展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

キスリング展 エコール・ド・パリの夢 感想

見どころ

…「キスリング展 エコール・ド・パリの夢」は、エコール・ド・パリを代表する画家の一人、キスリング(1891~1953)の、日本では12年ぶりとなる回顧展です。出品作はジュネーヴのプティ・パレ美術館/近代美術財団を始めとする内外の美術館及び個人のコレクション69点で構成されていて、その全てがキスリングの作品であり、数点を除きいずれも油彩画と、キスリングの世界を堪能できる内容となっています。
ポーランドクラクフに生まれたキスリングは、1910年にパリに来るとキュビスムフォーヴィスムなどの絵画運動に触れ、ピカソモディリアーニ藤田嗣治らと交友しながら独自の画風を確立し、エコール・ド・パリの仲間の中でも最も早く成功を収めました。私はキスリングの作品をまとめて見たのは初めてだったのですが、何よりも色彩の華やかさ、時として爽やかさも感じさせる透明感が印象的でした。また、キスリングは古典的な主題を現実に即した形で描いているので、一見しただけでその色彩の鮮やかさや官能的な女性美を直感的に味わうことができるのですが、見れば見るほどよく考えられていて、色彩や形体が相互に対比されつつ効果的に組み合わされ、一つの画面に幾何学的で単純化された人工物と有機的で複雑な自然物といった相反する要素が矛盾なく統合されていることに気づかされました。感覚的な喜びと計算された造形とのバランスが良く、見ることを素直に楽しみ、作品世界に浸れる展覧会だと思います。
…私が見に行ったのは土曜日の午前中でしたが、混雑はなく落ち着いてじっくり鑑賞することができました。会場は旧朝香宮邸である本館と新館とに分かれています。本館内の順路は普通の美術館とちょっと勝手が違うのですが、係員の方が順路の各所に配置されていたので迷わずにすみました。展示順が作品の番号と大幅に変わっているのは、本館の各部屋の広さや雰囲気に合わせて作品を展示しているためかもしれません。キスリングの作品は撮影はできませんが、本館内の室内は撮影可能な場所もありました。所要時間は60分程度ですが、可能であれば本館の建物や庭園もゆっくり見る時間を見込んでおくと良いと思います。

概要

【会期】

…2019年4月20日~7月7日

【会場】

東京都庭園美術館

【構成】

序   キスリングとアール・デコの時代
第1部 1910-1940:キスリング、エコール・ド・パリの主役
    セザンヌへの傾倒とキュビスムの影響
    独自のスタイルの確立
第2部 1941-1946:アメリカ亡命時代
第3部 1946-1953:フランスへの帰還と南仏時代
…会場である東京都庭園美術館の旧朝香宮邸(1933年建設)は、キスリングが活躍していた時期に建てられたアール・デコの建築であり、時代の空気を感じながら鑑賞することができます。出品作は肖像画のほか裸婦、トゥーロンの港などを描いた風景画、花や果物などの静物画など多彩で、キスリングが手掛けた主題がバランス良く揃っていると思います。

www.teien-art-museum.ne.jp

感想

《ベル=ガズー(コレット・ド・ジュヴネル)》1933年

…青空の下、首を傾げて純白の百合を腕に抱き、鬱蒼と茂る植物の前に佇む若い女性。《ベル=ガズー》は等身大に近い大きな肖像画で、モデルは作家コレットの娘コレット・ド・ジュヴネル、タイトルでもある「ベル=ガズー」は母が娘に付けたあだ名なのだそうです。この作品を前にしたとき真っ先に目に入ってきたのは、ベル=ガズーの着ている赤、緑、黄のタータンチェックのワンピースでした。素朴な柄は純潔を象徴する百合や背景に描かれた自然物と共に彼女が無垢の存在であること、あるいは無垢な人間本来の自然に根ざした生命力を示唆しているようにも思われます。同時に、チェックの赤は植物の緑と対比され、黄色はモデルの明るい金髪と呼応していますし、背後の青空には光を感じさせる黄色が混じり、ワンピースの大きな白い襟は百合の花弁と呼応するなど、色彩の効果とバランスが緻密に計算された上で構成されています。肖像画が描かれた当時、彼女は20歳前後だったそうですが、年齢より若く、少年のようにも見えるのは、髪がすっきりとまとめられているのも一因でしょう。頭部の輪郭が明確になることでベル=ガズーの立ち姿が綺麗な円錐形になり、一見自然主義的な描写でありながら幾何学的に造形が意識されていることが分かります。また、女性らしさを強調しないのは作品自体の持つ素朴な雰囲気との調和もあるでしょうし、18歳で映画製作の助監督となったあと、第二次大戦中はレジスタンスとして、戦後はジャーナリストになったというベル=ガズーの伝統的な価値観、女性観にとどまらない積極的、活動的な面を表現しているのかもしれません。そうした若々しさ、瑞々しさが感じられる一方で、ハイライトのない大きな瞳は物憂げで、視線や感情が掴めず謎めいた印象を受けます。表情、ことに目の表情のもたらす印象は大きいと思うのですが、それを描かないのはモデルが語りかける特定の感情や物語ではなく、色彩や形体など造形的な面に注意を引くためかもしれませんし、モデルが外界を見ているのではなく、自分の内面を見つめ、繊細な物思いに耽っていることを示唆しているようにも思われます。明るい外界と内面の憂愁、モデルの古風な装いと伝統に囚われない精神など、様々に相反する要素が彩り豊かな一つの画面に収められている作品だと思います。

《ルシヨンの風景(セレのジャン・サリ橋)》1913年

…セレはピレネー=オリアンタル県の町で、キスリングが滞在していた当時はピカソやフアン・ギリス、マノーロなどキュビストたちが集まっていたそうです。《ルシヨンの風景》はジャン・サリ橋という橋からの眺めを描いたもので、高低差のある狭い谷間の中心を一筋の細い川が流れ、蛇行する川沿いに緑が茂っています。岸に迫るように建てられた家屋の屋根越しには、伏せたお椀のような茶色と黒の山の稜線が画面上端ぎりぎりに描かれていて、空は暗く、僅かに見えるだけなのですが、画面右側から家の壁や塀を明るく照らす日の光が感じられます。家や樹木、山などがいずれも幾何学的な形に単純化されている中で、唯一画面右側に伸びる樹木の曲がりくねった細い幹や枝は自然な形状に描かれています。また、複数の視点で描かれるキュビスムの作品の場合、明確な光源が表現されることはあまりないように思うので、一点から差し込む光の表現はキュビスムとの違いを感じて印象に残りました。統一性が保たれた空間に量感あるモチーフが凝集されていて、密度の高さが感じられる作品だと思います。

《サン=トロペの風景》(1918年)

…《サン=トロペの風景》は、《ルシヨンの風景》に比べてぐっと画面が明るくなっているのが印象的でした。家の壁や屋根は単純化され、平面的ですが、折れ曲がった幾何学的な道が奥行きを感じさせます。一方、樹木は複雑な、自然主義的な形体で描かれていて、《ルシヨンの風景》からの変化が窺われます。明るさは色彩の透明感に由来するのでしょう。赤い屋根と緑の木立、黄色の木漏れ日と道に差す青紫の影といった補色の対比が鮮やかで、生彩に富んだ風景になっていると思います。

《北イタリア、オルタ風景》(1922年)

…《北イタリア、オルタ風景》はピエモンテ州、アルプスの麓にあるオルタ湖岸の町、オルタ・サン・ジューリオの風景を描いたものです。斜面に立ち並ぶ家々のあいだの急な坂道を下っていくと風景が開けて、湖越しに遠くアルプスの山並みが見えています。家の屋根や壁は依然として直線的、幾何学的な形状で描かれていますが、初期に比べると形体の純粋さ、単純化への傾向は弱まり、窓の鎧戸やテラスの手すりの装飾的な形状など細部も描写されています。また、色彩も明るさを保ちつつ、一つの対象を一色で表現するのではなく、濃淡のある複数の色彩を取り混ぜて描かれています。あくまで眼前の風景を踏まえつつ、人工物と自然、幾何学的形体と有機物の調和が表現されていると思います。

《赤い長椅子に横たわる裸婦》(1918年)

…赤い部屋の赤いソファに横たわる裸婦。女性は腕を枕に顔を傾け、官能的な笑みを湛えて画家=鑑賞者を見ています。1910年代前半のキスリングの作品を見ると黒や褐色など暗い色彩を基調としているのですが、この作品では画面全体が大胆に赤で覆われていて画風が大きく変化しています。実は会場でこの作品を見た時、赤い部屋に横たわる裸婦がまるで内蔵に包まれているようにも見えたのですが、そのぐらい生々しく、裸婦の裸体以上に肉体を感じさせる赤、内なる熱やエネルギーがこもっている赤だと思います。陰部を隠すポーズはエロティックな暗喩と考えられるそうですが、命が生まれてくる場所を指し示しているとも考えられるでしょう。画面手前の卓上の皿には果物が置かれているのですが、古典的な図像学において若い女性の横に置かれた果物は母性を象徴するそうなので、生命の根源、出産や豊穣を表現している作品かもしれないと思いました。

《モンパルナスのキキ》(1925年)

…暖かいオレンジ色のベッドで惜しげもなく裸体を晒して横たわる女性。背景の青い壁によって、裸婦の臀部が強調された流れるような曲線のフォルムが一層際立っています。キスリングの作品を見ていると一つの画面のなかで相反する要素を組み合わせている場合が多いように感じるのですが、この作品でも青とオレンジ、壁や扉の直線と有機的な形のベッドとが対比されています。両者のあいだで腕を枕にたゆたう裸婦の存在は、文明と自然のどちらの側面も併せ持つ人間を表現しているのでしょうか。この作品のモデルとなったキキは1920年代のパリで芸術家たちを魅了し、絵画や写真のモデルとなっただけでなく、女優や歌手としても活躍したそうです。「モンパルナスの女王」とも呼ばれたキキですが、この作品に描かれた無防備な姿態で一人微睡む様子は、華やかな虚飾を脱ぎ捨てて自分の世界で安らいでいるようでもあり、一方で身分や地位といった身を守る鎧を持たない女性の寄る辺なさも感じさせて、官能的でありながら孤独の滲む作品だと思います。

《座る若い裸婦》(1932年)

…《座る若い裸婦》のモデルの女性は膝に両手を重ねて、品良く微笑んでいますが、着衣の肖像画であればこの畏まった表情やポーズは違和感がないだけに、裸婦であることが意表を突きます。裸婦というモチーフが物語の文脈や、官能的なイメージの枠の中で描かれるか、もしくは肉体そのもの、形体自体への関心を優先させることで成立していることを逆説的に意識させるんですね。顔は人格の指標であり、表情は意志や感情といった人間性の表れですが、画家はそうした精神がしばしば生身の肉体、生物としての本能と切り離されて認識されているのではないかという問題を提起し、美しく装っている人間の赤裸々な本質を表現したかったとも受け取れますし、逆に日常では包み隠されている肉体の気高さを表現したかったのかもしれません。表情と生身の肉体、人格と裸体の統合を試みている作品だと思います。なお、裸婦の左手はキスリングが若い頃に傾倒したセザンヌに倣って、未完成のまま残されているそうです。

《赤い長椅子の裸婦》(1937年)

…この作品も二十年前の作品と同じく、赤い長椅子に横たわる裸婦が描かれているのですが、20年前の作品に比べると冷ややかで、一層官能的な印象です。長椅子の生地の色彩、質感が透明感のある女性の滑らかな白い肌を引き立てるとともに、有機的な肉体と壁や床の幾何学的な模様が対比されています。女性は腕で口元を隠しているため、誘いかけるように微笑んでいるとも、突き放すような冷ややかな表情をしているとも思われて、謎めいて見えます。背後を覆う黒々とした不吉な影は、老いや死を暗示しているのでしょうか。市松模様の床はフランドル絵画を想起させますし、うたかたの繁栄を脅かす不穏な世情を背景に、若さや美しさの儚さ、虚しさを戒めるヴァニタス画を20世紀的に翻案しているのかもしれないと思いました。

《果物のある静物》1920年

…《果物のある静物》は真っ白な壁を背景に、山積みされたカラフルな果物が一際明るく映えて、新鮮な印象を与える作品です。静物画の定番とも言える林檎や桃、ブドウなどに混じって、バナナやパイナップルなどが描かれていますが、こうした南国の果物が入手できるようになった時代でもあるんですね。テーブルクロスの柄の爽やかなパステルカラーの水色は果物にはあり得ない色だから選ばれたのではないかと思いますが、多彩な色が用いられた画面をすっきりと引き締めています。色彩感覚が現代的で、明るく清涼感のある作品だと思いました。

《果物のある静物》1953年

…同じ《果物のある静物》というタイトルながら、およそ30年後に描かれたこの作品では、果物がレモンイエローやマゼンタ、エメラルドグリーンなどよりクリアで濁りのない、鮮烈な色彩で描かれています。正面中央に描かれた引き出しのあるテーブルの磨かれた天板は、鏡のように色の付いた果物の影を映し出しています。本来なら光を遮る実体の影は黒いわけですが、この不思議な影は色彩と対象、光と実体が一体のものであり、色彩が移ろう光ではなく、ものの本質と結びついていて切り離し得ないことを表現しているのかもしれません。あるいは逆に色にこそ実体を与えたようでもあり、色に物そのものとして、確かな存在感を与えようとしているようだと思いました。

《カーテンの前の花束》1937年

…キスリングはフランドル絵画など古典に学んでいるそうで、この作品を見たときは、昨年ブリューゲル展で見た花の静物画が頭に浮かびました。鑑賞者と正対する卓上の大きな花瓶に飾りつけられた花束には様々な種類の花が生けてあるのですが、ブリューゲル一族の作品を思い浮かべたのは赤や黄や紫のチューリップが目についたせいかもしれません。そのほか百合、アジサイ、アイリス、ダリアなど季節の異なる花がひとまとめに束ねられているので、リアルな花束の再現ではなく画家がカンヴァス上で組み合わせたものなのでしょう。この作品の特徴は濁りのない花の色そのものが形を成し、厚みを持っているように見えることで、色彩が透明な光ではなく、物体化して実在しているように感じられました。青い色味の花が少ないので、青い壁紙は花束を引き立てるのに効果的ですね。壁に掛かった彩り豊かなカーテンが半分めくれてこの壁紙が見えているのですが、何もない壁にカーテンを掛けることはあまりないように思います。では、このカーテンは何を隠していたものなのでしょうか。17世紀の絵画などを見ると絵にカーテンが掛けられていることがあるので、この作品の花束は実は壁に掛けられた絵画に描かれていた花束であり、それがカーテンの背後から抜け出して実体化したと考えてみるのも面白いと思いました。それを描いたキスリングのこの作品も絵画なので、実体とその像が入れ子のように重なり合っていることになるのですが、実体の影ではなく絵画自体が物そのものとして存在すること、その本質的要素としての色彩を表現したかったのかもしれません。色彩と実体、実体と絵画、絵画と色彩といった相互関係について、色々と考えてみたくなる作品だと思います。