展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

マティス展 感想

【会期】

…2023年4月27日~8月20日

【会場】

東京都美術館

【感想】

…会期中盤の週末に朝一番の時間帯で入場しましたが、入り口に待機列が出来ていて、展示室内もかなり混雑していました。ただ、11時半に会場を出る頃には入り口も空いていて待ち時間なしで入場できていたようなので、時間帯を工夫すればゆっくり見られそうです。会場は地階→1階→2階の順で作品は年代順に展示され、1階の展示室は撮影が可能でした。
…出品作はすべてマティスの作品で、ポンピドゥー・センター所蔵の油彩画を中心に、マティスの活動期間全体に渡ってドローイング、彫刻作品、晩年の切り絵作品やヴァンス・ロザリオ礼拝堂に係るデザインなどが展示されていました。ドローイング作品は一本線で軽く輪郭をなぞった陰影のない作品が多く、洒脱な印象を受けます。ゴッホの作品に刺激を受けたマティスは、直接的な感動を喚起する表現を目指したそうです。物語を説明したり隠された意味を象徴する手段としての絵画ではなく、線と色が自立して力を持つ表現を目指すことは、必然的に画面を単純化するでしょう。しかし、マティスは絵画という表現が生まれる原点に迫りながらも、一方でイメージを放棄せず踏みとどまっています。生き生きとした軽妙な線は選び抜かれた一本であり、膨大な試行錯誤の帰結なんですね。その作業の困難さを押しつけないところにマティスのすごさの一端があるのではないかと思いました。

マティス《パイプをくわえた自画像》1919年

マティスフォーヴィスムを代表する画家の一人ですが、出品作には激しい色使いの作品はむしろ少なかったと思います。フォーヴィスムの運動期間自体が短く、マティスの長い画業のなかではあくまで通過地点でもあるのでしょう。《豪奢、静寂、逸楽》(1904年)は女性たちが思い思いのポーズで寛ぐ海辺の情景が描かれていますが、その姿は散乱する眩い光に紛れて溶け込み、むしろ光そのものが主役のようです。その三年後に制作された《豪奢Ⅰ》(1907年)では光が後退し、海から上がったヴィーナスと、花束を捧げ持ち足を拭く侍女たちの輪郭が浮かび上がっています。豪奢というタイトルは、贅沢な衣装や宝飾品にも勝る豊かな肉体を賛美しているのでしょうか。一方で、空や海の淡い色調からは不安や迷いも感じられる作品です。《アルジェリアの女性》(1909年)ではもはや特定の光源はなくとも色そのものが明るく輝き、アフリカ美術の影響が感じられる女性の顔は粗削りで力強い線に象られています。会場で見たときは赤い絵だと思ったのですが、改めて見直したところ赤よりむしろ緑のガウンの占める面積の方が大きいのが意外でした。補色の効果、そして赤という色のパワーを感じる作品です。
…《緑色の食器戸棚と静物》(1928年)はセザンヌの作品を彷彿させられる静物画で、立体感や奥行きに対する明確な意識が見て取れます。画面左手前から右奥に向けて差し込む光、交差する対角線上に配置された左奥のテーブルクロス、リンゴの載った皿、手前に置かれたナイフ。画中では上からの視点と正面からの視点が交錯して微妙な歪みがあり、リンゴの載った皿は傾いて今にもテーブルから落ちそうにも見えます。

マティス《緑色の食器戸棚と静物》1928年

一方、《マグノリアのある静物》(1941年)は花瓶や壷、貝、鉢植えなどが赤い画面のなかで浮遊しているように見えます。水平線や垂直線がなく空間が曖昧なためで、マグノリアの背後に描かれた円形の物体によってかろうじて相互の位置関係を掴むことができます。この円形の物体、どうやら鍋らしいのですが、他のモチーフがほぼ側面から描かれているのに対して、これだけは上から描かれています。四角く限られたカンヴァスの中央に、起点も終点もない無限の象徴である円が描かれているのも示唆的だと思いました。

マティスマグノリアのある静物》1941年

《黄色と青の室内》(1946年)は画面が青と黄色に塗り分けられ、色彩が物体の輪郭を透過しています。画面左下、手前の四角いテーブルと画面右上、部屋の奥の掃き出し窓の青が対になっていますね。線が象るモチーフの形を追いかけることをやめると、次第に左上から右下にかけての黄色の色面が浮き上がって見えてきます。色面のピースとピースを組み合わせたコラージュのような作品だと思いました。

マティス《黄色と青の室内》1946年

マティスの風景画はアトリエの窓から見た作品が多く、しばしば室内画と連続しています。《金魚鉢のある室内》(1914年)では中から外を眺める窓と外から中を眺める金魚鉢、窓や椅子を構成する直線と円筒形の鉢や紡錘形の金魚、視線を隔てる壁と視線を遮らない透明なガラスという幾つもの対比が組み合わせされていて興味深いです。《コリウールのフランス窓》(1914年)は室内というより窓そのものが主題で、必要最小限の要素で構成されています。外が黒く塗りつぶされているのは第一次世界大戦の最中で、社会も画家自身の心情も重く塞がれていたためでしょう。《アトリエの画家》(1916~1917年)では紫の椅子に座るモデルが緑のドレスを着ているのに対して、カンヴァスの前の画家のほうが服を着ていません。光の当たる白い部分と黒い影とに二分された室内はそれぞれ外部と内部に対応しているのでしょうか。作品を制作する過程で露わになるのはむしろ画家自身なのかもしれません。
…《赤いキュロットのオダリスク》(1921年)では頭の後ろで手を組み、挑発的なポーズで物憂げに寝そべるオダリスクが描かれています。人物を描く場合に最も関心が払われるのは顔だと思うのですが、この作品の構図はモデルの女性が正面=鑑賞者に足を向け、頭部が画面の奥に小さく描かれているのが面白いです。床に敷かれた真っ赤な絨毯、アラベスクや縞模様で華やかに装飾された調度品がほぼ平坦に描かれているなかで、オダリスクのはだけた白い胸だけが生身の陰影を伴っていて一層引き立ち、官能的な印象を受けます。

マティス《赤いキュロットのオダリスク》1921年

この作品とちょうど真逆の構図で描かれているのが1935年制作の《夢》で、今回の展覧会で個人的に最も惹かれた作品でした。夢、というタイトルにピカソの《夢》(1932年)を思い出したのですが、年代的にはマティスのほうが少し後なので、マティスピカソの作品を知っていたかもしれませんね。ピカソの作品ではまどろみの中で微笑むマリー・テレーズにピカソの欲望が融合していてなまめかしく、画面の外の画家の存在に言及するメタ的な表現になっていますが、マティスの《夢》は完結、自立した静謐な作品で、格子柄の青いシーツに俯せるリディア・デレクトルスカヤは安らいだ表情で目を閉じています。線はリディアの輪郭を繊細になぞり、夜の闇に浮き上がるバラ色の肌は月光のように仄かな輝きを放っています。色も線も優しく、見ていて穏やかな心地になる作品だと思いました。

マティス《夢》1935年

 

憧憬の地 ブルターニュ展 感想

【会期】

 2023年3月18日~6月11日

【会場】

 国立西洋美術館

【感想】

…フランス人にとっての内なる異郷、ブルターニュ。他者の発見は自己の再定義でもあり、ノスタルジーとエキゾチシズムの入り交じった眼差しが捉えた内なる他者は、実体をもって立ち現れた自己の無意識であるがゆえに画家たちを引きつけたのでしょう。科学や技術の目覚ましい発展によって社会や生活が激変した19世紀は、文化や歴史といった民族的なルーツを問い直すタイミングだったのだろうと思います。神秘的な森、牧歌的な田園、アルカディアとしての海。厳しい自然と劇的な風景、風変わりな衣装を着た敬虔な人々の素朴で慎ましい日常とロマンを掻き立てる古風な習俗。この展覧会では画家たちにインスピレーションを与えてきたブルターニュの魅力の一端を知ることができました。

オディロン・ルドン《バラ色の岩》(1880年頃)

ブーダンの作品は風景の全体像、スケール感、なかんずく空の広がりを捉えようとしています。ブーダンと比べてみると、モネの作品はより興味のあるモチーフの表情に比重があり、安定した構図から抜け出して対象へと吸い寄せられる画家の視線が感じられます。徹底して緻密な点描によるシニャックの作品は静的で、装飾的ですらありますが、のちの時代のスケッチでは厳格な理論から解放された闊達な筆致が水辺の景色の瑞々しさを捉えています。いずれも生彩に富み、刻々と移ろう一瞬を切り取った臨場感が共通しているのに対して、ルドンの風景画はまるで時間が止まっているようなある種の遠さ、画面と画家の間の隔たりが感じられます。ごく控えめなサイズのカンヴァスに描き留められた風景は幾重にも堆積したイメージから抽出された記憶の断片か、日付のない写真のようでもあります。しかし、荒涼とした風景と呼応するルドン自身の心象を描いているという点では、逆にこれほど画家に近い作品もないかもしれません。

ポール・ゴーガン《海辺に立つブルターニュの少女たち》(1889年)

…この作品を前にした時、最初に目に付いたのが少女たちの大きな足でした。裸足の子供は靴、すなわち文明化されて大地から切り離される以前の無垢な人間の姿と言えるでしょう。少女たちの背後では剥き出しの地面の赤と斜面の緑、海の青の対比が鮮やかです。断崖に立つ少女たちは、急速な技術の進歩や都市化によって追い詰められているようにも見えます。しかし、怯える少女の手を取る左端の少女の横顔には毅然とした意志が感じられます。大地を踏みしめる少女たちの大きな足は、自然に根ざす人間本来の力強さを秘めているのです。少女たちが画家=鑑賞者に向ける眼差しは余所余所しく緊張感がありますが、他者の安易な接近を拒絶し、対峙することで野生の気高さを保っているのかもしれません。彼女たちの足元に咲く可憐な野の花は素朴さをとどめるブルターニュとこの地に生きる人々に対する画家の慈しみが込められているように思われました。

ポール・セリュジエ《急流のそばの幻影、または妖精たちのランデヴー》(1897年)

…花を撒きながら森を横切る妖精たちの行列と、対岸で恭しく手を合わせて頭を垂れ、跪く老若男女。両者を隔てる木立と川は人間界と妖精界、物理的な現実とスピリチュアルな幻想という異なる次元の結界の役割を果たしています。人間たちは幼子、若い女性、壮年の夫婦、老女と人生のそれぞれの段階を象徴する姿で描かれています。一方で、中世風の衣装を纏った妖精たちはいずれも若く美しい女性であり、永遠の時を生きる超越的な彼岸の住人として有限な存在である人間と対比されています。この作品に描かれたブルターニュの鬱蒼とした森は、現実と幻想が両立する神秘的な空間です。未知の異郷は日常から地理的に遠ざかるにつれスピリチュアルな領域へ接近し、奇跡の舞台に変容したのでしょう。

モーリス・ドニ《水浴》(1920年)、《花飾りの船》(1921年)

…ドニはブルターニュの浜辺に古代ギリシャ・ローマを重ね合わせて、大らかで開放的な楽園を描きました。《水浴》や《花飾りの船》では、古代的な肉体美と流行の服を着てレジャーを楽しむ同時代の日常とが同居する祝祭的な世界が明るく華やかな色彩で表現されています。波立つ海は生命の揺籃であり、無垢な裸体の乱舞は原初の豊かな生命力を讃えているようです。

シャルル・コッテ《聖ヨハネの祭火》(1900年頃)、《悲嘆、海の犠牲者》(1908年~09年)

…聖ヨハネの前夜祭は、ヨーロッパの各地で見られるキリスト教の洗礼者ヨハネの記念日と土着の太陽信仰に由来する夏至祭とが結びついた祭りです。冬至とキリストの誕生日が結びついたクリスマスとちょうど対になっているんですね。《聖ヨハネの祭火》では夜の闇の中でたき火を囲む女性たちが描かれています。この作品の舞台は航海の難所として知られるウェサン島で、この島を特徴づける断崖が闇の中にかすかに伺われます。赤々と照らし出された女性たちは魅入られたように炎を見つめていて、古代ケルトの祭儀を彷彿させますが、敬虔な人々はキリスト教が浸透する以前から静かに祈りを捧げ続けてきたのでしょう。個人的には「燃ゆる女の肖像」という映画の印象的な一場面を思い出しました。
…シャルル・コッテは、過酷な自然と共に生きる人々の悲しみを暗い色調で描きました。同じブルターニュでも、太陽に照らされたドニの明るい楽園と真逆の側面を見出している点が興味深いです。コッテの代表作《悲嘆、海の犠牲者》は、鉛色の空のもとに集う人々の黒い服、狭い入り江に犇めく暗褐色の屋根の中にあって鮮やかな赤い船の帆がとりわけ目を引きます。林立する船の帆は殉難者たちの墓標でしょうか。横たわる漁夫の亡骸と天を差す船のマストがなす垂直の構図が厳粛な画面を作り出しています。漁夫を悼む人々は青ざめた亡骸を取り囲んで泣き崩れ、天を仰いで慟哭し、あるいは悲しみを堪えてじっと手を組み佇んでいますが、感情の渦の中心にあって亡くなった漁夫からは苦悶や悲嘆を超えた静謐な崇高さが感じられます。暗い空は人々の心の中を吹き荒れる嵐と、波のない海は死者の永遠の眠りと呼応しているのかもしれません。海に生きる人々の背負う宿命を描いた作品と言えるでしょう。この作品を見て私はジョットの《死せるキリストへの哀悼》を思い浮かべたのですが、伝統的なキリスト教の図像に則って近代的主題を描くことで、新しい主題に伝統の格式を与えているとも言えますし、伝統的な形式を新しい主題で再生しているとも言えるでしょう。名もなき一人の漁夫の痛ましい死がキリストの犠牲のような神聖さを帯びていて、クールベの挑戦的な《オルナンの埋葬》(1849年~50年)からここまで辿り着いたのだと思いました。

ブルターニュを訪れた日本人画家たち】

…久米桂一郎の作品は画面を照らす明るい光が印象的でした。「西洋文明」のイメージである花の都の繁栄とは一線を画した、鄙びた農村で労働に勤しむ敬虔な人々の姿に画家は親しみを感じたのかもしれません。
斎藤豊作の《夕映の流》(1913年)、《初冬の朝》(1914年)は屏風のように横長の作品です。画面の中心を占めるのはいずれも川ですが、急流の多い日本の小規模河川と異なる緩やかな大河が興味を引いたのでしょうか。日の出と共に出かけて、夕暮れ時に家路に着く羊飼いと羊たちはゆったりと流れる時間を生きているようです。
…金山平三《ケルゴエスの宿》(1912年)はやや慎重な筆運びで初々しさがありますが、印象派のきらめく眩い光に満ちていて個人的に気に入った作品です。
岡鹿之助の描く海辺の家はメルヘンチックで可愛らしいのですが、辺りに人影はなく白日夢のようにひっそりとしています。フランスの画家たちの堅牢なマチエールに打ちのめされた岡の転機となったのが1926年のブルターニュ滞在で、同年に制作された作品ではぼかした濃淡ですっきりとシンプルな輪郭を浮き上がらせつつ、淡く繊細な筆致で海辺の村の静けさを写し取っているのが印象的でした。

メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年 感想

会期

…2022年2月9日~5月30日

会場

国立新美術館

構成

Ⅰ 信仰とルネサンス:17点
Ⅱ 絶対主義と啓蒙主義の時代:30点
Ⅲ 革命と人々のための芸術:18点

感想

…この展覧会はアメリカ・ニューヨークのメトロポリタン美術館の改修工事に伴うもので、メトロポリタン美術館の所蔵する2,500点余りのヨーロッパ絵画部門のコレクションから65点が来日、そのうち46点は日本初公開となっています。メトロポリタン美術館の開館は1872年2月ですからちょうど150周年を迎えたんですね。出品作を見ると、いずれ劣らぬ巨匠の名がいくつも見当たり、「さすがメット」と言うべき豪華なラインナップとなっています。
…クリヴェッリの《聖母子》(1480年頃)に描かれたマリアは陶器のような滑らかさと冷ややかさがあり、幼子イエスも大人のような顔つきで、人間離れした存在であることが感じられます。硬質かつ緻密な描写で、聖母子の光輪は宝石で縁取られた華麗なものです。だまし絵のような立体感があり、少し離れて見るとより実感できます。
…ピエロ・ディ・コジモ《狩りの場面》(1494~1500年頃)は獣と獣、人あるいはサテュロスと獣とが互いに組み合い、闘い、喰らい合う強烈な作品です。背後の鬱蒼とした森の中から火の手が上がっていますが、火は動物にとっても人間にとっても脅威であると同時に、文明の原点、象徴でもあります。ルネサンス人文主義ヒューマニズム)は「人間らしい」肉体や感情表現を受け入れ、理想化して描いたイメージがあるのですが、この作品は原始的な荒々しさに満ちていて特異な存在感を放っていました。
クラーナハ(父)による《パリスの審判》(1528年頃)は、今回の展覧会で個人的に是非見たかった作品の一つです。ヘラ、アフロディテ、アテナというギリシャ神話の三人の女神が美を競うという主題で、帽子や真珠の髪飾り、大ぶりのネックレスなどの装飾品が女神たちの白い肌を一層引き立て、ほっそりと優美な裸身の官能性を強調しています。本来、ヘラはゼウスの妻で家庭の守護神、アフロディテは美と愛の女神、アテナは武の女神にして智の女神と、三者それぞれに個性的なのですが、この作品では三つ子のように似ていて三美神、あるいは一人の女性の三つの姿のようにも見えます。横顔、正面、後ろ姿とあらゆる角度から描かれた女性美の三位一体といったところでしょうか。銀の甲冑を身に纏ったトロイアの王子パリスが目覚めた森の背後には、険しい岩山とその上に建つ城館、遠くかすむ湖と街というドイツの山岳風景が広がっています。田園で遊ぶ紳士とニンフを牧歌的に描いたティツィアーノ《田園の奏楽》を北方風にアレンジするとこうなるかもしれないと思いました。
エル・グレコ《羊飼いの礼拝》(1605~10年頃)は劇的で神秘的な作品です。画面中心のイエスはこの空間を照らし出す光の源であり超越的な存在であることが窺われ、奇跡が具現化する別次元の世界を幻視するような感覚を覚えます。ルーベンス《聖家族と聖フランチェスコ、聖アンナ、幼い洗礼者聖ヨハネ》(1630年代初頭/中頃)はルーベンスらしく豪奢で流麗な作品です。畏まらず、世俗にも寄りすぎず貴族的で、華やかさや豊かさが画面を満たしています。ルーベンスのすぐ隣に展示されていたムリーリョ《聖母子》(おそらく1670年代)は質素でより身近な印象です。我が子を気遣う母の細やかで深い情愛と無邪気な子供のあどけなさが表現されていて、人間的な親密さが感じられました。
…サルヴァトール・ローザは今回の展覧会で初めて名を知った画家で、教養があり詩人で俳優でもあったそうです。しかし、《自画像》(1647年頃)でローザが戴く冠は詩人のアトリビュートである月桂樹でなく死の象徴である糸杉で、手にしたペンで髑髏に「やがて いずこへ 見よ」と記しています。肉体や名声の儚さを憂い、生の喜びに耽溺せず理性的に振る舞うよう戒める内省的な作品ですが、一方で、ローザが俳優であることを踏まえると舞台仕立てに装って「死」を演じているようにも見えてきます。死を想念する自分自身すらも芝居じみている、と突き放して超然とした自我の確立を求めていたのかもしれません。
…シモン・ヴーエの《ギターを弾く女性》(1618年頃)を目にした時は一瞬カラヴァッジョの作品かと思いました。実際、ヴーエはカラヴァッジョの影響を受けていて、劇的な明暗や官能性に相通じるものを感じます。そのカラバッジョの《音楽家たち》(1597年)は、今回の展覧会の個人的な見所の二つ目でした。青年たちが古代風の衣装を身に纏い、楽譜を広げリュートを奏でていますが、当時カラヴァッジョのパトロンだったデル・モンテ枢機卿の館ではこうした音楽会が頻繁に開かれていたそうなので、それに着想を得たのでしょう。カラヴァッジョは奇跡を現実的に描く画家ですが、ここでは肉感的、蠱惑的で両性具有的な美青年たちに羽のあるキューピッドが何気なく紛れています。翼以外に青年たちとキューピッドを区別するものはなくまるで同等の存在で、青年たちは生身を持つ天使のようであり、もしくは青年たちの天使性を描いているようにも思われます。キューピッドが手にしているブドウはディオニュソスアトリビュートでもありますが、リュートを手にした青年のうっとりと浸る表情は愛と音楽が共に人を酔わせ、陶酔をもたらすものであることを示唆しているのかもしれません。
レンブラントの《フローラ》(1654年頃)は個人的にこの展覧会で一番見たかった作品です。本作はウフィツィ美術館所蔵のティツィアーノ《フローラ》(1515~17年頃)から着想を得たとされています。しかし、ティツィアーノのフローラが肌着姿で半ば胸を開け、金髪を長く垂らし誘うような微笑みを浮かべていて、春と花の女神であると共に高級娼婦であることが示唆されているのに対して、レンブラントの《フローラ》は同じように花を差し出しているもののより控えめで、寓意画や美人画にしてはリアルな個性があります。慎ましいドレスと小さな赤い花で飾られた帽子という牧歌劇(アルカディア)風の装いは、汚れない魂と真の素朴さを象徴しています。女性が身につけている耳飾りやネックレスの真珠も無垢や純潔の象徴ですね。本作はドイツのカッセル美術館《サスキアの横顔》(1633/34~42年頃)によく似たポーズと横顔であり、レンブラントの人生の春を彩った亡き妻サスキアを偲んでいるように思えます。一方で、ちょうどこの作品が描かれた頃、レンブラントの事実上の妻はヘンドリッキェでしたが正式な結婚をしていなかったため、1654年6月にヘンドリッキェは教会から呼び出されてレンブラントとの関係を咎められています。そうした背景を踏まえるとレンブラントが自身の後半生に寄り添ってくれた伴侶ヘンドリッキェを弁護しているようでもあります。あるいはその両者も含め、レンブラントにとって生きる喜びと魂の豊かさをもたらしてくれる普遍的な女性像であると考えるのが良いのかもしれません*1
…ヴァトーの《メズタン》(1718~20年頃)は叶わぬ恋を追い求める道化師の切なさ、もの悲しさが感傷的になりすぎずに伝わってきます。通常メズタンの衣装は赤と白とのことですが、この作品では緑と赤で、マントやターバンの赤と鬱蒼とした緑の森との対比と呼応しています。フラゴナール《二人の姉妹》(1769~70年頃)は人形遊びをしている幼い姉妹が描かれていて、子供の可愛らしさやパステルカラーの色彩には砂糖菓子のような甘やかさが感じられ、まさにロココらしい作品でした。ブーシェ《ヴィーナスの化粧》(1751年)は身繕いする流し目のヴィーナスが描かれた装飾的な作品です。実際、この作品はルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人の居城ベルヴュー城にある「湯殿のアパルトマン」の扉を飾っていたそうです。
…美術批評の祖であるディドロが称賛したシャルダンとグルーズの作品が隣り合わせで展示されていたのは印象的でした。甘美なロココ美術全盛期に活動した両者ですが、彼らは共に庶民の日常を主題とする作品を多く残しています。グルーズの作品には一目で分かる雄弁な物語性が伺えるのに対して、シャルダンはより控えめで穏やかです。また、グルーズの古典主義的で明晰な描写に対して、シャルダンは光の効果や色彩により関心があるように感じられました。
…グアルディの《サン・マルコ湾から望むヴェネツィア》(1765~75年頃)は、ヴェネツィアの名所であるサン・マルコ大聖堂ドゥカーレ宮殿などを正確に、克明に描くにとどまらず、港に浮かぶ貨物船やその間を行き交うゴンドラで賑わう活気に満ちた海港都市としての姿を捉えています。一方、ターナーの《ヴェネツィアサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂の前廊から望む》(1835年頃)は海と空、船影と水面、水面に映る建物と陸の境が溶け合い陽光の中で揺らめき、風景そのものよりも光の効果や空気感、実体と鏡像の融合に関心があるように見えます。
…ジェロームの《ピュグマリオンとガラテア》(1890年頃)は白い大理石の彫刻から生身の女性に変化する途上のガラテアが、色彩と質感のグラデーションで表現されていました。創作物に命を吹き込むことは芸術家の夢ですよね。
ゴヤの《ホセ・コスタ・イ・ボネルス、通称ペピート》(1810年頃)は、ふっくらとした顔立ちのまだ幼い少年が大きすぎる帽子を手に堂々と立つ肖像画です。制作当時、スペインはナポレオン軍と戦っていて、少年の帽子は兵士のもの、背景に置かれたおもちゃの馬や太鼓、そして銃も時代背景を感じさせます。それらを踏まえて見ると兵士の装いで勇む少年のあどけなさがより強調されるようでもあり、凜々しく結ばれた口元に子供ながら強い決意を秘めているようにも思われます。緑の上着と帽子の赤い羽根が対比され、少年の衣服の質感が生き生きとした筆遣いで捉えられている作品です。一方、スペイン独立戦争の相手国でもあったフランスのマネは、ベラスケスやゴヤなどスペイン絵画から少なからず影響を受けました。《剣を持つ少年》(1861年)は上述のゴヤの作品と比べるとより説明性が省略され、平面的でモダンになっています。少年は自分の身体には大きすぎるサーベルを抱えていますが眼差しはひたむきで、そんな少年を見守る画家の親しみが感じられます。茶褐色と黒が主体の画面のなかで少年の大きな白い襟と青い靴下が一際目を引き、洗練された色彩感覚がマネらしい作品だと思いました。
シスレーヴィルヌーヴ=ラ=ガレンヌの橋》(1872年)はパリの北にあるセーヌ川沿いの村ヴィルヌーヴ=ラ=ガレンヌの風景を描いた作品で、綿のような白い雲の浮かぶ明るい空が印象的です。青空と緑の土手が映りこんだ川面には船が浮かび、さざ波はやや大きめの点描で軽やかに描かれています。降り注ぐ夏の日差しに川岸の家並みは隈無く照らされ、吊り橋のたもとの日陰では恋人たちが寄り添って涼んでいます。穏やかな気配とゆったり過ぎていく時間が安らぎをもたらし、平凡な日常こそかけがえのない幸福であることを改めて思い出させる作品だと思います。

*1:レンブラントと巨匠たちの時代」(伊勢丹美術館)1998年、P28

没後50年 鏑木清方展 感想

会期

…2022年3月18日~5月8日

会場

東京国立近代美術館

構成

第1章 生活をえがく
 特集1 東京
第2章 物語をえがく
 特集2 歌舞伎
第3章 小さくえがく

kiyokata2022.jp

感想

…今回は昨年開催された「あやしい絵」展(国立近代美術館)に出品されていた鏑木清方の作品に惹かれて観に行きました。清方の作品は一般的なイメージにある日本画らしい日本画で、奇をてらわず、綺麗なものを素直に綺麗に描いているところが個人的に好みです。私は西洋美術の油彩画をよく見るので、それに比べると日本画は淡く繊細で、儚い印象を受けます。色彩に濁りがないのに原色のどぎつさはなく、透明感さえ感じます。また、清方は自身の幼年時代から青春時代に当たる明治時代への郷愁を抱いていて、「良い時代だった」と語っています。当時の習俗や日本文学、伝統芸能に詳しいと、描かれた作品の文脈をより深く読み取ることができて面白いのだろうと思いました。
…私は一度しか行けなかったため、展示替えで見逃した作品も多いのですが、代表作《築地明石町》(昭和2[1927]年)、《新富町》(昭和5[1930]年)、《浜町河岸》(昭和5[1930]年)は通期展示で、三点合わせて見ることが出来ました。《築地明石町》の女性は左手薬指に金の指輪を嵌めていますが、結婚指輪が日本に入ってきたのは明治時代、定着したのは大正時代以降だそうです。図録には下絵も収録されていて、うっすら背景に浮かぶ船や朝顔の絡む垣根、女性の等身などがバランスを考慮して綿密に配置されているのが分かります。僅かに覗く道行の裏地と下駄の鼻緒の赤が落ち着いた色合いに華を添えています。少し肌寒い初秋の朝なのでしょうか。実際に見た時は気づかなかったのですが、図録の表紙を見ると女性の瞼や目の下に線が入っていて、目の周りが窪んでいることが表現されているんですね。夏の名残をとどめて咲く足元の朝顔はたった一日で萎んでしまう花、しかも根本の葉から枯れ始めていて、翳りゆく人生の夏を象徴しているのかもしれません。愁いを帯びた妙齢の既婚女性は何を思って振り返っているのか、様々に想像を重ねて見ることが出来る作品だと思います。
…《露の干ぬ間》(大正5[1916]年)は青と緑を基調とした六曲一層の屏風で、目にも涼やかな作品です。朝顔や露草、紅花といった夏の草花の中で佇む女性は帯を前で結んでいるので、寝起きの浴衣姿のまま朝露に濡れた庭で寛いでいるのでしょう。女性は団扇の柄を口に咥え、項を掻き上げていて垣間見える白い二の腕から匂い立つような色気が醸し出されています。鏑木清方は明治時代への郷愁を強く抱いていたそうですが、描かれた女性たちの多くは髷を高い位置で結い、大きな櫛や簪で飾っていて明治よりさらに前の江戸時代の名残を感じさせます。伝統的な日本髪と着物の襟の狭間からのぞく項に対する清方の拘りには、古き良き時代への愛着が込められていたのかもしれないと思いました。
…《雪粉々》(昭和12[1937]年)では軒下に佇む女性がちらつく粉雪を見上げています。綿入れを着た女性は凍える寒さに肩を窄めていて、握り合わせた手の爪や着物の裾からのぞく足の爪には血の気が差して仄かに色づいています。雪雲に覆われた空を思わせる鈍色の袷に氷のような色の中着を重ねていて、色合いも冬らしいです。主題の雪はあくまで添える程度、でも仕草や服装、色合いに様々なサインが施されていてそれらを丁寧に読み解いていく面白さがあります。また、この作品を見た時、灰色、水色の着物に黄土色の帯という組み合わせ、落ち着いた地味な上着と襦袢の可愛らしさというギャップなどお洒落な装いに感心してしまいました。洋服でも柄物と柄物を合わせるのは難しいですよね。よく研究しているなと思いましたし、和装の美意識が感じることができました。
…季節を象徴する庶民の生活の一場面を月ごとに描いた《明治風俗十二ヶ月》(昭和10[1935]年)は現代の私にとってもピンとくる作品もあれば、そうでない作品もあります。三月に《けいこ》が描かれている理由を考えてみたのですが、かつて江戸時代の富裕な庶民は娘が武家奉公できるように踊りや三味線など芸事を習わせていたそうです。武家奉公はすなわち花嫁修業であり、時代が明治に変わっても将来のため、女性のたしなみとして音楽などの稽古をする習慣が定着していたのでしょう。三月は別名弥生、草木が芽吹き生命力がいよいよ増す季節であり、桃の節句もありますから、そこに少女の成長を重ねたのかもしれません。九月の《二百十日》は題名の通りで、急いで物干し台に上がってきた女性が心配そうに空模様を眺めています。吹き荒れる野分に木の葉が舞い、洗濯物ははためき、鉢植えが倒れていますね。女性は嵐の訪れに備えつつ、無事に過ぎ去ってくれることを祈っているようです。十一月の《平土間》に描かれているのは歌舞伎を見物に来た女性たち。江戸では毎年十一月になると、新たな役者の顔触れによる座組で歌舞伎の興行が行われたそうで、そうした伝統は現代まで続いているようです。特に最初の興行である「顔見世興行」は一年のうち最も重要な興行で、十一月一日は芝居正月とも言われたとのこと。客も役者も、この日を楽しみに待っていたことでしょう。季節感、生活感、そして情感のこもった連作だと思います。
…《いでゆの春雨》(昭和18[1943]年)は髪が崩れないように白い手拭いで結わえた女性が、欄干に凭れてそぼ降る雨に打たれる桜を眺めつつ僅かに口を開き、ぼんやりと物思いに耽っています。女性のお納戸色をした着物の柄も桜ですね。湯上がりの女性の目元や耳朶はほんのり上気して色づいています。しっとりとして艶やかな風情の作品ですが、当時の世相に流されずあくまで己の愛する世界を表現し続けた清方の信念もこめられているのでしょう。
…理想化されて、いずれも似通ったたおやかな美人画の女性像と比べると、《一葉》(昭和15[1940]年)は対象である樋口一葉の個性的な顔立ちや人柄、感情がはっきりと表現されています。解説によると本作は一葉の随筆《雨の夜》の一節に拠るもので、一葉は伯母に裁縫を教わった昔を懐かしんでいるそうですが、思い詰めたような目つきや固く結ばれた口元からは単に思い出を辿っているというより、きっぱりとした決意のようなものが感じられます。あるいは創作の手がかりを得た瞬間なのでしょうか。描かれた当時の一葉は代表作「たけくらべ」を執筆していたそうなので、厳しい表情や鋭い眼差しは、一瞬の閃きも逃さず捉える小説家としての一葉の顔のようにも思われます。清方は表現者、芸術家として創作の苦悩と情熱を抱きつつも一途に打ち込む姿に自身の思いを重ねていたのかもしれません。

2022年見に行きたい展覧会

…場所は東京近郊、ジャンルは西洋美術が中心です。
国立西洋美術館 2022年4月9日リニューアルオープン予定
横浜美術館 2021年3月~2023年 大規模改修工事のため休館中
パナソニック留美術館 2022年12月19日~2023年4月上旬まで改修工事のため休館予定
…Bunkamuraザ・ミュージアム 2023年春~ 大規模改修工事のため休館予定

ドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展

…1月22日~4月3日→2月10日(木)開幕へ変更
東京都美術館
…修復されたヨハネス・フェルメールの《窓辺で手紙を読む女》(1657~59年頃)を展示、所蔵館以外での公開は世界初57~59年頃)を展示、所蔵館以外での公開は世界初
レンブラント、メツー、ファン・ライスダールなどオランダ絵画の黄金期を彩る作品約70点で構成を彩る作品

メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年

…2月9日~5月30日
国立新美術館
アメリカ・ニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵する15世紀の初期ルネサンス絵画から19世紀のポスト印象派の作品まで65点(うち46点は日本初公開)を展示
…カラヴァッジョ《音楽家たち》(1597年)、フェルメール《信仰の寓意》(1670~72年頃)など

ミロ展――日本を夢みて

…2月11日~4月17日
…Bunkamuraザ・ミュージアム
…スペインの巨匠ジュアン・ミロ(1893~1983)と日本のつながりに着目、日本では20年ぶりの回顧展、約130点の作品と資料を展示
…代表作《絵画(カタツムリ、女、花、星)》(1934年)が56年ぶりに来日

没後五〇年 鏑木清方

…3月18日~5月8日
…国立近代美術館
…没後五十年となる鏑木清方(1878~1972)の回顧展、約110点の日本画作品で構成
…三部作《築地明石町》(1927年)、《新富町》(1930年)、《浜町河岸》(1930年)は全会期展示

シダネルとマルタン

…3月26日~6月26日
…SOMPO美術館
…「最後の印象派」と呼ばれたアンリ・ル・シダネル(1862~1939)とアンリ・マルタン(1860~1943)に焦点を当てた国内初の展覧会、油彩画・素描・版画約75点で構成

イスラエル博物館所蔵 ピカソ――ひらめきの原点

…4月9日~6月19日
パナソニック留美術館
イスラエル博物館の所蔵するパブロ・ピカソ(1881~1973)の版画作品を中心に、油彩画・ドローイング・写真を展示

スコットランド国立美術館 THE GREATS 美の巨匠たち

…4月22日~7月3日
東京都美術館
ルネサンス期から19世紀後半までの西洋絵画史を代表する画家たちの作品、及びイングランドスコットランド絵画を合わせて展示

ゲルハルト・リヒター

…6月7日~10月2日
…国立近代美術館
現代アートの巨匠、ゲルハルト・リヒター(1932~)の生誕90年、画業60周年を記念する個展、
…近年の最重要作品である《ビルケナウBirkenau》(2014年)をはじめ、画家の手元に保管されてきた作品を中心に構成

ルードヴィヒ美術館展 20世紀美術の軌跡――市民が創った珠玉のコレクション

…6月29日~9月26日
国立新美術館
…ドイツ・ケルン市の運営するルードヴィヒ美術館は20世紀から現代までに特化した美術館
ドイツ表現主義新即物主義ピカソロシア・アヴァンギャルド、ポップ・アートなどの絵画・彫刻・写真・映像152点で構成

キース・ヴァン・ドンゲン展――フォーヴィスムからレザネフォール

…7月9日~9月25日
パナソニック留美術館
…オランダ生まれで、エコール・ド・パリを代表する画家キース・ヴァン・ドンゲン(1877~1968)の肖像画や人物表現を核として、絵画、版画、ポスターなどを展示
…レザネフォール(les années folles、狂乱の時代)とはフランスの1920年代の華やかな時代を指す言葉

スイス プチ・パレ美術館展

…7月13日~10月10日
…SOMPO美術館
…スイス・ジュネーブにあるプチ・パレ美術館は実業家で美術蒐集家のオスカー・ゲーズ氏が1968年にコレクションを公開したことに始まるが、ゲーズ氏の逝去後、現在まで休館している
…日本では30年ぶりの収蔵品展、19世紀後半から20世紀前半の近代フランス絵画について、38名の作家による油彩画65点を展示

ボストン美術館展 芸術×力

…7月23日~10月2日
東京都美術館
…芸術作品が本来担っていた権力者の力を示し、維持するという役割に焦点を当てて、力と共にあった芸術の歴史を振り返る
…エジプト、ヨーロッパ、インド、中国、日本など様々な地域で生み出された約60点の作品で構成
…当初は2020年に開催が予定されていたが新型コロナウィルス感染拡大の影響で中止となったため、新会期により開催

ヴァロットン――黒と白(仮称)

…10月29日~2023年1月29日(予定)
三菱一号館美術館
三菱一号館美術館所蔵が所蔵するナビ派の画家フェリックス・ヴァロットン(1865~1925)の版画作品約180点を一挙初公開
…併せて、ロートレック美術館(フランス・アルビ)開館100周年を記念したロートレックとの特別関連展示も行う

パリ・オペラ座――響き合う芸術の殿堂

…11月5日~2023年2月5日
…アーティゾン美術館
…バレエやオペラの殿堂として知られるパリ・オペラ座の歴史について、様々な芸術分野との繋がりをテーマにたどり、オペラ座の芸術的、文化的、社会的な魅力を紹介する

深堀隆介展 「金魚鉢、地球鉢。」感想

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会期

…2021年12月2日~2022年1月31日

会場

上野の森美術館

www.ueno-mori.org

感想

…以前ネットで偶然目にした、枡の中をまるで本当の金魚が泳いでいるかのように見えるリアルで立体的なアートが印象に残っていて、今回観に行きました。私が見たのは金魚をテーマにした作品を手がけている深堀隆介氏の「金魚酒」というシリーズだったんですね。金魚は手軽に飼える身近な生き物の一つだと思いますが、改めて取り上げられることで見慣れたつもりでいる彼らの思いがけない多彩さ、きらびやかさが宝石のように感じられました。
…会場内では映像で作業工程が紹介されていましたが、下描きなしで樹脂にアクリル絵の具を塗り始めるのに驚きました。
①枡に樹脂を流し込む
②二日ほどして樹脂が乾いたら、絵の具で金魚の鰭を描く
③その上から再び樹脂を流し込む
④乾いたら身体や鱗を描く
⑤また樹脂を流し込む
⑥さらに鱗を重ねて描く…という手の掛かる丹念な作業を繰り返して、独特の透明感と立体感を出しているようです。
…深堀氏は自作を「2.5次元」だと解説しています。モチーフは絵の具で描かれているけれど、宙に浮いていて、絵画にも彫刻にも当てはまらない。支持体は枡や盥、傘、箪笥、空き缶や弁当箱、さらにビニール袋を再現した樹脂そのものまで「金魚が泳ぐ水を入れることが可能」な、あらゆるものが用いられています。また、板を使った作品でも方形ではなく、あえて水が垂れたような形に作ってありました。
…この立体的に見える金魚たちを眺めているうちに、作品を鑑賞しているというよりまるで金魚が現実に「いる」かのような、生きている金魚に対するような愛着が湧いてきて「可愛い」と思ってしまいました。私も子供の頃、家で金魚を飼っていたのですが、何の変哲もない和金でも「うちの子」は可愛いんですよね。あの感情に似たものが湧いてくるのです。平面の作品に接した場合に自分なりに作品を受け止めて理解するのとは異なる楽しみ方で、手に取れるモノに対する具体的な感情、立体的であることで同じ次元に存在するものへの親密な思いが湧くのかもしれません。
…作品に付されたタイトルも独創的です。初めは金魚の種類の名称なのだろうかと思ったのですが、「№8」のように容れ物から取ったタイトルや「方舟」のように一般的な場合もあります。気になって試しに深堀氏の作品集に載っていた「白澄」を検索してみたら氏のブログに行き着いて、「我が美意識の信念のもと、丹精込めて我が脳内において養育」してきた「脳内品種改良」により「品種として固定、作出」されたものだと分かりました。実在しないが、具現化された理想的な金魚と言えば良いのでしょうか。氏の金魚に対する並外れた拘り、愛着、探究心が感じられます。
…大型のパネルに描かれた作品では、水の中で広がりたなびく透き通るような金魚の鰭の優美さ、妖艶さを感じました。「段ボール水槽」というシリーズでは、水槽正面には金魚の正面図が、側面には正面に描かれた金魚の側面図が描かれていました。キュビスムは立体を解体し平面上に展開させましたが、この作品では逆に平面図を組み合わせて立体化しているところが興味深いです。また、Tシャツに描かれた金魚たちは、たわんだ布の上でひらひらと泳いでいるように感じられました。
…半紙に墨で描いた金魚のドローイングは初期によく制作していたそうです。深堀氏は子供の頃、祖父から送られる年賀状に描かれていた水墨画に惹かれて、水墨画を練習していたそうなのでルーツと言うべきものなのでしょうね。流れるような墨の線や滲みに、水を介して金魚というモチーフとの親和性を感じました。
…深堀氏が生きている金魚のスケッチはせずに、基本座ってじっと見ているだけだというのは意外でした。ただ、彼らが死んでしまった時にだけ、「デスノート」と題して彼らの詳細な姿を記録に描き留めるのだそうです。身近な生き物を実際に飼ってその生態を悉に観察するという点で、たくさんの鶏を飼っていた伊藤若冲のエピソードを彷彿させられました。
…金魚というとお祭りの屋台の金魚すくいから一般的に夏を連想しがちですが、桜の花びらの下を泳ぐ金魚の群れや、赤く色づいた紅葉の合間を縫って泳ぐ金魚たちで春や秋の季節感を表現している作品もありました。とりわけ冬は、氷の張った冷たい水の底にじっと潜んでいる小さな金魚の存在から命の温もりと愛おしさが伝わってきました。また、木製の卓上に仕切りを作って水槽にした「方舟」という作品では、卵から孵った稚魚たちが成長して広い世界へと泳いでいく姿が表現されていました。金魚の鱗をクローズアップした抽象画のような「鱗象」というシリーズもあり、小さな陶器のなかに抜け殻のような金魚の皮が浮いていたのが印象に残っています。
…会場の最後に展示されていたのは金魚すくいの屋台が再現されたインスタレーションで、屋台にはミラーボールが吊され、ラジオの音声に混じって水音が聞こえていました。水槽を泳いでいるのはアニメ絵のようなポップでカラフルな金魚です。深堀氏の作品を見ていると金魚の神秘に魅入られるのですが、本来金魚はカジュアルな存在なんですよね。屋台の竹竿に吊されているのは樹脂で作られたビニール袋入りの金魚たちで、金魚すくい用の「ポイ」もたくさん置かれていました。破れたものが多かったのは使用済みのものを活用しているのでしょうか。破れていない「ポイ」には金魚の絵が描かれていました。深堀氏にとって「金魚掬い=金魚救い」は制作の根源にあり、かつて一匹の金魚からもたらされたインスピレーションが今や豊かな作品世界として実ったのだと思います。もしかしたら、今度は深堀氏の作品から、一人でも多くの人に金魚救いを体験してもらいたいという願いもこもっているのかもしれません。昭和の時代を思わせる懐かしさや、子供の頃夢中になった親しみを呼び起こす作品だと思います。
…入場に当たって日時指定はありません。私が行った時は混雑しておらず、どの作品も間近で見ることが出来ました。作品によっては、展示ケースの上の方から見られるように足場が設置されているものもありました。会場内で撮影可能な場所が三カ所あります。所要時間は60分程度です。なお、本展の展覧会図録はなく、特設ショップでは絵はがき他グッズや深堀氏のこれまでの作品集が販売されています。

イスラエル博物館所蔵 印象派・光の系譜展 感想

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クロード・モネ《睡蓮の池》(1907年)

概要

会期

…2021年10月15日~2022年1月16日

会場

三菱一号館美術館

構成

 Ⅰ 水の風景と反映(27点)
 Ⅱ 自然と人のいる風景(19点)
 Ⅲ 都市の風景(7点)
 Ⅳ 人物と静物(16点)
 特別展示 「睡蓮:水の風景連作」(3点)

mimt.jp

見どころ

…この展覧会では、イスラエル博物館が所蔵する印象派の先駆者や印象派、ポスト印象派の画家たちの油彩画69点が展示されています。フランスの画家が中心ですが、ドイツで活動したレッサー・ユリィなどの作品も出品されています。なお、特別展示としてイスラエル博物館所蔵のモネ《睡蓮》(1907年)と同主題、ほぼ同年に描かれた日本国内美術館所蔵の《睡蓮》が3点出品されていて、モネが同じ構図でどのように描き分けているか見ることが出来ます。
…出品作をジャンル別に見ると、風景画、特に水辺や田園などの自然を描いた作品がおよそ三分の二を占めています。これは印象派の関心が、戸外の移ろう光のもとで刻々と変化する色彩の追求にあったためでしょう。
…会場のうち、第二章の展示室は写真撮影が可能でした。主要な作品には展示解説があります。所要時間は60分程度です。チケットは日時指定制なのですが、土・日や平日午前の時間帯は早々に予約が埋まっていて印象派作品の人気ぶりを改めて実感しました。

感想

第1章 水の風景と反映

…《川沿いの町、ヴィル=ダブレー》(1855~1856年頃)をはじめ、コローの描く水辺の風景は木立や草原の緑に閉ざされた静謐さがあり、移ろいやすい一瞬の姿ではなく、時を超えてひっそりと輝く安らぎの場所として描かれているように思います。
…一方、《川の風景、バ=ムードン》(1859年)などドービニーの作品では開けた流れる水辺が描かれています。ゆったりとした川は風景を映す水鏡でもあり、空模様や水面の波立ち具合によって生じる変化を表現することに関心があるように思われます。
…コローやドービニーの作品に比べると、シスレーの作品は印象派らしく明るい色彩です。《サン=マメス、ロワン川のはしけ》(1884年、及び1885年)は同じ主題、近い年代で描かれているのですが、1884年の作品がやや引いた視点から水面を点描で描き、昼間の日差しのきらめきを捉えているのに対して、1885年の作品ではより川の近くから艀を揺らす水面のうねりを長めの筆触で描写しています。
…モネの《睡蓮の池》(1907年)には岸辺も空も描かれていません。水上に乗り出すような視点は鑑賞者を池の中に誘い込み、波のない水面は木の影と空を写す鏡と化して、まるで池の底に空が続いているかのような錯覚をおぼえます。画家は風景画らしい空間の広がりよりも、限られた範囲の水面を照らす光の変化に関心があるのでしょう。しかし、池と陸地の境界が見当たらないため、かえって水面がカンヴァスの外にまで広がっていくようでもあります。なお、同じ1907年に同一の構図で描かれた《睡蓮》が特別出品されていて、刻々と移ろう光=色彩の変化を見比べることが出来ます。

第2章 自然と人のいる風景

…暗い岩穴から流れ出る澄んだ川の流れを描いた《森の流れ》(1873年)や、鬱蒼と茂る木々の間から姿を現す大岩を描いた《岩のある風景》(1872年)など、クールベの作品では人の手が入っていない野生の自然の荒々しさや力強さが表現されています。
…一方、ピサロの《豊作》(1893年)や《朝、陽光の効果、エラニー》(1899年)では人々の暮らしと共にある、日常的で親しみのある自然が描かれています。
…第1章に展示されている作品ですが、ブーダンの《ベルクの浜辺》(1882年)では、砂浜に寝そべったりパラソルを差したりしている女性たちのなかに家畜や地元の女性が紛れていて、地域の住民の伝統的な生活の場であった海辺が都市住民のリゾート地に変貌していく様子を見ることが出来ます。
…ゴーガンは近代文明から遠く離れた原初の自然のなかで生きる人々を描いています。日盛りの暑熱のなかで人々が怠惰に横たわる時が止まったような《マルティニークの村》(1887年)と、闇の中で燃え盛る火を囲んで踊る人々や寄り添う恋人たちを描いた神秘的な《ウパ ウパ(炎の踊り)》(1891年)とが対照的で印象に残りました。

第3章 都市の風景

…アルマン・ギヨマン《セーヌ川の情景》(1882年頃)は船から荷を運び下ろす人々の背後でクレーン船が石材のようなものを吊り上げています。画面右側の川岸は工事中なのでしょうか。荷を引く馬や手押し車を押す人が描かれ、船の煙突から湧き上がる煙は工業化、近代化のエネルギーを象徴しているように感じられます。
…レッサー・ユリィ《冬のベルリン》(1920年代半ば)では、雪曇りの空の下、凍てつく冷気に包まれた街を歩く人々のファッションや路上の自動車がモノクロームに近い色彩で描かれていて、都市生活の洗練と憂愁が表現されています。また、同作者による《夜のポツダム広場》(1920年代半ば)は、濡れた路面に滲む窓の灯りや街灯、ネオンサインなど夜の街を彩る人工の光と傘を差して行き交う人影とが交錯していて、雨夜の街路の活気を感じることが出来ます。

第4章 人物と静物

…ヴュイヤール《長椅子に座るミシア》(1900年頃)は壁紙、肘掛け椅子、長椅子、そして長椅子に寝そべり新聞を読む女性のドレスの模様など様々なパターンがちりばめられた装飾的な作品で、くつろぎと安息に満ちた室内空間が表現されています。
…ボナール《食堂》(1923年)は暖かみのある黄色や褐色で描かれた妻のマルトやテーブル上の果物などと、格子柄のテーブルクロスの爽やかな青とが対比されています。マルトの表情は窺えませんが、画面右端に描かれた人物と共に愛犬を挟んで遣り取りしているのでしょうか。穏やかに流れる時間が感じられる作品だと思います。