展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

舟越桂 私の中にある泉 感想

shoto-museum.jp

概要

…この展覧会は木彫彩色の作品で知られる彫刻家、舟越桂氏(1951~)の作品展です。タイトルの「私の中にある泉」は「自分の中の水の底に潜ってみるしかない」という舟越氏の言葉に基づくもので、モデルとなる人物の泉であると共に作家自身の泉でもあり、人の内なる源泉を見詰めて形にすることが外の世界、普遍的な人間像を表現することに通じることを意味しているそうです。
…出品作は、彫刻作品20点のほか、ドローイングや作家が家族のために手作りした玩具などが出品されています。また、作家の父で彫刻家の保武氏の作品のほか、弟直木氏、母の道子氏の作品も出品されていて、作家の育った環境、ルーツを知ることが出来ます。
…本展会場である松濤美術館では入館時に記名が必要で、入口で整理券を受け取り退館時に返却する必要がありました。展覧会の図録は入口の受付で購入できます。所要時間は1時間程度です。

感想

…舟越氏の作品は木という素材の持つ柔らかさや温かみのようなものがそのまま人物像の雰囲気にもなっています。決して存在を誇示せず、力むことなくさりげなくその場に佇んでいるのですが、場の空気を浄化するような存在感があると思います。
…また、彩色されていることも理由の一つだと思いますが、彫刻というより人形に近い感覚を抱きました。美術品としての彫刻作品であるより身近で人間的な印象です。
…展覧会には下絵であるドローイングと完成した彫刻が共に展示されている作品もありましたが、両者を比べてみたときにこの絵がこの彫刻になるというのがすんなり受け入れられて違和感がなく、下絵の段階で完成に近いところまで構想が練り上げられていることが分かりました。また、彫刻でありながら絵画のような正面性、バストアップの作品が大半でありポーズや動きがほとんどないことも平面と立体の違和感のなさに繋がっているのかもしれません。
…舟越氏の作品は詩のようなタイトルも魅力的ですが、その独特の感性は俳人である母・道子氏から影響を受けたそうです。

午後の遺跡№2(1978年)

…初期の作品で、足の彫刻を木の枠で囲んだものであり、正面から見たときこちらに向かって足が一歩前に踏み出されるような印象を受けたました。フレームは制約であり、視野を区切って対象を閉じ込めるものという先入観があったのですが、逆にフレームがあることで動きや奥行きを感じさせる効果もあると分かって興味深かったです。

聖母子像のための試作(1979年頃)

カトリック逗子教会のために制作された木彫の聖母子像の試作です。マリアがお腹の前でキリストを抱えているポーズが、キリストが母から生まれてきたことを示唆しているように感じました。マリアの表情が柔和で優しく、身を以て我が子を包み守るように、信徒のことも見守っているのだろうと思いました。

砂と街と(1986年)

…大きな襟のコートに金色のブローチを止め、黄色のマフラーを巻いた服装も特徴的な作品で、実在の人物をモデルにしていますが、モデルとなった女性は作品を見て、「舟越さんの自画像みたい」だと感じたそうです。確かに、舟越氏の作品は、特定のモデルがいる場合、元の人物の個性的な顔貌をなぞっているのですが、その一方で、どの作品も不思議と似通っているような気がします。作品の持つ品の良さや静謐で内省的な佇まい、ひっそりとして優しげだが憂いも感じる表情などが共通しているためかもしれません。特に焦点を結ばない目の表情が独特なのだと思いますが、自意識を感じさせない、外に向かって何者かであろうとする意識の鎧を脱いだ無防備な精神のありようが感じられて、それがデリケートな印象に繋がっているのだろう思います。なお、モデルの女性は、その後「やっぱりこれは私だわ」と思ったそうです。自分である以上の何者かであり、他人のようでいて自分にも似たところがあると感じるという、まさに普遍的な次元に到達している作品なのだと思いました。

遅い振り子(1992年)

…この作品の胴体が前後逆向きになっているのは、人間の中に存在する相反するもう一人の自分を表現しているためだそうです。自分の背中、後ろ姿というのは自分でありながら自分では見えないものですから、自分でも知らない一面なのかもしれません。タイトルの「振り子」は逆向きの胴体に取り付けられた手を指すのでしょう。見た目も振り子のようです。振り子は右と左を行ったり来たりするものですから、しばしば相反する方向に揺れ動く人の心の象徴とも考えられます。
…舟越氏の作品では、肉体本来の腕が前面に出て目立つ動きやポーズを取っているものは見当たらず、概ね静かに両脇に下ろされているか、控えめな動きを見せるだけにとどまっているように思います。その一方で、《言葉をつかむ手》のように、非現実的な異形の腕、もしくは手は示唆的で霊的な力を持っているように感じられます。この作品の振り子の腕の場合も、後者の非現実的な腕の一種なのでしょう。

山を包む私(2000年)

…舟越氏が学生時代に大学へ向かう車の中で八王子城址を見かけたとき、「あの山は俺の中に入る」と閃いた経験が元になっている作品ですが、作家がアトリエの壁に貼っているというパスカルの言葉「空間によって宇宙は私を包み…思考によって私は宇宙を包む」と通じるものがあるように思います。一人の人間の力は小さく、儚い存在ですが、そんな人間でも自分の経験の限界を遙かに超えた広大無辺の宇宙をイメージすることができます。想像力は人間を人間たらしめる能力であり、自分自身はちっぽけでも偉大さや崇高さを想像し、理解することで自分の世界も無限に豊かになるところに、ただ生きて死ぬだけではない人間の尊厳があるように思います。

言葉をつかむ手(2004年)

…舟越氏は「理論化できないことは、物語らなければならない」というウンベルト・エーコの言葉をテレビで聞いたとき、何か光ったものが自分の方に飛んできて、それを首の横のあたりから生えているにある手で捕まえたような気がした経験があるそうです。左肩の後ろから生えた手にはそうした経験が反映されているのでしょう。一方で、肉体本来の腕は荒削りなままです。首の横に生えた手は精神のアンテナのようなものであり、肉体本来の手では掴めない目に見えないものをキャッチする鋭敏な精神が必要であることを象徴しているのかもしれません。また、この手について、舟越氏は「それは昨日の自分の手かもしれないし、誰か別の人の手なのかもしれない」と述べているほか、キリストの身体に触れたマリアの手のイメージも加味されていたりするそうで、多面的な意味を持っているようです。

水に映る月蝕(2003年)

…初期の《妻の肖像》(1979~80年)以来、約23年ぶりとなる裸婦像で、洋梨のように柔らかくカーブして膨らんだ胴体は妊婦を連想させます。また、背中に取り付けられた手が翼にも見えて、胸を膨らませて水面を泳ぐ水鳥の姿のようでもあります。上昇と下降の二つの作用が同時に働いているような形であり、肉体を地上に繋ぎ止める重力と、天に向かって上昇しようとする精神の力とが同居しているようにも感じられる作品です。

スフィンクスには何を問うか?(2020年)

…舟越氏の作品は実在の人物をモデルにした作品から特定のモデルがいない作品へ、さらには肩から手が生えていたり頭に角が生えていたりといった現実にはあり得ない姿へと変化していますが、異形の姿をした作品について舟越氏は「心象人物」と呼んでいるそうなので、これもまたある種の人間性を表現したものだと考えられます。当初は特定の人物の姿を通して表現されていた普遍的な人間像が、次第に特定の人格のフィルターを通さず直截的な形を取るようになっていったのでしょうか。人間離れしているけれど人間的というところが興味深いです。自分でも意識していない無意識や人間の世界から疎外された他者が、あたかも自分又は人間ではない理解不能な怪物として認識されることを表現しているのかもしれません。
…舟越氏はノヴァーリス青い花』の中で、スフィンクスの「世界を知る者はだれだ」という問いに対して少女ファーベルが「自分自身を知るものよ」と答えた一節から想を得て、人間を見詰める存在であると同時に自己の中で自分を見詰めている存在としてのスフィンクスを作り続けています。スフィンクスは半人半獣で両性具有の空想上の怪物ですが、獣でもあり人間でもある、男性でもあり女性でもあるという意味で何者でもあり得る存在とも言えそうです。
…舟越氏のスフィンクスは長い耳と長い首、乳房のある両性具有の肉体が特徴ですが、《スフィンクスには何を問うか?》はオカピのイメージも重ねられているそうで、額からまっすぐ延びている高い鼻や離れ気味の両目といった顔つきは確かに草食特物のように見えます。神話などでは人間に謎を掛ける側のスフィンクスに対して、逆に「何を問うか?」というタイトルも興味深いですが、このスフィンクスは超然としていて、こちらの問いかけに容易には答えてくれなさそうな印象です。動物性は自然の神秘や生命の根源の象徴であり、自分という存在やこの世界の真理、あるいは生きるとは何かといった答えのない謎そのものを表しているのかもしれないと思いました。