展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

ピーター・ドイグ展 感想

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《ガストホーフ・ツァ・ムルデンタールシュペレ》(2000~02年)

 

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…ピーター・ドイグ(1959~)はスコットランドで生まれ、トリニダード・トバゴとカナダで育った後、ロンドン、さらに2002年以降は拠点をトリニダード・トバゴに移して活動している現代のアーティストです。日本で個展が開かれるのは初めてのことで、私も今回初めて名前を知りました。本当は今年の春に見に行くつもりで前売券も買っていたものの、新型コロナウィルスの影響で一時は行けないまま終わってしまうかもしれないと半ば諦めていたのですが…趣味や娯楽を気兼ねなく楽しめる日常って決して当然のものではないんですね。展覧会が再開されて、見に行くことが出来て良かったです。なお、現在は時間指定制のチケットが販売されていますが、前売券を持っている場合はそのまま直接会場に行って入ることが出来ます(ただし、時間指定なしなので、混雑状況によっては待つ必要があるようです。私の場合はすぐに入場できました)。
…ドイグが拠点を置いているトリニダード・トバゴベネズエラに近いカリブ海の国でイギリス連邦加盟国の一つ、人口は139万人でインド系やアフリカ系が多いようです。産業としては石油や天然ガスの輸出国ですが、写真を見るとカリブの楽園のイメージ通り、美しいビーチが印象的でした。北の大陸カナダと南の島のトリニダード・トバゴという真逆の国で育ったというのが面白いです。展示構成も、カナダの風景などを元に描いた初期の作品を中心とする第1章と、トリニダード・トバゴに拠点を移した2002年以降の作品による第2章とに分かれていて、前者は森や林に閉ざされた風景を細かく複雑な色遣いで描いているのに対し、後者は空間の奥行きがしばしば塀や壁で遮られ、薄塗りで鮮やかな色彩が特徴です。その他、ドイグが2003年から友人と共に始めた映画の上映会「スタジオフィルムクラブ」のポスターも展示されていて、小津安二郎黒澤明の作品のポスターもありました。作品数は70点で、ほとんどが油彩画ですが、近年の作品は水性塗料によるものもあります。会場内の展示作品は撮影可能、所要時間は60分程度でした。

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《天の川》(1989~90年)

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《ブロッター》(1993年)



…《天の川》(1989~90年)は湖の畔の草や木の影が夜の闇に溶け込んでいるのに対して、水面に映った鏡像は全てが鮮明に映っています。鏡像のほうが完全というのが興味深いのですが、鏡像は虚ろなまやかしではなく、水面(あるいはスクリーンやキャンバス)こそ本質を捉えることが可能であると考えているのかもしれません。雪景色の林を描いた《ブロッター》(1993年)という作品は、辺りを覆う白い雪の下から地面や水面の赤みがかった色が透けていて、覆うことで覆われる存在が意識されます。タイトルのブロッターとは吸い取り紙のことで、キャンバスに絵の具が染み込むことと、主体が絵画に没入することを意味しているそうです。池の中に佇んで水面に映る自分の姿を見ている人物は描き手とも鑑賞者とも受け取れますが、主観と客観、外界と内面、実物と鏡像との境界に波紋をもたらす自意識を象徴しているように思われます。

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《ラペイルーズの壁》(2004年)


…《ラペイルーズの壁》(2004年)は作品の前に立つと壁が手前に迫ってくるような圧迫感がありました。奥行きは水平方向に抜けていて遠近感が強調され、明るく晴れ渡る空の下で、傘を差して通り過ぎる男性の寡黙な後ろ姿に静けさと孤独感が感じられます。ラペイルーズはトリニダード・トバゴの首都ポート・オブ・スペインの中心地にある墓地の名で、描かれた壁は白、茶、灰色のまだら模様でペンキが剥げているようにも見えるのですが、現地の写真を見ると実際は石積みの壁なので、対象を忠実に描写したわけではないんですね。これは、キャンバスに塗られた絵の具という物質が「たまたま」何かの形に見える絵画表現そのものの隠喩とも考えられるそうです。

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《花の家(そこで会いましょう)》(2007~09年)


…《花の家(そこで会いましょう)》(2007~9年)はレモンイエローの家の壁や黒いブロックなど幾何学的で人工的な背景と、風に舞い散る花びらの有機的な形や不規則な動きが対比されています。画面下部に赤い字で描き込まれた“SEE YOU THERE”は壁に書かれた落書きのようである一方、作品のタイトルもしくはメッセージとして、これが決して実景ではなく、あくまで描かれた絵であることを意識させもします。家の前で佇む人物の姿は半ば透き通っていて実体ではなく、思い出の残像か、約束に託された人の思いが形を成しているようにも思いました。

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《エコー湖》(1998年)

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《夜の水浴者たち》(2019年)



…《エコー湖》は青ざめた顔の男性が湖の畔に立ち、両手を顔に当てているどこか不穏な気配の漂う作品です。男性は湖に向かって叫んでいるようでもあり、何かに絶望しているようにも見えます。背後にはパトカーが止まっているので、警察に追われているのかもしれません。《夜の水浴者たち》(2019年)を見たときは、月夜の浜辺と女性というモチーフから「夏の夜」をテーマとするムンクの作品を思い出しました。ただ、横たわる女性の青ざめた肌の色や、背後に小さく描かれた男性との距離感は、官能性や生命力からむしろ隔てられている印象で、謎めいた雰囲気の作品だと思います。

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《赤い男(カリプソを歌う)》(2017年)


…《赤い男(カリプソを歌う)》(2017年)では日に焼けた赤い肌の男性が画面中央でまっすぐ立っています。背景は常夏の島らしい晴れた空とエメラルドグリーンの海、浜辺という三つの層から成っていますが、画面右奥に描かれた青い人影はラオコーンのように巻き付く蛇と格闘していて、この作品の情景を非現実的なものにしています。カリプソはレゲエのルーツの一つにもなったトリニダード・トバゴの音楽で、島の生活に関するあらゆる話題を歌詞にしてニュースとして広める役割も果たしました。政治腐敗を批判する歌詞が検閲を受けていた時代もあるそうで、監視塔や格闘する人影はそうした歴史を暗示するものと考えることも出来そうです。赤と青の二人の男性によって現実と幻想、逞しい生命力と生命を脅かす危機、楽園のような島と歴史の陰などが対比されているように思いました。