展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

フィリップス・コレクション展 感想

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見どころ

…「フィリップス・コレクション展」は、近代美術を扱うアメリカ最初の美術館として創設から100年を迎えるフィリップス・コレクションが所蔵する秀作75点で構成されています。出品作は新古典主義のアングル、ロマン主義ドラクロワバルビゾン派のコローら19世紀の巨匠たちをはじめ、絵画に革新をもたらした写実主義クールベ、マネ及び印象派ドガとモネ、さらにセザンヌやゴーガンから20世紀のクレー、ピカソ、ブラックなどモダン・アートまで、いずれも名だたる画家の作品が勢揃いしていて見応えのある内容になっています。フィリップス氏は徹底して自身が気に入った作品のみを蒐集することに価値があるという考えを持っていたそうで、特にボナールやブラックの作品が充実していました。
…会場内では全ての作品に展示解説があったほか、音声ガイド機の液晶画面に画像が表示される解説もいくつかありました。また、ポストカードの種類が多かった(65種類)のも嬉しかったですね。作品リスト共に置いてあったカード(8作品で1シート、日替わりで2種類)は鑑賞のヒントにもなっていて、作品を楽しむための工夫が凝らされていました。多彩な作家、作品の中から今の自分とフィーリングの合う作品を探しつつ、ゆっくり時間を掛けて見て回りたい展覧会だと思います。

概要

会期

…2018年10月17日~2019年2月11日

会場

三菱一号館美術館

構成

…本展はテーマに基づいた章立てによる構成をとっておらず、会場ではコレクションとして取得された年代ごとに作品が展示されていました。珍しい展示方法だなと思ったのですが、実は、コレクションの創設者であるフィリップス氏自身が作品を時代や地域ごとの縛りにとらわれず、それぞれの美的な気質に従ってまとめる展示方法を好んでいたのだそうです。また、コレクションは単線的に拡大していったわけではなく、フィリップス氏は求める作品を入手するためそれまで持っていた作品を手放したりもしていて、鑑賞者は展示を通してそうした紆余曲折を経つつコレクションが成長していく過程、フィリップス氏の関心の変化を見て取ることができるようになっています。なお、図録では概ね制作年代順に作品が掲載されています。

mimt.jp

感想

クロード・モネ「ヴァル=サン=ニコラ、ディエップ近傍(朝)」(1897年)

…モネは1896~97年にかけて、フランス北岸のヴァランジュヴィル、プールヴィル、ディエップで岩壁の景観を描いた作品を50点以上を制作しているそうです。その中の一枚、「ヴァル=サン=ニコラ、ディエップ近傍(朝)」は空も海も穏やかな表情で、朝靄が立ちこめているのか、白っぽく霞がかったデリケートな色調に包まれています。水平線の赤みを帯びた黄色から、高度を増すにつれて徐々に空色へと変化する空。画面手前側の緑がかった色調から、沖へ向かうにつれて青、さらに紫へと変化する海。前景の岩壁は手前が影になり、海にせり出した崖の草地が朝日を浴びて白く輝いています。柔らかな色彩の靄によって表現された形のない水や大気が全体の優しい雰囲気を醸し出している一方で、どっしりとした岩壁が捉えどころのない光に溶解していきそうな風景に現実の手応えをもたらすことで、互いに支え合っている作品だと思います。

ピエール・ボナール「棕櫚の木」(1926年)

…大きな棕櫚の葉がアーチのように画面上部を縁取るボナール「棕櫚の木」では、海の見える高台の家の庭に佇む女性がこちらに向かって果物を差し出しています。女性は画家の妻マルトで、彼女の持つ果物はリンゴと見られるそうですから、マルトは画家=鑑賞者をエデンに誘うエヴァのイメージで描かれているのでしょう。もっとも、この作品からは堕落への誘惑や楽園追放を予感させる不穏さは感じられません。殉教者のシンボルでもある棕櫚は死に対する勝利の象徴であり、本作のテーマは死を超えた永遠の命や現世の苦悩から解放された魂の平安さと考えられます。ル・カネの家並みの向こうに見えるひときわ明るい海には、淡い青に加えて黄色やオレンジなど複雑な色合いの点描が用いられていて、寄せては返す穏やかな波の心地よいリズムに乗って南仏の眩い光がきらめく様子が感じられます。ボナールの複雑で繊細な色遣いは、不動に見えて実際は絶え間なく変化する風景がもたらす視覚の揺らぎ捉えているのでしょう。温かい色彩に包まれ、一切が調和した楽園に鑑賞者を誘う作品だと思います。

ラウル・デュフィ「画家のアトリエ」(1935年)

…ラウル・デュフィ「画家のアトリエ」は自由で伸びやかな線と、輪郭線から解放された透明感ある色彩が洒脱で軽快な印象の作品です。ブルーのスペースには空のイーゼルやテーブル上に置かれたパレット、床に置かれたカンヴァスなど画家の仕事の痕跡がそこかしこにちりばめられています。画面をはみ出すほど高さのある窓の外には青空の下のパリの街並みが見えて開放感があり、爽やかな印象です。一方、ピンクのスペースを彩る花柄の壁紙はデュフィがビアンシーニ・フェリエのためにデザインしたテキスタイルだそうで、ドアの奥の壁には船や花、女性を描いた作品が並べて飾られています。ブルーのスペースと比較すると閉じた空間なのでプライベートなスペースではないかと思いますが、アーティストらしく日常生活も自作に彩られていることが感じられます。画面の中心近く、両者を繋ぐ位置に置かれたカンヴァスの裸婦は、このアトリエとその主を見守るミューズのような存在なのかもしれませんね。

オスカー・ココシュカ「ロッテ・フランツォスの肖像」(1909年)

…ココシュカ「ロッテ・フランツォスの肖像」には物思いに耽る慎ましい雰囲気の女性が描かれています。女性は座ったポーズですが椅子などは見当たらず、また、一見影のように見える女性を取り巻く濃い青はオーラを表現しているそうなので、対象を物質的に捉えるのではなく、スピリチュアルに表現することを重視しているのでしょう。画家はこの作品について「ロウソクの炎のように彼女を描いた」と語っていますが、胸や腹部など身体の中心から発せられる黄色の光が光背のように女性を取り巻いていて、女性の魂の輝きや生命力が周囲を明るく照らしているように感じられます。一方で、女性の頭部を包む赤のオーラと身体を包む青のオーラは精神と肉体、あるいは感情と行動といった対立や葛藤を暗示しているのでしょうか。青いオーラに包まれた女性の左手は女性器の位置を示すと同時に隠しているようですが、その左腕を押さえる赤のオーラに包まれた右手の指先からは光が放射されていて、形而下の肉体を持ちながらも、聖母のように神聖な存在として描いているように感じられます。ココシュカはマーラーの未亡人アルマとの恋愛で知られているのですが、この作品のモデルで法律家の妻だったロッテにも強い憧れの感情を抱いていたそうで、そうした画家の心理も投影されている作品だと思います。

ジョルジュ・ブラック「ウォッシュスタンド」(1944年)

…この作品は会場内を歩いていたとき、遠目からでもスタンドの明るい水色が目を引いて印象的でした。ウォッシュスタンドとは現代ほど水道の普及していない時代に寝室に置かれていた洗面用の家具のことだそうで、スタンドの上には水差しや盥、ブラシなども描かれています。画家は通路の奥やドアの隙間などから垣間見える部屋の一隅にふと目を留めたのでしょうか。ブラックの他の静物画は横長の画面が多いのに対して、この作品は縦に細長く、ウォッシュスタンドの脚部や画面右側の窓枠などの垂直方向の線がそうした構造上の特徴をさらに強調しています。第二次大戦中、四年近くパリに足止めされていたブラックは、1944年にフランスが解放されてノルマンディー沿岸のヴァランジュヴィルにあるこの自宅兼アトリエに戻ることが出来たそうです。非常時から日常が戻ってきたことで、身近な日々の生活やありふれた身の回りの品が改めて新鮮なものに感じられたのかもしれません。ダンカン・フィリップス氏は大規模なブラックの回顧展開催のために他の作品は貸し出しても、本作は自身の美術館にとどめて展示し続けたそうなので、とりわけ気に入っていた作品の一つなのでしょう。

新・北斎展 感想

見どころ

…「新・北斎展」は葛飾北斎(1760~1849)の没後170年を記念して、最新の研究成果を踏まえつつ北斎の画業を辿るものです。約480件の出品作(会期中展示替えあり)の中心となるのは、長年に渡り北斎作品を研究し、この展覧会の監修にも携わった永田生慈(1951~2018)氏のコレクションですが、氏の遺志によりコレクションは寄贈先の島根県のみで公開されることになっているため、東京で展示されるのは今回が最後であり、貴重な機会となります。
北斎は手がけた作品の数の多さ、ジャンルの幅広さが圧倒的で、目に見えるものも見えないものも、およそ描けるものは何でも描いたところが本当に驚異的だと思います。多作で画風をどんどん変えていったところはピカソとちょっと似ているようにも思えます。晩年になっても衰えることなく新鮮で力の漲る作品を描いている北斎ですが、描くことに取り憑かれているようにも思える旺盛な創作意欲の源には、絵師として高い人気を得ても安住することなく、自らの画風を完成させ、本当の絵描きになりたいという願いがあったそうです。鬼才、天才とつい言ってしまいたくなりますが、何よりも努力の人だったんですね。
…私は2月最初の土曜日午前中に見に行きましたが、入場券の引き換え及び会場入口でそれぞれ5分ほど待ちました。会場内では第1章のコーナーで作品の前に並んでいる入場者の列がなかなか動かないようだったので後ろの方から見ましたが、その後のコーナーはそこまで混雑していなかったので、作品のすぐ前で鑑賞することができました。展示解説は少なめです。会場内はやや暗いですが、もっと照明が暗い展覧会もあるので、それほど気になりませんでした。所要時間は90分でしたが、小さな作品までじっくり見る場合はさらに時間がかかると思います。

概要

会期

…2019年1月17日~3月24日

会場

…森アーツセンターギャラリー

構成

 第1章:春朗期――デビュー期の多彩な作品
  …20~35歳頃、勝川派の絵師として活動
 第2章:宗理期――宗理様式の展開
  …36~46歳頃、肉筆画や狂歌絵本の挿絵など新たな分野に取り組む
 第3章:葛飾北斎期――読本挿絵への傾注
  …46~50歳頃、読本の挿絵に傾注
 第4章:泰斗期――『北斎漫画』の誕生
  …51~60歳頃、多彩な絵手本を手掛ける
 第5章:為一期――北斎を象徴する時代
  …61~74歳頃、錦絵の揃物を多く制作
 第6章:画狂老人卍期――さらなる画技への希求
  …75~90歳頃、自由な発想と表現による肉筆画に専念

hokusai2019.jp

感想

雲龍図」(紙本一幅、嘉永2年(1849:画狂老人卍期))

…展覧会で最も印象深かった作品が「雲龍図」で、最晩年に描かれたとは思えない力強さを感じました。本作と対になる「雨中の虎図」では、雨の中で大地に爪を立てる虎が龍を睨んで咆哮していますが、虎の毛皮やツタの葉などは鮮やかに彩られています。一方の「雲龍図」は群青を用いつつ墨色を基調としたほぼモノクロで描かれていますが、実在する地上の動植物は着彩で、対する龍は次元の異なる不可視の存在のため、無彩色で描くことでその違いを表現しているのかもしれません。何者にも触れられない天の高みで宙を睨む龍の鋭い眼光には人知を超えた神性が宿っていることが感じられて、作品の持つパワーにしばらくのあいだ圧倒されて見入ってしまいました。龍の左足の爪が表具まではみ出しているかとつい錯覚してしまうほど迫ってくるものがあり、自然が持つ渦巻くようなエネルギーとそれを司る龍の強大さが表現されている作品だと思います。

吾妻橋ヨリ隅田ヲ見ル之図」(横間判、文化初期(1804~06:宗理期)頃)、「諸国名橋奇覧 三河の八つ橋の古図」(横大判、天保5年(1834:為一期)頃)

…風景画では西洋画の遠近法を取り入れた「吾妻橋ヨリ隅田ヲ見ル之図」の、橋脚の間から川の流れの遙か先の景色を望む構図が面白く感じられました。両岸に並ぶ柵や木立なども効果的に用いて、遠近感を強調していますね。視点が低く、船の上から見ているような臨場感が感じられると風景だと思います。「諸国名橋奇覧 三河の八つ橋の古図」には、何カ所も折れ曲がり上昇と下降のある奇抜な形状の橋が描かれています。伊勢物語の「東下り」において、杜若の名所として詠まれていることで有名な三河の八橋ですが、江戸時代にはすでに存在していなかったため、北斎は想像で描いたのだそうです。前景に当たる画面右下では橋を上から見ていますが、中景では橋桁を下から見ていたりして、橋の複雑な構造と画面の奥行きを表現するために工夫しているのが分かる作品だと思います。

「夜鷹図」(紙本一幅、寛政8年(1796:宗理期)頃)、「酔余美人図」(絹本一幅、文化4年(1807:葛飾北斎期)頃)

…夜鷹は格の高い花魁のような遊女とは対照的な下層の娼婦のことで、「夜鷹図」では蝙蝠の飛ぶ寂しい夜道に立つ後ろ姿が描かれています。女性が筵ではなく傘を小脇に抱えていることや足駄を履いているところを見ると、月は出ているものの雲行きは怪しいのかもしれません。頬被りをした顔は見えないため容貌や年齢は定かではありませんが、実際、薄暗い路上では夜鷹と相対した客にも顔はよく見えなかったことでしょうし、どんな女性なのかは作品を見る者の想像に委ねているのだろうとも思います。女性が傍らを振り返っているのは、雨が降り出す前に客を見つけたようと探しているためかもしれません。片足を前に踏み出し、螺旋を描くしなやかな身体の線が風にそよぐ柳のようで、もの悲しさの中にも風情を感じさせます。「酔余美人図」は黒い三味線箱に肘をつき、額に手を当て俯せる女性の姿を描いた作品です。女性が蹲っているのは酔いに苦しんでいるためとのことで、箱の傍には杯も置かれていますね。酔いに苦しむ姿というのは本来なら醜態に属する部類だと思うのですが、そこに美を見出すという着眼点が面白く感じられます。あるいは、日頃美しく品の良い女性がうっかり見せた隙に、何か艶めいたものを感じたのかもしれません。女性はつい気分良く酒を過ごしてしまったのでしょうか、それとも何か憂さ晴らしや悩み事を紛らすためだったのでしょうか。着物の作り出す襞、特に身体に纏わり付く青い帯の曲線が優美な印象の作品だと思います。

「牡丹に蝶」(横大判、天保初期(1830~34:為一期)頃)

花鳥画では「牡丹に蝶」という作品が印象に残りました。牡丹の花からちょうど飛び立ったところを捉えたのか、宙返りする蝶という意表を突いたモチーフと、蛇の目模様の羽が目を引くのですが、気になって調べてみたところ実際に蝶は飛行中に宙返りすることがあるようで、造化=万物の理を師とした北斎が、自然をよく観察していたことが窺えます。また、蝶ではなく小鳥や蜂を描いた作品でも頭が下を向いているものが多く見受けられるので、飛翔する動物のみに可能な自在でダイナミックな動きを表現したかったのかもしれないとも思いました。一方、幾重にも重なる牡丹の花びらはどれも似ているが一つとして同じものはなく、花びらのうっすらとした筋や風に翻る葉の表裏の描き分けなど、細部まで丁寧に表現されています。正確に自然を写し取ることと装飾的な効果という二つの面を備えた、華やかで繊細な作品だと思います。

2019年見に行きたい展覧会

…場所は東京近郊、ジャンルは西洋美術が中心です。
…2019年は日本・オーストリア外交樹立150周年、クリムト没後100年を記念して、オーストリアの美術・美術館にスポットを当てた展覧会が各所で開催されます。
…「東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館」は美術館移転準備のため9月30日~2020年2月14日まで休館の予定です。

 ル・コルビュジエ 絵画から建築へ――ピュリスムの時代

…2月19日~5月19日
国立西洋美術館
…西洋美術館開館60周年記念
…1918年末から1920年代に「ピュリスム(純粋主義)」運動を推進したシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエの本名)の美術作品約100点、及び建築模型・出版物・映像資料で構成

ラファエル前派の軌跡展

…3月14日~6月9日
三菱一号館美術館
ラスキン生誕200年記念
…ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、エドワード・バーン=ジョーンズらの絵画作品の他、ステンドグラス、タペストリ、家具など約150点で構成

ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち

…4月6日~6月23日
パナソニック汐留ミュージアム
象徴主義の画家モローの画業について、母や恋人といった身近な女性からファム・ファタルとしてのサロメまで、女性像を描いた作品を軸に辿る企画展
…モロー「出現」他

シャルル=フランソワ・ドービニー展 バルビゾン派から印象派への架け橋

…4月20日~6月30日
東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館
…19世紀フランスを代表する風景画家の一人であるシャルル=フランソワ・ドービニー(1817~1878)の国内初の本格的な展覧会、モネやゴッホにも影響を与えたドービニーの作品について初期から晩年まで約60点、並びにドービニー周辺の画家たちの作品約20点について、ランス美術館の所蔵作品を中心に国内外の美術館・個人が所蔵する作品で構成

クリムト展 ウィーンと日本1900

…4月23日~7月10日
東京都美術館
グスタフ・クリムト(1862~1918)没後100年、女性像や風景画などクリムトの油彩画約20点をはじめ、19世紀末のウィーンの芸術家たちの作品やクリムトが影響を受けた日本の美術品を展示0

ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道

…4月24日~8月5日
国立新美術館
…ビーダーマイヤー時代から世紀末芸術まで、絵画をはじめ建築や工芸品、グラフィックデザインなど幅広い分野における作品により、19世紀末のウィーン芸術の革新性を紹介
グスタフ・クリムト「パラス・アテナ」、エゴン・シーレ「自画像」

印象派への旅 海運王の夢――バレル・コレクション

…4月27日~6月30日
…Bunkamuraザ・ミュージアム
…19世紀から20世紀初めのスコットランドの画家の作品及びフランス絵画約80点で構成
…「バレル・コレクション」はスコットランドグラスゴー出身の実業家ウィリアム・バレルがグラスゴー市に寄付した数千点のコレクションからなる美術館で、「国外に持ち出さないこと」が条件の一つとして建設されたが、美術館の改装に伴って展覧会が実現
ドガ「リハーサル」

松方コレクション展

…6月11日~9月23日
国立西洋美術館
…開館60周年記念、国立西洋美術館の基礎となった実業家・松方幸次郎氏のコレクションをテーマとする60年ぶりの大型展
…国内外に散逸した作品を結集し、歴史資料も加えた160点で構成
…2016年にルーヴル美術館で発見され、現在修復中のモネ「睡蓮」初公開

みんなのミュシャ ミュシャから漫画へ――線の魔術

…7月13日~9月29日
…Bunkamuraザ・ミュージアム
ミュシャのポスターやイラスト作品を通じてその発想の源や手法を探ると同時に、ミュシャから影響を受けたグラフィック・アートや漫画など多彩な作品も展覧

コートールド美術館展

…9月10日~12月15日
東京都美術館
…マネ、ルノワールセザンヌ、ゴーガンなど印象派、ポスト印象派の絵画・彫刻約60点で構成
ロンドン大学に付属するコートールド美術研究所は美術史や保存修復において世界有数の研究機関であり、コートールド美術館はその展示施設
…マネ「フォリー=ベルジェールのバー」、ルノワール「桟敷席」

オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち

…9月21日~2020年1月13日
横浜美術館
横浜美術館開館30周年記念、「ジャン・ヴァルテル&ポール・ギョーム コレクション」からマティスピカソ、エコール・ド・パリのモディリアーニやスーティンなど19世紀後半から20世紀前半にかけてのフランス近代絵画約70点で構成
ルノワール「ピアノを弾く少女たち」

ラウル・デュフィ展 絵画とテキスタイルデザイン

…10月5日~12月15日
パナソニック汐留ミュージアム
…ラウル・デュフィの絵画作品、及びポール・ポワレらファッション・デザイナーから重用されたテキスタイル・デザインという二つの表現媒体を通して、画家が目指した表現の本質を再考する企画展

ゴッホ

…10月11日~2020年1月13日
上野の森美術館
…オランダのハーグ派に学んだゴッホの初期作品から印象派と出会ったパリ時代の作品、独自の画風を築いた南仏時代、そして晩年まで、画風の変遷及び影響のあった画家との比較を通じてゴッホ像を明らかなものにする企画展
ゴッホ作品約40点及びハーグ派・印象派など約20点
ゴッホ「糸杉」他

ハプスブルク展 600年にわたる帝国コレクションの歴史

…10月19日~2020年1月26日
国立西洋美術館
…日本・オーストリア友好150周年記念、ハプスブルク家が収集した美術品についてウィーン美術史美術館の所蔵する絵画や工芸品で構成
…ウィーン美術史美術館はルーヴル、プラドと並ぶ欧州三大美術館、ハプスブルク家の蒐集品を核に19世紀末に美術館として開館、ブリューゲル、ベラスケス、ティツィアーノルーベンスなどの絵画作品の他、エジプト・オリエントコレクション、彫刻、武具、工芸品、貨幣など76万点の所蔵品を有する
…ベラスケス「青いドレスの王女マルガリータテレサ

印象派からその先へ 世界に誇る吉野石膏コレクション

…10月30日~2020年1月20日
三菱一号館美術館
…吉野石膏株式会社の企業コレクションのうち、バルビゾン派から印象派を経て、20世紀前半の前衛芸術まで72点で構成

ロマンティック・ロシア 国立トレチャコフ美術館展 感想

見どころ

…この展覧会は、ロシア最大の国立美術館であり、11世紀から現代に至るロシアの美術作品を所蔵するトレチャコフ美術館のコレクションのうち、19世紀後半から20世紀初頭を代表する画家たちの作品72点によって構成されています。
…トレチャコフ美術館の創設者であるパーヴェル・トレチャコフ(1832-1898)は紡績業で財を成した実業家で、同時代のロシア美術、とりわけ移動展覧会協会(移動派)の作品に強い関心を抱き、積極的に作品を収集すると共に、画家たちと親交を結びました。移動派とは芸術上の理想をヨーロッパや古典古代芸術が持つ技巧や規範に求めるアカデミー派に対抗して、芸術による民衆の啓蒙を目指し、社会の現実をリアリズム様式によって捉えた作品を制作した流派で、「忘れえぬ女」を描いたクラムスコイをはじめ、レーピン、レヴィタン、シーシキンなどが参加しています。本展は移動派を初めとする創設者パーヴェルとほぼ同時代の画家たちの作品が中心であり、美術館のコレクションの根幹を成す作品によって構成されているとも言えそうです。
…この展覧会の特徴は、風景画が多いことだと思います。日本には四季がある、四季の変化がはっきりしていることが特徴としばしば言われることがありますが、この展覧会を通じて春の洪水や夏の白夜、冬の樹氷などロシアならではの四季、そして広大な空と平原が印象的な透明感のある風景というロシアならではの自然の美しさを感じることができました。一方で、季節ごとに表情を変える自国の自然への愛着――必ずしもそこに住む人々にとって暮らしやすいものではなく、時に過酷なものであっても――という点は、いずれの国にも共通しているのではないかとも思います。
…ロシアの美術館のコレクションによる展覧会はエルミタージュ美術館展(2017年、森アーツセンターギャラリー)やプーシキン美術館展(2018年、東京都美術館)など、ここ最近でもしばしば開催されているのですが、出品作はフランスやイタリアなど他国の画家の作品がメインでした。私自身のタイミングの問題なのでしょうが、これまでシャガールカンディンスキーなど個別の画家や作品に触れる機会はあっても、ロシア美術を俯瞰するような展覧会にはなかなか巡り会うことが出来ずにきたので、今回そうした個人的な念願も叶い、新たに数多くの画家や作品を知ることが出来て良かったです。

概要

会期

…2018年11月23日~2019年1月27日

会場

…Bunkamura ザ・ミュージアム

構成

 第1章 ロマンティックな風景
  1-1 春
  1-2 夏
  1-3 秋
  1-4 冬 
 第2章 ロシアの人々
  2-1 ロシアの魂
  2-2 女性たち
 第3章 子供の世界
 第4章 都市と生活
  4-1 都市の風景
  4-2 日常と祝祭
…ジャンル別の章立てで、特に風景画が充実しています。これは美術館の創設者であるトレチャコフが、風景を通じて母国の風貌に親しむことができるだけでなく、人間の内面に対する理解も深めることができるという確信に基づいて、ロシアの風景画家の作品を非常に熱心に収集したためだそうです。年代順でも作家別でもなく、四季ごとに作品を並べるというのはあまり例のない面白い展示の仕方ですが、それぞれに個性的な各作品に共通するロシアの風土の特徴を感じ取って欲しいのかもしれません。また、人物を描いた作品のうち、子供を描いた作品を分けたのも興味深いです。農家の子供たちの遊びを描いた「小骨遊び」や村の市場に並ぶ多才な民芸玩具が印象的な「おもちゃ」などは風俗画としての側面も窺われます。全体を見渡してみると、風景、人物、風俗、また風景の中には花の静物画も含まれていて、この中にないのは歴史画・宗教画ということになりますが、たとえば「忘れえぬ女」を描いたクラムスコイは「荒野のキリスト」という宗教画を手がけ、これがトレチャコフ美術館に所蔵されています。また、トレチャコフ美術館はイコンについても膨大なコレクションを有しているので、宗教美術にも関心を払っているんですね。今回の展覧会ではそうした作品は展示されていませんが、ロシア正教はロシアの人々に深く根付いていて、例えばワスネツォフの「祖国」と題された風景画の中で遙か地平線上に立つ聖堂のように、大きく描かれなくとも常にひっそりと息づいているのだろうと思います。

感想

アレクセイ・コンドラーチエヴィチ・サヴラーソフ「田園風景」

…サヴラーソフ「田園風景」はモスクワ近郊の風景を描いた作品で、鳥が舞う広々とした空の下、なだらかな丘陵には淡い緑の草原と耕されて黒々とした耕地がパッチワークのように連なっています。画面左下には円筒形の蜜蜂の巣箱が並んでいて、その手前で男性が焚き火をしていますが、おそらくお湯を沸かして砂糖を煮溶かし、蜂の餌となる砂糖水を作っているところではないかと思います。一帯が雪に覆われる長い冬のあいだ、老養蜂家も蜂たちの世話を欠かすことが出来なかったでしょう。しかし、巣箱の背後では春風に撓むリンゴの枝に桜のような白い花が咲き始めています。暖かくなって周りの木々や野の草花が咲き出せば、蜂は花から蜜を集めることができるようになるのでしょうね。冬の終わり、春の兆しを優しい光に包んで描いた、牧歌的な情趣に富む作品だと思います。

イサーク・イリイチ・レヴィタン「春、大水」

…川から溢れた大水に浸かった白樺の林。針のように細く頼りない幹が、早春の薄雲に覆われた空へと伸びています。波のない澄んだ水面に映りこんだ樹影は水上の木立と切れ目なく繋がっていて、冷たい水の底に向かって生えているようにも見えます。ロシアでは洪水が春の風物詩だというのは今回初めて知りました。広大なロシアを流れる大河は、厳しい冬のあいだ凍りついて分厚い氷に覆われてしまうのですが、春になって溶け出す際に分解した氷の塊が河を途中で塞いでしまうため氾濫が起きるのだそうです。画面左下では岸辺に小舟が浮いていますが、遠くに見える水の中に取り残された家の住人が、こうした舟で陸地と行き来しているのかもしれません。本作の主題は災害ではあるのですが、自然の猛々しさよりむしろ白樺の林を包む静寂と水や空気の透明感の方が印象的です。この水が引く頃には、きっと白樺の枝にも緑が芽吹いているのでしょう。繰り返される厄介な現象と待ち望んだ春の訪れとは一体のものであり、両義的な側面を持つ自然に泰然と向き合っているように感じられる作品です。

コンスタンチン・ヤーコヴレヴィチ・クルイジツキー「月明かりの僧房」

…クルイジツキー「月明かりの僧房」では影が出来るほど明るい夏の月夜、白い外套を着て杖を持つ巡礼が、礼拝堂の前のベンチに座る黒衣の聖職者と言葉を交わしています。巡礼ですから礼拝のために訪れたのか、一夜の宿を求めているのでしょう。一方の僧侶はこの地にひっそりと隠棲していたのか、白い六端十字を掲げた簡素な礼拝堂は屋根や木の柵の随所が傷み、訪れる人も稀なように思われます。画家の故郷はウクライナで、この作品もキエフ近郊で描かれたそうですが、19世紀後半にはまだこうした素朴な情景が見られたのでしょうか。時の流れ、社会の変化から取り残されたような古びた僧房は、生い茂る背の高いポプラの森に飲み込まれて遠からず老聖職者と共に朽ちていくのかもしれません。神秘的な青白い月光が夜の静寂を一層深めている作品だと思います。

イワン・イワーノヴィチ・シーシキン「正午、モスクワ郊外」

…夏雲の湧く晴れた空の下、金色に実った麦畑のあいだの道を歩く人々。シーシキンの「正午、モスクワ郊外」は縦に長い画面が特徴で、それが空の大きさ、雲の高さを一際強調するようです。農具を携えた人々は朝からのひと仕事を終え、これから家に戻って昼食を取るところなのでしょう。人物は小さく表情は分かりませんが、夏の日差しに照らされた風景は全体の色調が明るく、彼らは楽しげに語り合っているように感じられます。泥濘るんだ道に残る轍は、アルヒーポフの「帰り道」に描かれているような馬車が通った跡なのかもしれません。道の先にはなだらかな緑の丘が地平線まで続いていて、川の水面や煙の立ち上る家、そして聖堂の鐘楼が小さく描かれていますが、こうした広々とした牧歌的な風景こそロシアの自然のイメージそのものだそうです。素朴な田園で営まれる穏やかな情景が見る人の心に安らぎを与える作品だと思います。また、本作は美術館の創設者であるトレチャコフが最初に購入したシーシキンの作品とのことですから、きっとトレチャコフにとっても自らの理念に適った作品だったのでしょう。

グリゴーリー・グリゴーリエヴィチ・ミャソエードフ「秋の朝」

…ミャソエードフ「秋の朝」は画面を金色に染める一面の黄葉がまず目に飛び込んできます。しかし、よく見ると視界に張り出す木々の枝一本一本、葉の一枚一枚まで丁寧に描かれていて、非常に緻密な作品であることが分かります。まるでクールベのようですね。朝の森に生き物の気配はなく、小川の流れは落ち葉に埋もれて淀み、梢の葉を揺らす風さえも途絶えて、黄葉の華やかさが辺りの静寂を一層深めているようにも感じられます。ミャソエードフは移動展覧会教会の創設者の一人で、写実主義の熱烈な支持者だったそうですが、妥協を許さない厳密な描写の中にも、ひっそりと物寂しい秋の気配が感じられる作品だと思います。

イワン・シルイチ・ゴリュシュキン=ソロコプドフ「落葉」

…一方、同じ秋でも、ゴリュシュキン=ソロコプドフの「落葉」では落ち葉の冠を被る女性に擬人化された象徴的な秋が描かれています。女性と植物という取り合わせがアールヌーヴォー風だなと思ったのですが、ゴリュシュキン=ソロコプドフは副業として広告ポスターの制作も手がけていたとのことで納得です。秋風に舞い散る落ち葉の中に佇み、長い髪をなびかせている女性の青白い横顔は、女性の纏う服の紫色とも相まってミステリアスでどこか物憂げに見えます。日本語にも「秋思」という言葉がありますが、憂愁の季節という秋のイメージが国を問わず共通していることを興味深く思いました。

ワシーリー・ニコラエヴィチ・バクシェーエフ「樹氷

…夜のうちに雪が降ったのでしょうか。バクシェーエフの「樹氷」では雲のない乾いた青空のもと、すっかり凍りついた樹氷の森が日差しの色に染まっています。僅かに見える地面と樹の幹のほかは一面白い雪に覆われていますが、青や灰色、茶色、そしてバラ色が混じりあって多様なニュアンスの白が描き分けられています。強い風が吹いたり、新たに雪が降り積もるごとに変容する儚さに魅了されたのか、バクシェーエフは樹氷に包まれた木々というモチーフを繰り返し描いたそうです。しかし、実はロシア美術において冬の風景画はそれほど多くないとのことで、雪と氷の国というイメージを持っていただけに意外な気がしました。冬が長く過酷な分、暖かな季節を求める気持ちが強いのかもしれないですし、厳しい寒さや深い雪のために外でスケッチしたりするのも大変なのかもしれませんね。冬は人も動物も寒さに身を潜めて閉じこもりたくなるものですが、そんな季節にも自然がもたらすその季節ならではの美が存在し、見ることに貪欲な画家たちを惹きつけるのでしょう。

イワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイ「忘れえぬ女」

…馬車の上から首を傾げてこちらを見下ろす、洗練された装いの若く美しい女性。彼女と目が合ったのは、こちらが思わず彼女を見つめてしまったからでしょう。本作の原題は「見知らぬ女」なのですが、名も知らぬ女性から鮮烈な印象を受けたという物語を想像させるような「忘れえぬ女」という日本での呼称も、なかなか核心を突いていると言えそうです。冷たい冬の靄が立ちこめるサンクトペテルブルクの街並みがベージュがかった色合いで薄ぼんやりと霞んでいるのに対して、女性の姿がそれだけにピントが合っているかのようにクリアに、上着を縁取る毛皮やリボンの光沢、繊細な羽根飾りなどの質感まで緻密に描写されているのも、視覚的な正確さであるより心理的なリアルさの表現なのかもしれません。通りすがりに美女を見かけるという場面は一見ありそうなのですが、当時のロシアでは女性が幌を上げた馬車に一人乗りすることはなかったそうで、実は非常に大胆な行動なのだそうです。当然ながらこの美しい女性のモデルは誰なのか、彼女の大胆な行動にどんな意味が込められているのか知りたくもなりますが、発表当初から様々な解釈がなされつつも定まった説はないようです。おそらく特定のモデルを想定して描いたというより、匿名の存在、普遍的な女性の像の一つとして描かれたのではないでしょうか。画家、そして鑑賞者に向けられた黒目がちの瞳と、ふっくらとした唇のカーブが作り出す口元の表情は艶然と誘いかけているようにも見えますし、冷ややかで挑発的にも見えるのですが、官能的でありながら近寄りがたいという相反する印象が混じり合っていることが本作の最も大きな魅力の一つであり、モデルの秘密と相まってこの謎めいた女性に見る者を惹きつけて止まないのでしょう。

フィリップ・アンドレーエヴィチ・マリャーヴィン「本を手に」

…マリャーヴィン「本を手に」では、膝に置いた本を開いたまま横を向いている若い女性が描かれています。画家に対してそっぽを向いているようなポーズが新鮮ですが、横を見ているのは誰かに呼ばれたのか、それとも何か気になるものが目に入ったのでしょうか。壁に映った影によって輪郭が際立つ横顔はすっきりとした鼻梁やしっかりとした眉が印象的で、眼差しからは意志が感じられます。本作はマリャーヴィンが美術学校の学生だった時期に描かれたもので、モデルの女性はマリャーヴィンの妹だそうですが、画家は浅黒い肌や化粧気もなく無造作に髪をまとめた妹の飾り気のない姿を美化せず率直に捉えています。同じ若い女性でも都会的で洗練された「忘れえぬ女」とは対照的な身近さがありますが、本という持ち物と個性的な容貌が女性の知性や品位も感じさせる肖像画だと思います。

オリガ・リュドヴィゴヴナ・デラ=ヴォス=カルドフスカヤ「少女と矢車菊

…デラ=ヴォス=カルドフスカヤ「少女と矢車菊」では、木漏れ日の落ちるテラスの階段で、白い夏服のスカートに矢車菊を広げている少女が描かれています。鮮やかな青紫の花弁が少女の服や髪のリボンと呼応していますね。青い絵具を交えた日陰の表現やまだらな木漏れ日の表現などが印象派的だなと思いました。少女はおそらく家の庭で摘んだ矢車菊で花冠を作っているところなのでしょうが、少しぼんやりとした面持ちで俯いている様子からは、花がその花の形をしていることの不思議に見入っているようにも思われます。デラ=ヴォス=カルドフスカヤは1917年に美術アカデミーの会員に推薦された(その後ロシア革命が勃発したため投票は成立しなかったそうです)最初期の女性画家の一人で、本作のモデルは彼女の娘だそうですが、母親の注意深い眼差しは、本来なら見過ごしてしまいそうなありふれた一場面に気が付いたのでしょう。また、自然体の少女の姿から、少女にとっても母が子供を描くことが特別ではない、日常の一部であったように感じられます。穏やかな情景に母と子の親密さが窺われる作品だと思います。

ニコライ・ドミートリエヴィチ・クズネツォフ「祝日」

…19世紀のロシアでは、祝日に民族衣装を着る習慣が民衆のあいだに残っていたそうです。衣装には各地域ごとに伝統があり、ウクライナの女性の場合はクズネツォフの「祝日」に描かれている通り、刺繍のあしらわれた白いシャツにスカートと同色のブーツというものでした。緑の草原に寝転ぶ少女の袖を彩る可憐な花模様が、あたかも草原に咲いているように見えますね。大地に背中を預けて、全身に日差しを浴びる少女の姿は日光をエネルギーに生長する植物のようであり、少女の周りに咲き乱れ、生い茂る草花は若々しい少女の宿す旺盛な生命力がそのまま外に溢れ出たようにも見えます。人と植物、あるいは人と自然との敷居がなくなり繋がり合って、生きとし生けるものの根源的な一体感が感じられる作品だと思います。

その他…会場内の様子、混雑状況

Bunkamuraザ・ミュージアムの改修後、最初の展覧会となりましたが、これまでとチケットの確認方法が変わって、入口で前売券を提示すると引換券と交換されるという方式になりました。会場自体は今までと大きく変わってはいません。私が見に行ったのは12月の第2土曜日でしたが、混雑はなく落ち着いて見て回ることができました。作品数は70点余りで中規模の展覧会ですが、全ての作品に解説があるので、音声ガイドも使用しながらじっくり見ていくと2時間程度かかると思います。

フェルメール展 感想

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見どころ

…この展覧会は10年ぶりの来日となる傑作「牛乳を注ぐ女」をはじめとするフェルメール作品と共に、ハブリエル・メツー、ピーテル・デ・ホーホ、ヤン・ステーンなど17世紀のオランダ黄金時代の絵画作品約50点で構成されるものです。見どころは、何と言っても現存するフェルメールの作品35点のうち10点が出品されることで、「ワイングラス」(ベルリン国立美術館蔵)と「赤い帽子の娘」(ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)、「取り持ち女」(ドレスデン国立古典絵画館蔵)は日本初公開となります。これだけの数のフェルメールの作品を日本でまとめて見られる機会はなかなかないでしょう。今年前半の、ベラスケス作品が7点出品されたプラド美術館展(国立西洋美術館)のときも思ったのですが、何より関係者の尽力があってのことと思いますし、裏を返せばそれだけの集客が見込まれるということ、美術作品への高い関心が多くの人に共有されていることの証なのだろうとも思います。本展は会期が約4ヶ月と長めになっていますので、是非会場に足を運んでいただければと思います。

 

概要

会期

…2018年10月5日~2019年2月3日

会場

上野の森美術館

構成

第1章 オランダ人との出会い:肖像画 7点
第2章 遠い昔の物語:神話画と宗教画 6点
第3章 戸外の画家たち:風景画 10点
第4章 命なきものの美:静物画 3点
第5章 日々の生活:風俗画 13点
第6章 光と影:フェルメール 9点(期間中の展示入替あり)
…ジャンル別の章立てとなっていますね。特に風俗画が充実していますが、フェルメールの出品作も風俗画がメインなので、同時代の画家たちの作品と見比べつつ、往時のオランダの空気感を味わうことが出来ると思います。なお、フェルメールの作品は第6章でまとめての展示となっています。

フェルメール出品作

1 マルタとマリアの家のキリスト:1654~1655年頃、スコットランド・ナショナル・ギャラリー
2 取り持ち女:1656年、ドレスデン国立古典絵画館(日本初公開、東京会場の展示期間2019年1月9日~2月3日)
3 牛乳を注ぐ女:1658~1660年頃、アムステルダム国立美術館
4 ワイングラス:1661~1662年頃、ベルリン国立美術館(日本初公開)
5 リュート調弦する女:1662~1663年頃、メトロポリタン美術館
6 真珠の首飾りの女:1662~1665年頃、ベルリン国立美術館
7 手紙を書く女:1665年頃、ワシントン・ナショナル・ギャラリー
8 赤い帽子の娘:1665~1666年頃、ワシントン・ナショナル・ギャラリー(日本初公開、東京会場の展示期間2018年10月5日~12月20日)
9 恋文:1669~1670年頃、アムステルダム国立美術館(大阪会場のみ出品)
10 手紙を書く婦人と召使い:1670~1671年頃、アイルランド・ナショナル・ギャラリー
…10点のうち「恋文」は大阪会場のみの出品のため、東京で見ることができるのは9点となります。現存するフェルメールの作品は35点(国立西洋美術館に寄託されている「聖プラクセディス」など作者について意見が分かれる作品を含めると37点)と寡作なのですが、一方で所蔵する美術館はヨーロッパ各国やアメリカに分散しているのが印象的です。同様に寡作であってもベラスケスの作品がプラド美術館に集中しているのと対照的だなと思ったのですが、スペインの宮廷画家だったベラスケスの作品が王家に所有されてきたのと違い、一般の市民層が顧客だったであろうフェルメールの作品は市場を介して様々な人手に渡ってきたことの表れでもあるのでしょうね。

感想

ヤン・ファン・ベイレルト「マタイの召命」

…「マタイの召命」は徴税吏だったマタイが、「わたしに従いなさい」というイエスの呼びかけに応じて弟子となったという聖書の逸話を描いたものです。画面右側に立って指を差すイエスの肩に掛けた赤い布と、画面左側に座り胸に手を当てるマタイの赤い衣が相互に呼応し合っていて、本作の主題の核となる人物であることが示されていますね。振り返ってイエスをよく見ようと眼鏡をずらしている黒い服の男性は金貨を天秤で計っているところですが、新約聖書において徴税吏は罪人と同義であり、ローマ帝国の手先となって同胞のユダヤ人から税を取り立てる憎むべき存在として繰り返し言及されているそうです。キリストを見上げるマタイの仕草や表情には、罪深い自分がキリストの弟子になってもいいのだろうかという驚きや動揺と、選ばれたことを受け入れ、率直に喜びたい気持ちが混ざり合っているように感じられます。マタイの召命はネーデルラントで人気のあった聖書の物語だそうですが、徴税吏だったマタイがイエスに選ばれたことは、利益の追求とキリスト教徒としての道徳の狭間に置かれ、自分たちの仕事に一種後ろめたさを持っていたであろう彼らにとっても救いだったのでしょう。マタイの説得力のある人間的な表現には、当時の市民の思いが重ね合わされているのかもしれません。ところで、この作品のイエスのポーズや、画面手前の男性が身につけている華やかな黄色い服と羽根飾りのついた帽子などは、カラヴァッジョの同名の作品を彷彿させます。強烈な明暗の効果によって劇的な場面を描き出したカラヴァッジョですが、「マタイの召命」においてはマタイを差すイエスの手のみが闇に浮かび上がり、画面右側から差し込む光が左端に座るマタイを照らすことで、罪人であるマタイにスポットライトが当たっています。一方、ベイレルトの作品ではイエスの姿は光のなかにあり、まだ徴税吏であるマタイは影のなかに描くという形で光と影が使い分けられているのですが、いずれの作品でも光は単なる自然光に止まらず、神秘的な現象、神の恩寵を示唆する超越的な光として用いられている点で共通しているとも思います。なお、カラヴァッジョの「マタイの召命」について、長らくマタイは髭を生やして自分を指差す男性だと考えられてきたが、実は最も左端で俯いている若者がマタイであるという議論があるそうです*1。私は宮下氏の意見に同感で、左端の若者がマタイのように思えるのですが、ベイレルトの作品にはカラヴァッジョとほぼ同時代の人々が髭を生やした男性をマタイと見なしていたことが反映されていて、カラヴァッジョのマタイが誰なのか改めて興味深く思いました。

ヘラルト・ダウ「本を読む老女」、ニコラス・マース「窓辺の少女、または「夢想家」」

…聖書を手に取り熱心に読みふける年老いた婦人。ヘラルト・ダウ「本を読む老女」では婦人の被る帽子や羽織った服の襟の毛皮、肌に刻まれた皺、開かれた頁に印刷された文字などが細部に至るまで鮮明に描写されています。当時のオランダ女性の識字率は高く、ほとんどの女性が字を読めたそうですが、婦人が読んでいるのは「ルカによる福音書」19章で、挿絵にはイエスを見ようといちじく桑の木に登っている徴税人ザアカイの元をイエスが通りがかった場面が描かれています。イエスに会ったザアカイは自分の財産を貧しい人々に施すのですが、このエピソードが選ばれているのは鑑賞者に対して吝嗇や蓄財を戒め、この世の財産を貧しい人々と分かち合うよう促すためだと考えられるそうです。婦人は毛皮をあしらった服や宝石の装身具など良い品を身につけていますが、聖書を読む面持ちは生真面目で厳粛であり、キリスト教徒としての自らを省みているのでしょう。当時の人々にとっての道徳的な模範が示された作品だと思います。
…ニコラス・マースの「窓辺の少女、または「夢想家」」に描かれているのは、一転してまだ年若い少女です。赤や茶褐色を主とした温かみのある画面のなかで、少女は窓辺でクッションに肘をつき、顎に手を当てて物思いに耽っています。窓の外に半分だけ身を乗り出しているのは、少女がこれから大人になり、家の外の世界に出ていく狭間の段階であることを示しているのでしょうか。心ここにあらずといったやや憂わしげな表情は、子どもの頃には戻れないといった感傷や、未知の世界への漠然とした不安などを表現しているのかもしれません。窓の周囲を縁取るように描かれたアプリコットや桃の果実と、ふっくらとした瑞々しい少女の頬の丸みや唇の赤みとが呼応していますね。匂いや味の甘さを喚起する熟した果実には官能のイメージもあるでしょう。繊細で甘美な思春期の憂愁が表現された作品だと思います。甘美な「窓辺の少女」と謹厳な「本を読む老女」とは好対照の作品で興味深かったのですが、当時の人々は良きキリスト教徒であろうと務めつつ、生きる喜びを享受することも大切にしていたのでしょうね。なお、ダウとマースは共にレンブラントの弟子で、描かれた人物に独特の気品が感じられるのは師の影響なのかもしれないと思いました。

ハブリエル・メツー「手紙を書く男」

…ハブリエル・メツーの「手紙を書く男」では、上品な身なりの男性が机に向かって熱心にペンを走らせています。机を覆う豪華なペルシャ絨毯や黒い上着の袖口からのぞく白い袖の優美な襞が見事ですね。同時代の男性の肖像画を見ると多くの場合髭を生やしているのですが、髭のないこの男性はまだ若く色白で、まさに白皙の美青年といった容貌です。おそらく労働の必要がない富裕な階層に属する男性は、背後の天球儀に象徴される高い学識も持ち合わせているのですが、一方で背後の壁に飾られている絵に描かれた山羊や、その絵の額縁にあしらわれた鳩は欲望を象徴していて、男性が移り気でもあることを暗示しているそうです。メツーはフェルメールの作品を研究して自作に取り入れていたそうで、窓や机の配置といった構図などよく似ていますね。男性の背後の壁の黄味がかった筋は額縁に当たった光が反射したものでしょうか。本作と対となる「手紙を読む女」でも女性の背後にかけられた鏡やメイドのバケツの持ち手に反射した光が描きこまれているのですが、そうした現象を注意深く観察して再現する姿勢にフェルメールと共通するものを感じます。なお、「手紙を読む女」では、女性の背後に波立つ海を航行する船の絵が掛けられているのですが、「愛は荒れる海のようだ」という喩えを踏まえたもので、恋人たちの行く手に多くの困難がつきまとうことを暗示しているそうです。恋の先行きは不穏なようですね。赤い絨毯にインクの瓶が倒れているにもかかわらず、男性は一心に手紙を書いていますが、教養ある人物もひとたび恋に取り憑かれると他のことは見えなくなってしまうのでしょう。フェルメールに倣った静謐な室内と、嵐のような恋の熱情という対比が印象的な作品だと思います。

ヨハネス・フェルメール「マルタとマリアの家のイエス

…「マルタとマリアの家のイエス」は「ルカによる福音書」10章に基づくエピソードで、食卓にパンを運んでいる女性がマルタ、肘掛け椅子に座る頭上に後光の差した人物がイエス、画面手前で頬杖をついて座り込んでいる女性がマリアです。頬杖は憂鬱、瞑想、怠惰などを象徴するポーズで、給仕に勤しむ姉のマルタはイエスの話に聞き入っている妹のマリアに仕事を手伝うよう注意して欲しいとイエスに頼むのですが、イエスは「マリアは良い方を選んだ」とマルタを諭すという場面です。私などは真面目に働いているマルタにちょっと同情してしまうのですが、目先の現実、日常の雑事に忙しなく追われて内面を疎かにすると自分を見失ってしまうのだから、魂について考えることが大切だということでしょう。当のマリアは姉とイエスが自分の話をしていることにも気付いていないのか、食い入るような目をして思索に集中していますが、知性の感じられる表情に精神の優位性が表現されていると思います。穏やかにマルタを諭すイエスの顔が丁寧に仕上げられているのに比べると、イエスの服やパン、部屋から建物の奥へと続く通路など他の部分は大胆な筆遣いで大まかに塗られているのですが、初期の作品で技法を模索している途上のためかもしれません。しかし、画面の中心、視線が誘導される先にある白いテーブルクロスは最も明るく塗られ、その前にマリアを指し示すイエスの手が描かれる構図は本作の主題を見る人に明示する巧みなものだと思います。ところで「マルタとマリアの家のイエス」について、「現存する限り聖書の題材を扱ったフェルメール唯一の作品」と説明されていて、国立西洋美術館に寄託されている「聖プラクセディス」(1655年)の扱いが気になったのですが、図録のフェルメール全作品解説では紹介されていました。聖プラクセディスは2世紀頃の聖女で、当該の作品は処刑されたキリスト教徒の遺体を清めた聖女が、十字架と共に赤く染まった海綿を握り締め、殉教者の血を器に注いでいる様子が描かれています。「聖プラクセディス」をフェルメールの作品とみるかどうかはまだ定まっていないため、西洋美術館の所蔵品紹介でも「フェルメールに帰属」と記載されているのですが、「マルタとマリアの家のイエス」を唯一の「宗教画」ではなく「聖書を扱った題材」という言い回しで説明しているのは、「聖プラクセディス」を念頭に置いた表現でもあるのでしょう。なお、西洋美術館では、フェルメール展に合わせて「聖プラクセディス」が展示中のようです。

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ヨハネス・フェルメールリュート調弦する女」、「真珠の首飾りの女」、「手紙を書く女」

…窓辺の女性がリュートを抱えて爪弾く「リュート調弦する女」。身支度の途中の女性が、首飾りを掲げて鏡を見る「真珠の首飾りの女」。仄暗い部屋で、女性が机に向かい手紙を書いている「手紙を書く女」。これら三つの作品はフェルメールが1662年~65年頃に手がけた作品です。この時期のフェルメールは構図の似通った単独の女性像を続けて制作しているのですが、中でもこれら三つの作品は、いずれも白い毛皮の縁飾りの着いた黄色い上着の女性が描かれていて、楽器の演奏や化粧、手紙とロマンスを暗示させる主題も共通していますし、連作といかないまでも姉妹のような作品と見ていいのでしょうか。黄色い上着と共にフェルメール拘りのモチーフである真珠の首飾りは、「手紙を書く女」で女性が手元に置きながら手紙を書いているので、恋人からの贈り物と考えることもできそうです。恋を暗示する風俗画は、浮ついた恋や見た目の美しさに囚われることを戒める教訓的な意味合いを含むことがしばしばありますが、いずれの作品からも俗っぽい印象を受けないのは、女性に注がれる眼差しが価値判断を含まないニュートラルな観察者のものであるためかもしれません。特に、「真珠の首飾りの女」では光の差す室内が柔らかなトーンで等しく包み込まれ、女性は本来なら背景であるはずの調度品や漆喰の壁と調和していて一種の静物画のようにも感じられます。あるいは空気や光が女性と同等の存在感を持つとも言えそうで、それが独特の静謐さを生み出しているのかもしれません。また、それぞれの女性が何を見ているのか、その違いも面白いですね。「リュート調弦する女」でリュートを抱えた女性は気もそぞろで、窓の外を見ています。恋人がこれから訪れるところなのか、あるいは帰る姿を見送っているのか、解釈は様々のようですが、いずれにせよ女性の目が追っているのは恋人の姿なのでしょう。光を受ける女性の表情はあまり鮮明ではないのですが、不安と期待に揺れ動いているようにも見えます。一方「真珠の首飾りの女」では、女性は鏡に映る自分自身を見ています。首飾りを当てて服と合っていること、あるいはそれを身につけた自分の姿を確かめているのでしょう。恋をすると綺麗になるとよく言われますが、女性が見ているのは高まる恋に昂揚する自分自身であり、夢のような心地に微笑んでいるのだろうと思います。そして、「手紙を書く女」では女性は画面のこちら側、鑑賞者を振り返っています。女性と目が合うためか、部屋の扉を開けて、手紙が書き上がったかどうか様子を見に来たメイドのような気分にもなりますね。女性の微笑みは喜びが滲んでいる「真珠の首飾りの女」よりも控えめで、聡明な印象が上回ります。あるいは、小首を傾げてやや上目遣いに微笑みかけてくる女性は、彼女を見つめる人に対して恋しい人はいるのか、あなたはどんな恋をしているのかと問いかけているようでもあります。女性は人の心に眠っているささやかな情熱の象徴であり、机上の手紙に綴られるのは見る人自身の物語である…と想像するのも面白いかもしれません。

ヨハネス・フェルメール「牛乳を注ぐ女」

…画面左手の窓から光が差し込む明るい室内。窓辺に置かれたテーブルのそばで、黄色い胴着(ボディス)に青いエプロンを着けた女性がミルクの瓶から鉢に牛乳を注いでいます。テーブルの上には細かく分けられたパンが置かれていますが、実はかなり固くてそのままでは食べられないため、女性はパン粥を作っているのだそうです。パンや籠の描き方は「マルタとマリアの家のイエス」に比べるとかなり緻密に見えるのですが、実は印象派のような点描が用いられていて、数年のあいだに技法が大きく変化していることが分かります。目は、薄暗い場所で太陽に照らされたものを見ると、光を斑点や粒子として認識するのだそうですが、フェルメールの技法の変化は単に絵を描くのではなく、知覚の特性を意識してその再現を追求した成果でもあるのでしょう。窓の向きは不明ですが、光の色合いが白っぽく感じられるので時間帯は朝でしょうか。女性の背後、右側にある木の箱は足温器だそうですから冷え込む季節なのかもしれません。「牛乳を注ぐ女」は長年オランダの美徳の手本を表したものとみなされてきたそうですが、まくった袖から見える女性の腕は寒い中で水仕事をしたのか半ばから指先にかけて赤くなっていて、辛い仕事も厭わず勤勉に励む姿を印象づけています。ところで、この牛乳を注ぐ女性はフェルメールの「デルフトの眺望」にも小さく描かれているそうです*2

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「デルフトの眺望」の画面左下、川岸で言葉を交わしている二人の女性のうちの一人ですが、似ていないこともない…でしょうか(笑)。でも、そう思ってみるとこの女性が単なる美徳の象徴ではなく、地に足の着いた存在である感じがしますね。フェルメールが風景の細部まで描き込んでいたことに驚きますし、黄金時代のオランダで繁栄する都市の片隅に暮らす小さな存在、名も無き人物像でもフェルメールにとっては生きた人だったんだろうなとも思います。そうした感覚が、この作品にも通底しているのかもしれません。簡素な庶民の台所を舞台に牛乳を注ぐという、毎日繰り返されるごく平凡な一場面があたかも神聖な儀式であるかのように静謐さと威厳を持って描かれている作品だと思います。

その他…会場内の様子、混雑状況など

フェルメールの作品が10点も出品されるということで、チケットは日時指定入場制での販売となりました。指定の時間帯であればいつでも入場可能なのですが、私が見に行った時は美術館の外に並んで20分ほど待ちました。ただし、最初こそ行列の長さに驚いたものの、入場が始まると進み方は早くて、思ったほど待たずに入場できました。あとはタイミングによるでしょうか…各時間帯の開始前後ぐらいが一番混み合うかもしれませんね。また、時間帯による入れ替え制ではないため自分のペースで鑑賞することが可能で、のんびり眺めるのは難しいにせよ、同じ上野の森美術館での「怖い絵」展(2017年)よりは作品を見やすかったように感じました。チケットの値段は一般的な展覧会より高めですが、入場者全員に音声ガイドが提供され、作品解説のガイドが配布されるなどその分サービスも良かったです。美術鑑賞を楽しみにしている一人として、美術に興味を持つ人が増えること、展覧会が賑わうことを喜ばしく思う反面、あまりに混雑して作品を見るにも一苦労という状態はやはり疲れてしまい、悩ましいものも感じます。鑑賞者もですが、対応するスタッフの方も大変でしょうし、今後は混雑対策としてこういう方式が増えていくのかもしれませんね。個人的な反省点なのですが、実は7月下旬に入場券が発売になって早速10月の連休の入場券を購入したところ、その後連休に別の予定が入ってしまって、一時はチケットをふいにするのもやむを得ないと諦めかけてしまいました。結果的には、どうにか時間をやり繰りして見に行くことができたので良かったのですが、いったん購入したらキャンセルできませんから、あまり早々と買ってしまうとあとで困ることもあるんだなと反省した次第です。すでに図録付入場券はほとんど完売しているようですが、通常の入場券であれば今のところ前日、あるいは当日券でも購入できるようなので、展覧会公式のツイッターアカウントの情報などを確かめながら、焦らず都合のつく時に見に行くのが良いのではないかと思います。

*1:宮下規久朗『カラヴァッジョへの旅』新潮選書、P70-75

*2:美の巨人たち」2016年5月21日放送

ルーベンス展 バロックの誕生 感想

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見どころ

…この展覧会はバロック美術が隆盛を見た17世紀を代表する、「王の画家にして画家の王」とも呼ばれたルーベンス(1577~1640)の回顧展で、特にイタリアとの関わりに焦点を当てて紹介するものです。
…イタリアはバロック美術の中心地であり、ルーベンスは1600年から08年まで滞在して古代からカラヴァッジョなど同時代に至るイタリア美術を吸収する一方、イタリアの若い画家たちにも影響を与えています。
ルーベンスというと私はまず肉体美を思い浮かべるのですが、ルーベンスの表現の源はルネサンスの巨匠ミケランジェロであり、ミケランジェロが影響を受けた古代彫刻にあると、この展覧会を通じて知ることが出来ました。また、肉体美だけでなく表情の描写に優れていて、描かれた聖人や神話の神々のリアルな感情が伝わってくるのを感じました。そうした内面性に裏打ちされているからこそ、ルーベンスの作品からは豊かな肉体に息づく生命の手応えを感じられるのだろうと思います。
ルーベンスは画家としては勿論のこと、学者と対等に議論できる高い教養を有し、多言語を駆使して外交官を務め、大工房を経営するビジネスマンでもありました。マルチに有能なエリートであり、生まれつき大作を描くのに適していると自ら述べるほどの自信家だったのも頷けます。まさに王のようなルーベンスですが、家族との食事を何よりの楽しみにする一家の父としての顔もあったそうです。この展覧会では壮大華麗なバロック美術を代表するルーベンスの、エネルギーに満ちた数々の作品に触れることが出来ると思います。

 

概要

会期

…2018年10月16日~2019年1月10日

会場

国立西洋美術館

構成

…図録における構成は下記の順となっています。会場内の展示順は章番号のあとの()内の数字のとおりです。
1章(2) 過去の伝統
2章(3) 英雄としての聖人たち―宗教画とバロック
3章(1) ルーベンスの世界
4章(6) 絵筆の熱狂
5章(4) 神話の力Ⅰ―ヘラクレスと男性ヌード
6章(5) 神話の力Ⅱ―ヴィーナスと女性ヌード
7章(7) 寓意と寓意的説話
…出品数70点のうち41点がルーベンス(及び工房)の作品で、主題の別による構成となっています。図録と実際の展示順の違いは会場のスペースの都合などもあるのでしょうが、自画像や家族の肖像画など、ルーベンスの為人がイメージできる作品を冒頭に持ってくるほうが展示の導入には適しているという判断なのではないかと思います。なお、展覧会特設サイトで「神話の叙述」とされている7章の表題は「寓意と寓意的説話」に変更されています。主題の内訳を見ると神話が4、寓意が2、説話が1、聖書が1とバラエティに富んでいるのですが、神話や聖書の題材は寓意、教訓を含むこともあり、多義的な解釈が可能なこともしばしばあるので、こうした変更となったのでしょう。ルーベンス以外では、同時代のイタリアの画家の作品と共に古代彫刻が多く展示されていて、ルーベンスが古代彫刻から如何に表現を学び、吸収しているかという点について、実際に比較しながら鑑賞することができました。

感想

「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」

…クララ・セレーナ・ルーベンスルーベンスの長女で、描かれた当時は5歳頃。バラ色のふっくらとした頬が子どもらしく、やや上目遣いに父であるルーベンスを見つめる瞳の生き生きとした輝きが印象的ですね。セレーナという名前は当時としては珍しいもので、イサベラ・クララ・エウヘニア大公妃の通称「セレニッシマ(”晴朗きわまりない女性”という意味)に因むものとも考えられているそうです。クララが実際どんな少女だったのかは分かりませんが、描かれた表情からは名前の通り快活そうな印象を受けます。顔立ちが細部まで丁寧に描き込まれている一方、服はさっと簡単に塗るにとどめられていますから、多忙な仕事の合間に描かれたプライベートな作品なのでしょう。写真のない時代ですが、ルーベンスには絵筆がありますから、自分のため、あるいは家族のためにこうして我が子の姿を描き残すことができたんですね。本作は四辺が切り詰められているそうで、クララの顔がより一層クローズアップされている印象を受けますが、視点も水平ではなくのぞき込むように描かれていますし、実際もかなり近い距離から娘を描いたのでしょう。見たいもの、描きたいものを率直に捉えた作品で、ルーベンスの愛娘に向けた愛情が伝わってくる作品だと思います。

「毛皮を着た若い女性像」

…「毛皮を着た若い女性像」は1629~30年頃の作品で、ルーベンスが最も影響を受けた画家であるティツィアーノが1530年代に描いた作品の模写です。私はこの作品を大エルミタージュ展で見たティツィアーノの「羽飾りのある帽子をかぶった若い女性の肖像」(1538年)を思い出しました。モデルとなった女性は同一人物のようで、ポーズもよく似ているので、両作品は肖像画であると共に一種の美人画、理想的な女性美を形にしたものでもあるのでしょう。豪華な毛皮や、真珠や宝石などのきらびやかな装身具も見事ですが、それ以上に美しいのが瑞々しく豊かな女性の肉体です。ティツィアーノの描く裸婦は自然で生身の女性を想起させることによって一層官能的であるところが魅力で、ルーベンスはそうした表現に学び、理想的なプロポーションからは逸脱していても肉付きの良い豊満な女性像を好んで描いたのだそうです。図録には後年、ルーベンスが毛皮を羽織った妻をモデルに描いた作品が掲載されているのですが、腹部のややぽってりとした丸みや、捻った脇腹、腿から膝にかけての皺など、このティツィアーノの模写より更に一歩進んでリアリティのある肉体表現となっています。暗褐色の毛皮と女性の白く滑らかな肌の色合いや質感の対比が一際官能性を引き立てている作品だと思います。

法悦のマグダラのマリア

…目を剥いて横たわるマグダラのマリアを支える二人の天使。天使の一人は後ろにのけぞり今にも倒れそうな聖女を心配そうな顔つきで支え、聖女の手を取るもう一人の天使は荒ら家の屋根の上から差し込む光を見上げて驚いています。ひび割れた地面にはマグダラのマリアアトリビュートである香油壺と「メメント・モリ」を象徴する頭蓋骨が、突然の出来事によって無造作に転がっています。短縮法と浮彫り的な表現を用いて巧みに描写された頭蓋骨、失神した聖女の臨終と見紛うようなぐったりと脱力した青白い肉体、聖女を支える天使が足を踏ん張り、顔はやや赤みを帯びている様子など、法悦という奇跡が実際に起こった出来事のように臨場感をもって描写されていますね。私はこの作品を見てカラヴァッジョによる「法悦のマグダラのマリア」を思い出しました。1606年の夏に描かれた「法悦のマグダラのマリア」はカラヴァッジョ自身がレプリカも複数制作していること加えて、多くのコピーが出回り、17世紀に大流行する法悦の表現の嚆矢となった*1そうなので、もしかしたらルーベンスも目にする機会があったのかもしれません。しかし、カラヴァッジョの描いたマグダラのマリアは涙を浮かべ、悲嘆や後悔といった感情が強調されているように思われますが、ルーベンスマグダラのマリアは血の気が失せて青ざめていながらも恍惚としているように見えます。娼婦だった過去を悔やみ、赦しを求めるマグダラのマリアに対して、神の祝福や恩寵を受けた聖女としてのマグダラのマリアという捉え方の違いは、殺人を犯して身を隠していたカラヴァッジョと、宮廷画家としても外交官としても活躍していたエリートのルーベンスという立場の違いとも呼応していて興味深く思いました。

ヘラクレスとネメアの獅子」

…この作品の主題はヘラクレスの十二の功業の端緒となる「ネメアの獅子退治」で、格闘の一瞬、激しくぶつかり合う猛獣とヘラクレスが画面一杯に大きく描かれています。ルーベンスというと女性美、豊満な肉体を持つ裸婦のイメージがあったのですが、神話の神々や英雄など逞しい男性像も描いているんですね。英雄の物語は絵筆を揮う格好の題材であったでしょうし、勇猛果敢な魂の持ち主を描写するには理想的な肉体が相応しいとも考えられていたのでしょう。漲る力に盛り上がった陰影のある逞しい筋肉の表現などはミケランジェロを彷彿させますし、渾身の力で獅子を締め上げるヘラクレスの折り曲げられた身体にはベルヴェデーレのトルソと通じるものが感じられます。ルーベンスは古代彫刻の肉体美を範にしつつも、同時に石の彫刻とは異なる、生身の肉体らしさが表現されなければならないと考えていたそうで、ヘラクレスの腱の浮き上がった脚や上気した皮膚、獅子の爪で今にも引き裂かれそうな腕、険しく歪められた顔などには、血の通った肉体の熱気が込められていると思います。また、動物の描写にも迫力があり、ヘラクレスの脚に踏みつけられたヒョウは断末魔を上げているかのようですし、獅子には人間的とも言える表情があり、怒りのこもった唸り声が聞こえてきそうです。この時代は複数の画家がそれぞれの得意分野を受け持って一つの絵画を制作する共作もしばしば行われていて、この展覧会にもルーベンスが動物の表現を得意としたフランス・スネイデルと共作した「ヘスペリデスの園で龍と闘うヘラクレス」が出品されています。スネイデルの描く龍は鱗の一枚一枚まで緻密に描かれていて、どんな動物なのか、特徴、イメージなどその動物らしさを正確に表現することで、架空の生き物にもリアリティを与えているように思います。一方、ルーベンスの描く動物は、主題の中、ドラマの中で描かれている印象があり、図鑑や剥製のような正確さとは異なる躍動感があります。ルーベンススネイデルは死んだ動物を描くのが上手だが自分は生きた動物を描くとも述べているそうですが、この作品を見るとルーベンスが動物の描写にも自信を持っていた理由が分かるような気がしますね。

マルスとレア・シルウィア」

…深紅のマントの裾を翻し、雲から下りて駆け寄る甲冑姿の軍神マルス。祭壇に供えられた聖火の前に座り、マルスを振り返っているレア・シルウィアは、古代イタリアの都市国家アルバ・ロンガの王ヌミトルの娘で、父から王位を奪った叔父アムリウスにより正当な王位継承者をもうけないようウェスタ神殿の巫女とされていました。ウェスタは竈の女神であり、家庭で崇拝されると共に国家の竈の神として聖火の形で祀られ、ウェスタの巫女はその火を守る役目を担っていたのですが、純潔の掟にもかかわらずレア・シルウィアは軍神マルスに見初められて、ローマ建国の祖となる双子の兄弟ロムルスとレムスを産むことになります。小型のバージョンを見るとマルスの顔がはっきり紅潮していて、恋に逸る神が息せき切って駆けつける様子がリアルに表現されています。対照的に、レア・シルウィアは突然の出来事に驚き、戸惑い、怯えているようにも見えます。神に背く罪の意識やアムリウスによる報復への恐れもあったでしょう。不安に戦き、複雑な感情がせめぎ合う表情だと思いますが、身体は背けていても顔はマルスに向けているところから、運命に翻弄される自身の身の上を嘆きつつもマルスを受け入れる意志を感じます。オウィディウスの『祭暦』では、レア・シルウィアは水を汲みに行った森の中で眠っているあいだにマルスに犯されたとされているそうですが、ルーベンスは神殿を舞台に禁忌を破る緊張感と全てを越えて惹かれ合う恋の熱狂を表現していると思います。歴史的なドラマと感情のドラマ、それらが人物の身振りと重ね合わされて、ダイナミックに流動するエネルギーが感じられるバロック絵画らしい一枚だと思います。

その他…会場内の様子、混雑状況等

…私が見に行ったのは日曜日の午前中で、入場待ちなどはなかったものの比較的混雑していました。作品はサイズが大きく、描かれている人物も比較的大きめに描かれている場合が多いので基本的に見やすいですが、素描など小型の作品もいくつかあります。ほとんどの作品に展示解説がありました。会場内の照明は暗めで、手元の音声ガイドの画面表示が見づらいレベルです。グッズ売り場はレジの台数が少ないため、混雑時は並ぶ必要があります。所要時間は2時間程度を見込んでおくと良いと思います。

*1:宮下規久朗『カラヴァッジョへの旅』角川選書、P165-167

生誕110年 東山魁夷展 感想

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見どころ

…この展覧会は戦後日本画を代表する一人、風景画家の東山魁夷(1908~99年)の生誕110年を記念した回顧展です。
…紙は鏡、写るのは自分の心とも述べている東山は、自身の心情を投影した内省的で静謐な作品を数多く描き、風景画に独自の境地を確立しました。本展の出品作は代表作「道」「残照」「緑響く」など本画(下図に対して完成作品と区別する言葉。和紙などの支持体に日本画絵具で描かれたもので、最終的に描き手のイメージが成されたもの)*1約70点、特に東山芸術の集大成となる唐招提寺御影堂の障壁画は、唐招提寺の御影堂の修理(平成27年~)によって今後数年現地でも見ることが出来ないため、貴重な観覧の機会となります。
…個人的なことなのですが、先だって部屋を片付けていたところ、10年前、東山の生誕100年を記念した特別展を見に行ったときの図録が見つかり、懐かしい思いをしました。当時は東山の作品の静謐な雰囲気と優しい色遣いにただ浸って眺めていたので気付かなかったのですが、東山の作品は線描がない、又は目立たないため洋画のように感じるんですね。色彩は同系色でまとめられていることが多く、見ていて目が楽なのですが、その一方で繊細なグラデーションによって描き分けられてもいます。空間構成は風景画らしく遠近感が表現されている場合もあれば、フラットで装飾的な場合もあり、作品ごとのテーマ、モチーフに従って使い分けられているようです。また、対象の特徴を抽出するためモチーフの形体や色彩を単純化して、いわばノイズを捨象しつつ、具体性を失わない描写も特徴だと思います。作品を前にこれは何が描かれているのか、作者は何を表現したいのか考えるのも面白いのですが、東山の作品については描かれているものを素直に受け取って感覚に身を委ねるのが良いように思います。風景の中に人物の姿はほとんど描かれず、静寂に耳を澄ますような作品が多いのですが、静かながらも見る人を拒絶せず、むしろ風景の中に誘うような世界だと思います。自然と人間、見ることと在ることのあいだに断絶がなく、根底で繋がっている感覚は日本的なものと言えるかもしれません。

  • 見どころ
  • 概要
    • 会期
    • 会場
    • 構成
  • 感想
    • 「道」(昭和25年)
    • 「秋翳」(昭和33年)
    • 「花明り」(昭和43年)
    • 「白夜光」(昭和40年)
    • 『京洛四季スケッチ』(昭和39~41年)
    • 「月篁」(昭和42年)、「行く秋」(平成2年)他
  • その他…混雑状況、会場内の様子等

 

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