展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

【過去記事再掲】2015年4月11日(土) マグリット展 国立新美術館

 マグリットというと、私は灰色の空に翼を広げた大きな鳥の姿の中に青空が見える「大家族」や、空は昼の明るさなのに街路や建物は夜の闇に包まれている「光の帝国」などが浮かびますが、今回は本格的な回顧展ということで、これまで目にしたことのない初期作品なども見ることができました。マグリット未来派キュビスム、キリコやエルンストやダリなど様々な画家から影響を受けていますが、一方で作品を特徴付ける銀の鈴やビルボケ(西洋のけん玉)などのオブジェは初期の頃から繰り返し登場しています。画風に変遷はあっても、マグリットの関心があるもの、描きたいものはある程度一貫していたのだろうと思います。

 「恋人たち」は睦まじく口付ける恋人たちを描いた作品ですが、男女の顔は白い布で覆われています。恋は盲目とばかりに相手が見えていないのか、逆に本当の自分を見せないようにしているのか。顔がないことで恋人たちは匿名の、普遍的な存在となり、見る者は自分たち自身の姿を重ね合わせて時にどきりとするのかもしれません。

 「人間の条件」では窓と、窓の向こうに広がっているはずの緑の風景を描いたキャンバスが重なっています。絵は絵であって、決して風景そのものではありません。しかし、目の前にある実物を見るだけでは飽きたらず、あえて描き、それを鑑賞することを楽しむことこそ創作の始まりであり、人間らしさでもあります。

 「自由の入り口で」は部屋を取り囲む壁に女性や森、青空、炎などが描かれ、真ん中に大砲が置かれています。イメージの薄い膜に包まれた日常に安住せず、固定観念の殻を打ち破りイメージの向こう側にある事物そのものへ迫ること、「存在についての真実の感情」を喚起しようとしているのでしょうか。

 私たちは世界をあるがままに受け止めず、名前を付け、感情を持ち込み、イメージによって認識しています。それが複雑な思考を可能にし、想像力の飛翔を可能にもしているのですが、しばしば惰性に流され、見えるはずのものも見落としていることがあります。事物とイメージの原初の緊張を取り戻し、創造の新たなエネルギーを得たいというのがマグリットの意図だったのかもしれません。

 マグリットは「私が手に入れたいと望んでいた抒情性は…不変の中心を持っていた…それは、純粋で力強い感情、すなわちエロティシズムでした」と語り、しばしば女性を描きましたが、その中には妻のジョルジェットがモデルを務めた作品がいくつもあります。そんな愛妻の名を冠した「ジョルジェット」には妻を始め、マグリットの作品に繰り返し登場するさまざまなオブジェが描かれています。マグリットは自分の愛するものを一枚の絵に詰め込んだようにも見えます。

 「アルンハイムの地所」はエドガー・アラン・ポーの短編に由来する作品です。手前には卵の入った鳥の巣、彼方に聳える山脈は鷲の姿をしていて、空には細い月が浮かんでいます。岩の親鳥が卵を抱いているのでしょうか、それとも親鳥から引き離された卵の憧憬が遙かな山容に投影されているのでしょうか。あるいは安全な建物の中で守られている卵と大自然の中にいる野生の鷲との対比かもしれません。実はこの作品、私の中学時代の美術の教材に載っていたのですが、実物は思ったより小さく感じました。物語性があり、空間のスケールを感じる作品なので、心の中でイメージが膨らんでいたんでしょうね。

 「へーゲルの休日」は傘の上に水の入ったコップが描かれています。傘は雨を避けるための道具ですが、雨が降らなければ必要のない道具でもあります。両者は一見相対立する存在ですが、本質的には切り離すことのできないものです。

 「ガラスの鍵」は、険しい山の尾根に巨岩が置かれた唐突な光景です。しかし、私たちが堅固なものと思いこんでいる大地=地球そのものが宇宙空間に浮かんでいるのであり、岩や私たち人間が地面から振り落とされないのは目に見えない重力が働いているからなのです。

 「白紙委任状」は馬に乗って森の中を進む女性を描いていますが、見えるはずの部分と隠されている部分が巧妙に入れ替えられていて、木と馬と女性の配置がだまし絵のようになっています。目に見えるものは、同時に何かを隠すものでもあります。マグリットは作品を通して、日頃習慣や常識によって隠されがちな真実への気づきを促しているのではないでしょうか。

 「絵画自体に感情はありません」という言葉の通り、マグリットの作品はタッチや色彩がほぼ均一で、画家の個人的な感情を窺うことはできません。意味付けするのは見る側次第、私たちはマグリットの作品を通して己の意識を見つめ直しているのかもしれません。

【過去記事再掲】2015年3月28日(土) 遠藤湖舟写真展「天空の美、地上の美。」 日本橋高島屋

 4月4日に皆既月食があるので、おそらくそれに併せての展覧会なのでしょう。遠藤さんについては今回初めてお名前を知ったのですが、ブラッドフィールド彗星を撮影した写真をきっかけに注目されるようになったそうです。子供の頃天体望遠鏡が欲しかった私にとっては、小さい頃から星の写真を撮ることが好きだったという遠藤さんに勝手ながら親近感を感じ、また、個展を開催するようになったのは50歳を過ぎてからとのことで、好きなことを続ける意志というのは大切だなとも思いました。

 最初のコーナー「第一楽章「月」」。月の夜の部分が、地球の反射する太陽光に照らされてうっすら見えることを地球照と言うそうです。月齢が27~3ぐらいで月が細い時、特に冬だと肉眼でも観察しやすいようなので、これから三日月を見る時はちょっと注意して見てみたいです。他の星は遠すぎて満ち欠けや表面の様子を肉眼で見ることはできませんが、その点、月というのは宇宙を生々しく実感させてくれる存在ではないでしょうか。また、青空に浮かぶ「碧空浮月」は飛行機の中から撮影したのか、白い月の下に雲海が広がっていて、月が月でないような幻想的な作品でした。

 「太陽」のコーナーでは「凍れる太陽」が印象的でした。天に向かって枝を広げる裸木の頭上、雪混じりの空を照らす弱々しい冬の太陽。活気をもたらす朝日の輝き、あるいは溶けた鉄のような夕日の熱さと違って、このモノクロの作品では熱のない冬の白い日差しが舞い散る雪と混じって凍えた世界を満たしています。見ているうちにふと、池澤夏樹の「スティル・ライフ」にある海に降る雪の場面を思い出しました。

 空気は透明で目に見えないものですが、雲を見れば空気の形が見える気がします。気温や湿度や風といった大気の状態によって自在に変容し、同じものは二度となく、不断に姿を変えていく雲はいつ見ても見飽きることがありません。「天空の色彩」は残照で赤く染まった暗い雲間から暮色が迫る空のグラデーションが見える絵のように美しい一枚ですが、これが自然が織りなす偶然の光景であることに意味があると思います。人の手、人の意志を離れたところにある美しさ。人の作為の限界を認識させられますが、その美を見出すのもまた人の目なんですよね。

 「星」のコーナーの「星々他」はスクリーンに投影される写真が徐々に別の写真に切り変わっていく仕掛けなので、椅子に座ってゆっくり眺めているとちょっとしたプラネタリウムの気分を味わえます。「昇る金星」は金星の星明かりが海を照らしている作品。月明かりなら珍しくありませんが、金星がこんなに明るいことを初めて知りました。遠藤さんが世に知られるきっかけになった「ブラッドフィールド彗星」の写真も展示されていました。ブラッドフィールド彗星は2004年、リニア彗星という別の彗星が注目されていた時に突然発見されて一躍話題になった彗星で、遠藤さんの写真にもその美しく長い尾が捉えられています。

 「ゆらぎ」はそれぞれがまるでCGのような作品です。いずれも水面を撮影した写真なのですが、織物のようであったり、金属のような光沢があったり、水面が周りの色彩を取り込み、風で波立つことでこれほど多彩な表情を見せることに驚きました。いかなるものにも染まる水の柔軟さ、そしてこの国の四季の色鮮やかさを感じます。個人的には岸辺の新緑を映し出した作品の瑞々しさに惹かれました。なお、会場ではこのコーナーは撮影が可能でした。

 「かたわら」は遠くの月や星から一転、身近な花や虫が対象となっています。掛軸にプリントされた「花」は和の装い。「雨の曼陀羅」の虹色に染まった蜘蛛の巣は、それを見つけた遠藤さんの目の鋭さに驚かされます。普段ぼんやり見過ごしがちな身近な生物も、改めて見るとこんな形をしていたのかと自然の妙に気づかされ、新鮮に見えてくることがあります。思いこみを捨て、時には見つめ直してみると新しい美を発見できるのかもしれません。

 最後に。たぶんですが、私が会場を訪れたとき、ご本人がいらっしゃっていて外国人のお客様に応対されていました。邪魔しないようにと思ってそーっと通り過ぎたので、しっかり確かめた訳ではありませんが。絵とか写真とか、言葉の壁を超えて美しさが通じるというのは表現として大きな強みだと思います。もちろん、遠藤さんはお客様たちと英語で会話が弾んでいらっしゃいました(笑)。