展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

舟越桂 私の中にある泉 感想

shoto-museum.jp

概要

…この展覧会は木彫彩色の作品で知られる彫刻家、舟越桂氏(1951~)の作品展です。タイトルの「私の中にある泉」は「自分の中の水の底に潜ってみるしかない」という舟越氏の言葉に基づくもので、モデルとなる人物の泉であると共に作家自身の泉でもあり、人の内なる源泉を見詰めて形にすることが外の世界、普遍的な人間像を表現することに通じることを意味しているそうです。
…出品作は、彫刻作品20点のほか、ドローイングや作家が家族のために手作りした玩具などが出品されています。また、作家の父で彫刻家の保武氏の作品のほか、弟直木氏、母の道子氏の作品も出品されていて、作家の育った環境、ルーツを知ることが出来ます。
…本展会場である松濤美術館では入館時に記名が必要で、入口で整理券を受け取り退館時に返却する必要がありました。展覧会の図録は入口の受付で購入できます。所要時間は1時間程度です。

感想

…舟越氏の作品は木という素材の持つ柔らかさや温かみのようなものがそのまま人物像の雰囲気にもなっています。決して存在を誇示せず、力むことなくさりげなくその場に佇んでいるのですが、場の空気を浄化するような存在感があると思います。
…また、彩色されていることも理由の一つだと思いますが、彫刻というより人形に近い感覚を抱きました。美術品としての彫刻作品であるより身近で人間的な印象です。
…展覧会には下絵であるドローイングと完成した彫刻が共に展示されている作品もありましたが、両者を比べてみたときにこの絵がこの彫刻になるというのがすんなり受け入れられて違和感がなく、下絵の段階で完成に近いところまで構想が練り上げられていることが分かりました。また、彫刻でありながら絵画のような正面性、バストアップの作品が大半でありポーズや動きがほとんどないことも平面と立体の違和感のなさに繋がっているのかもしれません。
…舟越氏の作品は詩のようなタイトルも魅力的ですが、その独特の感性は俳人である母・道子氏から影響を受けたそうです。

午後の遺跡№2(1978年)

…初期の作品で、足の彫刻を木の枠で囲んだものであり、正面から見たときこちらに向かって足が一歩前に踏み出されるような印象を受けたました。フレームは制約であり、視野を区切って対象を閉じ込めるものという先入観があったのですが、逆にフレームがあることで動きや奥行きを感じさせる効果もあると分かって興味深かったです。

聖母子像のための試作(1979年頃)

カトリック逗子教会のために制作された木彫の聖母子像の試作です。マリアがお腹の前でキリストを抱えているポーズが、キリストが母から生まれてきたことを示唆しているように感じました。マリアの表情が柔和で優しく、身を以て我が子を包み守るように、信徒のことも見守っているのだろうと思いました。

砂と街と(1986年)

…大きな襟のコートに金色のブローチを止め、黄色のマフラーを巻いた服装も特徴的な作品で、実在の人物をモデルにしていますが、モデルとなった女性は作品を見て、「舟越さんの自画像みたい」だと感じたそうです。確かに、舟越氏の作品は、特定のモデルがいる場合、元の人物の個性的な顔貌をなぞっているのですが、その一方で、どの作品も不思議と似通っているような気がします。作品の持つ品の良さや静謐で内省的な佇まい、ひっそりとして優しげだが憂いも感じる表情などが共通しているためかもしれません。特に焦点を結ばない目の表情が独特なのだと思いますが、自意識を感じさせない、外に向かって何者かであろうとする意識の鎧を脱いだ無防備な精神のありようが感じられて、それがデリケートな印象に繋がっているのだろう思います。なお、モデルの女性は、その後「やっぱりこれは私だわ」と思ったそうです。自分である以上の何者かであり、他人のようでいて自分にも似たところがあると感じるという、まさに普遍的な次元に到達している作品なのだと思いました。

遅い振り子(1992年)

…この作品の胴体が前後逆向きになっているのは、人間の中に存在する相反するもう一人の自分を表現しているためだそうです。自分の背中、後ろ姿というのは自分でありながら自分では見えないものですから、自分でも知らない一面なのかもしれません。タイトルの「振り子」は逆向きの胴体に取り付けられた手を指すのでしょう。見た目も振り子のようです。振り子は右と左を行ったり来たりするものですから、しばしば相反する方向に揺れ動く人の心の象徴とも考えられます。
…舟越氏の作品では、肉体本来の腕が前面に出て目立つ動きやポーズを取っているものは見当たらず、概ね静かに両脇に下ろされているか、控えめな動きを見せるだけにとどまっているように思います。その一方で、《言葉をつかむ手》のように、非現実的な異形の腕、もしくは手は示唆的で霊的な力を持っているように感じられます。この作品の振り子の腕の場合も、後者の非現実的な腕の一種なのでしょう。

山を包む私(2000年)

…舟越氏が学生時代に大学へ向かう車の中で八王子城址を見かけたとき、「あの山は俺の中に入る」と閃いた経験が元になっている作品ですが、作家がアトリエの壁に貼っているというパスカルの言葉「空間によって宇宙は私を包み…思考によって私は宇宙を包む」と通じるものがあるように思います。一人の人間の力は小さく、儚い存在ですが、そんな人間でも自分の経験の限界を遙かに超えた広大無辺の宇宙をイメージすることができます。想像力は人間を人間たらしめる能力であり、自分自身はちっぽけでも偉大さや崇高さを想像し、理解することで自分の世界も無限に豊かになるところに、ただ生きて死ぬだけではない人間の尊厳があるように思います。

言葉をつかむ手(2004年)

…舟越氏は「理論化できないことは、物語らなければならない」というウンベルト・エーコの言葉をテレビで聞いたとき、何か光ったものが自分の方に飛んできて、それを首の横のあたりから生えているにある手で捕まえたような気がした経験があるそうです。左肩の後ろから生えた手にはそうした経験が反映されているのでしょう。一方で、肉体本来の腕は荒削りなままです。首の横に生えた手は精神のアンテナのようなものであり、肉体本来の手では掴めない目に見えないものをキャッチする鋭敏な精神が必要であることを象徴しているのかもしれません。また、この手について、舟越氏は「それは昨日の自分の手かもしれないし、誰か別の人の手なのかもしれない」と述べているほか、キリストの身体に触れたマリアの手のイメージも加味されていたりするそうで、多面的な意味を持っているようです。

水に映る月蝕(2003年)

…初期の《妻の肖像》(1979~80年)以来、約23年ぶりとなる裸婦像で、洋梨のように柔らかくカーブして膨らんだ胴体は妊婦を連想させます。また、背中に取り付けられた手が翼にも見えて、胸を膨らませて水面を泳ぐ水鳥の姿のようでもあります。上昇と下降の二つの作用が同時に働いているような形であり、肉体を地上に繋ぎ止める重力と、天に向かって上昇しようとする精神の力とが同居しているようにも感じられる作品です。

スフィンクスには何を問うか?(2020年)

…舟越氏の作品は実在の人物をモデルにした作品から特定のモデルがいない作品へ、さらには肩から手が生えていたり頭に角が生えていたりといった現実にはあり得ない姿へと変化していますが、異形の姿をした作品について舟越氏は「心象人物」と呼んでいるそうなので、これもまたある種の人間性を表現したものだと考えられます。当初は特定の人物の姿を通して表現されていた普遍的な人間像が、次第に特定の人格のフィルターを通さず直截的な形を取るようになっていったのでしょうか。人間離れしているけれど人間的というところが興味深いです。自分でも意識していない無意識や人間の世界から疎外された他者が、あたかも自分又は人間ではない理解不能な怪物として認識されることを表現しているのかもしれません。
…舟越氏はノヴァーリス青い花』の中で、スフィンクスの「世界を知る者はだれだ」という問いに対して少女ファーベルが「自分自身を知るものよ」と答えた一節から想を得て、人間を見詰める存在であると同時に自己の中で自分を見詰めている存在としてのスフィンクスを作り続けています。スフィンクスは半人半獣で両性具有の空想上の怪物ですが、獣でもあり人間でもある、男性でもあり女性でもあるという意味で何者でもあり得る存在とも言えそうです。
…舟越氏のスフィンクスは長い耳と長い首、乳房のある両性具有の肉体が特徴ですが、《スフィンクスには何を問うか?》はオカピのイメージも重ねられているそうで、額からまっすぐ延びている高い鼻や離れ気味の両目といった顔つきは確かに草食特物のように見えます。神話などでは人間に謎を掛ける側のスフィンクスに対して、逆に「何を問うか?」というタイトルも興味深いですが、このスフィンクスは超然としていて、こちらの問いかけに容易には答えてくれなさそうな印象です。動物性は自然の神秘や生命の根源の象徴であり、自分という存在やこの世界の真理、あるいは生きるとは何かといった答えのない謎そのものを表しているのかもしれないと思いました。

琳派と印象派展 感想

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www.artizon.museum

 

…『琳派印象派 東西都市文化が生んだ美術』展は、京都の町人文化として生まれ、19世紀の江戸に引き継がれた琳派の作品と、19世紀のフランス・パリを中心に新しく生まれた印象派の作品を、洗練された都市の美術という視点から比較して見るものです。
…アーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)というと印象派のコレクションが真っ先に思い浮かぶのですが、日本美術の優れたコレクションも所蔵しているんですね。琳派と呼ばれる画家たちですが、彼らのあいだに直接の師弟関係はなく、俵屋宗達尾形光琳など先人の作品に憧れた絵師がその後継者を名乗り、その作風に学んで新たな作品を生み出したという点がユニークだと思いました。作品こそが優れた良き師であるとも言えますし、時代を超えて絵師を魅了する美があったということなのでしょう。建仁寺の《風神雷神図屏風》(展示期間:後期2020年12月22日~2021年1月24日)の出品も予定されていて、国内の優れた琳派の作品を目にすることの出来る貴重な機会だと思います。なお、会期前半と後半では出品作や展示セクションが異なっているので、見たい作品がある場合は事前に確認しておくことをお薦めします。

序章 都市の様子

…《洛中洛外図屏風》(17世紀、江戸時代)は先日サントリー美術館の展覧会でも同主題の他作品を目にしたのですが、室町時代から江戸時代まで繰り返し描かれ、現在170点ほどが確認されているそうです。私が見たのはそのうちの2点ということですね。金色の雲がたなびく京都の街の俯瞰図、鑑賞者を中心として右隻と左隻それぞれに京都の東側と西側の名所及びその風物が描かれているといった点は共通していますが、サントリー美術館の作品では後水尾天皇による「寛永行幸」(1626年)、アーティゾン美術館の作品では徳川秀忠の娘和子の輿入れ(1620年)が描かれているといった違いもあります。繁栄を謳歌する煌びやかな都は人々の憧れの都会であると同時に、日本の中心、人々の認識における世界の中心であり、それを象徴するような非日常的、記念碑的イベントが描かれているのでしょう。

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洛中洛外図屏風》右隻(江戸時代、17世紀)

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洛中洛外図屏風》左隻(江戸時代、17世紀)

印象派の画家たちはパリの風景や郊外で流行のファッションを身に纏い、レジャーを愉しむ人々を描いています。華やかな都市生活への憧れをかきたてるという点で共通していますが、洛中洛外図が非日常的であるのに対して、印象派の描く都市は華やかでも世俗の庶民の日常と地続きのところが違うようです。オランダからパリに出てきたゴッホは、《モンマルトルの風車》(1886年)で故郷オランダを象徴するモチーフ、風車を描いています。ゴッホはアルルで風景画を数多く描いたのと対照的に、パリにいた時期には風景画、ことに都市の賑わいや流行の風俗はあまり描いていないような気がします。ゴッホがの場合は風景を描くとき、自然や自然の中で労働する農民たちへの愛情を込めていたのでしょうね。

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ゴッホ《モンマルトルの風車》(1886年)

第1章 the 琳派

琳派というと華麗な彩色画が思い浮かぶのですが、今回の展覧会では水墨画の作品も見ることが出来ました。俵屋宗達の《狗子図》(江戸時代、17世紀)は墨の濃淡のみで子犬のふっくらとした丸みが表現されていて、手前に淡く描かれた野の草花が春先の優しい風情を感じさせます。酒井抱一《白蓮図》(19世紀、江戸時代)は薄い墨で描かれた蓮の葉の手前に、一際白く清らかな蓮の花が描かれています。モチーフの配置的に先に背後の蓮の葉を薄く描いておいて、その上から手前の白い花びらを塗るほうが簡単そうなのですが、蓮の葉脈を見ると先に花を描いてそれの周りに蓮の葉を描いたようです。水墨画は重ね塗りができないですからね。尾形光琳李白観瀑図》(江戸時代、18世紀)は流れ落ちる滝、滝にかかる樹木の枝葉、滝に向き合う李白、その座す地面等、それぞれに筆遣いや墨の濃淡、滲みや掠れが効果的に用いられています。墨は単なる線や影でなく、微妙な色合いや多様な質感を表現しうる奥深い色であることを改めて実感しました。

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尾形光琳李白観瀑図》(江戸時代、18世紀)

第2章 琳派×印象派

…「水の表現」では水の形を描いた琳派の作品と、水に映る光を描いたモネの作品が展示されていましたが、両者とも融通無碍で自在に変化する水に着目するという点では共通しているとも言えそうです。伊年印(俵屋宗達が主宰した工房作を示す商標印)による《源氏物語図 浮舟、夢浮橋》(17世紀、江戸時代)は直線的で鋭い線によって宇治川の流れの速さが、尾形光琳《富士三壷図屏風》(18世紀、江戸時代)は盛り上がった曲線でうねる波の高さが描写されていて、水の秘めた力、時には恐ろしさが形に込められているように感じられます。一方、睡蓮をモチーフとするモネの一連の作品群に描かれているのは、刻々と移ろう空の色や池の畔の風景を映し出す静かな水鏡です。《睡蓮の池》(1907年)は赤く色づいた空が映り込む夕暮れ時の風景ですが、画面一杯に広がる水面が眼前に迫り池の畔が見えないため、空と池、地と図の境界が曖昧で夢の中のようにも感じられる作品だと思います。

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伊年印《源氏物語図 浮舟、夢浮橋》(江戸時代、17世紀)

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モネ《睡蓮の池》(1907年)

…扇形の支持体に絵を描く「扇絵」に定評があったという宗達工房の《保元平治物語絵扇面》(17世紀、江戸時代)は、画面に合わせて空間が歪められていて現実の正確な再現からは離れている反面、船の一部が突き出すように描かれて目を引くなど、柔軟な遊び心が表現の自由度を高めています。方形の画面に絵を描くことを当然のように思ってしまいがちですが、どんな形を選ぶことだって本来は可能なんですよね。西洋絵画では二次元の画面に三次元の空間を描く遠近法によってあたかも自然な視覚を再現したかのような作品が制作されてきましたが、扇状の特徴的な支持体の形はそれが絵画であることを改めて思い出させる効果があると思います。マネが扇面画を残しているのは単なるジャポニスムにとどまらず、示唆的であるように思います。

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宗達工房《保元平治物語絵扇面》(江戸時代、17世紀)

…日本美術の「間」=余白はモチーフが同居する一つの空間として作用することもありますが、モチーフの間に連続性がなくても成立する、曖昧さや自由さがあります。俵屋宗達舞楽図屏風》(17世紀、江戸時代)の主題である舞楽とは朝鮮半島や中国大陸から伝わり平安時代に大成した器楽と舞のことで、中国や中央アジア、南アジアを起源とする左方の舞(左舞)と朝鮮半島満州を起源とする右方の舞(右舞)とに分かれていて、装束も左舞は赤系統、右舞は緑系統の装束を纏っているのだそうです。金箔が敷き詰められた空間は左下から右上へ画面を斜めに横切っていて、右上が大きく空いているのですが、むしろ「間」のほうが主役であり、奏でられる音楽や、典雅で厳かな儀式そのものを感じ取るべきなのかもしれません。「間」は自然主義的な空間であるよりも象徴的、抽象的な場であり、視覚以外の感覚や情趣で画面を満たす役割を果たしているのではないかと思います。
セザンヌドガも人物のポーズに興味を持っているように感じられますが、セザンヌの興味が形にあるのに対して、ドガは動きに興味があるように感じられました。ドガの《踊りの稽古場にて》(1895~98年)は「間」があることで踊り子たちの動きが想像させられますし、逆に、踊り子たちに動きがあることで空間の感覚がもたらされるようにも感じられます。一方、セザンヌの《水浴》(1865~70年頃)では空間の広がりがあまりなくて、舞台のように前景に水浴する人物が並置されています。この作品で「間」は背景であり楽園、理想郷的な世界を説明しているとは思うのですが、描かれた人物同士が互いに意味や物語を共有し合っているというより、むしろそうしたポーズ、あるいは人物ですらなく形体が美的に配置されているという印象のほうが強く、この作品の先にマティスの《ダンス》があるのだなと感じました。

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ドガ《踊りの稽古場にて》(1895~98年)

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セザンヌ《水浴》(1865~70年頃)

 

1894Visions ルドン・ロートレック展

mimt.jp

…この展覧会は三菱一号館美術館の開館十周年を記念する展覧会で、三菱一号館が竣工した1894年を軸に、フランス象徴主義を代表する画家オディロン・ルドン(1840~1916)とポスターなどでも優れた作品を残したアンリ・ド・トゥールーズロートレック(1864~1901)をはじめ、当時の日仏の芸術家たちの作品で構成されています。
…タイトルに掲げられている二人の画家のうち、ロートレックの作品は約260点のロートレック作品を所蔵している三菱一号美術館のコレクションから出品されています。また、ルドンの作品は、三菱一号館美術館と十年以上前から交流を重ねてきた岐阜県美術館からの出品で、今回の展覧会は両美術館の共同プロジェクトでもあります。
…入場料は日時指定券で¥2,000と一般的な展覧会よりやや価格が高めですが、アプリでスマートホンに音声ガイドをダウンロードすると会期中は自宅でも音声ガイドを聞くことが出来るという特典があります。音声ガイドは会場で一度聞いただけだとせっかく興味を持っても内容を忘れてしまったりするので、あとから落ち着いて聞き直せるのは嬉しいですね。

…ルドンとロートレックは、それぞれ多数のリトグラフ作品を手掛けていますが、両者の作風は全く異なっています。ルドンの作品では奇怪、深淵、瞑想的な幻想の世界が黒一色で表現されています。対するロートレックリトグラフ作品はカラーで、華やかで軽やかな歓楽街の流行や風俗を大胆な構図と単純化された形体で表現しています。芸術作品と商業作品という目的の違いもあるのですが、版画という技法の表現の幅の大きさを感じました。
ロートレックは油彩画も手掛けていますが、代表的な作品というと《ムーラン・ルージュラ・グーリュ》(1891年)などのリトグラフの作品がまず頭に浮かびます。商業作品、とりわけ雑踏のただ中に貼り出されるポスターは無関心な通行人の注意を引きつける必要がありますが、逆に言えば目的のために大胆な構図やデフォルメが許容され、伝統的な形式に縛られない新しい様式をつくり出すことも可能だったと言えるでしょう。例えば《ディヴァン・ジャポネ》(1893年)は客席から身を乗り出してステージをのぞきこむような角度で描かれていますし、《ロイ・フラー嬢》(1893年)は舞台の上で翻るスカートが大きな蝶のように見えます。《ジャヌ・アヴリル(ジャルダン・ド・パリ)》(1893年)は弦楽器のネックが伸びてステージを額縁のように囲んでいるのも面白いですし、楽器の奏者の横顔はまるで音楽に合わせて波打っているかのように描かれています。
…街中で目にすることのできるリトグラフのポスターは描かれている内容も格式張らず、店や商品、街で人気の歌手や踊り子と誰にとっても身近な作品だったと思いますが、決して簡単に作れるものではないんですね。カラーと言っても色数には限りがあり、制作の工程は煩雑で専門の刷り師も必要と油彩画より手がかかる側面もあります。しかし、上述の《ロイ・フラー嬢》では版によって1枚1枚色が異なり、金粉や銀粉の吹き付け技法が用いられるなど変化をつける工夫が取り入れられていて、制約がある中でもニュアンスに富む表現を生み出すために多様な技法が積極的に試みられていたことが分かります。
ロートレックのカラーリトグラフでは赤や黄色など華やかな色と主に、しばしば黒が効果的に用いられています。例えば《ディヴァン・ジャポネ》ではイヴェット・ギルベールの羽根飾りの付いた黒い帽子や身体の線にぴったりと合ったドレスと燃えるようなオレンジ色の髪とが対比され、《アリスティド・ブリュアン、彼のキャバレーにて》(1893年)ではこちらを振り返るブリュアンの黒い帽子と黒いコートとのあいだで、襟元の赤いマフラーが一層引き立っています。また、《ジャヌ・アヴリル(ジャルダン・ド・パリ)》ではステージで踊るジャヌ・アヴリルの黒い靴下を履いたフェティッシュな足が、ステージで高々と跳ね上げられて画面の中心を占めています。ロートレックの黒は他の色彩を引き立てるとともに、それ自体が艶やかな輝きを放つ洒落た色彩だと思いました。

…一方、ルドンは「黒は本質的な色だ」という言葉を残しています。ルドンにとって黒とは、精神の深いところから湧き上がってくる夢想を源としたとき、ただ明暗を象るだけでない、それ自体が生命力を持つ色でした。描き溜めた木炭画を元に制作された黒1色のリトグラフでは不可思議で幻想的な世界が表現されています。
…版画集『夢のなかで』〈Ⅷ 幻視〉(1879年)は、モローの《出現》に影響を受けたとされる作品ですが、豪奢なオリエントの宮殿や官能的なサロメは影を潜め、ヨハネの首の代わりに宙に浮かぶ巨大な眼球が輝いています。ルドンは「眼は、眼を養い、魂を養うさまざまなものを吸収するために不可欠である」と述べていますが、この作品自体が一つの幻視であると同時に、幻視する眼、精神の深い部分から湧き出る無限の夢想に形を与える眼の力を描いたものなのでしょう。広間の片隅で手を取り合う男女はそうした見えない何かを求めて、夢もしくは無意識の世界を彷徨っているのかもしれません。
…ルドンは「物体(オブジェ)の凝視、それらによって掻き立てられる夢想から舞い上がってくる像(イマージュ)」とも述べているので、人の顔を持つ種子や蜘蛛なども現実の物体を見詰めた結果であり、殊更に奇を衒った造形を企図したわけではないのかもしれません。しかし、不気味な異形たちは見慣れた物体や安定した秩序を揺さぶり、不安を掻き立てる反面で、奇怪な造形自体が魅力的でもあります。グロテスクな怪物たちのもたらす謎や混沌、畏れの念は人知の及ばない聖性と表裏一体であり、華やかで繊細な色彩で描かれた詩人や聖女たちと同じ根から咲いた花のようにも思われます。
…ルドン《翼のある横向きの胸像(スフィンクス)》(1898~1900年)は色彩の華やかさ、特に透明感のある青に目を引かれました。スフィンクスというモチーフはルドンが尊敬していたモローの作品を思い出させるのですが、モローのスフィンクスが女性の持つ抗いがたい魔力、理性によってコントロールできない官能の力を象徴しているのに対して、ルドンのスフィンクスは人間を超越した存在としての聖性をより強く感じます。ギリシャ神話のスフィンクスは謎かけに答えられない人々を食い殺した怪物ですが、エジプトでは王や神の守護者でもあったそうなので、この作品では豊かな内面世界を守る役割を果たしているのかもしれません。
…ルドンの《オフィーリア》(1901~1902年頃)は愛に殉じて水辺で命を落とした、という共通項から同じルドンの《オルフェウスの死》(1905年~1910年頃)とイメージが重なりました。固く目を閉ざしたオフィーリアの頭部が黒い闇に包まれているのは、オフィーリアの陥った精神の闇=狂気を表現したものでしょうか。オフィーリアの亡骸を運んだ川、オルフェウスの首と竪琴を運んだ川、川は日本でも西洋でも此岸と彼岸を隔てる境界であり、死を連想させますが、一方で、水は命の源であり、流れ着く海は母性の象徴でもあります。ルドンの作品からは水の持つ両義的なイメージが感じられますが、それは生と死が表裏一体であり、命の生まれる場所と還る場所が一つであることを示唆しているのかもしれません。

…ルドンとロートレックの作品以外では、ギュスターヴ・モロー(1826~1898)、山本芳翠(1850~1906)、ポール・セリュジェ(1864~1927)の作品が印象に残りました。
…ルドンはモローを尊敬していたそうで、そうした視点で改めてモローの作品を見ると、色彩や神秘的で幻想的な世界観に共通するものを感じます。
ギュスターヴ・モローピエタ》(1854年)は十字架から下ろされて力なく横たわるキリストの背をマリアが抱きかかえている姿が描かれています。周りには使徒マグダラのマリアとおぼしき姿も見えますが、マリアとキリストのみが舞台のような一段高い場所にいて、薄暗い荒野のなかで二人の光輪が星のように光っています。今更ではありますが、この作品を見て「ピエタ」は「聖母子像」と対になる図像なのだと感じました。「聖母子像」に描かれるキリストが母の胸に抱かれる幼子であるのに対して、ピエタのキリストは最早母の腕には収まらないのですが、たとえそれが救世主であってさえも母は母であり、最後まで子に寄り添って守ろうとしているように思われます。モローは母親との絆が強かったので、そうした点も影響しているのかもしれません。

岐阜県出身の洋画家山本芳翠は、ルドンも学んだジャン=レオン・ジェロームに1878年から1887年にかけて師事しました。岐阜県美術館が山本のコレクションを有しているとのことで所蔵作品が展示されていましたが、滑らかに仕上げられた堅牢な絵肌で、本格的、古典的な油彩画であるように思いました。戸外の自然のなかで横たわる女性を描いた《裸婦》(1880年頃)は、緑に映える女性の肌の瑞々しさや透明感、量感のある確かな肉体が理想化された美しさで表現されています。《浦島》(1893~95年頃)は日本人なら誰もが知る浦島太郎の物語を描いたもので、場面は浦島が故郷に帰るところでしょう。玉手箱を手に堂々とした姿で立つ浦島は力強く足を一歩前に踏み出していますが、背後の乙姫と竜宮城を振り返っていて名残を惜しんでいるようにも見えます。洋画として描かれているためか馴染みある昔話にもかかわらずエキゾチックな印象を受ける作品です。

…現実の再現から離れた新しい芸術を求めたナビ派の画家たちにとって、夢や無意識の世界を描いたルドンは尊敬の対象でした。ナビ派の一人であるセリュジェの作品は太い輪郭線や平面的な色面などを特徴とする装飾的な画風で、ときに黒で、ときに繊細な色彩のグラデーションで目に見えない世界の実感を表現しようとしたルドンとは異なりますが、神秘的な主題を手掛けた点でルドンへの傾倒も感じられます。
…ポール・セリュジェ《急流のそばの幻影 または妖精たちのランデヴー》(1897年)は中世風のドレスを着て花を播きながら川岸の道を進む妖精たちの行列を、手前の川岸から土地の住人とおぼしき人々が見守っています。人々は跪いていたり、帽子を手に取り手を合わせていたりして、妖精たちに敬意を払う姿勢を示していますが、彼らの姿は幻想の世界に対する画家の敬意を表してもいるのでしょう。精神の森の中で幻想と現実とが遭遇して起こす奇跡を表現している作品だと思います。《消えゆく仏陀――オディロン・ルドンに捧ぐ》(1916年)はルドンの画風に寄せて描かれています。魚たちが泳ぐ水の底に沈む仏陀は、精神の世界を見詰め続けたルドンの魂がその故郷に還っていったことを表現しているのでしょう。トカゲは不死を意味する生き物だそうなので、ルドンの芸術が不滅であることを象徴しているのだと思います。

日本美術の裏の裏 感想

www.suntory.co.jp

…この展覧会はサントリー美術館の所蔵品である屏風や掛軸、焼き物や着物などの装飾美術を通して、日本美術の楽しみ方、奥深さについて7つのテーマから解説するものです。
…タイトルの「裏の裏」ですが、「裏」は単に見えない部分を意味するだけでなく、奥深く隠された内部という意味があり、目に見えていないところに隠されている魅力を探るというこの展覧会の主旨を表しています。裏、という日本語一つとっても含蓄が深いですよね。
…会場内は音声ガイドはありませんが全ての作品に展示解説があり、展示作品は写真撮影可能でした。

第1章 空間をつくる

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円山応挙「青楓瀑布図」(1787年)

円山応挙「青楓瀑布図」(1787年)は勢いよく流れ落ちる直線的な滝の水流と、岩に砕けて渦を巻く川の水流が対比され、滝の手前に伸びる楓の枝の緑が爽やかな印象です。静寂の中に滝の音と川の音が響き、水飛沫や楓の枝を揺らす風の涼やかさが感じられるような、聴覚や温感(触覚)といった五感に訴えてくる作品だと思います。
…なお、本作より以前に応挙は縦360センチを超える実物大の滝を描いていて、その作品は病中の依頼主が庭の松に掛けて愉しむために制作されたという逸話もあるそうです。

 

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狩野永納「春夏花鳥図屏風」右隻(江戸時代、17世紀)

 

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狩野永納「春夏花鳥図屏風」左隻(江戸時代、17世紀)

…狩野永納「春夏花鳥図屏風」(江戸時代、17世紀)は金箔が華やかな作品です。春と夏だけで構成される四季花鳥図は珍しいそうですが、生命の活動が最も旺盛になる季節に焦点を当てて、花が咲き乱れ鳥たちが遊ぶ楽園を表現しているのではないかと思います。西洋美術でこれだけ多くの金色が使われる作品というと宗教画が思い浮かぶのですが、自然を主題とした作品にもふんだんに使われているところが日本的であるように思います。また、雉や牡丹などの華やか、煌びやかなモチーフだけでなくツバメのような身近な小鳥やタンポポ、スミレといった身近な野の花も選ばれ、細密で写実的に描き込まれています。別次元の天国ではなく、現実の自然と地続きの延長上に楽園、理想郷があるところが森羅万象に神の宿る日本らしさかもしれないと感じました。

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「武蔵野図屏風」右隻(江戸時代、17世紀)

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「武蔵野図屏風」左隻(江戸時代、17世紀)

…「武蔵野図屏風」(江戸時代、17世紀)は華やかな「春夏花鳥図屏風」と好対照の、一面に薄の野が続く茫漠としてもの寂しい秋の野が主題で、規則的な曲線で描かれた薄は紋様のように幾何学的で様式化されています。また、右幅には地平線の下に落ちた日が描かれ、左幅に描かれた地平線の彼方に聳える富士山の白い頂と対比されています。この作品は「武蔵野は 月の入るべき 山もなし 草より出でて 草にこそ入れ」(よみ人知らずの俗謡)という和歌に詠まれて広く定着していたイメージを踏まえたものだそうですが、前提となる知識があると、想像の風景の広がりに情趣も加わるのですね。屏風や襖絵などは実用的な調度品であると共に、日常的な生活空間に新鮮なイメージをもたらし、五感やさらには情感まで含む体験を生み出す装置と言えるのかもしれません。

第2章 小をめでる

…雛道具など、調度品のミニチュアの数々は実用には役立たないにもかかわらず、作りも模様も実物さながらで、手先の器用な日本人らしい巧みさと遊び心が感じられます。

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「新蔵人物語絵巻」(室町時代、16世紀)

…「新蔵人物語絵巻」(室町時代、16世紀)は縦が11センチしかない小型の巻物で、現代ならポケットサイズの文庫のようなものでしょうか。内容は男装して宮仕えした少女と帝の秘密の恋という「とりかえばや」を連想させる内容で、おそらく素人が私的な楽しみのために作った作品という意味でも小さな作品と言えそうですね。

第3章 心でえがく

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「かるかや」上冊(室町時代、16世紀)

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「かるかや」下冊(室町時代、16世紀)

御伽草子は庶民や動物たちが主役のため身近で親しみやすく、素朴な味わいがあります。絵で物語を読ませる面もあり、挿絵は状況を分かりやすく具体的に描写しています。「かるかや」(室町時代、16世紀)の挿絵は背景が描き込まれていない場面がしばしばあり、床に敷かれた寝床と背後に立てられているはずの屏風が重なるなど水平面と垂直面との描き分けができていなかったりするのですが、躊躇いのない線で伸び伸びと描かれた世界は生き生きとしていて、物語を伝えようとする力が感じられます。
…身近、と述べましたが物語の内容は必ずしも易しくはなく、多義的で考えさせられるもののように思います。妻子を残して出家した道心の物語「かるかや」は現代人には簡単には共感できないのですが、儚く移ろう現世への執着を断つことが救済に繋がるという仏教的な真理と同じぐらい家族の絆や情愛も普遍的で価値があるからこそ、仏門と家族とのあいだで板挟みになる人間の葛藤そのものがテーマになるのかもしれません。「藤袋草紙絵巻」(室町時代、16世紀)は軽はずみな言動を戒めるものでしょうか。ただ、畑仕事の手伝いをした猿がちょっと可哀想な気もします。「おようのあま絵巻」(室町時代、16世紀)は男女とも年甲斐もなく欲望に目が眩んでいて、人間の浅ましさや滑稽さに加え、もの悲しさも感じさせます。御伽草子の絵巻物を見ながら当時の人々は何を思っていたのでしょうか。何となく、時代は変わっても人間の本質的な部分は変わらないのではないかと思います。

第4章 景色をさがす

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「耳付花入」(桃山時代、17世紀)

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同上

…「景色」とはやきものを焼く際に炎がつくり出す多彩な表情のことだそうですが、決まった正面がない、というのは面白いと思いました。また、赤茶色の表面に白い長石の粒が吹き出ていたり、灰が黒く焦げて焼き付いていたりと、綺麗に整えられていない焼き物の肌に趣き、味わいを感じるというのも奥が深いと思います。
…完璧なコントロールによって作り出された作品の素晴らしさとはまた違う、偶然により意図せず生まれた表情を楽しむという鑑賞の仕方には、美しいものがあるのではなく、ありのままの姿のなかに思いもかけない美しさがあるという逆転の発想があると思います。それはまた、好みやその時々で眺める向きを変えることができる柔軟さや多様性を許容した開かれた美でもあると思います。しかし、そのためには、さまざまな角度から作品全体を隈無く理解する必要があり、美を見出す目を鍛える必要があるとも言えるでしょうし、作り出されたものにしても裏側だからと油断できないとも言えるでしょう。自由であるとは試されることでもあり、決して容易くはないのだなとも思いました。

第5章 和歌でわかる

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「白縮緬地雨に芭蕉流水模様小袖」(江戸時代、18世紀)

…「白縮緬地雨に芭蕉流水模様小袖」(江戸時代、18世紀)は白地に青や緑のすっきりと爽やかな色合いで、着物を大きく斜めに横切る雨風を表す直線とその直線の合間を緩やかに翻る芭蕉の葉の曲線とが対比されています。日本の伝統的な衣服である着物ですが、改めて見ると立体的な西洋の衣服とは異なり、平面性を生かした絵画的で大胆、斬新な意匠が目を引くように思いました。
…そうしたデザインの中でも、瑞々しく完璧な緑の葉ではなくあえて秋の嵐で破れた芭蕉の葉をモチーフにするというのが興味深かったのですが、これは和歌に詠まれてきたイメージを踏まえたものなのだそうです。会場では西行法師の「風吹けば あだに破れゆく 芭蕉葉の あればと身をも 頼むべきかは」が作品とともに展示されていましたが、朽ちた芭蕉の葉は伝統的に人の一生の儚さと重ね合わされてきたんですね。この世には華やかさや力強さばかりでなく、物寂しさやうら悲しさもあり、両者は表裏一体だったりもするのですが、そうした謂わば「裏」の情趣にも価値を見出し表現する美意識の繊細さと豊かさを感じることができました。

第6章 風景にはいる

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歌川広重東海道五十三次のうち 吉田」(1833~1834年)

歌川広重東海道五十三次(保永堂版)のうち 吉田」(1833~1834年)には城の周りに組まれた櫓の先端に片足立ちして辺りを見晴るかしている職人が描かれていて、風景を見ている人を鑑賞者が見るという入れ子構造になっています。ユニークな点景人物は単なる風景の添え物ではなく、風景をより生き生きと見せるためのナビゲーターであり、彼らを手がかりに内側から風景を眺めることで、壮大であったり幽玄であったりする自然に叙情的な奥行きが生まれ、鑑賞者も客観的に眺めるだけでなく情感の伴う体験をすることができるのでしょう。

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谷文晁「楼閣山水図」(1822年)

…谷文晁「楼閣山水図」(1822年)は霧の立ちこめる谷の険しさ、森の深さが人界から隔絶された秘境であることを感じさせます。右幅で老人と少年の主従が渡る橋は川を渡る橋であると共に、俗界と仙境という二つの世界を繋ぐ橋でもあるのでしょう。右幅と左幅に描かれた点景人物はそれぞれ山中の楼閣の主とその元を訪れる客人にも見えますし、浮世の悩みやしがらみのない境地に憧れて俗世を離れるまでの主従の旅路と、仙境に至ってからの下界を懐かしんでいる姿にも見えます。

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住吉派「隅田川名所図巻」(江戸時代、18世紀)

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同上

…「隅田川名所図巻」(江戸時代、18世紀)は隅田川沿いの名所を東側から捉えた絵巻で、江戸の庶民の様子が生き生きと描かれています。道端で話に花が咲いていたり、店のなかで品定めをしている人がいたり、亀を散歩させている子供もいれば、川では客や荷物を運ぶ沢山の船が行き交っていたりとバラエティに富んでいて、風景画と風俗画の要素を兼ね備えた作品とも言えそうです。しかし、賑やかで活気に満ちた街とは裏腹に、家の2階の窓辺で何をするでもなくぼんやり頬杖を突いている人物の姿もあります。皆が自分のしていることに夢中ななかで物思いに耽りながら往来の喧噪を眺めている視線は、鑑賞者の視線と重なり合います。彼は目当ての誰かが通りかかるのを待っているのかもしれませんし、活気に満ちた街そのものを俯瞰して楽しんでいるのかもしれません。

森本草介展・ホキ美術館コレクション 感想

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小木曽 誠《森へ還る》2017年 Bunkamuraザ・ミュージアムにて

…ホキ美術館は2010年11月、千葉市にオープンした世界初の写実絵画専門の美術館です。数年前、美術好きの方から写実絵画を専門とするホキ美術館の名前を聞いて以来、一度行ってみたいと思っていたところ、この春、Bunkamuraザ・ミュージアムで開催された「超写実絵画の襲来―ホキ美術館所蔵」展でそのコレクションの一部を見ることが叶いました。美術館は昨年の台風で被害を受けたそうですが、リニューアルを経て無事十周年を迎えることができて良かったです。

森本草介

…「森本草介展」はホキ美術館の開館10周年とリニューアルオープンを記念するもので、ホキ美術館の出発点ともなった森本草介氏(1937年~2015年)の《横になるポーズ》(1998年)をはじめとする女性像、フランスや日本の風景画、花を描いた静物画などあわせて34点が展示されています。
…森本氏の作品は風景画も女性像も穏やかで、セピア色の優しい光に満たされた画面の中では日常と異なるゆったりとした時間が流れているように感じられます。一分の隙もない調和に満ちた世界ですが、緊張を抱かせないのは技巧や主張を見せつけるような押しつけがましさがないためでしょう。油彩画で洋画なのですが、油絵の具の物質感とそれに伴う艶や深さが控えめで平滑、淡泊なためか、日本画のような印象を受けました。風景画の空についても日本画の余白として描かれているそうで、その時々の天候や時刻を超えた記憶の中、もしくは夢の中の風景のようです。また、女性像の空間処理では、床に敷かれた布がそのまま境目なく背景に溶け込んでいる作品もしばしばありました。実際に布でアトリエを覆ったのかもしれませんが、非現実的な空間を感じさせます。写実絵画であっても、ありのまま克明に全てが描かれているわけではなく、何を描いていないかという点で作家の意図による抽象化がなされているのだと思いました。
…森本氏の描く女性たちは優美で静謐な雰囲気を纏っているのが魅力だと思います。《横になるポーズ》はアングルの《オダリスク》を彷彿させられる作品なのですが、理想化された女性美という点に共通するものを感じる一方、《オダリスク》の冷ややかな官能性に対して森本氏の描く女性たちからは温かみや癒しが感じられます。また、《立ちポーズ》(2005年)という後ろ姿で佇む女性像からは衣を纏った仏像のような神々しさを感じました。彼女たちはしばしば後ろ姿で描かれているため、どんな人物なのか、何を思っているかは見る側の想像に委ねられています。むしろ、彼女たちの滑らかな背中は見る人の心を映す鏡のようなものなのかもしれません。森本氏はモデルは神秘のベールの向こう側にいるのが理想であるとも述べていて、女性達の裸体は女神のような清浄な気品を纏っているように思われました。
…現代では絵画という枠組みすら超えて、新しい挑戦的な表現を探求している美術の世界で、あえて制作に時間を要する古典的な写実絵画を選ぶというのは難しさもあるようです。森本氏は「対象を『美しい』と感じたとき、その要素をできるだけ忠実に画面に取り入れたいという気持ちが必然的に写実的な表現に向かわせます」と語っているので、単純かつ純粋な美術の原点への忠実さが写実絵画を選ばせたのでしょうし、そうした対象への愛が作品を通じて伝わることで、鑑賞者もまたその世界に魅入られるのではないかと思いました。

五味文彦《いにしえの王は語る》2018年

…《いにしえの王は語る》は、古木の幹を中心に据えた作品です。苔むして洞のある灰色の幹は歳月を感じさせ、所々剥がれて朽ちかけた樹皮の分厚く乾いた触感は、地表を覆う瑞々しく艶やかな草と対比されています。草や幹には光が当たって明るいのですが、背景が墨色の靄に溶けているのは主たるモチーフを際立たせるためでしょう。描写自体は写真のように緻密ですが、空間を忠実に再現するよりもひっそりとしてしめやかな森の気配、古木の持つ厳かな佇まいを表現することを重視しているように感じられます。人間の寿命よりも長く風雪に耐えてきた大樹には森の主のような存在感があり、向き合う者の精神もまた深い場所に引き込まれて、言葉を持たない草木の息づかいを感じ取ることができるのかもしれません。

塩谷亮《月洸》2017年

…《月洸》は竹林を描いた縦に長い二枚で一対の作品で、油彩画ですが屏風か掛け軸のような体裁です。塩谷氏によると油絵の具は「地中海性気候の強い陽光、地平線まで見渡せる乾いた大気を表現するには最適な画材」とのことですが、私も学生の頃、ヨーロッパにひと月ほど滞在して日本に帰国したとき、風景の色の違い、特に日本では山の緑の色が濃いことに驚いた記憶があります。ヨーロッパでは風景の色彩も輪郭もクリアに見えていたことを改めて意識しましたし、一方で日本の風景は靄がかったような柔らかさがあるんですよね。《月洸》は、仄かな月の光に浮かび上がる竹林の深い緑色に染まった夜の闇に、色彩が周囲の空気にまで滲み出るような湿度の高い日本の風土を感じられるように思いました。個人的には竹林というモチーフや、間接的に月の存在を感じさせる描き方に、東山魁夷の《月篁》を彷彿させられました。

野田弘志《聖なるものTHE-Ⅳ》(2013年)

…《聖なるものTHE-Ⅳ》は大きな画面に鳥の巣を描いた作品です。画家のアトリエの庭にある牡丹の株の陰に鶯が巣を作ったそうで、細い枝や枯れ草を組み合わせて複雑に編まれた巣の中には卵が二つ抱かれています。絵に描くだけでも大変そうなこの巣を実際に作るのは更に大変そうですよね。人間のように手を使えるわけではない鳥が、誰に教わるでもなく精緻な巣を作り上げるのは不思議であり驚きでもあります。また、外敵に見つからないようひっそりと隠された巣に抱かれている卵は秘密の宝物のようでもあり、守られている安息感をイメージさせます。この作品を見ながらゴッホが鳥の巣の主題に拘りを持っていたことや、鳥の巣を描くことを得意としたウィリアム・ヘンリー・ハントの作品などを思い出しましましたが、自然の神秘を象徴する鳥の巣は普遍的に人の興味を引きつけてやまないものなのかもしれません。なお、画家の庭に作られた巣は五羽の雛が孵化した後、雛も巣も忽然と見当たらなくなってしまったとのことです。

鶴友那《ながれとどまりうずまききえる》(2016年)

…この作品は、川の流れに横たわる女性を描いた作品です。ミレイの《オフィーリア》が思い浮かびますが、オフィーリアのような悲嘆や絶望は感じられず、女性の瑞々しさや透明感のほうが印象的で水の精のようにも見えます。女性と自然の一体感を表現していると考えることも出来そうですが、女性が身を委ねている川の流れは時の流れの象徴であり、女性の若さや美しさ、あるいはより広く人の命そのものもまた儚く移ろう運命であることを表現していると考えることも出来るでしょう。しかし、それはただ虚しいものではなく、一瞬で失われるからこそ一層輝かしく、尚更に形にして残しておきたい気持ちに駆られるものなのかもしれません。

生島浩《5:55》(2007~2010年)

…《5:55》はフェルメールの人物画を思い出させる作品です。画面の斜め左上から室内に差し込む光や圧縮されたような部屋の奥行き、テーブルの上の静物もペンやインク壷、燭台と古風ですし、女性の耳元の大ぶりなアクセサリーは《真珠の耳飾りの少女》のオマージュかもしれません。窓から差し込む光と壁の時計から女性の頭部を通って燭台に向かう線とがちょうど画面中心の女性の顔辺りで交わるため、視線が自然と引き寄せられる安定した構図です。画面右側の壁がやや赤みがかっているのは夕刻の光線のためでしょうか。女性も室内の静物も自然な柔らかい光に包まれているのが目に心地良いです。タイトルの「5:55」ですが、この女性がモデルを務めるのは午後6時までという約束だったのだそうです。女性が目をそらせて何かに気を取られている風なのは、終わりの時刻が近づいて気もそぞろになっているためかもしれません。もっとも、画家にとっては作品を描く時間はいくらあっても足りなくて気が気でなかったかもしれませんね。

青木敏郎《アルザスの村眺望》(2010年)

…見渡す限りの緑豊かな葡萄畑と教会の尖塔を中心とする村の家並みを描いた《アルザスの村眺望》は、ホキ美術館開館時に「私の代表作」の1点として展示されていたそうで、今回見たなかで特に印象深かった作品の一つです。大きな作品のため、画面に風景を閉じ込めたのでなく見る側がその風景に包み込まれるようで、カンヴァスの向こう側までずっと風景が続いていきそうな空間の広がり、奥行きを感じました。もう一つ印象的だったのは光の明るさで、空を満たす光、屋根を照らす光、大地に宿る光の明るさや暖かさが感じられました。畑に覆われたなだらかな丘陵、石造りの家の赤い屋根、遠景の青く霞む遠景の山並みからなる風景は一見ありふれた平凡な眺めのようですが、何故か絵になる気がするのは、風景が伝統と断絶されておらず、人工物と自然物とが互いに馴染んでいてある種の必然を感じられるからかもしれないと思いました。同じフランスの風景を描いた写実絵画でも、セピア色の靄のかかった森本草介の昇華されたイメージの風景とは雰囲気が異なり、油彩画らしい重さや厚みが画面に実体感をもたらしていて、それぞれの個性が興味深いです。

アーティゾン美術館新収蔵作品特別展示:パウル・クレー 感想

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www.artizon.museum

…この特別展示は石橋財団が2019年に収蔵した24点のパウル・クレー(1879年~1940年)のコレクション全てを初めて紹介するもので、以前より所蔵されていた《島》と合わせた25点の作品で構成されています。収蔵された作品は1910年代半ばから1930年代末に及んでいて、クレーの画業の大半が網羅されています。

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クレー《小さな抽象的-建築的油彩(黄色と青色の球形のある)》1915年

…《小さな抽象的――建築的油彩(黄色と青色の球形のある)》(1915年)は同時期のキュビスムなどの影響が見られる作品で、赤や茶色、オレンジなどの暖色を主として描かれた街の風景は、前年に滞在したチュニジアの市街風景にも想を得ているとみられるそうです。空に輝く黄色の月と対になる青い球形は地平線の下に沈んだ太陽でしょうか。

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クレー《庭園の家》1919年

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クレー《庭の幻影》1925年

…《庭園の家》(1919年)は英語の作品名が《Summer Houses》ですから、夏の風景を描いた作品でしょう。三日月の浮かぶ空と家や木々が青、緑、白の爽やかな色合いでメルヘンチックに描かれています。クレーにとって庭とは、地上と宇宙との間の行き来を可能にする特殊な場だったそうで、家と木々や家と家の影とは互いに重なり合いながら、月の浮かぶ空を目指すように積み上がっています。他方、同じ庭を描いた作品でも《庭の幻影》(1925年)はずいぶん趣が違っていて、暗褐色の闇に浮かぶ一際赤い太陽が赤い木と緑の木が立つ庭をぼんやりと照らし出し、水平な細い線がほぼ等間隔で画面を横切っています。画面左側には塔のある教会らしき建物も描かれていて、こちらは内的、瞑想的な世界を感じさせると思います。

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クレー《数学的なヴィジョン》1923年

…まるで天秤や実験装置が描かれているように見える《数学的なヴィジョン》(1923年)は、素描を油彩によって転写したものだそうです。元となった素描というのは《Ph博士の診察室装置》(1922年、宮城県美術館所蔵)のことでしょうか。元の素描にはなかった上方に浮かぶ黒い円がこのヴィジョンを現出させ、互いに連動した精密機械によって動いている世界の秘密を明かしているかのようです。

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クレー《守護者のまなざし》1926年

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クレー《守護者》1932年

…《守護者のまなざし》(1926年)という作品は渦のような線で描かれた目を持つ人が腕に子供を抱いています。英語の作品名に“a Protective Woman”とありますから、守護者とは母親であり母子像と見ることも出来るでしょう。眠る子供から目を離してこちらを振り返っている守護者からは少し怖いような印象も受けるのですが、脅かそうと近寄る何者かに対して子供を庇おうとしているのかもしれません。同じく守護者を題材とした《守護者》(1932年)は赤いドット、白、グレーの面が重なり合っていて、薄いグレーは3人の人影のようにも見えます。何を守ろうとしているのかは具体的には分からないのですが、人影に重なる赤いドットの部分はモノトーンの画面の中で唯一の色彩であり、血や熱を連想させ、生命力を感じさせる赤という色彩の持つ効果もあって、守護者達に共有され、同時に守護者達の間を繋いでいるように思われます。

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クレー《寓意的な小立像(消えていく)》1927年

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クレー《羊飼い》1929年

…《寓意的な小立像(消えていく)》(1927年)では両手を挙げて振り返る道化師が描かれています。道化師の胴体の向こうには二つの赤い四角形が透けて見えていて、タイトルのとおり消えかかっています。束の間の存在に過ぎない道化師の姿は私たち自身でもあるでしょう。私たちは後ろ(過去)を見ることしか出来ませんが過去を変えることは出来ず、見えない前(未来)に進むことしか出来ないんですよね。《羊飼い》(1929年)では、両手を広げて四匹の獣の前に立ちはだかる羊飼いが描かれていますが、これは羊=信者たちの信仰を守り、羊たちのために命を捨てる良き羊飼い=イエスという聖書の喩えを踏まえたものだそうです。大きく描かれた羊飼いの姿には存在感があり、赤い心臓はキリストの愛を象徴していると思われます。

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クレー《島》1932年

…クレーは具象画と抽象画のどちらも描いているのですが、《島》は抽象的な作品で、規則的なドットとフリーハンドで引かれた線、色彩による面という要素の重なり合いが描かれています。自身でもヴァイオリンを演奏したクレーは音楽への理解が深く、ポリフォニー(多声音楽)のような重なり合いを絵画で表現したかったのだそうです。個人的には点はリズム、線は旋律、色彩は和声をそれぞれ表現しているのではないかとも思いました。

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クレー《踏切警手の庭》1934年

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クレー《谷間の花》1938年

…《島》では素材に砂が用いられていますが、1930年代の作品では布に描かれているものも多くありました。クレーの作品は揺れ動くような透明感のある色彩が特徴の一つだと思うのですが、《踏切警手の庭》という作品では不透明なパステルカラーが目を引きました。また、《谷間の花》は黒い布地に描かれた作品で、白い紙やカンヴァスに描かれる以上に平坦な色彩の面の鮮やかさが引き立っています。組み合わされた多様な形には輪郭を縁取る描線がなく、色がそのまま一塊の形を成したかのようにも見えました。晩年のクレーはイメージの描出よりも絵画の物質感そのものを表現しようとしていたのかもしれません。

鴻池朋子 ちゅうがえり 感想

 

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洗面器 顔、タンポポ(2020年)


www.artizon.museum

…今回、アーティゾン美術館にはクレーの新収蔵作品を見ようと思って来たため、鴻池さんの展覧会には何の心構えもなく入ってしまったのですが、じわじわと何だか面白いかも…という気持ちになり、見終わった後もふと思い返してあれは何だったんだろうと気になるような、後を引く面白さでした。
…作品は絵画だけでなくジオラマや手芸作品、影絵灯籠や襖絵のインスタレーションなどバラエティに富んでいて、絵画であっても毛皮に絵を描いた作品などもありました。会場も天井から毛皮やテープがつり下がっていたり、壁の背後に作品があったり、滑り台まであって、子供の頃、探検と称して物陰や細い道に入り込んで遊んだ記憶を彷彿させられました。
…作品のモチーフは人や動物、昆虫、さらに生物だけでなく竜巻や山や地球など無機物や気象現象も含まれ、自然に由来する森羅万象が鏤められていました。文明、文化、流行や習俗、個性や人格など人間性の次元はいくつもあると思いますが、作家はその中でも一番深い層、生物としてのヒトとしての感覚を取り戻すこと、根源的な生命力と結びつくことを意識しているのではないかと思いました。凧やすごろく、襖など懐かしさのある和のアイテムが取り入れられていたのも、日常生活にデジタルな人工物が溢れているなかで、アナログな感覚を呼び起こすためかもしれません。

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凧(会場入口、2018~2020年)

…また、この展覧会は現代美術家石橋財団コレクションとの「ジャム・セッション」ということで、展示コーナーのテーマや設定等から関連づけられるアーティゾン美術館のコレクションが要所で作家の作品と共に展示されていました。クールベの《雪の中を駆ける鹿》を見たときは、見覚えのある作品によく似ているけれど作家による模写だろうかと思ってしまったのですが、そのぐらい馴染んで嵌まっていました。

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クールベ《雪の中を駆ける鹿》(1856~57年)

…古典的な絵画の展覧会の場合、会場内の展示はテーマや関連性を踏まえた構成になっているものの、基本的に1枚の作品はそれぞれ個々の作品で完結している、逆に言えば1枚の中に世界が凝集されているのですが、この展覧会では作品が相互に呼応し合い、石や毛皮といったオブジェや照明などの効果も含めて総合的に作家の世界観を表現している印象を受けました。会場全体が一体となった作品とも言えそうで、新鮮な体験でした。
…会場の中心に設置された襖絵のインスタレーションには流れや月、竜巻などが描かれていました。なかでも地球断面図は周囲に展示された石やひと塊の鉱物、さらに岩の塊である山のジオラマと呼応し合って、ものを形作るミクロの単位とそれにより出来上がっているマクロな構造とが対比されていました。全体が部分から成っているなら部分の性質こそ全体を決定づけている、部分に全体が宿っていると考えることもできるでしょう。地球断面図は細胞のようなのですが、幾つもの命の集合である地球は一個の生き物のようであり、さらに大きな宇宙の細胞の一つなのかもしれません。襖の内側に設置されたスロープを上った先は滑り台になっていて、滑り降りることも可能なので、女性はスカートではなくズボンで見に来るのがお薦めです。

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襖絵(2020年)

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襖絵 部分(地球断面図)


…影絵灯籠はパラパラ漫画や幻灯機のようで、関連があるようで脈絡がないような、繋がっているようでありながらいつの間にか別のものに変化しているところが面白かったです。コマ送りのような影絵にストーリーを作り出すのは見る人の想像力なのでしょう。前の壁を通り過ぎていく影たちを見ていると、回っているのは灯篭ではなく自分のような錯覚が起きて軽く目眩を覚えました。

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影絵灯篭(2020年)


…スナップ写真やラフスケッチなどのコーナーには「ゆっくりと停止」という作家による文章も展示されていたのですが、作家にとって作れなくなるというのは、感覚を失うことで、生理的なものなのだなと思いました。それでも作らずにはいられず、他者の手を借り意欲を借りて制作したとあり、例えば今回の会場に展示されていたテーブルランナーなどもそれに該当するのでしょう。
…「物語るテーブルランナー」は鴻池さんが国内外の各地で人々の体験、記憶についてインタビューし、聞き取った物語を元にデザインした図案をそれぞれ物語った本人が自分で縫った作品です。テーブルランナーと共に物語が記載されたボードも展示されていて、ぱっと見て絵柄に興味を引かれたものをいくつか手に取って読んでみたのですが、昭和30年代の小学校で給食に家の野菜を持っていった話や、昭和初期に経済的な困難から流産するため女性が柿の木に上った話、仲間と別れて一人帰ろうと外に出たところ、ふいに自然のなかに魔が潜んでいるように感じられた夜の話など、面白い話や少し不思議な話、怖いような話など様々なエピソードがありました。物語る人の数だけ作品があり、一点一点それぞれに個性的なのですが、個別の作品よりプロジェクトそのものに意味があるのかもしれません。民俗学の仕事を連想したくなるのですが、作家は物語の真偽や記憶を記録するということには興味がなく、語りという行為そのものの芸術性を表現したかったそうです。それぞれの心の中に留め置かれる限りは埋もれたままだったものが語られるとき、人はただ語るのでなく情報を選別したり因果関係を見出したり、感情や時には想像も交えてこの世界に送り出すんですね。素朴で荒削りな物語は私たちが生きている剥き出しの現実――起きて働いて食べて寝る日々を繰り返す人々が生まれてはやがて死んでいく――をイメージの皮膜で柔らかく包むものであり、無駄や虚偽とは違う現実を超えたある種の真実と言えるのかもしれません。テーブルランナーは会場では壁に展示されていましたが、元はその用途どおり食卓に広げることを想定したものだそうで、それぞれの物語が一面に並べられていたら曼荼羅のようだろうなと思いました。
…「そこで作品を見ている人よ、何を見ている?」という問いかけで始まる「見る人よ何を見ている」という文章で、作家の創造も見ることから始まる、「見る」とは発見することであり「つくる」としています。私は自分で何かを描いたりするわけではなく、専ら美術作品を見ることを楽しんでいるのですが、見ることが単なる消極的受動的な行為でなく、積極的能動的なものとされていたのは素直に嬉しかったです。一方で、観客であるのに知識や許可は不要であり、勝手に判断、評価を下し、ときには作家の思いも寄らない地点へ飛躍するのも自由だともされていますが、どれだけ豊かなものを引き出せるかは見る側自身にもかかっているのだとも思いました。

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見ゆ~初雪(2012年)