展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

憧憬の地 ブルターニュ展 感想

【会期】

 2023年3月18日~6月11日

【会場】

 国立西洋美術館

【感想】

…フランス人にとっての内なる異郷、ブルターニュ。他者の発見は自己の再定義でもあり、ノスタルジーとエキゾチシズムの入り交じった眼差しが捉えた内なる他者は、実体をもって立ち現れた自己の無意識であるがゆえに画家たちを引きつけたのでしょう。科学や技術の目覚ましい発展によって社会や生活が激変した19世紀は、文化や歴史といった民族的なルーツを問い直すタイミングだったのだろうと思います。神秘的な森、牧歌的な田園、アルカディアとしての海。厳しい自然と劇的な風景、風変わりな衣装を着た敬虔な人々の素朴で慎ましい日常とロマンを掻き立てる古風な習俗。この展覧会では画家たちにインスピレーションを与えてきたブルターニュの魅力の一端を知ることができました。

オディロン・ルドン《バラ色の岩》(1880年頃)

ブーダンの作品は風景の全体像、スケール感、なかんずく空の広がりを捉えようとしています。ブーダンと比べてみると、モネの作品はより興味のあるモチーフの表情に比重があり、安定した構図から抜け出して対象へと吸い寄せられる画家の視線が感じられます。徹底して緻密な点描によるシニャックの作品は静的で、装飾的ですらありますが、のちの時代のスケッチでは厳格な理論から解放された闊達な筆致が水辺の景色の瑞々しさを捉えています。いずれも生彩に富み、刻々と移ろう一瞬を切り取った臨場感が共通しているのに対して、ルドンの風景画はまるで時間が止まっているようなある種の遠さ、画面と画家の間の隔たりが感じられます。ごく控えめなサイズのカンヴァスに描き留められた風景は幾重にも堆積したイメージから抽出された記憶の断片か、日付のない写真のようでもあります。しかし、荒涼とした風景と呼応するルドン自身の心象を描いているという点では、逆にこれほど画家に近い作品もないかもしれません。

ポール・ゴーガン《海辺に立つブルターニュの少女たち》(1889年)

…この作品を前にした時、最初に目に付いたのが少女たちの大きな足でした。裸足の子供は靴、すなわち文明化されて大地から切り離される以前の無垢な人間の姿と言えるでしょう。少女たちの背後では剥き出しの地面の赤と斜面の緑、海の青の対比が鮮やかです。断崖に立つ少女たちは、急速な技術の進歩や都市化によって追い詰められているようにも見えます。しかし、怯える少女の手を取る左端の少女の横顔には毅然とした意志が感じられます。大地を踏みしめる少女たちの大きな足は、自然に根ざす人間本来の力強さを秘めているのです。少女たちが画家=鑑賞者に向ける眼差しは余所余所しく緊張感がありますが、他者の安易な接近を拒絶し、対峙することで野生の気高さを保っているのかもしれません。彼女たちの足元に咲く可憐な野の花は素朴さをとどめるブルターニュとこの地に生きる人々に対する画家の慈しみが込められているように思われました。

ポール・セリュジエ《急流のそばの幻影、または妖精たちのランデヴー》(1897年)

…花を撒きながら森を横切る妖精たちの行列と、対岸で恭しく手を合わせて頭を垂れ、跪く老若男女。両者を隔てる木立と川は人間界と妖精界、物理的な現実とスピリチュアルな幻想という異なる次元の結界の役割を果たしています。人間たちは幼子、若い女性、壮年の夫婦、老女と人生のそれぞれの段階を象徴する姿で描かれています。一方で、中世風の衣装を纏った妖精たちはいずれも若く美しい女性であり、永遠の時を生きる超越的な彼岸の住人として有限な存在である人間と対比されています。この作品に描かれたブルターニュの鬱蒼とした森は、現実と幻想が両立する神秘的な空間です。未知の異郷は日常から地理的に遠ざかるにつれスピリチュアルな領域へ接近し、奇跡の舞台に変容したのでしょう。

モーリス・ドニ《水浴》(1920年)、《花飾りの船》(1921年)

…ドニはブルターニュの浜辺に古代ギリシャ・ローマを重ね合わせて、大らかで開放的な楽園を描きました。《水浴》や《花飾りの船》では、古代的な肉体美と流行の服を着てレジャーを楽しむ同時代の日常とが同居する祝祭的な世界が明るく華やかな色彩で表現されています。波立つ海は生命の揺籃であり、無垢な裸体の乱舞は原初の豊かな生命力を讃えているようです。

シャルル・コッテ《聖ヨハネの祭火》(1900年頃)、《悲嘆、海の犠牲者》(1908年~09年)

…聖ヨハネの前夜祭は、ヨーロッパの各地で見られるキリスト教の洗礼者ヨハネの記念日と土着の太陽信仰に由来する夏至祭とが結びついた祭りです。冬至とキリストの誕生日が結びついたクリスマスとちょうど対になっているんですね。《聖ヨハネの祭火》では夜の闇の中でたき火を囲む女性たちが描かれています。この作品の舞台は航海の難所として知られるウェサン島で、この島を特徴づける断崖が闇の中にかすかに伺われます。赤々と照らし出された女性たちは魅入られたように炎を見つめていて、古代ケルトの祭儀を彷彿させますが、敬虔な人々はキリスト教が浸透する以前から静かに祈りを捧げ続けてきたのでしょう。個人的には「燃ゆる女の肖像」という映画の印象的な一場面を思い出しました。
…シャルル・コッテは、過酷な自然と共に生きる人々の悲しみを暗い色調で描きました。同じブルターニュでも、太陽に照らされたドニの明るい楽園と真逆の側面を見出している点が興味深いです。コッテの代表作《悲嘆、海の犠牲者》は、鉛色の空のもとに集う人々の黒い服、狭い入り江に犇めく暗褐色の屋根の中にあって鮮やかな赤い船の帆がとりわけ目を引きます。林立する船の帆は殉難者たちの墓標でしょうか。横たわる漁夫の亡骸と天を差す船のマストがなす垂直の構図が厳粛な画面を作り出しています。漁夫を悼む人々は青ざめた亡骸を取り囲んで泣き崩れ、天を仰いで慟哭し、あるいは悲しみを堪えてじっと手を組み佇んでいますが、感情の渦の中心にあって亡くなった漁夫からは苦悶や悲嘆を超えた静謐な崇高さが感じられます。暗い空は人々の心の中を吹き荒れる嵐と、波のない海は死者の永遠の眠りと呼応しているのかもしれません。海に生きる人々の背負う宿命を描いた作品と言えるでしょう。この作品を見て私はジョットの《死せるキリストへの哀悼》を思い浮かべたのですが、伝統的なキリスト教の図像に則って近代的主題を描くことで、新しい主題に伝統の格式を与えているとも言えますし、伝統的な形式を新しい主題で再生しているとも言えるでしょう。名もなき一人の漁夫の痛ましい死がキリストの犠牲のような神聖さを帯びていて、クールベの挑戦的な《オルナンの埋葬》(1849年~50年)からここまで辿り着いたのだと思いました。

ブルターニュを訪れた日本人画家たち】

…久米桂一郎の作品は画面を照らす明るい光が印象的でした。「西洋文明」のイメージである花の都の繁栄とは一線を画した、鄙びた農村で労働に勤しむ敬虔な人々の姿に画家は親しみを感じたのかもしれません。
斎藤豊作の《夕映の流》(1913年)、《初冬の朝》(1914年)は屏風のように横長の作品です。画面の中心を占めるのはいずれも川ですが、急流の多い日本の小規模河川と異なる緩やかな大河が興味を引いたのでしょうか。日の出と共に出かけて、夕暮れ時に家路に着く羊飼いと羊たちはゆったりと流れる時間を生きているようです。
…金山平三《ケルゴエスの宿》(1912年)はやや慎重な筆運びで初々しさがありますが、印象派のきらめく眩い光に満ちていて個人的に気に入った作品です。
岡鹿之助の描く海辺の家はメルヘンチックで可愛らしいのですが、辺りに人影はなく白日夢のようにひっそりとしています。フランスの画家たちの堅牢なマチエールに打ちのめされた岡の転機となったのが1926年のブルターニュ滞在で、同年に制作された作品ではぼかした濃淡ですっきりとシンプルな輪郭を浮き上がらせつつ、淡く繊細な筆致で海辺の村の静けさを写し取っているのが印象的でした。