展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道 感想

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見どころ

…「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」展はウィーン分離派の活動を中心に、18世紀後半から20世紀初めのウィーンの芸術について当時の時代背景を踏まえつつ、絵画に加えて建築や調度品、服飾など総合的に紹介するものです。今回はウィーン・ミュージアムの建物の増改築に伴いコレクションの来日が実現したもので、出品数が非常に多く、一度で全てをしっかり見るのは難しいのではないかと思います。何度か足を運ぶことができれば良いのですが、そうでない場合は見たいものをある程度絞っておいた方が良いかもしれません。
…展覧会の冒頭に展示されているマリア・テレジアやヨーゼフ2世ら啓蒙君主の肖像画と、クリムト肖像画やシーレの自画像などを比べると、18世紀後半から20世紀初めまでのおよそ150年のあいだにいかに大きな変化が起きたか実感できます。こうした表現の変化は、絶対君主が統治していた時代から、科学・技術・産業が発展して市民階級が台頭し、日本を含む非西欧圏の文化が流入して関心を集めるなど、社会構造の変化や人々の価値観、世界観の変化が形となったものなのでしょう。特に従来の自然主義的な表現から離れて装飾的な作品を生み出したウィーン分離派による変化は決定的であり、不可逆的だったように思います。そうした変化は突然生じたものではなく、ビーダーマイアー時代など先行する時代、芸術家たちを通じて徐々に準備されていったことも理解することが出来ました。
…今回の展覧会では家具や食器など工芸品も多数出品されていたのですが、いずれの品々も機能性を備えつつ洗練されたデザインで目を引きました。現代でも、もし店頭で販売していたら普通に購入したくなりそうですし、日々の生活の中で実際に使うことが出来そうで(むしろ勿体ないぐらいですが)、19世紀が今の私たちと直接繋がっている時代であることを実感させられました。
…また、この展覧会は音楽の都ウィーンが舞台ということで、モーツァルトシューベルトヨハン・シュトラウスシェーンベルクなど、名だたる音楽家たちが展覧会の各章で登場するのも特徴だと思います。特にシェーンベルクが手掛けた絵画作品は初めて見ることが出来ました。音声ガイドでマーラーの5番を聴きながらクリムトの作品を鑑賞できたのも個人的には嬉しかったですね。美術だけでなく、音楽の好きな人にとっても楽しめる展覧会ではないかと思います。
…私が見に行ったのは6月の土曜日午前中でしたが、雨天のためか混雑はありませんでした。会場内の照明がやや暗く、写真や図面、版画など細部を見たい展示品もあったので、落ち着いて鑑賞することが出来たのは良かったです。クリムトの《エミーリエ・フレーゲの肖像》は撮影可能です。

概要

【会期】

…2019年4月24日~8月5日

【会場】

国立新美術館

【構成】

1 啓蒙主義時代のウィーン――近代社会への序章
 1-1 啓蒙主義時代のウィーン
 1-2 フリーメイソンの影響
 1-3 皇帝ヨーゼフ2世の改革

2 ビーダーマイアー時代のウィーン――ウィーン世紀末芸術のモデル
 2-1 ビーダーマイアー時代のウィーン
 2-2 シューベルトの時代の都市生活
 2-3 ビーダーマイアー時代の絵画
 2-4 フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー――自然を描く
 2-5 ルドルフ・フォン・アルト――ウィーンの都市景観画家

3 リンク通りとウィーン――新たな芸術パトロンの登場
 3-1 リンク通りとウィーン
 3-2 「画家のプリンス」ハンス・マカルト
 3-3 ウィーン万国博覧会(1873年)
 3-4 「ワルツの王」ヨハン・シュトラウス

4 1900年――世紀末のウィーン――近代都市ウィーンの誕生
 4-1 1900年――世紀末のウィーン
 4-2 オットー・ヴァーグナー――近代建築の先駆者
 4-3-1 グスタフ・クリムトの初期作品――寓意画
 4-3-2 ウィーン分離派の創設
 4-3-3 素描家グスタフ・クリムト
 4-3-4 ウィーン分離派の画家たち
 4-3-5 ウィーン分離派のグラフィック
 4-4 エミーリエ・フレーゲグスタフ・クリムト
 4-5-1 ウィーン工房の応用芸術
 4-5-2 ウィーン工房のグラフィック
 4-6-1 エゴン・シーレ――ユーゲントシュティールの先へ
 4-6-2 表現主義――新世代のスタイル
 4-6-3 芸術批評と革新
東京都美術館の「クリムト展」がクリムトの画業に焦点を絞っているのに対して、「ウィーン・モダン」ではクリムトをはじめとする19世紀末の分離派の活動の全体像について、歴史的文脈の中で捉えて展示されていました。構成は1~3章が導入部で、ウィーン分離派及び表現主義に関する第4章が中心ですが、1~3章だけでもかなりの情報量でした。クリムトの作品は《パラス・アテナ》(4-3-2)、《エミーリエ・フレーゲの肖像》(4-4)他、初期の寓意画やポスター等の版画、素描などが出品されています。素描(4-3-3)には《ベートーヴェン・フリーズ》のための習作《ゴルゴンたち》や、《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》の構想の元となった雑誌『ヴェル・サクルム』挿画用のペン画などもあり、東京都美術館の展覧会と合わせて見るとより興味深いのではないかと思います。また、裸婦を描いた官能的な作品もありましたが、特にスペースが仕切られたりはしていませんでした。その他、オットー・ヴァーグナの建築に(4-2)もかなりのスペースが割かれていて、図面や模型などが展示されています。ウィーン工房の応用芸術(4-5-1)ではヨーゼフ・ホフマンやコロマン・モーザーのデザインした調度品などがメインでした。エゴン・シーレ(4-6-1)の作品は《自画像》、《ひまわり》などが出品されています。

artexhibition.jp

感想

1 啓蒙主義時代のウィーン――近代社会への序章

…第1章ではヨーゼフ2世の啓蒙主義的政策、特に総合病院の設立や皇帝の狩猟地だったプラーターの一般開放などウィーンの都市空間にもたらした変化と共に、フリーメイソンの影響が取り上げられていました。存在自体が秘匿されているわけではないものの、フリーメイソンの活動は不明なことも多く、歴史の表側で正面から語られることはないと思っていたので、正直意表を突かれました。モーツァルトのオペラ『魔笛』がフリーメイソンの象徴などを取り入れているという説は聞いたことがあったのですが、フリーメイソンのロッジ(フリーメイソンを構成する各団体のこと)における入会儀式の様子を描いた《ウィーンのフリーメイソンのロッジ》(1785年頃)には『魔笛』の台本を書いたエマヌエル・シカネーダーと並んでモーツァルトの姿も描かれています。フリーメイソンが掲げていた自由、平等、友愛、寛容、慈愛という理念のうちの幾つかはフランス革命のスローガンを思い出させますね。フリーメイソンのロッジに属していた作家ヨーゼフ・フォン・ゾンネンフェルスは、マリア・テレジアやヨーゼフ2世に対して啓蒙主義的な改革の提案を行っていたそうですし、フリーメイソンの理念はそれを支持、賛同する文化人などを通じて政治的にも影響を及ぼしていたのでしょう。

2 ビーダーマイアー時代のウィーン――ウィーン世紀末芸術のモデル

…ビーダーマイアーとは元々1855年頃ミュンヘンの文芸紙に連載された風刺的な詩の架空の作者名だったもので、その後、ウィーン会議以降ウィーン三月革命までの1814/15年~1848年までをビーダーマイアー時代と呼ぶようになったそうです。この時代はフランス革命の勃発からヨーロッパ全体が巻き込まれたナポレオン戦争にいたるまでの激動の時代に対する保守反動の時代で、体制の安定を図るため検閲が徹底されて人々も内向きになりましたが、その分私的な時間・空間を充実させることに関心が注がれました。同時に、余暇を楽しんだり、瀟洒な調度品を購入したりすることのできる富裕な市民層が台頭し始めた時代とも言えるのでしょう。出品されているビーダーマイアー様式の家具や食器などはシンプルで実用性も考慮しつつ、現代のインテリアとして使われていても違和感がなさそうな洗練されたデザインで、現代にも通じる美意識がこの時代に萌芽したことを実感しました。
シューベルトは経済的に苦労して病気で亡くなったというイメージが強かったため、シャンデリアの下、着飾ったブルジョワの紳士淑女に囲まれて自作の曲を披露している《ウィーンの邸宅で開かれたシューベルトの夜会(シューベルティアーデ)》の姿を見て新鮮さを感じました。クラシック音楽と言うと固く考えがちなのですが、『野ばら』のような親しみやすい曲やドラマチックな『魔王』など、今も歌唱される様々な歌曲を世に送り出して人気を博した流行作曲家としての面もあるのでしょうね。また、シューベルティアーデは単なるシューベルトの友人たちのサークルというだけでなく、ビーダーマイアー時代の社会や生活を象徴する集いであって、市民たちは趣味を共有する仲間同士で交流し、郊外へのレジャーを楽しんでいたことも知ることが出来ました。
…この時代の絵画作品ではフリードリヒ・フォン・アメリングの《3つの最も嬉しいもの》(1838年)が印象に残りました。3つの最も嬉しいものとは酒、女性、音楽のことで、男性にとって嬉しいものを指すわけですが、この作品はむしろ女性の心理に焦点が当てられているように感じられます。グラスを手にした赤ら顔の男性が、リュートとおぼしき楽器を手にした黒髪の女性の肩を抱いて耳元で囁いていますが、酩酊して他のものが目に入らない様子の男性に対して、言い寄られている女性はどこか醒めた表情です。女性の右手は男性の手に重ねられているようにも、逆に押しのけようとしているようにも見えますね。意思を感じさせる女性の目は鑑賞者の側に向けられていて、どちらを選ぶのか問いかけられているようにも感じられました。また、フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラーの光溢れる克明で写実的な風景描写も印象的でした。

3 リンク通りとウィーン――新たな芸術パトロンの登場

三月革命後に即位したフランツ・ヨーゼフ1世のもとでウィーンは首都として街並みが一新され、人口も飛躍的に増大するなど大きく発展しました。特に1857年に都市を囲んでいた市壁が取り壊されたあと新たに開通したリンク通りとその沿道は、国会議事堂や市庁舎、ウィーン大学、ブルク劇場などが次々と建設されると共に、皇帝夫妻の銀婚式のパレードの舞台となり、近代的な都市に変貌した首都ウィーンを新たに象徴する場所となったと言えそうです。ナポレオン3世の治世下でオスマンによるパリの近代化が推進されたように、ウィーンでもフランツ・ヨーゼフ1世によって膨張する首都の整備が進められたんですね。こうした動きは産業革命が進行するヨーロッパ各国に共通するものだったのでしょう。
…若きクリムトがウィーンの工芸美術学校で学んでいた頃、ウィーンの美術界の第一人者だったのが「画家のプリンス」ハンス・マカルトで、マカルトは1879年4月に開催された皇帝夫妻の銀婚式の祝賀パレードの芸術総監督も務めました。会場でマカルトが祝賀パレードのためにデザインした連作スケッチを見ながら、バロック時代のルーベンスやベラスケス、あるいはルネサンス時代のレオナルド・ダ・ヴィンチなどが各々の主君のために舞台や儀式、祝祭の装飾や演出を手掛けていたことを思い出しました。絵画や彫刻といった枠組みにとどまらない総合的なイベントを指揮するには卓越した手腕が求められますし、やり甲斐もあると思うのですが、そうした芸術家の伝統的な役割と言えそうなものが19世紀にも引き継がれているんですね。一方で、この祝賀パレードは参加者1万4000人、沿道の観客30万人という壮大な規模のもので、王侯貴族だけでなく多数の市民も演者、観客として参加し、共有する祝祭空間であることが近代的と言えるかもしれません。現代で例えるならオリンピックの開会式のようなものでしょうか。今日まで語り継がれているというのも、その共有された経験が共同体の記憶として継承されている証拠なのだろうと思います。
肖像画家として活躍したマカルトですが、《メッサリナの役に扮する女優シャーロット・ヴォルター》(1875年)も一種の肖像画と言えるでしょうか。メッサリナは古代ローマの皇帝クラウディウスの妃でしたが、夫以外の男性と情事を重ね、ついには夫であるクラウディウス帝の暗殺を諮ったため殺されたそうです。背景に描かれた夜の街並みは古代のローマ=舞台のセットという設定なのだと思いますが、繁栄する世紀末のウィーンの暗喩のようにも感じられます。あえて悪女に扮した姿が選ばれたところに、ファム・ファタルという主題の流行ぶりが窺われるのですが、男性にも社会の常識にも束縛されない悪女の波乱に富んだ運命は女性にとっても魅力的だったのかもしれないと思ったりもしました。滑らかに仕上げられたシャーロット・ヴォルターに比べると、その後に制作された《ドーラ・フルニエ=ガビロン》(1879-80年頃)や《ハンナ・クリンコッシュ》(1884年以前)は技法が変化していて、素早いタッチで生き生きと描かれています。第1回印象派展の開催が1874年ですから、こうした変化は他国の美術の動向などとも連動しているのでしょう。ドーラ・フルニエ=ガビロンは椅子に腰掛けているようなのですが、赤と茶褐色に塗り分けられた背景は大胆かつ曖昧にぼかされていて、モデルの人となりを説明的に語るよりも構成や色彩を重視した装飾的な作品になっています。保守的なウィーン造形芸術家組合から脱退した芸術家たちによって設立されたオーストリア造形芸術家協会=ウィーン分離派ですが、彼らの目指す新しい芸術は先行する世代によって模索され、少しずつ準備されてきたことも実感することが出来ました。

4 1900年――世紀末のウィーン――近代都市ウィーンの誕生

…新たに整備されたリンク通りの沿道に建設された建築物はゴシックやルネサンスバロックなどかつての様式からインスピレーションを得ていたのですが、そうした歴史主義を脱して独自の様式を生み出したのがオットー・ヴァーグナーでした。ヴァーグナーの手がけた「郵便貯金局」は鉄とガラスという素材によって従来の建物にはない明るさを確保し、シンプルで機能的でありながら装飾性も兼ね備えていて、装飾を排したモダニスムの純粋さとはまた違う豊かさが感じられると思いました。
クリムトの作品は初期の寓意画や素描なども比較的多く展示されていました。ゲルラハ&シェンク社が出版した近代的な寓意画のための図案集『アレゴリーとエンブレム』掲載作品の原画である、《自然の王国》(1882年)の男性像はミケランジェロによるシスティナ礼拝堂の天井画を思わせますが、クリムトも初期は古典に倣って技術を磨きながら自分の表現を深めていったことが窺われます。一方で《愛》(1895年)の背景に浮かび上がる亡霊のようないくつもの顔は《鬼火》(1903年)に描かれた妖しく神秘的な女性たちの同類のようでもあり、「老い」や「死」など人生、運命を連想させるという点で《女の三世代》(1905年)に通じる部分もありそうで、クリムトの関心が初期から一貫していることも感じられました。
…エミーリエ・フレーゲクリムトの弟エルンストの妻ヘレーネの妹で、クリムトにとって最も親密な女性です。《エミーリエ・フレーゲの肖像》では左手を腰に当てて横向きに立つエミーリエが、顔だけこちらを振り向いた姿が描かれています。落款のようなクリムトのサインは日本美術の影響でしょうか。エミーリエは姉妹たちとファッション・サロン「フレーゲ姉妹」を経営し、改良服(リフォーム・ドレス)の制作・販売も取り扱っていたので、この肖像画で着ているドレスも改良服かと思ったのですが、図録の解説によると違うようです。確かにゆったりとしたラインが特徴の改良服と違って細身ですよね。縦に細長い画面も日本美術の影響が感じられますし、クリムトは生地を身体に巻き付ける和服のシルエットを意識したのかもしれません。ボリュームのある黒髪の周りに描かれた傘か帽子のような部分はよく見ると緑色の細い曲線によってエミーリエの左肩付近に繋がっていて、単なる背景の一部ではなさそうです。色彩もドレスと同じ青と緑を基調としていて関連性が感じられますし、エミーリエ自身から滲みでているもの、聖人の肖像の光背のようなもので、エミーリエの才気や生命力を象徴しているのかもしれません。ところで、女性の肖像画というと胸に手を当てたり、大きく膨らんだドレスに手を添えたりと慎ましい物腰で描かれる場合が多くて、腰に手を当てるポーズはあまり目にすることがないように思います。男性の肖像画であれば珍しくないポーズのためか、実はこの作品を見た時、エミーリエの自我を感じさせる表情と相まって男性的と言ってもいい毅然とした印象を受けました。ただ、エミーリエ本人は不本意だったのかこの作品を売却しているそうなので、画家の思いとモデルのすれ違いもあったのかもしれません。クリムトは性愛の象徴として数多くの艶めかしい女性たちを描いていますが、身内でもあり前衛的な芸術にも理解のあったエミーリエについては、本能ではなく知性と意志を以て行動する自立した一人の人間として表現したかったのではないかと思います。
クリムト以外の分離派の作品では、マクシミリアン・クルツヴァイル《黄色いドレスの女性(画家の妻)》(1899年)が印象に残りました。大きく広がった黄色いイヴニングドレスの裾が蝶の羽根のようで、女性の腰掛ける緑のソファとの対比が鮮やかです。両腕を水平に伸ばしたポーズはキリストの磔刑を連想させますが、僅かに首を傾げた女性は冷ややかで挑発的な表情を浮かべています。細くくびれたウェストはコルセットによるものでしょうか。こうしたファッションに対して、身体を解放して自然に還る、自由で動きやすい「改良服」が提案されたんですよね。コロマン・モーザーのデザインした「改良服」(1905年頃)は生地にプリントされた朝顔のモチーフに日本美術の影響が窺われます。裾が長く袖も広がっていて活動するには不向きにも思いますが、ゆったりと寛ぐことができそうなドレスだと思いました。
…装飾的、耽美で退廃的な世紀末芸術を堪能したあとで見るエゴン・シーレの作品は鮮烈なインパクトがありました。クリムトの作品も人間の苦悩が描かれているのですが、あくまで華麗な装飾と多義的な象徴、甘美な官能のヴェール越しのものであるのに対して、シーレの作品からは剥き出しの精神の鋭敏さが感じられます。鋭くも屈折したシーレの線描からは抑えられ、歪められた激情が迸る出口を求めて、身を捩り、痙攣するような印象を受けました。