展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

没後50年 鏑木清方展 感想

会期

…2022年3月18日~5月8日

会場

東京国立近代美術館

構成

第1章 生活をえがく
 特集1 東京
第2章 物語をえがく
 特集2 歌舞伎
第3章 小さくえがく

kiyokata2022.jp

感想

…今回は昨年開催された「あやしい絵」展(国立近代美術館)に出品されていた鏑木清方の作品に惹かれて観に行きました。清方の作品は一般的なイメージにある日本画らしい日本画で、奇をてらわず、綺麗なものを素直に綺麗に描いているところが個人的に好みです。私は西洋美術の油彩画をよく見るので、それに比べると日本画は淡く繊細で、儚い印象を受けます。色彩に濁りがないのに原色のどぎつさはなく、透明感さえ感じます。また、清方は自身の幼年時代から青春時代に当たる明治時代への郷愁を抱いていて、「良い時代だった」と語っています。当時の習俗や日本文学、伝統芸能に詳しいと、描かれた作品の文脈をより深く読み取ることができて面白いのだろうと思いました。
…私は一度しか行けなかったため、展示替えで見逃した作品も多いのですが、代表作《築地明石町》(昭和2[1927]年)、《新富町》(昭和5[1930]年)、《浜町河岸》(昭和5[1930]年)は通期展示で、三点合わせて見ることが出来ました。《築地明石町》の女性は左手薬指に金の指輪を嵌めていますが、結婚指輪が日本に入ってきたのは明治時代、定着したのは大正時代以降だそうです。図録には下絵も収録されていて、うっすら背景に浮かぶ船や朝顔の絡む垣根、女性の等身などがバランスを考慮して綿密に配置されているのが分かります。僅かに覗く道行の裏地と下駄の鼻緒の赤が落ち着いた色合いに華を添えています。少し肌寒い初秋の朝なのでしょうか。実際に見た時は気づかなかったのですが、図録の表紙を見ると女性の瞼や目の下に線が入っていて、目の周りが窪んでいることが表現されているんですね。夏の名残をとどめて咲く足元の朝顔はたった一日で萎んでしまう花、しかも根本の葉から枯れ始めていて、翳りゆく人生の夏を象徴しているのかもしれません。愁いを帯びた妙齢の既婚女性は何を思って振り返っているのか、様々に想像を重ねて見ることが出来る作品だと思います。
…《露の干ぬ間》(大正5[1916]年)は青と緑を基調とした六曲一層の屏風で、目にも涼やかな作品です。朝顔や露草、紅花といった夏の草花の中で佇む女性は帯を前で結んでいるので、寝起きの浴衣姿のまま朝露に濡れた庭で寛いでいるのでしょう。女性は団扇の柄を口に咥え、項を掻き上げていて垣間見える白い二の腕から匂い立つような色気が醸し出されています。鏑木清方は明治時代への郷愁を強く抱いていたそうですが、描かれた女性たちの多くは髷を高い位置で結い、大きな櫛や簪で飾っていて明治よりさらに前の江戸時代の名残を感じさせます。伝統的な日本髪と着物の襟の狭間からのぞく項に対する清方の拘りには、古き良き時代への愛着が込められていたのかもしれないと思いました。
…《雪粉々》(昭和12[1937]年)では軒下に佇む女性がちらつく粉雪を見上げています。綿入れを着た女性は凍える寒さに肩を窄めていて、握り合わせた手の爪や着物の裾からのぞく足の爪には血の気が差して仄かに色づいています。雪雲に覆われた空を思わせる鈍色の袷に氷のような色の中着を重ねていて、色合いも冬らしいです。主題の雪はあくまで添える程度、でも仕草や服装、色合いに様々なサインが施されていてそれらを丁寧に読み解いていく面白さがあります。また、この作品を見た時、灰色、水色の着物に黄土色の帯という組み合わせ、落ち着いた地味な上着と襦袢の可愛らしさというギャップなどお洒落な装いに感心してしまいました。洋服でも柄物と柄物を合わせるのは難しいですよね。よく研究しているなと思いましたし、和装の美意識が感じることができました。
…季節を象徴する庶民の生活の一場面を月ごとに描いた《明治風俗十二ヶ月》(昭和10[1935]年)は現代の私にとってもピンとくる作品もあれば、そうでない作品もあります。三月に《けいこ》が描かれている理由を考えてみたのですが、かつて江戸時代の富裕な庶民は娘が武家奉公できるように踊りや三味線など芸事を習わせていたそうです。武家奉公はすなわち花嫁修業であり、時代が明治に変わっても将来のため、女性のたしなみとして音楽などの稽古をする習慣が定着していたのでしょう。三月は別名弥生、草木が芽吹き生命力がいよいよ増す季節であり、桃の節句もありますから、そこに少女の成長を重ねたのかもしれません。九月の《二百十日》は題名の通りで、急いで物干し台に上がってきた女性が心配そうに空模様を眺めています。吹き荒れる野分に木の葉が舞い、洗濯物ははためき、鉢植えが倒れていますね。女性は嵐の訪れに備えつつ、無事に過ぎ去ってくれることを祈っているようです。十一月の《平土間》に描かれているのは歌舞伎を見物に来た女性たち。江戸では毎年十一月になると、新たな役者の顔触れによる座組で歌舞伎の興行が行われたそうで、そうした伝統は現代まで続いているようです。特に最初の興行である「顔見世興行」は一年のうち最も重要な興行で、十一月一日は芝居正月とも言われたとのこと。客も役者も、この日を楽しみに待っていたことでしょう。季節感、生活感、そして情感のこもった連作だと思います。
…《いでゆの春雨》(昭和18[1943]年)は髪が崩れないように白い手拭いで結わえた女性が、欄干に凭れてそぼ降る雨に打たれる桜を眺めつつ僅かに口を開き、ぼんやりと物思いに耽っています。女性のお納戸色をした着物の柄も桜ですね。湯上がりの女性の目元や耳朶はほんのり上気して色づいています。しっとりとして艶やかな風情の作品ですが、当時の世相に流されずあくまで己の愛する世界を表現し続けた清方の信念もこめられているのでしょう。
…理想化されて、いずれも似通ったたおやかな美人画の女性像と比べると、《一葉》(昭和15[1940]年)は対象である樋口一葉の個性的な顔立ちや人柄、感情がはっきりと表現されています。解説によると本作は一葉の随筆《雨の夜》の一節に拠るもので、一葉は伯母に裁縫を教わった昔を懐かしんでいるそうですが、思い詰めたような目つきや固く結ばれた口元からは単に思い出を辿っているというより、きっぱりとした決意のようなものが感じられます。あるいは創作の手がかりを得た瞬間なのでしょうか。描かれた当時の一葉は代表作「たけくらべ」を執筆していたそうなので、厳しい表情や鋭い眼差しは、一瞬の閃きも逃さず捉える小説家としての一葉の顔のようにも思われます。清方は表現者、芸術家として創作の苦悩と情熱を抱きつつも一途に打ち込む姿に自身の思いを重ねていたのかもしれません。