展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

ロマンティック・ロシア 国立トレチャコフ美術館展 感想

見どころ

…この展覧会は、ロシア最大の国立美術館であり、11世紀から現代に至るロシアの美術作品を所蔵するトレチャコフ美術館のコレクションのうち、19世紀後半から20世紀初頭を代表する画家たちの作品72点によって構成されています。
…トレチャコフ美術館の創設者であるパーヴェル・トレチャコフ(1832-1898)は紡績業で財を成した実業家で、同時代のロシア美術、とりわけ移動展覧会協会(移動派)の作品に強い関心を抱き、積極的に作品を収集すると共に、画家たちと親交を結びました。移動派とは芸術上の理想をヨーロッパや古典古代芸術が持つ技巧や規範に求めるアカデミー派に対抗して、芸術による民衆の啓蒙を目指し、社会の現実をリアリズム様式によって捉えた作品を制作した流派で、「忘れえぬ女」を描いたクラムスコイをはじめ、レーピン、レヴィタン、シーシキンなどが参加しています。本展は移動派を初めとする創設者パーヴェルとほぼ同時代の画家たちの作品が中心であり、美術館のコレクションの根幹を成す作品によって構成されているとも言えそうです。
…この展覧会の特徴は、風景画が多いことだと思います。日本には四季がある、四季の変化がはっきりしていることが特徴としばしば言われることがありますが、この展覧会を通じて春の洪水や夏の白夜、冬の樹氷などロシアならではの四季、そして広大な空と平原が印象的な透明感のある風景というロシアならではの自然の美しさを感じることができました。一方で、季節ごとに表情を変える自国の自然への愛着――必ずしもそこに住む人々にとって暮らしやすいものではなく、時に過酷なものであっても――という点は、いずれの国にも共通しているのではないかとも思います。
…ロシアの美術館のコレクションによる展覧会はエルミタージュ美術館展(2017年、森アーツセンターギャラリー)やプーシキン美術館展(2018年、東京都美術館)など、ここ最近でもしばしば開催されているのですが、出品作はフランスやイタリアなど他国の画家の作品がメインでした。私自身のタイミングの問題なのでしょうが、これまでシャガールカンディンスキーなど個別の画家や作品に触れる機会はあっても、ロシア美術を俯瞰するような展覧会にはなかなか巡り会うことが出来ずにきたので、今回そうした個人的な念願も叶い、新たに数多くの画家や作品を知ることが出来て良かったです。

概要

会期

…2018年11月23日~2019年1月27日

会場

…Bunkamura ザ・ミュージアム

構成

 第1章 ロマンティックな風景
  1-1 春
  1-2 夏
  1-3 秋
  1-4 冬 
 第2章 ロシアの人々
  2-1 ロシアの魂
  2-2 女性たち
 第3章 子供の世界
 第4章 都市と生活
  4-1 都市の風景
  4-2 日常と祝祭
…ジャンル別の章立てで、特に風景画が充実しています。これは美術館の創設者であるトレチャコフが、風景を通じて母国の風貌に親しむことができるだけでなく、人間の内面に対する理解も深めることができるという確信に基づいて、ロシアの風景画家の作品を非常に熱心に収集したためだそうです。年代順でも作家別でもなく、四季ごとに作品を並べるというのはあまり例のない面白い展示の仕方ですが、それぞれに個性的な各作品に共通するロシアの風土の特徴を感じ取って欲しいのかもしれません。また、人物を描いた作品のうち、子供を描いた作品を分けたのも興味深いです。農家の子供たちの遊びを描いた「小骨遊び」や村の市場に並ぶ多才な民芸玩具が印象的な「おもちゃ」などは風俗画としての側面も窺われます。全体を見渡してみると、風景、人物、風俗、また風景の中には花の静物画も含まれていて、この中にないのは歴史画・宗教画ということになりますが、たとえば「忘れえぬ女」を描いたクラムスコイは「荒野のキリスト」という宗教画を手がけ、これがトレチャコフ美術館に所蔵されています。また、トレチャコフ美術館はイコンについても膨大なコレクションを有しているので、宗教美術にも関心を払っているんですね。今回の展覧会ではそうした作品は展示されていませんが、ロシア正教はロシアの人々に深く根付いていて、例えばワスネツォフの「祖国」と題された風景画の中で遙か地平線上に立つ聖堂のように、大きく描かれなくとも常にひっそりと息づいているのだろうと思います。

感想

アレクセイ・コンドラーチエヴィチ・サヴラーソフ「田園風景」

…サヴラーソフ「田園風景」はモスクワ近郊の風景を描いた作品で、鳥が舞う広々とした空の下、なだらかな丘陵には淡い緑の草原と耕されて黒々とした耕地がパッチワークのように連なっています。画面左下には円筒形の蜜蜂の巣箱が並んでいて、その手前で男性が焚き火をしていますが、おそらくお湯を沸かして砂糖を煮溶かし、蜂の餌となる砂糖水を作っているところではないかと思います。一帯が雪に覆われる長い冬のあいだ、老養蜂家も蜂たちの世話を欠かすことが出来なかったでしょう。しかし、巣箱の背後では春風に撓むリンゴの枝に桜のような白い花が咲き始めています。暖かくなって周りの木々や野の草花が咲き出せば、蜂は花から蜜を集めることができるようになるのでしょうね。冬の終わり、春の兆しを優しい光に包んで描いた、牧歌的な情趣に富む作品だと思います。

イサーク・イリイチ・レヴィタン「春、大水」

…川から溢れた大水に浸かった白樺の林。針のように細く頼りない幹が、早春の薄雲に覆われた空へと伸びています。波のない澄んだ水面に映りこんだ樹影は水上の木立と切れ目なく繋がっていて、冷たい水の底に向かって生えているようにも見えます。ロシアでは洪水が春の風物詩だというのは今回初めて知りました。広大なロシアを流れる大河は、厳しい冬のあいだ凍りついて分厚い氷に覆われてしまうのですが、春になって溶け出す際に分解した氷の塊が河を途中で塞いでしまうため氾濫が起きるのだそうです。画面左下では岸辺に小舟が浮いていますが、遠くに見える水の中に取り残された家の住人が、こうした舟で陸地と行き来しているのかもしれません。本作の主題は災害ではあるのですが、自然の猛々しさよりむしろ白樺の林を包む静寂と水や空気の透明感の方が印象的です。この水が引く頃には、きっと白樺の枝にも緑が芽吹いているのでしょう。繰り返される厄介な現象と待ち望んだ春の訪れとは一体のものであり、両義的な側面を持つ自然に泰然と向き合っているように感じられる作品です。

コンスタンチン・ヤーコヴレヴィチ・クルイジツキー「月明かりの僧房」

…クルイジツキー「月明かりの僧房」では影が出来るほど明るい夏の月夜、白い外套を着て杖を持つ巡礼が、礼拝堂の前のベンチに座る黒衣の聖職者と言葉を交わしています。巡礼ですから礼拝のために訪れたのか、一夜の宿を求めているのでしょう。一方の僧侶はこの地にひっそりと隠棲していたのか、白い六端十字を掲げた簡素な礼拝堂は屋根や木の柵の随所が傷み、訪れる人も稀なように思われます。画家の故郷はウクライナで、この作品もキエフ近郊で描かれたそうですが、19世紀後半にはまだこうした素朴な情景が見られたのでしょうか。時の流れ、社会の変化から取り残されたような古びた僧房は、生い茂る背の高いポプラの森に飲み込まれて遠からず老聖職者と共に朽ちていくのかもしれません。神秘的な青白い月光が夜の静寂を一層深めている作品だと思います。

イワン・イワーノヴィチ・シーシキン「正午、モスクワ郊外」

…夏雲の湧く晴れた空の下、金色に実った麦畑のあいだの道を歩く人々。シーシキンの「正午、モスクワ郊外」は縦に長い画面が特徴で、それが空の大きさ、雲の高さを一際強調するようです。農具を携えた人々は朝からのひと仕事を終え、これから家に戻って昼食を取るところなのでしょう。人物は小さく表情は分かりませんが、夏の日差しに照らされた風景は全体の色調が明るく、彼らは楽しげに語り合っているように感じられます。泥濘るんだ道に残る轍は、アルヒーポフの「帰り道」に描かれているような馬車が通った跡なのかもしれません。道の先にはなだらかな緑の丘が地平線まで続いていて、川の水面や煙の立ち上る家、そして聖堂の鐘楼が小さく描かれていますが、こうした広々とした牧歌的な風景こそロシアの自然のイメージそのものだそうです。素朴な田園で営まれる穏やかな情景が見る人の心に安らぎを与える作品だと思います。また、本作は美術館の創設者であるトレチャコフが最初に購入したシーシキンの作品とのことですから、きっとトレチャコフにとっても自らの理念に適った作品だったのでしょう。

グリゴーリー・グリゴーリエヴィチ・ミャソエードフ「秋の朝」

…ミャソエードフ「秋の朝」は画面を金色に染める一面の黄葉がまず目に飛び込んできます。しかし、よく見ると視界に張り出す木々の枝一本一本、葉の一枚一枚まで丁寧に描かれていて、非常に緻密な作品であることが分かります。まるでクールベのようですね。朝の森に生き物の気配はなく、小川の流れは落ち葉に埋もれて淀み、梢の葉を揺らす風さえも途絶えて、黄葉の華やかさが辺りの静寂を一層深めているようにも感じられます。ミャソエードフは移動展覧会教会の創設者の一人で、写実主義の熱烈な支持者だったそうですが、妥協を許さない厳密な描写の中にも、ひっそりと物寂しい秋の気配が感じられる作品だと思います。

イワン・シルイチ・ゴリュシュキン=ソロコプドフ「落葉」

…一方、同じ秋でも、ゴリュシュキン=ソロコプドフの「落葉」では落ち葉の冠を被る女性に擬人化された象徴的な秋が描かれています。女性と植物という取り合わせがアールヌーヴォー風だなと思ったのですが、ゴリュシュキン=ソロコプドフは副業として広告ポスターの制作も手がけていたとのことで納得です。秋風に舞い散る落ち葉の中に佇み、長い髪をなびかせている女性の青白い横顔は、女性の纏う服の紫色とも相まってミステリアスでどこか物憂げに見えます。日本語にも「秋思」という言葉がありますが、憂愁の季節という秋のイメージが国を問わず共通していることを興味深く思いました。

ワシーリー・ニコラエヴィチ・バクシェーエフ「樹氷

…夜のうちに雪が降ったのでしょうか。バクシェーエフの「樹氷」では雲のない乾いた青空のもと、すっかり凍りついた樹氷の森が日差しの色に染まっています。僅かに見える地面と樹の幹のほかは一面白い雪に覆われていますが、青や灰色、茶色、そしてバラ色が混じりあって多様なニュアンスの白が描き分けられています。強い風が吹いたり、新たに雪が降り積もるごとに変容する儚さに魅了されたのか、バクシェーエフは樹氷に包まれた木々というモチーフを繰り返し描いたそうです。しかし、実はロシア美術において冬の風景画はそれほど多くないとのことで、雪と氷の国というイメージを持っていただけに意外な気がしました。冬が長く過酷な分、暖かな季節を求める気持ちが強いのかもしれないですし、厳しい寒さや深い雪のために外でスケッチしたりするのも大変なのかもしれませんね。冬は人も動物も寒さに身を潜めて閉じこもりたくなるものですが、そんな季節にも自然がもたらすその季節ならではの美が存在し、見ることに貪欲な画家たちを惹きつけるのでしょう。

イワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイ「忘れえぬ女」

…馬車の上から首を傾げてこちらを見下ろす、洗練された装いの若く美しい女性。彼女と目が合ったのは、こちらが思わず彼女を見つめてしまったからでしょう。本作の原題は「見知らぬ女」なのですが、名も知らぬ女性から鮮烈な印象を受けたという物語を想像させるような「忘れえぬ女」という日本での呼称も、なかなか核心を突いていると言えそうです。冷たい冬の靄が立ちこめるサンクトペテルブルクの街並みがベージュがかった色合いで薄ぼんやりと霞んでいるのに対して、女性の姿がそれだけにピントが合っているかのようにクリアに、上着を縁取る毛皮やリボンの光沢、繊細な羽根飾りなどの質感まで緻密に描写されているのも、視覚的な正確さであるより心理的なリアルさの表現なのかもしれません。通りすがりに美女を見かけるという場面は一見ありそうなのですが、当時のロシアでは女性が幌を上げた馬車に一人乗りすることはなかったそうで、実は非常に大胆な行動なのだそうです。当然ながらこの美しい女性のモデルは誰なのか、彼女の大胆な行動にどんな意味が込められているのか知りたくもなりますが、発表当初から様々な解釈がなされつつも定まった説はないようです。おそらく特定のモデルを想定して描いたというより、匿名の存在、普遍的な女性の像の一つとして描かれたのではないでしょうか。画家、そして鑑賞者に向けられた黒目がちの瞳と、ふっくらとした唇のカーブが作り出す口元の表情は艶然と誘いかけているようにも見えますし、冷ややかで挑発的にも見えるのですが、官能的でありながら近寄りがたいという相反する印象が混じり合っていることが本作の最も大きな魅力の一つであり、モデルの秘密と相まってこの謎めいた女性に見る者を惹きつけて止まないのでしょう。

フィリップ・アンドレーエヴィチ・マリャーヴィン「本を手に」

…マリャーヴィン「本を手に」では、膝に置いた本を開いたまま横を向いている若い女性が描かれています。画家に対してそっぽを向いているようなポーズが新鮮ですが、横を見ているのは誰かに呼ばれたのか、それとも何か気になるものが目に入ったのでしょうか。壁に映った影によって輪郭が際立つ横顔はすっきりとした鼻梁やしっかりとした眉が印象的で、眼差しからは意志が感じられます。本作はマリャーヴィンが美術学校の学生だった時期に描かれたもので、モデルの女性はマリャーヴィンの妹だそうですが、画家は浅黒い肌や化粧気もなく無造作に髪をまとめた妹の飾り気のない姿を美化せず率直に捉えています。同じ若い女性でも都会的で洗練された「忘れえぬ女」とは対照的な身近さがありますが、本という持ち物と個性的な容貌が女性の知性や品位も感じさせる肖像画だと思います。

オリガ・リュドヴィゴヴナ・デラ=ヴォス=カルドフスカヤ「少女と矢車菊

…デラ=ヴォス=カルドフスカヤ「少女と矢車菊」では、木漏れ日の落ちるテラスの階段で、白い夏服のスカートに矢車菊を広げている少女が描かれています。鮮やかな青紫の花弁が少女の服や髪のリボンと呼応していますね。青い絵具を交えた日陰の表現やまだらな木漏れ日の表現などが印象派的だなと思いました。少女はおそらく家の庭で摘んだ矢車菊で花冠を作っているところなのでしょうが、少しぼんやりとした面持ちで俯いている様子からは、花がその花の形をしていることの不思議に見入っているようにも思われます。デラ=ヴォス=カルドフスカヤは1917年に美術アカデミーの会員に推薦された(その後ロシア革命が勃発したため投票は成立しなかったそうです)最初期の女性画家の一人で、本作のモデルは彼女の娘だそうですが、母親の注意深い眼差しは、本来なら見過ごしてしまいそうなありふれた一場面に気が付いたのでしょう。また、自然体の少女の姿から、少女にとっても母が子供を描くことが特別ではない、日常の一部であったように感じられます。穏やかな情景に母と子の親密さが窺われる作品だと思います。

ニコライ・ドミートリエヴィチ・クズネツォフ「祝日」

…19世紀のロシアでは、祝日に民族衣装を着る習慣が民衆のあいだに残っていたそうです。衣装には各地域ごとに伝統があり、ウクライナの女性の場合はクズネツォフの「祝日」に描かれている通り、刺繍のあしらわれた白いシャツにスカートと同色のブーツというものでした。緑の草原に寝転ぶ少女の袖を彩る可憐な花模様が、あたかも草原に咲いているように見えますね。大地に背中を預けて、全身に日差しを浴びる少女の姿は日光をエネルギーに生長する植物のようであり、少女の周りに咲き乱れ、生い茂る草花は若々しい少女の宿す旺盛な生命力がそのまま外に溢れ出たようにも見えます。人と植物、あるいは人と自然との敷居がなくなり繋がり合って、生きとし生けるものの根源的な一体感が感じられる作品だと思います。

その他…会場内の様子、混雑状況

Bunkamuraザ・ミュージアムの改修後、最初の展覧会となりましたが、これまでとチケットの確認方法が変わって、入口で前売券を提示すると引換券と交換されるという方式になりました。会場自体は今までと大きく変わってはいません。私が見に行ったのは12月の第2土曜日でしたが、混雑はなく落ち着いて見て回ることができました。作品数は70点余りで中規模の展覧会ですが、全ての作品に解説があるので、音声ガイドも使用しながらじっくり見ていくと2時間程度かかると思います。