展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち 感想

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見どころ

…「ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち」は19世紀末の象徴主義を代表する画家ギュスターヴ・モロー(1826~1898)の画業のうちでも中心的な主題、男性を魅了、支配し、それゆえに破滅をもたらす宿命の女(ファム・ファタル)を描いた作品に焦点を当てたものです。絵画作品は全てギュスターヴ・モロー美術館所蔵のモローの作品で、東京展の出品数は69点ですが、そのうち油彩画は44点と充実した内容になっています。
…モローと言うと代表作の一つ「出現」に描かれたサロメが思い浮かびます。この展覧会ではモローによるサロメを主題とする作品だけで一章が割かれていて、同じサロメでも作品によって無垢で可憐であったり、神秘的で妖艶であったりと、表現の違いが感じられて興味深かったです。また、歴史画家を自認していたというモローは神話や聖書に登場する様々な女性たちをドラマティックに描いていますが、今回の展覧会にはモローが身近な女性たちを描いた素描も出品されています。モローは宿命の女を好んで主題に取り上げましたが、実生活で関わりの深かった女性たち、母や恋人はむしろ正反対の献身的で善良な女性たちだったというのも人の心の不思議を感じました。
…会期初日の午後に見に行きましたが、落ち着いて作品を近くでじっくり見ることが出来ました。ただし会場が小さめであることと、素描など小型の作品も多いため、混雑しているとやや作品を見づらいかもしれません。音声ガイドはありませんが、展示作品のほとんどに解説文があります。また、ルオー作品のコーナーは特別展に合わせてモローに因んだ内容になっていました。モローに師事したルオーはモロー美術館の初代館長も務めていますから、そうした縁もあって今回の展覧会開催に繋がったんでしょうね。比較的小規模な展覧会のため、所要時間は60分程度でした。

 概要

【会期】

…2019年4月6日~6月23日

【会場】

パナソニック留美術館

【構成】

 第1章 モローが愛した女たち
 第2章 《出現》とサロメ
 第3章 宿命の女たち
 第4章 《一角獣》と純潔の乙女

panasonic.co.jp

感想

*作品名のあとの数字は図録番号です。

「パルクと死の天使」(1890年頃、№33)

…今回の出品作を見てみて、モローの作品は人物の表情をクローズアップで描いたものは少なめで、建物や風景など広い空間の中で人物を描いている場合が多いと感じました。モローは歴史画家を自認していたそうなので、場面全体を描くことで主題の物語を表現しているのでしょう。また、モローの描く女性たちは概ね個性的であるより理想化されて普遍的な容貌をしているように思います。そうした謂わばパブリックなモローの作品に対して、母や恋人など身近な女性たちを描いたプライベートな作品を見ると、彼女たちは個性的で生活感があり、距離の近さやくだけた親密さが感じられました。
…しかし、1884年に母ポーリーヌ・モローが、1890年に恋人アレクサンドリーヌ・デュルーが世を去り、残されたモローは大きな痛手を受けました。「パルクと死の天使」(1890年頃、№33)は心の拠り所を失った中で描かれた作品で、モローは愛する者を奪った無情な運命を自身の感じるまま率直に、禍々しく恐ろしい姿で描いています。沈む太陽を背に、夜の闇に包まれつつある荒野を進む死の天使。その馬の手綱を取るのは冥府に属する運命の女神パルクの一人で、運命の糸を断ち切るアトロポスです。馬上から鑑賞者を見下ろす天使の表情は窺えませんが、左手で掲げているのは剣でしょうか。不吉な赤い翼は血の色のようでもあり、黒や暗い青などを主とする画面のなかでひときわ鮮烈に感じられます。モローの作品というと幻想的で優美、妖艶といったイメージがありますが、この作品はそうしたイメージとは全く異なる迸るような激しさや荒々しさを感じさせる色彩とマティエールで描かれていて、モローの喪失感の大きさや悲嘆の激しさなど、強い感情が込められているように思いました。

サロメ」(1875年頃、№45)、「出現」(1876年頃、№62)

サロメ、ことに「出現」(№62)はモローの代名詞と言って良いほどですが、今回は暗い背景に浮かび上がるすらりとした白い肢体が美しいサロメ(№99)や、意味ありげな横顔のサロメのアップ(№104)など、これまで見たことのなかった作品も見ることが出来ました。モローのサロメは単に男性に破滅をもたらす悪女というだけでなく、時に無垢な少女であったり、力強かったり、妖艶であったりと作品ごとに様々な表現がなされているのですが、モローにとって一種神秘的にも感じられたのであろう女性の多面性が、サロメの物語とうまく噛み合って想像力を大いに刺激されたのかもしれません。特に「ヘロデ王の前で踊るサロメ」の習作として描かれた白い衣装のサロメ(№45)と出現のサロメ(№62)とは、同じサロメでありながら祈るサロメと対峙するサロメという対比が鮮やかに感じられました。前者のサロメは、何枚もの布を複雑に身体に巻き付かせた東洋風の衣装を纏っていますが、これはモローが彼女を「神秘的な性格を持った巫女のような、宗教的な魔術師のような人物」にするために作り出したものなのだそうです。確かに、花を手に目を伏せて祈るように佇むサロメは、母ヘロデアに唆されて洗礼者ヨハネを処刑するようヘロデ王に迫る悪女ではなく、純潔な巫女であり、可憐な少女に見えます。神事や祭礼において神に奉納する舞いや踊りはしばしば忘我をもたらすものですが、このサロメは自分の願いを叶えるために一心に祈っているのではなく、巫女として、自我を無にして神の依り代になろうとしているのでしょう。しかし、同じサロメでも「出現」のサロメは、現れたヨハネの首を強い視線で見返し、まっすぐに指さして対峙しています。床に血溜まりのみが残されたなか、ヨハネの首が宙に浮かんでいる図像が強烈で目を引きつけますが、現実の光景ではなく幻影または象徴であり、ヨハネの精神が現れたものと考えられます。ヨハネは官能の源泉である肉体を失うことで魂が肉体から自由になり、純粋に精神的な存在になることで聖人として完全な存在になったとも言えそうです。対するサロメはしっかりと地に両足をつけ、肉体を持つ存在=地上的、現実的な存在であることが表現されています。両者の間のただならぬ緊張感は、人間の持つ精神と肉体、神への愛である信仰と肉体的な性愛、永遠不滅の霊魂と死と生殖による再生を営む有限な個体との間にある緊張を示唆していると考えられます。ヨハネの頭部から発する霊的な光輪とサロメの戴くきらびやかな王冠は対になっていて、両者は共に尊重されるべき存在であることが分かりますが、虚空に浮かぶヨハネのほうがサロメより高い位置にあり、より高次元の存在であることを示しています。この作品ではサロメヨハネに向かって手を伸ばしていて、能動的主体的な宿命の女として描かれているように感じられますが、サロメから差し伸べられている手は官能への誘惑と聖なるものへの憧憬という両面があるのではないでしょうか。しかし、ヨハネサロメに応じる腕はなく、介在し得るのは精神の愛のみです。飛躍した想像ではありますが、サロメはヘロデアの望みを叶えたのではなく、ヨハネの望みを叶えた、あるいは神の意志を実現させたのかもしれないと思いました。

「セイレーンと詩人」(№119)、「死せるオルフェウス」(№117)

…この展覧会のテーマである女性ではないのですが、個人的にはモローの描くオルフェウスの表現が印象に残りました。
…「セイレーンと詩人」(№119)はタピスリーための油彩下絵として描かれた作品で、海底の洞窟で魚か蛇のような尾を持つ怪物セイレーンが竪琴を背負った詩人の頭に手を置いています。女性が男性の頭に手を置くポーズは「ヘラクレスとオンファレ」(№115)にも見られるもので、女性による男性の支配を印象づける構図です。セイレーンは目を見開いて足元で蹲る詩人をじっと見下ろしていますが、詩人の顔からは血の気が失せ、死んだように目を閉じています。詩人ということでオルフェウスのバリエーションでもあるのでしょうか。ギリシャ神話にはオルフェウスがイアソン率いるアルゴー号での航海中、乗員を誘惑しようとするセイレーンに対抗して歌い、乗員を救ったというエピソードもあり、歌声で船乗りを惑わせて引き寄せ、命を奪うセイレーンと、歌声で心のない野獣や木石をも感動させたというオルフェウスは対照的な存在と言えます。しかし、ここに描かれている詩人はセイレーンに敗北して囚われてしまったようです。あるいは、セイレーンが詩人の歌声に魅了されて海の底に引き寄せたのかもしれません。両者は相容れないが一対の存在として表現されているように思います。
…一方、「死せるオルフェウス」(№117)ではバッコスの信女に殺されたオルフェウスが大地に横たわっていますが、首のない死体は斬首された洗礼者ヨハネのイメージと共通しています。愛する妻エウリュディケを失ったオルフェウスは悲しみにくれて女性を遠ざけるようになったのですが、女性の誘惑を退けることは官能の源泉である肉体の否定でもあり、死を運命づけられているとも考えられます。モローは恋に破れて投身自殺をしたという伝説があるサッフォー(№144)を「巫女」と呼び、詩を通じて神の声を伝える聖なる存在と捉えていたそうですが、神の声を伝える詩人を預言者と重ね合わせることによって、殉教者としての聖性を持たせているのかもしれません。なお、母と恋人を失ったモローは「エウリュディケの墓の前のオルフェウス」を描くなど、オルフェウスを芸術家の象徴として自身と重ねていることもあります。オルフェウスもサッフォーも優れた詩人であると共に、愛に殉じた詩人でもあり、彼らの詩=芸術の源泉は愛だったとも言えるでしょう。モローから話は逸れますが、モローの教え子であるルオーはヴェロニカ伝説に因む「聖顔」を繰り返し描いているのですが、聖なる首に拘った理由の一つには師のモローの作品に描かれたヨハネオルフェウスの影響があるのだろうとも思いました。

「一角獣」(1885年頃、№156)

…男性を魅了して破滅に導く女性たちを数多く描いたモローですが、1883年にパリのクリュニー中世美術館で一般公開された「貴婦人と一角獣」のタピスリーに触発されて、純潔の象徴である一角獣を伴った女性の主題にも取り組みました。「一角獣」(1885年頃、№156)は海の見える草原で寛ぐ美しい貴婦人たちが一角獣を伴っている作品です。中景の大樹の背後には空や入り江など開けた穏やかな風景が広がっていますが、モローの言によるとここは魔法にかけられた島であり、閉ざされた女性だけの園なのだそうです。自然の風景は「サロメ」や「デリラ」(№108)の閉ざされた建築空間とは対照的で、宿命の女たちが人の手になる世界の住人であるのに対して、純潔な乙女たちは神の手になる世界の住人であることを示唆しているのかもしれません。女性たちのうち似通った顔立ちの二人、華麗な装飾の施された赤いドレスの貴婦人と、玉座らしきものに腰掛けている裸体の貴婦人とは対になる存在で、それぞれ地上のヴィーナスと天上のヴィーナスを象徴しているとも考えられます。後者は帽子や装身具、帯などが貴婦人の白く華奢な裸体を一層際立たせてクラーナハの描く美女たちのように官能的なのですが、彼女の傍には聖杯が置かれていてこの女性が体現しているのは神の愛であると思われます。一方で、彼女は純潔の象徴である百合と共に、楽園には似つかわしくない剣を携えています。剣は放縦な欲望を寄せ付けず、閉ざされた楽園を守護するためのものかもしれませんし、あるいはむしろ、来たるべき犠牲者=救世主を待っていて、聖杯はその血を受けるためのものなのかもしれません。その犠牲者はただ欲望に突き動かされた存在ではなく真の美、神の愛を求める者であり、肉体を失ったオルフェウスヨハネと重ねることもできそうです。物質的な肉体を持たない天上のヴィーナスと精神的な存在となったヨハネオルフェウスとの結びつきというのが、モローの到達した究極の愛のあり方だったのかもしれません。