展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

ジョルジュ・ルオー 聖なる芸術とモデルニテ 感想

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見どころ

…この展覧会は、ジョルジュ・ルオー(1871~1958)のコレクションを有するパナソニック汐留ミュージアムの開館15周年を記念した展覧会です。
…ルオーには道化師や娼婦など社会の片隅で生きる人々を描いた作品と、宗教的な主題を描いた作品がありますが、この展覧会は後者の作品を集めた内容で、パナソニック汐留ミュージアムジョルジュ・ルオー財団からの出品作に加え、ポンピドゥー・センター パリ国立近代美術館の所蔵品5点、ヴァチカン美術館の所蔵品4点で構成されています。
…西洋では教会が世俗の権力と結びつき、もしくは教会自体が権力として存在することで、宗教的主題に基づく美術品が数多く制作されてきましたが、近代以降科学技術も社会構造も大きく変化し、人々の信仰の持ち方もかつてと同じままではなくなっています。そうした時代において宗教的な主題とどのように向き合うのか、あえて取り上げるとしたらどのように表現するのかという課題があると思うのですが、ルオーは従来の宗教画の主題や構図に必ずしも囚われず、現実の社会を生きる人々の苦悩に寄り添いながら、それを宗教的に深化させて表現していると思いました。いつの世でも、人間が生きる上で直面する苦悩や困難が尽きることはない以上、変わることなく救いは求められていると思います。英雄のように華々しくなくとも、ひたむきに生きる人々に救いを与える愛の形を描き続けたルオーの作品にしばし囲まれて、穏やかで心の鎮まる時間を過ごすことが出来る展覧会だと思います。

 

概要

会期

…2018年9月29日~12月9日

会場

パナソニック汐留ミュージアム

構成

 第1章 ミセレーレ―甦ったイコン 
 第2章 聖顔と聖なる人物―物言わぬサバルタン*1
 第3章 パッション(受難)―受肉するマチエール
 特別セクション 聖なる空間の装飾
 第4章 聖書の風景―未完のユートピア
…出品数は84点で、油彩画が約半数の48点を占めているほか、版画作品や工芸品などが出品されています。第1章「ミセレーレ」や第3章「パッション(受難)」の展示コーナーでは版画作品と並んで下絵に着彩された作品が展示されていて、技法の違いによる印象の変化が興味深く感じられました。また、特別セクション「聖なる空間の装飾」では油彩画と共に教会の装飾美術として仕上げられた作品が展示されていましたが、ステンドグラスや七宝などの工芸品はルオーの絵画作品の色彩や質感が活かされていて、相性が良いように感じました。

感想

「ミセレーレ」10悩みの果てぬ古き場末で、31「汝ら、互いに愛し合うべし」

…「ミセレーレ(Miserere、ラテン語で「憐れみたまえ」という意味)」はルオーが父の死をきっかけに構想した作品で、第一次大戦の勃発に伴う構想の深化やリトグラフから銅版画への技法の変更など、紆余曲折を経て1948年に銅版画集として出版されました。版画という形式になったのは、多くの人々の手に届きやすいようにという考えがあったためだそうです。一連の作品に描かれた題材は聖書の一節に基づくものもあればルオーの創作によるものもあり、あるいはインドの格言に因むタイトルが付けられていたりとかなり自由なものになっていますが、現実世界の悲惨に苦悩する人々の姿と、愛と祈りによって彼らを救済するキリストという主題は一貫しています。
…「悩みの果てぬ古き場末で」という表題はルオーの創作であり、描かれた情景の根底にはルオーの生まれ育ったパリ郊外のベルヴィル地区の思い出があるそうです。質素な集合住宅が立ち並ぶ街並を背後に寄り添う母子は、何かに耐えるように目を伏せて沈痛な表情をしています。母子が背負っているものは具体的な生活苦とも考えられますし、貧富の格差や戦争など社会や時代の問題、あるいはもっと普遍的な生きることにつきまとう困難とも考えられ、逃れることのできない苦難に忍従する姿を象徴しているように感じられます。樹を挟んで左側に描かれているのは働く人々でしょうか。彼らの背後の高い塔を持つ建物は教会かとも思ったのですが、はっきりとはしません。画面の真ん中に立つ一本の大樹が印象的なのですが、ルオーは「受難」のテキストの執筆者でもある文芸批評家で詩人のアンドレ・シュアレスに宛てた書簡の中で、「根本的な心理、つまり空を背景とした1本の樹は人間の顔と同じ興味、同じ性格、同じような表現を持っている」と記しているそうです。太い幹は地に根ざした力強さがあり、沈鬱な情景の中でも空に向かってまっすぐに伸びる姿はこの世の片隅、社会の底辺でつましく生きる人々と天上の世界をしっかりと繋いでいるように思います。
…「汝ら、互いに愛し合うべし」という題名は新約聖書ヨハネによる福音書」第13章にある「互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」という一節に因むものだそうです。画面中央の十字架に掛けられたキリストを挟んで、聖母マリアは母親として我が子の運命を嘆き、マグダラのマリアはキリストを信じて手を合わせ、使徒ヨハネは全てを見届けようとするかのように顔を上げてキリストを見ています。ルオーは繰り返し同じ構図の作品を描いているので、拘りのある主題であることは間違いないでしょう。キリストの受難に直面した三人の感情表現は三者三様に異なりますが、それぞれのキリストに対する愛は強固で揺るぎないものでもあり、キリストも隔てなくそれぞれの想いを受け止めているのではないでしょうか。この作品は、異なる者同士がキリストを介して愛し合うこと、キリストに対する愛を共有することに気付き、支え合い互いに結びつくよう促しているのかもしれません。
…版画集である「ミセレーレ」は、版画作品と並んで下絵に着彩した油彩画が出品されていたのですが、版画作品のモノクロの画面が連作のテーマである悲嘆や苦悩を深めると共に、社会の現実に取材したドキュメンタリーのような印象を与える一方で、着彩された作品ではルオーらしい色彩の力強さや描かれた人物の血の通った肉体が感じられるなど、印象が変化するのが興味深かったです。

「青い鳥は目を潰せばもっとよく歌うだろう」、通称「青い鳥」

…目を閉じて微笑みを浮かべるバラ色の少女。彼女は小首を傾げていて、何かに耳を傾けているようにも見えます。色彩と表情から柔らかく夢見るような印象を受ける作品なのですが、タイトルは「ナイチンゲールは目を潰すとよく歌う」という残酷な伝説が元になっています。
…実はこの作品は、もともと「ミセレーレ」のために着想されたオルフェウスの構図や形態を引き継いでいるそうです。ルオーは、妻エウリュディケを連れ戻すために冥界に下ったオルフェウスの旅を絵画の創造行為と重ね合わせて、芸術の象徴と考えていました。また、目を閉じることは、現実の世界をよく見たうえで不可視のヴィジョンに形を与えるルオーにとって、優れた創造を生むための行為の喩えでもあります。
…神話のオルフェウスはエウリュディケを連れ戻すことはできないのですが、そうした苦難を身を以て引き受けながらも、美しい音楽で無情な現実を救済することが芸術家の役割であるとルオーは考えていたのかもしれません。また、社会の片隅でつましくともひたむきに生きる人々の姿に気高さを見出したのはルオーの心の目であり、寄り添う親子に聖母子にも通じる情愛の深さを感じたルオーの眼差しにもまた愛があると思います。青い鳥を魂を悲惨から救う愛と考えるなら、それは手の届かない遙かな楽園ではなく、私たちの足元に存在するのでしょう。可憐な少女は特定の女神や聖女の名を持ちませんが、それ故に普遍的な存在とも言えそうです。シュアレスはルオーに「芸術家とは愛の最も美しい形を世に与え、この世を苦悩より救うものです」と述べた書簡を送っているそうですが、ルオーの与えた形はとても美しいと感じました。

「聖顔」(両面)

…この作品は1923年からおよそ10年間パリに在住し、ルオーとは家族ぐるみの交流もあった日本人コレクター福島繁太郎が所蔵していた作品です。ルオーは別の作品の手直しのために福島氏の自宅を訪れていたそうですが、興が乗って新作も描くことがあり、「聖顔」もそうした経緯で生まれた作品の一つだったようです。
…箱書きによると「そこいらに散らばってゐたレターペーパー」にグワッシュパステルで描かれたとのことで、厚塗りの油彩とはひと味違う透明感が感じられます。興が乗った折の手すさびのようですが、即興の小品でありながら、青い超次元的な空間に神秘的な光に包まれて浮かぶキリストの頭部が静謐な面持ちで表現されています。
…ルオーはキリストの遺体を包んでいたと伝えられる「トリノの聖骸布」についての研究や、ゴルゴダの丘に向かうキリストの顔を拭った布にキリストの顔が写ったという聖ヴェロニカの伝説に強い関心を寄せていました。人の姿を写し取るという聖ヴェロニカの伝説は絵画を連想させますね。ルオーは本作を描く過程で、紙の表に描いていたキリストがぼんやりと裏写りした様子に興味を引かれたそうですが、実在のイエスの痕跡をとどめたと言い伝えられる聖遺物を想起したのかもしれません。顔のみが浮かび上がる図は非現実的なのですが、それにより身体を持たない不可視の霊的な存在であることも同時に示されていると思います。
…また、1928年に描かれたこの作品ではキリストの目は閉じられていますが、1930年代に入ると聖顔のキリストは時に大きく目を見開いて描かれるようになります。見開く目に見えるのは、おそらく形ある現実の背後にある世界の本質や真理ではないでしょうか。人間性を感じさせる受難のキリストから、死を超越した存在へと聖顔の表現が昇華されていく過程を見ることができると思います。

「飾りの花」、「オレンジのある静物

…私はルオーの静物画を初めて見たのですが、ルオーはマリー・キュトリから依頼を受けたタピスリーの原画や、フランスの教会に現代美術を持ち込み再生させる運動「聖なる芸術(L'art sacre)」を推進したマリー=アラン・クチュリエ神父から依頼を受けたステンドグラスの原画など、装飾美術との関わりをきっかけに花や果物などの静物画を制作しています。
…「飾りの花」は同タイトルの複数の作品がありますが、いずれも花瓶一杯に活けられた花束が装飾的な枠に縁取られて、正面から大きく描かれています。教会を飾る花の絵ということで、ふと、仏教で仏壇にお花を供えるように、キリスト教カトリック)の場合も教会の中にお花を飾るのだろうかと気になったのですが、お花は祭壇の周囲や下などに飾るようですね。季節を感じさせる折々の花も良いですが、ステンドグラスに仕上げられた「飾りの花」は枯れることのない光の花として祈りの場に彩りを添えていることと思います。
…花の絵ほど数は多くないものの、ルオーは果物の静物画も描いています。「オレンジのある静物」は七宝作品の原画で、枝葉の付いたオレンジがテーブルの上に無造作に置かれています。飾り気のないシンプルなモチーフですが、色彩は繊細で透明感があり、熟したオレンジの実の色と常緑樹らしい鮮やかな緑とが対比されています。ステンドグラスや七宝といった工芸作品は、ルオーの絵画作品の盛り上がった絵具の質感や光沢と相性が良く、黄色やエメラルドグリーンの宝石のような色彩を効果的に再現していると思いました。

「秋 または ナザレット」

…夕暮れ時の風景でしょうか、赤みを帯びた太陽が山の稜線に沈み行くなか、空には夜の帳が下り始めています。辺りには田園が広がっていて、前景の木立のそばでは二組の親子が向かい合い言葉を交わしているようです。どこか懐かしさを覚える穏やかな風景のなか、道の向こうからやってくるキリストの姿が白い人影として描かれています。前景に向かって三角形に広がる道が画面に安定感をもたらすと共に、見る人の視線をキリストへと誘導していますね。ナザレットはキリストが幼少期を過ごしたとされる場所ですが、描かれているのは実際の風景ではなく一種の理想郷のようです。貧しさや争いごとに苦しむことのない安らかなユートピアでは、人々の間にさりげなくキリストが立ち混じることもあるのでしょう。ルオーはその地に自分の生まれ育ったベルヴィルを重ねているのかもしれません。「悩みの果てぬ古き場末で」では母子の背後に家へと向かう道が描かれているのですが、その道は「秋 または ナザレット」で画面中央に描かれている道に通じている気がします。後者では道の途中にキリストが描かれていて、苦悩の尽きない日常の中にも救いが見出されたことを感じます。私はクリスチャンではないのですが、人生を道と捉えるなら、苦しみは多くとも弛まず歩み続けることが救いへと通じているのかもしれません。

その他

…私が見に行ったのは金曜日で、「フライデー・ナイト」という企画で夜間も開館されていました。場所柄もあるのか仕事帰りの来場者の姿が多い印象を受けましたが、落ち着いた雰囲気でじっくり鑑賞することができました。音声ガイドはありません。所要時間は90分程度を見込んでおくと良いと思います。

*1:従属的地位にある人々、特に第三世界の被抑圧者のこと