展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

フェルメール展 感想

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見どころ

…この展覧会は10年ぶりの来日となる傑作「牛乳を注ぐ女」をはじめとするフェルメール作品と共に、ハブリエル・メツー、ピーテル・デ・ホーホ、ヤン・ステーンなど17世紀のオランダ黄金時代の絵画作品約50点で構成されるものです。見どころは、何と言っても現存するフェルメールの作品35点のうち10点が出品されることで、「ワイングラス」(ベルリン国立美術館蔵)と「赤い帽子の娘」(ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)、「取り持ち女」(ドレスデン国立古典絵画館蔵)は日本初公開となります。これだけの数のフェルメールの作品を日本でまとめて見られる機会はなかなかないでしょう。今年前半の、ベラスケス作品が7点出品されたプラド美術館展(国立西洋美術館)のときも思ったのですが、何より関係者の尽力があってのことと思いますし、裏を返せばそれだけの集客が見込まれるということ、美術作品への高い関心が多くの人に共有されていることの証なのだろうとも思います。本展は会期が約4ヶ月と長めになっていますので、是非会場に足を運んでいただければと思います。

 

概要

会期

…2018年10月5日~2019年2月3日

会場

上野の森美術館

構成

第1章 オランダ人との出会い:肖像画 7点
第2章 遠い昔の物語:神話画と宗教画 6点
第3章 戸外の画家たち:風景画 10点
第4章 命なきものの美:静物画 3点
第5章 日々の生活:風俗画 13点
第6章 光と影:フェルメール 9点(期間中の展示入替あり)
…ジャンル別の章立てとなっていますね。特に風俗画が充実していますが、フェルメールの出品作も風俗画がメインなので、同時代の画家たちの作品と見比べつつ、往時のオランダの空気感を味わうことが出来ると思います。なお、フェルメールの作品は第6章でまとめての展示となっています。

フェルメール出品作

1 マルタとマリアの家のキリスト:1654~1655年頃、スコットランド・ナショナル・ギャラリー
2 取り持ち女:1656年、ドレスデン国立古典絵画館(日本初公開、東京会場の展示期間2019年1月9日~2月3日)
3 牛乳を注ぐ女:1658~1660年頃、アムステルダム国立美術館
4 ワイングラス:1661~1662年頃、ベルリン国立美術館(日本初公開)
5 リュート調弦する女:1662~1663年頃、メトロポリタン美術館
6 真珠の首飾りの女:1662~1665年頃、ベルリン国立美術館
7 手紙を書く女:1665年頃、ワシントン・ナショナル・ギャラリー
8 赤い帽子の娘:1665~1666年頃、ワシントン・ナショナル・ギャラリー(日本初公開、東京会場の展示期間2018年10月5日~12月20日)
9 恋文:1669~1670年頃、アムステルダム国立美術館(大阪会場のみ出品)
10 手紙を書く婦人と召使い:1670~1671年頃、アイルランド・ナショナル・ギャラリー
…10点のうち「恋文」は大阪会場のみの出品のため、東京で見ることができるのは9点となります。現存するフェルメールの作品は35点(国立西洋美術館に寄託されている「聖プラクセディス」など作者について意見が分かれる作品を含めると37点)と寡作なのですが、一方で所蔵する美術館はヨーロッパ各国やアメリカに分散しているのが印象的です。同様に寡作であってもベラスケスの作品がプラド美術館に集中しているのと対照的だなと思ったのですが、スペインの宮廷画家だったベラスケスの作品が王家に所有されてきたのと違い、一般の市民層が顧客だったであろうフェルメールの作品は市場を介して様々な人手に渡ってきたことの表れでもあるのでしょうね。

感想

ヤン・ファン・ベイレルト「マタイの召命」

…「マタイの召命」は徴税吏だったマタイが、「わたしに従いなさい」というイエスの呼びかけに応じて弟子となったという聖書の逸話を描いたものです。画面右側に立って指を差すイエスの肩に掛けた赤い布と、画面左側に座り胸に手を当てるマタイの赤い衣が相互に呼応し合っていて、本作の主題の核となる人物であることが示されていますね。振り返ってイエスをよく見ようと眼鏡をずらしている黒い服の男性は金貨を天秤で計っているところですが、新約聖書において徴税吏は罪人と同義であり、ローマ帝国の手先となって同胞のユダヤ人から税を取り立てる憎むべき存在として繰り返し言及されているそうです。キリストを見上げるマタイの仕草や表情には、罪深い自分がキリストの弟子になってもいいのだろうかという驚きや動揺と、選ばれたことを受け入れ、率直に喜びたい気持ちが混ざり合っているように感じられます。マタイの召命はネーデルラントで人気のあった聖書の物語だそうですが、徴税吏だったマタイがイエスに選ばれたことは、利益の追求とキリスト教徒としての道徳の狭間に置かれ、自分たちの仕事に一種後ろめたさを持っていたであろう彼らにとっても救いだったのでしょう。マタイの説得力のある人間的な表現には、当時の市民の思いが重ね合わされているのかもしれません。ところで、この作品のイエスのポーズや、画面手前の男性が身につけている華やかな黄色い服と羽根飾りのついた帽子などは、カラヴァッジョの同名の作品を彷彿させます。強烈な明暗の効果によって劇的な場面を描き出したカラヴァッジョですが、「マタイの召命」においてはマタイを差すイエスの手のみが闇に浮かび上がり、画面右側から差し込む光が左端に座るマタイを照らすことで、罪人であるマタイにスポットライトが当たっています。一方、ベイレルトの作品ではイエスの姿は光のなかにあり、まだ徴税吏であるマタイは影のなかに描くという形で光と影が使い分けられているのですが、いずれの作品でも光は単なる自然光に止まらず、神秘的な現象、神の恩寵を示唆する超越的な光として用いられている点で共通しているとも思います。なお、カラヴァッジョの「マタイの召命」について、長らくマタイは髭を生やして自分を指差す男性だと考えられてきたが、実は最も左端で俯いている若者がマタイであるという議論があるそうです*1。私は宮下氏の意見に同感で、左端の若者がマタイのように思えるのですが、ベイレルトの作品にはカラヴァッジョとほぼ同時代の人々が髭を生やした男性をマタイと見なしていたことが反映されていて、カラヴァッジョのマタイが誰なのか改めて興味深く思いました。

ヘラルト・ダウ「本を読む老女」、ニコラス・マース「窓辺の少女、または「夢想家」」

…聖書を手に取り熱心に読みふける年老いた婦人。ヘラルト・ダウ「本を読む老女」では婦人の被る帽子や羽織った服の襟の毛皮、肌に刻まれた皺、開かれた頁に印刷された文字などが細部に至るまで鮮明に描写されています。当時のオランダ女性の識字率は高く、ほとんどの女性が字を読めたそうですが、婦人が読んでいるのは「ルカによる福音書」19章で、挿絵にはイエスを見ようといちじく桑の木に登っている徴税人ザアカイの元をイエスが通りがかった場面が描かれています。イエスに会ったザアカイは自分の財産を貧しい人々に施すのですが、このエピソードが選ばれているのは鑑賞者に対して吝嗇や蓄財を戒め、この世の財産を貧しい人々と分かち合うよう促すためだと考えられるそうです。婦人は毛皮をあしらった服や宝石の装身具など良い品を身につけていますが、聖書を読む面持ちは生真面目で厳粛であり、キリスト教徒としての自らを省みているのでしょう。当時の人々にとっての道徳的な模範が示された作品だと思います。
…ニコラス・マースの「窓辺の少女、または「夢想家」」に描かれているのは、一転してまだ年若い少女です。赤や茶褐色を主とした温かみのある画面のなかで、少女は窓辺でクッションに肘をつき、顎に手を当てて物思いに耽っています。窓の外に半分だけ身を乗り出しているのは、少女がこれから大人になり、家の外の世界に出ていく狭間の段階であることを示しているのでしょうか。心ここにあらずといったやや憂わしげな表情は、子どもの頃には戻れないといった感傷や、未知の世界への漠然とした不安などを表現しているのかもしれません。窓の周囲を縁取るように描かれたアプリコットや桃の果実と、ふっくらとした瑞々しい少女の頬の丸みや唇の赤みとが呼応していますね。匂いや味の甘さを喚起する熟した果実には官能のイメージもあるでしょう。繊細で甘美な思春期の憂愁が表現された作品だと思います。甘美な「窓辺の少女」と謹厳な「本を読む老女」とは好対照の作品で興味深かったのですが、当時の人々は良きキリスト教徒であろうと務めつつ、生きる喜びを享受することも大切にしていたのでしょうね。なお、ダウとマースは共にレンブラントの弟子で、描かれた人物に独特の気品が感じられるのは師の影響なのかもしれないと思いました。

ハブリエル・メツー「手紙を書く男」

…ハブリエル・メツーの「手紙を書く男」では、上品な身なりの男性が机に向かって熱心にペンを走らせています。机を覆う豪華なペルシャ絨毯や黒い上着の袖口からのぞく白い袖の優美な襞が見事ですね。同時代の男性の肖像画を見ると多くの場合髭を生やしているのですが、髭のないこの男性はまだ若く色白で、まさに白皙の美青年といった容貌です。おそらく労働の必要がない富裕な階層に属する男性は、背後の天球儀に象徴される高い学識も持ち合わせているのですが、一方で背後の壁に飾られている絵に描かれた山羊や、その絵の額縁にあしらわれた鳩は欲望を象徴していて、男性が移り気でもあることを暗示しているそうです。メツーはフェルメールの作品を研究して自作に取り入れていたそうで、窓や机の配置といった構図などよく似ていますね。男性の背後の壁の黄味がかった筋は額縁に当たった光が反射したものでしょうか。本作と対となる「手紙を読む女」でも女性の背後にかけられた鏡やメイドのバケツの持ち手に反射した光が描きこまれているのですが、そうした現象を注意深く観察して再現する姿勢にフェルメールと共通するものを感じます。なお、「手紙を読む女」では、女性の背後に波立つ海を航行する船の絵が掛けられているのですが、「愛は荒れる海のようだ」という喩えを踏まえたもので、恋人たちの行く手に多くの困難がつきまとうことを暗示しているそうです。恋の先行きは不穏なようですね。赤い絨毯にインクの瓶が倒れているにもかかわらず、男性は一心に手紙を書いていますが、教養ある人物もひとたび恋に取り憑かれると他のことは見えなくなってしまうのでしょう。フェルメールに倣った静謐な室内と、嵐のような恋の熱情という対比が印象的な作品だと思います。

ヨハネス・フェルメール「マルタとマリアの家のイエス

…「マルタとマリアの家のイエス」は「ルカによる福音書」10章に基づくエピソードで、食卓にパンを運んでいる女性がマルタ、肘掛け椅子に座る頭上に後光の差した人物がイエス、画面手前で頬杖をついて座り込んでいる女性がマリアです。頬杖は憂鬱、瞑想、怠惰などを象徴するポーズで、給仕に勤しむ姉のマルタはイエスの話に聞き入っている妹のマリアに仕事を手伝うよう注意して欲しいとイエスに頼むのですが、イエスは「マリアは良い方を選んだ」とマルタを諭すという場面です。私などは真面目に働いているマルタにちょっと同情してしまうのですが、目先の現実、日常の雑事に忙しなく追われて内面を疎かにすると自分を見失ってしまうのだから、魂について考えることが大切だということでしょう。当のマリアは姉とイエスが自分の話をしていることにも気付いていないのか、食い入るような目をして思索に集中していますが、知性の感じられる表情に精神の優位性が表現されていると思います。穏やかにマルタを諭すイエスの顔が丁寧に仕上げられているのに比べると、イエスの服やパン、部屋から建物の奥へと続く通路など他の部分は大胆な筆遣いで大まかに塗られているのですが、初期の作品で技法を模索している途上のためかもしれません。しかし、画面の中心、視線が誘導される先にある白いテーブルクロスは最も明るく塗られ、その前にマリアを指し示すイエスの手が描かれる構図は本作の主題を見る人に明示する巧みなものだと思います。ところで「マルタとマリアの家のイエス」について、「現存する限り聖書の題材を扱ったフェルメール唯一の作品」と説明されていて、国立西洋美術館に寄託されている「聖プラクセディス」(1655年)の扱いが気になったのですが、図録のフェルメール全作品解説では紹介されていました。聖プラクセディスは2世紀頃の聖女で、当該の作品は処刑されたキリスト教徒の遺体を清めた聖女が、十字架と共に赤く染まった海綿を握り締め、殉教者の血を器に注いでいる様子が描かれています。「聖プラクセディス」をフェルメールの作品とみるかどうかはまだ定まっていないため、西洋美術館の所蔵品紹介でも「フェルメールに帰属」と記載されているのですが、「マルタとマリアの家のイエス」を唯一の「宗教画」ではなく「聖書を扱った題材」という言い回しで説明しているのは、「聖プラクセディス」を念頭に置いた表現でもあるのでしょう。なお、西洋美術館では、フェルメール展に合わせて「聖プラクセディス」が展示中のようです。

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ヨハネス・フェルメールリュート調弦する女」、「真珠の首飾りの女」、「手紙を書く女」

…窓辺の女性がリュートを抱えて爪弾く「リュート調弦する女」。身支度の途中の女性が、首飾りを掲げて鏡を見る「真珠の首飾りの女」。仄暗い部屋で、女性が机に向かい手紙を書いている「手紙を書く女」。これら三つの作品はフェルメールが1662年~65年頃に手がけた作品です。この時期のフェルメールは構図の似通った単独の女性像を続けて制作しているのですが、中でもこれら三つの作品は、いずれも白い毛皮の縁飾りの着いた黄色い上着の女性が描かれていて、楽器の演奏や化粧、手紙とロマンスを暗示させる主題も共通していますし、連作といかないまでも姉妹のような作品と見ていいのでしょうか。黄色い上着と共にフェルメール拘りのモチーフである真珠の首飾りは、「手紙を書く女」で女性が手元に置きながら手紙を書いているので、恋人からの贈り物と考えることもできそうです。恋を暗示する風俗画は、浮ついた恋や見た目の美しさに囚われることを戒める教訓的な意味合いを含むことがしばしばありますが、いずれの作品からも俗っぽい印象を受けないのは、女性に注がれる眼差しが価値判断を含まないニュートラルな観察者のものであるためかもしれません。特に、「真珠の首飾りの女」では光の差す室内が柔らかなトーンで等しく包み込まれ、女性は本来なら背景であるはずの調度品や漆喰の壁と調和していて一種の静物画のようにも感じられます。あるいは空気や光が女性と同等の存在感を持つとも言えそうで、それが独特の静謐さを生み出しているのかもしれません。また、それぞれの女性が何を見ているのか、その違いも面白いですね。「リュート調弦する女」でリュートを抱えた女性は気もそぞろで、窓の外を見ています。恋人がこれから訪れるところなのか、あるいは帰る姿を見送っているのか、解釈は様々のようですが、いずれにせよ女性の目が追っているのは恋人の姿なのでしょう。光を受ける女性の表情はあまり鮮明ではないのですが、不安と期待に揺れ動いているようにも見えます。一方「真珠の首飾りの女」では、女性は鏡に映る自分自身を見ています。首飾りを当てて服と合っていること、あるいはそれを身につけた自分の姿を確かめているのでしょう。恋をすると綺麗になるとよく言われますが、女性が見ているのは高まる恋に昂揚する自分自身であり、夢のような心地に微笑んでいるのだろうと思います。そして、「手紙を書く女」では女性は画面のこちら側、鑑賞者を振り返っています。女性と目が合うためか、部屋の扉を開けて、手紙が書き上がったかどうか様子を見に来たメイドのような気分にもなりますね。女性の微笑みは喜びが滲んでいる「真珠の首飾りの女」よりも控えめで、聡明な印象が上回ります。あるいは、小首を傾げてやや上目遣いに微笑みかけてくる女性は、彼女を見つめる人に対して恋しい人はいるのか、あなたはどんな恋をしているのかと問いかけているようでもあります。女性は人の心に眠っているささやかな情熱の象徴であり、机上の手紙に綴られるのは見る人自身の物語である…と想像するのも面白いかもしれません。

ヨハネス・フェルメール「牛乳を注ぐ女」

…画面左手の窓から光が差し込む明るい室内。窓辺に置かれたテーブルのそばで、黄色い胴着(ボディス)に青いエプロンを着けた女性がミルクの瓶から鉢に牛乳を注いでいます。テーブルの上には細かく分けられたパンが置かれていますが、実はかなり固くてそのままでは食べられないため、女性はパン粥を作っているのだそうです。パンや籠の描き方は「マルタとマリアの家のイエス」に比べるとかなり緻密に見えるのですが、実は印象派のような点描が用いられていて、数年のあいだに技法が大きく変化していることが分かります。目は、薄暗い場所で太陽に照らされたものを見ると、光を斑点や粒子として認識するのだそうですが、フェルメールの技法の変化は単に絵を描くのではなく、知覚の特性を意識してその再現を追求した成果でもあるのでしょう。窓の向きは不明ですが、光の色合いが白っぽく感じられるので時間帯は朝でしょうか。女性の背後、右側にある木の箱は足温器だそうですから冷え込む季節なのかもしれません。「牛乳を注ぐ女」は長年オランダの美徳の手本を表したものとみなされてきたそうですが、まくった袖から見える女性の腕は寒い中で水仕事をしたのか半ばから指先にかけて赤くなっていて、辛い仕事も厭わず勤勉に励む姿を印象づけています。ところで、この牛乳を注ぐ女性はフェルメールの「デルフトの眺望」にも小さく描かれているそうです*2

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「デルフトの眺望」の画面左下、川岸で言葉を交わしている二人の女性のうちの一人ですが、似ていないこともない…でしょうか(笑)。でも、そう思ってみるとこの女性が単なる美徳の象徴ではなく、地に足の着いた存在である感じがしますね。フェルメールが風景の細部まで描き込んでいたことに驚きますし、黄金時代のオランダで繁栄する都市の片隅に暮らす小さな存在、名も無き人物像でもフェルメールにとっては生きた人だったんだろうなとも思います。そうした感覚が、この作品にも通底しているのかもしれません。簡素な庶民の台所を舞台に牛乳を注ぐという、毎日繰り返されるごく平凡な一場面があたかも神聖な儀式であるかのように静謐さと威厳を持って描かれている作品だと思います。

その他…会場内の様子、混雑状況など

フェルメールの作品が10点も出品されるということで、チケットは日時指定入場制での販売となりました。指定の時間帯であればいつでも入場可能なのですが、私が見に行った時は美術館の外に並んで20分ほど待ちました。ただし、最初こそ行列の長さに驚いたものの、入場が始まると進み方は早くて、思ったほど待たずに入場できました。あとはタイミングによるでしょうか…各時間帯の開始前後ぐらいが一番混み合うかもしれませんね。また、時間帯による入れ替え制ではないため自分のペースで鑑賞することが可能で、のんびり眺めるのは難しいにせよ、同じ上野の森美術館での「怖い絵」展(2017年)よりは作品を見やすかったように感じました。チケットの値段は一般的な展覧会より高めですが、入場者全員に音声ガイドが提供され、作品解説のガイドが配布されるなどその分サービスも良かったです。美術鑑賞を楽しみにしている一人として、美術に興味を持つ人が増えること、展覧会が賑わうことを喜ばしく思う反面、あまりに混雑して作品を見るにも一苦労という状態はやはり疲れてしまい、悩ましいものも感じます。鑑賞者もですが、対応するスタッフの方も大変でしょうし、今後は混雑対策としてこういう方式が増えていくのかもしれませんね。個人的な反省点なのですが、実は7月下旬に入場券が発売になって早速10月の連休の入場券を購入したところ、その後連休に別の予定が入ってしまって、一時はチケットをふいにするのもやむを得ないと諦めかけてしまいました。結果的には、どうにか時間をやり繰りして見に行くことができたので良かったのですが、いったん購入したらキャンセルできませんから、あまり早々と買ってしまうとあとで困ることもあるんだなと反省した次第です。すでに図録付入場券はほとんど完売しているようですが、通常の入場券であれば今のところ前日、あるいは当日券でも購入できるようなので、展覧会公式のツイッターアカウントの情報などを確かめながら、焦らず都合のつく時に見に行くのが良いのではないかと思います。

*1:宮下規久朗『カラヴァッジョへの旅』新潮選書、P70-75

*2:美の巨人たち」2016年5月21日放送