展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道 感想

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見どころ

…「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」展はウィーン分離派の活動を中心に、18世紀後半から20世紀初めのウィーンの芸術について当時の時代背景を踏まえつつ、絵画に加えて建築や調度品、服飾など総合的に紹介するものです。今回はウィーン・ミュージアムの建物の増改築に伴いコレクションの来日が実現したもので、出品数が非常に多く、一度で全てをしっかり見るのは難しいのではないかと思います。何度か足を運ぶことができれば良いのですが、そうでない場合は見たいものをある程度絞っておいた方が良いかもしれません。
…展覧会の冒頭に展示されているマリア・テレジアやヨーゼフ2世ら啓蒙君主の肖像画と、クリムト肖像画やシーレの自画像などを比べると、18世紀後半から20世紀初めまでのおよそ150年のあいだにいかに大きな変化が起きたか実感できます。こうした表現の変化は、絶対君主が統治していた時代から、科学・技術・産業が発展して市民階級が台頭し、日本を含む非西欧圏の文化が流入して関心を集めるなど、社会構造の変化や人々の価値観、世界観の変化が形となったものなのでしょう。特に従来の自然主義的な表現から離れて装飾的な作品を生み出したウィーン分離派による変化は決定的であり、不可逆的だったように思います。そうした変化は突然生じたものではなく、ビーダーマイアー時代など先行する時代、芸術家たちを通じて徐々に準備されていったことも理解することが出来ました。
…今回の展覧会では家具や食器など工芸品も多数出品されていたのですが、いずれの品々も機能性を備えつつ洗練されたデザインで目を引きました。現代でも、もし店頭で販売していたら普通に購入したくなりそうですし、日々の生活の中で実際に使うことが出来そうで(むしろ勿体ないぐらいですが)、19世紀が今の私たちと直接繋がっている時代であることを実感させられました。
…また、この展覧会は音楽の都ウィーンが舞台ということで、モーツァルトシューベルトヨハン・シュトラウスシェーンベルクなど、名だたる音楽家たちが展覧会の各章で登場するのも特徴だと思います。特にシェーンベルクが手掛けた絵画作品は初めて見ることが出来ました。音声ガイドでマーラーの5番を聴きながらクリムトの作品を鑑賞できたのも個人的には嬉しかったですね。美術だけでなく、音楽の好きな人にとっても楽しめる展覧会ではないかと思います。
…私が見に行ったのは6月の土曜日午前中でしたが、雨天のためか混雑はありませんでした。会場内の照明がやや暗く、写真や図面、版画など細部を見たい展示品もあったので、落ち着いて鑑賞することが出来たのは良かったです。クリムトの《エミーリエ・フレーゲの肖像》は撮影可能です。

概要

【会期】

…2019年4月24日~8月5日

【会場】

国立新美術館

【構成】

1 啓蒙主義時代のウィーン――近代社会への序章
 1-1 啓蒙主義時代のウィーン
 1-2 フリーメイソンの影響
 1-3 皇帝ヨーゼフ2世の改革

2 ビーダーマイアー時代のウィーン――ウィーン世紀末芸術のモデル
 2-1 ビーダーマイアー時代のウィーン
 2-2 シューベルトの時代の都市生活
 2-3 ビーダーマイアー時代の絵画
 2-4 フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー――自然を描く
 2-5 ルドルフ・フォン・アルト――ウィーンの都市景観画家

3 リンク通りとウィーン――新たな芸術パトロンの登場
 3-1 リンク通りとウィーン
 3-2 「画家のプリンス」ハンス・マカルト
 3-3 ウィーン万国博覧会(1873年)
 3-4 「ワルツの王」ヨハン・シュトラウス

4 1900年――世紀末のウィーン――近代都市ウィーンの誕生
 4-1 1900年――世紀末のウィーン
 4-2 オットー・ヴァーグナー――近代建築の先駆者
 4-3-1 グスタフ・クリムトの初期作品――寓意画
 4-3-2 ウィーン分離派の創設
 4-3-3 素描家グスタフ・クリムト
 4-3-4 ウィーン分離派の画家たち
 4-3-5 ウィーン分離派のグラフィック
 4-4 エミーリエ・フレーゲグスタフ・クリムト
 4-5-1 ウィーン工房の応用芸術
 4-5-2 ウィーン工房のグラフィック
 4-6-1 エゴン・シーレ――ユーゲントシュティールの先へ
 4-6-2 表現主義――新世代のスタイル
 4-6-3 芸術批評と革新
東京都美術館の「クリムト展」がクリムトの画業に焦点を絞っているのに対して、「ウィーン・モダン」ではクリムトをはじめとする19世紀末の分離派の活動の全体像について、歴史的文脈の中で捉えて展示されていました。構成は1~3章が導入部で、ウィーン分離派及び表現主義に関する第4章が中心ですが、1~3章だけでもかなりの情報量でした。クリムトの作品は《パラス・アテナ》(4-3-2)、《エミーリエ・フレーゲの肖像》(4-4)他、初期の寓意画やポスター等の版画、素描などが出品されています。素描(4-3-3)には《ベートーヴェン・フリーズ》のための習作《ゴルゴンたち》や、《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》の構想の元となった雑誌『ヴェル・サクルム』挿画用のペン画などもあり、東京都美術館の展覧会と合わせて見るとより興味深いのではないかと思います。また、裸婦を描いた官能的な作品もありましたが、特にスペースが仕切られたりはしていませんでした。その他、オットー・ヴァーグナの建築に(4-2)もかなりのスペースが割かれていて、図面や模型などが展示されています。ウィーン工房の応用芸術(4-5-1)ではヨーゼフ・ホフマンやコロマン・モーザーのデザインした調度品などがメインでした。エゴン・シーレ(4-6-1)の作品は《自画像》、《ひまわり》などが出品されています。

artexhibition.jp

感想

1 啓蒙主義時代のウィーン――近代社会への序章

…第1章ではヨーゼフ2世の啓蒙主義的政策、特に総合病院の設立や皇帝の狩猟地だったプラーターの一般開放などウィーンの都市空間にもたらした変化と共に、フリーメイソンの影響が取り上げられていました。存在自体が秘匿されているわけではないものの、フリーメイソンの活動は不明なことも多く、歴史の表側で正面から語られることはないと思っていたので、正直意表を突かれました。モーツァルトのオペラ『魔笛』がフリーメイソンの象徴などを取り入れているという説は聞いたことがあったのですが、フリーメイソンのロッジ(フリーメイソンを構成する各団体のこと)における入会儀式の様子を描いた《ウィーンのフリーメイソンのロッジ》(1785年頃)には『魔笛』の台本を書いたエマヌエル・シカネーダーと並んでモーツァルトの姿も描かれています。フリーメイソンが掲げていた自由、平等、友愛、寛容、慈愛という理念のうちの幾つかはフランス革命のスローガンを思い出させますね。フリーメイソンのロッジに属していた作家ヨーゼフ・フォン・ゾンネンフェルスは、マリア・テレジアやヨーゼフ2世に対して啓蒙主義的な改革の提案を行っていたそうですし、フリーメイソンの理念はそれを支持、賛同する文化人などを通じて政治的にも影響を及ぼしていたのでしょう。

2 ビーダーマイアー時代のウィーン――ウィーン世紀末芸術のモデル

…ビーダーマイアーとは元々1855年頃ミュンヘンの文芸紙に連載された風刺的な詩の架空の作者名だったもので、その後、ウィーン会議以降ウィーン三月革命までの1814/15年~1848年までをビーダーマイアー時代と呼ぶようになったそうです。この時代はフランス革命の勃発からヨーロッパ全体が巻き込まれたナポレオン戦争にいたるまでの激動の時代に対する保守反動の時代で、体制の安定を図るため検閲が徹底されて人々も内向きになりましたが、その分私的な時間・空間を充実させることに関心が注がれました。同時に、余暇を楽しんだり、瀟洒な調度品を購入したりすることのできる富裕な市民層が台頭し始めた時代とも言えるのでしょう。出品されているビーダーマイアー様式の家具や食器などはシンプルで実用性も考慮しつつ、現代のインテリアとして使われていても違和感がなさそうな洗練されたデザインで、現代にも通じる美意識がこの時代に萌芽したことを実感しました。
シューベルトは経済的に苦労して病気で亡くなったというイメージが強かったため、シャンデリアの下、着飾ったブルジョワの紳士淑女に囲まれて自作の曲を披露している《ウィーンの邸宅で開かれたシューベルトの夜会(シューベルティアーデ)》の姿を見て新鮮さを感じました。クラシック音楽と言うと固く考えがちなのですが、『野ばら』のような親しみやすい曲やドラマチックな『魔王』など、今も歌唱される様々な歌曲を世に送り出して人気を博した流行作曲家としての面もあるのでしょうね。また、シューベルティアーデは単なるシューベルトの友人たちのサークルというだけでなく、ビーダーマイアー時代の社会や生活を象徴する集いであって、市民たちは趣味を共有する仲間同士で交流し、郊外へのレジャーを楽しんでいたことも知ることが出来ました。
…この時代の絵画作品ではフリードリヒ・フォン・アメリングの《3つの最も嬉しいもの》(1838年)が印象に残りました。3つの最も嬉しいものとは酒、女性、音楽のことで、男性にとって嬉しいものを指すわけですが、この作品はむしろ女性の心理に焦点が当てられているように感じられます。グラスを手にした赤ら顔の男性が、リュートとおぼしき楽器を手にした黒髪の女性の肩を抱いて耳元で囁いていますが、酩酊して他のものが目に入らない様子の男性に対して、言い寄られている女性はどこか醒めた表情です。女性の右手は男性の手に重ねられているようにも、逆に押しのけようとしているようにも見えますね。意思を感じさせる女性の目は鑑賞者の側に向けられていて、どちらを選ぶのか問いかけられているようにも感じられました。また、フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラーの光溢れる克明で写実的な風景描写も印象的でした。

3 リンク通りとウィーン――新たな芸術パトロンの登場

三月革命後に即位したフランツ・ヨーゼフ1世のもとでウィーンは首都として街並みが一新され、人口も飛躍的に増大するなど大きく発展しました。特に1857年に都市を囲んでいた市壁が取り壊されたあと新たに開通したリンク通りとその沿道は、国会議事堂や市庁舎、ウィーン大学、ブルク劇場などが次々と建設されると共に、皇帝夫妻の銀婚式のパレードの舞台となり、近代的な都市に変貌した首都ウィーンを新たに象徴する場所となったと言えそうです。ナポレオン3世の治世下でオスマンによるパリの近代化が推進されたように、ウィーンでもフランツ・ヨーゼフ1世によって膨張する首都の整備が進められたんですね。こうした動きは産業革命が進行するヨーロッパ各国に共通するものだったのでしょう。
…若きクリムトがウィーンの工芸美術学校で学んでいた頃、ウィーンの美術界の第一人者だったのが「画家のプリンス」ハンス・マカルトで、マカルトは1879年4月に開催された皇帝夫妻の銀婚式の祝賀パレードの芸術総監督も務めました。会場でマカルトが祝賀パレードのためにデザインした連作スケッチを見ながら、バロック時代のルーベンスやベラスケス、あるいはルネサンス時代のレオナルド・ダ・ヴィンチなどが各々の主君のために舞台や儀式、祝祭の装飾や演出を手掛けていたことを思い出しました。絵画や彫刻といった枠組みにとどまらない総合的なイベントを指揮するには卓越した手腕が求められますし、やり甲斐もあると思うのですが、そうした芸術家の伝統的な役割と言えそうなものが19世紀にも引き継がれているんですね。一方で、この祝賀パレードは参加者1万4000人、沿道の観客30万人という壮大な規模のもので、王侯貴族だけでなく多数の市民も演者、観客として参加し、共有する祝祭空間であることが近代的と言えるかもしれません。現代で例えるならオリンピックの開会式のようなものでしょうか。今日まで語り継がれているというのも、その共有された経験が共同体の記憶として継承されている証拠なのだろうと思います。
肖像画家として活躍したマカルトですが、《メッサリナの役に扮する女優シャーロット・ヴォルター》(1875年)も一種の肖像画と言えるでしょうか。メッサリナは古代ローマの皇帝クラウディウスの妃でしたが、夫以外の男性と情事を重ね、ついには夫であるクラウディウス帝の暗殺を諮ったため殺されたそうです。背景に描かれた夜の街並みは古代のローマ=舞台のセットという設定なのだと思いますが、繁栄する世紀末のウィーンの暗喩のようにも感じられます。あえて悪女に扮した姿が選ばれたところに、ファム・ファタルという主題の流行ぶりが窺われるのですが、男性にも社会の常識にも束縛されない悪女の波乱に富んだ運命は女性にとっても魅力的だったのかもしれないと思ったりもしました。滑らかに仕上げられたシャーロット・ヴォルターに比べると、その後に制作された《ドーラ・フルニエ=ガビロン》(1879-80年頃)や《ハンナ・クリンコッシュ》(1884年以前)は技法が変化していて、素早いタッチで生き生きと描かれています。第1回印象派展の開催が1874年ですから、こうした変化は他国の美術の動向などとも連動しているのでしょう。ドーラ・フルニエ=ガビロンは椅子に腰掛けているようなのですが、赤と茶褐色に塗り分けられた背景は大胆かつ曖昧にぼかされていて、モデルの人となりを説明的に語るよりも構成や色彩を重視した装飾的な作品になっています。保守的なウィーン造形芸術家組合から脱退した芸術家たちによって設立されたオーストリア造形芸術家協会=ウィーン分離派ですが、彼らの目指す新しい芸術は先行する世代によって模索され、少しずつ準備されてきたことも実感することが出来ました。

4 1900年――世紀末のウィーン――近代都市ウィーンの誕生

…新たに整備されたリンク通りの沿道に建設された建築物はゴシックやルネサンスバロックなどかつての様式からインスピレーションを得ていたのですが、そうした歴史主義を脱して独自の様式を生み出したのがオットー・ヴァーグナーでした。ヴァーグナーの手がけた「郵便貯金局」は鉄とガラスという素材によって従来の建物にはない明るさを確保し、シンプルで機能的でありながら装飾性も兼ね備えていて、装飾を排したモダニスムの純粋さとはまた違う豊かさが感じられると思いました。
クリムトの作品は初期の寓意画や素描なども比較的多く展示されていました。ゲルラハ&シェンク社が出版した近代的な寓意画のための図案集『アレゴリーとエンブレム』掲載作品の原画である、《自然の王国》(1882年)の男性像はミケランジェロによるシスティナ礼拝堂の天井画を思わせますが、クリムトも初期は古典に倣って技術を磨きながら自分の表現を深めていったことが窺われます。一方で《愛》(1895年)の背景に浮かび上がる亡霊のようないくつもの顔は《鬼火》(1903年)に描かれた妖しく神秘的な女性たちの同類のようでもあり、「老い」や「死」など人生、運命を連想させるという点で《女の三世代》(1905年)に通じる部分もありそうで、クリムトの関心が初期から一貫していることも感じられました。
…エミーリエ・フレーゲクリムトの弟エルンストの妻ヘレーネの妹で、クリムトにとって最も親密な女性です。《エミーリエ・フレーゲの肖像》では左手を腰に当てて横向きに立つエミーリエが、顔だけこちらを振り向いた姿が描かれています。落款のようなクリムトのサインは日本美術の影響でしょうか。エミーリエは姉妹たちとファッション・サロン「フレーゲ姉妹」を経営し、改良服(リフォーム・ドレス)の制作・販売も取り扱っていたので、この肖像画で着ているドレスも改良服かと思ったのですが、図録の解説によると違うようです。確かにゆったりとしたラインが特徴の改良服と違って細身ですよね。縦に細長い画面も日本美術の影響が感じられますし、クリムトは生地を身体に巻き付ける和服のシルエットを意識したのかもしれません。ボリュームのある黒髪の周りに描かれた傘か帽子のような部分はよく見ると緑色の細い曲線によってエミーリエの左肩付近に繋がっていて、単なる背景の一部ではなさそうです。色彩もドレスと同じ青と緑を基調としていて関連性が感じられますし、エミーリエ自身から滲みでているもの、聖人の肖像の光背のようなもので、エミーリエの才気や生命力を象徴しているのかもしれません。ところで、女性の肖像画というと胸に手を当てたり、大きく膨らんだドレスに手を添えたりと慎ましい物腰で描かれる場合が多くて、腰に手を当てるポーズはあまり目にすることがないように思います。男性の肖像画であれば珍しくないポーズのためか、実はこの作品を見た時、エミーリエの自我を感じさせる表情と相まって男性的と言ってもいい毅然とした印象を受けました。ただ、エミーリエ本人は不本意だったのかこの作品を売却しているそうなので、画家の思いとモデルのすれ違いもあったのかもしれません。クリムトは性愛の象徴として数多くの艶めかしい女性たちを描いていますが、身内でもあり前衛的な芸術にも理解のあったエミーリエについては、本能ではなく知性と意志を以て行動する自立した一人の人間として表現したかったのではないかと思います。
クリムト以外の分離派の作品では、マクシミリアン・クルツヴァイル《黄色いドレスの女性(画家の妻)》(1899年)が印象に残りました。大きく広がった黄色いイヴニングドレスの裾が蝶の羽根のようで、女性の腰掛ける緑のソファとの対比が鮮やかです。両腕を水平に伸ばしたポーズはキリストの磔刑を連想させますが、僅かに首を傾げた女性は冷ややかで挑発的な表情を浮かべています。細くくびれたウェストはコルセットによるものでしょうか。こうしたファッションに対して、身体を解放して自然に還る、自由で動きやすい「改良服」が提案されたんですよね。コロマン・モーザーのデザインした「改良服」(1905年頃)は生地にプリントされた朝顔のモチーフに日本美術の影響が窺われます。裾が長く袖も広がっていて活動するには不向きにも思いますが、ゆったりと寛ぐことができそうなドレスだと思いました。
…装飾的、耽美で退廃的な世紀末芸術を堪能したあとで見るエゴン・シーレの作品は鮮烈なインパクトがありました。クリムトの作品も人間の苦悩が描かれているのですが、あくまで華麗な装飾と多義的な象徴、甘美な官能のヴェール越しのものであるのに対して、シーレの作品からは剥き出しの精神の鋭敏さが感じられます。鋭くも屈折したシーレの線描からは抑えられ、歪められた激情が迸る出口を求めて、身を捩り、痙攣するような印象を受けました。

キスリング展 エコール・ド・パリの夢 感想

見どころ

…「キスリング展 エコール・ド・パリの夢」は、エコール・ド・パリを代表する画家の一人、キスリング(1891~1953)の、日本では12年ぶりとなる回顧展です。出品作はジュネーヴのプティ・パレ美術館/近代美術財団を始めとする内外の美術館及び個人のコレクション69点で構成されていて、その全てがキスリングの作品であり、数点を除きいずれも油彩画と、キスリングの世界を堪能できる内容となっています。
ポーランドクラクフに生まれたキスリングは、1910年にパリに来るとキュビスムフォーヴィスムなどの絵画運動に触れ、ピカソモディリアーニ藤田嗣治らと交友しながら独自の画風を確立し、エコール・ド・パリの仲間の中でも最も早く成功を収めました。私はキスリングの作品をまとめて見たのは初めてだったのですが、何よりも色彩の華やかさ、時として爽やかさも感じさせる透明感が印象的でした。また、キスリングは古典的な主題を現実に即した形で描いているので、一見しただけでその色彩の鮮やかさや官能的な女性美を直感的に味わうことができるのですが、見れば見るほどよく考えられていて、色彩や形体が相互に対比されつつ効果的に組み合わされ、一つの画面に幾何学的で単純化された人工物と有機的で複雑な自然物といった相反する要素が矛盾なく統合されていることに気づかされました。感覚的な喜びと計算された造形とのバランスが良く、見ることを素直に楽しみ、作品世界に浸れる展覧会だと思います。
…私が見に行ったのは土曜日の午前中でしたが、混雑はなく落ち着いてじっくり鑑賞することができました。会場は旧朝香宮邸である本館と新館とに分かれています。本館内の順路は普通の美術館とちょっと勝手が違うのですが、係員の方が順路の各所に配置されていたので迷わずにすみました。展示順が作品の番号と大幅に変わっているのは、本館の各部屋の広さや雰囲気に合わせて作品を展示しているためかもしれません。キスリングの作品は撮影はできませんが、本館内の室内は撮影可能な場所もありました。所要時間は60分程度ですが、可能であれば本館の建物や庭園もゆっくり見る時間を見込んでおくと良いと思います。

概要

【会期】

…2019年4月20日~7月7日

【会場】

東京都庭園美術館

【構成】

序   キスリングとアール・デコの時代
第1部 1910-1940:キスリング、エコール・ド・パリの主役
    セザンヌへの傾倒とキュビスムの影響
    独自のスタイルの確立
第2部 1941-1946:アメリカ亡命時代
第3部 1946-1953:フランスへの帰還と南仏時代
…会場である東京都庭園美術館の旧朝香宮邸(1933年建設)は、キスリングが活躍していた時期に建てられたアール・デコの建築であり、時代の空気を感じながら鑑賞することができます。出品作は肖像画のほか裸婦、トゥーロンの港などを描いた風景画、花や果物などの静物画など多彩で、キスリングが手掛けた主題がバランス良く揃っていると思います。

www.teien-art-museum.ne.jp

感想

《ベル=ガズー(コレット・ド・ジュヴネル)》1933年

…青空の下、首を傾げて純白の百合を腕に抱き、鬱蒼と茂る植物の前に佇む若い女性。《ベル=ガズー》は等身大に近い大きな肖像画で、モデルは作家コレットの娘コレット・ド・ジュヴネル、タイトルでもある「ベル=ガズー」は母が娘に付けたあだ名なのだそうです。この作品を前にしたとき真っ先に目に入ってきたのは、ベル=ガズーの着ている赤、緑、黄のタータンチェックのワンピースでした。素朴な柄は純潔を象徴する百合や背景に描かれた自然物と共に彼女が無垢の存在であること、あるいは無垢な人間本来の自然に根ざした生命力を示唆しているようにも思われます。同時に、チェックの赤は植物の緑と対比され、黄色はモデルの明るい金髪と呼応していますし、背後の青空には光を感じさせる黄色が混じり、ワンピースの大きな白い襟は百合の花弁と呼応するなど、色彩の効果とバランスが緻密に計算された上で構成されています。肖像画が描かれた当時、彼女は20歳前後だったそうですが、年齢より若く、少年のようにも見えるのは、髪がすっきりとまとめられているのも一因でしょう。頭部の輪郭が明確になることでベル=ガズーの立ち姿が綺麗な円錐形になり、一見自然主義的な描写でありながら幾何学的に造形が意識されていることが分かります。また、女性らしさを強調しないのは作品自体の持つ素朴な雰囲気との調和もあるでしょうし、18歳で映画製作の助監督となったあと、第二次大戦中はレジスタンスとして、戦後はジャーナリストになったというベル=ガズーの伝統的な価値観、女性観にとどまらない積極的、活動的な面を表現しているのかもしれません。そうした若々しさ、瑞々しさが感じられる一方で、ハイライトのない大きな瞳は物憂げで、視線や感情が掴めず謎めいた印象を受けます。表情、ことに目の表情のもたらす印象は大きいと思うのですが、それを描かないのはモデルが語りかける特定の感情や物語ではなく、色彩や形体など造形的な面に注意を引くためかもしれませんし、モデルが外界を見ているのではなく、自分の内面を見つめ、繊細な物思いに耽っていることを示唆しているようにも思われます。明るい外界と内面の憂愁、モデルの古風な装いと伝統に囚われない精神など、様々に相反する要素が彩り豊かな一つの画面に収められている作品だと思います。

《ルシヨンの風景(セレのジャン・サリ橋)》1913年

…セレはピレネー=オリアンタル県の町で、キスリングが滞在していた当時はピカソやフアン・ギリス、マノーロなどキュビストたちが集まっていたそうです。《ルシヨンの風景》はジャン・サリ橋という橋からの眺めを描いたもので、高低差のある狭い谷間の中心を一筋の細い川が流れ、蛇行する川沿いに緑が茂っています。岸に迫るように建てられた家屋の屋根越しには、伏せたお椀のような茶色と黒の山の稜線が画面上端ぎりぎりに描かれていて、空は暗く、僅かに見えるだけなのですが、画面右側から家の壁や塀を明るく照らす日の光が感じられます。家や樹木、山などがいずれも幾何学的な形に単純化されている中で、唯一画面右側に伸びる樹木の曲がりくねった細い幹や枝は自然な形状に描かれています。また、複数の視点で描かれるキュビスムの作品の場合、明確な光源が表現されることはあまりないように思うので、一点から差し込む光の表現はキュビスムとの違いを感じて印象に残りました。統一性が保たれた空間に量感あるモチーフが凝集されていて、密度の高さが感じられる作品だと思います。

《サン=トロペの風景》(1918年)

…《サン=トロペの風景》は、《ルシヨンの風景》に比べてぐっと画面が明るくなっているのが印象的でした。家の壁や屋根は単純化され、平面的ですが、折れ曲がった幾何学的な道が奥行きを感じさせます。一方、樹木は複雑な、自然主義的な形体で描かれていて、《ルシヨンの風景》からの変化が窺われます。明るさは色彩の透明感に由来するのでしょう。赤い屋根と緑の木立、黄色の木漏れ日と道に差す青紫の影といった補色の対比が鮮やかで、生彩に富んだ風景になっていると思います。

《北イタリア、オルタ風景》(1922年)

…《北イタリア、オルタ風景》はピエモンテ州、アルプスの麓にあるオルタ湖岸の町、オルタ・サン・ジューリオの風景を描いたものです。斜面に立ち並ぶ家々のあいだの急な坂道を下っていくと風景が開けて、湖越しに遠くアルプスの山並みが見えています。家の屋根や壁は依然として直線的、幾何学的な形状で描かれていますが、初期に比べると形体の純粋さ、単純化への傾向は弱まり、窓の鎧戸やテラスの手すりの装飾的な形状など細部も描写されています。また、色彩も明るさを保ちつつ、一つの対象を一色で表現するのではなく、濃淡のある複数の色彩を取り混ぜて描かれています。あくまで眼前の風景を踏まえつつ、人工物と自然、幾何学的形体と有機物の調和が表現されていると思います。

《赤い長椅子に横たわる裸婦》(1918年)

…赤い部屋の赤いソファに横たわる裸婦。女性は腕を枕に顔を傾け、官能的な笑みを湛えて画家=鑑賞者を見ています。1910年代前半のキスリングの作品を見ると黒や褐色など暗い色彩を基調としているのですが、この作品では画面全体が大胆に赤で覆われていて画風が大きく変化しています。実は会場でこの作品を見た時、赤い部屋に横たわる裸婦がまるで内蔵に包まれているようにも見えたのですが、そのぐらい生々しく、裸婦の裸体以上に肉体を感じさせる赤、内なる熱やエネルギーがこもっている赤だと思います。陰部を隠すポーズはエロティックな暗喩と考えられるそうですが、命が生まれてくる場所を指し示しているとも考えられるでしょう。画面手前の卓上の皿には果物が置かれているのですが、古典的な図像学において若い女性の横に置かれた果物は母性を象徴するそうなので、生命の根源、出産や豊穣を表現している作品かもしれないと思いました。

《モンパルナスのキキ》(1925年)

…暖かいオレンジ色のベッドで惜しげもなく裸体を晒して横たわる女性。背景の青い壁によって、裸婦の臀部が強調された流れるような曲線のフォルムが一層際立っています。キスリングの作品を見ていると一つの画面のなかで相反する要素を組み合わせている場合が多いように感じるのですが、この作品でも青とオレンジ、壁や扉の直線と有機的な形のベッドとが対比されています。両者のあいだで腕を枕にたゆたう裸婦の存在は、文明と自然のどちらの側面も併せ持つ人間を表現しているのでしょうか。この作品のモデルとなったキキは1920年代のパリで芸術家たちを魅了し、絵画や写真のモデルとなっただけでなく、女優や歌手としても活躍したそうです。「モンパルナスの女王」とも呼ばれたキキですが、この作品に描かれた無防備な姿態で一人微睡む様子は、華やかな虚飾を脱ぎ捨てて自分の世界で安らいでいるようでもあり、一方で身分や地位といった身を守る鎧を持たない女性の寄る辺なさも感じさせて、官能的でありながら孤独の滲む作品だと思います。

《座る若い裸婦》(1932年)

…《座る若い裸婦》のモデルの女性は膝に両手を重ねて、品良く微笑んでいますが、着衣の肖像画であればこの畏まった表情やポーズは違和感がないだけに、裸婦であることが意表を突きます。裸婦というモチーフが物語の文脈や、官能的なイメージの枠の中で描かれるか、もしくは肉体そのもの、形体自体への関心を優先させることで成立していることを逆説的に意識させるんですね。顔は人格の指標であり、表情は意志や感情といった人間性の表れですが、画家はそうした精神がしばしば生身の肉体、生物としての本能と切り離されて認識されているのではないかという問題を提起し、美しく装っている人間の赤裸々な本質を表現したかったとも受け取れますし、逆に日常では包み隠されている肉体の気高さを表現したかったのかもしれません。表情と生身の肉体、人格と裸体の統合を試みている作品だと思います。なお、裸婦の左手はキスリングが若い頃に傾倒したセザンヌに倣って、未完成のまま残されているそうです。

《赤い長椅子の裸婦》(1937年)

…この作品も二十年前の作品と同じく、赤い長椅子に横たわる裸婦が描かれているのですが、20年前の作品に比べると冷ややかで、一層官能的な印象です。長椅子の生地の色彩、質感が透明感のある女性の滑らかな白い肌を引き立てるとともに、有機的な肉体と壁や床の幾何学的な模様が対比されています。女性は腕で口元を隠しているため、誘いかけるように微笑んでいるとも、突き放すような冷ややかな表情をしているとも思われて、謎めいて見えます。背後を覆う黒々とした不吉な影は、老いや死を暗示しているのでしょうか。市松模様の床はフランドル絵画を想起させますし、うたかたの繁栄を脅かす不穏な世情を背景に、若さや美しさの儚さ、虚しさを戒めるヴァニタス画を20世紀的に翻案しているのかもしれないと思いました。

《果物のある静物》1920年

…《果物のある静物》は真っ白な壁を背景に、山積みされたカラフルな果物が一際明るく映えて、新鮮な印象を与える作品です。静物画の定番とも言える林檎や桃、ブドウなどに混じって、バナナやパイナップルなどが描かれていますが、こうした南国の果物が入手できるようになった時代でもあるんですね。テーブルクロスの柄の爽やかなパステルカラーの水色は果物にはあり得ない色だから選ばれたのではないかと思いますが、多彩な色が用いられた画面をすっきりと引き締めています。色彩感覚が現代的で、明るく清涼感のある作品だと思いました。

《果物のある静物》1953年

…同じ《果物のある静物》というタイトルながら、およそ30年後に描かれたこの作品では、果物がレモンイエローやマゼンタ、エメラルドグリーンなどよりクリアで濁りのない、鮮烈な色彩で描かれています。正面中央に描かれた引き出しのあるテーブルの磨かれた天板は、鏡のように色の付いた果物の影を映し出しています。本来なら光を遮る実体の影は黒いわけですが、この不思議な影は色彩と対象、光と実体が一体のものであり、色彩が移ろう光ではなく、ものの本質と結びついていて切り離し得ないことを表現しているのかもしれません。あるいは逆に色にこそ実体を与えたようでもあり、色に物そのものとして、確かな存在感を与えようとしているようだと思いました。

《カーテンの前の花束》1937年

…キスリングはフランドル絵画など古典に学んでいるそうで、この作品を見たときは、昨年ブリューゲル展で見た花の静物画が頭に浮かびました。鑑賞者と正対する卓上の大きな花瓶に飾りつけられた花束には様々な種類の花が生けてあるのですが、ブリューゲル一族の作品を思い浮かべたのは赤や黄や紫のチューリップが目についたせいかもしれません。そのほか百合、アジサイ、アイリス、ダリアなど季節の異なる花がひとまとめに束ねられているので、リアルな花束の再現ではなく画家がカンヴァス上で組み合わせたものなのでしょう。この作品の特徴は濁りのない花の色そのものが形を成し、厚みを持っているように見えることで、色彩が透明な光ではなく、物体化して実在しているように感じられました。青い色味の花が少ないので、青い壁紙は花束を引き立てるのに効果的ですね。壁に掛かった彩り豊かなカーテンが半分めくれてこの壁紙が見えているのですが、何もない壁にカーテンを掛けることはあまりないように思います。では、このカーテンは何を隠していたものなのでしょうか。17世紀の絵画などを見ると絵にカーテンが掛けられていることがあるので、この作品の花束は実は壁に掛けられた絵画に描かれていた花束であり、それがカーテンの背後から抜け出して実体化したと考えてみるのも面白いと思いました。それを描いたキスリングのこの作品も絵画なので、実体とその像が入れ子のように重なり合っていることになるのですが、実体の影ではなく絵画自体が物そのものとして存在すること、その本質的要素としての色彩を表現したかったのかもしれません。色彩と実体、実体と絵画、絵画と色彩といった相互関係について、色々と考えてみたくなる作品だと思います。

クリムト展 ウィーンと日本1900 感想

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見どころ

…この展覧会は世紀末ウィーンを代表する画家グスタフ・クリムト(1862~1918)の没後100年、及び1869年に締結された日墺修好通商航海条約締結(1869)を端緒とする日本オーストリア友好150周年を記念するもので、クリムト作品の世界的コレクションを有するベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館の所蔵作品を中心に、日本で開催される展覧会としては過去最多となるクリムトの油彩画25点以上が出品されています。
クリムトというと華麗な装飾美、金箔を用いた煌びやかな作品が思い浮かぶのですが、クリムトの父エルンスト・クリムト金工師であり、クリムト自身も初期には弟のエルンスト、友人フランツ・マッチュと共に地方都市の劇場の装飾に関わる仕事をしていたそうで、そもそもの出発点が装飾芸術だったんですね。そうした作品にはビザンティンや中世の美術に加えて、日本美術もインスピレーションを与えていて、素材や構図、モチーフなどに既視感を覚えるような、ある種の親近感も感じることが出来ました。また、クリムトの作品の魅力は何と言っても官能的な女性美だと思いますが、今回、クリムトの作品をまとめて見てみて、月明かりの下の幻影のような青白い肌の女性像に濃密に立ちこめる官能性の裏には背徳や死の気配が分かちがたく結びついていて、それが仄暗く、退廃的な印象をもたらしているのだろうと思いました。一方、対照的に風景画は明るさが印象的で、自然の豊かさや生命力の強さへの率直な喜びが感じられるように思いました。
…私は5月の土曜日午前中に見に行ったのですが、開場直後だったため入場規制による行列が出来ていました。待ち時間は10分余りでしたが、会場内も混雑していてほとんどの作品の前に列ができていました。油彩画はサイズが大きいため後方からでも見ることが出来ますが、写真や手紙、工芸品など小型の出品作も多いので、120点全ての作品をしっかり見ようとするとかなり時間がかかるのではないかと思います。展示解説は少なめです。なお、会場併設のミュージアムショップも、混雑のため会計待ちの行列ができていましたが、レジの数は多いので待ち時間は5分ほどでした。11時過ぎに会場を出る頃には入場待ちの列がかなり短くなり、ほとんど待ち時間なしになっていたので、開場直後を避けた方が良いのかもしれません。

概要

【会期】

…2019年4月23日~7月10日

【会場】

東京都美術館

【構成】

1 クリムトとその家族
 :《ヘレーネ・クリムトの肖像》
2 修業時代と劇場装飾
 :《レース襟をつけた少女の肖像》
3 私生活
 :《葉叢の前の少女》
4 ウィーンと日本 1900
 :《女ともだちⅠ(姉妹たち)》、《赤子(ゆりかご)》 
5 ウィーン分離派
 :《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》、《ユディトⅠ》、《ベートーヴェン・フリーズ》
6 風景画
 :《アッター湖畔のカンマー城Ⅲ》
7 肖像画
 :《オイゲニア・プリマフェージの肖像》
8 生命の円環
 :《女の三世代》、《家族》
…構成及び各章の主なクリムト作品です。
…構成は主題別となっていて、特に5章「ウィーン分離派」と8章「生命の円環」は見応えがありました。5章の《ベートーヴェン・フリーズ》については、1984年に制作された全長34mを超える原寸大の複製が展示されています。なお、7章「肖像画」に出品予定だった《マリー・ヘンネベルクの肖像》は残念ながら展示されていませんでした。

klimt2019.jp

感想

《ヘレーネ・クリムトの肖像》(1898年)

…この作品のモデルであるヘレーネはクリムトの弟エルンストの娘です。当時ヘレーネは6歳だったそうですが、落ち着いた大人びた顔つきで、もう少し年上に見えますね。丁寧に描かれた横顔に対して、たっぷりとした襞のある白いワンピースは軽く素早いタッチで大まかに描かれています。背景は明るいベージュで、薄く扉か窓の枠のようなものが描かれているのが見えますが、少女の周りに装飾的に額のような縁取りを描いているのかもしれません。全体に白やベージュといった明るく淡い色調のなかで、きっちりおかっぱに切りそろえられた暗褐色の髪がくっきりと際立って見えます。少女の髪を描く筆触が滑らかで、絵の具が溶けるような柔らかさを感じました。完全な横顔というのはモニュメンタルな印象を与えるものですが、クリムトは一般的な子供を描くのではなく、幼くとも自立した一個の人格として捉え、強いて子供らしさを強調しなかったのかもしれません。少女の高い内面性、精神性が感じられる作品だと思います。

フランツ・マッチュ《女神(ミューズ)とチェスをするレオナルド・ダ・ヴィンチ》(1889年)、エルンスト・クリムトフランチェスカ・ダ・リミニとパオロ》(1890年頃)

…1876年、14歳でウィーンの工芸美術学校に入学したクリムトは、弟のエルンスト及び友人のフランツ・マッチュと共に3人で「芸術家カンパニー」を結成し、共同で活動しました。マッチュとクリムトが同時に、同じ少女をモデルに描いたと考えられる《レース襟をつけた少女の肖像》を比べると、モデルの顔を大きく描いているクリムトは表情を捉えることに関心があり、襟の模様など細部にはこだわらず素早いタッチで描いているのに対して、マッチュは肖像らしく少女の上半身を画面に収めていて、オーソドックスに描いている印象です。マッチュによる《女神(ミューズ)とチェスをするレオナルド・ダ・ヴィンチ》は半円形をしていますが、これはスープラボルトという部屋の扉の上部に取り付けられる絵画だったためだそうです。盤上に視線を落とし、口元に手を当てて考えるレオナルドと、駒を手に微笑む女神は芸術の勝負をしているのでしょうか。二人は写実的に描かれ、女神の服の細かな襞まで緻密に描かれています。一方で背景は平面的で、様式化されたクジャクが描かれ、装飾的なパターンで埋められていますが、これは絵画作品として装飾的な効果を高めると共に、絵画と建築を関連づけ、描かれた場面を実際の空間とつなげる役目も果たしているのだそうです。エルンスト《フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ》は、ダンテ『新曲』にも登場する人妻フランチェスカと夫の弟パオロの悲恋が題材の作品です。この逸話はランスロットの騎士物語を読んだあとで二人が口づけを交わす場面や、地獄の中を彷徨う恋人たちの霊として表現されることが一般的だそうで、私はロダンの彫刻《接吻》を思い出したのですが、情熱的、官能的な《接吻》と対照的に、この作品は清純さが印象的で、清らかな愛を象徴する白バラや純潔を象徴する白いアイリスなどのモチーフが取り入れられ、愛の調和を表現することがテーマとなっています。恋人を信じて身体を委ねるように寄り添うフランチェスカはエルンストの妻ヘレーネ・フレーゲがモデルだそうですから、愛情深い眼差しでフランチェスカを見つめるパオロには画家自身の心情も重ね合わせられているのでしょう。

《女ともだちⅠ(姉妹たち)》(1907年)、《赤子(ゆりかご)》(1917年)

…《女ともだちⅠ》は細長いカンヴァスに装飾的な女性像が描かれた作品で、浮世絵の美人画から着想を得たとも考えられるそうです。二人の女性が纏うシックな黒の毛皮のコートが画面の大部分を占めるなか、女性たちの青白い顔と、その表情が際立って見えます。二人は共に画面左側に視線を奪われているようなのですが、何を見ているかは分かりません。モノトーンの色彩のなかで一際目を引く女性たちの赤い唇は半ば開かれて、何かに見とれているようにも思えるのですが、その辺りは見る側の想像次第というか、こうした女性の表情やポーズ、装飾的な造形そのものを堪能するのが良いのでしょう。艶やかでミステリアスな印象の作品だと思います。《赤子》も日本美術と関連がある作品で、19世紀前半に歌川派の制作した錦絵の影響があるのだそうです。非常にユニークな構図で、色とりどりの布地が文字通り山のように積み重ねられ、一番上とも一番奥とも見える頂点に白い産着に包まれた赤ん坊が顔をのぞかせています。全体としてはほぼ三角形なのですが、各パーツをなす布地は不揃いで有機的な形状であり、その柄も一つとして同じものはありません。背景は曖昧な靄のようで、非現実的な空間であり、混沌たる色彩の揺籃の中で赤ん坊のみが白く描かれています。様々な模様の布が積み重ねられたゆりかごは人間の内面、無限の精神世界を象徴するようにも思われ、赤子は無垢であることにより世界と直接繋がり、あらゆる可能性を有する存在であり、握られた手の中にその可能性が秘められているようにも感じました。

《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》(1899年)、《ユディトⅠ》(1901年)

…正面を向いて直立し、輝く青い瞳で鑑賞者を見つめる《ヌーダ・ヴェリタス》。女性は長く垂らした豊かな金髪のほかは一糸まとわぬ姿で描かれていますが、衣服で覆われていない裸体は真実が覆われていないこと、真実が露わになっていることを意味する西洋美術の伝統的な寓意像で、完全に正面を向いた歪みのない姿は真実の厳正さを、人間のものではない目の輝きからはその超越性を感じさせます。女性が右手に持つ鏡は鑑賞者自身を写し出すものであり、足元で鎌首をもたげる蛇、すなわち否応なく目に入る罪からも目を背けることなく、ただ美しいだけではないありのままの真実を見るよう促しているのでしょう。保守的なウィーン造形芸術家協会から脱退したクリムトは、批判を恐れず新しい芸術を広めていく決意をこの作品に込めているそうです。女性の足元にうずくまる蛇はエデンの園の知恵の樹の実を食べるよう唆した悪魔を連想させますが、真実を知るには禁忌を破らなければならないこと、真実が必ずしも幸福だけをもたらすとは限らず、それまで安住してきた世界を失うことを示唆しているのかもしれません。寓意画の伝統を踏まえつつも内容は挑戦的であり、厳しい道であっても新たな表現を求める画家の意欲が表れている作品だと思います。
…ユディトは旧約聖書外典に登場する女性で、アッシリア軍の司令官ホロフェルネスの寝首を掻いてユダヤの窮地を救ったとされています。しかし、クリムトの《ユディトⅠ》は救国の英雄、信心深く勇敢な女性としてはあまりにも艶めかしく、むしろ男性に破滅をもたらす危険な誘惑者として描かれています。黄金の装身具を身につけ、薄く透ける布地の服をはだけて胸元を露わにしたユディトは、武勇に対する官能の勝利を象徴しているのでしょう。ホロフェルネスの首を手に半ば目を閉じ笑みを浮かべているユディトを酔わせているものは、実のところ官能よりもむしろそれによって手にした勝利ではないかと思うのですが、クリムトの描くユディトには祖国のためという目的は感じられず、男性を翻弄し、支配することそのものに愉悦を覚えているようにも見えます。狂気にも似た恐ろしさを感じさせる女性像だと思いますが、クリムトはこの作品を手掛けた時期に複数の女性との関係に問題を抱えていたそうで、男性にとっては不可解で制御できない女性の魅力とその力への恐れ、戦慄が表現されているのではないかと思いました。

ベートーヴェン・フリーズ》(オリジナル:1901~02年、原寸大複製:1984年)

…《ベートーヴェン・フリーズ》は1902年に開催された第14回ウィーン分離派展のために制作された壁画で、ベートーヴェンの第9がテーマとなっています。フリーズとは壁面の上部、天上との間の帯状の部分を指す建築用語だそうで、この作品は分離派会館の左翼ホールの壁面を飾っていました。壁画は三方の壁に描かれていて、第一の壁には跪く男女に懇願され、野心と憐れみに突き動かされて前進する黄金の騎士、第二の壁には騎士の前に立ちはだかる「敵対する力」、第三の壁には第9のクライマックス「歓喜の歌」に当たる場面、理想の世界に導かれ、純粋な喜び、幸福、愛を見出して抱擁する男女と合唱する天使たちが描かれています。今回の展覧会にはその原寸大複製が出品されていて、実際に壁画に囲まれた空間を体感することができるのですが、個人的には「敵対する力」を描いた第二の壁が一番印象に残りました。毛むくじゃらの顔とまだら模様の蛇の胴体を持つギリシャ神話の怪物テュフォンや「不摂生」により弛んだ肉体は醜悪なものですし、挑発的な「淫蕩」や「肉欲」、蛇の髪を持つゴルゴン三姉妹の妖しさは清純な美しさとは対照的です。「敵対する力」が決して幸福をもたらさないのは黒い布を纏って身を捩る「苦悩」の存在で明らかなのですが、クリムトの華麗な装飾美によって描き込まれているためか、かえって目を離せないような奇妙な魅力を感じました。実のところ、ここに描かれた悪徳はクリムト自身の人生にとっても大きな意味があるそうで、そうした個人的な経験が真に迫る表現を可能にしたことで、騎士の戦いの困難さと手にする勝利の価値がより説得力のあるものとして感じられるのだろうとも思います。黄金の鎧で武装した騎士を脅かす敵とは堕落であり、敵は自分自身とも考えられるでしょう。「敵対する力」との戦いを経て真実を見据え、「詩情」に安らぎと救いを見出した騎士は、正義や栄光といった輝かしい鎧と引き替えに純粋な喜びや愛を手に入れたのかもしれません。

《雨後(鶏のいるザンクト・アガータの庭)》(1898年)、《アッター湖畔のカンマー城Ⅲ》(1909/10年)、《丘の見える庭の風景》(1916年頃)

クリムトの描く風景画は人物を描いた作品の濃密さとは対照的で、明るさが印象的です。クリムトが風景画を手掛けるようになったのはウィーン分離派設立以降で、ほとんどの場合ヴァカンスのあいだに描かれたそうですが、雨上がりのしっとりとした空気が伝わってくる《雨後(鶏のいるザンクト・アガータの庭)》はそうした中でも最初期の作品です。縦長の画面は日本の浮世絵の影響もあるそうですが、確かに花鳥画を描いた掛け軸の雰囲気もありますよね。柔らかな緑の草地は放し飼いにされている白や黒の鶏の羽で彩られ、装飾的に配された木立の間からは遠景の山の斜面が見えています。出品作を見ていて、クリムトの風景画では空があまり描かれず、どちらかというと目線に対して水平から地面にかけての風景が多いように感じました。点描によって描かれた《アッター湖畔のカンマー城Ⅲ》も視線が遠くに抜けずに建物で遮られていますが、黄色の壁の建物のすぐ背後に赤い屋根が見えているほとんど奥行きのない構図は望遠鏡を使って描いたためだと考えられているそうで、パノラマではなくクローズアップする風景画なのだなと思いました。樹木の合間から見える建物の矩形は樹木の有機的な形状によって縁取られ、全体像が見えなくなっていることで人工物の異質感が弱められていて、自然のなかに溶け込むよう腐心され、平面的に描かれた赤い屋根、茶色の屋根、黄色の壁と樹木の緑、そして湖の水面は上下に層のように積み重ねられていて、全体としての均質感を生み出しています。ここに人間は描かれていませんが、その存在の痕跡である建築を描くことによって、クリムトは人間と自然との融合、一体感を表現したかったのではないかと思います。《丘の見える庭の風景》は満開の花咲く庭が前景に、背後には青々とした緑の生い茂る丘の斜面が描かれています。花の描き方が特徴的なのですが、これは輪郭を先に描いて後から色彩で埋めていく方法で、ゴッホの影響を受けているそうです。一面に咲き誇る花を色彩の点描で表現せず、あえて一つ一つ形を描いているのは、たとえ小さくともそうした部分が全体を形作っているのであり、自然のミクロな部分と風景全体との調和を表現したかったからかもしれません。息苦しいほどにひしめく花や、空に向かって聳え視界を覆い尽くすような緑の丘からは、昼の明るい陽光の下に生命を燃焼させる自然の強さ、逞しさが感じられます。クリムトの風景画のテーマは空間の広がりや壮大な景観よりも地上の草花自体、その多様さや豊穣さ、またそうした豊かな自然と人間の営為との調和といったところにあるのかもしれません。夏の昼間の花盛りの庭を舞台に、宇宙、季節、生命といった世界の全てが頂点にある瞬間のエネルギーが感じられる作品だと思います。

《女の三世代》(1905年)

…《女の三世代》では、黒と灰色に分割された無彩色の背景の中央に、鮮やかな色彩で三人の人物が描かれています。背景のうち灰色の部分が黒ずんでいるのは使用された銀箔の一部が酸化したためで、完成直後はもっと明るい銀色だったようです。画面右側、幼児を抱いた若い女性が占める部分は青や緑が基調で、背景には円や渦巻、ピアノの鍵盤のような白黒の方形、足元には三角のパターンなど様々な模様が描かれています。白い花冠を被った女性の髪に花がちりばめられ、身体に緑の蔓が巻き付いている姿は樹木の化身のようでもあり、自然と女性を重ね合わせて、生長や豊穣を象徴しているように思われます。左側の老年の女性が占める部分は赤や黄が基調で、背景には鹿の子のような小さな円が描かれています。項垂れる女性の肩口は夕暮れを思わせるように赤く、足元には不吉な黒い影が差していて、終わりの時が近づいていることを暗示しているようです。若い女性は微睡む幼子を抱いて夢見るように瞼を閉じ、一方、老年の女性は老いを嘆いて、もしくは死を恐れるように顔を血管の浮き出た手で覆っていますが、描かれた三人のいずれも目を開けていない点は共通しています。これは《家族》(1909/10年)に描かれた母子の三人も同じで、眠りは死の似姿という言い習わしに従った表現かもしれません。老いた女性の衰えた肉体は克明に描写されていますが、官能的な女性美と表裏一体だった死の気配がここでは分離されることによって存在を顕わにしています。若くして父や弟を失ったクリムトは、自身を恐れさせた死をあえて具現化し、見据えるために描いているのかもしれなません。そう考えると、目を開けて現実を見るべきは描かれた人物たちより、むしろ作品の鑑賞者の側とも考えられます。《ベートーヴェン・フリーズ》において「敵対する力」の描写に特に力がこもっているように思われたことと同じものを感じるのですが、クリムトは自分が直視しなければならないもの、乗り越えなければならないものを正確に見つめ、自分の表現として捉え直し、自分の世界の中に取り込むことで乗り越えていこうという気持ちを持っていたのかもしれないと思いました。

印象派への旅 海運王の夢――バレルコレクション 感想

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見どころ

…この展覧会はイギリスの実業家ウィリアム・バレル(1861~1958)のコレクションが初来日するものです。グラスゴー市に寄贈された数千点に上るバレルのコレクションは、遺言により長らくイギリスの国外に持ち出すことができなかったのですが、2014年に女王の裁可を得て遺産条項が改訂され、美術館の大規模改修に伴い今回海を渡って日本へ来ることとなりました。バレルが蒐集した美術品は中世から近代まで、またヨーロッパにとどまらずイスラム圏や中国にまで及ぶ幅広いものですが、この展覧会は19世紀後半のフランス、オランダ及びイギリスの画家たちの作品を中心に、同じグラスゴーに所在するケルヴィングローヴ美術博物館のルノワールセザンヌなどの作品7点も加えた80点で構成されています。
…バレルは画商のアレクサンダー・リードと一緒にパリに行けばドガのアトリエに行くことが出来たかもしれないのに、と書き残すほどドガの作品の好み、22点も購入していますが、出品作全体ではクールベブーダン、コロー、ドービニーなど印象派以前から同時代に活動した印象派以外の画家たちが多く、華やかさや斬新さよりも写実的で落ち着いた雰囲気の作品が多いように思いました。また、バレル自身は海運業で成功した大コレクターなのですが、所有している作品には庶民の日常や田園風景など、気取りのない素朴で親しみやすい作品が多く、バレルの気質が垣間見えるようにも感じました。個人のコレクションですから、コレクター自身の美意識や価値観が反映されるのは当然なのですが、テオデュール・リボーやフランソワ・ボンヴァンなど19世紀後半のリアリズムの画家たちを新たに知る機会ともなり、彼らの作品を見ることが出来て良かったです。
…個人的には、先日「ドービニー展」(東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館)を見てきたばかりだったので、この展覧会でまた作品を見ることが出来たのが嬉しかったです。兄と共に家業の海運事業に携わっていたバレルが、海辺や川辺など水に因んだブーダンやドービニーの作品を所有しているのは自然なことに思いますが、実はこうした傾向にはコレクター個人だけでなく地域性も関係しているそうです。スコットランドのコレクターたちにはドービニーやアドルフ・エルヴィエ(1818~1879)など、海や川が含まれ、西スコットランドを思わせる淡い灰色の光に包まれている作品を多く描いた画家たちが特に好まれたそうです。
…そうした作品をコレクターたちにもたらした画商の存在、役割の大きさも今回、改めて意識させられました。グラスゴーの画商アレクサンダー・リード(1854~1928)はゴッホ兄弟とパリのアパルトマンで同居していた期間(1886~87)があり、画商のテオを介してドガをはじめ印象派の多くの画家たちとの繋がりもできたのだそうです。展覧会の冒頭にはゴッホによるリードの肖像画も展示されていましたが、物憂げで思慮深そうな顔立ちのリードが緑と赤の点描によって描かれていて、控えめながらも熱意を秘めているような印象を受けました。目利き、腕利きの画商たちの仕事があってこそ、優れたコレクター、コレクションも育つのですね。
…出品作は個人のコレクションということもありサイズの小さなものが多かったのですが、平日の午前中に行くことが出来たので、落ち着いてじっくり見ることが出来ました。所要時間は2時間程度です。なお、会場内は最後の「外洋への旅」の展示スペースが写真撮影可能でした。

概要

【会期】

…2019年4月27日~6月30日

【会場】

Bunkamuraザ・ミュージアム

【構成】

 序 ゴッホ「アレクサンダー・リードの肖像」
 第1章 身の回りの情景
  1-1 室内の情景
  1-2 静物
 第2章 戸外に目を向けて
  2-1 街中で
  2-2 郊外へ
 第3章 川から港、そして外洋へ
  3-1 川辺の風景
  3-2 外洋への旅
…「1-1 室内の情景」は主に人物画、「2-1 街中で」は風俗画に類する作品が多く、概ね主題のジャンル別の構成となっています。「2-2 郊外へ」、「3-1 川辺の風景」、「3-2 外洋への旅」は風景画が中心で、全体としては風景画の比率が高かったです。身辺から徐々に遠く離れ、描かれる世界が広がっていく章立ては、バレルのコレクションを通して旅をするイメージとのことです。数多くの絵画を蒐集したバレルですが、自身は控えめな性格で肖像画のモデルにはならなかったそうです。また、バレルは1911年から作品の購入簿を付けていて、いつどこで買った作品なのかは分かるものの、なぜその作品を購入したかについては分からないのだそうです。バレルは購入したフランス絵画を英国各地の美術館に積極的に貸し出していたそうなので、自身の楽しみや慰めのためである以上に、芸術は公共の財産という意識が強かったのでしょうね。

https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/19_burrell/

感想

テオデュール・リボー「勉強熱心な使用人」(1871年頃)

…テオデュール・リボー(1823~1891)は風俗画や静物画を得意とした画家で、「勉強熱心な使用人」は、料理人やお針子など庶民の日常を描いて人気を博した作品群のうちの一点だそうです。暗い背景を背に浮かび上がる白いエプロンを着けた女性は掃除の途中のようで、小脇に大きなはたきのような道具を抱えて立っていますが、掃除の手を止めて熱心に本を読んでいます。深緑色のクロスがかかったテーブルの上に積まれている本は、この屋敷の主人のものでしょうか。明暗のコントラストが強調された画面のなかで僅かに卓上の本だけが鮮やかな色彩を持ち、女性の円錐形のスカートがどっしりとした安定感を感じさせる構図となっています。女性は使用人ですからおそらく高い教育は受けていないと思われますが、文字が読めるんですね。伝統的な風俗画の場合、仕事を怠けている女中というモチーフは怠惰を戒める意味合いがあったりするのですが、この作品では労働の傍ら勉強している向学心として肯定的な意味合いに変化しているようで、上方から女性に降り注ぐ光はこの静謐な作品に気高い雰囲気を与えているように感じられます。バレル自身、十五歳で家業を継いだため美術史は独学で、娘には自分より高い教育を与えたいとフランス人の家庭教師を付けてもいます。バレルはこの作品を最晩年に購入したそうですが、教養を身につけることで人格を高め、人生を豊かなものにしたいという気持ちを終生変わらずに抱き続けていて、この作品を購入した動機となったのかもしれません。

フランソワ・ボンヴァン「狩りの獲物のある静物」(1874年)

…親密な室内空間を彩る静物画はどちらかというと小ぶりなものが多いと思うのですが、フランソワ・ボンヴァン(1817~1887)の「狩りの獲物のある静物」は静物画としてはサイズが大きく、堂々としたスケールがまず印象的でした。ボンヴァンは19世紀半ばのフランスにおける写実主義を代表する画家の一人であり、緻密な描写による兎の毛皮と艶やかな果物の質感の違いの描き分けが見事です。画面の中心を占める兎は足を括られた姿で、白いテーブルクロスに血が流れ落ちているのが生々しく感じられるのですが、ヨーロッパでは店先で売られる肉に羽根が残っていたり血が付いていたりするのは新鮮さの証拠であって、他にも例えばリボー「調理人たち」では羽をむしる若い調理人の頬に血が付いていたりします。バレルは狩猟を嗜み、仕留めた獲物を画商たちへの贈りものにしていたそうなので、コレクター自身にとっても生活の一部であり、好みに適った作品なのでしょう。こうした静物画は伝統的には生命の儚さを示唆する寓意画でもあったのですが、19世紀にはヴァニタスのニュアンスは後退して、画家たちはより客観的に対象を描くようになったそうです。収穫の豊かさや狩猟の成果に対する静かな充実感や喜びが感じられる作品だと思います。

エドガー・ドガ「リハーサル」(1874年頃)

ドガはバレエを主題とする作品を数多く手がけていますが、出品作の「リハーサル」は同主題を描いた油彩画のなかでも最初期の作品だそうです。斜めのフロアや画面左側を遮る螺旋階段など大胆な構図が臨場感を演出していますね。床が鑑賞者に迫ってくるように感じられるのは写真の影響かもしれません。足を高く上げてポーズを取るバレリーナたちには躍動感があり、画面右端では衣装を身につけているバレリーナが見切れていたり、よく見ると階段からフロアに降りてくる足まで描かれていて、まさに一瞬を切り取ったような場面なのですが、ドガは実際にあった場面をそのままを描いているわけではないのだそうです。しかし、ドガはリハーサルを繰り返し見ることで、舞台裏で練習を重ねるバレリーナたちの動作や表情、関係者の様子や全体の雰囲気を的確に把握し、実際以上のリアリティを再現することに成功していると言えるでしょう。踊るバレリーナたちと画面手前で休息している笑顔のバレリーナとの動と静、白いチュチュと鮮やかな青や黄色など上着の色彩、若いバレリーナたちと年配のダンスマスターや衣装係の女性など、入念に配置されたモチーフには巧みな対比が用いられています。印象派の一人とされるドガですが、床に映る影や光に透けるチュチュによって表現された淡く揺らぐ室内の陰影に、眩い外光とはまた異なる柔らかさ、繊細な魅力が感じられる作品だと思います。

マテイス・マリス「蝶」(1874年)

…花輪を手に横たわり、二匹の蝶を眺める女性。彼女はまだ少女と言っていいほどの若さです。女性のそばに白い花が咲いているところを見ると、彼女が横たわっているのは草原なのでしょうか。背景の空間は曖昧で判然としないのですが、実は11層もの絵の具を塗り重ねている場所もあるそうです。女性のブルーのドレスと豊かな長い金髪の対比が鮮やかですね。オランダ出身の画家マテイス・マリス(1839~1917)は褐色を偏愛したそうですが、1869年にパリに移住してから主題によっては華やかな色調も扱っていて、「蝶」はそうした作品の一つだそうです。この作品は写実的な出品作が多い中では異色の幻想的な雰囲気があり、印象に残りました。幼虫から蛹、そして成体へと変容する蝶は儚さと変わり目を象徴するそうで、女性が少女から大人に成長していくことを示唆しているのでしょう。マリスにとっては心ならずも描いた「売り絵」なのだそうですが、女性の夢見るような甘美な表情に鑑賞者も夢幻の世界に引き込まれるような作品だと思います。

ウジェーヌ・ブーダン「トゥルーヴィルの海岸の皇后ウジェニー」(1863年)、シャルル=フランソワ・ドービニー「ガイヤール城」(1870~74年頃)

ブーダン(1824~1898)やドービニー(1817~1878)は印象派には加わりませんでしたが、いずれも戸外での制作を積極的に行った画家たちです。ブーダン「トゥルーヴィルの海岸の皇后ウジェニー」に描かれているトゥルーヴィルは鉄道網の発達に伴ってパリ市民の避暑地として人気を集め、「浜辺の女王」とも呼ばれたそうです。前景には流行のドレスを纏って海岸を散策する皇后一行、後景には浜辺近くに集まっている中産階級の市民たちが描かれていますが、庶民も高貴な人々もこぞって同じ場所に出かけて楽しむ時代になったとも言えそうです。しかし、この作品の主役は何よりも大きく描かれた空でしょう。青空に浮かぶふんわりとした雲が生彩ある筆致で描かれ、はためく三色旗とともに爽やかな海風を感じさせる軽快な風景だと思います。当時の社会の流行が分かるブーダンの作品に対し、ドービニー「ガイヤール城」に描かれているのは、12世紀末にイングランドリチャード1世がセーヌ河岸に築いた城跡です。先日の「ドービニー展」を見た限り、ドービニーの風景画にランドマーク的なモチーフが登場することはあまりないようだったので珍しく感じましたが、イギリスにも縁のあるこの作品をバレルが手に入れた気持ちは分かる気がします。バレルはこの作品に描かれたガイヤール城を自分の居城に見立てていたそうなので、個人的にも思い入れを感じていたのでしょうね。波のない静かな川面に古城の影、生い茂る川岸の木立、うっすらと赤く色づいた雲が映り込んでいて、夕暮れ時の穏やかさに包まれるような風景だと思います。

アンリ・ル・シダネル「雪」(1901年)、「月明かりの入江」(1928年)

…インド洋に浮かぶ英領モーリシャスに生まれたアンリ・ル・シダネル(1862~1939)は、10歳で両親の故国フランスの地を踏んだのち国立美術学院に進学し、1890年代に象徴主義の影響を受けて独自の画風を展開しました。「雪」はノルマンディー地方ジェルブノワの街の一角を描いたものですが、まるで水滴で曇ったガラス越しに見るようなソフトフォーカスのかかった画面が特徴です。柔らかな触感が目で感じられるようですが、シダネルは雪の白にバラ色や灰色、青などの色を交えた細かな点描を積み重ねることでこの幻想的な画面を作り出しています。画面の中心、建物に囲まれた広場では、冬の日差しのなかドーム状の屋根が目を引く井戸が存在感を放っています。「月明かりの入江」も同様に、細かな点描を重ねたヴェールのかかったような画面で、青緑色のグラデーションで海と港の街並み、背後の山、そして夜空が描き分けられています。灯台や家の灯りが宵闇に包まれた風景のアクセントになっていますね。空に月は見当たりませんが、水面に映ったかすかな船影が優しい月明かりの存在を感じさせます。じっと見ていると入江に停泊する帆を畳んだ船の姿は、まるで眠っているようにも思えてきます。「雪」も「月明かりの入江」も、人気のない風景のなかから井戸や船といった声なきものの姿が立ち現れ、そのひっそりとした息づかいを感じさせる佇まいが静かに世界を満たして、温かみを感じさせる作品になっていると思います。

シャルル・フランソワ・ドービニー展 感想

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見どころ

…この展覧会は19世紀フランスを代表する風景画家シャルル=フランソワ・ドービニー(1817~1878)の日本初の回顧展で、ドービニーの作品約60点と共に、ドービニーと交流のあったコローなど他の画家たちの作品約20点について、ランス美術館の所蔵品を中心に構成されています。
…ドービニーはバルビゾン派の一人で、コローと親交があり、特に水辺の風景を描いた作品を多く残しています。戸外で描かれた明るく瑞々しい作品は「粗描き」、「未完成」、「印象」等の批判も受けましたが、モネやゴッホら若い画家たちに影響を与え、また、後年サロンの審査員を務めた際は印象派の作品を評価するなど、バルビゾン派印象派を繋ぐ役割を果たしました。
…画家の家系に生まれ、風景画家を父に持つドービニーは当初歴史画家を目指していたものの、画家の登竜門であるローマ賞に落選したため、出版物の挿絵などを手掛けつつ専ら風景画を制作するようになったのだそうです。もしも歴史画家になっていたら、風景画家ドービニーは存在しなかったんですね。ドービニーの作品は伸びやかさや瑞々しさが魅力で、後の印象派への繋がりが確かに見て取れるように感じました。
…ドービニーは戸外、特にアトリエ船を使った制作活動に特徴があり、そうした船を用いるユニークな制作方法はモネにも影響を与えたそうです。実際、モネの作品には時々どう見ても池の中で描いたとしか思えないものがあるのですが、ドービニーの水辺の風景に魅力があったからこそ、制作方法を取り入れるきっかけになったのだろうと思います。
…また、今日ゴッホの亡くなった街として知られているオーベール=シュル=オワーズはドービニーのアトリエがあった街で、ドービニーを慕っていたゴッホはドービニー宅の庭を作品に描いてもいます。直接の交流はなかったものの、自然の中に身を置き、実際に対象を前にして感じたものを表現したゴッホの作品は、積極的に戸外で制作し、新鮮な印象を画面に写し取ったドービニーの作品からの影響もあるのだそうです。
…私は今回初めてドービニーの名を知ったのですが、バルビゾン派の仲間たちや後進の画家たち、そして家族に囲まれ、慕われたドービニーの温厚な人柄そのままの穏やかな田園風景に包み込まれるような展覧会だと思いました。
…私は会期初日の午後に見に行きましたが、落ち着いてじっくり作品を見ることが出来ました。解説は少なめですが、ドービニーが旅した土地やアトリエ船ボタン号の模型、版画集「船の旅」などの情報と、描かれた作品とを合わせて見ることで、どんな風に制作していたかが分かり面白かったです。所要時間は60~90分程度です。

概要

【会期】

…2019年4月20日~6月30日

【会場】

東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館

【構成】

序章 同時代の仲間たち
第1章 バルビゾンの画家たちの間で(1830~1850)
第2章 名声の確立・水辺の画家(1850~1860)
第3章 印象派の先駆者(1860~1878)
第4章 版画の仕事
…展示の中心となるのは第3章で、出品作の半分以上を占めています。また、出版物の挿絵などで版画の技術を培ったドービニーは、画家としての地位が確立して以降も版画作品を制作していて、今回の展覧会でも「船の旅」など多数が出品されています。なお、第4章にはドービニーの息子で風景画家になったカール・ドービニーの作品も出品されています。

www.sjnk-museum.org

感想

…ドービニーの作品を見ていてまず感じたのは、単純ですが晴れた日の風景が多いということです。ドービニーは戸外、ことに船で制作していたのですから、天候の良い日が多くなるのは当然とも言えますね。もっとも、アトリエ船と言っても実際は揺れる船上より岸に降りて描くことの方が多く、完成品は自邸のアトリエで仕上げたと推測されているそうですが、悪天候では制作に支障を来すでしょうし、晴れた日の風景が多いのはドービニーが制作のため実地で風景を見ることを好んでいたことの表れだと思います。
…また、緑豊かな風景を描いた作品が多いのですが、ドービニーを含む19世紀前半の風景画家たちは、季節の良い時期に各地を旅して習作を描き溜めていたそうなので、春や初夏を思わせる瑞々しい風景が多いのでしょう。
…水辺の風景が多いのは、制作にあたってアトリエ船を利用したためであり、サロン(官展)で水辺の風景が評価されて同様の作品の需要が高かったことが何より大きいのでしょう。それと共に、水のほとりは人々の生活と近く、生き物が集まる場でもあります。ドービニーの風景画は水・陸・空の自然の三つの要素が揃っているものが多く、水辺の風景のなかに小さいながらも完結した自然界が成立しているように感じます。また、光を反射する水面はときにもう一つの空と言って良いほど、画面を明るくする効果もあると思います。
…ドービニーの描いた風景には具体的な地名を連想させる名所旧跡などランドマーク的なものはあまり見当たりません。もちろん、作品タイトルに地名が入っている場合も多いのですが、単に場所を示すだけといった感じで、場合によっては「池と大きな木のある風景」や「森の中の小川」のように、何処を描いているか明示されていない場合も少なくありません。裏を返せば場所が何処であるか分かる必要がないということであり、有名な土地を観光した気分を味わったり、その土地にまつわる物語を楽しんだりするよりも、むしろ、特別ではないありふれた平凡な風景に美を見出すところに新鮮さがあったのではないかと思います。あるいは、現在ではなく、少し前の懐かしい過去を旅する気分になったのかもしれません。何処にでもありそうな水と緑に囲まれた爽やかで親しみやすい風景は、産業革命や都市化の進展に従って急速に日常から遠ざかりつつあり、反比例するように人々は穏やかな田園風景を通して古き良き時代の安らぎを求めるようになったのでしょう。距離の変化がかつては当たり前だったものの価値を認識させ、かけがえのないものであることを発見させたのでしょうね。身近で気持ちを和ませ、安らぎを与えてくれる風景。ドービニーの描いた風景の理想化とリアリズムの絶妙なバランスが人々の共感を呼んだのかも知れません。
…版画集「船の旅」は、アトリエ船ボタン号での旅の様子を家族や親しい人に見せるために描いたスケッチが元になっているそうで、船上におけるドービニーの制作の様子を知ることが出来ます。また、昼食を取っているドービニーの船の周りで魚たちが自分たちも食べたそうに水面から顔を出していたりとユーモアも交えられていて、画家の気さくな人柄が垣間見えると共に、各地を旅して旺盛に制作しながら家族のことも大事にしていたことが感じられました。
…素朴で穏やかな風景を数多く描いたドービニーですが、晩年の作品では暗い空模様や谷間のゴツゴツとした褐色の岩場など、険しさや力強さを感じさせる風景も描いています。ドービニーは若い印象派の画家たちを擁護するだけでなく、自身もより大胆な筆遣いによって生々しく流動的な印象を与える作品を描いていて、画家として成功してもとどまることなく、さらに新たな表現を追求していたのだろうと思いました。

ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち 感想

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見どころ

…「ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち」は19世紀末の象徴主義を代表する画家ギュスターヴ・モロー(1826~1898)の画業のうちでも中心的な主題、男性を魅了、支配し、それゆえに破滅をもたらす宿命の女(ファム・ファタル)を描いた作品に焦点を当てたものです。絵画作品は全てギュスターヴ・モロー美術館所蔵のモローの作品で、東京展の出品数は69点ですが、そのうち油彩画は44点と充実した内容になっています。
…モローと言うと代表作の一つ「出現」に描かれたサロメが思い浮かびます。この展覧会ではモローによるサロメを主題とする作品だけで一章が割かれていて、同じサロメでも作品によって無垢で可憐であったり、神秘的で妖艶であったりと、表現の違いが感じられて興味深かったです。また、歴史画家を自認していたというモローは神話や聖書に登場する様々な女性たちをドラマティックに描いていますが、今回の展覧会にはモローが身近な女性たちを描いた素描も出品されています。モローは宿命の女を好んで主題に取り上げましたが、実生活で関わりの深かった女性たち、母や恋人はむしろ正反対の献身的で善良な女性たちだったというのも人の心の不思議を感じました。
…会期初日の午後に見に行きましたが、落ち着いて作品を近くでじっくり見ることが出来ました。ただし会場が小さめであることと、素描など小型の作品も多いため、混雑しているとやや作品を見づらいかもしれません。音声ガイドはありませんが、展示作品のほとんどに解説文があります。また、ルオー作品のコーナーは特別展に合わせてモローに因んだ内容になっていました。モローに師事したルオーはモロー美術館の初代館長も務めていますから、そうした縁もあって今回の展覧会開催に繋がったんでしょうね。比較的小規模な展覧会のため、所要時間は60分程度でした。

 概要

【会期】

…2019年4月6日~6月23日

【会場】

パナソニック留美術館

【構成】

 第1章 モローが愛した女たち
 第2章 《出現》とサロメ
 第3章 宿命の女たち
 第4章 《一角獣》と純潔の乙女

panasonic.co.jp

感想

*作品名のあとの数字は図録番号です。

「パルクと死の天使」(1890年頃、№33)

…今回の出品作を見てみて、モローの作品は人物の表情をクローズアップで描いたものは少なめで、建物や風景など広い空間の中で人物を描いている場合が多いと感じました。モローは歴史画家を自認していたそうなので、場面全体を描くことで主題の物語を表現しているのでしょう。また、モローの描く女性たちは概ね個性的であるより理想化されて普遍的な容貌をしているように思います。そうした謂わばパブリックなモローの作品に対して、母や恋人など身近な女性たちを描いたプライベートな作品を見ると、彼女たちは個性的で生活感があり、距離の近さやくだけた親密さが感じられました。
…しかし、1884年に母ポーリーヌ・モローが、1890年に恋人アレクサンドリーヌ・デュルーが世を去り、残されたモローは大きな痛手を受けました。「パルクと死の天使」(1890年頃、№33)は心の拠り所を失った中で描かれた作品で、モローは愛する者を奪った無情な運命を自身の感じるまま率直に、禍々しく恐ろしい姿で描いています。沈む太陽を背に、夜の闇に包まれつつある荒野を進む死の天使。その馬の手綱を取るのは冥府に属する運命の女神パルクの一人で、運命の糸を断ち切るアトロポスです。馬上から鑑賞者を見下ろす天使の表情は窺えませんが、左手で掲げているのは剣でしょうか。不吉な赤い翼は血の色のようでもあり、黒や暗い青などを主とする画面のなかでひときわ鮮烈に感じられます。モローの作品というと幻想的で優美、妖艶といったイメージがありますが、この作品はそうしたイメージとは全く異なる迸るような激しさや荒々しさを感じさせる色彩とマティエールで描かれていて、モローの喪失感の大きさや悲嘆の激しさなど、強い感情が込められているように思いました。

サロメ」(1875年頃、№45)、「出現」(1876年頃、№62)

サロメ、ことに「出現」(№62)はモローの代名詞と言って良いほどですが、今回は暗い背景に浮かび上がるすらりとした白い肢体が美しいサロメ(№99)や、意味ありげな横顔のサロメのアップ(№104)など、これまで見たことのなかった作品も見ることが出来ました。モローのサロメは単に男性に破滅をもたらす悪女というだけでなく、時に無垢な少女であったり、力強かったり、妖艶であったりと作品ごとに様々な表現がなされているのですが、モローにとって一種神秘的にも感じられたのであろう女性の多面性が、サロメの物語とうまく噛み合って想像力を大いに刺激されたのかもしれません。特に「ヘロデ王の前で踊るサロメ」の習作として描かれた白い衣装のサロメ(№45)と出現のサロメ(№62)とは、同じサロメでありながら祈るサロメと対峙するサロメという対比が鮮やかに感じられました。前者のサロメは、何枚もの布を複雑に身体に巻き付かせた東洋風の衣装を纏っていますが、これはモローが彼女を「神秘的な性格を持った巫女のような、宗教的な魔術師のような人物」にするために作り出したものなのだそうです。確かに、花を手に目を伏せて祈るように佇むサロメは、母ヘロデアに唆されて洗礼者ヨハネを処刑するようヘロデ王に迫る悪女ではなく、純潔な巫女であり、可憐な少女に見えます。神事や祭礼において神に奉納する舞いや踊りはしばしば忘我をもたらすものですが、このサロメは自分の願いを叶えるために一心に祈っているのではなく、巫女として、自我を無にして神の依り代になろうとしているのでしょう。しかし、同じサロメでも「出現」のサロメは、現れたヨハネの首を強い視線で見返し、まっすぐに指さして対峙しています。床に血溜まりのみが残されたなか、ヨハネの首が宙に浮かんでいる図像が強烈で目を引きつけますが、現実の光景ではなく幻影または象徴であり、ヨハネの精神が現れたものと考えられます。ヨハネは官能の源泉である肉体を失うことで魂が肉体から自由になり、純粋に精神的な存在になることで聖人として完全な存在になったとも言えそうです。対するサロメはしっかりと地に両足をつけ、肉体を持つ存在=地上的、現実的な存在であることが表現されています。両者の間のただならぬ緊張感は、人間の持つ精神と肉体、神への愛である信仰と肉体的な性愛、永遠不滅の霊魂と死と生殖による再生を営む有限な個体との間にある緊張を示唆していると考えられます。ヨハネの頭部から発する霊的な光輪とサロメの戴くきらびやかな王冠は対になっていて、両者は共に尊重されるべき存在であることが分かりますが、虚空に浮かぶヨハネのほうがサロメより高い位置にあり、より高次元の存在であることを示しています。この作品ではサロメヨハネに向かって手を伸ばしていて、能動的主体的な宿命の女として描かれているように感じられますが、サロメから差し伸べられている手は官能への誘惑と聖なるものへの憧憬という両面があるのではないでしょうか。しかし、ヨハネサロメに応じる腕はなく、介在し得るのは精神の愛のみです。飛躍した想像ではありますが、サロメはヘロデアの望みを叶えたのではなく、ヨハネの望みを叶えた、あるいは神の意志を実現させたのかもしれないと思いました。

「セイレーンと詩人」(№119)、「死せるオルフェウス」(№117)

…この展覧会のテーマである女性ではないのですが、個人的にはモローの描くオルフェウスの表現が印象に残りました。
…「セイレーンと詩人」(№119)はタピスリーための油彩下絵として描かれた作品で、海底の洞窟で魚か蛇のような尾を持つ怪物セイレーンが竪琴を背負った詩人の頭に手を置いています。女性が男性の頭に手を置くポーズは「ヘラクレスとオンファレ」(№115)にも見られるもので、女性による男性の支配を印象づける構図です。セイレーンは目を見開いて足元で蹲る詩人をじっと見下ろしていますが、詩人の顔からは血の気が失せ、死んだように目を閉じています。詩人ということでオルフェウスのバリエーションでもあるのでしょうか。ギリシャ神話にはオルフェウスがイアソン率いるアルゴー号での航海中、乗員を誘惑しようとするセイレーンに対抗して歌い、乗員を救ったというエピソードもあり、歌声で船乗りを惑わせて引き寄せ、命を奪うセイレーンと、歌声で心のない野獣や木石をも感動させたというオルフェウスは対照的な存在と言えます。しかし、ここに描かれている詩人はセイレーンに敗北して囚われてしまったようです。あるいは、セイレーンが詩人の歌声に魅了されて海の底に引き寄せたのかもしれません。両者は相容れないが一対の存在として表現されているように思います。
…一方、「死せるオルフェウス」(№117)ではバッコスの信女に殺されたオルフェウスが大地に横たわっていますが、首のない死体は斬首された洗礼者ヨハネのイメージと共通しています。愛する妻エウリュディケを失ったオルフェウスは悲しみにくれて女性を遠ざけるようになったのですが、女性の誘惑を退けることは官能の源泉である肉体の否定でもあり、死を運命づけられているとも考えられます。モローは恋に破れて投身自殺をしたという伝説があるサッフォー(№144)を「巫女」と呼び、詩を通じて神の声を伝える聖なる存在と捉えていたそうですが、神の声を伝える詩人を預言者と重ね合わせることによって、殉教者としての聖性を持たせているのかもしれません。なお、母と恋人を失ったモローは「エウリュディケの墓の前のオルフェウス」を描くなど、オルフェウスを芸術家の象徴として自身と重ねていることもあります。オルフェウスもサッフォーも優れた詩人であると共に、愛に殉じた詩人でもあり、彼らの詩=芸術の源泉は愛だったとも言えるでしょう。モローから話は逸れますが、モローの教え子であるルオーはヴェロニカ伝説に因む「聖顔」を繰り返し描いているのですが、聖なる首に拘った理由の一つには師のモローの作品に描かれたヨハネオルフェウスの影響があるのだろうとも思いました。

「一角獣」(1885年頃、№156)

…男性を魅了して破滅に導く女性たちを数多く描いたモローですが、1883年にパリのクリュニー中世美術館で一般公開された「貴婦人と一角獣」のタピスリーに触発されて、純潔の象徴である一角獣を伴った女性の主題にも取り組みました。「一角獣」(1885年頃、№156)は海の見える草原で寛ぐ美しい貴婦人たちが一角獣を伴っている作品です。中景の大樹の背後には空や入り江など開けた穏やかな風景が広がっていますが、モローの言によるとここは魔法にかけられた島であり、閉ざされた女性だけの園なのだそうです。自然の風景は「サロメ」や「デリラ」(№108)の閉ざされた建築空間とは対照的で、宿命の女たちが人の手になる世界の住人であるのに対して、純潔な乙女たちは神の手になる世界の住人であることを示唆しているのかもしれません。女性たちのうち似通った顔立ちの二人、華麗な装飾の施された赤いドレスの貴婦人と、玉座らしきものに腰掛けている裸体の貴婦人とは対になる存在で、それぞれ地上のヴィーナスと天上のヴィーナスを象徴しているとも考えられます。後者は帽子や装身具、帯などが貴婦人の白く華奢な裸体を一層際立たせてクラーナハの描く美女たちのように官能的なのですが、彼女の傍には聖杯が置かれていてこの女性が体現しているのは神の愛であると思われます。一方で、彼女は純潔の象徴である百合と共に、楽園には似つかわしくない剣を携えています。剣は放縦な欲望を寄せ付けず、閉ざされた楽園を守護するためのものかもしれませんし、あるいはむしろ、来たるべき犠牲者=救世主を待っていて、聖杯はその血を受けるためのものなのかもしれません。その犠牲者はただ欲望に突き動かされた存在ではなく真の美、神の愛を求める者であり、肉体を失ったオルフェウスヨハネと重ねることもできそうです。物質的な肉体を持たない天上のヴィーナスと精神的な存在となったヨハネオルフェウスとの結びつきというのが、モローの到達した究極の愛のあり方だったのかもしれません。

東日本大震災復興祈念 伊藤若冲展 感想

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見どころ

…「伊藤若冲展」は110点(会期中に一部作品の展示替えあり)の出品作全てが伊藤若冲(1716~1800)の作品で構成された、若冲の世界を堪能できる展覧会です。『動植綵絵』で名高い若冲の著色画は驚異的な緻密さと華麗な色彩で見る者の目を奪いますが、この展覧会は水墨画の作品が多いのが特徴の一つです。若冲水墨画には著色画とはひと味違う、自由闊達で軽妙な味わいがありますが、一方で生きとし生けるものに対する透徹した真摯な眼差しは著色画でも水墨画でも変わることなく共通していると思います。
若冲は生涯を通じてほとんど住み慣れた京都を離れることはなく、作品には「平安城若冲居士藤汝鈞画於錦街陋室」と、画名と共にアトリエのある錦小路の地名も書き入れたりするほどで、自らが生まれ育ち暮らす街に誇りと愛着を持っていたと思われます。しかし、天明の大火(1788、天明8年)によって京都が焼け野原となったため、齢七十歳を超えた若冲も避難を余儀なくされました。出品作の『蓮池図』は若冲が大阪に移住していた時期に手掛けられたもので、大火に見舞われた京都への願いが込められていると考えられるのだそうです。この展覧会はそうした若冲の願いに、福島復興への願いを重ね合わせた展覧会です。

概要

【会期】

…2019年3月26日~5月6日

【会場】

福島県立美術館

【構成】

 第1章 若冲、飛翔する
 第2章 若冲、自然と交感する
 第3章 若冲、京都と共に生きる
 第4章 若冲、友と親しむ
 第5章 若冲、新生する

jakuchu.org

感想

…この展覧会は若冲の作品のうちでも水墨画の作品が多いことが特色だと思います。若冲の著色画は良質の画材を惜しみなく使い、尋常でない根気と集中力によって極限まで密度を高めた表現に圧倒されますが、一方の水墨画の作品は、のびのびとして自由闊達な筆捌きと、遊び心や実験精神によって対象を生き生きと描写していることが魅力だと思います。一本の線に動きを感じ、余白に空間の広がりを想像し、墨の濃淡に色彩を見分ける水墨画は対象を高度に抽象化していると思うのですが、描く側はもちろん、見る側もそれに慣れているというのは実はすごいことなのではないかとも思いました。

若冲の作品というと、鶏をはじめとする動植物を描いた花鳥画がまず頭に浮かびますが、今回の展覧会では比較的人物画が多く、新鮮な印象を受けました。若冲の人物画は「売茶翁像」のように写実的な作品と、「三十六歌仙」のように戯画的な作品に分かれるようですが、個人的には初期の作品である「寒山」が印象に残りました。中国唐代の隠者である寒山は、拾得と共に常識を超越した脱俗のキャラクターとして禅宗絵画にしばしば描かれていて、先日の「奇想の系譜展」では狩野山雪の「寒山拾得図」が出品されていました。しかし、山雪の奇怪で不気味な寒山に対して、若冲寒山は天真爛漫で邪気のない笑顔を見せています。若冲は晩年に至るまで寒山と拾得を繰り返し描いているそうですが、この寒山から感じられる脱俗の境地とは常識に囚われない風変わりさではなく、精神の無垢さや純粋さであるように思われます。また、人物に入れて良いのかは分かりませんが、雷神が宙で逆さまになっている「雷神図」もユニークでした。意表を突いた構図に、一瞬絵の天地が逆になっているのかと思ってしまったほどですが、太鼓の重みに耐えて口をへの字に結んでいる小さな雷神は愛嬌があって可愛らしく感じられます。透徹した眼差しで自然を捉えた若冲の目に、人間はどのように映っているのか気になるところだったのですが、ユーモアはあっても毒はない表現を見ると、決して人間嫌いな人物ではなかったのだろうと思いました。

若冲は今回の出品作の中だけでも葡萄や枇杷など様々な植物を描いていますが、とりわけ頻繁に描いた松・竹・梅の「歳寒三友」は高潔の士の寓意であり、菊は蘭・竹・梅と共に風格ある気品をもつ「四君子」として中国の文人たちに珍重されてきた植物なのだそうです。なお、若冲作品のシンボルと言ってもいい鶏は中国では五徳(文・武・勇・仁・信)を自ずから有する鳥として好まれた画題とのことで、若冲が身近な対象を無作為に描いたわけではなく、意味も踏まえて選んでいることが分かります。一方、「蔬菜図押絵貼屏風」は茄子や南瓜、松茸など全部で十二の野菜がそれぞれ目一杯巨大に描かれていて、最初作品を目にしたときはその大胆さに笑い出しそうになりました。この作品は、若冲が晩年身を寄せた石峰寺のために仏具などを喜捨した武内家に贈ったもので、元は一枚ずつばらばらの絵だったのを、明治時代になって武内家の子孫が屏風に仕立てたものだそうです。モチーフはいずれも日々の食卓に供される身近な野菜ですが、青物問屋の主人だった若冲にとって、野菜は僧侶が日々の勤めに用いる大切な仏具にも値するような、単なる商品以上の思い入れがあったのかもしれません。動物も植物もあらゆる命を等しく尊重する若冲の姿勢が、ありふれた野菜を堂々たる主役として描く痛快な作品に繋がったのではないかと思います。

…「象図」に描かれた真正面を向くシンメトリーな象や、「双鶴・霊亀図」の羽毛を膨らませて立つ番いの鶴たち。主役として画面の中心を占める動物たちは、ユーモラスで軽妙ながら、いずれもデティールを省略した単純な一本の線でその量感まで表現されていて、どっしりとした実在感があります。「白象群獣図」の枡目描きは一つの枡目の左上側を濃い色で、右下側を薄い色で塗り、枡目同士の間をさらに薄い色で塗り分けてあります。若冲が目の錯覚まで計算していたのかは分かりませんが、一見すると各ドットが浮き上がって、まるで画面に凹凸があるように見えたのが興味深かったです。また、龍のうろこや鶏の羽毛など様々に用いられている筋目描きは、宣紙という中国渡来の紙の性質を生かしたもので、狩野派など他の絵師たちもそうした性質自体は知っていたと考えられるそうです。しかし、たとえ見世物的な技巧と見なされようと躊躇わず積極的に取り入れたところに、他者からの評価よりも自分の理想に近づくことを求めた若冲の飽くなき探究心、とどまることのない向上心が窺われると思います。「百犬図」はおびただしい数の犬で画面が埋められています。犬は犬種によってサイズや毛足の長さなどが多種多様でバラエティに富んでいますが、この作品に描かれている犬はそれぞれ毛色こそ異なるものの姿や顔つきはみな似通っていて、同じ犬の分身のようにも見えます。若冲は犬というものを表現するに当たって、この作品では一匹の姿に犬の特徴、本質の全てを込めるのではなく、代わりにおよそ思いつく限りの犬の表情、ポーズを描けるだけ描き出すことで画面=世界を埋め尽くしてみたのかもしれません。

…墨一色で質感や色彩まで表現する水墨画ですが、「蓮池図」は他の作品とは異なる独特の描き方で、墨痕鮮やかな勢いある筆遣いが見当たらず、版画のようにムラのないトーンで描かれています。本作については、展覧会の監修者である狩野博幸氏が、天明の大火で焼失した京の街の復興を願う若冲の思いが込められていると解説されていますが、実際作品を目の当たりにすると改めて一面が薄墨色の喪の風景であるように感じられました。蓮の池というとお釈迦様のいる極楽浄土にあるものですが、この作品に描かれているのは虫食いのある葉やすでに花弁が散った蓮であり、花咲き乱れる極楽ではなく寂寥感の漂う死の世界そのものです。若冲の作品のなかでもこれほど死の気配が濃厚な作品は他にあまり思い当たらないのですが、大火の直後というタイミングで制作された本作に、灰燼に帰した京の街やさらには若冲自身の作品、生活や人生そのものに対する喪失感が投影されているのは自然なことに思われます。若冲の心象風景が見えるような作品ですが、そんな世界に兆した小さな蕾には喪失のあとの再生が託されているのでしょう。ところで、「蓮池図」は元は「仙人掌(サボテン)群鶏図」と襖の裏表をなしていたのですが、表面だった「仙人掌群鶏図」は「蓮池図」とは対照的に目にも眩い金地に鶏の親子とサボテンが描かれています。鶏の親子は、有限な個体が子孫を残すことで死を乗り越えることを象徴しているのでしょうか。サボテンが描かれているのは珍しい植物への好奇心や造形的な面白さが大きいのだろうと思いますが、乾燥に強い性質が裏面に描かれた水辺の植物である蓮と好対照であり、常緑性の植物である点でも枯れかけた蓮と対比されていると考えられます。生と死、此岸と彼岸との鮮やかな対比において、現実の世界の側に浄土のような金色を施したのは、大火に見舞われ、ある種の擬似的な死を体験したことで、より一層死を乗り越えて再生する生命の輝かしさが感じられたためかもしれません。打ちひしがれた心に希望を灯し、苦難を乗り越えていこうとする意志を感じることが出来る作品だと思います。

その他 交通アクセスなど雑感

…今回は新幹線に乗っての遠出となりましたが、会場である福島県立美術館までの経路は初めて行った私でも分かりやすかったです。福島駅で新幹線の改札を出たあと福島交通飯坂線へ乗り換えるため、エレベーターで1番線ホームに降りてホームの先にある飯坂線・阿武隈線の改札へ向かったところ、ちょうど美術館方面に向かう電車が来ていました。駅員さんに間に合わないから車内で切符を購入するように言われて急いで乗車しましたが、電車の中で乗務員さんが切符を持っていない人がいるか聞いてくれるんですね。おかげさまで無事切符を購入できました(Suicaは使えません)。最寄りの美術館・図書館前駅は福島駅から2駅めで、乗車時間は3分ほどです。小さな駅から出ると道のすぐ先に福島県立美術館の敷地が見えるので、迷うことなく徒歩3分で美術館へ到着。朝の10時頃でしたが、駐車場はその時点で既に満車でした。美術館では車の案内などのために外に立っているスタッフの方が皆さん「おはようございます」、帰りの時は「ありがとうございました」と挨拶してくださって温かい雰囲気でした。私は常設展も見たかったので、伊藤若冲展を見たあと美術館のカフェで食事をしたのですが、休日のお昼だったため30分ほど順番待ちをしました。席が空くまで購入した図録を見ていたのでさほど苦にはならなかったのですが、お昼どきにかけて行く場合は食事をどうするか考えておいたほうがいいかもしれません。常設展では以前から見たいと思っていたアンドリュー・ワイエスの作品を見ることが出来て良かったです。特に「そよ風」は窓辺に立つ女性の裸体のみずみずしさと密やかな解放感、がらんとした背後の暗がりに窓から吹き込んだ風の余韻が感じられて印象に残りました。帰りは時間に余裕があったので、慌てず自動券売機で切符を購入することができました。ホームで待っているお客さんは美術館に来た人以外に、地元の方も多くて地域の足という感じでしたね。何事も便利だけど忙しない日常からしばし離れて、ゆったりした雰囲気を味わうことが出来た旅でした。