展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

東日本大震災復興祈念 伊藤若冲展 感想

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見どころ

…「伊藤若冲展」は110点(会期中に一部作品の展示替えあり)の出品作全てが伊藤若冲(1716~1800)の作品で構成された、若冲の世界を堪能できる展覧会です。『動植綵絵』で名高い若冲の著色画は驚異的な緻密さと華麗な色彩で見る者の目を奪いますが、この展覧会は水墨画の作品が多いのが特徴の一つです。若冲水墨画には著色画とはひと味違う、自由闊達で軽妙な味わいがありますが、一方で生きとし生けるものに対する透徹した真摯な眼差しは著色画でも水墨画でも変わることなく共通していると思います。
若冲は生涯を通じてほとんど住み慣れた京都を離れることはなく、作品には「平安城若冲居士藤汝鈞画於錦街陋室」と、画名と共にアトリエのある錦小路の地名も書き入れたりするほどで、自らが生まれ育ち暮らす街に誇りと愛着を持っていたと思われます。しかし、天明の大火(1788、天明8年)によって京都が焼け野原となったため、齢七十歳を超えた若冲も避難を余儀なくされました。出品作の『蓮池図』は若冲が大阪に移住していた時期に手掛けられたもので、大火に見舞われた京都への願いが込められていると考えられるのだそうです。この展覧会はそうした若冲の願いに、福島復興への願いを重ね合わせた展覧会です。

概要

【会期】

…2019年3月26日~5月6日

【会場】

福島県立美術館

【構成】

 第1章 若冲、飛翔する
 第2章 若冲、自然と交感する
 第3章 若冲、京都と共に生きる
 第4章 若冲、友と親しむ
 第5章 若冲、新生する

jakuchu.org

感想

…この展覧会は若冲の作品のうちでも水墨画の作品が多いことが特色だと思います。若冲の著色画は良質の画材を惜しみなく使い、尋常でない根気と集中力によって極限まで密度を高めた表現に圧倒されますが、一方の水墨画の作品は、のびのびとして自由闊達な筆捌きと、遊び心や実験精神によって対象を生き生きと描写していることが魅力だと思います。一本の線に動きを感じ、余白に空間の広がりを想像し、墨の濃淡に色彩を見分ける水墨画は対象を高度に抽象化していると思うのですが、描く側はもちろん、見る側もそれに慣れているというのは実はすごいことなのではないかとも思いました。

若冲の作品というと、鶏をはじめとする動植物を描いた花鳥画がまず頭に浮かびますが、今回の展覧会では比較的人物画が多く、新鮮な印象を受けました。若冲の人物画は「売茶翁像」のように写実的な作品と、「三十六歌仙」のように戯画的な作品に分かれるようですが、個人的には初期の作品である「寒山」が印象に残りました。中国唐代の隠者である寒山は、拾得と共に常識を超越した脱俗のキャラクターとして禅宗絵画にしばしば描かれていて、先日の「奇想の系譜展」では狩野山雪の「寒山拾得図」が出品されていました。しかし、山雪の奇怪で不気味な寒山に対して、若冲寒山は天真爛漫で邪気のない笑顔を見せています。若冲は晩年に至るまで寒山と拾得を繰り返し描いているそうですが、この寒山から感じられる脱俗の境地とは常識に囚われない風変わりさではなく、精神の無垢さや純粋さであるように思われます。また、人物に入れて良いのかは分かりませんが、雷神が宙で逆さまになっている「雷神図」もユニークでした。意表を突いた構図に、一瞬絵の天地が逆になっているのかと思ってしまったほどですが、太鼓の重みに耐えて口をへの字に結んでいる小さな雷神は愛嬌があって可愛らしく感じられます。透徹した眼差しで自然を捉えた若冲の目に、人間はどのように映っているのか気になるところだったのですが、ユーモアはあっても毒はない表現を見ると、決して人間嫌いな人物ではなかったのだろうと思いました。

若冲は今回の出品作の中だけでも葡萄や枇杷など様々な植物を描いていますが、とりわけ頻繁に描いた松・竹・梅の「歳寒三友」は高潔の士の寓意であり、菊は蘭・竹・梅と共に風格ある気品をもつ「四君子」として中国の文人たちに珍重されてきた植物なのだそうです。なお、若冲作品のシンボルと言ってもいい鶏は中国では五徳(文・武・勇・仁・信)を自ずから有する鳥として好まれた画題とのことで、若冲が身近な対象を無作為に描いたわけではなく、意味も踏まえて選んでいることが分かります。一方、「蔬菜図押絵貼屏風」は茄子や南瓜、松茸など全部で十二の野菜がそれぞれ目一杯巨大に描かれていて、最初作品を目にしたときはその大胆さに笑い出しそうになりました。この作品は、若冲が晩年身を寄せた石峰寺のために仏具などを喜捨した武内家に贈ったもので、元は一枚ずつばらばらの絵だったのを、明治時代になって武内家の子孫が屏風に仕立てたものだそうです。モチーフはいずれも日々の食卓に供される身近な野菜ですが、青物問屋の主人だった若冲にとって、野菜は僧侶が日々の勤めに用いる大切な仏具にも値するような、単なる商品以上の思い入れがあったのかもしれません。動物も植物もあらゆる命を等しく尊重する若冲の姿勢が、ありふれた野菜を堂々たる主役として描く痛快な作品に繋がったのではないかと思います。

…「象図」に描かれた真正面を向くシンメトリーな象や、「双鶴・霊亀図」の羽毛を膨らませて立つ番いの鶴たち。主役として画面の中心を占める動物たちは、ユーモラスで軽妙ながら、いずれもデティールを省略した単純な一本の線でその量感まで表現されていて、どっしりとした実在感があります。「白象群獣図」の枡目描きは一つの枡目の左上側を濃い色で、右下側を薄い色で塗り、枡目同士の間をさらに薄い色で塗り分けてあります。若冲が目の錯覚まで計算していたのかは分かりませんが、一見すると各ドットが浮き上がって、まるで画面に凹凸があるように見えたのが興味深かったです。また、龍のうろこや鶏の羽毛など様々に用いられている筋目描きは、宣紙という中国渡来の紙の性質を生かしたもので、狩野派など他の絵師たちもそうした性質自体は知っていたと考えられるそうです。しかし、たとえ見世物的な技巧と見なされようと躊躇わず積極的に取り入れたところに、他者からの評価よりも自分の理想に近づくことを求めた若冲の飽くなき探究心、とどまることのない向上心が窺われると思います。「百犬図」はおびただしい数の犬で画面が埋められています。犬は犬種によってサイズや毛足の長さなどが多種多様でバラエティに富んでいますが、この作品に描かれている犬はそれぞれ毛色こそ異なるものの姿や顔つきはみな似通っていて、同じ犬の分身のようにも見えます。若冲は犬というものを表現するに当たって、この作品では一匹の姿に犬の特徴、本質の全てを込めるのではなく、代わりにおよそ思いつく限りの犬の表情、ポーズを描けるだけ描き出すことで画面=世界を埋め尽くしてみたのかもしれません。

…墨一色で質感や色彩まで表現する水墨画ですが、「蓮池図」は他の作品とは異なる独特の描き方で、墨痕鮮やかな勢いある筆遣いが見当たらず、版画のようにムラのないトーンで描かれています。本作については、展覧会の監修者である狩野博幸氏が、天明の大火で焼失した京の街の復興を願う若冲の思いが込められていると解説されていますが、実際作品を目の当たりにすると改めて一面が薄墨色の喪の風景であるように感じられました。蓮の池というとお釈迦様のいる極楽浄土にあるものですが、この作品に描かれているのは虫食いのある葉やすでに花弁が散った蓮であり、花咲き乱れる極楽ではなく寂寥感の漂う死の世界そのものです。若冲の作品のなかでもこれほど死の気配が濃厚な作品は他にあまり思い当たらないのですが、大火の直後というタイミングで制作された本作に、灰燼に帰した京の街やさらには若冲自身の作品、生活や人生そのものに対する喪失感が投影されているのは自然なことに思われます。若冲の心象風景が見えるような作品ですが、そんな世界に兆した小さな蕾には喪失のあとの再生が託されているのでしょう。ところで、「蓮池図」は元は「仙人掌(サボテン)群鶏図」と襖の裏表をなしていたのですが、表面だった「仙人掌群鶏図」は「蓮池図」とは対照的に目にも眩い金地に鶏の親子とサボテンが描かれています。鶏の親子は、有限な個体が子孫を残すことで死を乗り越えることを象徴しているのでしょうか。サボテンが描かれているのは珍しい植物への好奇心や造形的な面白さが大きいのだろうと思いますが、乾燥に強い性質が裏面に描かれた水辺の植物である蓮と好対照であり、常緑性の植物である点でも枯れかけた蓮と対比されていると考えられます。生と死、此岸と彼岸との鮮やかな対比において、現実の世界の側に浄土のような金色を施したのは、大火に見舞われ、ある種の擬似的な死を体験したことで、より一層死を乗り越えて再生する生命の輝かしさが感じられたためかもしれません。打ちひしがれた心に希望を灯し、苦難を乗り越えていこうとする意志を感じることが出来る作品だと思います。

その他 交通アクセスなど雑感

…今回は新幹線に乗っての遠出となりましたが、会場である福島県立美術館までの経路は初めて行った私でも分かりやすかったです。福島駅で新幹線の改札を出たあと福島交通飯坂線へ乗り換えるため、エレベーターで1番線ホームに降りてホームの先にある飯坂線・阿武隈線の改札へ向かったところ、ちょうど美術館方面に向かう電車が来ていました。駅員さんに間に合わないから車内で切符を購入するように言われて急いで乗車しましたが、電車の中で乗務員さんが切符を持っていない人がいるか聞いてくれるんですね。おかげさまで無事切符を購入できました(Suicaは使えません)。最寄りの美術館・図書館前駅は福島駅から2駅めで、乗車時間は3分ほどです。小さな駅から出ると道のすぐ先に福島県立美術館の敷地が見えるので、迷うことなく徒歩3分で美術館へ到着。朝の10時頃でしたが、駐車場はその時点で既に満車でした。美術館では車の案内などのために外に立っているスタッフの方が皆さん「おはようございます」、帰りの時は「ありがとうございました」と挨拶してくださって温かい雰囲気でした。私は常設展も見たかったので、伊藤若冲展を見たあと美術館のカフェで食事をしたのですが、休日のお昼だったため30分ほど順番待ちをしました。席が空くまで購入した図録を見ていたのでさほど苦にはならなかったのですが、お昼どきにかけて行く場合は食事をどうするか考えておいたほうがいいかもしれません。常設展では以前から見たいと思っていたアンドリュー・ワイエスの作品を見ることが出来て良かったです。特に「そよ風」は窓辺に立つ女性の裸体のみずみずしさと密やかな解放感、がらんとした背後の暗がりに窓から吹き込んだ風の余韻が感じられて印象に残りました。帰りは時間に余裕があったので、慌てず自動券売機で切符を購入することができました。ホームで待っているお客さんは美術館に来た人以外に、地元の方も多くて地域の足という感じでしたね。何事も便利だけど忙しない日常からしばし離れて、ゆったりした雰囲気を味わうことが出来た旅でした。