没後90年記念 岸田劉生展 感想
見どころ
…この展覧会は日本の近代美術の歴史の中でもとりわけ独創的な絵画の道を歩んだ岸田劉生(1891~1929)の没後90年を記念する回顧展です。出品作は初期の水彩画、代表作《道路と土手と塀(切通之写生)》や愛娘麗子を描いた肖像画、「東洋の美」に目覚めて独学で取り組んだ日本画など、東京国立近代美術館をはじめ日本各地の美術館が所蔵する作品約150点で構成されています。
…岸田は二十年余りの画業の中で何度も画風を大きく変化させているのですが、変化のきっかけには幾つもの出会いがあるように思います。若干十四歳にして両親を失った岸田ですが、キリスト教の洗礼を受けたことで牧師の田村直臣と出会って画家になることを奨められ、さらに雑誌『白樺』を通じてゴッホ、ゴーギャン、マチスの芸術に衝撃を受けるとともに、親友となる武者小路実篤とも出会います。肺病と診断されたために戸外での写生ができなくなったことはマイナスの出会いなのですが、室内で制作できる静物画に取り組んで新たな境地を切り拓く強靱さもあります。最愛の娘・麗子の誕生は数々の麗子像として結実しました。今回の展覧会を通して、岸田の人生と作品は根底において相互に不可分に結びついているように感じました。
…私は9月最初の土曜日に見に行きましたが、落ち着いてじっくり作品を見ることが出来ました。作品数が多いので、所要時間は2時間以上を見込んでおくと良いと思います。図録には岸田の日記や論考などの記述も含めた日単位の詳細な活動記録が所収されているので、興味のある方は購入されることをお勧めします。
概要
【会期】
…2019年8月31日~10月20日
【会場】
【構成】
第1章 「第二の誕生」まで:1907~1913
第2章 「近代的傾向…離れ」から「クラシックの感化」まで:1913~1915
第3章 「実在の神秘」を超えて:1915~1918
第4章 「東洋の美」への目覚め:1919~1921
第5章 「卑近美」と「写実の欠除」を巡って:1922~1926
第6章 「新しい余の道」へ:1926~1929
感想
風景画:《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年11月5日)他
…風景画は岸田の画家としての始まりであり、終生描き続けたテーマです。最初期の作品である《緑》(1907年8月6日)は水彩による透明感と瑞々しさが爽やかな風景ですが、岸田は雑誌「白樺」を通じてゴッホやマチスらの影響を受け、鮮やかで大胆な色遣いが印象的な《築地居留地風景》(1912年12月23日)などを描くようになります。出会いを契機に画風が大きく変化するのは、感性の鋭さや良いものを積極的に取り入れようとする柔軟さの証でもあると思うのですが、他の画家たちが築いた表現に飽き足らず、自身の目で見た表現を模索した岸田は、やがて結婚して居を構えた代々木近辺の風景を描くようになります。現在の代々木はビルのただ中にある街ですが、百年前の岸田の作品ではまだ建物がほとんどなく、道端には草が生い茂っていて、その変貌ぶりに驚きます。《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年11月5日)は開発が進む代々木の風景を克明に描いた写実的な作品ですが、坂道が坂道以上の意味を持って迫ってくる印象を受けました。真っ青に晴れた空に向かって赤茶けた険しい坂道が盛り上がり、明るい日差しを浴びる左手の石塀は奥行きが圧縮されて遠近感が強調されています。石塀は築かれて日が浅いのか白さが際立ち、逆光で影になっている向かいの暗い崖と対になっています。道を挟んで左側は人間の手による人工物、右側は切り拓かれる以前からの自然の山であり対峙する両者の静かな緊張感が感じられます。乾いた地面には雑草が生え始めている一方で、道端に立つ電柱の影も差していて、道の上で人と自然とが交錯していますが、せめぎ合う自然の生命力と人間の文明との対立とも共存とも受け取ることができそうです。世界の縮図のような一本の道は力強く上昇していて、未来に続いていることを予感させる作品だと思います。
人物画:《麗子肖像(麗子五歳之像)》(1918年10月8日)他
…1913年、「ゴッホの手法の感化」や「マチスの絵と理論」ではなく、自分の眼と頭で捉えた表現を模索していた岸田は、妻となる蓁との恋愛もあり人間への関心が特に高まったことも重なって、立て続けに肖像画を制作しています。例えば11月5日に《自画像》を描き、その翌日の11月6日には《清宮氏肖像》を描くなど、一日に一点油彩の肖像画を描いているような場合もあり、「首狩り劉生」と呼ばれたのも頷ける驚異的なスピードと集中力だと思いました。
…《黒き土の上に立てる女》(1914年7月25日)は、「大地とともに生きる女性」を描いた作品で、豊かな胸を開けて右腕に竹籠を携え、画面中央に堂々と立っている女性は妻の蓁がモデルだそうです。この作品が描かれた1914年の4月には娘の麗子が生まれているのですが、妻の姿は出産前のものなのか腹部に膨らみが見て取れます。竹籠は種が入っているのか、収穫物を入れるためなのかはっきりしませんが、出産=実りを暗示させる姿ですからあるいは収穫物を入れるためのものかもしれません。身重の妻の姿に裸足で大地を踏みしめる収穫と多産の象徴としての地母神を重ね合わせ、生命の豊かさ、力強さを表現した作品だと思います。
…《高須光治君之肖像》(1915年1月20日)は草土社展結成にも参加した画家の高須光治(1897~1990)の肖像画で、深い暗闇に沈む高須の姿が画面右側から差しこむ光によって浮かび上がり、眉根を寄せた沈痛な表情に一層ドラマチックな効果をもたらしています。肌の日焼けや染み、皺にいたるまで、高須の顔貌が極めて写実的に捉えられていますが、描かれているのは真摯に自己を見据える普遍的な人間の像です。岸田は後年、ルネサンス期の巨匠やデューラーなど「クラシックの感化」を受けた時期の自作を評価しなかったようなのですが、個人的には今回の展覧会の出品作の中でも特に強く印象に残った作品の一つです。
…岸田は愛娘・麗子の肖像画を数多く制作していますが、《麗子肖像(麗子五歳之像)》(1918年10月8日)はそのうちでも最初の作品です。ふっくらと丸みを帯びた赤みの差す頬や小さな手が子供らしく、櫛を通していない無造作な癖毛や右手に握られた犬蓼は麗子が手つかずの自然のように無垢な存在であることを感じさせます。一方で、つぶらな瞳は全てを見通しているかのように聡明な印象を与え、デューラーの肖像のように麗子をほぼ正面から捉えていることと合わせて、幼いキリストにも通じる気高さが感じられます。装飾的なアーチ型の枠に縁取られているのは母・蓁の肖像画《画家の妻》(1915年1月10日)とも共通していますね。古い歴史を感じさせるひび割れは壁龕に収まった由緒ある壁画を写した画中画のようでもあり、一人の少女の姿を通して時間が流れても変わることのない聖性を表現した記念碑的な作品だと思います。
静物画:《静物(手を描き入れし静物)》(1918年5月8日)他
…岸田劉生と言うと風景画や麗子像のイメージがあり、静物画は初めて見たのですが、私がこれまで目にしたことのある静物画の先入観が覆され、異色の静物画という印象を受けました。静物画のモチーフは作為を感じさせないようにバランスを考慮しつつ無造作に並べられたり、器に盛られたりすることが多いと思うのですが、壷の口に林檎が置かれている《壷の上に林檎が載って在る》(1916年11月3日)や《林檎三個》(1917年2月)の均等に三つ並んだ林檎などは、まずその意表を突いた構図に引き込まれます。一見奇を衒った構図なのですが、対象を描きつつ寓意を踏まえていたり、あるいは色彩や形体の構成に関心の重きがあったりする作品とは異なり、画家の視線はむしろ対象自体にまっすぐ向かっていて、どうしてそれが、そこにそのようにあるのかという根本的な疑問や違和感が際立ちます。こうした作品の背景には、1916年7月に肺病と診断(実際は誤診だったそうです)され療養していた岸田の、自身が生きてこの世界に存在することや、人生の意味への問いがあるのでしょう。《二つの林檎》(1916年9月26日、1923年焼失)を描いた岸田は、「この二つの林檎を見て 君は運命の姿を思はないか 此処に二つのものがあるといふ事 その姿を見つめてゐると 君は神秘を感じないか それは美だ、在るといふ事の美だ。美は神秘の形だ」という言葉を書き残しています。岸田の静物画からは存在の神秘に迫り、物そのものを捉えようとする研ぎ澄まされた精神が感じられるように思います。
…《静物(手を描き入れし静物)》(1918年5月8日)では赤い林檎と白い器、左側の赤いカーテンと右側の紺のカーテンが対になり、ほぼ左右対称に構成されたモチーフのなかで、画面右奥にぽつんと置かれた1個の林檎のみが逸脱しています。現在は消されていますが、当初は濃紺のカーテンの陰から現れた右手が描かれており、1918年の第5回二科会展に本作を出品したところ「マジックのやうだ」、「悪趣味」などと評されて落選してしまったのだそうです。描き入れられた手は林檎をテーブルに並べる途中だったのでしょうか、テーブルから取り去るところだったのでしょうか。あるべきところにあるべきものをあるべきように配するのは神の手なのかもしれません。存在の神秘の背後にある、人知の及ばぬ意図を表現しようとした作品だったのだろうと思います。