のように後ろ姿で横顔が垣間見えるように描かれていますね。赤いドレスの女性の目鼻立ちが線だけで描写されているのも浮世絵を彷彿させられます。咲き誇る花のように画面を彩る女性の姿自体が、美的な意匠として表現されている作品だと思います。

「親密さ」「ランプの下の昼食」

…「親密さ」は室内で煙草をくゆらす男女が描かれた作品で、帽子を被ってパイプを咥えているのはボナールの義弟クロード・テラス、その傍らで煙草を手に佇むのがボナールの妹でクロードの妻であるアンドレです*2。宙で緩く渦を巻く煙草の煙が様式化されて、壁紙の模様と入り混じり装飾的な画面となっていますね。狭い室内でとても近い距離にいる彼らは、視線を交わすこともなくそれぞれの物思いに浸っているようですが、互いに気兼ねなく寛いでいる様子が、かえって描かれた人々の親密な関係を感じさせます。よく見るとすぐ手前にパイプを持つ手のみが描かれていますが、これはボナール自身の手でだそうです。画家は気心の知れた人々に囲まれた空間の居心地良さを表現したかったのでしょう。
…卓上に吊されたランプの下で女性が子供に匙を差し出すシルエットが描かれた「ランプの下の昼食」のモデルはボナールの母親と妹アンドレの子供たちで、「親密さ」と同じように近しい家族をモデルにした作品です。お昼時にしては画面が薄暗いのですが、ボナールは19世紀末にモンマルトルのキャバレー「ル・シャノワール」で人気を得ていた影絵劇場や、ナビ派の仲間たちも制作に携わっていた象徴主義演劇の暗示的な演出を取り入れているのだそうです。室内を照らすランプが実際よりも大きく描かれ、ありふれた家族の情景に幻想的な明暗を演出している一方、テーブルの奥側に座る赤ん坊は逆に実際より小さく、遠めに描かれ、画面が分断されている印象を強めています。改めてよく見ると、母親の影に紛れるように母子に背を向けて立つ子供の姿が描かれていますが、この子は食事を取らないのでしょうか?まだ幼い赤ん坊は自分の食事に目もくれず、テーブル越しにこちらをじっと見ています。子供らしいふっくらとした赤い頬とは裏腹に、無垢でありながら全てを見通すような眼差しには、ありふれた日常に潜む非日常を見抜いた画家自身の眼差しと重なるものがあるかもしれないしれません。描かれたそれぞれの人物たちの交錯し、あるいはすれ違う視線が画面にささやかな緊張をもたらし、ドラマを想像させる作品だと思います。

「水浴:前景にヴィヴェット、後景にロベールと二人の子ども」他

…1898年、ボナールはコダック社が発売したポケットカメラを発売と同時に購入すると、1890年代から20世紀初頭にかけて家族や友人たちなどを撮影した250枚を超える写真を残しました。発売と同時というあたり、ボナールの写真に対する関心の強さが窺われます。そうした写真のうちの一枚、「水浴:前景にヴィヴェット、後景にロベールと二人の子ども」は妹アンドレの子供たちが水遊びをしている場面を切り取ったスナップショットです。飛沫を上げてはしゃぐ子どもたちは皆生き生きとした笑顔ですね。ボナールは子供が好きだったのでしょう。ボナールの作品に現れる無垢でありながら、大人と同じように既に自分の世界を持っている子どもたちの姿は、こうした一瞬一瞬を積み重ねた記憶の層から抽出されているのだろうと思います。
…「コダックのカメラを持つヴュイヤールとルーセル、背景にサン・マルコ寺院」はナビ派の一員でボナールの友人だったヴュイヤールらと旅行したときの一枚で、ボナールは写真を撮ろうとカメラを構える友人の姿を収めています。旅の記念に写真を撮るというのは現代に通じる楽しみ方ですが、ボナールの写真は正面から捉えた同行者の背景に名所旧跡の一部が写り込んでいる構図で、何処へ行ったかということ以上に友人との楽しい旅の気分や雰囲気を保存したかったのではないかと思われます。ところで、同じ道中で撮影したと思われる「コダックのカメラを持つヴュイヤールとルーセル、背景にサンドゥカーレ宮殿」は、場所は違えど上述の写真と構図がほとんど同じなのですが偶然でしょうか。もしかしたらボナールは何処へ行っても同じ仕草をする、変わらぬ友人の姿に面白さを感じたのかもしれませんし、逆に見慣れた友人を初めての場所に置き直すことで、改めて見直すという意図があったのかもしれません。このときヴュイヤールが撮影したであろうボナールの写真も見てみたい気がします。
…一方、マルトのヌードを撮った作品は絵画作品を意識してのもののようで、盥を使って身体を洗っている「浴盤にしゃがむマルト」は写真を元に制作した絵画も出品されています。戸外で撮影されている写真が多いのは、明るさを確保しなければならないという技術的な理由もあるようです。また、一連のマルトの写真は後ろ姿であったり、陰になっていたりして顔ははっきりとは見えず、裸体だけが白く浮かび上がっていますが、ボナールが浴室の裸婦を描いた作品も顔はあまりはっきり描かれていないことが多く、作為のない一瞬を捉えた子供たちや友人たちのスナップショットとは異質の、構図等考え抜いた一種の下絵としての写真のようです。なお、ボナールは1905年を境に写真をほとんど撮らなくなり、1916年以降の写真は一枚も残っていないのですが、その理由は不明だそうです。

「化粧室 あるいは バラ色の化粧室」「化粧台」「バラ色の裸婦、陰になった頭部」

…「化粧室 あるいは バラ色の化粧室」は鏡の前に立つ裸婦の後ろ姿が描かれた作品です。画面右側に窓があるようで、女性の右肩から背中に光が当たり、左側の花模様の壁紙は陰になっています。鏡の反対側に浴室があるようですが、鏡に写ることで奥行き感がなくなり、黄色と水色のツートンカラーに塗り分けられた装飾的な背景のようにも見えます。この作品において鏡は化粧室を分断し、閉じた空間に連続性のない画面を挿入することで意表を突いた印象をもたらしているように感じます。また、鏡は自明なはずの存在に揺さぶりをかけ、不確かなものにする効果もあるかもしれません。実は鏡の中のほうが明るいためか、最初見たときは鏡像と分からず、一瞬女性が二人いるのかと思ってしまいました。鏡の前の後ろ姿の実像より、左半身のみとは言え画面のほぼ中央からこちらを見ている鏡像のほうが目に付きますし、鏡像でありながら室内の様子が鮮明に映り込んでいることと言い、タイトルで「化粧室」が反復されていることと言い、あえて錯覚するようにボナールも意図して描いているのかもしれません。
…鏡は「化粧台」という作品でも効果的に使われていて、首から下だけが写った裸体は鏡の前の化粧道具と共に室内に置かれた彫像のようにも見えます。この作品で裸体は実像としては描かれず、鏡のなかにだけ存在していますが、鏡像=平面になることで、他の水差しや鉢と同等の存在となっているようにも見えます。また、「バラ色の裸婦、陰になった頭部」はボナール家の医師の妻であるリュシエンヌ・デュピュイがモデルとのことですが、タイトルの通り逆光で頭部が陰になっているため顔立ちや表情ははっきりとは分かりません。背後から浴室に差し込む光によって裸体は柔らかく包まれ、右肩は光の中に溶け込んでいます。裸婦はボナールの画業のなかでも主要な位置を占めるモチーフだと思うのですが、描かれた裸婦の多くは俯いて身体を洗っていたり、逆光で影になっていたりしていて、顔立ちがあまりはっきり描かれていない作品が多い印象です。ボナールが撮影したマルトのヌードも同様なので、意図的なものなのでしょう。顔は感情や人格を表現する重要なパーツですが、ボナールが描こうとしたのはそれ以外のものということなのだと思います。同じように浴室の裸婦を描いた画家としてはドガが思い浮かぶのですが、ドガの場合、ありのままの生活感が滲む肉体の表現を志向しているように感じます。一方、ボナールの場合、同じように日常の中にある裸体ではあっても、空気のようなさりげなさ、自然さを求めていて抑制的にすら感じます。存在を誇示するのではなく、花の模様の壁紙や調度品と等しくそこにあり、部屋を、あるいは日常を美しく彩るもの。ボナールが見たのは、部屋を満たす光と溶け合い、全体と調和する裸体だったのかもしれません。

「冬の日」「果物、濃い調和」「テーブルの片隅」

…窓際に佇む青いドレスの女性。開いたカーテンの向こうに見えるパリの空は灰色の雲に覆われ、屋根に雪が積もっていますが、女性は外の景色に背を向けて書物の世界に没頭しているようです。ボナールの作品は赤や黄などの暖色系、あるいはパステルカラーの柔らかい色調が多い印象なのですが、この作品ではテーブルクロスやカーテンの赤によって女性の濃い青のドレスがいっそう引き立てられているように感じられます。また、ボナールの作品は室内の情景と外の風景をあえて一つの画面にまとめている作品が多く、外の景色と室内の情景、外界と内面の両立もしくは統合といった点に関心があったのかもしれないと思いました。女性の容貌や表情は窺えませんが、部屋の壁には白い帽子を被った女性の絵は、この女性自身の肖像かもしれませんね。
…「果物、濃い調和」は画面の真正面に据えられ、大きく描かれたモチーフの存在感が印象的です。画家は室内にいて、果物が盛られた皿を外のバルコニーに向かって眺めているのでしょう。夕暮れ時の山並みは暗く陰に沈み、果物皿の背後を水平に横切る手摺りが画面構成のアクセントになっています。自然の風景を背景にした静物画ですが、抽象画のような色彩や形体の構成、バランスに対する関心が窺われ、手摺り、果物、空のそれぞれの赤が呼応し合って調和をもたらしている作品だと思います。
…「テーブルの片隅」は白いテーブルクロスの上に果物の載った皿や籠が描かれていますが、画面左に描かれた椅子は横倒しになっていて天地がどうなっているのか戸惑う作品です。白い部分がテーブルクロスなら、画面左側を斜めに横切る赤い帯はテーブルの天板でしょうか。主たるモチーフである果物にしても、あるものは上の方から、別のものは横から描かれていて、視点が一つに定まっていないため空間が曖昧な状態です。ボナールは同時代の前衛的な動向からは距離を置いていたそうですが、こうした斬新な構図の作品も描いていたんですね。幾何学的な形体で描かれたテーブルクロスの白とテーブルの赤の面に対して、有機的な黄色の果物という組み合わせが面白い作品だと思います。

セーヌ川に面して開いた窓、ヴェルノンにて」

…夏の風景でしょうか。大きく開いた窓の外には白い雲の浮かぶ青い空と生い茂る緑の木々、そしてその狭間にセーヌ川の水面が見えています。これはボナールがノルマンディーの街ヴェルノンに購入した家「マ・ルロット(私の家馬車)」からの眺望です。窓の外に見える白い手摺りは2階のテラスで、テラスからは庭へと下りる階段があったそうです。窓や青と緑に溢れた外の自然と褐色の室内の対比され、逆光で陰になった暗い壁に紛れるように「テラスの犬」にも描かれている茶色の犬の姿が見えます。椅子にちょこんと座っている犬の視線の先に立つ、見切れた人の後ろ姿は飼い主=ボナール自身でしょうか。テーブルの上に載っているスケッチブックのようなものはまだまっさらな状態ですが、戸口に佇む画家はこれからまさにこの作品を描こうとしているのかもしれません。そう思って見ると、この作品は画中の白いスケッチブックから抜け出したもののようにも思えます。
印象派の影響を受けたボナールは構図を支えるものとして窓などの人工物を取り入れたそうですが、私はこの作品を見て、ボナールがまだ印象派の影響を受ける以前の「画家のアトリエ」(1900年)という一枚を思い出しました。「画家のアトリエ」は中央にカーテンの開いた窓が大きく描かれ、その脇に空のイーゼルが立っているという点で「セーヌ川~」とよく似た舞台設定なのですが、閉じた窓の外に広がる風景はパリの街並みであり、室内には犬の代わりにモデルが座っていてこちらを向いているという点では対照的です。両者に共通する窓に切り取られた風景は、額縁に納まる絵画そのものを示唆していると考えられるでしょう。一方で、「画家のアトリエ」では閉じていた窓が「セーヌ川~」では外に向かって開かれ、「画家のアトリエ」では画面の外の超越的な視点として存在していた画家は、「セーヌ川~」で画面の中に入っていて、描かれているのは画家自身の世界と言えるかもしれません。両者の違いには見つめて描く対象、客観的な世界から自身もその一部である世界、感覚・印象・記憶といった主観と連続した世界へ変化しているとも考えられ、力が抜けて隔てるものがなくなっている感じがします。室内の情景と戸外の風景、家や家具など人工物と川や樹木などの自然、外界と内面が緩やかに繋がり、調和している作品だと思います。

「歓び」

…この作品はボナールの友人でパトロンでもあるミシア・エドワーズの居宅の食堂を飾るため、「水の戯れ あるいは 旅」と共に制作された四点のうちの一点で、ボナールが最も早く手がけた装飾画の一つに数えられるそうです。古代ギリシャアルカディアキリスト教エデンの園など複数のイメージが元となっていると思われる楽園では、金髪をなびかせて駆ける古代風の衣装を纏った少女が描かれ、裸体の女性たちが水浴している噴水の奥には緑の門が立ち、庭園、あるいは果樹園と思われる緑の木々が生い茂っています。この楽園に描かれている人物は女性のみですから、性愛が入り込む以前の世界、すなわち有限の生命を超越した不死の世界と考えることも出来そうです。人類最初の女性であるイヴ、あるいは神話の女神のような女性たちは、自然と調和した存在として描かれているのでしょう。また、衣服を纏っている少女たちは、裸体で描かれた楽園の女神たちとは次元の異なる生身の存在のようにも思われます。彼女たちは今から楽園に迎え入れられるのかもしれませんし、生身でありながら楽園を幻視することの出来る無垢な魂を持つ、祝福された存在なのかもしれません。楽園を取り囲むように、作品の縁取りには鳥や猿が描かれていますが、実は真珠を取り合っている猿は富豪のアルフレッド・エドワーズを奪い合う妻のミシアと女優のジュヌヴィエーヴ・ランテルムの暗喩で、調和に満ちた想像の楽園と諍いの絶えない世俗の現実とを、皮肉を込めて対比していると捉えることも出来そうです。しかし、世俗に塗れ、逃れることができないからこそ人は無垢で美しいものを希求するのかもしれませんし、絵画だからこそ表現可能な楽園があると考えることもできるでしょう。結局、ミシアが夫のエドワーズと離婚したため、一連の作品は僅かなあいだ彼女の居宅に飾られたあと散逸してしまったのですが、現実世界のドラマとは裏腹に、幸福な楽園は変わることなく穏やかな喜びに満ちて、今日でも見る人の慰めとなっていることと思います。

その他…会場内の様子、混雑状況など

…私が見に行ったのは会期序盤の平日午前中だったため、会場内は空いていてゆっくり鑑賞することができました。作品数は多いですが展示解説は少なめです。会場内の温度設定は低めで、羽織るものが必要な感じでした。写真作品はいずれも小さく、かなり近寄ってみる必要があったので、単眼鏡があると便利かもしれません。所要時間は90分程度を見込んでおくと良いと思います。

*1:「オルセーのナビ派展」P62

*2:「オルセーのナビ派展」P75