展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

印象派への旅 海運王の夢――バレルコレクション 感想

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見どころ

…この展覧会はイギリスの実業家ウィリアム・バレル(1861~1958)のコレクションが初来日するものです。グラスゴー市に寄贈された数千点に上るバレルのコレクションは、遺言により長らくイギリスの国外に持ち出すことができなかったのですが、2014年に女王の裁可を得て遺産条項が改訂され、美術館の大規模改修に伴い今回海を渡って日本へ来ることとなりました。バレルが蒐集した美術品は中世から近代まで、またヨーロッパにとどまらずイスラム圏や中国にまで及ぶ幅広いものですが、この展覧会は19世紀後半のフランス、オランダ及びイギリスの画家たちの作品を中心に、同じグラスゴーに所在するケルヴィングローヴ美術博物館のルノワールセザンヌなどの作品7点も加えた80点で構成されています。
…バレルは画商のアレクサンダー・リードと一緒にパリに行けばドガのアトリエに行くことが出来たかもしれないのに、と書き残すほどドガの作品の好み、22点も購入していますが、出品作全体ではクールベブーダン、コロー、ドービニーなど印象派以前から同時代に活動した印象派以外の画家たちが多く、華やかさや斬新さよりも写実的で落ち着いた雰囲気の作品が多いように思いました。また、バレル自身は海運業で成功した大コレクターなのですが、所有している作品には庶民の日常や田園風景など、気取りのない素朴で親しみやすい作品が多く、バレルの気質が垣間見えるようにも感じました。個人のコレクションですから、コレクター自身の美意識や価値観が反映されるのは当然なのですが、テオデュール・リボーやフランソワ・ボンヴァンなど19世紀後半のリアリズムの画家たちを新たに知る機会ともなり、彼らの作品を見ることが出来て良かったです。
…個人的には、先日「ドービニー展」(東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館)を見てきたばかりだったので、この展覧会でまた作品を見ることが出来たのが嬉しかったです。兄と共に家業の海運事業に携わっていたバレルが、海辺や川辺など水に因んだブーダンやドービニーの作品を所有しているのは自然なことに思いますが、実はこうした傾向にはコレクター個人だけでなく地域性も関係しているそうです。スコットランドのコレクターたちにはドービニーやアドルフ・エルヴィエ(1818~1879)など、海や川が含まれ、西スコットランドを思わせる淡い灰色の光に包まれている作品を多く描いた画家たちが特に好まれたそうです。
…そうした作品をコレクターたちにもたらした画商の存在、役割の大きさも今回、改めて意識させられました。グラスゴーの画商アレクサンダー・リード(1854~1928)はゴッホ兄弟とパリのアパルトマンで同居していた期間(1886~87)があり、画商のテオを介してドガをはじめ印象派の多くの画家たちとの繋がりもできたのだそうです。展覧会の冒頭にはゴッホによるリードの肖像画も展示されていましたが、物憂げで思慮深そうな顔立ちのリードが緑と赤の点描によって描かれていて、控えめながらも熱意を秘めているような印象を受けました。目利き、腕利きの画商たちの仕事があってこそ、優れたコレクター、コレクションも育つのですね。
…出品作は個人のコレクションということもありサイズの小さなものが多かったのですが、平日の午前中に行くことが出来たので、落ち着いてじっくり見ることが出来ました。所要時間は2時間程度です。なお、会場内は最後の「外洋への旅」の展示スペースが写真撮影可能でした。

概要

【会期】

…2019年4月27日~6月30日

【会場】

Bunkamuraザ・ミュージアム

【構成】

 序 ゴッホ「アレクサンダー・リードの肖像」
 第1章 身の回りの情景
  1-1 室内の情景
  1-2 静物
 第2章 戸外に目を向けて
  2-1 街中で
  2-2 郊外へ
 第3章 川から港、そして外洋へ
  3-1 川辺の風景
  3-2 外洋への旅
…「1-1 室内の情景」は主に人物画、「2-1 街中で」は風俗画に類する作品が多く、概ね主題のジャンル別の構成となっています。「2-2 郊外へ」、「3-1 川辺の風景」、「3-2 外洋への旅」は風景画が中心で、全体としては風景画の比率が高かったです。身辺から徐々に遠く離れ、描かれる世界が広がっていく章立ては、バレルのコレクションを通して旅をするイメージとのことです。数多くの絵画を蒐集したバレルですが、自身は控えめな性格で肖像画のモデルにはならなかったそうです。また、バレルは1911年から作品の購入簿を付けていて、いつどこで買った作品なのかは分かるものの、なぜその作品を購入したかについては分からないのだそうです。バレルは購入したフランス絵画を英国各地の美術館に積極的に貸し出していたそうなので、自身の楽しみや慰めのためである以上に、芸術は公共の財産という意識が強かったのでしょうね。

https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/19_burrell/

感想

テオデュール・リボー「勉強熱心な使用人」(1871年頃)

…テオデュール・リボー(1823~1891)は風俗画や静物画を得意とした画家で、「勉強熱心な使用人」は、料理人やお針子など庶民の日常を描いて人気を博した作品群のうちの一点だそうです。暗い背景を背に浮かび上がる白いエプロンを着けた女性は掃除の途中のようで、小脇に大きなはたきのような道具を抱えて立っていますが、掃除の手を止めて熱心に本を読んでいます。深緑色のクロスがかかったテーブルの上に積まれている本は、この屋敷の主人のものでしょうか。明暗のコントラストが強調された画面のなかで僅かに卓上の本だけが鮮やかな色彩を持ち、女性の円錐形のスカートがどっしりとした安定感を感じさせる構図となっています。女性は使用人ですからおそらく高い教育は受けていないと思われますが、文字が読めるんですね。伝統的な風俗画の場合、仕事を怠けている女中というモチーフは怠惰を戒める意味合いがあったりするのですが、この作品では労働の傍ら勉強している向学心として肯定的な意味合いに変化しているようで、上方から女性に降り注ぐ光はこの静謐な作品に気高い雰囲気を与えているように感じられます。バレル自身、十五歳で家業を継いだため美術史は独学で、娘には自分より高い教育を与えたいとフランス人の家庭教師を付けてもいます。バレルはこの作品を最晩年に購入したそうですが、教養を身につけることで人格を高め、人生を豊かなものにしたいという気持ちを終生変わらずに抱き続けていて、この作品を購入した動機となったのかもしれません。

フランソワ・ボンヴァン「狩りの獲物のある静物」(1874年)

…親密な室内空間を彩る静物画はどちらかというと小ぶりなものが多いと思うのですが、フランソワ・ボンヴァン(1817~1887)の「狩りの獲物のある静物」は静物画としてはサイズが大きく、堂々としたスケールがまず印象的でした。ボンヴァンは19世紀半ばのフランスにおける写実主義を代表する画家の一人であり、緻密な描写による兎の毛皮と艶やかな果物の質感の違いの描き分けが見事です。画面の中心を占める兎は足を括られた姿で、白いテーブルクロスに血が流れ落ちているのが生々しく感じられるのですが、ヨーロッパでは店先で売られる肉に羽根が残っていたり血が付いていたりするのは新鮮さの証拠であって、他にも例えばリボー「調理人たち」では羽をむしる若い調理人の頬に血が付いていたりします。バレルは狩猟を嗜み、仕留めた獲物を画商たちへの贈りものにしていたそうなので、コレクター自身にとっても生活の一部であり、好みに適った作品なのでしょう。こうした静物画は伝統的には生命の儚さを示唆する寓意画でもあったのですが、19世紀にはヴァニタスのニュアンスは後退して、画家たちはより客観的に対象を描くようになったそうです。収穫の豊かさや狩猟の成果に対する静かな充実感や喜びが感じられる作品だと思います。

エドガー・ドガ「リハーサル」(1874年頃)

ドガはバレエを主題とする作品を数多く手がけていますが、出品作の「リハーサル」は同主題を描いた油彩画のなかでも最初期の作品だそうです。斜めのフロアや画面左側を遮る螺旋階段など大胆な構図が臨場感を演出していますね。床が鑑賞者に迫ってくるように感じられるのは写真の影響かもしれません。足を高く上げてポーズを取るバレリーナたちには躍動感があり、画面右端では衣装を身につけているバレリーナが見切れていたり、よく見ると階段からフロアに降りてくる足まで描かれていて、まさに一瞬を切り取ったような場面なのですが、ドガは実際にあった場面をそのままを描いているわけではないのだそうです。しかし、ドガはリハーサルを繰り返し見ることで、舞台裏で練習を重ねるバレリーナたちの動作や表情、関係者の様子や全体の雰囲気を的確に把握し、実際以上のリアリティを再現することに成功していると言えるでしょう。踊るバレリーナたちと画面手前で休息している笑顔のバレリーナとの動と静、白いチュチュと鮮やかな青や黄色など上着の色彩、若いバレリーナたちと年配のダンスマスターや衣装係の女性など、入念に配置されたモチーフには巧みな対比が用いられています。印象派の一人とされるドガですが、床に映る影や光に透けるチュチュによって表現された淡く揺らぐ室内の陰影に、眩い外光とはまた異なる柔らかさ、繊細な魅力が感じられる作品だと思います。

マテイス・マリス「蝶」(1874年)

…花輪を手に横たわり、二匹の蝶を眺める女性。彼女はまだ少女と言っていいほどの若さです。女性のそばに白い花が咲いているところを見ると、彼女が横たわっているのは草原なのでしょうか。背景の空間は曖昧で判然としないのですが、実は11層もの絵の具を塗り重ねている場所もあるそうです。女性のブルーのドレスと豊かな長い金髪の対比が鮮やかですね。オランダ出身の画家マテイス・マリス(1839~1917)は褐色を偏愛したそうですが、1869年にパリに移住してから主題によっては華やかな色調も扱っていて、「蝶」はそうした作品の一つだそうです。この作品は写実的な出品作が多い中では異色の幻想的な雰囲気があり、印象に残りました。幼虫から蛹、そして成体へと変容する蝶は儚さと変わり目を象徴するそうで、女性が少女から大人に成長していくことを示唆しているのでしょう。マリスにとっては心ならずも描いた「売り絵」なのだそうですが、女性の夢見るような甘美な表情に鑑賞者も夢幻の世界に引き込まれるような作品だと思います。

ウジェーヌ・ブーダン「トゥルーヴィルの海岸の皇后ウジェニー」(1863年)、シャルル=フランソワ・ドービニー「ガイヤール城」(1870~74年頃)

ブーダン(1824~1898)やドービニー(1817~1878)は印象派には加わりませんでしたが、いずれも戸外での制作を積極的に行った画家たちです。ブーダン「トゥルーヴィルの海岸の皇后ウジェニー」に描かれているトゥルーヴィルは鉄道網の発達に伴ってパリ市民の避暑地として人気を集め、「浜辺の女王」とも呼ばれたそうです。前景には流行のドレスを纏って海岸を散策する皇后一行、後景には浜辺近くに集まっている中産階級の市民たちが描かれていますが、庶民も高貴な人々もこぞって同じ場所に出かけて楽しむ時代になったとも言えそうです。しかし、この作品の主役は何よりも大きく描かれた空でしょう。青空に浮かぶふんわりとした雲が生彩ある筆致で描かれ、はためく三色旗とともに爽やかな海風を感じさせる軽快な風景だと思います。当時の社会の流行が分かるブーダンの作品に対し、ドービニー「ガイヤール城」に描かれているのは、12世紀末にイングランドリチャード1世がセーヌ河岸に築いた城跡です。先日の「ドービニー展」を見た限り、ドービニーの風景画にランドマーク的なモチーフが登場することはあまりないようだったので珍しく感じましたが、イギリスにも縁のあるこの作品をバレルが手に入れた気持ちは分かる気がします。バレルはこの作品に描かれたガイヤール城を自分の居城に見立てていたそうなので、個人的にも思い入れを感じていたのでしょうね。波のない静かな川面に古城の影、生い茂る川岸の木立、うっすらと赤く色づいた雲が映り込んでいて、夕暮れ時の穏やかさに包まれるような風景だと思います。

アンリ・ル・シダネル「雪」(1901年)、「月明かりの入江」(1928年)

…インド洋に浮かぶ英領モーリシャスに生まれたアンリ・ル・シダネル(1862~1939)は、10歳で両親の故国フランスの地を踏んだのち国立美術学院に進学し、1890年代に象徴主義の影響を受けて独自の画風を展開しました。「雪」はノルマンディー地方ジェルブノワの街の一角を描いたものですが、まるで水滴で曇ったガラス越しに見るようなソフトフォーカスのかかった画面が特徴です。柔らかな触感が目で感じられるようですが、シダネルは雪の白にバラ色や灰色、青などの色を交えた細かな点描を積み重ねることでこの幻想的な画面を作り出しています。画面の中心、建物に囲まれた広場では、冬の日差しのなかドーム状の屋根が目を引く井戸が存在感を放っています。「月明かりの入江」も同様に、細かな点描を重ねたヴェールのかかったような画面で、青緑色のグラデーションで海と港の街並み、背後の山、そして夜空が描き分けられています。灯台や家の灯りが宵闇に包まれた風景のアクセントになっていますね。空に月は見当たりませんが、水面に映ったかすかな船影が優しい月明かりの存在を感じさせます。じっと見ていると入江に停泊する帆を畳んだ船の姿は、まるで眠っているようにも思えてきます。「雪」も「月明かりの入江」も、人気のない風景のなかから井戸や船といった声なきものの姿が立ち現れ、そのひっそりとした息づかいを感じさせる佇まいが静かに世界を満たして、温かみを感じさせる作品になっていると思います。