展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

琳派と印象派展 感想

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www.artizon.museum

 

…『琳派印象派 東西都市文化が生んだ美術』展は、京都の町人文化として生まれ、19世紀の江戸に引き継がれた琳派の作品と、19世紀のフランス・パリを中心に新しく生まれた印象派の作品を、洗練された都市の美術という視点から比較して見るものです。
…アーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)というと印象派のコレクションが真っ先に思い浮かぶのですが、日本美術の優れたコレクションも所蔵しているんですね。琳派と呼ばれる画家たちですが、彼らのあいだに直接の師弟関係はなく、俵屋宗達尾形光琳など先人の作品に憧れた絵師がその後継者を名乗り、その作風に学んで新たな作品を生み出したという点がユニークだと思いました。作品こそが優れた良き師であるとも言えますし、時代を超えて絵師を魅了する美があったということなのでしょう。建仁寺の《風神雷神図屏風》(展示期間:後期2020年12月22日~2021年1月24日)の出品も予定されていて、国内の優れた琳派の作品を目にすることの出来る貴重な機会だと思います。なお、会期前半と後半では出品作や展示セクションが異なっているので、見たい作品がある場合は事前に確認しておくことをお薦めします。

序章 都市の様子

…《洛中洛外図屏風》(17世紀、江戸時代)は先日サントリー美術館の展覧会でも同主題の他作品を目にしたのですが、室町時代から江戸時代まで繰り返し描かれ、現在170点ほどが確認されているそうです。私が見たのはそのうちの2点ということですね。金色の雲がたなびく京都の街の俯瞰図、鑑賞者を中心として右隻と左隻それぞれに京都の東側と西側の名所及びその風物が描かれているといった点は共通していますが、サントリー美術館の作品では後水尾天皇による「寛永行幸」(1626年)、アーティゾン美術館の作品では徳川秀忠の娘和子の輿入れ(1620年)が描かれているといった違いもあります。繁栄を謳歌する煌びやかな都は人々の憧れの都会であると同時に、日本の中心、人々の認識における世界の中心であり、それを象徴するような非日常的、記念碑的イベントが描かれているのでしょう。

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洛中洛外図屏風》右隻(江戸時代、17世紀)

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洛中洛外図屏風》左隻(江戸時代、17世紀)

印象派の画家たちはパリの風景や郊外で流行のファッションを身に纏い、レジャーを愉しむ人々を描いています。華やかな都市生活への憧れをかきたてるという点で共通していますが、洛中洛外図が非日常的であるのに対して、印象派の描く都市は華やかでも世俗の庶民の日常と地続きのところが違うようです。オランダからパリに出てきたゴッホは、《モンマルトルの風車》(1886年)で故郷オランダを象徴するモチーフ、風車を描いています。ゴッホはアルルで風景画を数多く描いたのと対照的に、パリにいた時期には風景画、ことに都市の賑わいや流行の風俗はあまり描いていないような気がします。ゴッホがの場合は風景を描くとき、自然や自然の中で労働する農民たちへの愛情を込めていたのでしょうね。

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ゴッホ《モンマルトルの風車》(1886年)

第1章 the 琳派

琳派というと華麗な彩色画が思い浮かぶのですが、今回の展覧会では水墨画の作品も見ることが出来ました。俵屋宗達の《狗子図》(江戸時代、17世紀)は墨の濃淡のみで子犬のふっくらとした丸みが表現されていて、手前に淡く描かれた野の草花が春先の優しい風情を感じさせます。酒井抱一《白蓮図》(19世紀、江戸時代)は薄い墨で描かれた蓮の葉の手前に、一際白く清らかな蓮の花が描かれています。モチーフの配置的に先に背後の蓮の葉を薄く描いておいて、その上から手前の白い花びらを塗るほうが簡単そうなのですが、蓮の葉脈を見ると先に花を描いてそれの周りに蓮の葉を描いたようです。水墨画は重ね塗りができないですからね。尾形光琳李白観瀑図》(江戸時代、18世紀)は流れ落ちる滝、滝にかかる樹木の枝葉、滝に向き合う李白、その座す地面等、それぞれに筆遣いや墨の濃淡、滲みや掠れが効果的に用いられています。墨は単なる線や影でなく、微妙な色合いや多様な質感を表現しうる奥深い色であることを改めて実感しました。

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尾形光琳李白観瀑図》(江戸時代、18世紀)

第2章 琳派×印象派

…「水の表現」では水の形を描いた琳派の作品と、水に映る光を描いたモネの作品が展示されていましたが、両者とも融通無碍で自在に変化する水に着目するという点では共通しているとも言えそうです。伊年印(俵屋宗達が主宰した工房作を示す商標印)による《源氏物語図 浮舟、夢浮橋》(17世紀、江戸時代)は直線的で鋭い線によって宇治川の流れの速さが、尾形光琳《富士三壷図屏風》(18世紀、江戸時代)は盛り上がった曲線でうねる波の高さが描写されていて、水の秘めた力、時には恐ろしさが形に込められているように感じられます。一方、睡蓮をモチーフとするモネの一連の作品群に描かれているのは、刻々と移ろう空の色や池の畔の風景を映し出す静かな水鏡です。《睡蓮の池》(1907年)は赤く色づいた空が映り込む夕暮れ時の風景ですが、画面一杯に広がる水面が眼前に迫り池の畔が見えないため、空と池、地と図の境界が曖昧で夢の中のようにも感じられる作品だと思います。

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伊年印《源氏物語図 浮舟、夢浮橋》(江戸時代、17世紀)

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モネ《睡蓮の池》(1907年)

…扇形の支持体に絵を描く「扇絵」に定評があったという宗達工房の《保元平治物語絵扇面》(17世紀、江戸時代)は、画面に合わせて空間が歪められていて現実の正確な再現からは離れている反面、船の一部が突き出すように描かれて目を引くなど、柔軟な遊び心が表現の自由度を高めています。方形の画面に絵を描くことを当然のように思ってしまいがちですが、どんな形を選ぶことだって本来は可能なんですよね。西洋絵画では二次元の画面に三次元の空間を描く遠近法によってあたかも自然な視覚を再現したかのような作品が制作されてきましたが、扇状の特徴的な支持体の形はそれが絵画であることを改めて思い出させる効果があると思います。マネが扇面画を残しているのは単なるジャポニスムにとどまらず、示唆的であるように思います。

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宗達工房《保元平治物語絵扇面》(江戸時代、17世紀)

…日本美術の「間」=余白はモチーフが同居する一つの空間として作用することもありますが、モチーフの間に連続性がなくても成立する、曖昧さや自由さがあります。俵屋宗達舞楽図屏風》(17世紀、江戸時代)の主題である舞楽とは朝鮮半島や中国大陸から伝わり平安時代に大成した器楽と舞のことで、中国や中央アジア、南アジアを起源とする左方の舞(左舞)と朝鮮半島満州を起源とする右方の舞(右舞)とに分かれていて、装束も左舞は赤系統、右舞は緑系統の装束を纏っているのだそうです。金箔が敷き詰められた空間は左下から右上へ画面を斜めに横切っていて、右上が大きく空いているのですが、むしろ「間」のほうが主役であり、奏でられる音楽や、典雅で厳かな儀式そのものを感じ取るべきなのかもしれません。「間」は自然主義的な空間であるよりも象徴的、抽象的な場であり、視覚以外の感覚や情趣で画面を満たす役割を果たしているのではないかと思います。
セザンヌドガも人物のポーズに興味を持っているように感じられますが、セザンヌの興味が形にあるのに対して、ドガは動きに興味があるように感じられました。ドガの《踊りの稽古場にて》(1895~98年)は「間」があることで踊り子たちの動きが想像させられますし、逆に、踊り子たちに動きがあることで空間の感覚がもたらされるようにも感じられます。一方、セザンヌの《水浴》(1865~70年頃)では空間の広がりがあまりなくて、舞台のように前景に水浴する人物が並置されています。この作品で「間」は背景であり楽園、理想郷的な世界を説明しているとは思うのですが、描かれた人物同士が互いに意味や物語を共有し合っているというより、むしろそうしたポーズ、あるいは人物ですらなく形体が美的に配置されているという印象のほうが強く、この作品の先にマティスの《ダンス》があるのだなと感じました。

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ドガ《踊りの稽古場にて》(1895~98年)

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セザンヌ《水浴》(1865~70年頃)