展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

森本草介展・ホキ美術館コレクション 感想

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小木曽 誠《森へ還る》2017年 Bunkamuraザ・ミュージアムにて

…ホキ美術館は2010年11月、千葉市にオープンした世界初の写実絵画専門の美術館です。数年前、美術好きの方から写実絵画を専門とするホキ美術館の名前を聞いて以来、一度行ってみたいと思っていたところ、この春、Bunkamuraザ・ミュージアムで開催された「超写実絵画の襲来―ホキ美術館所蔵」展でそのコレクションの一部を見ることが叶いました。美術館は昨年の台風で被害を受けたそうですが、リニューアルを経て無事十周年を迎えることができて良かったです。

森本草介

…「森本草介展」はホキ美術館の開館10周年とリニューアルオープンを記念するもので、ホキ美術館の出発点ともなった森本草介氏(1937年~2015年)の《横になるポーズ》(1998年)をはじめとする女性像、フランスや日本の風景画、花を描いた静物画などあわせて34点が展示されています。
…森本氏の作品は風景画も女性像も穏やかで、セピア色の優しい光に満たされた画面の中では日常と異なるゆったりとした時間が流れているように感じられます。一分の隙もない調和に満ちた世界ですが、緊張を抱かせないのは技巧や主張を見せつけるような押しつけがましさがないためでしょう。油彩画で洋画なのですが、油絵の具の物質感とそれに伴う艶や深さが控えめで平滑、淡泊なためか、日本画のような印象を受けました。風景画の空についても日本画の余白として描かれているそうで、その時々の天候や時刻を超えた記憶の中、もしくは夢の中の風景のようです。また、女性像の空間処理では、床に敷かれた布がそのまま境目なく背景に溶け込んでいる作品もしばしばありました。実際に布でアトリエを覆ったのかもしれませんが、非現実的な空間を感じさせます。写実絵画であっても、ありのまま克明に全てが描かれているわけではなく、何を描いていないかという点で作家の意図による抽象化がなされているのだと思いました。
…森本氏の描く女性たちは優美で静謐な雰囲気を纏っているのが魅力だと思います。《横になるポーズ》はアングルの《オダリスク》を彷彿させられる作品なのですが、理想化された女性美という点に共通するものを感じる一方、《オダリスク》の冷ややかな官能性に対して森本氏の描く女性たちからは温かみや癒しが感じられます。また、《立ちポーズ》(2005年)という後ろ姿で佇む女性像からは衣を纏った仏像のような神々しさを感じました。彼女たちはしばしば後ろ姿で描かれているため、どんな人物なのか、何を思っているかは見る側の想像に委ねられています。むしろ、彼女たちの滑らかな背中は見る人の心を映す鏡のようなものなのかもしれません。森本氏はモデルは神秘のベールの向こう側にいるのが理想であるとも述べていて、女性達の裸体は女神のような清浄な気品を纏っているように思われました。
…現代では絵画という枠組みすら超えて、新しい挑戦的な表現を探求している美術の世界で、あえて制作に時間を要する古典的な写実絵画を選ぶというのは難しさもあるようです。森本氏は「対象を『美しい』と感じたとき、その要素をできるだけ忠実に画面に取り入れたいという気持ちが必然的に写実的な表現に向かわせます」と語っているので、単純かつ純粋な美術の原点への忠実さが写実絵画を選ばせたのでしょうし、そうした対象への愛が作品を通じて伝わることで、鑑賞者もまたその世界に魅入られるのではないかと思いました。

五味文彦《いにしえの王は語る》2018年

…《いにしえの王は語る》は、古木の幹を中心に据えた作品です。苔むして洞のある灰色の幹は歳月を感じさせ、所々剥がれて朽ちかけた樹皮の分厚く乾いた触感は、地表を覆う瑞々しく艶やかな草と対比されています。草や幹には光が当たって明るいのですが、背景が墨色の靄に溶けているのは主たるモチーフを際立たせるためでしょう。描写自体は写真のように緻密ですが、空間を忠実に再現するよりもひっそりとしてしめやかな森の気配、古木の持つ厳かな佇まいを表現することを重視しているように感じられます。人間の寿命よりも長く風雪に耐えてきた大樹には森の主のような存在感があり、向き合う者の精神もまた深い場所に引き込まれて、言葉を持たない草木の息づかいを感じ取ることができるのかもしれません。

塩谷亮《月洸》2017年

…《月洸》は竹林を描いた縦に長い二枚で一対の作品で、油彩画ですが屏風か掛け軸のような体裁です。塩谷氏によると油絵の具は「地中海性気候の強い陽光、地平線まで見渡せる乾いた大気を表現するには最適な画材」とのことですが、私も学生の頃、ヨーロッパにひと月ほど滞在して日本に帰国したとき、風景の色の違い、特に日本では山の緑の色が濃いことに驚いた記憶があります。ヨーロッパでは風景の色彩も輪郭もクリアに見えていたことを改めて意識しましたし、一方で日本の風景は靄がかったような柔らかさがあるんですよね。《月洸》は、仄かな月の光に浮かび上がる竹林の深い緑色に染まった夜の闇に、色彩が周囲の空気にまで滲み出るような湿度の高い日本の風土を感じられるように思いました。個人的には竹林というモチーフや、間接的に月の存在を感じさせる描き方に、東山魁夷の《月篁》を彷彿させられました。

野田弘志《聖なるものTHE-Ⅳ》(2013年)

…《聖なるものTHE-Ⅳ》は大きな画面に鳥の巣を描いた作品です。画家のアトリエの庭にある牡丹の株の陰に鶯が巣を作ったそうで、細い枝や枯れ草を組み合わせて複雑に編まれた巣の中には卵が二つ抱かれています。絵に描くだけでも大変そうなこの巣を実際に作るのは更に大変そうですよね。人間のように手を使えるわけではない鳥が、誰に教わるでもなく精緻な巣を作り上げるのは不思議であり驚きでもあります。また、外敵に見つからないようひっそりと隠された巣に抱かれている卵は秘密の宝物のようでもあり、守られている安息感をイメージさせます。この作品を見ながらゴッホが鳥の巣の主題に拘りを持っていたことや、鳥の巣を描くことを得意としたウィリアム・ヘンリー・ハントの作品などを思い出しましましたが、自然の神秘を象徴する鳥の巣は普遍的に人の興味を引きつけてやまないものなのかもしれません。なお、画家の庭に作られた巣は五羽の雛が孵化した後、雛も巣も忽然と見当たらなくなってしまったとのことです。

鶴友那《ながれとどまりうずまききえる》(2016年)

…この作品は、川の流れに横たわる女性を描いた作品です。ミレイの《オフィーリア》が思い浮かびますが、オフィーリアのような悲嘆や絶望は感じられず、女性の瑞々しさや透明感のほうが印象的で水の精のようにも見えます。女性と自然の一体感を表現していると考えることも出来そうですが、女性が身を委ねている川の流れは時の流れの象徴であり、女性の若さや美しさ、あるいはより広く人の命そのものもまた儚く移ろう運命であることを表現していると考えることも出来るでしょう。しかし、それはただ虚しいものではなく、一瞬で失われるからこそ一層輝かしく、尚更に形にして残しておきたい気持ちに駆られるものなのかもしれません。

生島浩《5:55》(2007~2010年)

…《5:55》はフェルメールの人物画を思い出させる作品です。画面の斜め左上から室内に差し込む光や圧縮されたような部屋の奥行き、テーブルの上の静物もペンやインク壷、燭台と古風ですし、女性の耳元の大ぶりなアクセサリーは《真珠の耳飾りの少女》のオマージュかもしれません。窓から差し込む光と壁の時計から女性の頭部を通って燭台に向かう線とがちょうど画面中心の女性の顔辺りで交わるため、視線が自然と引き寄せられる安定した構図です。画面右側の壁がやや赤みがかっているのは夕刻の光線のためでしょうか。女性も室内の静物も自然な柔らかい光に包まれているのが目に心地良いです。タイトルの「5:55」ですが、この女性がモデルを務めるのは午後6時までという約束だったのだそうです。女性が目をそらせて何かに気を取られている風なのは、終わりの時刻が近づいて気もそぞろになっているためかもしれません。もっとも、画家にとっては作品を描く時間はいくらあっても足りなくて気が気でなかったかもしれませんね。

青木敏郎《アルザスの村眺望》(2010年)

…見渡す限りの緑豊かな葡萄畑と教会の尖塔を中心とする村の家並みを描いた《アルザスの村眺望》は、ホキ美術館開館時に「私の代表作」の1点として展示されていたそうで、今回見たなかで特に印象深かった作品の一つです。大きな作品のため、画面に風景を閉じ込めたのでなく見る側がその風景に包み込まれるようで、カンヴァスの向こう側までずっと風景が続いていきそうな空間の広がり、奥行きを感じました。もう一つ印象的だったのは光の明るさで、空を満たす光、屋根を照らす光、大地に宿る光の明るさや暖かさが感じられました。畑に覆われたなだらかな丘陵、石造りの家の赤い屋根、遠景の青く霞む遠景の山並みからなる風景は一見ありふれた平凡な眺めのようですが、何故か絵になる気がするのは、風景が伝統と断絶されておらず、人工物と自然物とが互いに馴染んでいてある種の必然を感じられるからかもしれないと思いました。同じフランスの風景を描いた写実絵画でも、セピア色の靄のかかった森本草介の昇華されたイメージの風景とは雰囲気が異なり、油彩画らしい重さや厚みが画面に実体感をもたらしていて、それぞれの個性が興味深いです。