展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

青山昌文『芸術は世界の力である』 感想

…展覧会の感想ではないのですが、面白そうだなと思って最近読んだ本の概要と感想です。

…青山昌文氏は放送大学の教授で、『芸術は世界の力である』は放送大学の講義に使われる印刷教材の一部を全面的に改稿し、取り上げる作品の多くも新たなものに差し替えて執筆したものだそうです。放送大学の印刷教材は図版がないのですが、こちらは一般の読者も想定した書籍で、本文中に取り上げられる作品が口絵にカラーで掲載されています。目次は下記の通りです。
 第1章 《ヴィーナスの誕生》に魅せられて
 第2章 システィーナ天井画のスーパーパワー
 第3章 《アテネの学堂》と《パルナッソス》の深い意味
 第4章 《ポンパドゥール夫人肖像画》のあでやかさ
 第5章 《食前の祈り》の深い静けさ
 第6章 《サン・マルコ広場:南を望む》の素晴らしさ
 第7章 《リュート弾き》の幻惑的な迫真性
 第8章 《ミロのヴィーナス》のセクシュアルなたたずまい
 第9章 パルテノン神殿のたおやかな肉体性

…青山氏は、芸術は「世界」の表現であり、人間の主観を超える大きく高い存在であると述べています。これには二つの面があります。一つ目は、芸術はそれを作り出す人間の主観を超える存在であるということ。芸術家は自分自身の中に芸術の源を持ってはいるのではなく、「何か凄いあるもの」に遭遇してそれから力を受け取り、その力を作品の内に込める。それによって作品が力を持ち始め、その力によって芸術作品を味わう人が動かされ感動するのだということです。青山氏は上述の「何か凄いあるもの」を「世界」と呼び、芸術は芸術家の内面の自己表現ではなく、作品に描かれている存在の本質とともに、その存在が生きている社会の本質を表現するものであるとしています。私自身の経験を振り返ってみると、これまで見た印象深い多くの作品の中で、「世界」が表現されていると感じた作品としてすぐに思い浮かぶのはピーテル・ブリューゲル1世の《バベルの塔》(2017年、東京都美術館)なのですが、そうしたものが表現されている作品が優れた作品なのですね。

…もう一つは、それを見る人間の主観を超える存在であるということ。芸術とは、それを見る人が自分の主観で感性的に心地良いか良くないかを決めてしまうことで、その美を断定出来てしまうような、人間の勝手になる小さな存在ではなく、美の魅力を味わうには、芸術作品がどのような原理によって生み出されているのかという知識が必要であり、芸術作品が発しているパワーを受け止める体勢を整えておく必要がある。素晴らしいものは本格的なものであり、謙虚さと敬意を持って知ろうとする努力が欠かせない、手軽には手に入らないということです。一目見ただけですごいと感じる作品もありますが、中にはよく分からなかったり、困惑したりする場合もあります。でも、自分の知識不足で分からないというのは勿体ないですし、むしろ分からない作品に出会ったときこそ新たな世界が広がるきっかけになるかもしれません。やはり見る側も努力が必要なんですね。こうして芸術家と鑑賞者の両者の条件が整うことで、私たちは作品に込められた世界の根源的なパワーによって今までとは別の次元に運ばれてゆく経験ができるのであり、芸術は世界の力であると言えるのだそうです。

…青山氏の意見の背景には、芸術とは画家の自己表現であり、作品の価値判断は見る人の主観によるとするような近代以降の通俗的な主観主義、自己中心主義への批判があります。画家の「主観」が入り込んでいるから良い、画家が画面構成を「主体的に」考えて対象を画家の立場から「再構成」している点で画家の「個性の表現」となっているから芸術であるとする考え方に対して、青山氏は少なくとも18世紀までの古典芸術には当てはまらない、最も正統的なあるべき絵画の姿とは、存在の本質が表現されていて「あたかも、そこに、そのものが存在しているという感覚を、強くあたえる力を持っている」ことだと述べています。また、芸術は実在にかかわるものであるが故に実在の諸性質を帯びるのであり、(主観が捉えた対象ではなく)実在に深い関心をもつことが芸術に深い関心を持ち、芸術に心を動かされることにつながるとしています。「感想」という当ブログのタイトルそのものがもう主観なので、言葉もないのですが…。芸術作品について、思ったことを自由に言ったり書いたりしなさい、というのは一見芸術に対する敷居を低くするようですが、何の手がかりもない状態では何を見たら良いのか、どう感じたら良いのか戸惑うのではないかとも思いますし、芸術を味わうならやはりそのための知識が必要だと思います。また、私もほとんど無意識に画家の主観や個性が作品に反映されていることを良しと判断してしまいがちなので、特に古典芸術を見るときは注意しなければと思いましたし、何より自分が無意識の先入観を持っていること、何気ない感覚や印象も、そうした先入観に左右されている場合があることを意識しなければと思いました。一方で、私は19世紀以降の芸術作品も好きなのですが、青山氏は19世紀以降の美術についてどのように考えているのか知りたいとも思いました。

…本書の中で解説されている作家・作品のうち、特に興味深かったのがカナレット(アントーニオ・カナール)と《ミロのヴィーナス》です。カナレットは「多くの場合、一枚の絵を描くにあたって、二つ以上の視点の異なるデッサンを統合している」そうですが、「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」(2018年、国立新美術館)で(本書とは異なる作品ですが)作品を目にしたときは分からなかったんですよね。複数の視点からなる景観をそれと分からないほど自然に一点透視画法によって統合し、現実には一目では見渡せないような広々と遙か遠くまで見渡せる景観を一つの画面に実現している、いわば現実に基づきながら現実を超えているのがカナレットの作品のすごさなのだそうです。有限な視覚を超越したパースペクティブは、生粋のヴェネツィア人だったカナレットの脳裏に蓄積された愛する都市の最も美しい姿の結晶と言えるのかもしれません。

…《ミロのヴィーナス》については、「《ミロのヴィーナス》のセクシュアルなたたずまい」という章題にまず意表を突かれます。実はこの像の女神は衣服が落ちそうなのを両足で挟んでとどめている「人間的な」ポーズをしていて、神の威厳を感じさせる古代ギリシャの古典期に作られた堂々たる裸体像とは決定的に異なっているのだそうです。言われてみればその通りなのですが、芸術作品に対して生々しい性的な魅力を感じたとしても、通常はそこにとどまらずにより奥深いテーマ、目的を探ることが大事だからとあえて気に留めることはなく、そのため逆に見落としていたことに気づかされました。実は《ミロのヴィーナス》が作られたのはギリシャ文明の基礎であったポリスが根底から崩壊したヘレニズム時代で、セクシュアリティはポリスや神々といったギリシャ文明の本質的な理念が失われた後の普遍性の一つとして芸術作品の前面に現れるようになったのであり、女神の姿にはそうした当時の社会の本質が表現されているのだそうです。本書第8章では《ミロのヴィーナス》と共に《うずくまるアプロディーテー》が取り上げられていて、ルーベンス展(2018年、国立西洋美術館)でいくつも目にした、我が身を庇い隠すようでいて、その豊満さをあえて強調するように身体をひねった独特のポーズの女性像を思い出しました。ルーベンスはイタリア滞在中に古代彫刻を数々目にしたことと思いますが、作品の持つ魅力の本質を正確に見抜いていたのでしょう。ルーベンスは画家としては言うまでもないのですが、作品を見る目も鋭く優れていたのだと思いました。