展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

松方コレクション展 感想

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見どころ

…「松方コレクション展」は国立西洋美術館の開館60周年を記念する展覧会です。
川崎造船所の初代社長を務めた松方幸次郎(1866~1950(慶応元年~昭和25年))は、日本の芸術家、人々のために美術館を作ろうと志し、1916年から1927年頃にかけてパリやロンドンを拠点に西洋の美術作品3,000点、フランスから買い戻した浮世絵8,000点も加えると総数1万点近い規模の美術品のコレクションを築きました。しかし、1927年の昭和金融恐慌による造船所の経営破綻、さらに第二次大戦の勃発という時代の荒波のなかで、コレクションは売却や火災、接収によって散逸してしまうのですが、戦後フランスから返還された作品375点と合わせて、1959年に松方コレクションをルーツとする国立西洋美術館が設立され、今日に至っています。
…私は松方コレクションと聞くとモネやルノワールなど印象派を中心とする近代フランス絵画をまず思い浮かべるのですが、今回の展覧会でコレクションの始まりはラファエル前派などのイギリス絵画だったことを知ることができました。また、西洋美術館のシンボルと言ってもいいロダンの《考える人》ですが、松方コレクション自体がロダン作品と縁が深いことも知ることが出来ました。1918年に松方はロダン美術館設立の中心人物だったレオンス・ベネディットとロダン作品の鋳造に関する契約を結びますが、資金を必要としていた草創期のロダン美術館にとってもロダン作品の大口鋳造契約は重要な意味があり、最終的に50点を超える世界有数のロダン・コレクションが築かれたのだそうです。さらに、ベネディットは松方のパリにおける作品購入の代理人としてフランス近代絵画の本格的な収集も行っていて、そうした経緯から松方コレクションがロダン美術館敷地内の旧礼拝堂に保管されることにもなったのだそうです。
…美術作品のコレクターにも色々なタイプがあるだろうと思うのですが、松方はブラングィンやベネディット、そしてモネと、多くの画家や美術関係者と積極的に交流を持っているのが印象的でした。また、個人のコレクションの場合、収集される作品はコレクターの愛好する作家やジャンル、あるいは価値観そのものを一定程度反映したものになり、そうした個性が魅力の一つでもあると思うのですが、松方の場合、日本のために美術館を作るという公的な目的をもっての収集だったためか、20世紀の美術作品から中世の古典美術まで収集範囲が広く、質の高さ、スケールの大きさを改めて実感させられました。時代の巡り合わせではありますが、もしも松方のコレクションの全てが揃って日本にあったならと思うと…夢のようですけどね。今回の展覧会で初公開されたモネの《睡蓮、柳の反映》は2016年にフランスで発見されて海を渡ったのですが、よく日本に帰ってきてくれたという気持ちになりました。大きく欠失した痛々しい状態は、松方コレクションの辿った激動の運命そのもののようにも思えます。芸術作品の命は人の一生を超える長いものですが、それだけに生き延びてきた作品は乗り越えてきた重い歴史を背負っているのでしょうね。
…私が見に行ったのは7月最初の土曜午後で、入場待ちはなかったもののかなり混雑していて、鑑賞者の列の後方から見た作品もありますし、会場内の休憩用の椅子もほとんど空きがなく座れない状態でした。会場内の照明は暗めに感じました。第1章の展示室では作品を壁面の上下に複数並べて展示していて、古い美術館のようだったのが面白かったですね。壁面の上部に展示された作品は少し後ろに下がると全体を見られると思います。展示室入口前のモネ《睡蓮、柳の反映》のデジタル推定復元図は撮影可能です。

概要

【会期】

…2019年6月11日~9月23日

【会場】

国立西洋美術館

【構成】

…概ね収集した時期・地域に従っての構成で、特に第1章の「ロンドン1916~1918」と第5章の「パリ 1921~1922」の出品数が多くなっています。作品数は150点余りで、国立西洋美術館のコレクションのほか、オルセー美術館大原美術館など国内外の美術館の所蔵品で構成されています。

プロローグ
 …モネ《睡蓮》(1916)

Ⅰ ロンドン 1916~1918
 …ロセッティ《愛の杯》(1867)、ミレイ《あひるの子》(1889)、セガンティーニ《羊の毛刈り》(1883~84)

Ⅱ 第一次世界大戦と松方コレクション
 …スタンラン《帰還》(1918)

Ⅲ 海と船
 …ブラングィン《救助船》(1889)、コッテ《悲嘆、海の犠牲者》(1908~09)

Ⅳ ベネディットとロダン
 …ロダン地獄の門》(1880~90頃、原型:1917、鋳造:1930~33)

Ⅴ パリ 1921~1922
 …クールベ《波》(1870)、ゴッホ《アルルの寝室》(1889)

Ⅵ ハンセン・コレクションの獲得
 …マネ《ブラン氏の肖像》(1879頃)

Ⅶ 北方への旅
 …ムンク《雪の中の労働者たち》(1910)

Ⅷ 第二次世界大戦と松方コレクション 
 …スーティン《ページ・ボーイ》(1925)、ルノワールアルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》(1872)

エピローグ
 …モネ《睡蓮、柳の反映》(1916)

artexhibition.jp

感想

第1章 ロンドン 1916~1918:ダンテ・ガブリエル・ロセッティ《愛の杯》(1867年、国立西洋美術館)、ジョヴァンニ・セガンティーニ《羊の毛刈り》(1883~84、国立西洋美術館)他

…1916年~18年にかけて、松方はロンドンを拠点に自社のストックボート(既成貨物船)を欧州に売り込み、その利益を資金として美術品の収集を始めました。ラファエル前派をはじめとするイギリス絵画はこの時期に収集されたんですね。
…ダンテ・ガブリエル・ロセッティ《愛の杯》は赤いローブの女性が金の杯を掲げていますが、この作品の額には「甘き夜、楽しき日/美しき愛の騎士へ」という銘文が入っているそうです。背後に描かれている鳥は忠誠の象徴の鳶なので、女性は杯の蓋を心臓に当てて、出征する恋人に変わらぬ愛を誓っているのでしょう。
…ルイ・ガレはロマン派の画家で、今ではあまり知られていないとのことですが、《芸術と自由》のヴァイオリンを手にした端正な音楽家の青年像は印象に残りました。青年が立っているのはバルコニーなのか、背後には自由を象徴するような青い海が見えますね。
カルロ・クリヴェッリヴェネツィア出身で、15世紀に中部イタリアで活動した画家ですが、19世紀のナポレオン戦争やイタリア統一戦争による混乱の中で作品が散逸してしまったそうで、《聖アウグスティヌス》も、本来は二段組三連祭壇画の一部だったとのことです。私はクリヴェッリの名を澁澤龍彦の文章で知ったのですが、クリヴェッリの作品は硬質な線描と装飾の華麗さ、眩い黄金が魅力だと思います。また、アウグスティヌスの司教冠を飾る宝石は手で触れられそうに盛り上がり、つま先は画面の中から鑑賞者の側に踏み出そうとしているように石段の先にはみ出していますが、絵画の世界が現実の三次元の世界に入りこんでくるような描き方もクリヴェッリの特徴の一つなのだそうです*1
…ジョヴァンニ・セガンティーニ《羊の毛刈り》では、羊小屋で毛を刈る農夫たちと、柵の外の牧草地に群れる羊たちが描かれています。柵に頭を載せて毛刈りの様子を見ている羊もいて微笑ましい情景ですが、のどかに見える羊の毛刈りはかなりの重労働だと聞いたこともあります。黙々と作業に励む慎ましい農夫たちの勤勉さと品格が感じられる作品だと思います。《花野に眠る少女》は花の咲く緑の野原に直に寝転ぶ少女の姿が、水彩とパステルの柔らかなトーンで描かれています。私はこの作品を見て「ロマンティック・ロシア」展(Bunkamuraザ・ミュージアム、2018年)に出品されていたニコライ・ドミートリエヴィチ・クズネツォフ《祝日》(1879年)を思い出しました。春という季節と若い少女を重ね合わせて、みずみずしい生命力を表現した作品だと思います。

第2章 第一次世界大戦と松方コレクション/第3章 海と船:テオフィル・アレクサンドル・スタンラン《帰還》(1918、国立西洋美術館)、シャルル・コッテ《悲嘆、海の犠牲者》(1908~09、国立西洋美術館)他

第一次大戦の最中にヨーロッパで収集活動を始めた松方は、戦争にまつわる同時代の作品も数多く収集しています。スタンラン《帰還》は戦場から戻ってきた兵士が、出迎えの恋人と抱き合って再会を喜び合っています。兵士の背後に蒸気機関車の影が描かれていますから、駅の情景なのでしょう。しかし、すぐ傍では夫を失って喪服を身につけた女性が、カップルを恨めしげに横目で見つつ子供の手を引いていますし、帰還できたとは言え戦場で傷を負った兵士もいるようです。戦争は終わってもなお、人々の日常に影を落としていることを描いた作品だと思います。
…ロンドンにおける松方の収集活動を支援し、松方のために「共楽美術館」のデザインも手掛けたフランク・ブラングィンは、海や船を主題とする作品を数多く制作していて、松方が最初に購入したのは造船所を描いたブラングィンの作品だとも言われているそうです。松方にとって、本業に縁のある海や船は思い入れのある主題だったのでしょう。ブラングィン《救助船》は、荒れた海のなかで大きく傾く蒸気船を救助向かう船が描かれています。蒸気船から上がる煙が強い風に吹かれて流されていますね。沈みかけている大型の蒸気船に対して、救助船はオールで漕ぐ小舟であり、両者の対比は自然の猛威の前では人間が非力であることを感じさせる一方、困難に怯まず立ち向かう人間の勇敢さも感じさせると思います。
…シャルル=フランソワ・ドービニー《ヴィレールヴィルの海岸、日没》は、灰色がかった空が夕暮れ時の朱い色にうっすらと染まり、海に落ちてゆく太陽が雲間から垣間見えています。暮色の迫る浜辺の人影は家路に向かうところでしょうか。みずみずしく爽やかな水辺の風景を数多く描いたドービニー晩年の作で、穏やかながらどこか寂寥感の漂う風景だと思います。
…シャルル・コッテ《悲嘆、海の犠牲者》はブルターニュ半島の西にあるサン島の情景を描いた作品で、鉛色の空をした港に大勢の村人が集まり、画面手前では土気色の肌の男性が粗末な木の担架に載せられ横たえられています。ブルターニュ半島とサン島のあいだの海域、サン水道はヨーロッパで最も危険と言われているそうで、横たわる漁夫もその犠牲者なのでしょう。担架が置かれた台は赤い布に覆われ、祭壇のようにも見えます。血の色でもある赤は、犠牲を象徴しているのかもしれません。布や船の帆の赤と人々が纏う喪服の黒との鮮やかな対比、停泊する漁船の重なり合う帆と立ち並ぶ家並みの単純化された幾何学的な形は画面に力強さを与えています。漁夫の周りに集まった人々は天を仰いで嘆く者、手巾で涙を抑える者やそれに寄り添う者とそれぞれに悲しみを露わにしていますが、おそらくピエタを踏まえた構図なのだろうと思います。ある者は項垂れ、ある者は手を合わせ、目を見開いて覗き込む者もあれば涙を堪えるように顔を背ける者もいて、衝撃、悲嘆の身振りが画面をざわつかせる中、厳かな静寂を保つ漁夫はキリストのようです。聖書にはキリストが十二使徒のペテロに「あなたを人間をとる漁師にしよう」と呼びかけた言葉があるそうで、例えばピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《貧しき漁夫》(1887~1892年頃)でも祈りを捧げる漁夫がキリストのように描かれています。名もなき庶民の死を気高く描き、人間の尊厳を表現した作品だと思います。

第4章 ベネディットとロダンオーギュスト・ロダン《瞑想》(原型:1900年以後、鋳造:1922年、国立西洋美術館

…松方のパリにおける美術品購入を支援したレオンス・ベネディットはパリのリュクサンブール美術館の館長であり、ロダンから作品目録の作成を託されてロダン美術館の設立準備を進めるなど、フランスの美術界に影響力のある人物でした。松方がベネディットとのあいだでロダン作品の鋳造を契約したのは1918年で、すでにロダンは逝去しているのですが、この時代の彫刻作品は、材料費や人件費などの事情から、まず彫刻家が石膏で原型を作成して公開し、注文を受けてからブロンズなどで鋳造するという手順になっていたそうです。松方はベネディットに自らのコレクションのカタログ作成も依頼し、家族ぐるみで交流していました。関係者の懐にどんどん入っていく松方はエネルギッシュで実業家らしい気がしますし、それだけ美術品への情熱も強かったのだろうと思いました。
…《瞑想》は元々ロダンのライフワークとなった大作《地獄の門》の人物像の一つで、扉の上部に位置するティンパヌムの右端で劫罰を受ける女性像が独立したものです。独立した像となる過程で普遍的な瞑想というタイトルがついたそうですが、大きく身を捩って苦悶するようなポーズは静かな物思いからは遠く、同じように《地獄の門》から独立した《考える人》が、座して頬杖をつき沈思するポーズなのとは対照的です。《考える人》の「考え」が意識的、理性的な思考を表現しているのに対して、「瞑想」はもっと直感的、あるいは霊的な深い想念を指しているのでしょうか。腕で顔を覆っているため表情は分かりませんが、重荷に耐えかねているのか、あるいは内心の真実を直視することに抗っているようにも見えます。元は劫罰を受ける像だったものにあえて瞑想というタイトルを付けたのは、心をかき乱す世俗的な苦悩から離れることの難しさ、そうした苦悩の渦中にあってこそ瞑想が希求されるということを示唆しているのかもしれないと思いました。

第5章 パリ 1921~1922:ギュスターヴ・クールベ《海岸の竜巻(エトルタ)》(1870、横浜美術館)、フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの寝室》(1889、オルセー美術館

…1921年から22年にかけて再びヨーロッパに滞在した松方は、ベネディットや姪の黒木竹子夫妻らの協力も得て、数々のフランス近代絵画を購入しました。この時期に収集された作品はクールベ《波》やモネ《舟遊び》、ルノワールアルジェリア風のパリの女たち》など現在の西洋美術館をイメージする時にまず思い浮かぶ画家、作品が多く、松方の収集活動が順調で充実したものだったことが窺われます。
クールベ《海岸の竜巻(エトルタ)》は岸に打ち寄せて砕ける白波と、雨と波しぶきで霞む海上から垂れ込める暗い雲に向かって巻き起こる黒い竜巻の姿が描かれています。雲の端で白く光るのは稲光でしょうか。1869年夏にエトルタに滞在したクールベは、窓に額をくっつけて荒れ狂う嵐の空や海を観察したとも言われ、翌年にかけて《波》をはじめとする嵐の海を題材とする多数の作品を制作しました。自然の作りだす一瞬の形象に究極の完全さを見出したような《波》とは対照的に、激しい嵐のただ中の混沌とそのエネルギーを描いた迫真の風景だと思います。
ゴッホ《アルルの寝室》は3つのバージョンがあり、出品作はサン・レミの精神療養所に入院したあとゴッホが母親のために描いた最後のバージョンです。実際の寝室は矩形の部屋だそうですが、ゴッホは長方形に単純化し、魚眼レンズで覗いた光景のように部屋の奥行きを強調する構図で描いています。青い壁や扉と黄色いベッドや椅子とが対比され、壁に掛かるスモックや麦わら帽子がこの部屋の主を示唆しています。画家の部屋なのに画架やパレットが見当たらないなと思ったのですが、休息のためのプライベートな空間ですし、ゴッホの場合は積極的に戸外に出て制作に取り組んだということもあるのでしょう。ゴッホ静物画を描いても画家の人物が滲み出て自画像のように感じられる場合があるのですが、この作品も同様で、身の回りの品と絵があるだけの簡素な室内からは、制作に打ち込むゴッホの人柄の一端が感じられます。「ぼくはまさに他の芸術家たちがぼくのように簡素を欲する気持ちを持って欲しいと願っている……日本人はいつも非常に簡素な室内で暮らしてきたが、それでも偉大な芸術家があの国で生まれたではないか」*2東京都美術館ゴッホ展 めぐりゆく日本の夢」では三作ある《寝室》のうち、ゴッホ美術館所蔵のオリジナルの《寝室》(1888年)が出品されていたのですが、オリジナルがアルルに着いた直後のユートピアを夢見ていた時期の作品であるのに対して、今回の出品作は精神療養所に入院したあとのものなんですね。つまり、この作品はゴッホの人生でも希望に満ちた幸福な時期と傷つき夢破れた苦難の時期の双方で描かれていることになり、その意味で画家自身と共にあったと言えるかもしれません。両者を比べてみると壁に掛けられている絵や視点の角度などが変わっているのですが、一番の違いはオリジナルが青と黄に加えて赤と緑の補色の対比も効果的に用いられ、床板が赤みを帯びた茶褐色で、ベッドカバーの赤と共に床板の継ぎ目や窓枠の緑と対比されていることで活気や華やかさが感じられる点だと思います。一方、1889年に描かれたこの作品では床板の色が薄くなって赤の印象が後退し、全体としてオリジナルより淡く落ち着いた雰囲気になっています。見る側としてはこの間の変化を踏まえて客観性と冷静さ、情熱や葛藤が洗い流された寂しさと穏やかさを読み取りたくなるのですが、澄んだ静かな明るさに満ちた作品だと思います。

第6章 ハンセン・コレクションの獲得/第7章 北方への旅:エドゥアール・マネ《ブラン氏の肖像》(1879頃、国立西洋美術館)、エドヴァルド・ムンク《雪の中の労働者たち》(1910、国立西洋美術館)他

…1922年、松方はデンマークの実業家ウィルヘルム・ハンセンの近代フランス絵画コレクション34点を各国のコレクターと競合した末購入しますが、その後川崎造船所の破綻などもあり、作品の多くは売却されてしまいます。ブリヂストン美術館が所蔵するエドゥアール・マネの《自画像》もその一枚ですが、マネの自画像はたった2点しか残されていないそうですから未完成とは言え貴重な作品です。散逸してしまったことは残念ですが、松方コレクションがこうして国内各地の美術館に受け継がれているのは救いでもあるでしょう。この《自画像》とよく似たポーズを取っているのが、同時期に描かれた《ブラン氏の肖像》です。青い上着に白いズボンという爽やかな季節に合った装いのブラン氏は、生い茂る木立のあいだの小道を散歩中にふと立ち止まったようなさりげなさで、腰のポケットに手を入れて木漏れ日の中に佇んでいます。マネは梢や木漏れ日を印象派的な素早いタッチで描き、戸外の光や風を表現しつつ、人物はシンプルな輪郭線と平坦な色面によって形を保って描いていて、新たな表現を模索していたことが見て取れます。この作品はブラン氏のために描いた肖像画を元に、マネが大きなサイズで描き直したものだそうなので、きっと画家は肖像画の出来栄えを気に入っていたのでしょうね。軽やかで洒落た印象の作品だと思います。
…1921年の松方の渡欧は、海軍から最新のドイツ潜水艦の設計図を入手するよう依頼されたためで、パリにおける収集活動はカムフラージュだったとも言われているそうです。小説のような話の真偽は不明だそうですが、松方は実際ドイツや北欧も訪れて作品を購入しています。
エドヴァルド・ムンク《雪の中の労働者》はこの時期に購入された作品のうちの一枚で、雪の中、ツルハシやスコップを手にした労働者たちが作業に勤しんでいます。前景ではスコップを担いだ男性が白い地面をしっかりと踏みしめるように立ち、後ろの男性が突き出したスコップは見る者に迫るように大きく描かれていて、力強さが感じられます。ムンクというと生と死、愛と性を象徴的に描いた作品のイメージが強いので、現実の社会と向き合って過酷な労働を担う人々の逞しさを表現したこの作品には新鮮な印象を受けました。
…《眠れるニンフとふたりのファウヌス》は《死の島》で有名なアルノルト・ベックリンの作品です。ファウヌスはギリシャ神話のパーンに当たるローマの神で、多産のシンボルでありニンフに恋する逸話も多く、夢魔のイメージもあるそうです。しかし、この作品ではむしろファウヌスのほうが夢見心地になっているかのように座り込み、陶然とした表情でニンフに見惚れています。画家はただそこにあるだけで見る者を惑わせ、虜にする女性のミステリアスな魅力を表現したかったのかもしれません。
ピーテル・ブリューゲル(子)《鳥罠のある冬景色》もこの時期に入手した可能性がある作品で、父ピーテル・ブリューゲルのオリジナルに基づき、長男ピーテル・ブリューゲルが手掛けた模写です。東京都美術館の「ブリューゲル展」(2018年)でも別の模写作品を目にしましたが、《鳥罠のある冬景色》の派生作は127点、長男のピーテルはそのうち40点余りを手掛けている*3そうですから、人気の高さが窺われますね。もっとも、模写と言っても完全に同じではなく、東京都美術館で見た作品は空全体がうっすらと白っぽいのに対して、今回の出品作は空が青く晴れ、樹木や家の壁の色も鮮やかで、そうした違いを見比べるのも面白いです。今回の出品作はピーテル・ブリューゲル(子)による模写の中でも特に質が良いものの一枚だそうです。
…なお、松方が北ヨーロッパを旅する中で購入したタピスリー《神話の一場面》は、スペースなどの都合なのでしょうが、第1章の展示室で展示されていました。

第8章 第二次世界大戦と松方コレクション:ハイム・スーティン《ページ・ボーイ》(1925、パリ国立近代美術館・ポンピドゥーセンター)、ピエール=オーギュスト・ルノワールアルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》(1872年、国立西洋美術館

…1927年に起こった昭和金融恐慌の影響で川崎造船所は経営破綻し、松方は1928年に社長を辞任します。国内では差し押さえられた作品が売却される一方、ロンドンの倉庫に保管されていた作品は1939年に火災で焼失し、パリのロダン美術館の旧礼拝堂に預けられていた作品は1940年に松方の部下である日置によってパリの北のアボンダンに疎開しました。大戦末期にフランス政府に接収された松方コレクションは、戦後、返還交渉の末に20点がフランスに留め置かれることになりましたが、日本に返還された作品群はル・コルビュジエ設計による国立西洋美術館に収められ、日本人のための美術館設立を目指していた松方の念願も叶えられることになりました。
…真っ赤な服が目を引くハイム・スーティンの《ページ・ボーイ》は、上述の日仏間の交渉の結果、フランスに留められた作品の一つです。ページ・ボーイとはホテルや劇場などで客を案内したり、用を言い付かったりする給仕・ボーイのことですが、慇懃で如才なく立ち働く職業というイメージとは対照的に、ここでは腰に手を当てて肩を怒らせ、立ちはだかるように足を開いた姿で描かれています。赤い服と暗い色調の背景、威圧的ななポーズとしぼんだ顔の憂鬱そうな表情とが対比されていて、華やかな世界に身を置きつつ人に傅く尊大さと屈託、疎外感が感じられる作品だと思います。
…一方、ルノワールアルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》は、文化財保護委員の八代幸雄がフランス側と粘り強く交渉した末に、日本へ返還されたルノワール初期の代表作です。ルノワール自身はこの作品を単に「ハーレム」と呼んでいたそうなので、舞台設定はオリエント世界だったのだろうと思いますが、座の中心である金髪の女性はヨーロッパ女性なので、後になって「アルジェリア風のパリの女たち」という名称が付けられたのでしょうか。この作品を制作した当時のルノワールはまだ実際にはアルジェリアを訪れたことはなく、ドラクロワの作品や神話などを元にオリエンタルなイメージを膨らませて描いたものなのでしょう。画面中央、肌の透ける薄い衣装をまとった金髪の女性は身支度をしているところで、仄暗い室内に差し込む光が女性の白い肌を照らし出しています。初期の作品ということですが、生命力を感じさせる豊満な肢体にはルノワールらしさを感じます。画面左側に座って装身具と化粧道具を手にした女性があらぬ方を振り返り、画面右奥で幾何学的な装飾の長持ちに腰掛けた女性が窓のほうに身を乗り出しているのは、女性たちが寛いでいるところに突然ハーレムの主がやってきたのでしょうか。侍女たちが外の出来事に気を取られているのをよそに、金髪の女性はすかさず鏡を見て自分の姿を確かめていますが、白い腿を露わにさらけ出さした官能的な姿態と裏腹に、眼差しは真剣なものです。遠い異国、あるいは夢想の後宮で、艶やかな女性たちが織りなす一瞬の緊張感を表現したロマンチックな作品だと思います。

プロローグ/エピローグ:クロード・モネ《睡蓮》(1916年、国立西洋美術館)、《睡蓮、柳の反映》(1916年、国立西洋美術館

…両作品は晩年のモネが睡蓮の大装飾画を制作する過程で生み出されたものです。制作途中の大装飾画の構想が外部に漏れることを嫌ったモネはこうした関連作品を売りたがらなかったのですが、ベネディットの支援や影響力、モネと親しい交流のあった松方の姪黒木竹子夫妻の仲介もあって、松方はこれらの貴重な作品を入手することができたそうです。
…ほぼ正方形のカンヴァスに描かれている《睡蓮》は、水面に映り込んだ緑から岸辺の様子が窺われるだけで、画面は水を湛えた池に占められています。睡蓮の群生する池の青は水の色であり、同時に空の色でもあるのでしょう。水面の緑は岸辺に生える緑が映り込んだものとも、水中の水草とも考えられます。モネは日々自邸の庭を見つめていたと思いますが、描かれたこの睡蓮の庭は実際に見たままを写したというより、モネの無数の経験、記憶を通して昇華された光景のように感じられます。
…《睡蓮、柳の反映》は第二次大戦中、疎開していた時期に損傷したと見られていて、その後所在が分からなくなっていたものが2016年にフランスで見つかり、修復を経てこのたび公開されることになったそうです。作品は右上から左下にかけて約半分が失われてしまっているのですが、この残存部分を元に、損傷する前に作品を撮影した写真や他のモネの作品なども分析した上で推定された全体像が今回、デジタルで復元されて公開されていました。復元図を見ると、水面に映る曲がりくねった柳の幹と葉を取り巻くように睡蓮が描かれています。睡蓮の葉は青みがかっているんですね。時間帯や天候にもよるのでしょうし、水面に映り込んだ柳の緑を際立たせるためでもあるのでしょう。同時期、同主題の《睡蓮》においては図が睡蓮で、地は池であるのに対して、《柳の反映》では地と図が逆転しています。この作品が完全な姿で残っていれば、かなり大きな画面ですから見る者は水の中に引き込まれるような印象を受けるんでしょうね。空と陸と水の三つの世界が一つに重なり合っている、水鏡の中だからこそ可能な世界に、唯一実体を持っている睡蓮だけが溶け合うことなく表面を漂い、現実と映像の境界を示している、そんな作品のように思いました。

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《睡蓮、柳の反映》デジタル推定復元図

 

*1:カルロ・クリヴェッリ画集』トレヴィル、P88-90

*2:ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」(東京都美術館、2017年)P84

*3:ブリューゲル展」(2018年、東京都美術館)P194