展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

1894Visions ルドン・ロートレック展

mimt.jp

…この展覧会は三菱一号館美術館の開館十周年を記念する展覧会で、三菱一号館が竣工した1894年を軸に、フランス象徴主義を代表する画家オディロン・ルドン(1840~1916)とポスターなどでも優れた作品を残したアンリ・ド・トゥールーズロートレック(1864~1901)をはじめ、当時の日仏の芸術家たちの作品で構成されています。
…タイトルに掲げられている二人の画家のうち、ロートレックの作品は約260点のロートレック作品を所蔵している三菱一号美術館のコレクションから出品されています。また、ルドンの作品は、三菱一号館美術館と十年以上前から交流を重ねてきた岐阜県美術館からの出品で、今回の展覧会は両美術館の共同プロジェクトでもあります。
…入場料は日時指定券で¥2,000と一般的な展覧会よりやや価格が高めですが、アプリでスマートホンに音声ガイドをダウンロードすると会期中は自宅でも音声ガイドを聞くことが出来るという特典があります。音声ガイドは会場で一度聞いただけだとせっかく興味を持っても内容を忘れてしまったりするので、あとから落ち着いて聞き直せるのは嬉しいですね。

…ルドンとロートレックは、それぞれ多数のリトグラフ作品を手掛けていますが、両者の作風は全く異なっています。ルドンの作品では奇怪、深淵、瞑想的な幻想の世界が黒一色で表現されています。対するロートレックリトグラフ作品はカラーで、華やかで軽やかな歓楽街の流行や風俗を大胆な構図と単純化された形体で表現しています。芸術作品と商業作品という目的の違いもあるのですが、版画という技法の表現の幅の大きさを感じました。
ロートレックは油彩画も手掛けていますが、代表的な作品というと《ムーラン・ルージュラ・グーリュ》(1891年)などのリトグラフの作品がまず頭に浮かびます。商業作品、とりわけ雑踏のただ中に貼り出されるポスターは無関心な通行人の注意を引きつける必要がありますが、逆に言えば目的のために大胆な構図やデフォルメが許容され、伝統的な形式に縛られない新しい様式をつくり出すことも可能だったと言えるでしょう。例えば《ディヴァン・ジャポネ》(1893年)は客席から身を乗り出してステージをのぞきこむような角度で描かれていますし、《ロイ・フラー嬢》(1893年)は舞台の上で翻るスカートが大きな蝶のように見えます。《ジャヌ・アヴリル(ジャルダン・ド・パリ)》(1893年)は弦楽器のネックが伸びてステージを額縁のように囲んでいるのも面白いですし、楽器の奏者の横顔はまるで音楽に合わせて波打っているかのように描かれています。
…街中で目にすることのできるリトグラフのポスターは描かれている内容も格式張らず、店や商品、街で人気の歌手や踊り子と誰にとっても身近な作品だったと思いますが、決して簡単に作れるものではないんですね。カラーと言っても色数には限りがあり、制作の工程は煩雑で専門の刷り師も必要と油彩画より手がかかる側面もあります。しかし、上述の《ロイ・フラー嬢》では版によって1枚1枚色が異なり、金粉や銀粉の吹き付け技法が用いられるなど変化をつける工夫が取り入れられていて、制約がある中でもニュアンスに富む表現を生み出すために多様な技法が積極的に試みられていたことが分かります。
ロートレックのカラーリトグラフでは赤や黄色など華やかな色と主に、しばしば黒が効果的に用いられています。例えば《ディヴァン・ジャポネ》ではイヴェット・ギルベールの羽根飾りの付いた黒い帽子や身体の線にぴったりと合ったドレスと燃えるようなオレンジ色の髪とが対比され、《アリスティド・ブリュアン、彼のキャバレーにて》(1893年)ではこちらを振り返るブリュアンの黒い帽子と黒いコートとのあいだで、襟元の赤いマフラーが一層引き立っています。また、《ジャヌ・アヴリル(ジャルダン・ド・パリ)》ではステージで踊るジャヌ・アヴリルの黒い靴下を履いたフェティッシュな足が、ステージで高々と跳ね上げられて画面の中心を占めています。ロートレックの黒は他の色彩を引き立てるとともに、それ自体が艶やかな輝きを放つ洒落た色彩だと思いました。

…一方、ルドンは「黒は本質的な色だ」という言葉を残しています。ルドンにとって黒とは、精神の深いところから湧き上がってくる夢想を源としたとき、ただ明暗を象るだけでない、それ自体が生命力を持つ色でした。描き溜めた木炭画を元に制作された黒1色のリトグラフでは不可思議で幻想的な世界が表現されています。
…版画集『夢のなかで』〈Ⅷ 幻視〉(1879年)は、モローの《出現》に影響を受けたとされる作品ですが、豪奢なオリエントの宮殿や官能的なサロメは影を潜め、ヨハネの首の代わりに宙に浮かぶ巨大な眼球が輝いています。ルドンは「眼は、眼を養い、魂を養うさまざまなものを吸収するために不可欠である」と述べていますが、この作品自体が一つの幻視であると同時に、幻視する眼、精神の深い部分から湧き出る無限の夢想に形を与える眼の力を描いたものなのでしょう。広間の片隅で手を取り合う男女はそうした見えない何かを求めて、夢もしくは無意識の世界を彷徨っているのかもしれません。
…ルドンは「物体(オブジェ)の凝視、それらによって掻き立てられる夢想から舞い上がってくる像(イマージュ)」とも述べているので、人の顔を持つ種子や蜘蛛なども現実の物体を見詰めた結果であり、殊更に奇を衒った造形を企図したわけではないのかもしれません。しかし、不気味な異形たちは見慣れた物体や安定した秩序を揺さぶり、不安を掻き立てる反面で、奇怪な造形自体が魅力的でもあります。グロテスクな怪物たちのもたらす謎や混沌、畏れの念は人知の及ばない聖性と表裏一体であり、華やかで繊細な色彩で描かれた詩人や聖女たちと同じ根から咲いた花のようにも思われます。
…ルドン《翼のある横向きの胸像(スフィンクス)》(1898~1900年)は色彩の華やかさ、特に透明感のある青に目を引かれました。スフィンクスというモチーフはルドンが尊敬していたモローの作品を思い出させるのですが、モローのスフィンクスが女性の持つ抗いがたい魔力、理性によってコントロールできない官能の力を象徴しているのに対して、ルドンのスフィンクスは人間を超越した存在としての聖性をより強く感じます。ギリシャ神話のスフィンクスは謎かけに答えられない人々を食い殺した怪物ですが、エジプトでは王や神の守護者でもあったそうなので、この作品では豊かな内面世界を守る役割を果たしているのかもしれません。
…ルドンの《オフィーリア》(1901~1902年頃)は愛に殉じて水辺で命を落とした、という共通項から同じルドンの《オルフェウスの死》(1905年~1910年頃)とイメージが重なりました。固く目を閉ざしたオフィーリアの頭部が黒い闇に包まれているのは、オフィーリアの陥った精神の闇=狂気を表現したものでしょうか。オフィーリアの亡骸を運んだ川、オルフェウスの首と竪琴を運んだ川、川は日本でも西洋でも此岸と彼岸を隔てる境界であり、死を連想させますが、一方で、水は命の源であり、流れ着く海は母性の象徴でもあります。ルドンの作品からは水の持つ両義的なイメージが感じられますが、それは生と死が表裏一体であり、命の生まれる場所と還る場所が一つであることを示唆しているのかもしれません。

…ルドンとロートレックの作品以外では、ギュスターヴ・モロー(1826~1898)、山本芳翠(1850~1906)、ポール・セリュジェ(1864~1927)の作品が印象に残りました。
…ルドンはモローを尊敬していたそうで、そうした視点で改めてモローの作品を見ると、色彩や神秘的で幻想的な世界観に共通するものを感じます。
ギュスターヴ・モローピエタ》(1854年)は十字架から下ろされて力なく横たわるキリストの背をマリアが抱きかかえている姿が描かれています。周りには使徒マグダラのマリアとおぼしき姿も見えますが、マリアとキリストのみが舞台のような一段高い場所にいて、薄暗い荒野のなかで二人の光輪が星のように光っています。今更ではありますが、この作品を見て「ピエタ」は「聖母子像」と対になる図像なのだと感じました。「聖母子像」に描かれるキリストが母の胸に抱かれる幼子であるのに対して、ピエタのキリストは最早母の腕には収まらないのですが、たとえそれが救世主であってさえも母は母であり、最後まで子に寄り添って守ろうとしているように思われます。モローは母親との絆が強かったので、そうした点も影響しているのかもしれません。

岐阜県出身の洋画家山本芳翠は、ルドンも学んだジャン=レオン・ジェロームに1878年から1887年にかけて師事しました。岐阜県美術館が山本のコレクションを有しているとのことで所蔵作品が展示されていましたが、滑らかに仕上げられた堅牢な絵肌で、本格的、古典的な油彩画であるように思いました。戸外の自然のなかで横たわる女性を描いた《裸婦》(1880年頃)は、緑に映える女性の肌の瑞々しさや透明感、量感のある確かな肉体が理想化された美しさで表現されています。《浦島》(1893~95年頃)は日本人なら誰もが知る浦島太郎の物語を描いたもので、場面は浦島が故郷に帰るところでしょう。玉手箱を手に堂々とした姿で立つ浦島は力強く足を一歩前に踏み出していますが、背後の乙姫と竜宮城を振り返っていて名残を惜しんでいるようにも見えます。洋画として描かれているためか馴染みある昔話にもかかわらずエキゾチックな印象を受ける作品です。

…現実の再現から離れた新しい芸術を求めたナビ派の画家たちにとって、夢や無意識の世界を描いたルドンは尊敬の対象でした。ナビ派の一人であるセリュジェの作品は太い輪郭線や平面的な色面などを特徴とする装飾的な画風で、ときに黒で、ときに繊細な色彩のグラデーションで目に見えない世界の実感を表現しようとしたルドンとは異なりますが、神秘的な主題を手掛けた点でルドンへの傾倒も感じられます。
…ポール・セリュジェ《急流のそばの幻影 または妖精たちのランデヴー》(1897年)は中世風のドレスを着て花を播きながら川岸の道を進む妖精たちの行列を、手前の川岸から土地の住人とおぼしき人々が見守っています。人々は跪いていたり、帽子を手に取り手を合わせていたりして、妖精たちに敬意を払う姿勢を示していますが、彼らの姿は幻想の世界に対する画家の敬意を表してもいるのでしょう。精神の森の中で幻想と現実とが遭遇して起こす奇跡を表現している作品だと思います。《消えゆく仏陀――オディロン・ルドンに捧ぐ》(1916年)はルドンの画風に寄せて描かれています。魚たちが泳ぐ水の底に沈む仏陀は、精神の世界を見詰め続けたルドンの魂がその故郷に還っていったことを表現しているのでしょう。トカゲは不死を意味する生き物だそうなので、ルドンの芸術が不滅であることを象徴しているのだと思います。

日本美術の裏の裏 感想

www.suntory.co.jp

…この展覧会はサントリー美術館の所蔵品である屏風や掛軸、焼き物や着物などの装飾美術を通して、日本美術の楽しみ方、奥深さについて7つのテーマから解説するものです。
…タイトルの「裏の裏」ですが、「裏」は単に見えない部分を意味するだけでなく、奥深く隠された内部という意味があり、目に見えていないところに隠されている魅力を探るというこの展覧会の主旨を表しています。裏、という日本語一つとっても含蓄が深いですよね。
…会場内は音声ガイドはありませんが全ての作品に展示解説があり、展示作品は写真撮影可能でした。

第1章 空間をつくる

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円山応挙「青楓瀑布図」(1787年)

円山応挙「青楓瀑布図」(1787年)は勢いよく流れ落ちる直線的な滝の水流と、岩に砕けて渦を巻く川の水流が対比され、滝の手前に伸びる楓の枝の緑が爽やかな印象です。静寂の中に滝の音と川の音が響き、水飛沫や楓の枝を揺らす風の涼やかさが感じられるような、聴覚や温感(触覚)といった五感に訴えてくる作品だと思います。
…なお、本作より以前に応挙は縦360センチを超える実物大の滝を描いていて、その作品は病中の依頼主が庭の松に掛けて愉しむために制作されたという逸話もあるそうです。

 

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狩野永納「春夏花鳥図屏風」右隻(江戸時代、17世紀)

 

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狩野永納「春夏花鳥図屏風」左隻(江戸時代、17世紀)

…狩野永納「春夏花鳥図屏風」(江戸時代、17世紀)は金箔が華やかな作品です。春と夏だけで構成される四季花鳥図は珍しいそうですが、生命の活動が最も旺盛になる季節に焦点を当てて、花が咲き乱れ鳥たちが遊ぶ楽園を表現しているのではないかと思います。西洋美術でこれだけ多くの金色が使われる作品というと宗教画が思い浮かぶのですが、自然を主題とした作品にもふんだんに使われているところが日本的であるように思います。また、雉や牡丹などの華やか、煌びやかなモチーフだけでなくツバメのような身近な小鳥やタンポポ、スミレといった身近な野の花も選ばれ、細密で写実的に描き込まれています。別次元の天国ではなく、現実の自然と地続きの延長上に楽園、理想郷があるところが森羅万象に神の宿る日本らしさかもしれないと感じました。

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「武蔵野図屏風」右隻(江戸時代、17世紀)

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「武蔵野図屏風」左隻(江戸時代、17世紀)

…「武蔵野図屏風」(江戸時代、17世紀)は華やかな「春夏花鳥図屏風」と好対照の、一面に薄の野が続く茫漠としてもの寂しい秋の野が主題で、規則的な曲線で描かれた薄は紋様のように幾何学的で様式化されています。また、右幅には地平線の下に落ちた日が描かれ、左幅に描かれた地平線の彼方に聳える富士山の白い頂と対比されています。この作品は「武蔵野は 月の入るべき 山もなし 草より出でて 草にこそ入れ」(よみ人知らずの俗謡)という和歌に詠まれて広く定着していたイメージを踏まえたものだそうですが、前提となる知識があると、想像の風景の広がりに情趣も加わるのですね。屏風や襖絵などは実用的な調度品であると共に、日常的な生活空間に新鮮なイメージをもたらし、五感やさらには情感まで含む体験を生み出す装置と言えるのかもしれません。

第2章 小をめでる

…雛道具など、調度品のミニチュアの数々は実用には役立たないにもかかわらず、作りも模様も実物さながらで、手先の器用な日本人らしい巧みさと遊び心が感じられます。

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「新蔵人物語絵巻」(室町時代、16世紀)

…「新蔵人物語絵巻」(室町時代、16世紀)は縦が11センチしかない小型の巻物で、現代ならポケットサイズの文庫のようなものでしょうか。内容は男装して宮仕えした少女と帝の秘密の恋という「とりかえばや」を連想させる内容で、おそらく素人が私的な楽しみのために作った作品という意味でも小さな作品と言えそうですね。

第3章 心でえがく

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「かるかや」上冊(室町時代、16世紀)

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「かるかや」下冊(室町時代、16世紀)

御伽草子は庶民や動物たちが主役のため身近で親しみやすく、素朴な味わいがあります。絵で物語を読ませる面もあり、挿絵は状況を分かりやすく具体的に描写しています。「かるかや」(室町時代、16世紀)の挿絵は背景が描き込まれていない場面がしばしばあり、床に敷かれた寝床と背後に立てられているはずの屏風が重なるなど水平面と垂直面との描き分けができていなかったりするのですが、躊躇いのない線で伸び伸びと描かれた世界は生き生きとしていて、物語を伝えようとする力が感じられます。
…身近、と述べましたが物語の内容は必ずしも易しくはなく、多義的で考えさせられるもののように思います。妻子を残して出家した道心の物語「かるかや」は現代人には簡単には共感できないのですが、儚く移ろう現世への執着を断つことが救済に繋がるという仏教的な真理と同じぐらい家族の絆や情愛も普遍的で価値があるからこそ、仏門と家族とのあいだで板挟みになる人間の葛藤そのものがテーマになるのかもしれません。「藤袋草紙絵巻」(室町時代、16世紀)は軽はずみな言動を戒めるものでしょうか。ただ、畑仕事の手伝いをした猿がちょっと可哀想な気もします。「おようのあま絵巻」(室町時代、16世紀)は男女とも年甲斐もなく欲望に目が眩んでいて、人間の浅ましさや滑稽さに加え、もの悲しさも感じさせます。御伽草子の絵巻物を見ながら当時の人々は何を思っていたのでしょうか。何となく、時代は変わっても人間の本質的な部分は変わらないのではないかと思います。

第4章 景色をさがす

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「耳付花入」(桃山時代、17世紀)

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同上

…「景色」とはやきものを焼く際に炎がつくり出す多彩な表情のことだそうですが、決まった正面がない、というのは面白いと思いました。また、赤茶色の表面に白い長石の粒が吹き出ていたり、灰が黒く焦げて焼き付いていたりと、綺麗に整えられていない焼き物の肌に趣き、味わいを感じるというのも奥が深いと思います。
…完璧なコントロールによって作り出された作品の素晴らしさとはまた違う、偶然により意図せず生まれた表情を楽しむという鑑賞の仕方には、美しいものがあるのではなく、ありのままの姿のなかに思いもかけない美しさがあるという逆転の発想があると思います。それはまた、好みやその時々で眺める向きを変えることができる柔軟さや多様性を許容した開かれた美でもあると思います。しかし、そのためには、さまざまな角度から作品全体を隈無く理解する必要があり、美を見出す目を鍛える必要があるとも言えるでしょうし、作り出されたものにしても裏側だからと油断できないとも言えるでしょう。自由であるとは試されることでもあり、決して容易くはないのだなとも思いました。

第5章 和歌でわかる

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「白縮緬地雨に芭蕉流水模様小袖」(江戸時代、18世紀)

…「白縮緬地雨に芭蕉流水模様小袖」(江戸時代、18世紀)は白地に青や緑のすっきりと爽やかな色合いで、着物を大きく斜めに横切る雨風を表す直線とその直線の合間を緩やかに翻る芭蕉の葉の曲線とが対比されています。日本の伝統的な衣服である着物ですが、改めて見ると立体的な西洋の衣服とは異なり、平面性を生かした絵画的で大胆、斬新な意匠が目を引くように思いました。
…そうしたデザインの中でも、瑞々しく完璧な緑の葉ではなくあえて秋の嵐で破れた芭蕉の葉をモチーフにするというのが興味深かったのですが、これは和歌に詠まれてきたイメージを踏まえたものなのだそうです。会場では西行法師の「風吹けば あだに破れゆく 芭蕉葉の あればと身をも 頼むべきかは」が作品とともに展示されていましたが、朽ちた芭蕉の葉は伝統的に人の一生の儚さと重ね合わされてきたんですね。この世には華やかさや力強さばかりでなく、物寂しさやうら悲しさもあり、両者は表裏一体だったりもするのですが、そうした謂わば「裏」の情趣にも価値を見出し表現する美意識の繊細さと豊かさを感じることができました。

第6章 風景にはいる

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歌川広重東海道五十三次のうち 吉田」(1833~1834年)

歌川広重東海道五十三次(保永堂版)のうち 吉田」(1833~1834年)には城の周りに組まれた櫓の先端に片足立ちして辺りを見晴るかしている職人が描かれていて、風景を見ている人を鑑賞者が見るという入れ子構造になっています。ユニークな点景人物は単なる風景の添え物ではなく、風景をより生き生きと見せるためのナビゲーターであり、彼らを手がかりに内側から風景を眺めることで、壮大であったり幽玄であったりする自然に叙情的な奥行きが生まれ、鑑賞者も客観的に眺めるだけでなく情感の伴う体験をすることができるのでしょう。

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谷文晁「楼閣山水図」(1822年)

…谷文晁「楼閣山水図」(1822年)は霧の立ちこめる谷の険しさ、森の深さが人界から隔絶された秘境であることを感じさせます。右幅で老人と少年の主従が渡る橋は川を渡る橋であると共に、俗界と仙境という二つの世界を繋ぐ橋でもあるのでしょう。右幅と左幅に描かれた点景人物はそれぞれ山中の楼閣の主とその元を訪れる客人にも見えますし、浮世の悩みやしがらみのない境地に憧れて俗世を離れるまでの主従の旅路と、仙境に至ってからの下界を懐かしんでいる姿にも見えます。

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住吉派「隅田川名所図巻」(江戸時代、18世紀)

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同上

…「隅田川名所図巻」(江戸時代、18世紀)は隅田川沿いの名所を東側から捉えた絵巻で、江戸の庶民の様子が生き生きと描かれています。道端で話に花が咲いていたり、店のなかで品定めをしている人がいたり、亀を散歩させている子供もいれば、川では客や荷物を運ぶ沢山の船が行き交っていたりとバラエティに富んでいて、風景画と風俗画の要素を兼ね備えた作品とも言えそうです。しかし、賑やかで活気に満ちた街とは裏腹に、家の2階の窓辺で何をするでもなくぼんやり頬杖を突いている人物の姿もあります。皆が自分のしていることに夢中ななかで物思いに耽りながら往来の喧噪を眺めている視線は、鑑賞者の視線と重なり合います。彼は目当ての誰かが通りかかるのを待っているのかもしれませんし、活気に満ちた街そのものを俯瞰して楽しんでいるのかもしれません。

森本草介展・ホキ美術館コレクション 感想

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小木曽 誠《森へ還る》2017年 Bunkamuraザ・ミュージアムにて

…ホキ美術館は2010年11月、千葉市にオープンした世界初の写実絵画専門の美術館です。数年前、美術好きの方から写実絵画を専門とするホキ美術館の名前を聞いて以来、一度行ってみたいと思っていたところ、この春、Bunkamuraザ・ミュージアムで開催された「超写実絵画の襲来―ホキ美術館所蔵」展でそのコレクションの一部を見ることが叶いました。美術館は昨年の台風で被害を受けたそうですが、リニューアルを経て無事十周年を迎えることができて良かったです。

森本草介

…「森本草介展」はホキ美術館の開館10周年とリニューアルオープンを記念するもので、ホキ美術館の出発点ともなった森本草介氏(1937年~2015年)の《横になるポーズ》(1998年)をはじめとする女性像、フランスや日本の風景画、花を描いた静物画などあわせて34点が展示されています。
…森本氏の作品は風景画も女性像も穏やかで、セピア色の優しい光に満たされた画面の中では日常と異なるゆったりとした時間が流れているように感じられます。一分の隙もない調和に満ちた世界ですが、緊張を抱かせないのは技巧や主張を見せつけるような押しつけがましさがないためでしょう。油彩画で洋画なのですが、油絵の具の物質感とそれに伴う艶や深さが控えめで平滑、淡泊なためか、日本画のような印象を受けました。風景画の空についても日本画の余白として描かれているそうで、その時々の天候や時刻を超えた記憶の中、もしくは夢の中の風景のようです。また、女性像の空間処理では、床に敷かれた布がそのまま境目なく背景に溶け込んでいる作品もしばしばありました。実際に布でアトリエを覆ったのかもしれませんが、非現実的な空間を感じさせます。写実絵画であっても、ありのまま克明に全てが描かれているわけではなく、何を描いていないかという点で作家の意図による抽象化がなされているのだと思いました。
…森本氏の描く女性たちは優美で静謐な雰囲気を纏っているのが魅力だと思います。《横になるポーズ》はアングルの《オダリスク》を彷彿させられる作品なのですが、理想化された女性美という点に共通するものを感じる一方、《オダリスク》の冷ややかな官能性に対して森本氏の描く女性たちからは温かみや癒しが感じられます。また、《立ちポーズ》(2005年)という後ろ姿で佇む女性像からは衣を纏った仏像のような神々しさを感じました。彼女たちはしばしば後ろ姿で描かれているため、どんな人物なのか、何を思っているかは見る側の想像に委ねられています。むしろ、彼女たちの滑らかな背中は見る人の心を映す鏡のようなものなのかもしれません。森本氏はモデルは神秘のベールの向こう側にいるのが理想であるとも述べていて、女性達の裸体は女神のような清浄な気品を纏っているように思われました。
…現代では絵画という枠組みすら超えて、新しい挑戦的な表現を探求している美術の世界で、あえて制作に時間を要する古典的な写実絵画を選ぶというのは難しさもあるようです。森本氏は「対象を『美しい』と感じたとき、その要素をできるだけ忠実に画面に取り入れたいという気持ちが必然的に写実的な表現に向かわせます」と語っているので、単純かつ純粋な美術の原点への忠実さが写実絵画を選ばせたのでしょうし、そうした対象への愛が作品を通じて伝わることで、鑑賞者もまたその世界に魅入られるのではないかと思いました。

五味文彦《いにしえの王は語る》2018年

…《いにしえの王は語る》は、古木の幹を中心に据えた作品です。苔むして洞のある灰色の幹は歳月を感じさせ、所々剥がれて朽ちかけた樹皮の分厚く乾いた触感は、地表を覆う瑞々しく艶やかな草と対比されています。草や幹には光が当たって明るいのですが、背景が墨色の靄に溶けているのは主たるモチーフを際立たせるためでしょう。描写自体は写真のように緻密ですが、空間を忠実に再現するよりもひっそりとしてしめやかな森の気配、古木の持つ厳かな佇まいを表現することを重視しているように感じられます。人間の寿命よりも長く風雪に耐えてきた大樹には森の主のような存在感があり、向き合う者の精神もまた深い場所に引き込まれて、言葉を持たない草木の息づかいを感じ取ることができるのかもしれません。

塩谷亮《月洸》2017年

…《月洸》は竹林を描いた縦に長い二枚で一対の作品で、油彩画ですが屏風か掛け軸のような体裁です。塩谷氏によると油絵の具は「地中海性気候の強い陽光、地平線まで見渡せる乾いた大気を表現するには最適な画材」とのことですが、私も学生の頃、ヨーロッパにひと月ほど滞在して日本に帰国したとき、風景の色の違い、特に日本では山の緑の色が濃いことに驚いた記憶があります。ヨーロッパでは風景の色彩も輪郭もクリアに見えていたことを改めて意識しましたし、一方で日本の風景は靄がかったような柔らかさがあるんですよね。《月洸》は、仄かな月の光に浮かび上がる竹林の深い緑色に染まった夜の闇に、色彩が周囲の空気にまで滲み出るような湿度の高い日本の風土を感じられるように思いました。個人的には竹林というモチーフや、間接的に月の存在を感じさせる描き方に、東山魁夷の《月篁》を彷彿させられました。

野田弘志《聖なるものTHE-Ⅳ》(2013年)

…《聖なるものTHE-Ⅳ》は大きな画面に鳥の巣を描いた作品です。画家のアトリエの庭にある牡丹の株の陰に鶯が巣を作ったそうで、細い枝や枯れ草を組み合わせて複雑に編まれた巣の中には卵が二つ抱かれています。絵に描くだけでも大変そうなこの巣を実際に作るのは更に大変そうですよね。人間のように手を使えるわけではない鳥が、誰に教わるでもなく精緻な巣を作り上げるのは不思議であり驚きでもあります。また、外敵に見つからないようひっそりと隠された巣に抱かれている卵は秘密の宝物のようでもあり、守られている安息感をイメージさせます。この作品を見ながらゴッホが鳥の巣の主題に拘りを持っていたことや、鳥の巣を描くことを得意としたウィリアム・ヘンリー・ハントの作品などを思い出しましましたが、自然の神秘を象徴する鳥の巣は普遍的に人の興味を引きつけてやまないものなのかもしれません。なお、画家の庭に作られた巣は五羽の雛が孵化した後、雛も巣も忽然と見当たらなくなってしまったとのことです。

鶴友那《ながれとどまりうずまききえる》(2016年)

…この作品は、川の流れに横たわる女性を描いた作品です。ミレイの《オフィーリア》が思い浮かびますが、オフィーリアのような悲嘆や絶望は感じられず、女性の瑞々しさや透明感のほうが印象的で水の精のようにも見えます。女性と自然の一体感を表現していると考えることも出来そうですが、女性が身を委ねている川の流れは時の流れの象徴であり、女性の若さや美しさ、あるいはより広く人の命そのものもまた儚く移ろう運命であることを表現していると考えることも出来るでしょう。しかし、それはただ虚しいものではなく、一瞬で失われるからこそ一層輝かしく、尚更に形にして残しておきたい気持ちに駆られるものなのかもしれません。

生島浩《5:55》(2007~2010年)

…《5:55》はフェルメールの人物画を思い出させる作品です。画面の斜め左上から室内に差し込む光や圧縮されたような部屋の奥行き、テーブルの上の静物もペンやインク壷、燭台と古風ですし、女性の耳元の大ぶりなアクセサリーは《真珠の耳飾りの少女》のオマージュかもしれません。窓から差し込む光と壁の時計から女性の頭部を通って燭台に向かう線とがちょうど画面中心の女性の顔辺りで交わるため、視線が自然と引き寄せられる安定した構図です。画面右側の壁がやや赤みがかっているのは夕刻の光線のためでしょうか。女性も室内の静物も自然な柔らかい光に包まれているのが目に心地良いです。タイトルの「5:55」ですが、この女性がモデルを務めるのは午後6時までという約束だったのだそうです。女性が目をそらせて何かに気を取られている風なのは、終わりの時刻が近づいて気もそぞろになっているためかもしれません。もっとも、画家にとっては作品を描く時間はいくらあっても足りなくて気が気でなかったかもしれませんね。

青木敏郎《アルザスの村眺望》(2010年)

…見渡す限りの緑豊かな葡萄畑と教会の尖塔を中心とする村の家並みを描いた《アルザスの村眺望》は、ホキ美術館開館時に「私の代表作」の1点として展示されていたそうで、今回見たなかで特に印象深かった作品の一つです。大きな作品のため、画面に風景を閉じ込めたのでなく見る側がその風景に包み込まれるようで、カンヴァスの向こう側までずっと風景が続いていきそうな空間の広がり、奥行きを感じました。もう一つ印象的だったのは光の明るさで、空を満たす光、屋根を照らす光、大地に宿る光の明るさや暖かさが感じられました。畑に覆われたなだらかな丘陵、石造りの家の赤い屋根、遠景の青く霞む遠景の山並みからなる風景は一見ありふれた平凡な眺めのようですが、何故か絵になる気がするのは、風景が伝統と断絶されておらず、人工物と自然物とが互いに馴染んでいてある種の必然を感じられるからかもしれないと思いました。同じフランスの風景を描いた写実絵画でも、セピア色の靄のかかった森本草介の昇華されたイメージの風景とは雰囲気が異なり、油彩画らしい重さや厚みが画面に実体感をもたらしていて、それぞれの個性が興味深いです。

アーティゾン美術館新収蔵作品特別展示:パウル・クレー 感想

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www.artizon.museum

…この特別展示は石橋財団が2019年に収蔵した24点のパウル・クレー(1879年~1940年)のコレクション全てを初めて紹介するもので、以前より所蔵されていた《島》と合わせた25点の作品で構成されています。収蔵された作品は1910年代半ばから1930年代末に及んでいて、クレーの画業の大半が網羅されています。

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クレー《小さな抽象的-建築的油彩(黄色と青色の球形のある)》1915年

…《小さな抽象的――建築的油彩(黄色と青色の球形のある)》(1915年)は同時期のキュビスムなどの影響が見られる作品で、赤や茶色、オレンジなどの暖色を主として描かれた街の風景は、前年に滞在したチュニジアの市街風景にも想を得ているとみられるそうです。空に輝く黄色の月と対になる青い球形は地平線の下に沈んだ太陽でしょうか。

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クレー《庭園の家》1919年

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クレー《庭の幻影》1925年

…《庭園の家》(1919年)は英語の作品名が《Summer Houses》ですから、夏の風景を描いた作品でしょう。三日月の浮かぶ空と家や木々が青、緑、白の爽やかな色合いでメルヘンチックに描かれています。クレーにとって庭とは、地上と宇宙との間の行き来を可能にする特殊な場だったそうで、家と木々や家と家の影とは互いに重なり合いながら、月の浮かぶ空を目指すように積み上がっています。他方、同じ庭を描いた作品でも《庭の幻影》(1925年)はずいぶん趣が違っていて、暗褐色の闇に浮かぶ一際赤い太陽が赤い木と緑の木が立つ庭をぼんやりと照らし出し、水平な細い線がほぼ等間隔で画面を横切っています。画面左側には塔のある教会らしき建物も描かれていて、こちらは内的、瞑想的な世界を感じさせると思います。

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クレー《数学的なヴィジョン》1923年

…まるで天秤や実験装置が描かれているように見える《数学的なヴィジョン》(1923年)は、素描を油彩によって転写したものだそうです。元となった素描というのは《Ph博士の診察室装置》(1922年、宮城県美術館所蔵)のことでしょうか。元の素描にはなかった上方に浮かぶ黒い円がこのヴィジョンを現出させ、互いに連動した精密機械によって動いている世界の秘密を明かしているかのようです。

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クレー《守護者のまなざし》1926年

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クレー《守護者》1932年

…《守護者のまなざし》(1926年)という作品は渦のような線で描かれた目を持つ人が腕に子供を抱いています。英語の作品名に“a Protective Woman”とありますから、守護者とは母親であり母子像と見ることも出来るでしょう。眠る子供から目を離してこちらを振り返っている守護者からは少し怖いような印象も受けるのですが、脅かそうと近寄る何者かに対して子供を庇おうとしているのかもしれません。同じく守護者を題材とした《守護者》(1932年)は赤いドット、白、グレーの面が重なり合っていて、薄いグレーは3人の人影のようにも見えます。何を守ろうとしているのかは具体的には分からないのですが、人影に重なる赤いドットの部分はモノトーンの画面の中で唯一の色彩であり、血や熱を連想させ、生命力を感じさせる赤という色彩の持つ効果もあって、守護者達に共有され、同時に守護者達の間を繋いでいるように思われます。

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クレー《寓意的な小立像(消えていく)》1927年

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クレー《羊飼い》1929年

…《寓意的な小立像(消えていく)》(1927年)では両手を挙げて振り返る道化師が描かれています。道化師の胴体の向こうには二つの赤い四角形が透けて見えていて、タイトルのとおり消えかかっています。束の間の存在に過ぎない道化師の姿は私たち自身でもあるでしょう。私たちは後ろ(過去)を見ることしか出来ませんが過去を変えることは出来ず、見えない前(未来)に進むことしか出来ないんですよね。《羊飼い》(1929年)では、両手を広げて四匹の獣の前に立ちはだかる羊飼いが描かれていますが、これは羊=信者たちの信仰を守り、羊たちのために命を捨てる良き羊飼い=イエスという聖書の喩えを踏まえたものだそうです。大きく描かれた羊飼いの姿には存在感があり、赤い心臓はキリストの愛を象徴していると思われます。

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クレー《島》1932年

…クレーは具象画と抽象画のどちらも描いているのですが、《島》は抽象的な作品で、規則的なドットとフリーハンドで引かれた線、色彩による面という要素の重なり合いが描かれています。自身でもヴァイオリンを演奏したクレーは音楽への理解が深く、ポリフォニー(多声音楽)のような重なり合いを絵画で表現したかったのだそうです。個人的には点はリズム、線は旋律、色彩は和声をそれぞれ表現しているのではないかとも思いました。

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クレー《踏切警手の庭》1934年

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クレー《谷間の花》1938年

…《島》では素材に砂が用いられていますが、1930年代の作品では布に描かれているものも多くありました。クレーの作品は揺れ動くような透明感のある色彩が特徴の一つだと思うのですが、《踏切警手の庭》という作品では不透明なパステルカラーが目を引きました。また、《谷間の花》は黒い布地に描かれた作品で、白い紙やカンヴァスに描かれる以上に平坦な色彩の面の鮮やかさが引き立っています。組み合わされた多様な形には輪郭を縁取る描線がなく、色がそのまま一塊の形を成したかのようにも見えました。晩年のクレーはイメージの描出よりも絵画の物質感そのものを表現しようとしていたのかもしれません。

鴻池朋子 ちゅうがえり 感想

 

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洗面器 顔、タンポポ(2020年)


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…今回、アーティゾン美術館にはクレーの新収蔵作品を見ようと思って来たため、鴻池さんの展覧会には何の心構えもなく入ってしまったのですが、じわじわと何だか面白いかも…という気持ちになり、見終わった後もふと思い返してあれは何だったんだろうと気になるような、後を引く面白さでした。
…作品は絵画だけでなくジオラマや手芸作品、影絵灯籠や襖絵のインスタレーションなどバラエティに富んでいて、絵画であっても毛皮に絵を描いた作品などもありました。会場も天井から毛皮やテープがつり下がっていたり、壁の背後に作品があったり、滑り台まであって、子供の頃、探検と称して物陰や細い道に入り込んで遊んだ記憶を彷彿させられました。
…作品のモチーフは人や動物、昆虫、さらに生物だけでなく竜巻や山や地球など無機物や気象現象も含まれ、自然に由来する森羅万象が鏤められていました。文明、文化、流行や習俗、個性や人格など人間性の次元はいくつもあると思いますが、作家はその中でも一番深い層、生物としてのヒトとしての感覚を取り戻すこと、根源的な生命力と結びつくことを意識しているのではないかと思いました。凧やすごろく、襖など懐かしさのある和のアイテムが取り入れられていたのも、日常生活にデジタルな人工物が溢れているなかで、アナログな感覚を呼び起こすためかもしれません。

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凧(会場入口、2018~2020年)

…また、この展覧会は現代美術家石橋財団コレクションとの「ジャム・セッション」ということで、展示コーナーのテーマや設定等から関連づけられるアーティゾン美術館のコレクションが要所で作家の作品と共に展示されていました。クールベの《雪の中を駆ける鹿》を見たときは、見覚えのある作品によく似ているけれど作家による模写だろうかと思ってしまったのですが、そのぐらい馴染んで嵌まっていました。

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クールベ《雪の中を駆ける鹿》(1856~57年)

…古典的な絵画の展覧会の場合、会場内の展示はテーマや関連性を踏まえた構成になっているものの、基本的に1枚の作品はそれぞれ個々の作品で完結している、逆に言えば1枚の中に世界が凝集されているのですが、この展覧会では作品が相互に呼応し合い、石や毛皮といったオブジェや照明などの効果も含めて総合的に作家の世界観を表現している印象を受けました。会場全体が一体となった作品とも言えそうで、新鮮な体験でした。
…会場の中心に設置された襖絵のインスタレーションには流れや月、竜巻などが描かれていました。なかでも地球断面図は周囲に展示された石やひと塊の鉱物、さらに岩の塊である山のジオラマと呼応し合って、ものを形作るミクロの単位とそれにより出来上がっているマクロな構造とが対比されていました。全体が部分から成っているなら部分の性質こそ全体を決定づけている、部分に全体が宿っていると考えることもできるでしょう。地球断面図は細胞のようなのですが、幾つもの命の集合である地球は一個の生き物のようであり、さらに大きな宇宙の細胞の一つなのかもしれません。襖の内側に設置されたスロープを上った先は滑り台になっていて、滑り降りることも可能なので、女性はスカートではなくズボンで見に来るのがお薦めです。

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襖絵(2020年)

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襖絵 部分(地球断面図)


…影絵灯籠はパラパラ漫画や幻灯機のようで、関連があるようで脈絡がないような、繋がっているようでありながらいつの間にか別のものに変化しているところが面白かったです。コマ送りのような影絵にストーリーを作り出すのは見る人の想像力なのでしょう。前の壁を通り過ぎていく影たちを見ていると、回っているのは灯篭ではなく自分のような錯覚が起きて軽く目眩を覚えました。

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影絵灯篭(2020年)


…スナップ写真やラフスケッチなどのコーナーには「ゆっくりと停止」という作家による文章も展示されていたのですが、作家にとって作れなくなるというのは、感覚を失うことで、生理的なものなのだなと思いました。それでも作らずにはいられず、他者の手を借り意欲を借りて制作したとあり、例えば今回の会場に展示されていたテーブルランナーなどもそれに該当するのでしょう。
…「物語るテーブルランナー」は鴻池さんが国内外の各地で人々の体験、記憶についてインタビューし、聞き取った物語を元にデザインした図案をそれぞれ物語った本人が自分で縫った作品です。テーブルランナーと共に物語が記載されたボードも展示されていて、ぱっと見て絵柄に興味を引かれたものをいくつか手に取って読んでみたのですが、昭和30年代の小学校で給食に家の野菜を持っていった話や、昭和初期に経済的な困難から流産するため女性が柿の木に上った話、仲間と別れて一人帰ろうと外に出たところ、ふいに自然のなかに魔が潜んでいるように感じられた夜の話など、面白い話や少し不思議な話、怖いような話など様々なエピソードがありました。物語る人の数だけ作品があり、一点一点それぞれに個性的なのですが、個別の作品よりプロジェクトそのものに意味があるのかもしれません。民俗学の仕事を連想したくなるのですが、作家は物語の真偽や記憶を記録するということには興味がなく、語りという行為そのものの芸術性を表現したかったそうです。それぞれの心の中に留め置かれる限りは埋もれたままだったものが語られるとき、人はただ語るのでなく情報を選別したり因果関係を見出したり、感情や時には想像も交えてこの世界に送り出すんですね。素朴で荒削りな物語は私たちが生きている剥き出しの現実――起きて働いて食べて寝る日々を繰り返す人々が生まれてはやがて死んでいく――をイメージの皮膜で柔らかく包むものであり、無駄や虚偽とは違う現実を超えたある種の真実と言えるのかもしれません。テーブルランナーは会場では壁に展示されていましたが、元はその用途どおり食卓に広げることを想定したものだそうで、それぞれの物語が一面に並べられていたら曼荼羅のようだろうなと思いました。
…「そこで作品を見ている人よ、何を見ている?」という問いかけで始まる「見る人よ何を見ている」という文章で、作家の創造も見ることから始まる、「見る」とは発見することであり「つくる」としています。私は自分で何かを描いたりするわけではなく、専ら美術作品を見ることを楽しんでいるのですが、見ることが単なる消極的受動的な行為でなく、積極的能動的なものとされていたのは素直に嬉しかったです。一方で、観客であるのに知識や許可は不要であり、勝手に判断、評価を下し、ときには作家の思いも寄らない地点へ飛躍するのも自由だともされていますが、どれだけ豊かなものを引き出せるかは見る側自身にもかかっているのだとも思いました。

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見ゆ~初雪(2012年)

 

FREESTYLE2020 感想

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tcv-freestyle2020.roppongihills.com


…「FREESTYLE2020」は大野智さんの約5年ぶり3度目となる個展で、過去2回の個展に出品された旧作(絵画約40点、立体作品約130点、写真約10点等)に絵画を中心とする新作20点以上を加えた幅広い内容の作品が出品されていました。
…作品は素材や技法が多岐にわたる一方で、特定のモチーフへの拘りが窺われ、特に顔への強い関心が感じられました。フィギュアは専ら顔だけ、全身が描かれている絵画の場合も顔が大きく、首から下は小さくデフォルメされていることがしばしばです。モデルが明らかな作品は少なくて、アノニマスな顔が多く見受けられましたが、誰かを表現することより、顔そのものへの興味があるのかもしれません。ただ、匿名だからといって没個性なのではなく、むしろアクの強い癖のある顔、表情であったりして、《グリーンヘッド》の顔などはなかなかに味があるとも思います。また、同じ型から作られたフィギュアであっても、あるものは歌舞伎役者の顔であり、別のものはピエロであったりと、ものによっては装飾が違うだけで別人のように見える場合もあります。いかに多様なキャラクターを生み出せるかシンプルに楽しんでいるようですが、大野さんは演技の仕事もされているので、一人の人間が別人のように変身することにある種の実感もあるかもしれません。私は肖像画などを見るとき内面が外見に滲み出ているとか、モデルの本質を捉えているといった外見に対する内面の優位を前提にしがちなのですが、こうした作品を見ることで、外見と内面の一体性や、装いや役割など外部からの働きかけによって個性や人格が作り出されている面についても考えさせられました。
ジャニー喜多川氏の肖像画は、作品集のインタビューによると報道などで知られている喜多川氏の写真を元に制作したとのことです。巷間に流布する著名人の写真をカラフルに着色した作品というとウォーホルが思い浮かんだりするのですが、本作の場合はカラフルに着色されたセルが全面に描かれているのが特に目を引きました。粗い画像を拡大したようでもあるこのセルは、新作の大型細密画などではさらに様式化されていますが、髷を結った子供を描いた作品の背面をびっしり埋め尽くしていた粒子のようなものが表に現れて進化したのかもしれません。インタビューで大野さんはこのセルについてデジタル的と答えていますが、鱗や細胞のようでもあり、有機的にも無機的にも見える効果があると思います。サングラスのフレームのヒンジが小さなハートマークになっていたのは可愛かったですね。
…大野さんの作品はユーモアと不気味さと可愛らしさで出来ていて、そのさじ加減がそれぞれの作品の色になっているように思います。初期作品のロボットのようなフィギュア《ガマドン》は、自転車のチェーンやラジカセの部品とおぼしきパーツなどから出来ていて、子供がガラクタ=宝物を集めて遊んでいるような無邪気さ、「真剣に遊ぶ」心が感じられました。小さなフィギュアは一つの展示ケースにまとまって展示されていたのですが、百体集まると一斉に喋り出すか、歌い出しそうにも見えました。ただの作られたモノではなく、生きている気がしてくるんですよね。だから外に連れ出してみたくなるのかもしれない。ケースの中で展示されているフィギュアはカラフルで奇抜な装飾が目を引くのですが、街や自然の風景の中では意外なぐらい馴染んでいたのも面白かったです。
…今回の個展のために制作された最新作の多くは複数の色彩のみで構成された抽象的な絵画が多く、どんな順番で描いていったか絵具の跡を辿っていくのが面白かったです。写真ではない絵画は見えないもの、形のないものを描くことも出来るのですが、捉えどころのない混沌としたエネルギーを表現しているようにも見えます。もっとも、インタビューによると描きたいものがない状況がしばらく続いているなかで、考えすぎずにやってみようと思ったと答えていて、その言葉を素直に受け取って見るのが良いのかもしれません。実はインタビュー中で一番印象に残ったのはこうした一連の作品について、「あれ、簡単なんだよ」とあっけらかんと言い切った一言です。理屈をこねて勿体ぶらない。絵画の秘密、芸術の持つ神秘性に無頓着なんですよね。「そこ」から「自由」であるって、なかなか難しいことなんですが。
…美術作品はしばしば、社会的に広く共有されるような普遍的哲学的な主題を洗練された手法で表現することを目指し、あるいは求められたりするのですが、大野さんの作品はあくまで個人の経験、感情や好みに基づいた題材が作家の生理と直結した技法によって表現されているように感じられました。手の仕事が感じられる作品は鑑賞者の身体感覚に訴えてきますし、作る喜びにのみ忠実な作品の内包する非論理的な混沌を通して私たちは世界の豊かさを垣間見ることができるように思います。美術は本来そういうものであって良いはずだと個人的には思いました。
…新作の大型細密画は作品集のインタビューによると2週間程度で制作されたそうで、その集中力に驚かされます。インタビュー及び制作過程の写真を見ると、黒く塗った地の上から白いペンで思いついたモチーフをランダムに描いていったようで、同じ手法で描いた作品はあるものの、本作自体の下絵はなさそうなんですよね。下絵があってもあの大きさを短期間であの密度に仕上げるのはすごいと思うのですが、下絵なしなら尋常ではないと思います。描かれたモチーフは自身が過去に手掛けたフィギュアや絵画からの引用もあれば、仏教若しくはヒンズー教的なモチーフもあり、意味が読み取れそうな部分もありますが、出典の見当が付かないものもありました。時計の時刻については、インタビューによると20時20分=2020年を意味するとのことで、ちょっとした機知を働かせれば分かる仕掛けなどもあるのでしょう。個人的には個別のモチーフの意味より過剰なまでの図、氾濫するモチーフによって埋め尽くされた画面全体に圧倒される印象を受けました。インタビューでご本人も細密画が好きだと答えていますが、この人にしか描けない世界だろうと思います。
…最後の映像作品は大野さん自身によるパントマイムで、閉じ込められた箱から出ようとするたび引き戻されて操られることを繰り返し、最後に暗転したあと箱から出てくるという内容は、人気アイドルグループの一人として活動してきた自分自身を表現していると思われます。スクリーンに複数の画面が映し出されて、それぞれの角度から大野さんを捉えているのも、常にあらゆる人から見られている状況を示唆しているのでしょう。人の顔に強い関心がある一方で自画像はほとんど描かない(出品作では《怪物くん》ぐらいでしょうか)のかなと思って見ていたのですが、大野さんは何より雄弁に自分を表現する手段を持っている人であることを思い出しました。
…会場内では出品作品が過去いつの個展に出展されたかは表示されていましたが、タイトルはなく、作品集にも出品リストの記載はありませんでした。愛称が付いている作品もいくつかあるようですが、ほとんどの作品は無題なのかもしれません。できれば出品リストを作成して番号だけでも付けていただけると助かりますし、制作年、素材・技法などのデータも付記していただけると参考になるのでお願いしたく思います。

国立西洋美術館常設展 感想

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コルネリス・デ・ヘーム《果物籠のある静物》1654年頃


休館について

…先日西洋美術館のホームページを見たところ、館内施設整備のため2020年10月19日から2022年春(予定)まで約1年半に渡り全館休館とのお知らせが掲載されていたため、しばらく見られなくなる前にと思って常設展を見に行きました。お馴染みの作品もあれば初めて目にする作品もありましたが、改めて見応えのあるコレクションだと実感しました。
…常設展は当日券での入場になります。館内の展示作品は撮影可能(寄託作品は撮影できないようです)で、所要時間は2時間半程度でした。

お知らせ|国立西洋美術館

感想

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オーギュスト・ロダン《考える人》

…西洋美術館の代名詞と言ったらロダン《考える人》ですね。

 

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ルカス・クラーナハ(父)《ホロフェルネスの首を持つユディト》1530年頃

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ティツィアーノ・ヴェチェッリオと工房《洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ》1560~70年頃

…新収蔵作品としてクラーナハ(父)《ホロフェルネスの首を持つユディト》(1530年頃)が展示されていました。「クラーナハ展」(2016~2017年)の後、2018年度に購入された作品なんですね。近くにはティツィアーノ《洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ》(1560~70年頃)も展示されていました。クラーナハの描く華奢なユディトとティツィアーノの豊満なサロメが対照的ですが、男性、そして鑑賞者を誘惑し破滅させて勝ち誇る妖しく官能的な目の表情には相通じるものが感じられます。

 

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ヤン・ブリューゲル(父)《アブラハムとイサクのいる森林風景》1599年

…ヤン・ブリューゲル(父)《アブラハムとイサクのいる森林風景》(1599年)。この作品は他の作品より照明が暗くなっていて、ガラスに背後の窓が写ってしまいました。聖書のエピソード「イサクの犠牲」に纏わる場面を主題とする作品ですが、細密に描かれた大樹の生い茂る鬱蒼とした森が印象的です。

 

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エル・グレコ《十字架のキリスト》

エル・グレコの《十字架のキリスト》は大型の作品の習作でしょうか。画中のゴルゴタの丘には共に十字架に架けられたという二人の罪人も、マリアや聖人達も見当たらないのですが、それ故に磔にされたキリストのみが宇宙的な空間に浮かび上がっているように見えます。なお、十字架の根本の骨はアダムの墓があることを表しているそうです。

 

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グエルチーノ《ゴリアテの首を持つダヴィデ》1650年頃

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グイド・レーニ《ルクレティア》1636~38年頃

…グエルチーノ《ゴリアテの首を持つダヴィデ》(1650年頃)では巨人を倒す勇敢な英雄が神を畏れ敬っているという対比が、天上から降り注ぐ超自然的な光を仰ぐ表情と剣を手放し胸に手を当てるポーズで表現されています。隣にはグイド・レーニの《ルクレティア》(1636~38年頃)が展示されていました。ルクレティアは夫への貞節と自身の誇りを貫いて自死したローマ時代の女性で、その証である剣はしっかり手元に描かれています。

 

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バルトロメオ・マンフレーディ《キリスト捕縛》1613~15年頃

…マンフレーディ《キリスト捕縛》(1613~15年頃)はカラヴァッジョの《キリスト捕縛》を反転させた構図で、バロック絵画らしく劇的な瞬間が闇の中に浮かび上がっていますが、緊迫感よりも運命を受け入れるキリストの醸し出す静謐さによって画面が満たされているように思います。

 

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ダフィット・テニールス《聖アントニウスの誘惑》1660年代

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アンリ・ファンタン=ラトゥール《聖アントニウスの誘惑》

…ダフィット・テニールス《聖アントニウスの誘惑》(1660年代)は、杯を差し出す美女に慄く聖人の表情が印象的です。よく見ると、スカートの裾からのぞく女性の足は鳥の鉤爪をしていますね。悪魔は如何にも恐ろしげな顔をしているとは限らず、武器を携えずとも脅かす力を持っているということでしょう。アントニウスに群がる奇怪な悪霊たちはあまり怖くなくて、ある種ユーモラスな魅力さえ感じられます。画家も様々なモンスターの事細かな描写を楽しんでいたのではないでしょうか。一方、ファンタン=ラトゥールによる同主題の作品からは怪物が消えて、聖人の周りを輪舞する美女達が描かれています。女性に囲まれている聖人の表情は不明ですが、これは自身に置き換えて考えてみれば良いのでしょうね。細部まで克明に描かれた前者と、幻影のように茫洋と描かれた後者との、時代による表現の変化も興味深いです。

 

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ジャン=マルク・ナティエ《マリー=アンリエット・ベルトロ・ド・プレヌフ夫人の肖像》1739年

…ジャン・マルク・ナティエ《マリー=アンリエット・ベルトロ・ド・プレヌフ夫人の肖像》(1739年)は優美で上品な華やかさが感じられるロココらしい作品です。画面左側に水瓶が描かれているのはモデルを川の精又は泉の精に擬しているためで、ナティエは貴婦人たちを神話の中の人物の姿を借りて描く肖像画を数多く手がけているそうです。

 

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クロード・ロラン《踊るサテュロスとニンフのいる風景》1646年

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ジョゼフ・ヴェルネ《夏の夕べ、イタリア風景》1773年

…ジョゼフ・ヴェルネ《夏の夕べ、イタリア風景》(1773年)は夕暮れの迫る空の下で、時が経つのを惜しむように川で水遊びを楽しむ人々が描かれた牧歌的な田園風景です。クロード・ロラン《踊るサテュロスとニンフのいる風景》(1646年)の神話的なユートピアから約100年の時を経て、現実の風景として描かれるようになったんだなと思いました。

 

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ギュスターヴ・ドレ《ラ・シエスタ、スペインの思い出》1868年頃

…ギュスターヴ・ドレ《ラ・シエスタ、スペインの思い出》(1868年頃)にはロマ(ジプシー)と思しき一行が描かれていますが、大人達が視線を背けてそれぞれ物思いに耽っているのに対して、子供達の眼差しは外の世界に向けられ、こちらをじっと見ています。流浪の民を描く画家もまた異邦人であり、物怖じしない率直な眼差しは画家=鑑賞者に「お前は何者か」と問いかけているようにも感じられます。

 

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ジャン=バティスト=カミーユ・コロー《ナポリの浜の思い出》1870~72年

…コロー《ナポリの浜の思い出》(1870~72年)は豊かな自然や穏やかに凪いだ海、西日に染まる梢が郷愁を誘います。描かれている風景は画家の追憶に基づくものですが、そこに過ぎ去った古き良き時代や神話的な楽園・理想郷のイメージなども重ね合わされているのでしょう。

 

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ピエール=オーギュスト・ルノワールアルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》1872年

ルノワールアルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》(1872年)はオリエンタルな設えの部屋で寛ぐ女性達が描かれていて、絨毯や装飾品が女性の透き通るような白い肌を一層引き立てています。鏡に映る自分の姿を確かめる女性の口許には微かに笑みが浮かんでいて、自信のようなものも窺われますね。

 

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フィンセント・ファン・ゴッホ《ばら》1889年

ゴッホというと鮮やかな色彩や独特のタッチ、波乱に満ちた生涯から、作品にも画家にも激しく強烈なイメージを抱きがちなのですが、《ばら》(1889年)をはじめ、身の回りの植物を描いた作品などを見ると実際はイメージより繊細な一面があったように思われます。

 

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クロード・モネ《睡蓮》1916年

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クロード・モネ《黄色いアイリス》1914~17年頃

ロダンと並ぶ西洋美術館の顔、モネの《睡蓮》(1916年)です。そばには日本に返還され、修復を経て公開された睡蓮の大装飾画も展示されていました。《黄色いアイリス》(1914~17年頃)は《睡蓮》と同時期に制作された作品ですが、陽炎のように揺らめき立ち上るアイリスの葉が互いに溶け合い渾然一体となっているなか、一際鮮やかな黄色の花が青緑色の幻想的な空間を照らしているように見えました。

 

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ダンテ・ガブリエル・ロセッティ《愛の杯》1867年

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ジョン・エヴァリット・ミレイ《あひるの子》1889年

…ロセッティ《愛の杯》(1867年)。松方コレクションというと印象派などフランス美術が思い浮かぶのですが、コレクションの出発点はイギリスだったそうです。ミレイ《あひるの子》(1889年)はアンデルセンの『醜いあひるの子』を踏まえた作品だそうで、少女の曇りのないまっすぐな眼差しが印象的です。

 

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ポール・シニャック《サン・トロペの港》1901~02年

シニャック《サン=トロペの港》(1901~02年)は、今回一番印象に残った作品です。これまでにも目にしているはずなんですが、突然自分のピントが合ったらしく、港町の青い海と空を染めるバラ色に改めて見入ってしまいました。規則的で緻密な点描が学者のような合理性と職人のような根気強さを以て大きなカンヴァスを埋め尽くしていますが、対象に対する冷静さ、無心さが独特の風通しの良さを生み出しているように感じました。

 

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シャイム・スーティン《心を病む女》1920年

…シャイム・スーティン《心を病む女》(1920年)は女性の服の赤い色が印象的な作品。痩せた顔を歪め、ぎゅっと身体を強ばらせている様子から何かに怯えているような精神の緊張が感じられます。

 

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藤田嗣治《坐る女》1929年

藤田嗣治《座る女》(1929年)はハイヒールを履いた女性の傍らに雉のつがいが描かれ、背景には金箔が敷き詰められていて、和と洋、伝統とモダンといった対照的な要素が違和感なく組み合わされています。日本画美人画を藤田流に描いた作品だと思います。

 

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ジョアン・ミロ《絵画》1953年

ジョアン・ミロ《絵画》(1953年)。赤い円が太陽、そのそばには星が輝いているようにも見えますが、何が描かれているかというより、読み取り可能な意味があるかどうか、そのぎりぎりのところにある形と色彩の組み合わせもまた絵画たり得ることに意味があるのでしょうね。