展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

テート美術館展 光――ターナー、印象派から現代へ 感想

【会期】

 …2023年7月12日~10月2日

【会場】

 …国立新美術館

【構成】

 第1章 精神的で崇高な光
 第2章 自然の光
 第3章 室内の光
 第4章 光の効果
 第5章 色と光   

tate2023.exhn.jp

感想

…この展覧会は近代以降のアートにおける「光」の位置づけや表現方法、アートは「光」をどのように扱ってきたかというテーマに沿って構成されていて、それぞれの作品が選ばれた理由を考えながら見るのが楽しかったです。概ね時代順の構成でしたが、中には19世紀の作品と同じスペースに展示されている現代アートの作品もありました。一見唐突に思われる組み合わせが意外にも馴染んでいて、時代を超えたテーマ、問題意識を感じることができました。

【超越的な存在を象徴する光】

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー《陽光の中に立つ天使》(1846年出品)、《光と色彩(ゲーテの理論)――大洪水の翌朝――創世記を書くモーセ》(1843年出品)

ターナーというと風景画の印象が強く、宗教的な主題の作品をあまり見た記憶はないので、今回の展覧会で新たな一面を知ることができました。《陽光の中に立つ天使》や《大洪水の翌朝》では天使や予言者が天空に出現した超自然的な光景が描かれていますが、その姿はあくまで仄めかされる程度にうっすら浮かび上がるだけで、主役は渦巻く大気の彼方から指す光そのもののようです。ターナーにとっては、大気と渾然一体となった地上の光は天上の霊的な光と途切れることなく続いていて、光を捉えることが神の存在を感じることなのかもしれません。

ターナー《陽光の中に立つ天使》1846年出品

ターナー《光と色彩(ゲーテの理論)―大洪水の翌朝―創世記を書くモーセ》1843年出品
ウィリアム・ブレイク《アダムを裁く神》(1795年)

…燃えさかる太陽の馬車からアダムを指さす神。神の前に立つアダムは畏まり、手を合わせて深く頭を垂れています。神の右手からはアダムに向かって一閃の光が放たれていますね。燃えさかる太陽の馬車に乗る神は、太陽そのものでもあります。日本でも「お天道様が見ている」と言ったりしますが、天にあって遍く地上を照らす光は自然の一部であるだけでなく、己の罪や過ちをも明るみに出す超越的な力を感じさせるものなのでしょう。

ブレイク《アダムを裁く神》1795年
ジョゼフ・ライト・オブ・ダービー《トスカーナの海岸の灯台と月光》(1789年出品?)

…ダービーの作品では月光と灯台の灯りという、自然と人工の二つの光が対比されています。闇を照らす空の月も船乗りを導く目印となる灯台も、共に航海の安全を守ってくれる存在ですね。表題にトスカーナという地名が入っていますが、実景を忠実に再現したのではなく、複数のモチーフを組み合わせて再構成したものと思われます。前景で夜の闇の中、船を接岸し荷を下ろしている人々は二つの光に守られて無事到着したところなのでしょう。優しい月明かりが夜の静けさを一層深め、心の鎮まる穏やかさが伝わってくるように感じられました。

ダービー《トスカーナの海岸の灯台と月光》1789年出品?
ジョン・マーティン《ポンペイヘルクラネウムの崩壊》(1822年)

…ヴェスヴィオ火山の噴火によって滅んだ古代ローマの都市ポンペイヘルクラネウムは18世紀半ばに再び発見されました。繁栄の頂点で突然天災に見舞われた都市の劇的な運命は、人々の想像力を掻き立てたことでしょう。ジョン・マーティンの作品では噴煙に覆われた空に稲光が走り、海には灼熱の溶岩が流れ込み、逃げ場を失った人々が身を寄せ合って怯えています。禍々しい赤い光に染まった光景はさながら地獄のようで、画家は圧倒的な自然の力の前になすすべなく終焉を迎えた人々の姿に最後の審判の光景を重ね合わせているのだろうと思います。

マーティン《ポンペイヘルクラネウムの崩壊》(部分)1822年

マーティン《ポンペイヘルクラネウムの崩壊》(部分)1822年
エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ《愛と巡礼者》(1896~97年)

…この作品は、愛を得て孤独の闇から光に満ちた世界へ救い出される人間の姿を描いているそうです。天使のような姿をした愛の神に腰を屈めて恐る恐る手を伸ばす巡礼者は、片手でまだ背後の茨の蔓を握っていて新たな世界へ踏み出すことを躊躇っているようにも見えます。愛の神が足を載せている石段の先には何があるのか、それとも彼らは廃墟をあとにしようとしているのでしょうか。愛の神の翼を取り巻く小鳥は自由の象徴であり、愛の神は魂の自由を手に入れさらなる高みへ上るように巡礼者を促しているようにも見えます。人生の旅の末に巡礼者が見つけたのは、神の愛だったのかもしれません。

バーン=ジョーンズ《愛と巡礼者》1896-97年

【ありふれた、あるがままの日常の煌めき】

ジョン・コンスタブル《ハリッジ灯台》(1820年出品?)

…コンスタブルの《ハリッジ灯台》は空の大きさが印象的な海辺の風景です。日差しは穏やかで心地よく、湧き上がる雲の影が陸地に明暗のコントラストを成しています。淡い水色を主とする画面のなかで、手前に佇む人の赤い帽子が目を引きますね。海をゆく船の帆が日差しを受けて白く光り、灯台のそばや草地で人々が寛ぐ伸びやかな情景に、ありふれた人々の営みと共にある日常の輝きが感じられると思います。

コンスタブル《ハリッジ灯台1820年出品?
ジョン・エヴァレット・ミレイ《露に濡れたハリエニシダ》(1889~90年)

…ミレイの《露に濡れたハリエニシダ》はヴェールのように繊細な光と緻密な植物の描写が魅力的な作品です。夜明けの森に立ちこめる霧が朝日を和らげ、日差しと季節の移ろいとで木立が赤く色づいています。足下に目を移すと、ワラビやハリエニシダなどの下草が朝露に濡れて無数の小さな光が宿り輝いています。霧も露もひとときのうちに儚く消えてしまいますが、画家の鋭敏な感性はつかの間の煌めきを逃さず捉え、密やかな愁いを込めて表現していると思います。

ミレイ《露に濡れたハリエニシダ》1889-90年
ジョン・ブレット《ドーセットシャーの崖から見るイギリス海峡》(1871年)

…《ドーセットシャーの崖から見るイギリス海峡》には見渡す限りの青空とエメラルドの海がパノラマ画面いっぱいに描かれていて、作品の前に立つと遮るもののない海原のただ中にいるような感覚をおぼえます。しかし、臨場感の一方で、カンヴァスは水平線で上下均等に二分され、天頂に昇った太陽から真昼の光が放射状に降り注ぎ、海面の明暗がくっきりと塗り分けられるなど明瞭で整然とした描き方からは標本のような印象も受けます。ジョン・ブレットは科学的なアプローチで自然を忠実に再現することに努めた画家で、この作品も綿密な観察やスケッチに基づいて制作されたそうですが、客観的な正確さと主観的な本物らしさは必ずしも一致しないこと、そもそも作家は真実に迫ることと感動を引き起こすことのどちらのアプローチを選ぶべきか――両者が軌を一にしていることも少なくないのですが――ということについて考えさせられました。

ブレット《ドーセットシャーの崖から見るイギリス海峡1871年
ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー《ペールオレンジと緑の黄昏――バルパライソ》(1866年)

バルパライソは南米・チリの港町なのですが、この作品を見たときは浮世絵のようだと思いました。暮れなずむ海辺を風景を包む柔らかいパステルカラーの色調、薄墨色の船や陸地の影、流水やたなびく雲のイメージである長いストロークなどに日本的な印象を受けるのでしょう。穏やかな一日の終わりに見えるのですが、実はこのときチリはスペインと戦争中で、この作品もバルパライソからイギリス・アメリカ・フランスの艦隊が退却し始めた様子を描いたものであり、町は翌日、スペインの砲撃を受けたそうです。ホイッスラー自身はチリ海軍を支持していたそうですが、被害を受ける以前の町の美しさは戦争が何を破壊するのか伝えているように思いました。

ホイッスラー《ペールオレンジと緑の黄昏―バルパライソ》1866年
クロード・モネ《エプト川のポプラ並木》(1891年)

…モネはしばしば同一の風景に基づく連作を制作し、光の移ろいによるモチーフの表情の変化を捉えました。今回の展覧会の出品作は、エプト川沿いのポプラ並木を描いた連作のうちでモネが一番気に入っていたそうです。蛇行する川の流れに沿ってポプラが川岸から頭をのぞかせ徐々に大きくなっていくことで遠近感が表現されているのですが、素早いタッチには勢いが感じられ、見上げる角度で描かれていることで空に向かって木がリズミカルに上昇していくようにも見えます。実景に基づきながらも様式的、装飾的な構図で、後年の装飾壁画への展開に繋がる関心が伺われるように思いました。

モネ《エプト川のポプラ並木》1891年
ヴィルヘルム・ハマスホイ《室内》(1899年)

…この作品は閉ざされた室内に差し込む窓越しの静謐な光が主役です。制作当時はすでに屋内外でガスや電気などの人工の照明が用いられていたはずですが、画家は時代を象徴するアイテムより、いつの時代も変わらない自然光のもたらす効果に関心があったのでしょう。使用されている色彩は白、黒、茶褐色など少数に限られていてモノトーンに近く、古い寺社のような歳月を超えた落ち着きをを感じさせます。画面を包む柔らかい光はありふれた情景に不変の永遠性をもたらし、誰の記憶にもある普遍的な懐かしさを呼び起こすと思いました。

ハマスホイ《室内》1899年

【光を表現手段とするアート】

ジェームズ・タレル《レイマー、ブルー》(1969年)

…床も天井も一面に青く染まった空間を体験する《レイマー・ブルー》は、パイロットとして飛行機も操縦するジェームズ・タレルの作品です。周りを囲むものが何もない空の上を飛行する体験は、カンヴァスや額縁に制約された表現を乗り越えることを意識させたのでしょうか。青い光に包まれていると、次第に壁や床といった手がかりが遠ざかり足下が心許ないような浮遊感を覚えます。切り取られた一定の空間を再現するのではなく、視覚体験を成立させる空間自体を体感する作品だと思いました。

ブリジット・ライリー《ナタラージャ》(1993年)

…「ナタラージャ」は「舞踏の王」という意味で、ヒンズー教の神、シヴァ神の別称ですが、この作品にシヴァ神の具体的な図像は見当たりません。代わりに描かれているのは、一定の幅にカラフルな平行四辺形がランダムに配列された幾何学的なパターンです。しかし、寒色と暖色、明るい色と暗い色が対比され、平行四辺形の断片が目の中でチラチラと点滅してあたかも動いているような錯覚を覚えるのは、魔術的にも感じられます。自由なようでいて、色彩の効果や画面全体のバランスと統一感が厳密に計算され構成されている禁欲的な作品だと思いました。

ジュリアン・オピー「8つの風景」から《雨、足跡、サイレン》、《トラック、鳥、風》、《声、足跡、電話》(2000年)

…遠目に写真、近づいて見ると実は絵画というこの作品は、写真を元にコンピューターで描画したデジタルプリントです。雨の夜の濡れた路地に滲む街灯の光、夜空に広がる月光の青白いグラデーション、ビルの廊下を白々と照らす蛍光灯の無機質な光。加工によって簡略化、単純化された風景は奥行きを失い、見慣れたはずの世界に違和感を抱かせます。タイトルに並べられた三つの単語はそれぞれ作家がイメージの元となった場に居合わせたとき耳にした音だそうですが、人影のないどこか不穏な情景と意味深なタイトルが相まって視覚と聴覚に作用し、ドラマのようにミステリアスな一場面を連想させられます。(出品リストではfootstepsが足跡と和訳されていますが、図録の作品解説から考えると足音と訳すほうが適当ではないかと思います。)

デイヴィッド・バチェラー《ブリック・レーンのスペクトル2》(2007年)

…この作品を一見したとき、モンドリアンの《ブロードウェイ・ブギウギ》を立体にしたようだと思いました。赤、青、黄色などのカラフルな長方形のライトをスチール製の棚に積み上げた作品からは、昼間のように明るく、昼間の活気とは異なる夜の街の喧噪を想起させられます。ネオンを連想させる華やかで平板な人工の光は陽気で軽薄な空虚に似つかわしいでしょう。悲劇も喜劇も空騒ぎに消費する貪欲な現代の都市の鼓動が感じられると思いました。

オラファー・エリアソン《星くずの素粒子》(2014年)

…エリアソンの《星くずの素粒子》は、回転するミラーボール状の「星」の反射光が壁や天井に映し出されるインスタレーションです。星は寿命を迎えると重力崩壊を起こして爆発四散し、残骸は高速で回転しながら宇宙空間に強い電波を発するのですが、その壮大なイメージを形にしたものでしょう。宇宙の果てで燃え尽きた星が一生の最後に放つ素粒子は、時空を超えて地球に遙か彼方の星の存在を届ける究極のコンタクトと言えるかもしれません。

エリアソン《星くずの素粒子》2014年