展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

青山昌文『芸術は世界の力である』 感想

…展覧会の感想ではないのですが、面白そうだなと思って最近読んだ本の概要と感想です。

…青山昌文氏は放送大学の教授で、『芸術は世界の力である』は放送大学の講義に使われる印刷教材の一部を全面的に改稿し、取り上げる作品の多くも新たなものに差し替えて執筆したものだそうです。放送大学の印刷教材は図版がないのですが、こちらは一般の読者も想定した書籍で、本文中に取り上げられる作品が口絵にカラーで掲載されています。目次は下記の通りです。
 第1章 《ヴィーナスの誕生》に魅せられて
 第2章 システィーナ天井画のスーパーパワー
 第3章 《アテネの学堂》と《パルナッソス》の深い意味
 第4章 《ポンパドゥール夫人肖像画》のあでやかさ
 第5章 《食前の祈り》の深い静けさ
 第6章 《サン・マルコ広場:南を望む》の素晴らしさ
 第7章 《リュート弾き》の幻惑的な迫真性
 第8章 《ミロのヴィーナス》のセクシュアルなたたずまい
 第9章 パルテノン神殿のたおやかな肉体性

…青山氏は、芸術は「世界」の表現であり、人間の主観を超える大きく高い存在であると述べています。これには二つの面があります。一つ目は、芸術はそれを作り出す人間の主観を超える存在であるということ。芸術家は自分自身の中に芸術の源を持ってはいるのではなく、「何か凄いあるもの」に遭遇してそれから力を受け取り、その力を作品の内に込める。それによって作品が力を持ち始め、その力によって芸術作品を味わう人が動かされ感動するのだということです。青山氏は上述の「何か凄いあるもの」を「世界」と呼び、芸術は芸術家の内面の自己表現ではなく、作品に描かれている存在の本質とともに、その存在が生きている社会の本質を表現するものであるとしています。私自身の経験を振り返ってみると、これまで見た印象深い多くの作品の中で、「世界」が表現されていると感じた作品としてすぐに思い浮かぶのはピーテル・ブリューゲル1世の《バベルの塔》(2017年、東京都美術館)なのですが、そうしたものが表現されている作品が優れた作品なのですね。

…もう一つは、それを見る人間の主観を超える存在であるということ。芸術とは、それを見る人が自分の主観で感性的に心地良いか良くないかを決めてしまうことで、その美を断定出来てしまうような、人間の勝手になる小さな存在ではなく、美の魅力を味わうには、芸術作品がどのような原理によって生み出されているのかという知識が必要であり、芸術作品が発しているパワーを受け止める体勢を整えておく必要がある。素晴らしいものは本格的なものであり、謙虚さと敬意を持って知ろうとする努力が欠かせない、手軽には手に入らないということです。一目見ただけですごいと感じる作品もありますが、中にはよく分からなかったり、困惑したりする場合もあります。でも、自分の知識不足で分からないというのは勿体ないですし、むしろ分からない作品に出会ったときこそ新たな世界が広がるきっかけになるかもしれません。やはり見る側も努力が必要なんですね。こうして芸術家と鑑賞者の両者の条件が整うことで、私たちは作品に込められた世界の根源的なパワーによって今までとは別の次元に運ばれてゆく経験ができるのであり、芸術は世界の力であると言えるのだそうです。

…青山氏の意見の背景には、芸術とは画家の自己表現であり、作品の価値判断は見る人の主観によるとするような近代以降の通俗的な主観主義、自己中心主義への批判があります。画家の「主観」が入り込んでいるから良い、画家が画面構成を「主体的に」考えて対象を画家の立場から「再構成」している点で画家の「個性の表現」となっているから芸術であるとする考え方に対して、青山氏は少なくとも18世紀までの古典芸術には当てはまらない、最も正統的なあるべき絵画の姿とは、存在の本質が表現されていて「あたかも、そこに、そのものが存在しているという感覚を、強くあたえる力を持っている」ことだと述べています。また、芸術は実在にかかわるものであるが故に実在の諸性質を帯びるのであり、(主観が捉えた対象ではなく)実在に深い関心をもつことが芸術に深い関心を持ち、芸術に心を動かされることにつながるとしています。「感想」という当ブログのタイトルそのものがもう主観なので、言葉もないのですが…。芸術作品について、思ったことを自由に言ったり書いたりしなさい、というのは一見芸術に対する敷居を低くするようですが、何の手がかりもない状態では何を見たら良いのか、どう感じたら良いのか戸惑うのではないかとも思いますし、芸術を味わうならやはりそのための知識が必要だと思います。また、私もほとんど無意識に画家の主観や個性が作品に反映されていることを良しと判断してしまいがちなので、特に古典芸術を見るときは注意しなければと思いましたし、何より自分が無意識の先入観を持っていること、何気ない感覚や印象も、そうした先入観に左右されている場合があることを意識しなければと思いました。一方で、私は19世紀以降の芸術作品も好きなのですが、青山氏は19世紀以降の美術についてどのように考えているのか知りたいとも思いました。

…本書の中で解説されている作家・作品のうち、特に興味深かったのがカナレット(アントーニオ・カナール)と《ミロのヴィーナス》です。カナレットは「多くの場合、一枚の絵を描くにあたって、二つ以上の視点の異なるデッサンを統合している」そうですが、「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」(2018年、国立新美術館)で(本書とは異なる作品ですが)作品を目にしたときは分からなかったんですよね。複数の視点からなる景観をそれと分からないほど自然に一点透視画法によって統合し、現実には一目では見渡せないような広々と遙か遠くまで見渡せる景観を一つの画面に実現している、いわば現実に基づきながら現実を超えているのがカナレットの作品のすごさなのだそうです。有限な視覚を超越したパースペクティブは、生粋のヴェネツィア人だったカナレットの脳裏に蓄積された愛する都市の最も美しい姿の結晶と言えるのかもしれません。

…《ミロのヴィーナス》については、「《ミロのヴィーナス》のセクシュアルなたたずまい」という章題にまず意表を突かれます。実はこの像の女神は衣服が落ちそうなのを両足で挟んでとどめている「人間的な」ポーズをしていて、神の威厳を感じさせる古代ギリシャの古典期に作られた堂々たる裸体像とは決定的に異なっているのだそうです。言われてみればその通りなのですが、芸術作品に対して生々しい性的な魅力を感じたとしても、通常はそこにとどまらずにより奥深いテーマ、目的を探ることが大事だからとあえて気に留めることはなく、そのため逆に見落としていたことに気づかされました。実は《ミロのヴィーナス》が作られたのはギリシャ文明の基礎であったポリスが根底から崩壊したヘレニズム時代で、セクシュアリティはポリスや神々といったギリシャ文明の本質的な理念が失われた後の普遍性の一つとして芸術作品の前面に現れるようになったのであり、女神の姿にはそうした当時の社会の本質が表現されているのだそうです。本書第8章では《ミロのヴィーナス》と共に《うずくまるアプロディーテー》が取り上げられていて、ルーベンス展(2018年、国立西洋美術館)でいくつも目にした、我が身を庇い隠すようでいて、その豊満さをあえて強調するように身体をひねった独特のポーズの女性像を思い出しました。ルーベンスはイタリア滞在中に古代彫刻を数々目にしたことと思いますが、作品の持つ魅力の本質を正確に見抜いていたのでしょう。ルーベンスは画家としては言うまでもないのですが、作品を見る目も鋭く優れていたのだと思いました。

ル・コルビュジエ 絵画から建築へ――ピュリスムの時代 感想

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見どころ

…「ル・コルビュジエ 絵画から建築へ――ピュリスムの時代」展は、ル・コルビュジエ、すなわちシャルル=エドゥアール・ジャンヌレが建築家としての地位を確立する以前の、第一次世界大戦後から1920年代の活動に焦点を当てたものです。出品作はル・コルビュジエ、及び共にピュリスムの運動を担ったアメデ・オザンファンの絵画作品が中心で、ル・コルビュジエの建築作品やキュビスムとの関わりにも触れながら紹介されています。
…美は感覚的なもので、ある作品・ある作家特有のもの、一般化できないオリジナリティに価値があるというイメージを持っていたのですが、ピュリスムは例えば構図の決定に当たって規整線を用いたり、作品のサイズも数学と生理学の根拠に基づいて決めていたりと、美は科学と同様に法則に基づくものだから普遍的なものという考え方をしているところが興味深かったです。ピュリスムの理念は「幾何学的秩序に支えられた芸術」ですが、儚く移ろう表面の美ではなく、根本的で確固とした真理、存在の核となるような確固とした真理を求めるのは西洋的だなと思いますし、その核となるものがキリスト教ではなく科学という点は近代的な発想だとも思います。
…シャルル=エドゥアール・ジャンヌレは本名よりもル・コルビュジエというペンネームで知られているのですが、これは盟友であったオザンファンから本名は絵画作品や美学の論文のために使い、建築に関する論文を発表する際はペンネームを使うよう勧められたことがきっかけなのだそうです。オザンファンは絵画こそ最も自由な創造であるという考えを持っていて、オザンファンを尊敬していたジャンヌレはその提案に乗ったのでしょう。しかし、1928年以降、ジャンヌレは絵画作品にもペンネームのル・コルビュジエでサインするようになっていきます。オザンファンと決別して、作品もピュリスムの理念から離れたことなどが理由なのでしょうが、ル・コルビュジエというペンネームと共に築いた自身の世界や建築家としてのキャリアへの自負も感じられます。ピュリスムの時代はジャンヌレがル・コルビュジエとして生まれ、成長していく過程と言えるのかもしれません。
…私が見に行ったのは会期初週の土曜日午前中でしたが、入場待ちはなくスムーズで、作品をじっくり見ることが出来ました。会場はいつもの地下の企画展示室ではなく常設展の展示室で、ル・コルビュジエが設計を手掛けた建築の空間を実際に体験しながら作品を鑑賞することができるようになっています。展示解説は少なめでした。特別展の所要時間は90分でしたが、そのまま常設展の展示室に続いているので2時間は時間があるといいですね。

概要

【会期】

 2019年2月19日~5月19日

【会場】

 国立西洋美術館

【構成】

1 ピュリスムの誕生
2 キュビスムとの対峙
3 ピュリスムの頂点と終幕
4 ピュリスム以降のル・コルビュジエ
ピュリスムの活動を担ったのはジャンヌレとオザンファンの二人で、出品作はジャンヌレの油彩画が17点、オザンファンが12点。そのほとんどが静物画ですが、ピュリスムは瓶やグラスなどの日用品やギターなどの楽器を人間の手の延長と見做し、長い年月を経て合理的な形に行き着いたもので、純粋で標準化された形態の美があると考えていたそうです。また、各章ごとに、該当する時期にル・コルビュジエが設計を手掛けた建築の設計図や模型、家具などが展示されていました。その他、ピュリスムキュビスムを批判的しつつ、その影響を大きく受けているため、キュビスムの絵画・彫刻も展示されていて、特にフアン・グリスや、ピュリスムの理念に賛同して雑誌『エスプリ・ヌーヴォー』にも参加したフェルナン・レジェの出品数が多くなっています。

lecorbusier2019.jp

感想

シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ「積み重ねた皿のある静物」(1920年)

ピュリスム初期の作品は比較的すっきりとして、分かりやすい印象です。明晰さや古典的秩序を理念とするピュリスムは、キュビスムが対象を解体したことを批判しつつ、キュビスム以前のリアリズムにも戻ることなく対象を三次元の立体として捉えるため、対象の正面から見た姿と上から見た姿とを結合させて描いているそうです。この時期に描かれたシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ「積み重ねた皿のある静物」(1920年)では、横から見た積み重ねた皿がくびれのある円筒状に描かれていて目を引きます。皿の手前に描かれている波形の壁のような物体は開いた本を立てて置いてあるのでしょう。画面をほぼ二分割する黒い面は、ギターや本の載ったテーブルを上から描いていると同時に、白いガラス瓶が置かれたテーブルを真横から描いたものでもあります。この作品は上から見下ろした皿とギターのサウンドホールとを一致させているのが面白いのですが、陰影によって立体感が強調されているぽっかりと開いた黒い空洞は意外な深さを持っていて、ピュリスムの法則で構成されている画面においてはかえってそのリアルさが非現実で印象的でした。

アメデ・オザンファン「和音」(1922年)

キュビスムの批判から出発したピュリスムですが、ドイツ人画商ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーのコレクションの競売でピカソやブラックらの作品に接したジャンヌレとオザンファンは認識を改め、キュビスムの手法を作品に取り入れるようになります。その結果、ピュリスムの作品は初期に比べて複雑で洗練されたものに変化していきました。アメデ・オザンファン「和音」(1922年)では灰色の水差しのS字形のカーブが瓶やギターの輪郭線も兼ねていますが、複数の対象を同一の輪郭線によって結合するこうした手法は、フアン・グリスの作品の影響を受けているそうです。また、手前のモチーフを透過して背後に重なるモチーフが見えているのもキュビスムからの影響の一つで、ジャンヌレ「多数のオブジェのある静物」ではより顕著にその手法が用いられ、解読が困難なほど重層的になっています。オザンファンはモチーフ同士が結びつき重なり合うことで構築された画面を、複数の音が結びつくことで新たな響きを生み出す和音になぞらえたのでしょうか。一方で、平面と正面を組み合わせることで立体感を生み出す以前の手法は、上から見た白いテーブルと側面から見た波打つクロスにその名残が見られる程度です。あらゆるモチーフが重なり合い、パズルのピースのように互いにはめ込まれていますが、唯一立体的に描かれた灰色の水差しのみが透き通ることなく姿を保っています。また、ギターのネックと白いカラフの間には中身の入った瓶があるようなのですが、黒い背景と一体化したシルエットのみで表現されています。「グラスとパイプのある静物」などピュリスム初期のオザンファンの作品では、三次元の対象とその対象を二次元に写し取った影との関係性への拘りが見受けられるのですが、ここでは二次元の影が三次元の実体に取って代わったかのようにも感じられます。この時期のピュリスムの関心は個々のモチーフの立体感より、画面全体における空間表現の方法へ移っていると言えるかもしれません。

フェルナン・レジェ「二人の女と静物」(1920年)、「横顔のあるコンポジション」(1926年)

…この展覧会ではキュビスムの作品も多数出品されていますが、個人的にはフェルナン・レジェの作品が印象に残りました。他のキュビスムの絵画作品には静物画が多いのに比べてレジェの場合は「2人の女と静物」などしばしば人物が登場し、情景が描かれています。また、その人物像は金属のような光沢のある色彩で、球や円筒などを組み合わせたユニークな姿をしています。ル・コルビュジエは「住む機械」を掲げて住居や家具を機能的で画一的に設計しましたが、レジェは周りの環境ではなく人間自身を機械のように描写しているんですね。レジェは機械や科学の発展を楽観的に捉えていたそうなので、時代と共に進歩する新しい人間像を表現したかったのかもしれません。キュビスムの作家であるフアン・グリスは「私は一般的な物から個別的なものへ向かう、つまり、抽象から出発して、現実の事象に達する」と述べていますが、レジェの場合は純粋な色彩、線、形という絵画の3つの要素の「コントラスト」によって現代生活の実感を表現したいという考えを持っていたそうです。他の作家に比べてレジェの作品が直感的で分かりやすいと感じるのは、理念ではなく実感を元に表現しているためかもしれません。レジェは一時期ピュリスムの活動にも参加しますが、その後「バレエ・メカニック」という映像作品を手掛けたことがきっかけにさらに作風を変化させています。「横顔のあるコンポジション」では画面の中に統一的な空間が存在せず、人物の横顔、文字の一部、何かの部品のようなモチーフがそれぞれランダムに並列されていますが、重要なこともそうでないことも優劣なく、脈絡のない雑多な情報が溢れてスピーディーに流れていく大衆社会の感覚そのものを表現しているように思いました。

エスプリ・ヌーヴォー館」(1925年)

…1925年にパリ国際装飾芸術博覧会(通称アール・デコ博覧会)で発表されたピュリスムのパヴィリオン「エスプリ・ヌーヴォー館」は、規格化と大量生産の原理に基づいて建築空間から家具や食器に至るまで装飾性を排除したものでした。世界が注目する舞台で自分たちの理念を具現化して広めようと考えたのでしょうが、装飾芸術をテーマとする博覧会で装飾芸術を否定した展示を発表するという戦略はなかなか大胆です。一方で、簡素で機能的なパヴィリオンにはピュリスムキュビスムの絵画・彫刻作品など「魂の不朽の表現」である純粋芸術が展示されました。展覧会で作品を見ていると、つい一つ一つの作品に集中して画面の中にばかり気を取られてしまうのですが、実際に作品が展示されたパヴィリオンの写真を見ると、単体で見ているときは奇抜に思えるキュビスムピュリスムの作品が建築空間によく馴染んでいて、確かに共通の美意識があることが感じられます。ピュリスムの結実である「エスプリ・ヌーヴォー館」ですが、ル・コルビュジエの強引な進め方にオザンファンが反発して、既に関係が悪化していた両者は決裂し、ピュリスムの運動も幕を閉じることになりました。

ル・コルビュジエ灯台のそばの昼食」(1928年)

…1925年にピュリスムの運動が終焉を迎えたあと、ル・コルビュジエは絵画制作を個人的な活動に位置づけて展覧会にも出品しなくなりますが(再び作品を公開するようになるのは1938年)、絵画の制作自体は造形の着想を引き出すための考察と実験の場として日常的に継続しています。「灯台のそばの昼食」(1928年)はピュリスムの時代と同様に静物画ですが、何より色彩の軽さ、明るさが印象的です。ピュリスムの理念においては人間の普遍的な意識に働きかける幾何学的形態を優先し、個人的、二次的な感覚に訴える色彩は形態に従属すべきであるとされ、色彩はさらに「主要な色階」、「力動的な色階」、「移行的な色階」に分類されていました。そうした法則から解放されて、ル・コルビュジエは自分なりの色のこつを掴んだと手紙に記していますが、この作品はピンクやベージュといった人の肌を思わせる色調が全体の柔らかく優しい雰囲気を生み出しているように感じます。モチーフには見慣れたグラスなどと共に手袋や貝殻など「詩的感情を喚起するオブジェ」が新たに取り入れられ、かつての画一的で幾何学的な形体ではなく、フリーハンドによる有機的な曲線で描かれています。テーブルの背景には岬に灯台の立つ風景が描かれていますが、通常、遠景は近景の上に描かれるのに対して、この作品ではテーブルの下から見えているという逆転が面白いですね。一般的な遠近感が通用しない画面構成によって、テーブルや食器類と灯台など屋外の風景とのサイズが逆転しているようにも感じられます。あるいは、画面を水平に横切るテーブルを地平線に見立てて、山や川や樹のようにオブジェを卓上に並べることで、ル・コルビュジエは家庭の小さな卓上が自然に匹敵しうる眺めと広がりを持ちうることを示唆しているのかもしれません。ところで、ピュリスムの作品において瓶やグラスは何度となく繰り返し描かれていますが、すっきりと無駄のないフォルムがピュリスムの理念に相応しいものであるために造形上適した要素として用いられていたのであって、食に要する道具としての意味はなかったように思います。しかし、この作品ではタイトル及びモチーフの配置において、食事の道具という本来の意味が回復しています。食は生命の維持に欠かせない行為であり、ル・コルビュジエの関心が、近代的な生活から自然や生命といった根源的なものに移行していることが反映しているようにも思われます。また、脱いだあとの半分裏返った手袋は、他のモチーフと異なり立体感がなく背景の空と同じ色で描かれています。ピュリスムは日用品を人間の手の延長と見做して、その合理的な形態を評価していたのですが、いまや手は抜け殻となり、人の手から離れたオブジェは自由を得たとも考えることもできそうです。一方で、この手袋の指と思われる部分は不思議な形をしていて、地平線から宙にはみ出した雲のようにも羽のようにも見えます。オブジェだけでなく、それらを使う手もまた機能性、経済性といった合理主義のみを追及することから解放されて、新たな美を生み出す自由を手に入れたのかもしれません。

奇想の系譜展 江戸絵画ミラクルワールド 感想

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見どころ

…「奇想の系譜展」は美術史家・辻惟雄氏の著書『奇想の系譜』(1970年)に基づき、8人の画家たちの作品を通して独創性に満ちた江戸絵画の魅力を紹介する展覧会です。彼らはその斬新で革新的な表現により、かつては日本美術の中でも傍流とみなされていたのですが、辻氏の著作を通してその現代性が知られることで、今では大きな注目と人気を集めるようになっています。
…この展覧会の出品作には乞食や山姥といったモチーフ、どぎつい色彩や残酷な場面など、これは美しいのだろうかと戸惑いを感じる作品が少なくありません。奇を衒ったような、アクの強い過度・過剰な表現は、緻密で繊細な日本美術というイメージとは真逆と言っても良いぐらいなのですが、一方で、優美で上品な作品には表現できない荒々しさやユニークさなど、別種の魅力もあり、目が離せない力を持っているとも感じました。そうした力を持っていることもまた美の範疇に含めることで、芸術が表現できる世界も広がるのかもしれません。
…私が見に行ったのは会期2週目の土曜午前中で、混雑していましたが入場待ちはなくスムーズに見ることが出来ました。出品作は歌川国芳の浮世絵を除いて大きめの作品が多く、入ってすぐの伊藤若冲の展示室と岩佐又兵衛の絵巻物の展示ケースの前に列が出来ていたほかは全体として見やすかったです。作家別に見ると、伊藤若冲(15点)、長沢芦雪(14点)、歌川国芳(13点)の作品が多めでした(会期中に展示替えがあります)。展示解説は少なく、文章は短めですが、図録には全作品の詳細な解説があります。所要時間は90分でした。

概要

【会期】

 2019年2月9日~4月7日

【会場】

 東京都美術館

【構成】

…8人の画家それぞれに1章が当てられた作家別の展示構成となっています。
…辻氏の『奇想の系譜』で取り上げられている画家は1伊藤若冲、2曽我蕭白、3長沢芦雪、4岩佐又兵衛、5狩野山雪、8歌川国芳。今回の展覧会はこの6人に加えて、蕭白や芦雪、若冲に影響を及ぼした6白隠慧鶴、近年評価が高まっている7鈴木其一を加えた8人の作品によって構成されています。

1 幻想の博物誌:伊藤 若冲(1716~1800)
…写実と幻想の巧みな融合。濃密な色彩による精緻な花鳥画のほか、水墨画、版画など多彩な作品がある。敬虔な仏教徒でもあり、作品には生きとし生けるものがすべて仏になるという思想が反映している。

2 醒めたグロテスク:曽我 簫白(1730~1781)
…18世紀京都画壇で最も激烈な表現を指向した。中国の故事などを題材に、強烈な色彩の対比や奇怪さの誇張など破天荒で独創的な表現による作品を描いた。また、伝統を踏まえつつリアルさも意識した風景画も描いている。

3 京のエンターテイナー:長沢 芦雪(1754~1799)
円山応挙に師事。大胆な構図と才気溢れる奔放な筆致で独自の画境を切り開いた。「群猿図襖」に描かれた猿たちのユーモラスで個性溢れる表情や、黒と白、大と小という対比を組み合わせた黒白図「白象黒牛屏風」のような遊び心あふれる仕掛けを取り入れた作品が特徴。

4 執念のドラマ:岩佐又兵衛(1578~1650)
…戦国武将・荒木村重の子。大和絵と漢画双方の高度な技術を修得しつつ、どの流派にも属さない個性的な感覚に長け、後の絵師に大きな影響を与えた。嗜虐的な表現へのこだわりが見られる。

5 狩野派きっての知性派:狩野 山雪(1590~1651)
狩野山楽に師事。伝統的な画題を独自の視点で再解釈し、垂直や水平、二等辺三角形を強調した理知的な幾何学構図が特徴。妙心寺など大寺院のための作画を多く遺した。

6 奇想の起爆剤白隠 慧鶴(1685~1768)
臨済宗中興の祖と呼ばれる禅僧。職業画家ではないが、仏の教えを伝える手段として描かれた一見ユーモラスで軽妙かつ大胆な書画が簫白、芦雪、若冲らに影響を与えた。

7 江戸琳派の鬼才:鈴木 其一(1796~1858)
酒井抱一の忠実な弟子だったが、師の瀟洒な描写とは一線を画した自然の景物を人工的に再構成する画風で、近年その奇想ぶりが再評価されつつある。

8 幕末浮世絵七変化:歌川 国芳(1797~1861)
…役者絵の国貞、風景画の広重と並び、武者絵の国芳として第一人者となった。発想の豊かな近代感覚を取り込む一方で、幕府の取り締まりをかいくぐって機知に富んだ作品を制作し、庶民から支持された。

kisou2019.jp

感想

伊藤若冲「旭日鳳凰図」(宝暦5年(1755))、「鶏図押絵貼屏風」

伊藤若冲の「旭日鳳凰図」に描かれた極彩色の美麗な鳳凰は、一分の隙もないほど非常に緻密に描き込まれていますが、明暗がほとんどなく色彩に濁りがないため、絵というより錦の織物のように感じられました。また、じっと見ているうちに偶々鳥の姿をしているだけで、形とは関係なく線や色彩そのものが自律的に美しく見えてきます。ハートの尾羽やレースのような羽毛、背景の波など、装飾性が前面に出ていることと、あらゆる部分に均一に焦点が当てられているため、かえって全体像が解体されていくように感じられたからかもしれません。一方で、水墨画の鶏は簡略化され、余白が多いにもかかわらず、自由闊達な筆捌きによって生き生きと感じられます。一本の自在な線で描かれた尾羽が今にもひらひらと動き出しそうなんですよね。鑑賞する側に想像の余地があるほうがリアリティを感じるというのは興味深かったです。一方で、線や色彩が自律的に美しいというのは(若冲の意図するところではないのかもしれませんが)現代美術に通じるところがあるようにも思いました。 

長沢芦雪「山姥図」(寛政9年(1797)頃)

…山姥というと昔話に出てくる子供を掠ったり人を食ったりする恐ろしい存在というイメージがありますが、長沢芦雪「山姥図」にはイメージそのままに、ぎょろりと睨む目や剥き出しの歯という恐ろしい形相の山姥が描かれています。しかし、傍には無邪気な笑顔で着物に纏わり付いている子供の姿があり、腕に下げた籠には日々の糧となる木の実が入っていて生活も垣間見えます。よく見ると山姥のぼろぼろの着物には所々美しい紋様があって、かつての華やかな暮らしを彷彿させますし、子供の手をとる仕草には母親らしい優しさも感じます。この作品は自害した夫の魂を宿して山姥となった元遊女・八重桐が子供(のちの坂田金時)を生み育てて、夫の恩人源頼光の家来とする浄瑠璃「嫗(こもち)山姥」の一場面を描いたもので、広島の商人たちが厳島神社に奉納した絵馬なのだそうです。商人たちは坂田金時夫の逞しさに希望を託したのでしょうか。それとも夫の遺志を背負って労苦に耐え、悲願を果たした山姥の姿に自分たちの願いの成就を託したのでしょうか。喜多川歌麿による同じ画題の作品と比べると、山姥の醜さがあまりに強調されているようにも感じますが、むしろそれ故に、ごくささやかな情愛の表現が胸を打つように思いました。

岩佐又兵衛「山中常磐物語絵巻」四巻

…「山中常磐物語」は奥州に下った牛若(義経)に会うため都を旅立った母の常磐と侍従が盗賊に殺され、牛若がその仇を討つという物語です。今回出品された岩佐又兵衛「山中常磐物語絵巻」の展示ケースには残虐な描写があるとの趣旨の注意表示があったのですが、着物を奪われた常磐が胸を刺されて血を流しながら息絶える場面が克明に描かれていて、実際かなり凄惨な印象を受けました。犠牲になるのが高貴な女性だけになおさら酷さが際立つのでしょう。しかし、善良なだけでなく凶悪さ、残忍さも人間性の一面であることは確かで、ただの嗜虐趣味ではないリアリズムを感じます。描いた又兵衛自身にとっては織田信長によって荒木村重の一族が処刑され、又兵衛の母も殺されたことが大きく影響しているのでしょうが、普通に考えれば思い出したくない辛い記憶にこだわり反復するのは、悔しさや悲しみを忘れまいとあえて記憶に刻むためなのか、自分なりに悲劇を昇華するためなのか、どんな心境だったのでしょうね。翻って作品を鑑賞する側について考えてみると、衝撃的な情報や物語に否応なく引きつけられるのもまた人間の性であり、色鮮やかな絵巻物のなかに人の心理の様々な暗さを見るような思いを抱きました。

歌川国芳「一ツ家」(安政2年(1855))

…大きな鉈を手に、片肌を脱いで立つ老婆。剥き出しの脚や腕の筋肉は異様に逞しく、縋りついて諫める自身の娘を悪鬼のような形相で見下ろして、その顎を掴んでいます。激しいドラマと対照的に、画面左側では観音菩薩の化身である涼しげな風貌の童子が立てた膝に頬杖をついて、静かに眠っています。浅草寺に奉納されたこの絵馬は「浅茅ヶ原の一ツ家」に取材した作品で、伝説によると旅人を泊めては殺めて金品を奪っていた老婆と、その娘の家に観音菩薩が化身して訪れ、最終的に老婆は観音の慈悲によって改心(成仏)するのだそうです。本来、浅草寺のご本尊でもある観音様=童子を主役に描くべきなのでしょうが、あえて老婆を中心に据えるところが国芳の奇想の画家たる所以なのでしょう。芦雪の山姥は怪異な姿であっても母子の絆が窺われますが、国芳の本作の老婆からは欲に目が眩んで親子の情さえ踏みにじる人間の恐ろしさが容赦なく表現されています。同時に、人間世界の一切を受け止めて、あくまで穏やかに微笑む観音菩薩の計り知れない慈悲の深さが感じられる作品だと思います。

フィリップス・コレクション展 感想

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見どころ

…「フィリップス・コレクション展」は、近代美術を扱うアメリカ最初の美術館として創設から100年を迎えるフィリップス・コレクションが所蔵する秀作75点で構成されています。出品作は新古典主義のアングル、ロマン主義ドラクロワバルビゾン派のコローら19世紀の巨匠たちをはじめ、絵画に革新をもたらした写実主義クールベ、マネ及び印象派ドガとモネ、さらにセザンヌやゴーガンから20世紀のクレー、ピカソ、ブラックなどモダン・アートまで、いずれも名だたる画家の作品が勢揃いしていて見応えのある内容になっています。フィリップス氏は徹底して自身が気に入った作品のみを蒐集することに価値があるという考えを持っていたそうで、特にボナールやブラックの作品が充実していました。
…会場内では全ての作品に展示解説があったほか、音声ガイド機の液晶画面に画像が表示される解説もいくつかありました。また、ポストカードの種類が多かった(65種類)のも嬉しかったですね。作品リスト共に置いてあったカード(8作品で1シート、日替わりで2種類)は鑑賞のヒントにもなっていて、作品を楽しむための工夫が凝らされていました。多彩な作家、作品の中から今の自分とフィーリングの合う作品を探しつつ、ゆっくり時間を掛けて見て回りたい展覧会だと思います。

概要

会期

…2018年10月17日~2019年2月11日

会場

三菱一号館美術館

構成

…本展はテーマに基づいた章立てによる構成をとっておらず、会場ではコレクションとして取得された年代ごとに作品が展示されていました。珍しい展示方法だなと思ったのですが、実は、コレクションの創設者であるフィリップス氏自身が作品を時代や地域ごとの縛りにとらわれず、それぞれの美的な気質に従ってまとめる展示方法を好んでいたのだそうです。また、コレクションは単線的に拡大していったわけではなく、フィリップス氏は求める作品を入手するためそれまで持っていた作品を手放したりもしていて、鑑賞者は展示を通してそうした紆余曲折を経つつコレクションが成長していく過程、フィリップス氏の関心の変化を見て取ることができるようになっています。なお、図録では概ね制作年代順に作品が掲載されています。

mimt.jp

感想

クロード・モネ「ヴァル=サン=ニコラ、ディエップ近傍(朝)」(1897年)

…モネは1896~97年にかけて、フランス北岸のヴァランジュヴィル、プールヴィル、ディエップで岩壁の景観を描いた作品を50点以上を制作しているそうです。その中の一枚、「ヴァル=サン=ニコラ、ディエップ近傍(朝)」は空も海も穏やかな表情で、朝靄が立ちこめているのか、白っぽく霞がかったデリケートな色調に包まれています。水平線の赤みを帯びた黄色から、高度を増すにつれて徐々に空色へと変化する空。画面手前側の緑がかった色調から、沖へ向かうにつれて青、さらに紫へと変化する海。前景の岩壁は手前が影になり、海にせり出した崖の草地が朝日を浴びて白く輝いています。柔らかな色彩の靄によって表現された形のない水や大気が全体の優しい雰囲気を醸し出している一方で、どっしりとした岩壁が捉えどころのない光に溶解していきそうな風景に現実の手応えをもたらすことで、互いに支え合っている作品だと思います。

ピエール・ボナール「棕櫚の木」(1926年)

…大きな棕櫚の葉がアーチのように画面上部を縁取るボナール「棕櫚の木」では、海の見える高台の家の庭に佇む女性がこちらに向かって果物を差し出しています。女性は画家の妻マルトで、彼女の持つ果物はリンゴと見られるそうですから、マルトは画家=鑑賞者をエデンに誘うエヴァのイメージで描かれているのでしょう。もっとも、この作品からは堕落への誘惑や楽園追放を予感させる不穏さは感じられません。殉教者のシンボルでもある棕櫚は死に対する勝利の象徴であり、本作のテーマは死を超えた永遠の命や現世の苦悩から解放された魂の平安さと考えられます。ル・カネの家並みの向こうに見えるひときわ明るい海には、淡い青に加えて黄色やオレンジなど複雑な色合いの点描が用いられていて、寄せては返す穏やかな波の心地よいリズムに乗って南仏の眩い光がきらめく様子が感じられます。ボナールの複雑で繊細な色遣いは、不動に見えて実際は絶え間なく変化する風景がもたらす視覚の揺らぎ捉えているのでしょう。温かい色彩に包まれ、一切が調和した楽園に鑑賞者を誘う作品だと思います。

ラウル・デュフィ「画家のアトリエ」(1935年)

…ラウル・デュフィ「画家のアトリエ」は自由で伸びやかな線と、輪郭線から解放された透明感ある色彩が洒脱で軽快な印象の作品です。ブルーのスペースには空のイーゼルやテーブル上に置かれたパレット、床に置かれたカンヴァスなど画家の仕事の痕跡がそこかしこにちりばめられています。画面をはみ出すほど高さのある窓の外には青空の下のパリの街並みが見えて開放感があり、爽やかな印象です。一方、ピンクのスペースを彩る花柄の壁紙はデュフィがビアンシーニ・フェリエのためにデザインしたテキスタイルだそうで、ドアの奥の壁には船や花、女性を描いた作品が並べて飾られています。ブルーのスペースと比較すると閉じた空間なのでプライベートなスペースではないかと思いますが、アーティストらしく日常生活も自作に彩られていることが感じられます。画面の中心近く、両者を繋ぐ位置に置かれたカンヴァスの裸婦は、このアトリエとその主を見守るミューズのような存在なのかもしれませんね。

オスカー・ココシュカ「ロッテ・フランツォスの肖像」(1909年)

…ココシュカ「ロッテ・フランツォスの肖像」には物思いに耽る慎ましい雰囲気の女性が描かれています。女性は座ったポーズですが椅子などは見当たらず、また、一見影のように見える女性を取り巻く濃い青はオーラを表現しているそうなので、対象を物質的に捉えるのではなく、スピリチュアルに表現することを重視しているのでしょう。画家はこの作品について「ロウソクの炎のように彼女を描いた」と語っていますが、胸や腹部など身体の中心から発せられる黄色の光が光背のように女性を取り巻いていて、女性の魂の輝きや生命力が周囲を明るく照らしているように感じられます。一方で、女性の頭部を包む赤のオーラと身体を包む青のオーラは精神と肉体、あるいは感情と行動といった対立や葛藤を暗示しているのでしょうか。青いオーラに包まれた女性の左手は女性器の位置を示すと同時に隠しているようですが、その左腕を押さえる赤のオーラに包まれた右手の指先からは光が放射されていて、形而下の肉体を持ちながらも、聖母のように神聖な存在として描いているように感じられます。ココシュカはマーラーの未亡人アルマとの恋愛で知られているのですが、この作品のモデルで法律家の妻だったロッテにも強い憧れの感情を抱いていたそうで、そうした画家の心理も投影されている作品だと思います。

ジョルジュ・ブラック「ウォッシュスタンド」(1944年)

…この作品は会場内を歩いていたとき、遠目からでもスタンドの明るい水色が目を引いて印象的でした。ウォッシュスタンドとは現代ほど水道の普及していない時代に寝室に置かれていた洗面用の家具のことだそうで、スタンドの上には水差しや盥、ブラシなども描かれています。画家は通路の奥やドアの隙間などから垣間見える部屋の一隅にふと目を留めたのでしょうか。ブラックの他の静物画は横長の画面が多いのに対して、この作品は縦に細長く、ウォッシュスタンドの脚部や画面右側の窓枠などの垂直方向の線がそうした構造上の特徴をさらに強調しています。第二次大戦中、四年近くパリに足止めされていたブラックは、1944年にフランスが解放されてノルマンディー沿岸のヴァランジュヴィルにあるこの自宅兼アトリエに戻ることが出来たそうです。非常時から日常が戻ってきたことで、身近な日々の生活やありふれた身の回りの品が改めて新鮮なものに感じられたのかもしれません。ダンカン・フィリップス氏は大規模なブラックの回顧展開催のために他の作品は貸し出しても、本作は自身の美術館にとどめて展示し続けたそうなので、とりわけ気に入っていた作品の一つなのでしょう。

新・北斎展 感想

見どころ

…「新・北斎展」は葛飾北斎(1760~1849)の没後170年を記念して、最新の研究成果を踏まえつつ北斎の画業を辿るものです。約480件の出品作(会期中展示替えあり)の中心となるのは、長年に渡り北斎作品を研究し、この展覧会の監修にも携わった永田生慈(1951~2018)氏のコレクションですが、氏の遺志によりコレクションは寄贈先の島根県のみで公開されることになっているため、東京で展示されるのは今回が最後であり、貴重な機会となります。
北斎は手がけた作品の数の多さ、ジャンルの幅広さが圧倒的で、目に見えるものも見えないものも、およそ描けるものは何でも描いたところが本当に驚異的だと思います。多作で画風をどんどん変えていったところはピカソとちょっと似ているようにも思えます。晩年になっても衰えることなく新鮮で力の漲る作品を描いている北斎ですが、描くことに取り憑かれているようにも思える旺盛な創作意欲の源には、絵師として高い人気を得ても安住することなく、自らの画風を完成させ、本当の絵描きになりたいという願いがあったそうです。鬼才、天才とつい言ってしまいたくなりますが、何よりも努力の人だったんですね。
…私は2月最初の土曜日午前中に見に行きましたが、入場券の引き換え及び会場入口でそれぞれ5分ほど待ちました。会場内では第1章のコーナーで作品の前に並んでいる入場者の列がなかなか動かないようだったので後ろの方から見ましたが、その後のコーナーはそこまで混雑していなかったので、作品のすぐ前で鑑賞することができました。展示解説は少なめです。会場内はやや暗いですが、もっと照明が暗い展覧会もあるので、それほど気になりませんでした。所要時間は90分でしたが、小さな作品までじっくり見る場合はさらに時間がかかると思います。

概要

会期

…2019年1月17日~3月24日

会場

…森アーツセンターギャラリー

構成

 第1章:春朗期――デビュー期の多彩な作品
  …20~35歳頃、勝川派の絵師として活動
 第2章:宗理期――宗理様式の展開
  …36~46歳頃、肉筆画や狂歌絵本の挿絵など新たな分野に取り組む
 第3章:葛飾北斎期――読本挿絵への傾注
  …46~50歳頃、読本の挿絵に傾注
 第4章:泰斗期――『北斎漫画』の誕生
  …51~60歳頃、多彩な絵手本を手掛ける
 第5章:為一期――北斎を象徴する時代
  …61~74歳頃、錦絵の揃物を多く制作
 第6章:画狂老人卍期――さらなる画技への希求
  …75~90歳頃、自由な発想と表現による肉筆画に専念

hokusai2019.jp

感想

雲龍図」(紙本一幅、嘉永2年(1849:画狂老人卍期))

…展覧会で最も印象深かった作品が「雲龍図」で、最晩年に描かれたとは思えない力強さを感じました。本作と対になる「雨中の虎図」では、雨の中で大地に爪を立てる虎が龍を睨んで咆哮していますが、虎の毛皮やツタの葉などは鮮やかに彩られています。一方の「雲龍図」は群青を用いつつ墨色を基調としたほぼモノクロで描かれていますが、実在する地上の動植物は着彩で、対する龍は次元の異なる不可視の存在のため、無彩色で描くことでその違いを表現しているのかもしれません。何者にも触れられない天の高みで宙を睨む龍の鋭い眼光には人知を超えた神性が宿っていることが感じられて、作品の持つパワーにしばらくのあいだ圧倒されて見入ってしまいました。龍の左足の爪が表具まではみ出しているかとつい錯覚してしまうほど迫ってくるものがあり、自然が持つ渦巻くようなエネルギーとそれを司る龍の強大さが表現されている作品だと思います。

吾妻橋ヨリ隅田ヲ見ル之図」(横間判、文化初期(1804~06:宗理期)頃)、「諸国名橋奇覧 三河の八つ橋の古図」(横大判、天保5年(1834:為一期)頃)

…風景画では西洋画の遠近法を取り入れた「吾妻橋ヨリ隅田ヲ見ル之図」の、橋脚の間から川の流れの遙か先の景色を望む構図が面白く感じられました。両岸に並ぶ柵や木立なども効果的に用いて、遠近感を強調していますね。視点が低く、船の上から見ているような臨場感が感じられると風景だと思います。「諸国名橋奇覧 三河の八つ橋の古図」には、何カ所も折れ曲がり上昇と下降のある奇抜な形状の橋が描かれています。伊勢物語の「東下り」において、杜若の名所として詠まれていることで有名な三河の八橋ですが、江戸時代にはすでに存在していなかったため、北斎は想像で描いたのだそうです。前景に当たる画面右下では橋を上から見ていますが、中景では橋桁を下から見ていたりして、橋の複雑な構造と画面の奥行きを表現するために工夫しているのが分かる作品だと思います。

「夜鷹図」(紙本一幅、寛政8年(1796:宗理期)頃)、「酔余美人図」(絹本一幅、文化4年(1807:葛飾北斎期)頃)

…夜鷹は格の高い花魁のような遊女とは対照的な下層の娼婦のことで、「夜鷹図」では蝙蝠の飛ぶ寂しい夜道に立つ後ろ姿が描かれています。女性が筵ではなく傘を小脇に抱えていることや足駄を履いているところを見ると、月は出ているものの雲行きは怪しいのかもしれません。頬被りをした顔は見えないため容貌や年齢は定かではありませんが、実際、薄暗い路上では夜鷹と相対した客にも顔はよく見えなかったことでしょうし、どんな女性なのかは作品を見る者の想像に委ねているのだろうとも思います。女性が傍らを振り返っているのは、雨が降り出す前に客を見つけたようと探しているためかもしれません。片足を前に踏み出し、螺旋を描くしなやかな身体の線が風にそよぐ柳のようで、もの悲しさの中にも風情を感じさせます。「酔余美人図」は黒い三味線箱に肘をつき、額に手を当て俯せる女性の姿を描いた作品です。女性が蹲っているのは酔いに苦しんでいるためとのことで、箱の傍には杯も置かれていますね。酔いに苦しむ姿というのは本来なら醜態に属する部類だと思うのですが、そこに美を見出すという着眼点が面白く感じられます。あるいは、日頃美しく品の良い女性がうっかり見せた隙に、何か艶めいたものを感じたのかもしれません。女性はつい気分良く酒を過ごしてしまったのでしょうか、それとも何か憂さ晴らしや悩み事を紛らすためだったのでしょうか。着物の作り出す襞、特に身体に纏わり付く青い帯の曲線が優美な印象の作品だと思います。

「牡丹に蝶」(横大判、天保初期(1830~34:為一期)頃)

花鳥画では「牡丹に蝶」という作品が印象に残りました。牡丹の花からちょうど飛び立ったところを捉えたのか、宙返りする蝶という意表を突いたモチーフと、蛇の目模様の羽が目を引くのですが、気になって調べてみたところ実際に蝶は飛行中に宙返りすることがあるようで、造化=万物の理を師とした北斎が、自然をよく観察していたことが窺えます。また、蝶ではなく小鳥や蜂を描いた作品でも頭が下を向いているものが多く見受けられるので、飛翔する動物のみに可能な自在でダイナミックな動きを表現したかったのかもしれないとも思いました。一方、幾重にも重なる牡丹の花びらはどれも似ているが一つとして同じものはなく、花びらのうっすらとした筋や風に翻る葉の表裏の描き分けなど、細部まで丁寧に表現されています。正確に自然を写し取ることと装飾的な効果という二つの面を備えた、華やかで繊細な作品だと思います。

2019年見に行きたい展覧会

…場所は東京近郊、ジャンルは西洋美術が中心です。
…2019年は日本・オーストリア外交樹立150周年、クリムト没後100年を記念して、オーストリアの美術・美術館にスポットを当てた展覧会が各所で開催されます。
…「東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館」は美術館移転準備のため9月30日~2020年2月14日まで休館の予定です。

 ル・コルビュジエ 絵画から建築へ――ピュリスムの時代

…2月19日~5月19日
国立西洋美術館
…西洋美術館開館60周年記念
…1918年末から1920年代に「ピュリスム(純粋主義)」運動を推進したシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエの本名)の美術作品約100点、及び建築模型・出版物・映像資料で構成

ラファエル前派の軌跡展

…3月14日~6月9日
三菱一号館美術館
ラスキン生誕200年記念
…ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、エドワード・バーン=ジョーンズらの絵画作品の他、ステンドグラス、タペストリ、家具など約150点で構成

ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち

…4月6日~6月23日
パナソニック汐留ミュージアム
象徴主義の画家モローの画業について、母や恋人といった身近な女性からファム・ファタルとしてのサロメまで、女性像を描いた作品を軸に辿る企画展
…モロー「出現」他

シャルル=フランソワ・ドービニー展 バルビゾン派から印象派への架け橋

…4月20日~6月30日
東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館
…19世紀フランスを代表する風景画家の一人であるシャルル=フランソワ・ドービニー(1817~1878)の国内初の本格的な展覧会、モネやゴッホにも影響を与えたドービニーの作品について初期から晩年まで約60点、並びにドービニー周辺の画家たちの作品約20点について、ランス美術館の所蔵作品を中心に国内外の美術館・個人が所蔵する作品で構成

クリムト展 ウィーンと日本1900

…4月23日~7月10日
東京都美術館
グスタフ・クリムト(1862~1918)没後100年、女性像や風景画などクリムトの油彩画約20点をはじめ、19世紀末のウィーンの芸術家たちの作品やクリムトが影響を受けた日本の美術品を展示0

ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道

…4月24日~8月5日
国立新美術館
…ビーダーマイヤー時代から世紀末芸術まで、絵画をはじめ建築や工芸品、グラフィックデザインなど幅広い分野における作品により、19世紀末のウィーン芸術の革新性を紹介
グスタフ・クリムト「パラス・アテナ」、エゴン・シーレ「自画像」

印象派への旅 海運王の夢――バレル・コレクション

…4月27日~6月30日
…Bunkamuraザ・ミュージアム
…19世紀から20世紀初めのスコットランドの画家の作品及びフランス絵画約80点で構成
…「バレル・コレクション」はスコットランドグラスゴー出身の実業家ウィリアム・バレルがグラスゴー市に寄付した数千点のコレクションからなる美術館で、「国外に持ち出さないこと」が条件の一つとして建設されたが、美術館の改装に伴って展覧会が実現
ドガ「リハーサル」

松方コレクション展

…6月11日~9月23日
国立西洋美術館
…開館60周年記念、国立西洋美術館の基礎となった実業家・松方幸次郎氏のコレクションをテーマとする60年ぶりの大型展
…国内外に散逸した作品を結集し、歴史資料も加えた160点で構成
…2016年にルーヴル美術館で発見され、現在修復中のモネ「睡蓮」初公開

みんなのミュシャ ミュシャから漫画へ――線の魔術

…7月13日~9月29日
…Bunkamuraザ・ミュージアム
ミュシャのポスターやイラスト作品を通じてその発想の源や手法を探ると同時に、ミュシャから影響を受けたグラフィック・アートや漫画など多彩な作品も展覧

コートールド美術館展

…9月10日~12月15日
東京都美術館
…マネ、ルノワールセザンヌ、ゴーガンなど印象派、ポスト印象派の絵画・彫刻約60点で構成
ロンドン大学に付属するコートールド美術研究所は美術史や保存修復において世界有数の研究機関であり、コートールド美術館はその展示施設
…マネ「フォリー=ベルジェールのバー」、ルノワール「桟敷席」

オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち

…9月21日~2020年1月13日
横浜美術館
横浜美術館開館30周年記念、「ジャン・ヴァルテル&ポール・ギョーム コレクション」からマティスピカソ、エコール・ド・パリのモディリアーニやスーティンなど19世紀後半から20世紀前半にかけてのフランス近代絵画約70点で構成
ルノワール「ピアノを弾く少女たち」

ラウル・デュフィ展 絵画とテキスタイルデザイン

…10月5日~12月15日
パナソニック汐留ミュージアム
…ラウル・デュフィの絵画作品、及びポール・ポワレらファッション・デザイナーから重用されたテキスタイル・デザインという二つの表現媒体を通して、画家が目指した表現の本質を再考する企画展

ゴッホ

…10月11日~2020年1月13日
上野の森美術館
…オランダのハーグ派に学んだゴッホの初期作品から印象派と出会ったパリ時代の作品、独自の画風を築いた南仏時代、そして晩年まで、画風の変遷及び影響のあった画家との比較を通じてゴッホ像を明らかなものにする企画展
ゴッホ作品約40点及びハーグ派・印象派など約20点
ゴッホ「糸杉」他

ハプスブルク展 600年にわたる帝国コレクションの歴史

…10月19日~2020年1月26日
国立西洋美術館
…日本・オーストリア友好150周年記念、ハプスブルク家が収集した美術品についてウィーン美術史美術館の所蔵する絵画や工芸品で構成
…ウィーン美術史美術館はルーヴル、プラドと並ぶ欧州三大美術館、ハプスブルク家の蒐集品を核に19世紀末に美術館として開館、ブリューゲル、ベラスケス、ティツィアーノルーベンスなどの絵画作品の他、エジプト・オリエントコレクション、彫刻、武具、工芸品、貨幣など76万点の所蔵品を有する
…ベラスケス「青いドレスの王女マルガリータテレサ

印象派からその先へ 世界に誇る吉野石膏コレクション

…10月30日~2020年1月20日
三菱一号館美術館
…吉野石膏株式会社の企業コレクションのうち、バルビゾン派から印象派を経て、20世紀前半の前衛芸術まで72点で構成

ロマンティック・ロシア 国立トレチャコフ美術館展 感想

見どころ

…この展覧会は、ロシア最大の国立美術館であり、11世紀から現代に至るロシアの美術作品を所蔵するトレチャコフ美術館のコレクションのうち、19世紀後半から20世紀初頭を代表する画家たちの作品72点によって構成されています。
…トレチャコフ美術館の創設者であるパーヴェル・トレチャコフ(1832-1898)は紡績業で財を成した実業家で、同時代のロシア美術、とりわけ移動展覧会協会(移動派)の作品に強い関心を抱き、積極的に作品を収集すると共に、画家たちと親交を結びました。移動派とは芸術上の理想をヨーロッパや古典古代芸術が持つ技巧や規範に求めるアカデミー派に対抗して、芸術による民衆の啓蒙を目指し、社会の現実をリアリズム様式によって捉えた作品を制作した流派で、「忘れえぬ女」を描いたクラムスコイをはじめ、レーピン、レヴィタン、シーシキンなどが参加しています。本展は移動派を初めとする創設者パーヴェルとほぼ同時代の画家たちの作品が中心であり、美術館のコレクションの根幹を成す作品によって構成されているとも言えそうです。
…この展覧会の特徴は、風景画が多いことだと思います。日本には四季がある、四季の変化がはっきりしていることが特徴としばしば言われることがありますが、この展覧会を通じて春の洪水や夏の白夜、冬の樹氷などロシアならではの四季、そして広大な空と平原が印象的な透明感のある風景というロシアならではの自然の美しさを感じることができました。一方で、季節ごとに表情を変える自国の自然への愛着――必ずしもそこに住む人々にとって暮らしやすいものではなく、時に過酷なものであっても――という点は、いずれの国にも共通しているのではないかとも思います。
…ロシアの美術館のコレクションによる展覧会はエルミタージュ美術館展(2017年、森アーツセンターギャラリー)やプーシキン美術館展(2018年、東京都美術館)など、ここ最近でもしばしば開催されているのですが、出品作はフランスやイタリアなど他国の画家の作品がメインでした。私自身のタイミングの問題なのでしょうが、これまでシャガールカンディンスキーなど個別の画家や作品に触れる機会はあっても、ロシア美術を俯瞰するような展覧会にはなかなか巡り会うことが出来ずにきたので、今回そうした個人的な念願も叶い、新たに数多くの画家や作品を知ることが出来て良かったです。

概要

会期

…2018年11月23日~2019年1月27日

会場

…Bunkamura ザ・ミュージアム

構成

 第1章 ロマンティックな風景
  1-1 春
  1-2 夏
  1-3 秋
  1-4 冬 
 第2章 ロシアの人々
  2-1 ロシアの魂
  2-2 女性たち
 第3章 子供の世界
 第4章 都市と生活
  4-1 都市の風景
  4-2 日常と祝祭
…ジャンル別の章立てで、特に風景画が充実しています。これは美術館の創設者であるトレチャコフが、風景を通じて母国の風貌に親しむことができるだけでなく、人間の内面に対する理解も深めることができるという確信に基づいて、ロシアの風景画家の作品を非常に熱心に収集したためだそうです。年代順でも作家別でもなく、四季ごとに作品を並べるというのはあまり例のない面白い展示の仕方ですが、それぞれに個性的な各作品に共通するロシアの風土の特徴を感じ取って欲しいのかもしれません。また、人物を描いた作品のうち、子供を描いた作品を分けたのも興味深いです。農家の子供たちの遊びを描いた「小骨遊び」や村の市場に並ぶ多才な民芸玩具が印象的な「おもちゃ」などは風俗画としての側面も窺われます。全体を見渡してみると、風景、人物、風俗、また風景の中には花の静物画も含まれていて、この中にないのは歴史画・宗教画ということになりますが、たとえば「忘れえぬ女」を描いたクラムスコイは「荒野のキリスト」という宗教画を手がけ、これがトレチャコフ美術館に所蔵されています。また、トレチャコフ美術館はイコンについても膨大なコレクションを有しているので、宗教美術にも関心を払っているんですね。今回の展覧会ではそうした作品は展示されていませんが、ロシア正教はロシアの人々に深く根付いていて、例えばワスネツォフの「祖国」と題された風景画の中で遙か地平線上に立つ聖堂のように、大きく描かれなくとも常にひっそりと息づいているのだろうと思います。

感想

アレクセイ・コンドラーチエヴィチ・サヴラーソフ「田園風景」

…サヴラーソフ「田園風景」はモスクワ近郊の風景を描いた作品で、鳥が舞う広々とした空の下、なだらかな丘陵には淡い緑の草原と耕されて黒々とした耕地がパッチワークのように連なっています。画面左下には円筒形の蜜蜂の巣箱が並んでいて、その手前で男性が焚き火をしていますが、おそらくお湯を沸かして砂糖を煮溶かし、蜂の餌となる砂糖水を作っているところではないかと思います。一帯が雪に覆われる長い冬のあいだ、老養蜂家も蜂たちの世話を欠かすことが出来なかったでしょう。しかし、巣箱の背後では春風に撓むリンゴの枝に桜のような白い花が咲き始めています。暖かくなって周りの木々や野の草花が咲き出せば、蜂は花から蜜を集めることができるようになるのでしょうね。冬の終わり、春の兆しを優しい光に包んで描いた、牧歌的な情趣に富む作品だと思います。

イサーク・イリイチ・レヴィタン「春、大水」

…川から溢れた大水に浸かった白樺の林。針のように細く頼りない幹が、早春の薄雲に覆われた空へと伸びています。波のない澄んだ水面に映りこんだ樹影は水上の木立と切れ目なく繋がっていて、冷たい水の底に向かって生えているようにも見えます。ロシアでは洪水が春の風物詩だというのは今回初めて知りました。広大なロシアを流れる大河は、厳しい冬のあいだ凍りついて分厚い氷に覆われてしまうのですが、春になって溶け出す際に分解した氷の塊が河を途中で塞いでしまうため氾濫が起きるのだそうです。画面左下では岸辺に小舟が浮いていますが、遠くに見える水の中に取り残された家の住人が、こうした舟で陸地と行き来しているのかもしれません。本作の主題は災害ではあるのですが、自然の猛々しさよりむしろ白樺の林を包む静寂と水や空気の透明感の方が印象的です。この水が引く頃には、きっと白樺の枝にも緑が芽吹いているのでしょう。繰り返される厄介な現象と待ち望んだ春の訪れとは一体のものであり、両義的な側面を持つ自然に泰然と向き合っているように感じられる作品です。

コンスタンチン・ヤーコヴレヴィチ・クルイジツキー「月明かりの僧房」

…クルイジツキー「月明かりの僧房」では影が出来るほど明るい夏の月夜、白い外套を着て杖を持つ巡礼が、礼拝堂の前のベンチに座る黒衣の聖職者と言葉を交わしています。巡礼ですから礼拝のために訪れたのか、一夜の宿を求めているのでしょう。一方の僧侶はこの地にひっそりと隠棲していたのか、白い六端十字を掲げた簡素な礼拝堂は屋根や木の柵の随所が傷み、訪れる人も稀なように思われます。画家の故郷はウクライナで、この作品もキエフ近郊で描かれたそうですが、19世紀後半にはまだこうした素朴な情景が見られたのでしょうか。時の流れ、社会の変化から取り残されたような古びた僧房は、生い茂る背の高いポプラの森に飲み込まれて遠からず老聖職者と共に朽ちていくのかもしれません。神秘的な青白い月光が夜の静寂を一層深めている作品だと思います。

イワン・イワーノヴィチ・シーシキン「正午、モスクワ郊外」

…夏雲の湧く晴れた空の下、金色に実った麦畑のあいだの道を歩く人々。シーシキンの「正午、モスクワ郊外」は縦に長い画面が特徴で、それが空の大きさ、雲の高さを一際強調するようです。農具を携えた人々は朝からのひと仕事を終え、これから家に戻って昼食を取るところなのでしょう。人物は小さく表情は分かりませんが、夏の日差しに照らされた風景は全体の色調が明るく、彼らは楽しげに語り合っているように感じられます。泥濘るんだ道に残る轍は、アルヒーポフの「帰り道」に描かれているような馬車が通った跡なのかもしれません。道の先にはなだらかな緑の丘が地平線まで続いていて、川の水面や煙の立ち上る家、そして聖堂の鐘楼が小さく描かれていますが、こうした広々とした牧歌的な風景こそロシアの自然のイメージそのものだそうです。素朴な田園で営まれる穏やかな情景が見る人の心に安らぎを与える作品だと思います。また、本作は美術館の創設者であるトレチャコフが最初に購入したシーシキンの作品とのことですから、きっとトレチャコフにとっても自らの理念に適った作品だったのでしょう。

グリゴーリー・グリゴーリエヴィチ・ミャソエードフ「秋の朝」

…ミャソエードフ「秋の朝」は画面を金色に染める一面の黄葉がまず目に飛び込んできます。しかし、よく見ると視界に張り出す木々の枝一本一本、葉の一枚一枚まで丁寧に描かれていて、非常に緻密な作品であることが分かります。まるでクールベのようですね。朝の森に生き物の気配はなく、小川の流れは落ち葉に埋もれて淀み、梢の葉を揺らす風さえも途絶えて、黄葉の華やかさが辺りの静寂を一層深めているようにも感じられます。ミャソエードフは移動展覧会教会の創設者の一人で、写実主義の熱烈な支持者だったそうですが、妥協を許さない厳密な描写の中にも、ひっそりと物寂しい秋の気配が感じられる作品だと思います。

イワン・シルイチ・ゴリュシュキン=ソロコプドフ「落葉」

…一方、同じ秋でも、ゴリュシュキン=ソロコプドフの「落葉」では落ち葉の冠を被る女性に擬人化された象徴的な秋が描かれています。女性と植物という取り合わせがアールヌーヴォー風だなと思ったのですが、ゴリュシュキン=ソロコプドフは副業として広告ポスターの制作も手がけていたとのことで納得です。秋風に舞い散る落ち葉の中に佇み、長い髪をなびかせている女性の青白い横顔は、女性の纏う服の紫色とも相まってミステリアスでどこか物憂げに見えます。日本語にも「秋思」という言葉がありますが、憂愁の季節という秋のイメージが国を問わず共通していることを興味深く思いました。

ワシーリー・ニコラエヴィチ・バクシェーエフ「樹氷

…夜のうちに雪が降ったのでしょうか。バクシェーエフの「樹氷」では雲のない乾いた青空のもと、すっかり凍りついた樹氷の森が日差しの色に染まっています。僅かに見える地面と樹の幹のほかは一面白い雪に覆われていますが、青や灰色、茶色、そしてバラ色が混じりあって多様なニュアンスの白が描き分けられています。強い風が吹いたり、新たに雪が降り積もるごとに変容する儚さに魅了されたのか、バクシェーエフは樹氷に包まれた木々というモチーフを繰り返し描いたそうです。しかし、実はロシア美術において冬の風景画はそれほど多くないとのことで、雪と氷の国というイメージを持っていただけに意外な気がしました。冬が長く過酷な分、暖かな季節を求める気持ちが強いのかもしれないですし、厳しい寒さや深い雪のために外でスケッチしたりするのも大変なのかもしれませんね。冬は人も動物も寒さに身を潜めて閉じこもりたくなるものですが、そんな季節にも自然がもたらすその季節ならではの美が存在し、見ることに貪欲な画家たちを惹きつけるのでしょう。

イワン・ニコラエヴィチ・クラムスコイ「忘れえぬ女」

…馬車の上から首を傾げてこちらを見下ろす、洗練された装いの若く美しい女性。彼女と目が合ったのは、こちらが思わず彼女を見つめてしまったからでしょう。本作の原題は「見知らぬ女」なのですが、名も知らぬ女性から鮮烈な印象を受けたという物語を想像させるような「忘れえぬ女」という日本での呼称も、なかなか核心を突いていると言えそうです。冷たい冬の靄が立ちこめるサンクトペテルブルクの街並みがベージュがかった色合いで薄ぼんやりと霞んでいるのに対して、女性の姿がそれだけにピントが合っているかのようにクリアに、上着を縁取る毛皮やリボンの光沢、繊細な羽根飾りなどの質感まで緻密に描写されているのも、視覚的な正確さであるより心理的なリアルさの表現なのかもしれません。通りすがりに美女を見かけるという場面は一見ありそうなのですが、当時のロシアでは女性が幌を上げた馬車に一人乗りすることはなかったそうで、実は非常に大胆な行動なのだそうです。当然ながらこの美しい女性のモデルは誰なのか、彼女の大胆な行動にどんな意味が込められているのか知りたくもなりますが、発表当初から様々な解釈がなされつつも定まった説はないようです。おそらく特定のモデルを想定して描いたというより、匿名の存在、普遍的な女性の像の一つとして描かれたのではないでしょうか。画家、そして鑑賞者に向けられた黒目がちの瞳と、ふっくらとした唇のカーブが作り出す口元の表情は艶然と誘いかけているようにも見えますし、冷ややかで挑発的にも見えるのですが、官能的でありながら近寄りがたいという相反する印象が混じり合っていることが本作の最も大きな魅力の一つであり、モデルの秘密と相まってこの謎めいた女性に見る者を惹きつけて止まないのでしょう。

フィリップ・アンドレーエヴィチ・マリャーヴィン「本を手に」

…マリャーヴィン「本を手に」では、膝に置いた本を開いたまま横を向いている若い女性が描かれています。画家に対してそっぽを向いているようなポーズが新鮮ですが、横を見ているのは誰かに呼ばれたのか、それとも何か気になるものが目に入ったのでしょうか。壁に映った影によって輪郭が際立つ横顔はすっきりとした鼻梁やしっかりとした眉が印象的で、眼差しからは意志が感じられます。本作はマリャーヴィンが美術学校の学生だった時期に描かれたもので、モデルの女性はマリャーヴィンの妹だそうですが、画家は浅黒い肌や化粧気もなく無造作に髪をまとめた妹の飾り気のない姿を美化せず率直に捉えています。同じ若い女性でも都会的で洗練された「忘れえぬ女」とは対照的な身近さがありますが、本という持ち物と個性的な容貌が女性の知性や品位も感じさせる肖像画だと思います。

オリガ・リュドヴィゴヴナ・デラ=ヴォス=カルドフスカヤ「少女と矢車菊

…デラ=ヴォス=カルドフスカヤ「少女と矢車菊」では、木漏れ日の落ちるテラスの階段で、白い夏服のスカートに矢車菊を広げている少女が描かれています。鮮やかな青紫の花弁が少女の服や髪のリボンと呼応していますね。青い絵具を交えた日陰の表現やまだらな木漏れ日の表現などが印象派的だなと思いました。少女はおそらく家の庭で摘んだ矢車菊で花冠を作っているところなのでしょうが、少しぼんやりとした面持ちで俯いている様子からは、花がその花の形をしていることの不思議に見入っているようにも思われます。デラ=ヴォス=カルドフスカヤは1917年に美術アカデミーの会員に推薦された(その後ロシア革命が勃発したため投票は成立しなかったそうです)最初期の女性画家の一人で、本作のモデルは彼女の娘だそうですが、母親の注意深い眼差しは、本来なら見過ごしてしまいそうなありふれた一場面に気が付いたのでしょう。また、自然体の少女の姿から、少女にとっても母が子供を描くことが特別ではない、日常の一部であったように感じられます。穏やかな情景に母と子の親密さが窺われる作品だと思います。

ニコライ・ドミートリエヴィチ・クズネツォフ「祝日」

…19世紀のロシアでは、祝日に民族衣装を着る習慣が民衆のあいだに残っていたそうです。衣装には各地域ごとに伝統があり、ウクライナの女性の場合はクズネツォフの「祝日」に描かれている通り、刺繍のあしらわれた白いシャツにスカートと同色のブーツというものでした。緑の草原に寝転ぶ少女の袖を彩る可憐な花模様が、あたかも草原に咲いているように見えますね。大地に背中を預けて、全身に日差しを浴びる少女の姿は日光をエネルギーに生長する植物のようであり、少女の周りに咲き乱れ、生い茂る草花は若々しい少女の宿す旺盛な生命力がそのまま外に溢れ出たようにも見えます。人と植物、あるいは人と自然との敷居がなくなり繋がり合って、生きとし生けるものの根源的な一体感が感じられる作品だと思います。

その他…会場内の様子、混雑状況

Bunkamuraザ・ミュージアムの改修後、最初の展覧会となりましたが、これまでとチケットの確認方法が変わって、入口で前売券を提示すると引換券と交換されるという方式になりました。会場自体は今までと大きく変わってはいません。私が見に行ったのは12月の第2土曜日でしたが、混雑はなく落ち着いて見て回ることができました。作品数は70点余りで中規模の展覧会ですが、全ての作品に解説があるので、音声ガイドも使用しながらじっくり見ていくと2時間程度かかると思います。