展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

クリムト展 ウィーンと日本1900 感想

f:id:primaverax:20190602155539j:plain


見どころ

…この展覧会は世紀末ウィーンを代表する画家グスタフ・クリムト(1862~1918)の没後100年、及び1869年に締結された日墺修好通商航海条約締結(1869)を端緒とする日本オーストリア友好150周年を記念するもので、クリムト作品の世界的コレクションを有するベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館の所蔵作品を中心に、日本で開催される展覧会としては過去最多となるクリムトの油彩画25点以上が出品されています。
クリムトというと華麗な装飾美、金箔を用いた煌びやかな作品が思い浮かぶのですが、クリムトの父エルンスト・クリムト金工師であり、クリムト自身も初期には弟のエルンスト、友人フランツ・マッチュと共に地方都市の劇場の装飾に関わる仕事をしていたそうで、そもそもの出発点が装飾芸術だったんですね。そうした作品にはビザンティンや中世の美術に加えて、日本美術もインスピレーションを与えていて、素材や構図、モチーフなどに既視感を覚えるような、ある種の親近感も感じることが出来ました。また、クリムトの作品の魅力は何と言っても官能的な女性美だと思いますが、今回、クリムトの作品をまとめて見てみて、月明かりの下の幻影のような青白い肌の女性像に濃密に立ちこめる官能性の裏には背徳や死の気配が分かちがたく結びついていて、それが仄暗く、退廃的な印象をもたらしているのだろうと思いました。一方、対照的に風景画は明るさが印象的で、自然の豊かさや生命力の強さへの率直な喜びが感じられるように思いました。
…私は5月の土曜日午前中に見に行ったのですが、開場直後だったため入場規制による行列が出来ていました。待ち時間は10分余りでしたが、会場内も混雑していてほとんどの作品の前に列ができていました。油彩画はサイズが大きいため後方からでも見ることが出来ますが、写真や手紙、工芸品など小型の出品作も多いので、120点全ての作品をしっかり見ようとするとかなり時間がかかるのではないかと思います。展示解説は少なめです。なお、会場併設のミュージアムショップも、混雑のため会計待ちの行列ができていましたが、レジの数は多いので待ち時間は5分ほどでした。11時過ぎに会場を出る頃には入場待ちの列がかなり短くなり、ほとんど待ち時間なしになっていたので、開場直後を避けた方が良いのかもしれません。

概要

【会期】

…2019年4月23日~7月10日

【会場】

東京都美術館

【構成】

1 クリムトとその家族
 :《ヘレーネ・クリムトの肖像》
2 修業時代と劇場装飾
 :《レース襟をつけた少女の肖像》
3 私生活
 :《葉叢の前の少女》
4 ウィーンと日本 1900
 :《女ともだちⅠ(姉妹たち)》、《赤子(ゆりかご)》 
5 ウィーン分離派
 :《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》、《ユディトⅠ》、《ベートーヴェン・フリーズ》
6 風景画
 :《アッター湖畔のカンマー城Ⅲ》
7 肖像画
 :《オイゲニア・プリマフェージの肖像》
8 生命の円環
 :《女の三世代》、《家族》
…構成及び各章の主なクリムト作品です。
…構成は主題別となっていて、特に5章「ウィーン分離派」と8章「生命の円環」は見応えがありました。5章の《ベートーヴェン・フリーズ》については、1984年に制作された全長34mを超える原寸大の複製が展示されています。なお、7章「肖像画」に出品予定だった《マリー・ヘンネベルクの肖像》は残念ながら展示されていませんでした。

klimt2019.jp

感想

《ヘレーネ・クリムトの肖像》(1898年)

…この作品のモデルであるヘレーネはクリムトの弟エルンストの娘です。当時ヘレーネは6歳だったそうですが、落ち着いた大人びた顔つきで、もう少し年上に見えますね。丁寧に描かれた横顔に対して、たっぷりとした襞のある白いワンピースは軽く素早いタッチで大まかに描かれています。背景は明るいベージュで、薄く扉か窓の枠のようなものが描かれているのが見えますが、少女の周りに装飾的に額のような縁取りを描いているのかもしれません。全体に白やベージュといった明るく淡い色調のなかで、きっちりおかっぱに切りそろえられた暗褐色の髪がくっきりと際立って見えます。少女の髪を描く筆触が滑らかで、絵の具が溶けるような柔らかさを感じました。完全な横顔というのはモニュメンタルな印象を与えるものですが、クリムトは一般的な子供を描くのではなく、幼くとも自立した一個の人格として捉え、強いて子供らしさを強調しなかったのかもしれません。少女の高い内面性、精神性が感じられる作品だと思います。

フランツ・マッチュ《女神(ミューズ)とチェスをするレオナルド・ダ・ヴィンチ》(1889年)、エルンスト・クリムトフランチェスカ・ダ・リミニとパオロ》(1890年頃)

…1876年、14歳でウィーンの工芸美術学校に入学したクリムトは、弟のエルンスト及び友人のフランツ・マッチュと共に3人で「芸術家カンパニー」を結成し、共同で活動しました。マッチュとクリムトが同時に、同じ少女をモデルに描いたと考えられる《レース襟をつけた少女の肖像》を比べると、モデルの顔を大きく描いているクリムトは表情を捉えることに関心があり、襟の模様など細部にはこだわらず素早いタッチで描いているのに対して、マッチュは肖像らしく少女の上半身を画面に収めていて、オーソドックスに描いている印象です。マッチュによる《女神(ミューズ)とチェスをするレオナルド・ダ・ヴィンチ》は半円形をしていますが、これはスープラボルトという部屋の扉の上部に取り付けられる絵画だったためだそうです。盤上に視線を落とし、口元に手を当てて考えるレオナルドと、駒を手に微笑む女神は芸術の勝負をしているのでしょうか。二人は写実的に描かれ、女神の服の細かな襞まで緻密に描かれています。一方で背景は平面的で、様式化されたクジャクが描かれ、装飾的なパターンで埋められていますが、これは絵画作品として装飾的な効果を高めると共に、絵画と建築を関連づけ、描かれた場面を実際の空間とつなげる役目も果たしているのだそうです。エルンスト《フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ》は、ダンテ『新曲』にも登場する人妻フランチェスカと夫の弟パオロの悲恋が題材の作品です。この逸話はランスロットの騎士物語を読んだあとで二人が口づけを交わす場面や、地獄の中を彷徨う恋人たちの霊として表現されることが一般的だそうで、私はロダンの彫刻《接吻》を思い出したのですが、情熱的、官能的な《接吻》と対照的に、この作品は清純さが印象的で、清らかな愛を象徴する白バラや純潔を象徴する白いアイリスなどのモチーフが取り入れられ、愛の調和を表現することがテーマとなっています。恋人を信じて身体を委ねるように寄り添うフランチェスカはエルンストの妻ヘレーネ・フレーゲがモデルだそうですから、愛情深い眼差しでフランチェスカを見つめるパオロには画家自身の心情も重ね合わせられているのでしょう。

《女ともだちⅠ(姉妹たち)》(1907年)、《赤子(ゆりかご)》(1917年)

…《女ともだちⅠ》は細長いカンヴァスに装飾的な女性像が描かれた作品で、浮世絵の美人画から着想を得たとも考えられるそうです。二人の女性が纏うシックな黒の毛皮のコートが画面の大部分を占めるなか、女性たちの青白い顔と、その表情が際立って見えます。二人は共に画面左側に視線を奪われているようなのですが、何を見ているかは分かりません。モノトーンの色彩のなかで一際目を引く女性たちの赤い唇は半ば開かれて、何かに見とれているようにも思えるのですが、その辺りは見る側の想像次第というか、こうした女性の表情やポーズ、装飾的な造形そのものを堪能するのが良いのでしょう。艶やかでミステリアスな印象の作品だと思います。《赤子》も日本美術と関連がある作品で、19世紀前半に歌川派の制作した錦絵の影響があるのだそうです。非常にユニークな構図で、色とりどりの布地が文字通り山のように積み重ねられ、一番上とも一番奥とも見える頂点に白い産着に包まれた赤ん坊が顔をのぞかせています。全体としてはほぼ三角形なのですが、各パーツをなす布地は不揃いで有機的な形状であり、その柄も一つとして同じものはありません。背景は曖昧な靄のようで、非現実的な空間であり、混沌たる色彩の揺籃の中で赤ん坊のみが白く描かれています。様々な模様の布が積み重ねられたゆりかごは人間の内面、無限の精神世界を象徴するようにも思われ、赤子は無垢であることにより世界と直接繋がり、あらゆる可能性を有する存在であり、握られた手の中にその可能性が秘められているようにも感じました。

《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》(1899年)、《ユディトⅠ》(1901年)

…正面を向いて直立し、輝く青い瞳で鑑賞者を見つめる《ヌーダ・ヴェリタス》。女性は長く垂らした豊かな金髪のほかは一糸まとわぬ姿で描かれていますが、衣服で覆われていない裸体は真実が覆われていないこと、真実が露わになっていることを意味する西洋美術の伝統的な寓意像で、完全に正面を向いた歪みのない姿は真実の厳正さを、人間のものではない目の輝きからはその超越性を感じさせます。女性が右手に持つ鏡は鑑賞者自身を写し出すものであり、足元で鎌首をもたげる蛇、すなわち否応なく目に入る罪からも目を背けることなく、ただ美しいだけではないありのままの真実を見るよう促しているのでしょう。保守的なウィーン造形芸術家協会から脱退したクリムトは、批判を恐れず新しい芸術を広めていく決意をこの作品に込めているそうです。女性の足元にうずくまる蛇はエデンの園の知恵の樹の実を食べるよう唆した悪魔を連想させますが、真実を知るには禁忌を破らなければならないこと、真実が必ずしも幸福だけをもたらすとは限らず、それまで安住してきた世界を失うことを示唆しているのかもしれません。寓意画の伝統を踏まえつつも内容は挑戦的であり、厳しい道であっても新たな表現を求める画家の意欲が表れている作品だと思います。
…ユディトは旧約聖書外典に登場する女性で、アッシリア軍の司令官ホロフェルネスの寝首を掻いてユダヤの窮地を救ったとされています。しかし、クリムトの《ユディトⅠ》は救国の英雄、信心深く勇敢な女性としてはあまりにも艶めかしく、むしろ男性に破滅をもたらす危険な誘惑者として描かれています。黄金の装身具を身につけ、薄く透ける布地の服をはだけて胸元を露わにしたユディトは、武勇に対する官能の勝利を象徴しているのでしょう。ホロフェルネスの首を手に半ば目を閉じ笑みを浮かべているユディトを酔わせているものは、実のところ官能よりもむしろそれによって手にした勝利ではないかと思うのですが、クリムトの描くユディトには祖国のためという目的は感じられず、男性を翻弄し、支配することそのものに愉悦を覚えているようにも見えます。狂気にも似た恐ろしさを感じさせる女性像だと思いますが、クリムトはこの作品を手掛けた時期に複数の女性との関係に問題を抱えていたそうで、男性にとっては不可解で制御できない女性の魅力とその力への恐れ、戦慄が表現されているのではないかと思いました。

ベートーヴェン・フリーズ》(オリジナル:1901~02年、原寸大複製:1984年)

…《ベートーヴェン・フリーズ》は1902年に開催された第14回ウィーン分離派展のために制作された壁画で、ベートーヴェンの第9がテーマとなっています。フリーズとは壁面の上部、天上との間の帯状の部分を指す建築用語だそうで、この作品は分離派会館の左翼ホールの壁面を飾っていました。壁画は三方の壁に描かれていて、第一の壁には跪く男女に懇願され、野心と憐れみに突き動かされて前進する黄金の騎士、第二の壁には騎士の前に立ちはだかる「敵対する力」、第三の壁には第9のクライマックス「歓喜の歌」に当たる場面、理想の世界に導かれ、純粋な喜び、幸福、愛を見出して抱擁する男女と合唱する天使たちが描かれています。今回の展覧会にはその原寸大複製が出品されていて、実際に壁画に囲まれた空間を体感することができるのですが、個人的には「敵対する力」を描いた第二の壁が一番印象に残りました。毛むくじゃらの顔とまだら模様の蛇の胴体を持つギリシャ神話の怪物テュフォンや「不摂生」により弛んだ肉体は醜悪なものですし、挑発的な「淫蕩」や「肉欲」、蛇の髪を持つゴルゴン三姉妹の妖しさは清純な美しさとは対照的です。「敵対する力」が決して幸福をもたらさないのは黒い布を纏って身を捩る「苦悩」の存在で明らかなのですが、クリムトの華麗な装飾美によって描き込まれているためか、かえって目を離せないような奇妙な魅力を感じました。実のところ、ここに描かれた悪徳はクリムト自身の人生にとっても大きな意味があるそうで、そうした個人的な経験が真に迫る表現を可能にしたことで、騎士の戦いの困難さと手にする勝利の価値がより説得力のあるものとして感じられるのだろうとも思います。黄金の鎧で武装した騎士を脅かす敵とは堕落であり、敵は自分自身とも考えられるでしょう。「敵対する力」との戦いを経て真実を見据え、「詩情」に安らぎと救いを見出した騎士は、正義や栄光といった輝かしい鎧と引き替えに純粋な喜びや愛を手に入れたのかもしれません。

《雨後(鶏のいるザンクト・アガータの庭)》(1898年)、《アッター湖畔のカンマー城Ⅲ》(1909/10年)、《丘の見える庭の風景》(1916年頃)

クリムトの描く風景画は人物を描いた作品の濃密さとは対照的で、明るさが印象的です。クリムトが風景画を手掛けるようになったのはウィーン分離派設立以降で、ほとんどの場合ヴァカンスのあいだに描かれたそうですが、雨上がりのしっとりとした空気が伝わってくる《雨後(鶏のいるザンクト・アガータの庭)》はそうした中でも最初期の作品です。縦長の画面は日本の浮世絵の影響もあるそうですが、確かに花鳥画を描いた掛け軸の雰囲気もありますよね。柔らかな緑の草地は放し飼いにされている白や黒の鶏の羽で彩られ、装飾的に配された木立の間からは遠景の山の斜面が見えています。出品作を見ていて、クリムトの風景画では空があまり描かれず、どちらかというと目線に対して水平から地面にかけての風景が多いように感じました。点描によって描かれた《アッター湖畔のカンマー城Ⅲ》も視線が遠くに抜けずに建物で遮られていますが、黄色の壁の建物のすぐ背後に赤い屋根が見えているほとんど奥行きのない構図は望遠鏡を使って描いたためだと考えられているそうで、パノラマではなくクローズアップする風景画なのだなと思いました。樹木の合間から見える建物の矩形は樹木の有機的な形状によって縁取られ、全体像が見えなくなっていることで人工物の異質感が弱められていて、自然のなかに溶け込むよう腐心され、平面的に描かれた赤い屋根、茶色の屋根、黄色の壁と樹木の緑、そして湖の水面は上下に層のように積み重ねられていて、全体としての均質感を生み出しています。ここに人間は描かれていませんが、その存在の痕跡である建築を描くことによって、クリムトは人間と自然との融合、一体感を表現したかったのではないかと思います。《丘の見える庭の風景》は満開の花咲く庭が前景に、背後には青々とした緑の生い茂る丘の斜面が描かれています。花の描き方が特徴的なのですが、これは輪郭を先に描いて後から色彩で埋めていく方法で、ゴッホの影響を受けているそうです。一面に咲き誇る花を色彩の点描で表現せず、あえて一つ一つ形を描いているのは、たとえ小さくともそうした部分が全体を形作っているのであり、自然のミクロな部分と風景全体との調和を表現したかったからかもしれません。息苦しいほどにひしめく花や、空に向かって聳え視界を覆い尽くすような緑の丘からは、昼の明るい陽光の下に生命を燃焼させる自然の強さ、逞しさが感じられます。クリムトの風景画のテーマは空間の広がりや壮大な景観よりも地上の草花自体、その多様さや豊穣さ、またそうした豊かな自然と人間の営為との調和といったところにあるのかもしれません。夏の昼間の花盛りの庭を舞台に、宇宙、季節、生命といった世界の全てが頂点にある瞬間のエネルギーが感じられる作品だと思います。

《女の三世代》(1905年)

…《女の三世代》では、黒と灰色に分割された無彩色の背景の中央に、鮮やかな色彩で三人の人物が描かれています。背景のうち灰色の部分が黒ずんでいるのは使用された銀箔の一部が酸化したためで、完成直後はもっと明るい銀色だったようです。画面右側、幼児を抱いた若い女性が占める部分は青や緑が基調で、背景には円や渦巻、ピアノの鍵盤のような白黒の方形、足元には三角のパターンなど様々な模様が描かれています。白い花冠を被った女性の髪に花がちりばめられ、身体に緑の蔓が巻き付いている姿は樹木の化身のようでもあり、自然と女性を重ね合わせて、生長や豊穣を象徴しているように思われます。左側の老年の女性が占める部分は赤や黄が基調で、背景には鹿の子のような小さな円が描かれています。項垂れる女性の肩口は夕暮れを思わせるように赤く、足元には不吉な黒い影が差していて、終わりの時が近づいていることを暗示しているようです。若い女性は微睡む幼子を抱いて夢見るように瞼を閉じ、一方、老年の女性は老いを嘆いて、もしくは死を恐れるように顔を血管の浮き出た手で覆っていますが、描かれた三人のいずれも目を開けていない点は共通しています。これは《家族》(1909/10年)に描かれた母子の三人も同じで、眠りは死の似姿という言い習わしに従った表現かもしれません。老いた女性の衰えた肉体は克明に描写されていますが、官能的な女性美と表裏一体だった死の気配がここでは分離されることによって存在を顕わにしています。若くして父や弟を失ったクリムトは、自身を恐れさせた死をあえて具現化し、見据えるために描いているのかもしれなません。そう考えると、目を開けて現実を見るべきは描かれた人物たちより、むしろ作品の鑑賞者の側とも考えられます。《ベートーヴェン・フリーズ》において「敵対する力」の描写に特に力がこもっているように思われたことと同じものを感じるのですが、クリムトは自分が直視しなければならないもの、乗り越えなければならないものを正確に見つめ、自分の表現として捉え直し、自分の世界の中に取り込むことで乗り越えていこうという気持ちを持っていたのかもしれないと思いました。