展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

没後90年記念 岸田劉生展 感想

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見どころ

…この展覧会は日本の近代美術の歴史の中でもとりわけ独創的な絵画の道を歩んだ岸田劉生(1891~1929)の没後90年を記念する回顧展です。出品作は初期の水彩画、代表作《道路と土手と塀(切通之写生)》や愛娘麗子を描いた肖像画、「東洋の美」に目覚めて独学で取り組んだ日本画など、東京国立近代美術館をはじめ日本各地の美術館が所蔵する作品約150点で構成されています。
…岸田は二十年余りの画業の中で何度も画風を大きく変化させているのですが、変化のきっかけには幾つもの出会いがあるように思います。若干十四歳にして両親を失った岸田ですが、キリスト教の洗礼を受けたことで牧師の田村直臣と出会って画家になることを奨められ、さらに雑誌『白樺』を通じてゴッホゴーギャンマチスの芸術に衝撃を受けるとともに、親友となる武者小路実篤とも出会います。肺病と診断されたために戸外での写生ができなくなったことはマイナスの出会いなのですが、室内で制作できる静物画に取り組んで新たな境地を切り拓く強靱さもあります。最愛の娘・麗子の誕生は数々の麗子像として結実しました。今回の展覧会を通して、岸田の人生と作品は根底において相互に不可分に結びついているように感じました。
…私は9月最初の土曜日に見に行きましたが、落ち着いてじっくり作品を見ることが出来ました。作品数が多いので、所要時間は2時間以上を見込んでおくと良いと思います。図録には岸田の日記や論考などの記述も含めた日単位の詳細な活動記録が所収されているので、興味のある方は購入されることをお勧めします。

 概要

【会期】

…2019年8月31日~10月20日

【会場】

東京ステーションギャラリー

【構成】

 第1章 「第二の誕生」まで:1907~1913
 第2章 「近代的傾向…離れ」から「クラシックの感化」まで:1913~1915
 第3章 「実在の神秘」を超えて:1915~1918
 第4章 「東洋の美」への目覚め:1919~1921
 第5章 「卑近美」と「写実の欠除」を巡って:1922~1926
 第6章 「新しい余の道」へ:1926~1929 

www.ejrcf.or.jp

 感想

風景画:《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年11月5日)他

…風景画は岸田の画家としての始まりであり、終生描き続けたテーマです。最初期の作品である《緑》(1907年8月6日)は水彩による透明感と瑞々しさが爽やかな風景ですが、岸田は雑誌「白樺」を通じてゴッホマチスらの影響を受け、鮮やかで大胆な色遣いが印象的な《築地居留地風景》(1912年12月23日)などを描くようになります。出会いを契機に画風が大きく変化するのは、感性の鋭さや良いものを積極的に取り入れようとする柔軟さの証でもあると思うのですが、他の画家たちが築いた表現に飽き足らず、自身の目で見た表現を模索した岸田は、やがて結婚して居を構えた代々木近辺の風景を描くようになります。現在の代々木はビルのただ中にある街ですが、百年前の岸田の作品ではまだ建物がほとんどなく、道端には草が生い茂っていて、その変貌ぶりに驚きます。《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年11月5日)は開発が進む代々木の風景を克明に描いた写実的な作品ですが、坂道が坂道以上の意味を持って迫ってくる印象を受けました。真っ青に晴れた空に向かって赤茶けた険しい坂道が盛り上がり、明るい日差しを浴びる左手の石塀は奥行きが圧縮されて遠近感が強調されています。石塀は築かれて日が浅いのか白さが際立ち、逆光で影になっている向かいの暗い崖と対になっています。道を挟んで左側は人間の手による人工物、右側は切り拓かれる以前からの自然の山であり対峙する両者の静かな緊張感が感じられます。乾いた地面には雑草が生え始めている一方で、道端に立つ電柱の影も差していて、道の上で人と自然とが交錯していますが、せめぎ合う自然の生命力と人間の文明との対立とも共存とも受け取ることができそうです。世界の縮図のような一本の道は力強く上昇していて、未来に続いていることを予感させる作品だと思います。

人物画:《麗子肖像(麗子五歳之像)》(1918年10月8日)他

…1913年、「ゴッホの手法の感化」や「マチスの絵と理論」ではなく、自分の眼と頭で捉えた表現を模索していた岸田は、妻となる蓁との恋愛もあり人間への関心が特に高まったことも重なって、立て続けに肖像画を制作しています。例えば11月5日に《自画像》を描き、その翌日の11月6日には《清宮氏肖像》を描くなど、一日に一点油彩の肖像画を描いているような場合もあり、「首狩り劉生」と呼ばれたのも頷ける驚異的なスピードと集中力だと思いました。
…《黒き土の上に立てる女》(1914年7月25日)は、「大地とともに生きる女性」を描いた作品で、豊かな胸を開けて右腕に竹籠を携え、画面中央に堂々と立っている女性は妻の蓁がモデルだそうです。この作品が描かれた1914年の4月には娘の麗子が生まれているのですが、妻の姿は出産前のものなのか腹部に膨らみが見て取れます。竹籠は種が入っているのか、収穫物を入れるためなのかはっきりしませんが、出産=実りを暗示させる姿ですからあるいは収穫物を入れるためのものかもしれません。身重の妻の姿に裸足で大地を踏みしめる収穫と多産の象徴としての地母神を重ね合わせ、生命の豊かさ、力強さを表現した作品だと思います。
…《高須光治君之肖像》(1915年1月20日)は草土社展結成にも参加した画家の高須光治(1897~1990)の肖像画で、深い暗闇に沈む高須の姿が画面右側から差しこむ光によって浮かび上がり、眉根を寄せた沈痛な表情に一層ドラマチックな効果をもたらしています。肌の日焼けや染み、皺にいたるまで、高須の顔貌が極めて写実的に捉えられていますが、描かれているのは真摯に自己を見据える普遍的な人間の像です。岸田は後年、ルネサンス期の巨匠やデューラーなど「クラシックの感化」を受けた時期の自作を評価しなかったようなのですが、個人的には今回の展覧会の出品作の中でも特に強く印象に残った作品の一つです。
…岸田は愛娘・麗子の肖像画を数多く制作していますが、《麗子肖像(麗子五歳之像)》(1918年10月8日)はそのうちでも最初の作品です。ふっくらと丸みを帯びた赤みの差す頬や小さな手が子供らしく、櫛を通していない無造作な癖毛や右手に握られた犬蓼は麗子が手つかずの自然のように無垢な存在であることを感じさせます。一方で、つぶらな瞳は全てを見通しているかのように聡明な印象を与え、デューラーの肖像のように麗子をほぼ正面から捉えていることと合わせて、幼いキリストにも通じる気高さが感じられます。装飾的なアーチ型の枠に縁取られているのは母・蓁の肖像画《画家の妻》(1915年1月10日)とも共通していますね。古い歴史を感じさせるひび割れは壁龕に収まった由緒ある壁画を写した画中画のようでもあり、一人の少女の姿を通して時間が流れても変わることのない聖性を表現した記念碑的な作品だと思います。

静物画:《静物(手を描き入れし静物)》(1918年5月8日)他

岸田劉生と言うと風景画や麗子像のイメージがあり、静物画は初めて見たのですが、私がこれまで目にしたことのある静物画の先入観が覆され、異色の静物画という印象を受けました。静物画のモチーフは作為を感じさせないようにバランスを考慮しつつ無造作に並べられたり、器に盛られたりすることが多いと思うのですが、壷の口に林檎が置かれている《壷の上に林檎が載って在る》(1916年11月3日)や《林檎三個》(1917年2月)の均等に三つ並んだ林檎などは、まずその意表を突いた構図に引き込まれます。一見奇を衒った構図なのですが、対象を描きつつ寓意を踏まえていたり、あるいは色彩や形体の構成に関心の重きがあったりする作品とは異なり、画家の視線はむしろ対象自体にまっすぐ向かっていて、どうしてそれが、そこにそのようにあるのかという根本的な疑問や違和感が際立ちます。こうした作品の背景には、1916年7月に肺病と診断(実際は誤診だったそうです)され療養していた岸田の、自身が生きてこの世界に存在することや、人生の意味への問いがあるのでしょう。《二つの林檎》(1916年9月26日、1923年焼失)を描いた岸田は、「この二つの林檎を見て 君は運命の姿を思はないか 此処に二つのものがあるといふ事 その姿を見つめてゐると 君は神秘を感じないか それは美だ、在るといふ事の美だ。美は神秘の形だ」という言葉を書き残しています。岸田の静物画からは存在の神秘に迫り、物そのものを捉えようとする研ぎ澄まされた精神が感じられるように思います。
…《静物(手を描き入れし静物)》(1918年5月8日)では赤い林檎と白い器、左側の赤いカーテンと右側の紺のカーテンが対になり、ほぼ左右対称に構成されたモチーフのなかで、画面右奥にぽつんと置かれた1個の林檎のみが逸脱しています。現在は消されていますが、当初は濃紺のカーテンの陰から現れた右手が描かれており、1918年の第5回二科会展に本作を出品したところ「マジックのやうだ」、「悪趣味」などと評されて落選してしまったのだそうです。描き入れられた手は林檎をテーブルに並べる途中だったのでしょうか、テーブルから取り去るところだったのでしょうか。あるべきところにあるべきものをあるべきように配するのは神の手なのかもしれません。存在の神秘の背後にある、人知の及ばぬ意図を表現しようとした作品だったのだろうと思います。

松方コレクション展 感想

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見どころ

…「松方コレクション展」は国立西洋美術館の開館60周年を記念する展覧会です。
川崎造船所の初代社長を務めた松方幸次郎(1866~1950(慶応元年~昭和25年))は、日本の芸術家、人々のために美術館を作ろうと志し、1916年から1927年頃にかけてパリやロンドンを拠点に西洋の美術作品3,000点、フランスから買い戻した浮世絵8,000点も加えると総数1万点近い規模の美術品のコレクションを築きました。しかし、1927年の昭和金融恐慌による造船所の経営破綻、さらに第二次大戦の勃発という時代の荒波のなかで、コレクションは売却や火災、接収によって散逸してしまうのですが、戦後フランスから返還された作品375点と合わせて、1959年に松方コレクションをルーツとする国立西洋美術館が設立され、今日に至っています。
…私は松方コレクションと聞くとモネやルノワールなど印象派を中心とする近代フランス絵画をまず思い浮かべるのですが、今回の展覧会でコレクションの始まりはラファエル前派などのイギリス絵画だったことを知ることができました。また、西洋美術館のシンボルと言ってもいいロダンの《考える人》ですが、松方コレクション自体がロダン作品と縁が深いことも知ることが出来ました。1918年に松方はロダン美術館設立の中心人物だったレオンス・ベネディットとロダン作品の鋳造に関する契約を結びますが、資金を必要としていた草創期のロダン美術館にとってもロダン作品の大口鋳造契約は重要な意味があり、最終的に50点を超える世界有数のロダン・コレクションが築かれたのだそうです。さらに、ベネディットは松方のパリにおける作品購入の代理人としてフランス近代絵画の本格的な収集も行っていて、そうした経緯から松方コレクションがロダン美術館敷地内の旧礼拝堂に保管されることにもなったのだそうです。
…美術作品のコレクターにも色々なタイプがあるだろうと思うのですが、松方はブラングィンやベネディット、そしてモネと、多くの画家や美術関係者と積極的に交流を持っているのが印象的でした。また、個人のコレクションの場合、収集される作品はコレクターの愛好する作家やジャンル、あるいは価値観そのものを一定程度反映したものになり、そうした個性が魅力の一つでもあると思うのですが、松方の場合、日本のために美術館を作るという公的な目的をもっての収集だったためか、20世紀の美術作品から中世の古典美術まで収集範囲が広く、質の高さ、スケールの大きさを改めて実感させられました。時代の巡り合わせではありますが、もしも松方のコレクションの全てが揃って日本にあったならと思うと…夢のようですけどね。今回の展覧会で初公開されたモネの《睡蓮、柳の反映》は2016年にフランスで発見されて海を渡ったのですが、よく日本に帰ってきてくれたという気持ちになりました。大きく欠失した痛々しい状態は、松方コレクションの辿った激動の運命そのもののようにも思えます。芸術作品の命は人の一生を超える長いものですが、それだけに生き延びてきた作品は乗り越えてきた重い歴史を背負っているのでしょうね。
…私が見に行ったのは7月最初の土曜午後で、入場待ちはなかったもののかなり混雑していて、鑑賞者の列の後方から見た作品もありますし、会場内の休憩用の椅子もほとんど空きがなく座れない状態でした。会場内の照明は暗めに感じました。第1章の展示室では作品を壁面の上下に複数並べて展示していて、古い美術館のようだったのが面白かったですね。壁面の上部に展示された作品は少し後ろに下がると全体を見られると思います。展示室入口前のモネ《睡蓮、柳の反映》のデジタル推定復元図は撮影可能です。

概要

【会期】

…2019年6月11日~9月23日

【会場】

国立西洋美術館

【構成】

…概ね収集した時期・地域に従っての構成で、特に第1章の「ロンドン1916~1918」と第5章の「パリ 1921~1922」の出品数が多くなっています。作品数は150点余りで、国立西洋美術館のコレクションのほか、オルセー美術館大原美術館など国内外の美術館の所蔵品で構成されています。

プロローグ
 …モネ《睡蓮》(1916)

Ⅰ ロンドン 1916~1918
 …ロセッティ《愛の杯》(1867)、ミレイ《あひるの子》(1889)、セガンティーニ《羊の毛刈り》(1883~84)

Ⅱ 第一次世界大戦と松方コレクション
 …スタンラン《帰還》(1918)

Ⅲ 海と船
 …ブラングィン《救助船》(1889)、コッテ《悲嘆、海の犠牲者》(1908~09)

Ⅳ ベネディットとロダン
 …ロダン地獄の門》(1880~90頃、原型:1917、鋳造:1930~33)

Ⅴ パリ 1921~1922
 …クールベ《波》(1870)、ゴッホ《アルルの寝室》(1889)

Ⅵ ハンセン・コレクションの獲得
 …マネ《ブラン氏の肖像》(1879頃)

Ⅶ 北方への旅
 …ムンク《雪の中の労働者たち》(1910)

Ⅷ 第二次世界大戦と松方コレクション 
 …スーティン《ページ・ボーイ》(1925)、ルノワールアルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》(1872)

エピローグ
 …モネ《睡蓮、柳の反映》(1916)

artexhibition.jp

感想

第1章 ロンドン 1916~1918:ダンテ・ガブリエル・ロセッティ《愛の杯》(1867年、国立西洋美術館)、ジョヴァンニ・セガンティーニ《羊の毛刈り》(1883~84、国立西洋美術館)他

…1916年~18年にかけて、松方はロンドンを拠点に自社のストックボート(既成貨物船)を欧州に売り込み、その利益を資金として美術品の収集を始めました。ラファエル前派をはじめとするイギリス絵画はこの時期に収集されたんですね。
…ダンテ・ガブリエル・ロセッティ《愛の杯》は赤いローブの女性が金の杯を掲げていますが、この作品の額には「甘き夜、楽しき日/美しき愛の騎士へ」という銘文が入っているそうです。背後に描かれている鳥は忠誠の象徴の鳶なので、女性は杯の蓋を心臓に当てて、出征する恋人に変わらぬ愛を誓っているのでしょう。
…ルイ・ガレはロマン派の画家で、今ではあまり知られていないとのことですが、《芸術と自由》のヴァイオリンを手にした端正な音楽家の青年像は印象に残りました。青年が立っているのはバルコニーなのか、背後には自由を象徴するような青い海が見えますね。
カルロ・クリヴェッリヴェネツィア出身で、15世紀に中部イタリアで活動した画家ですが、19世紀のナポレオン戦争やイタリア統一戦争による混乱の中で作品が散逸してしまったそうで、《聖アウグスティヌス》も、本来は二段組三連祭壇画の一部だったとのことです。私はクリヴェッリの名を澁澤龍彦の文章で知ったのですが、クリヴェッリの作品は硬質な線描と装飾の華麗さ、眩い黄金が魅力だと思います。また、アウグスティヌスの司教冠を飾る宝石は手で触れられそうに盛り上がり、つま先は画面の中から鑑賞者の側に踏み出そうとしているように石段の先にはみ出していますが、絵画の世界が現実の三次元の世界に入りこんでくるような描き方もクリヴェッリの特徴の一つなのだそうです*1
…ジョヴァンニ・セガンティーニ《羊の毛刈り》では、羊小屋で毛を刈る農夫たちと、柵の外の牧草地に群れる羊たちが描かれています。柵に頭を載せて毛刈りの様子を見ている羊もいて微笑ましい情景ですが、のどかに見える羊の毛刈りはかなりの重労働だと聞いたこともあります。黙々と作業に励む慎ましい農夫たちの勤勉さと品格が感じられる作品だと思います。《花野に眠る少女》は花の咲く緑の野原に直に寝転ぶ少女の姿が、水彩とパステルの柔らかなトーンで描かれています。私はこの作品を見て「ロマンティック・ロシア」展(Bunkamuraザ・ミュージアム、2018年)に出品されていたニコライ・ドミートリエヴィチ・クズネツォフ《祝日》(1879年)を思い出しました。春という季節と若い少女を重ね合わせて、みずみずしい生命力を表現した作品だと思います。

第2章 第一次世界大戦と松方コレクション/第3章 海と船:テオフィル・アレクサンドル・スタンラン《帰還》(1918、国立西洋美術館)、シャルル・コッテ《悲嘆、海の犠牲者》(1908~09、国立西洋美術館)他

第一次大戦の最中にヨーロッパで収集活動を始めた松方は、戦争にまつわる同時代の作品も数多く収集しています。スタンラン《帰還》は戦場から戻ってきた兵士が、出迎えの恋人と抱き合って再会を喜び合っています。兵士の背後に蒸気機関車の影が描かれていますから、駅の情景なのでしょう。しかし、すぐ傍では夫を失って喪服を身につけた女性が、カップルを恨めしげに横目で見つつ子供の手を引いていますし、帰還できたとは言え戦場で傷を負った兵士もいるようです。戦争は終わってもなお、人々の日常に影を落としていることを描いた作品だと思います。
…ロンドンにおける松方の収集活動を支援し、松方のために「共楽美術館」のデザインも手掛けたフランク・ブラングィンは、海や船を主題とする作品を数多く制作していて、松方が最初に購入したのは造船所を描いたブラングィンの作品だとも言われているそうです。松方にとって、本業に縁のある海や船は思い入れのある主題だったのでしょう。ブラングィン《救助船》は、荒れた海のなかで大きく傾く蒸気船を救助向かう船が描かれています。蒸気船から上がる煙が強い風に吹かれて流されていますね。沈みかけている大型の蒸気船に対して、救助船はオールで漕ぐ小舟であり、両者の対比は自然の猛威の前では人間が非力であることを感じさせる一方、困難に怯まず立ち向かう人間の勇敢さも感じさせると思います。
…シャルル=フランソワ・ドービニー《ヴィレールヴィルの海岸、日没》は、灰色がかった空が夕暮れ時の朱い色にうっすらと染まり、海に落ちてゆく太陽が雲間から垣間見えています。暮色の迫る浜辺の人影は家路に向かうところでしょうか。みずみずしく爽やかな水辺の風景を数多く描いたドービニー晩年の作で、穏やかながらどこか寂寥感の漂う風景だと思います。
…シャルル・コッテ《悲嘆、海の犠牲者》はブルターニュ半島の西にあるサン島の情景を描いた作品で、鉛色の空をした港に大勢の村人が集まり、画面手前では土気色の肌の男性が粗末な木の担架に載せられ横たえられています。ブルターニュ半島とサン島のあいだの海域、サン水道はヨーロッパで最も危険と言われているそうで、横たわる漁夫もその犠牲者なのでしょう。担架が置かれた台は赤い布に覆われ、祭壇のようにも見えます。血の色でもある赤は、犠牲を象徴しているのかもしれません。布や船の帆の赤と人々が纏う喪服の黒との鮮やかな対比、停泊する漁船の重なり合う帆と立ち並ぶ家並みの単純化された幾何学的な形は画面に力強さを与えています。漁夫の周りに集まった人々は天を仰いで嘆く者、手巾で涙を抑える者やそれに寄り添う者とそれぞれに悲しみを露わにしていますが、おそらくピエタを踏まえた構図なのだろうと思います。ある者は項垂れ、ある者は手を合わせ、目を見開いて覗き込む者もあれば涙を堪えるように顔を背ける者もいて、衝撃、悲嘆の身振りが画面をざわつかせる中、厳かな静寂を保つ漁夫はキリストのようです。聖書にはキリストが十二使徒のペテロに「あなたを人間をとる漁師にしよう」と呼びかけた言葉があるそうで、例えばピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《貧しき漁夫》(1887~1892年頃)でも祈りを捧げる漁夫がキリストのように描かれています。名もなき庶民の死を気高く描き、人間の尊厳を表現した作品だと思います。

第4章 ベネディットとロダンオーギュスト・ロダン《瞑想》(原型:1900年以後、鋳造:1922年、国立西洋美術館

…松方のパリにおける美術品購入を支援したレオンス・ベネディットはパリのリュクサンブール美術館の館長であり、ロダンから作品目録の作成を託されてロダン美術館の設立準備を進めるなど、フランスの美術界に影響力のある人物でした。松方がベネディットとのあいだでロダン作品の鋳造を契約したのは1918年で、すでにロダンは逝去しているのですが、この時代の彫刻作品は、材料費や人件費などの事情から、まず彫刻家が石膏で原型を作成して公開し、注文を受けてからブロンズなどで鋳造するという手順になっていたそうです。松方はベネディットに自らのコレクションのカタログ作成も依頼し、家族ぐるみで交流していました。関係者の懐にどんどん入っていく松方はエネルギッシュで実業家らしい気がしますし、それだけ美術品への情熱も強かったのだろうと思いました。
…《瞑想》は元々ロダンのライフワークとなった大作《地獄の門》の人物像の一つで、扉の上部に位置するティンパヌムの右端で劫罰を受ける女性像が独立したものです。独立した像となる過程で普遍的な瞑想というタイトルがついたそうですが、大きく身を捩って苦悶するようなポーズは静かな物思いからは遠く、同じように《地獄の門》から独立した《考える人》が、座して頬杖をつき沈思するポーズなのとは対照的です。《考える人》の「考え」が意識的、理性的な思考を表現しているのに対して、「瞑想」はもっと直感的、あるいは霊的な深い想念を指しているのでしょうか。腕で顔を覆っているため表情は分かりませんが、重荷に耐えかねているのか、あるいは内心の真実を直視することに抗っているようにも見えます。元は劫罰を受ける像だったものにあえて瞑想というタイトルを付けたのは、心をかき乱す世俗的な苦悩から離れることの難しさ、そうした苦悩の渦中にあってこそ瞑想が希求されるということを示唆しているのかもしれないと思いました。

第5章 パリ 1921~1922:ギュスターヴ・クールベ《海岸の竜巻(エトルタ)》(1870、横浜美術館)、フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの寝室》(1889、オルセー美術館

…1921年から22年にかけて再びヨーロッパに滞在した松方は、ベネディットや姪の黒木竹子夫妻らの協力も得て、数々のフランス近代絵画を購入しました。この時期に収集された作品はクールベ《波》やモネ《舟遊び》、ルノワールアルジェリア風のパリの女たち》など現在の西洋美術館をイメージする時にまず思い浮かぶ画家、作品が多く、松方の収集活動が順調で充実したものだったことが窺われます。
クールベ《海岸の竜巻(エトルタ)》は岸に打ち寄せて砕ける白波と、雨と波しぶきで霞む海上から垂れ込める暗い雲に向かって巻き起こる黒い竜巻の姿が描かれています。雲の端で白く光るのは稲光でしょうか。1869年夏にエトルタに滞在したクールベは、窓に額をくっつけて荒れ狂う嵐の空や海を観察したとも言われ、翌年にかけて《波》をはじめとする嵐の海を題材とする多数の作品を制作しました。自然の作りだす一瞬の形象に究極の完全さを見出したような《波》とは対照的に、激しい嵐のただ中の混沌とそのエネルギーを描いた迫真の風景だと思います。
ゴッホ《アルルの寝室》は3つのバージョンがあり、出品作はサン・レミの精神療養所に入院したあとゴッホが母親のために描いた最後のバージョンです。実際の寝室は矩形の部屋だそうですが、ゴッホは長方形に単純化し、魚眼レンズで覗いた光景のように部屋の奥行きを強調する構図で描いています。青い壁や扉と黄色いベッドや椅子とが対比され、壁に掛かるスモックや麦わら帽子がこの部屋の主を示唆しています。画家の部屋なのに画架やパレットが見当たらないなと思ったのですが、休息のためのプライベートな空間ですし、ゴッホの場合は積極的に戸外に出て制作に取り組んだということもあるのでしょう。ゴッホ静物画を描いても画家の人物が滲み出て自画像のように感じられる場合があるのですが、この作品も同様で、身の回りの品と絵があるだけの簡素な室内からは、制作に打ち込むゴッホの人柄の一端が感じられます。「ぼくはまさに他の芸術家たちがぼくのように簡素を欲する気持ちを持って欲しいと願っている……日本人はいつも非常に簡素な室内で暮らしてきたが、それでも偉大な芸術家があの国で生まれたではないか」*2東京都美術館ゴッホ展 めぐりゆく日本の夢」では三作ある《寝室》のうち、ゴッホ美術館所蔵のオリジナルの《寝室》(1888年)が出品されていたのですが、オリジナルがアルルに着いた直後のユートピアを夢見ていた時期の作品であるのに対して、今回の出品作は精神療養所に入院したあとのものなんですね。つまり、この作品はゴッホの人生でも希望に満ちた幸福な時期と傷つき夢破れた苦難の時期の双方で描かれていることになり、その意味で画家自身と共にあったと言えるかもしれません。両者を比べてみると壁に掛けられている絵や視点の角度などが変わっているのですが、一番の違いはオリジナルが青と黄に加えて赤と緑の補色の対比も効果的に用いられ、床板が赤みを帯びた茶褐色で、ベッドカバーの赤と共に床板の継ぎ目や窓枠の緑と対比されていることで活気や華やかさが感じられる点だと思います。一方、1889年に描かれたこの作品では床板の色が薄くなって赤の印象が後退し、全体としてオリジナルより淡く落ち着いた雰囲気になっています。見る側としてはこの間の変化を踏まえて客観性と冷静さ、情熱や葛藤が洗い流された寂しさと穏やかさを読み取りたくなるのですが、澄んだ静かな明るさに満ちた作品だと思います。

第6章 ハンセン・コレクションの獲得/第7章 北方への旅:エドゥアール・マネ《ブラン氏の肖像》(1879頃、国立西洋美術館)、エドヴァルド・ムンク《雪の中の労働者たち》(1910、国立西洋美術館)他

…1922年、松方はデンマークの実業家ウィルヘルム・ハンセンの近代フランス絵画コレクション34点を各国のコレクターと競合した末購入しますが、その後川崎造船所の破綻などもあり、作品の多くは売却されてしまいます。ブリヂストン美術館が所蔵するエドゥアール・マネの《自画像》もその一枚ですが、マネの自画像はたった2点しか残されていないそうですから未完成とは言え貴重な作品です。散逸してしまったことは残念ですが、松方コレクションがこうして国内各地の美術館に受け継がれているのは救いでもあるでしょう。この《自画像》とよく似たポーズを取っているのが、同時期に描かれた《ブラン氏の肖像》です。青い上着に白いズボンという爽やかな季節に合った装いのブラン氏は、生い茂る木立のあいだの小道を散歩中にふと立ち止まったようなさりげなさで、腰のポケットに手を入れて木漏れ日の中に佇んでいます。マネは梢や木漏れ日を印象派的な素早いタッチで描き、戸外の光や風を表現しつつ、人物はシンプルな輪郭線と平坦な色面によって形を保って描いていて、新たな表現を模索していたことが見て取れます。この作品はブラン氏のために描いた肖像画を元に、マネが大きなサイズで描き直したものだそうなので、きっと画家は肖像画の出来栄えを気に入っていたのでしょうね。軽やかで洒落た印象の作品だと思います。
…1921年の松方の渡欧は、海軍から最新のドイツ潜水艦の設計図を入手するよう依頼されたためで、パリにおける収集活動はカムフラージュだったとも言われているそうです。小説のような話の真偽は不明だそうですが、松方は実際ドイツや北欧も訪れて作品を購入しています。
エドヴァルド・ムンク《雪の中の労働者》はこの時期に購入された作品のうちの一枚で、雪の中、ツルハシやスコップを手にした労働者たちが作業に勤しんでいます。前景ではスコップを担いだ男性が白い地面をしっかりと踏みしめるように立ち、後ろの男性が突き出したスコップは見る者に迫るように大きく描かれていて、力強さが感じられます。ムンクというと生と死、愛と性を象徴的に描いた作品のイメージが強いので、現実の社会と向き合って過酷な労働を担う人々の逞しさを表現したこの作品には新鮮な印象を受けました。
…《眠れるニンフとふたりのファウヌス》は《死の島》で有名なアルノルト・ベックリンの作品です。ファウヌスはギリシャ神話のパーンに当たるローマの神で、多産のシンボルでありニンフに恋する逸話も多く、夢魔のイメージもあるそうです。しかし、この作品ではむしろファウヌスのほうが夢見心地になっているかのように座り込み、陶然とした表情でニンフに見惚れています。画家はただそこにあるだけで見る者を惑わせ、虜にする女性のミステリアスな魅力を表現したかったのかもしれません。
ピーテル・ブリューゲル(子)《鳥罠のある冬景色》もこの時期に入手した可能性がある作品で、父ピーテル・ブリューゲルのオリジナルに基づき、長男ピーテル・ブリューゲルが手掛けた模写です。東京都美術館の「ブリューゲル展」(2018年)でも別の模写作品を目にしましたが、《鳥罠のある冬景色》の派生作は127点、長男のピーテルはそのうち40点余りを手掛けている*3そうですから、人気の高さが窺われますね。もっとも、模写と言っても完全に同じではなく、東京都美術館で見た作品は空全体がうっすらと白っぽいのに対して、今回の出品作は空が青く晴れ、樹木や家の壁の色も鮮やかで、そうした違いを見比べるのも面白いです。今回の出品作はピーテル・ブリューゲル(子)による模写の中でも特に質が良いものの一枚だそうです。
…なお、松方が北ヨーロッパを旅する中で購入したタピスリー《神話の一場面》は、スペースなどの都合なのでしょうが、第1章の展示室で展示されていました。

第8章 第二次世界大戦と松方コレクション:ハイム・スーティン《ページ・ボーイ》(1925、パリ国立近代美術館・ポンピドゥーセンター)、ピエール=オーギュスト・ルノワールアルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》(1872年、国立西洋美術館

…1927年に起こった昭和金融恐慌の影響で川崎造船所は経営破綻し、松方は1928年に社長を辞任します。国内では差し押さえられた作品が売却される一方、ロンドンの倉庫に保管されていた作品は1939年に火災で焼失し、パリのロダン美術館の旧礼拝堂に預けられていた作品は1940年に松方の部下である日置によってパリの北のアボンダンに疎開しました。大戦末期にフランス政府に接収された松方コレクションは、戦後、返還交渉の末に20点がフランスに留め置かれることになりましたが、日本に返還された作品群はル・コルビュジエ設計による国立西洋美術館に収められ、日本人のための美術館設立を目指していた松方の念願も叶えられることになりました。
…真っ赤な服が目を引くハイム・スーティンの《ページ・ボーイ》は、上述の日仏間の交渉の結果、フランスに留められた作品の一つです。ページ・ボーイとはホテルや劇場などで客を案内したり、用を言い付かったりする給仕・ボーイのことですが、慇懃で如才なく立ち働く職業というイメージとは対照的に、ここでは腰に手を当てて肩を怒らせ、立ちはだかるように足を開いた姿で描かれています。赤い服と暗い色調の背景、威圧的ななポーズとしぼんだ顔の憂鬱そうな表情とが対比されていて、華やかな世界に身を置きつつ人に傅く尊大さと屈託、疎外感が感じられる作品だと思います。
…一方、ルノワールアルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》は、文化財保護委員の八代幸雄がフランス側と粘り強く交渉した末に、日本へ返還されたルノワール初期の代表作です。ルノワール自身はこの作品を単に「ハーレム」と呼んでいたそうなので、舞台設定はオリエント世界だったのだろうと思いますが、座の中心である金髪の女性はヨーロッパ女性なので、後になって「アルジェリア風のパリの女たち」という名称が付けられたのでしょうか。この作品を制作した当時のルノワールはまだ実際にはアルジェリアを訪れたことはなく、ドラクロワの作品や神話などを元にオリエンタルなイメージを膨らませて描いたものなのでしょう。画面中央、肌の透ける薄い衣装をまとった金髪の女性は身支度をしているところで、仄暗い室内に差し込む光が女性の白い肌を照らし出しています。初期の作品ということですが、生命力を感じさせる豊満な肢体にはルノワールらしさを感じます。画面左側に座って装身具と化粧道具を手にした女性があらぬ方を振り返り、画面右奥で幾何学的な装飾の長持ちに腰掛けた女性が窓のほうに身を乗り出しているのは、女性たちが寛いでいるところに突然ハーレムの主がやってきたのでしょうか。侍女たちが外の出来事に気を取られているのをよそに、金髪の女性はすかさず鏡を見て自分の姿を確かめていますが、白い腿を露わにさらけ出さした官能的な姿態と裏腹に、眼差しは真剣なものです。遠い異国、あるいは夢想の後宮で、艶やかな女性たちが織りなす一瞬の緊張感を表現したロマンチックな作品だと思います。

プロローグ/エピローグ:クロード・モネ《睡蓮》(1916年、国立西洋美術館)、《睡蓮、柳の反映》(1916年、国立西洋美術館

…両作品は晩年のモネが睡蓮の大装飾画を制作する過程で生み出されたものです。制作途中の大装飾画の構想が外部に漏れることを嫌ったモネはこうした関連作品を売りたがらなかったのですが、ベネディットの支援や影響力、モネと親しい交流のあった松方の姪黒木竹子夫妻の仲介もあって、松方はこれらの貴重な作品を入手することができたそうです。
…ほぼ正方形のカンヴァスに描かれている《睡蓮》は、水面に映り込んだ緑から岸辺の様子が窺われるだけで、画面は水を湛えた池に占められています。睡蓮の群生する池の青は水の色であり、同時に空の色でもあるのでしょう。水面の緑は岸辺に生える緑が映り込んだものとも、水中の水草とも考えられます。モネは日々自邸の庭を見つめていたと思いますが、描かれたこの睡蓮の庭は実際に見たままを写したというより、モネの無数の経験、記憶を通して昇華された光景のように感じられます。
…《睡蓮、柳の反映》は第二次大戦中、疎開していた時期に損傷したと見られていて、その後所在が分からなくなっていたものが2016年にフランスで見つかり、修復を経てこのたび公開されることになったそうです。作品は右上から左下にかけて約半分が失われてしまっているのですが、この残存部分を元に、損傷する前に作品を撮影した写真や他のモネの作品なども分析した上で推定された全体像が今回、デジタルで復元されて公開されていました。復元図を見ると、水面に映る曲がりくねった柳の幹と葉を取り巻くように睡蓮が描かれています。睡蓮の葉は青みがかっているんですね。時間帯や天候にもよるのでしょうし、水面に映り込んだ柳の緑を際立たせるためでもあるのでしょう。同時期、同主題の《睡蓮》においては図が睡蓮で、地は池であるのに対して、《柳の反映》では地と図が逆転しています。この作品が完全な姿で残っていれば、かなり大きな画面ですから見る者は水の中に引き込まれるような印象を受けるんでしょうね。空と陸と水の三つの世界が一つに重なり合っている、水鏡の中だからこそ可能な世界に、唯一実体を持っている睡蓮だけが溶け合うことなく表面を漂い、現実と映像の境界を示している、そんな作品のように思いました。

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《睡蓮、柳の反映》デジタル推定復元図

 

*1:カルロ・クリヴェッリ画集』トレヴィル、P88-90

*2:ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」(東京都美術館、2017年)P84

*3:ブリューゲル展」(2018年、東京都美術館)P194

みんなのミュシャ 感想

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アルフォンス・ミュシャ黄道十二宮


見どころ

…「みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ――線の魔術」はアルフォンス・ミュシャ(1860~1939)の没後80年を記念する展覧会です。人気の高いミュシャの展覧会は日本でもしばしば開催されていますが、今回の特色はミュシャの作品と共に、その影響を受けた1960年代以降の英米のレコード・ジャケットやアメリカン・コミックス、日本のマンガなどサブカルチャーの作品も合わせて展示されていることでしょう。ミュシャの作品はポスター・素描・パステルなど100点以上で、ミュシャ出世作となった《ジスモンダ》などサラ・ベルナール出演作のポスターや《黄道十二宮》、連作〈四芸術〉などパリ時代の主要な作品が多数出品されています。
…私もミュシャの作品が好きで、これまでにも何度か展覧会に足を運んでいるのですが、今回は改めてミュシャの作品を埋め尽くす緻密で華麗な装飾デザインの豊富さに驚きました。ミュシャは作品の制作に当たって、文様事典の最高峰と言われる『装飾の文法』をはじめとするデザイン資料集や百科事典の活用していたそうです。また、ミュシャは自身のアトリエに故郷モラヴィアの民芸品や日本・中国の美術品・工芸品などから成る蒐集品を飾っていたそうですから、そうした品々からも着想を得ていたことでしょう。一方で、ミュシャは日頃から身近な周囲の人や物にも関心を持ち、注意深く観察してスケッチしています。「子どもの頃の私は、周囲の物事をじっと観察しているのが好きだった……花、隣人の犬や馬……陶芸職人の絵付け、職人が近所の家の壁に描く装飾画など、目にとまる様々な物の形やしくみに魅了された。そして私はそれらを絵に描くだけでなく、記憶の中にも正確に留めておこうとしたものだった」*1ミュシャの作品を彩る華麗な装飾は好奇心と探究心、様々な時代や国の文物・様式のリサーチと日々の観察の積み重ね、そして新たな意匠を生み出す創造力に裏打ちされたものなんですね。また、自分の作品だけでなく、他の職人やデザイナー、学生たちが役立てることができるように、自ら多数の図案を制作して『装飾資料集』や『装飾人物集』を編纂したことも画業に劣らぬ功績ではないかと思います。
ミュシャがパリで活動していたのは、技術の発展によって大判のカラーリ、トグラフの制作が可能になり、広告板に張られたポスターやキオスクに並ぶ雑誌の表紙絵が街に溢れるようになった時代です。版画に向いた明確で流麗な線描を持ち味とするミュシャの作品が技術や社会の変化を絶妙のタイミングで捉えたと言えそうですが、ミュシャの描く線はただ対象をなぞるだけでなく、それ自体が生き物のように自律的であるところが特徴だと思います。例えば《アーメン:『主の祈り』の最終ページ》のケルト幾何学パターンで構成されているフレームや、『鏡によって無限に変化する装飾モティーフ』のいくつかのデザインなどは、その線が何を意味するのか分からなかったり、あるいはもはや何を形作っているわけでなくても流れ自体が美しく、抽象画に近いと言っても良いぐらいに感じられました。また、連作〈月と星〉の《北極星》では北極星を中心とする天体の日周運動の軌跡が光の円弧で描かれていたり、《明けの明星》では星の輝きが放射状に広がる線によって描かれたりしていますが、こうした一種の効果線のような時間の経過を伴う運動の表現方法が、現代の漫画の表現にも繋がっているのだろうと思いました。
ミュシャは作品の制作に当たって写真を活用していて、様々なポーズを取るモデルたちを撮影した写真の中には、人物のポーズを正確に写すためかグリッド線が書き込まれた写真もありました。また、バレエを踊る裸婦の連作写真もありましたが、バレエは躍動感があるだけでなく、観客の目を引く印象的なポーズや役柄の感情を伝える身振りなどが洗練された動きによってふんだんに盛り込まれていますよね。ミュシャの作品に描かれた人物のポーズはバラエティに富んでいて、伝えるべきメッセージが分かりやすい身振りで視覚化されているのですが、こうした多くの習作の蓄積があってこそ生み出された表現なのだろうと思いました。
…私が見に行ったのは初日の開場直後だったのですが、いつものようにエスカレーターから地下の美術館に入場するのではなく、階段に並ぶよう指示されました。待ち時間は5分程度で、それほど待たず中に入れました。昼前に会場を出た時は行列は解消していたので、いつものことではなく混雑時の対応なのだろうと思います。会場内は前半がミュシャの作品、後半がミュシャの作品とミュシャの影響を受けた現代の作家の作品とを合わせて展示しています。入ってすぐの展示室は初期の作品やミュシャのコレクションなど小さめの作品が多く混雑しやすいようですが、後半の展示室に行くと混雑は緩和されていました。「3 ミュシャ様式の「言語」」の展示室の一部は撮影可能です。

 概要

【会期】

…2019年7月13日~9月29日

【会場】

…Bunkamuraザ・ミュージアム

【構成】

1.序――ミュシャ様式へのインスピレーション
ミュシャの初期の作品
ミュシャの蒐集品

2.ミュシャの手法とコミュニケーションの美学
…挿絵画家としてのミュシャ
…雑誌の表紙・レイアウトなどのデザイン

3.ミュシャ様式の「言語」
サラ・ベルナール出演作をはじめとするポスター作品
…《黄道十二宮》や連作〈四つの宝石〉など寓意画の装飾パネル
…『装飾資料集』や『装飾人物集』などミュシャの編纂したデザイン図案集

4.よみがえるアール・ヌーヴォーカウンターカルチャー
…1960年代以降のミュシャリバイバルに伴う影響
…レコード・ジャケットやポスター、アメリカン・コミックなどに引用されたミュシャのデザイン

5.マンガの新たな流れと美の探求
…日本におけるミュシャの影響
…明治期の影響:雑誌『明星』の表紙など
…戦後の影響:水野英子をはじめとする少女漫画や天野喜孝出渕裕のイラストなど

www.ntv.co.jp

感想

『マカルト・アルバム』(1880~1882年頃)他

ミュシャは1879年の秋から2年間ウィーンの舞台美術の工房で見習い背景画家として働いていて、この時期にエッチングによるハンス・マカルトの画集『マカルト・アルバム』を購入し、マカルトのフォルムや寓意的な表現の手法などを学んだと見られているそうです。実は東京都美術館の『クリムト展』に出品されていたフランツ・マッチュの《女神(ミューズ)とチェスをするレオナルド・ダ・ヴィンチ》(1889年)を見た時にアール・ヌーヴォー、特にミュシャの作品を彷彿させるように感じたのですが、マカルトの影響を受けた両者ですから共通の雰囲気を感じるのも自然なことだったんですね。また、ミュシャのアトリエは故郷モラヴィアの民芸品や日本・中国の美術・工芸品、蔵書などの蒐集品で飾られ「美の殿堂」と呼ばれていたとのことですが、これもマカルトのアトリエが様々な国のアンティークなどから成る豪華でエキゾチックなインテリアで飾られていたことを意識しているのでしょう。マカルトのアトリエは「画家のプリンス」としての自己演出であると同時に、自身の感覚を具体的な形にして展示する「総合芸術」だったそうです。ミュシャにとってもアトリエは自身の好みや興味、価値観といった形なき感覚を現出する空間であると共に、そうした環境に身を置くことによって新たなインスピレーションを得る創造のための空間だったのではないかと思います。

《『イリュストラシオン』誌・表紙 1896-1897年クリスマス特別号》他

…アカデミーで学んでいたミュシャは、1889年にパトロンだったエドゥワルト・クーエン=ベラシ伯爵からの学費援助が突然打ち切られてしまったため、挿絵画家として身を立てることになります。当時の多くの画家たちは原画の芸術性が損なわれる挿絵を画家の片手間仕事と見なしていたのですが、ミュシャは挿絵の仕事を通して画家としての鍛錬を続けようと考え、制作に当たってコンセプトからスケッチ、習作というアカデミックな手法を導入し、その確かな技術と丁寧な仕事ぶりによって評価を得ていきます。困難な状況に置かれても、目の前のことに真摯に取り組む姿勢が新たな展望を切り開いてくれるんですね。
ミュシャと言うと優美な女性像をイメージするのですが、《カリカチュア》(1882年)という素描では性別、年齢を取り混ぜてバラエティに富んだ個性的な顔貌が描かれていて興味深かったです。『ドイツの歴史の諸場面とエピソード』や『スペインの歴史の諸場面とエピソード』などの挿絵として、重厚で劇的な歴史的場面を描いた経験は、のちにスラヴ叙事詩を制作する際にも役立ったかもしれません。1896年~1897年のクリスマス特別号の表紙として描かれた《『イリュストラシオン』誌・表紙》はアザミを手にした女性の遺体を天使が白い布で包んで埋葬する場面を描いたものです。王冠を被った天使が影になっているのは生身の存在ではなく、霊的な存在であることを表現しているのでしょう。アザミは受難の象徴で、キリストの誕生日であるクリスマスにも結びつくモチーフです。白い布は雪のイメージであり、女性の死は一年の終わりを示唆するものと考えられますが、優美な表現とは言え一般に販売される雑誌の表紙に「死」を描いていることに驚きを覚えました。ユニークなのが画面左端に描かれた三組の手で、手首の先には歯車やネジが繋がっていて機械仕掛けなのが分かります。キリスト教では手は霊的なエネルギーの伝導体を、モミの木は生命力を象徴するそうですが、機械の厳密さや正確さに自然のサイクルの規則正しさを、あるいは人間の意志や感情に左右されない超越性を重ね合わせたのかもしれません。手はモミの木で装飾された扉または表紙を開こうとしているようにも見えるので、新たな一年の始まり、すなわち女性の復活をもたらそうとしているのでしょう。

黄道十二宮》(1896年)

…シャンプノワ社のカレンダーのためにデザインされた《黄道十二宮》は、その後他社のカレンダーや宣伝ポスター、装飾パネルなど他の作品にも転用されたという人気作です。大きな宝石が幾つも付いた豪華な飾りを額に嵌めている女性の横顔の背後には十二星座のシンボルが描かれていますが、円環はこの場合黄道、すなわち地球から見た太陽の軌道であり、一年という時間の周期の象徴でもあるでしょう。女性の髪が描く曲線も回転をイメージさせます。太陽暦太陰暦と、暦と切り離せない太陽と月は、画面下段でそれぞれひまわり及びアザミと組み合わされたモチーフで描かれています。太陽、月、十二星座と揃っていますから、中心に位置する女性は地球ということでしょうか。宝石も地中から産出されるものですし、大地=地球を象徴していると考えることができるかもしれません。天上の星と地中の宝石に彩られた煌びやかな作品だと思います。

連作〈四芸術〉(1898~1899年)

…連作〈四芸術〉は、女性と背後の装飾的な円環による「Q型方式」の構図が典型的に用いられている作品です。「Q型方式」とは擬人化された主題の女性が座る円環の「O」と、女性のドレスの裾が組み合わされてアルファベットの「Q」の形を成す構図のことで、ミュシャ様式のうちでも最も特徴的なものなのだそうです。この様式は装飾効果を高めるとともに、見る者の目を主題のメッセージに巧みに誘導する手段として考案され、1896年以降繰り返し用いられるようになりました。〈四芸術〉について、ミュシャは「芸術への霊感は自然から得られる」*2と考えて、芸術の各分野と自然のモチーフとを組み合わせることでイメージを豊かに広げています。《絵画》は円環の中の虹が中心にある花に視線を誘導していますが、同時に花から発せられたみずみずしい生気がハローのように外部へ広がっているようにも感じられます。女性が手に持つ赤い花は、背景に描かれたモチーフから推測するとひなげしでしょうか。《詩》は瞑想や思索を象徴する頬杖をつくポーズで、夕暮れの空に輝く星を見つめています。あるいは、輝く星は詩人のインスピレーションの一瞬の閃きそのものを象徴しているのかもしれません。古代ギリシャでは詩の競技の勝者に詩神アポロンに由来する月桂冠が贈られたと言いますが、この作品の円環の内側でも月桂樹が弧を描き、ちょうど冠のように女性の頭部を横切っています。《舞踏》は女性がドレスの裾を翻らせて、軽やかに舞い踊っている姿で表現されています。ミュシャは人物の動きに関心を持っていたそうで、舞踏する女性像はバレエを踊る裸婦の連作写真や、パステルで描かれた風の中を歩く女性とも通じるものがあるように思います。可視化された風とも言える舞踏ですが、旋回する女性は花びらを散らすつむじ風と一体化し、女性の舞踏が風を巻き起こしているようにも感じられる作品だと思います。

《メディア》(1898年)

…沈みゆく黒い太陽を背に、青ざめた顔で立ち尽くす黒いドレスのメディア。その手には血の付いた短剣が握られ、足元には不自然にねじ曲がった子供の亡骸が横たわっています。サラ・ベルナールが演じた他の演目のポスターの場合、設定やストーリーを踏まえつつも、キャラクターの人格を一定の普遍性をもって表現したある種の肖像画として描かれているように感じるのですが、《メディア》のポスターは劇中の具体的な一場面が描かれているという点で異色の作品です。一見しただけで状況の禍々しさが伝わってくる作品ですが、血腥いクライマックスの一瞬の表情を描いていることによって臨場感があり、人の眼を引きつけて強い印象を残すインパクトもあります。あえてショッキングな場面を選ぶ大胆さに驚く反面、現代で言うなら「ネタバレ」になるかもしれないとも思いましたが、メディアはギリシャ神話に登場する女性ですし、西欧の人にとってストーリー自体は既知のものなんでしょうね。メディアが頭部に戴いている棘のある冠は血を分けた我が子を殺害するという行為の恐ろしさを視覚的に表現しているのか、または大きく見開かれた焦点の合わない瞳と共に、本人の意志を超えた何かに取り憑かれ、突き動かされての行為であることを示唆しているのか、いずれにせよ、人間性の喪失を象徴しているように感じられます。人物の心情を一目で分かりやすく伝える誇張された表情は、後の漫画にも繋がる表現と言えるでしょう。

モナコモンテカルロ》(1897年)

…《モナコモンテカルロ》は、パリとコート・ダジュールを結ぶ鉄道の利用促進を図る鉄道会社PLM(パリ・リヨン・地中海鉄道会社)のために制作されました。装飾的な三つの花の円環は車輪を、画面左下から右上にかけて伸びる蔓の曲線はレールを象徴し、円環の上部で翼を広げて飛び立つ準備をしている小鳥たちは女性の浮き立つ気持ちを表現しているそうです。女性の背後に描かれた大きな円環にはライラックが、右隣はナデシコ、左下はスミレが用いられているのですが、いずれもヨーロッパでは春に咲く身近な花ですから、描かれた女性の素朴さや可憐さを感じさせて見る者に親しみや共感を抱かせると共に、これから夏を迎えるに当たりバカンスをどう過ごすか思案しているところであることを演出しているのでしょう。口元に両手を当てて天を見上げる女性のポーズは、憧れの感情を端的にイメージさせる身振りです。女性の背景にはごく自然に、しかし本来ここにはない女性の想像のなかのモナコが描かれています。虚構の景色が現実に挿入されて、異なる次元が併存しているところが漫画的ですね。さりげなさと分かりやすさを取り混ぜ、商業的な目的を効果的に伝えると共に美的でもある作品だと思います。

カウンターカルチャー、マンガへの影響

…第二次大戦後、冷戦下の西側諸国でミュシャの作品は忘れられていたそうですが、1963年にイギリスで二つのミュシャ回顧展が開催されたことをきっかけに再評価され、特に既存の体制や文化に対峙するサブカルチャーの世界でミュシャの流麗な曲線や装飾的なモチーフにインスパイアされた作品が次々と生み出されていきました。今回の展覧会の出品作を見ると、ミュシャへのオマージュとしてサラ・ベルナールのポスター《椿姫》を翻案したデヴィッド・エドワード・バード《ニューヨーク、トリトン・ギャラリーでの個展――ダンディーとしてのセルフポートレート》、クレイグ・ブラウン「ジプシー」のジャケット・デザイン(《黄道十二宮》の引用)やスタンレー・マウス&オールトン・ケリー《ジム・クウェスキン・ジャグ・バンド コンサート》のポスター(《JOB》の引用)などミュシャの作品がほぼそのまま用いられているケース、さらに何となくミュシャっぽいというものまで、様々な形でミュシャの様式が取り入れられていることが分かります。個人的に印象に残ったのはマライケ・コウガーの《ラヴ・ライフ》、《ブック・ア・トリップ》で、タイトルを除いてモノクロなため、ミュシャ様式の特徴や魅力の源泉が線にあることをよりはっきり感じることができました。
…日本では明治時代の一時期に文芸誌の表紙がミュシャ風に染まったあと、やはり忘却されてしまうのですが、意匠化された少女漫画の星や花、流れる髪の表現などの形で受け継がれ、1960年代末に北米の音楽シーンを経由して再認識されます。流麗な線描と平坦な色彩は漫画と相性が良いでしょうし、洗練された優美な女性像によってイメージを喚起するミュシャの手法がとりわけ少女漫画に親和的なのは間違いないと思います。一方、『ニュー・アベンジャーズ』や『ノヴァ』などマーベル・コミックスの表紙や天野喜孝のいくつかのイラストなどは、ミュシャの様式を男性像に応用している点で興味深く、ミュシャの考案した構図の象徴性や視覚的な効果が普遍的なものであることを感じました。今回の展覧会で展示されている以外にも、しばしばミュシャの作品のモチーフや様式を引用したものを目にするのですが、それだけミュシャの作品に国や時代を超えた魅力があるのでしょうし、広がりの大きさを感じます。様々な時代や地域の膨大な意匠や身近な自然の注意深い観察を基に華麗な装飾美に満ちた世界を生み出したミュシャですが、その作品は現代の作家たちの新たなインスピレーションの源泉になっているのだと思いました。

*1:図録P41

*2:ミュシャ展」(国立新美術館、2017年)図録P140

ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道 感想

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見どころ

…「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」展はウィーン分離派の活動を中心に、18世紀後半から20世紀初めのウィーンの芸術について当時の時代背景を踏まえつつ、絵画に加えて建築や調度品、服飾など総合的に紹介するものです。今回はウィーン・ミュージアムの建物の増改築に伴いコレクションの来日が実現したもので、出品数が非常に多く、一度で全てをしっかり見るのは難しいのではないかと思います。何度か足を運ぶことができれば良いのですが、そうでない場合は見たいものをある程度絞っておいた方が良いかもしれません。
…展覧会の冒頭に展示されているマリア・テレジアやヨーゼフ2世ら啓蒙君主の肖像画と、クリムト肖像画やシーレの自画像などを比べると、18世紀後半から20世紀初めまでのおよそ150年のあいだにいかに大きな変化が起きたか実感できます。こうした表現の変化は、絶対君主が統治していた時代から、科学・技術・産業が発展して市民階級が台頭し、日本を含む非西欧圏の文化が流入して関心を集めるなど、社会構造の変化や人々の価値観、世界観の変化が形となったものなのでしょう。特に従来の自然主義的な表現から離れて装飾的な作品を生み出したウィーン分離派による変化は決定的であり、不可逆的だったように思います。そうした変化は突然生じたものではなく、ビーダーマイアー時代など先行する時代、芸術家たちを通じて徐々に準備されていったことも理解することが出来ました。
…今回の展覧会では家具や食器など工芸品も多数出品されていたのですが、いずれの品々も機能性を備えつつ洗練されたデザインで目を引きました。現代でも、もし店頭で販売していたら普通に購入したくなりそうですし、日々の生活の中で実際に使うことが出来そうで(むしろ勿体ないぐらいですが)、19世紀が今の私たちと直接繋がっている時代であることを実感させられました。
…また、この展覧会は音楽の都ウィーンが舞台ということで、モーツァルトシューベルトヨハン・シュトラウスシェーンベルクなど、名だたる音楽家たちが展覧会の各章で登場するのも特徴だと思います。特にシェーンベルクが手掛けた絵画作品は初めて見ることが出来ました。音声ガイドでマーラーの5番を聴きながらクリムトの作品を鑑賞できたのも個人的には嬉しかったですね。美術だけでなく、音楽の好きな人にとっても楽しめる展覧会ではないかと思います。
…私が見に行ったのは6月の土曜日午前中でしたが、雨天のためか混雑はありませんでした。会場内の照明がやや暗く、写真や図面、版画など細部を見たい展示品もあったので、落ち着いて鑑賞することが出来たのは良かったです。クリムトの《エミーリエ・フレーゲの肖像》は撮影可能です。

概要

【会期】

…2019年4月24日~8月5日

【会場】

国立新美術館

【構成】

1 啓蒙主義時代のウィーン――近代社会への序章
 1-1 啓蒙主義時代のウィーン
 1-2 フリーメイソンの影響
 1-3 皇帝ヨーゼフ2世の改革

2 ビーダーマイアー時代のウィーン――ウィーン世紀末芸術のモデル
 2-1 ビーダーマイアー時代のウィーン
 2-2 シューベルトの時代の都市生活
 2-3 ビーダーマイアー時代の絵画
 2-4 フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー――自然を描く
 2-5 ルドルフ・フォン・アルト――ウィーンの都市景観画家

3 リンク通りとウィーン――新たな芸術パトロンの登場
 3-1 リンク通りとウィーン
 3-2 「画家のプリンス」ハンス・マカルト
 3-3 ウィーン万国博覧会(1873年)
 3-4 「ワルツの王」ヨハン・シュトラウス

4 1900年――世紀末のウィーン――近代都市ウィーンの誕生
 4-1 1900年――世紀末のウィーン
 4-2 オットー・ヴァーグナー――近代建築の先駆者
 4-3-1 グスタフ・クリムトの初期作品――寓意画
 4-3-2 ウィーン分離派の創設
 4-3-3 素描家グスタフ・クリムト
 4-3-4 ウィーン分離派の画家たち
 4-3-5 ウィーン分離派のグラフィック
 4-4 エミーリエ・フレーゲグスタフ・クリムト
 4-5-1 ウィーン工房の応用芸術
 4-5-2 ウィーン工房のグラフィック
 4-6-1 エゴン・シーレ――ユーゲントシュティールの先へ
 4-6-2 表現主義――新世代のスタイル
 4-6-3 芸術批評と革新
東京都美術館の「クリムト展」がクリムトの画業に焦点を絞っているのに対して、「ウィーン・モダン」ではクリムトをはじめとする19世紀末の分離派の活動の全体像について、歴史的文脈の中で捉えて展示されていました。構成は1~3章が導入部で、ウィーン分離派及び表現主義に関する第4章が中心ですが、1~3章だけでもかなりの情報量でした。クリムトの作品は《パラス・アテナ》(4-3-2)、《エミーリエ・フレーゲの肖像》(4-4)他、初期の寓意画やポスター等の版画、素描などが出品されています。素描(4-3-3)には《ベートーヴェン・フリーズ》のための習作《ゴルゴンたち》や、《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》の構想の元となった雑誌『ヴェル・サクルム』挿画用のペン画などもあり、東京都美術館の展覧会と合わせて見るとより興味深いのではないかと思います。また、裸婦を描いた官能的な作品もありましたが、特にスペースが仕切られたりはしていませんでした。その他、オットー・ヴァーグナの建築に(4-2)もかなりのスペースが割かれていて、図面や模型などが展示されています。ウィーン工房の応用芸術(4-5-1)ではヨーゼフ・ホフマンやコロマン・モーザーのデザインした調度品などがメインでした。エゴン・シーレ(4-6-1)の作品は《自画像》、《ひまわり》などが出品されています。

artexhibition.jp

感想

1 啓蒙主義時代のウィーン――近代社会への序章

…第1章ではヨーゼフ2世の啓蒙主義的政策、特に総合病院の設立や皇帝の狩猟地だったプラーターの一般開放などウィーンの都市空間にもたらした変化と共に、フリーメイソンの影響が取り上げられていました。存在自体が秘匿されているわけではないものの、フリーメイソンの活動は不明なことも多く、歴史の表側で正面から語られることはないと思っていたので、正直意表を突かれました。モーツァルトのオペラ『魔笛』がフリーメイソンの象徴などを取り入れているという説は聞いたことがあったのですが、フリーメイソンのロッジ(フリーメイソンを構成する各団体のこと)における入会儀式の様子を描いた《ウィーンのフリーメイソンのロッジ》(1785年頃)には『魔笛』の台本を書いたエマヌエル・シカネーダーと並んでモーツァルトの姿も描かれています。フリーメイソンが掲げていた自由、平等、友愛、寛容、慈愛という理念のうちの幾つかはフランス革命のスローガンを思い出させますね。フリーメイソンのロッジに属していた作家ヨーゼフ・フォン・ゾンネンフェルスは、マリア・テレジアやヨーゼフ2世に対して啓蒙主義的な改革の提案を行っていたそうですし、フリーメイソンの理念はそれを支持、賛同する文化人などを通じて政治的にも影響を及ぼしていたのでしょう。

2 ビーダーマイアー時代のウィーン――ウィーン世紀末芸術のモデル

…ビーダーマイアーとは元々1855年頃ミュンヘンの文芸紙に連載された風刺的な詩の架空の作者名だったもので、その後、ウィーン会議以降ウィーン三月革命までの1814/15年~1848年までをビーダーマイアー時代と呼ぶようになったそうです。この時代はフランス革命の勃発からヨーロッパ全体が巻き込まれたナポレオン戦争にいたるまでの激動の時代に対する保守反動の時代で、体制の安定を図るため検閲が徹底されて人々も内向きになりましたが、その分私的な時間・空間を充実させることに関心が注がれました。同時に、余暇を楽しんだり、瀟洒な調度品を購入したりすることのできる富裕な市民層が台頭し始めた時代とも言えるのでしょう。出品されているビーダーマイアー様式の家具や食器などはシンプルで実用性も考慮しつつ、現代のインテリアとして使われていても違和感がなさそうな洗練されたデザインで、現代にも通じる美意識がこの時代に萌芽したことを実感しました。
シューベルトは経済的に苦労して病気で亡くなったというイメージが強かったため、シャンデリアの下、着飾ったブルジョワの紳士淑女に囲まれて自作の曲を披露している《ウィーンの邸宅で開かれたシューベルトの夜会(シューベルティアーデ)》の姿を見て新鮮さを感じました。クラシック音楽と言うと固く考えがちなのですが、『野ばら』のような親しみやすい曲やドラマチックな『魔王』など、今も歌唱される様々な歌曲を世に送り出して人気を博した流行作曲家としての面もあるのでしょうね。また、シューベルティアーデは単なるシューベルトの友人たちのサークルというだけでなく、ビーダーマイアー時代の社会や生活を象徴する集いであって、市民たちは趣味を共有する仲間同士で交流し、郊外へのレジャーを楽しんでいたことも知ることが出来ました。
…この時代の絵画作品ではフリードリヒ・フォン・アメリングの《3つの最も嬉しいもの》(1838年)が印象に残りました。3つの最も嬉しいものとは酒、女性、音楽のことで、男性にとって嬉しいものを指すわけですが、この作品はむしろ女性の心理に焦点が当てられているように感じられます。グラスを手にした赤ら顔の男性が、リュートとおぼしき楽器を手にした黒髪の女性の肩を抱いて耳元で囁いていますが、酩酊して他のものが目に入らない様子の男性に対して、言い寄られている女性はどこか醒めた表情です。女性の右手は男性の手に重ねられているようにも、逆に押しのけようとしているようにも見えますね。意思を感じさせる女性の目は鑑賞者の側に向けられていて、どちらを選ぶのか問いかけられているようにも感じられました。また、フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラーの光溢れる克明で写実的な風景描写も印象的でした。

3 リンク通りとウィーン――新たな芸術パトロンの登場

三月革命後に即位したフランツ・ヨーゼフ1世のもとでウィーンは首都として街並みが一新され、人口も飛躍的に増大するなど大きく発展しました。特に1857年に都市を囲んでいた市壁が取り壊されたあと新たに開通したリンク通りとその沿道は、国会議事堂や市庁舎、ウィーン大学、ブルク劇場などが次々と建設されると共に、皇帝夫妻の銀婚式のパレードの舞台となり、近代的な都市に変貌した首都ウィーンを新たに象徴する場所となったと言えそうです。ナポレオン3世の治世下でオスマンによるパリの近代化が推進されたように、ウィーンでもフランツ・ヨーゼフ1世によって膨張する首都の整備が進められたんですね。こうした動きは産業革命が進行するヨーロッパ各国に共通するものだったのでしょう。
…若きクリムトがウィーンの工芸美術学校で学んでいた頃、ウィーンの美術界の第一人者だったのが「画家のプリンス」ハンス・マカルトで、マカルトは1879年4月に開催された皇帝夫妻の銀婚式の祝賀パレードの芸術総監督も務めました。会場でマカルトが祝賀パレードのためにデザインした連作スケッチを見ながら、バロック時代のルーベンスやベラスケス、あるいはルネサンス時代のレオナルド・ダ・ヴィンチなどが各々の主君のために舞台や儀式、祝祭の装飾や演出を手掛けていたことを思い出しました。絵画や彫刻といった枠組みにとどまらない総合的なイベントを指揮するには卓越した手腕が求められますし、やり甲斐もあると思うのですが、そうした芸術家の伝統的な役割と言えそうなものが19世紀にも引き継がれているんですね。一方で、この祝賀パレードは参加者1万4000人、沿道の観客30万人という壮大な規模のもので、王侯貴族だけでなく多数の市民も演者、観客として参加し、共有する祝祭空間であることが近代的と言えるかもしれません。現代で例えるならオリンピックの開会式のようなものでしょうか。今日まで語り継がれているというのも、その共有された経験が共同体の記憶として継承されている証拠なのだろうと思います。
肖像画家として活躍したマカルトですが、《メッサリナの役に扮する女優シャーロット・ヴォルター》(1875年)も一種の肖像画と言えるでしょうか。メッサリナは古代ローマの皇帝クラウディウスの妃でしたが、夫以外の男性と情事を重ね、ついには夫であるクラウディウス帝の暗殺を諮ったため殺されたそうです。背景に描かれた夜の街並みは古代のローマ=舞台のセットという設定なのだと思いますが、繁栄する世紀末のウィーンの暗喩のようにも感じられます。あえて悪女に扮した姿が選ばれたところに、ファム・ファタルという主題の流行ぶりが窺われるのですが、男性にも社会の常識にも束縛されない悪女の波乱に富んだ運命は女性にとっても魅力的だったのかもしれないと思ったりもしました。滑らかに仕上げられたシャーロット・ヴォルターに比べると、その後に制作された《ドーラ・フルニエ=ガビロン》(1879-80年頃)や《ハンナ・クリンコッシュ》(1884年以前)は技法が変化していて、素早いタッチで生き生きと描かれています。第1回印象派展の開催が1874年ですから、こうした変化は他国の美術の動向などとも連動しているのでしょう。ドーラ・フルニエ=ガビロンは椅子に腰掛けているようなのですが、赤と茶褐色に塗り分けられた背景は大胆かつ曖昧にぼかされていて、モデルの人となりを説明的に語るよりも構成や色彩を重視した装飾的な作品になっています。保守的なウィーン造形芸術家組合から脱退した芸術家たちによって設立されたオーストリア造形芸術家協会=ウィーン分離派ですが、彼らの目指す新しい芸術は先行する世代によって模索され、少しずつ準備されてきたことも実感することが出来ました。

4 1900年――世紀末のウィーン――近代都市ウィーンの誕生

…新たに整備されたリンク通りの沿道に建設された建築物はゴシックやルネサンスバロックなどかつての様式からインスピレーションを得ていたのですが、そうした歴史主義を脱して独自の様式を生み出したのがオットー・ヴァーグナーでした。ヴァーグナーの手がけた「郵便貯金局」は鉄とガラスという素材によって従来の建物にはない明るさを確保し、シンプルで機能的でありながら装飾性も兼ね備えていて、装飾を排したモダニスムの純粋さとはまた違う豊かさが感じられると思いました。
クリムトの作品は初期の寓意画や素描なども比較的多く展示されていました。ゲルラハ&シェンク社が出版した近代的な寓意画のための図案集『アレゴリーとエンブレム』掲載作品の原画である、《自然の王国》(1882年)の男性像はミケランジェロによるシスティナ礼拝堂の天井画を思わせますが、クリムトも初期は古典に倣って技術を磨きながら自分の表現を深めていったことが窺われます。一方で《愛》(1895年)の背景に浮かび上がる亡霊のようないくつもの顔は《鬼火》(1903年)に描かれた妖しく神秘的な女性たちの同類のようでもあり、「老い」や「死」など人生、運命を連想させるという点で《女の三世代》(1905年)に通じる部分もありそうで、クリムトの関心が初期から一貫していることも感じられました。
…エミーリエ・フレーゲクリムトの弟エルンストの妻ヘレーネの妹で、クリムトにとって最も親密な女性です。《エミーリエ・フレーゲの肖像》では左手を腰に当てて横向きに立つエミーリエが、顔だけこちらを振り向いた姿が描かれています。落款のようなクリムトのサインは日本美術の影響でしょうか。エミーリエは姉妹たちとファッション・サロン「フレーゲ姉妹」を経営し、改良服(リフォーム・ドレス)の制作・販売も取り扱っていたので、この肖像画で着ているドレスも改良服かと思ったのですが、図録の解説によると違うようです。確かにゆったりとしたラインが特徴の改良服と違って細身ですよね。縦に細長い画面も日本美術の影響が感じられますし、クリムトは生地を身体に巻き付ける和服のシルエットを意識したのかもしれません。ボリュームのある黒髪の周りに描かれた傘か帽子のような部分はよく見ると緑色の細い曲線によってエミーリエの左肩付近に繋がっていて、単なる背景の一部ではなさそうです。色彩もドレスと同じ青と緑を基調としていて関連性が感じられますし、エミーリエ自身から滲みでているもの、聖人の肖像の光背のようなもので、エミーリエの才気や生命力を象徴しているのかもしれません。ところで、女性の肖像画というと胸に手を当てたり、大きく膨らんだドレスに手を添えたりと慎ましい物腰で描かれる場合が多くて、腰に手を当てるポーズはあまり目にすることがないように思います。男性の肖像画であれば珍しくないポーズのためか、実はこの作品を見た時、エミーリエの自我を感じさせる表情と相まって男性的と言ってもいい毅然とした印象を受けました。ただ、エミーリエ本人は不本意だったのかこの作品を売却しているそうなので、画家の思いとモデルのすれ違いもあったのかもしれません。クリムトは性愛の象徴として数多くの艶めかしい女性たちを描いていますが、身内でもあり前衛的な芸術にも理解のあったエミーリエについては、本能ではなく知性と意志を以て行動する自立した一人の人間として表現したかったのではないかと思います。
クリムト以外の分離派の作品では、マクシミリアン・クルツヴァイル《黄色いドレスの女性(画家の妻)》(1899年)が印象に残りました。大きく広がった黄色いイヴニングドレスの裾が蝶の羽根のようで、女性の腰掛ける緑のソファとの対比が鮮やかです。両腕を水平に伸ばしたポーズはキリストの磔刑を連想させますが、僅かに首を傾げた女性は冷ややかで挑発的な表情を浮かべています。細くくびれたウェストはコルセットによるものでしょうか。こうしたファッションに対して、身体を解放して自然に還る、自由で動きやすい「改良服」が提案されたんですよね。コロマン・モーザーのデザインした「改良服」(1905年頃)は生地にプリントされた朝顔のモチーフに日本美術の影響が窺われます。裾が長く袖も広がっていて活動するには不向きにも思いますが、ゆったりと寛ぐことができそうなドレスだと思いました。
…装飾的、耽美で退廃的な世紀末芸術を堪能したあとで見るエゴン・シーレの作品は鮮烈なインパクトがありました。クリムトの作品も人間の苦悩が描かれているのですが、あくまで華麗な装飾と多義的な象徴、甘美な官能のヴェール越しのものであるのに対して、シーレの作品からは剥き出しの精神の鋭敏さが感じられます。鋭くも屈折したシーレの線描からは抑えられ、歪められた激情が迸る出口を求めて、身を捩り、痙攣するような印象を受けました。

キスリング展 エコール・ド・パリの夢 感想

見どころ

…「キスリング展 エコール・ド・パリの夢」は、エコール・ド・パリを代表する画家の一人、キスリング(1891~1953)の、日本では12年ぶりとなる回顧展です。出品作はジュネーヴのプティ・パレ美術館/近代美術財団を始めとする内外の美術館及び個人のコレクション69点で構成されていて、その全てがキスリングの作品であり、数点を除きいずれも油彩画と、キスリングの世界を堪能できる内容となっています。
ポーランドクラクフに生まれたキスリングは、1910年にパリに来るとキュビスムフォーヴィスムなどの絵画運動に触れ、ピカソモディリアーニ藤田嗣治らと交友しながら独自の画風を確立し、エコール・ド・パリの仲間の中でも最も早く成功を収めました。私はキスリングの作品をまとめて見たのは初めてだったのですが、何よりも色彩の華やかさ、時として爽やかさも感じさせる透明感が印象的でした。また、キスリングは古典的な主題を現実に即した形で描いているので、一見しただけでその色彩の鮮やかさや官能的な女性美を直感的に味わうことができるのですが、見れば見るほどよく考えられていて、色彩や形体が相互に対比されつつ効果的に組み合わされ、一つの画面に幾何学的で単純化された人工物と有機的で複雑な自然物といった相反する要素が矛盾なく統合されていることに気づかされました。感覚的な喜びと計算された造形とのバランスが良く、見ることを素直に楽しみ、作品世界に浸れる展覧会だと思います。
…私が見に行ったのは土曜日の午前中でしたが、混雑はなく落ち着いてじっくり鑑賞することができました。会場は旧朝香宮邸である本館と新館とに分かれています。本館内の順路は普通の美術館とちょっと勝手が違うのですが、係員の方が順路の各所に配置されていたので迷わずにすみました。展示順が作品の番号と大幅に変わっているのは、本館の各部屋の広さや雰囲気に合わせて作品を展示しているためかもしれません。キスリングの作品は撮影はできませんが、本館内の室内は撮影可能な場所もありました。所要時間は60分程度ですが、可能であれば本館の建物や庭園もゆっくり見る時間を見込んでおくと良いと思います。

概要

【会期】

…2019年4月20日~7月7日

【会場】

東京都庭園美術館

【構成】

序   キスリングとアール・デコの時代
第1部 1910-1940:キスリング、エコール・ド・パリの主役
    セザンヌへの傾倒とキュビスムの影響
    独自のスタイルの確立
第2部 1941-1946:アメリカ亡命時代
第3部 1946-1953:フランスへの帰還と南仏時代
…会場である東京都庭園美術館の旧朝香宮邸(1933年建設)は、キスリングが活躍していた時期に建てられたアール・デコの建築であり、時代の空気を感じながら鑑賞することができます。出品作は肖像画のほか裸婦、トゥーロンの港などを描いた風景画、花や果物などの静物画など多彩で、キスリングが手掛けた主題がバランス良く揃っていると思います。

www.teien-art-museum.ne.jp

感想

《ベル=ガズー(コレット・ド・ジュヴネル)》1933年

…青空の下、首を傾げて純白の百合を腕に抱き、鬱蒼と茂る植物の前に佇む若い女性。《ベル=ガズー》は等身大に近い大きな肖像画で、モデルは作家コレットの娘コレット・ド・ジュヴネル、タイトルでもある「ベル=ガズー」は母が娘に付けたあだ名なのだそうです。この作品を前にしたとき真っ先に目に入ってきたのは、ベル=ガズーの着ている赤、緑、黄のタータンチェックのワンピースでした。素朴な柄は純潔を象徴する百合や背景に描かれた自然物と共に彼女が無垢の存在であること、あるいは無垢な人間本来の自然に根ざした生命力を示唆しているようにも思われます。同時に、チェックの赤は植物の緑と対比され、黄色はモデルの明るい金髪と呼応していますし、背後の青空には光を感じさせる黄色が混じり、ワンピースの大きな白い襟は百合の花弁と呼応するなど、色彩の効果とバランスが緻密に計算された上で構成されています。肖像画が描かれた当時、彼女は20歳前後だったそうですが、年齢より若く、少年のようにも見えるのは、髪がすっきりとまとめられているのも一因でしょう。頭部の輪郭が明確になることでベル=ガズーの立ち姿が綺麗な円錐形になり、一見自然主義的な描写でありながら幾何学的に造形が意識されていることが分かります。また、女性らしさを強調しないのは作品自体の持つ素朴な雰囲気との調和もあるでしょうし、18歳で映画製作の助監督となったあと、第二次大戦中はレジスタンスとして、戦後はジャーナリストになったというベル=ガズーの伝統的な価値観、女性観にとどまらない積極的、活動的な面を表現しているのかもしれません。そうした若々しさ、瑞々しさが感じられる一方で、ハイライトのない大きな瞳は物憂げで、視線や感情が掴めず謎めいた印象を受けます。表情、ことに目の表情のもたらす印象は大きいと思うのですが、それを描かないのはモデルが語りかける特定の感情や物語ではなく、色彩や形体など造形的な面に注意を引くためかもしれませんし、モデルが外界を見ているのではなく、自分の内面を見つめ、繊細な物思いに耽っていることを示唆しているようにも思われます。明るい外界と内面の憂愁、モデルの古風な装いと伝統に囚われない精神など、様々に相反する要素が彩り豊かな一つの画面に収められている作品だと思います。

《ルシヨンの風景(セレのジャン・サリ橋)》1913年

…セレはピレネー=オリアンタル県の町で、キスリングが滞在していた当時はピカソやフアン・ギリス、マノーロなどキュビストたちが集まっていたそうです。《ルシヨンの風景》はジャン・サリ橋という橋からの眺めを描いたもので、高低差のある狭い谷間の中心を一筋の細い川が流れ、蛇行する川沿いに緑が茂っています。岸に迫るように建てられた家屋の屋根越しには、伏せたお椀のような茶色と黒の山の稜線が画面上端ぎりぎりに描かれていて、空は暗く、僅かに見えるだけなのですが、画面右側から家の壁や塀を明るく照らす日の光が感じられます。家や樹木、山などがいずれも幾何学的な形に単純化されている中で、唯一画面右側に伸びる樹木の曲がりくねった細い幹や枝は自然な形状に描かれています。また、複数の視点で描かれるキュビスムの作品の場合、明確な光源が表現されることはあまりないように思うので、一点から差し込む光の表現はキュビスムとの違いを感じて印象に残りました。統一性が保たれた空間に量感あるモチーフが凝集されていて、密度の高さが感じられる作品だと思います。

《サン=トロペの風景》(1918年)

…《サン=トロペの風景》は、《ルシヨンの風景》に比べてぐっと画面が明るくなっているのが印象的でした。家の壁や屋根は単純化され、平面的ですが、折れ曲がった幾何学的な道が奥行きを感じさせます。一方、樹木は複雑な、自然主義的な形体で描かれていて、《ルシヨンの風景》からの変化が窺われます。明るさは色彩の透明感に由来するのでしょう。赤い屋根と緑の木立、黄色の木漏れ日と道に差す青紫の影といった補色の対比が鮮やかで、生彩に富んだ風景になっていると思います。

《北イタリア、オルタ風景》(1922年)

…《北イタリア、オルタ風景》はピエモンテ州、アルプスの麓にあるオルタ湖岸の町、オルタ・サン・ジューリオの風景を描いたものです。斜面に立ち並ぶ家々のあいだの急な坂道を下っていくと風景が開けて、湖越しに遠くアルプスの山並みが見えています。家の屋根や壁は依然として直線的、幾何学的な形状で描かれていますが、初期に比べると形体の純粋さ、単純化への傾向は弱まり、窓の鎧戸やテラスの手すりの装飾的な形状など細部も描写されています。また、色彩も明るさを保ちつつ、一つの対象を一色で表現するのではなく、濃淡のある複数の色彩を取り混ぜて描かれています。あくまで眼前の風景を踏まえつつ、人工物と自然、幾何学的形体と有機物の調和が表現されていると思います。

《赤い長椅子に横たわる裸婦》(1918年)

…赤い部屋の赤いソファに横たわる裸婦。女性は腕を枕に顔を傾け、官能的な笑みを湛えて画家=鑑賞者を見ています。1910年代前半のキスリングの作品を見ると黒や褐色など暗い色彩を基調としているのですが、この作品では画面全体が大胆に赤で覆われていて画風が大きく変化しています。実は会場でこの作品を見た時、赤い部屋に横たわる裸婦がまるで内蔵に包まれているようにも見えたのですが、そのぐらい生々しく、裸婦の裸体以上に肉体を感じさせる赤、内なる熱やエネルギーがこもっている赤だと思います。陰部を隠すポーズはエロティックな暗喩と考えられるそうですが、命が生まれてくる場所を指し示しているとも考えられるでしょう。画面手前の卓上の皿には果物が置かれているのですが、古典的な図像学において若い女性の横に置かれた果物は母性を象徴するそうなので、生命の根源、出産や豊穣を表現している作品かもしれないと思いました。

《モンパルナスのキキ》(1925年)

…暖かいオレンジ色のベッドで惜しげもなく裸体を晒して横たわる女性。背景の青い壁によって、裸婦の臀部が強調された流れるような曲線のフォルムが一層際立っています。キスリングの作品を見ていると一つの画面のなかで相反する要素を組み合わせている場合が多いように感じるのですが、この作品でも青とオレンジ、壁や扉の直線と有機的な形のベッドとが対比されています。両者のあいだで腕を枕にたゆたう裸婦の存在は、文明と自然のどちらの側面も併せ持つ人間を表現しているのでしょうか。この作品のモデルとなったキキは1920年代のパリで芸術家たちを魅了し、絵画や写真のモデルとなっただけでなく、女優や歌手としても活躍したそうです。「モンパルナスの女王」とも呼ばれたキキですが、この作品に描かれた無防備な姿態で一人微睡む様子は、華やかな虚飾を脱ぎ捨てて自分の世界で安らいでいるようでもあり、一方で身分や地位といった身を守る鎧を持たない女性の寄る辺なさも感じさせて、官能的でありながら孤独の滲む作品だと思います。

《座る若い裸婦》(1932年)

…《座る若い裸婦》のモデルの女性は膝に両手を重ねて、品良く微笑んでいますが、着衣の肖像画であればこの畏まった表情やポーズは違和感がないだけに、裸婦であることが意表を突きます。裸婦というモチーフが物語の文脈や、官能的なイメージの枠の中で描かれるか、もしくは肉体そのもの、形体自体への関心を優先させることで成立していることを逆説的に意識させるんですね。顔は人格の指標であり、表情は意志や感情といった人間性の表れですが、画家はそうした精神がしばしば生身の肉体、生物としての本能と切り離されて認識されているのではないかという問題を提起し、美しく装っている人間の赤裸々な本質を表現したかったとも受け取れますし、逆に日常では包み隠されている肉体の気高さを表現したかったのかもしれません。表情と生身の肉体、人格と裸体の統合を試みている作品だと思います。なお、裸婦の左手はキスリングが若い頃に傾倒したセザンヌに倣って、未完成のまま残されているそうです。

《赤い長椅子の裸婦》(1937年)

…この作品も二十年前の作品と同じく、赤い長椅子に横たわる裸婦が描かれているのですが、20年前の作品に比べると冷ややかで、一層官能的な印象です。長椅子の生地の色彩、質感が透明感のある女性の滑らかな白い肌を引き立てるとともに、有機的な肉体と壁や床の幾何学的な模様が対比されています。女性は腕で口元を隠しているため、誘いかけるように微笑んでいるとも、突き放すような冷ややかな表情をしているとも思われて、謎めいて見えます。背後を覆う黒々とした不吉な影は、老いや死を暗示しているのでしょうか。市松模様の床はフランドル絵画を想起させますし、うたかたの繁栄を脅かす不穏な世情を背景に、若さや美しさの儚さ、虚しさを戒めるヴァニタス画を20世紀的に翻案しているのかもしれないと思いました。

《果物のある静物》1920年

…《果物のある静物》は真っ白な壁を背景に、山積みされたカラフルな果物が一際明るく映えて、新鮮な印象を与える作品です。静物画の定番とも言える林檎や桃、ブドウなどに混じって、バナナやパイナップルなどが描かれていますが、こうした南国の果物が入手できるようになった時代でもあるんですね。テーブルクロスの柄の爽やかなパステルカラーの水色は果物にはあり得ない色だから選ばれたのではないかと思いますが、多彩な色が用いられた画面をすっきりと引き締めています。色彩感覚が現代的で、明るく清涼感のある作品だと思いました。

《果物のある静物》1953年

…同じ《果物のある静物》というタイトルながら、およそ30年後に描かれたこの作品では、果物がレモンイエローやマゼンタ、エメラルドグリーンなどよりクリアで濁りのない、鮮烈な色彩で描かれています。正面中央に描かれた引き出しのあるテーブルの磨かれた天板は、鏡のように色の付いた果物の影を映し出しています。本来なら光を遮る実体の影は黒いわけですが、この不思議な影は色彩と対象、光と実体が一体のものであり、色彩が移ろう光ではなく、ものの本質と結びついていて切り離し得ないことを表現しているのかもしれません。あるいは逆に色にこそ実体を与えたようでもあり、色に物そのものとして、確かな存在感を与えようとしているようだと思いました。

《カーテンの前の花束》1937年

…キスリングはフランドル絵画など古典に学んでいるそうで、この作品を見たときは、昨年ブリューゲル展で見た花の静物画が頭に浮かびました。鑑賞者と正対する卓上の大きな花瓶に飾りつけられた花束には様々な種類の花が生けてあるのですが、ブリューゲル一族の作品を思い浮かべたのは赤や黄や紫のチューリップが目についたせいかもしれません。そのほか百合、アジサイ、アイリス、ダリアなど季節の異なる花がひとまとめに束ねられているので、リアルな花束の再現ではなく画家がカンヴァス上で組み合わせたものなのでしょう。この作品の特徴は濁りのない花の色そのものが形を成し、厚みを持っているように見えることで、色彩が透明な光ではなく、物体化して実在しているように感じられました。青い色味の花が少ないので、青い壁紙は花束を引き立てるのに効果的ですね。壁に掛かった彩り豊かなカーテンが半分めくれてこの壁紙が見えているのですが、何もない壁にカーテンを掛けることはあまりないように思います。では、このカーテンは何を隠していたものなのでしょうか。17世紀の絵画などを見ると絵にカーテンが掛けられていることがあるので、この作品の花束は実は壁に掛けられた絵画に描かれていた花束であり、それがカーテンの背後から抜け出して実体化したと考えてみるのも面白いと思いました。それを描いたキスリングのこの作品も絵画なので、実体とその像が入れ子のように重なり合っていることになるのですが、実体の影ではなく絵画自体が物そのものとして存在すること、その本質的要素としての色彩を表現したかったのかもしれません。色彩と実体、実体と絵画、絵画と色彩といった相互関係について、色々と考えてみたくなる作品だと思います。

クリムト展 ウィーンと日本1900 感想

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見どころ

…この展覧会は世紀末ウィーンを代表する画家グスタフ・クリムト(1862~1918)の没後100年、及び1869年に締結された日墺修好通商航海条約締結(1869)を端緒とする日本オーストリア友好150周年を記念するもので、クリムト作品の世界的コレクションを有するベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館の所蔵作品を中心に、日本で開催される展覧会としては過去最多となるクリムトの油彩画25点以上が出品されています。
クリムトというと華麗な装飾美、金箔を用いた煌びやかな作品が思い浮かぶのですが、クリムトの父エルンスト・クリムト金工師であり、クリムト自身も初期には弟のエルンスト、友人フランツ・マッチュと共に地方都市の劇場の装飾に関わる仕事をしていたそうで、そもそもの出発点が装飾芸術だったんですね。そうした作品にはビザンティンや中世の美術に加えて、日本美術もインスピレーションを与えていて、素材や構図、モチーフなどに既視感を覚えるような、ある種の親近感も感じることが出来ました。また、クリムトの作品の魅力は何と言っても官能的な女性美だと思いますが、今回、クリムトの作品をまとめて見てみて、月明かりの下の幻影のような青白い肌の女性像に濃密に立ちこめる官能性の裏には背徳や死の気配が分かちがたく結びついていて、それが仄暗く、退廃的な印象をもたらしているのだろうと思いました。一方、対照的に風景画は明るさが印象的で、自然の豊かさや生命力の強さへの率直な喜びが感じられるように思いました。
…私は5月の土曜日午前中に見に行ったのですが、開場直後だったため入場規制による行列が出来ていました。待ち時間は10分余りでしたが、会場内も混雑していてほとんどの作品の前に列ができていました。油彩画はサイズが大きいため後方からでも見ることが出来ますが、写真や手紙、工芸品など小型の出品作も多いので、120点全ての作品をしっかり見ようとするとかなり時間がかかるのではないかと思います。展示解説は少なめです。なお、会場併設のミュージアムショップも、混雑のため会計待ちの行列ができていましたが、レジの数は多いので待ち時間は5分ほどでした。11時過ぎに会場を出る頃には入場待ちの列がかなり短くなり、ほとんど待ち時間なしになっていたので、開場直後を避けた方が良いのかもしれません。

概要

【会期】

…2019年4月23日~7月10日

【会場】

東京都美術館

【構成】

1 クリムトとその家族
 :《ヘレーネ・クリムトの肖像》
2 修業時代と劇場装飾
 :《レース襟をつけた少女の肖像》
3 私生活
 :《葉叢の前の少女》
4 ウィーンと日本 1900
 :《女ともだちⅠ(姉妹たち)》、《赤子(ゆりかご)》 
5 ウィーン分離派
 :《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》、《ユディトⅠ》、《ベートーヴェン・フリーズ》
6 風景画
 :《アッター湖畔のカンマー城Ⅲ》
7 肖像画
 :《オイゲニア・プリマフェージの肖像》
8 生命の円環
 :《女の三世代》、《家族》
…構成及び各章の主なクリムト作品です。
…構成は主題別となっていて、特に5章「ウィーン分離派」と8章「生命の円環」は見応えがありました。5章の《ベートーヴェン・フリーズ》については、1984年に制作された全長34mを超える原寸大の複製が展示されています。なお、7章「肖像画」に出品予定だった《マリー・ヘンネベルクの肖像》は残念ながら展示されていませんでした。

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感想

《ヘレーネ・クリムトの肖像》(1898年)

…この作品のモデルであるヘレーネはクリムトの弟エルンストの娘です。当時ヘレーネは6歳だったそうですが、落ち着いた大人びた顔つきで、もう少し年上に見えますね。丁寧に描かれた横顔に対して、たっぷりとした襞のある白いワンピースは軽く素早いタッチで大まかに描かれています。背景は明るいベージュで、薄く扉か窓の枠のようなものが描かれているのが見えますが、少女の周りに装飾的に額のような縁取りを描いているのかもしれません。全体に白やベージュといった明るく淡い色調のなかで、きっちりおかっぱに切りそろえられた暗褐色の髪がくっきりと際立って見えます。少女の髪を描く筆触が滑らかで、絵の具が溶けるような柔らかさを感じました。完全な横顔というのはモニュメンタルな印象を与えるものですが、クリムトは一般的な子供を描くのではなく、幼くとも自立した一個の人格として捉え、強いて子供らしさを強調しなかったのかもしれません。少女の高い内面性、精神性が感じられる作品だと思います。

フランツ・マッチュ《女神(ミューズ)とチェスをするレオナルド・ダ・ヴィンチ》(1889年)、エルンスト・クリムトフランチェスカ・ダ・リミニとパオロ》(1890年頃)

…1876年、14歳でウィーンの工芸美術学校に入学したクリムトは、弟のエルンスト及び友人のフランツ・マッチュと共に3人で「芸術家カンパニー」を結成し、共同で活動しました。マッチュとクリムトが同時に、同じ少女をモデルに描いたと考えられる《レース襟をつけた少女の肖像》を比べると、モデルの顔を大きく描いているクリムトは表情を捉えることに関心があり、襟の模様など細部にはこだわらず素早いタッチで描いているのに対して、マッチュは肖像らしく少女の上半身を画面に収めていて、オーソドックスに描いている印象です。マッチュによる《女神(ミューズ)とチェスをするレオナルド・ダ・ヴィンチ》は半円形をしていますが、これはスープラボルトという部屋の扉の上部に取り付けられる絵画だったためだそうです。盤上に視線を落とし、口元に手を当てて考えるレオナルドと、駒を手に微笑む女神は芸術の勝負をしているのでしょうか。二人は写実的に描かれ、女神の服の細かな襞まで緻密に描かれています。一方で背景は平面的で、様式化されたクジャクが描かれ、装飾的なパターンで埋められていますが、これは絵画作品として装飾的な効果を高めると共に、絵画と建築を関連づけ、描かれた場面を実際の空間とつなげる役目も果たしているのだそうです。エルンスト《フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ》は、ダンテ『新曲』にも登場する人妻フランチェスカと夫の弟パオロの悲恋が題材の作品です。この逸話はランスロットの騎士物語を読んだあとで二人が口づけを交わす場面や、地獄の中を彷徨う恋人たちの霊として表現されることが一般的だそうで、私はロダンの彫刻《接吻》を思い出したのですが、情熱的、官能的な《接吻》と対照的に、この作品は清純さが印象的で、清らかな愛を象徴する白バラや純潔を象徴する白いアイリスなどのモチーフが取り入れられ、愛の調和を表現することがテーマとなっています。恋人を信じて身体を委ねるように寄り添うフランチェスカはエルンストの妻ヘレーネ・フレーゲがモデルだそうですから、愛情深い眼差しでフランチェスカを見つめるパオロには画家自身の心情も重ね合わせられているのでしょう。

《女ともだちⅠ(姉妹たち)》(1907年)、《赤子(ゆりかご)》(1917年)

…《女ともだちⅠ》は細長いカンヴァスに装飾的な女性像が描かれた作品で、浮世絵の美人画から着想を得たとも考えられるそうです。二人の女性が纏うシックな黒の毛皮のコートが画面の大部分を占めるなか、女性たちの青白い顔と、その表情が際立って見えます。二人は共に画面左側に視線を奪われているようなのですが、何を見ているかは分かりません。モノトーンの色彩のなかで一際目を引く女性たちの赤い唇は半ば開かれて、何かに見とれているようにも思えるのですが、その辺りは見る側の想像次第というか、こうした女性の表情やポーズ、装飾的な造形そのものを堪能するのが良いのでしょう。艶やかでミステリアスな印象の作品だと思います。《赤子》も日本美術と関連がある作品で、19世紀前半に歌川派の制作した錦絵の影響があるのだそうです。非常にユニークな構図で、色とりどりの布地が文字通り山のように積み重ねられ、一番上とも一番奥とも見える頂点に白い産着に包まれた赤ん坊が顔をのぞかせています。全体としてはほぼ三角形なのですが、各パーツをなす布地は不揃いで有機的な形状であり、その柄も一つとして同じものはありません。背景は曖昧な靄のようで、非現実的な空間であり、混沌たる色彩の揺籃の中で赤ん坊のみが白く描かれています。様々な模様の布が積み重ねられたゆりかごは人間の内面、無限の精神世界を象徴するようにも思われ、赤子は無垢であることにより世界と直接繋がり、あらゆる可能性を有する存在であり、握られた手の中にその可能性が秘められているようにも感じました。

《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》(1899年)、《ユディトⅠ》(1901年)

…正面を向いて直立し、輝く青い瞳で鑑賞者を見つめる《ヌーダ・ヴェリタス》。女性は長く垂らした豊かな金髪のほかは一糸まとわぬ姿で描かれていますが、衣服で覆われていない裸体は真実が覆われていないこと、真実が露わになっていることを意味する西洋美術の伝統的な寓意像で、完全に正面を向いた歪みのない姿は真実の厳正さを、人間のものではない目の輝きからはその超越性を感じさせます。女性が右手に持つ鏡は鑑賞者自身を写し出すものであり、足元で鎌首をもたげる蛇、すなわち否応なく目に入る罪からも目を背けることなく、ただ美しいだけではないありのままの真実を見るよう促しているのでしょう。保守的なウィーン造形芸術家協会から脱退したクリムトは、批判を恐れず新しい芸術を広めていく決意をこの作品に込めているそうです。女性の足元にうずくまる蛇はエデンの園の知恵の樹の実を食べるよう唆した悪魔を連想させますが、真実を知るには禁忌を破らなければならないこと、真実が必ずしも幸福だけをもたらすとは限らず、それまで安住してきた世界を失うことを示唆しているのかもしれません。寓意画の伝統を踏まえつつも内容は挑戦的であり、厳しい道であっても新たな表現を求める画家の意欲が表れている作品だと思います。
…ユディトは旧約聖書外典に登場する女性で、アッシリア軍の司令官ホロフェルネスの寝首を掻いてユダヤの窮地を救ったとされています。しかし、クリムトの《ユディトⅠ》は救国の英雄、信心深く勇敢な女性としてはあまりにも艶めかしく、むしろ男性に破滅をもたらす危険な誘惑者として描かれています。黄金の装身具を身につけ、薄く透ける布地の服をはだけて胸元を露わにしたユディトは、武勇に対する官能の勝利を象徴しているのでしょう。ホロフェルネスの首を手に半ば目を閉じ笑みを浮かべているユディトを酔わせているものは、実のところ官能よりもむしろそれによって手にした勝利ではないかと思うのですが、クリムトの描くユディトには祖国のためという目的は感じられず、男性を翻弄し、支配することそのものに愉悦を覚えているようにも見えます。狂気にも似た恐ろしさを感じさせる女性像だと思いますが、クリムトはこの作品を手掛けた時期に複数の女性との関係に問題を抱えていたそうで、男性にとっては不可解で制御できない女性の魅力とその力への恐れ、戦慄が表現されているのではないかと思いました。

ベートーヴェン・フリーズ》(オリジナル:1901~02年、原寸大複製:1984年)

…《ベートーヴェン・フリーズ》は1902年に開催された第14回ウィーン分離派展のために制作された壁画で、ベートーヴェンの第9がテーマとなっています。フリーズとは壁面の上部、天上との間の帯状の部分を指す建築用語だそうで、この作品は分離派会館の左翼ホールの壁面を飾っていました。壁画は三方の壁に描かれていて、第一の壁には跪く男女に懇願され、野心と憐れみに突き動かされて前進する黄金の騎士、第二の壁には騎士の前に立ちはだかる「敵対する力」、第三の壁には第9のクライマックス「歓喜の歌」に当たる場面、理想の世界に導かれ、純粋な喜び、幸福、愛を見出して抱擁する男女と合唱する天使たちが描かれています。今回の展覧会にはその原寸大複製が出品されていて、実際に壁画に囲まれた空間を体感することができるのですが、個人的には「敵対する力」を描いた第二の壁が一番印象に残りました。毛むくじゃらの顔とまだら模様の蛇の胴体を持つギリシャ神話の怪物テュフォンや「不摂生」により弛んだ肉体は醜悪なものですし、挑発的な「淫蕩」や「肉欲」、蛇の髪を持つゴルゴン三姉妹の妖しさは清純な美しさとは対照的です。「敵対する力」が決して幸福をもたらさないのは黒い布を纏って身を捩る「苦悩」の存在で明らかなのですが、クリムトの華麗な装飾美によって描き込まれているためか、かえって目を離せないような奇妙な魅力を感じました。実のところ、ここに描かれた悪徳はクリムト自身の人生にとっても大きな意味があるそうで、そうした個人的な経験が真に迫る表現を可能にしたことで、騎士の戦いの困難さと手にする勝利の価値がより説得力のあるものとして感じられるのだろうとも思います。黄金の鎧で武装した騎士を脅かす敵とは堕落であり、敵は自分自身とも考えられるでしょう。「敵対する力」との戦いを経て真実を見据え、「詩情」に安らぎと救いを見出した騎士は、正義や栄光といった輝かしい鎧と引き替えに純粋な喜びや愛を手に入れたのかもしれません。

《雨後(鶏のいるザンクト・アガータの庭)》(1898年)、《アッター湖畔のカンマー城Ⅲ》(1909/10年)、《丘の見える庭の風景》(1916年頃)

クリムトの描く風景画は人物を描いた作品の濃密さとは対照的で、明るさが印象的です。クリムトが風景画を手掛けるようになったのはウィーン分離派設立以降で、ほとんどの場合ヴァカンスのあいだに描かれたそうですが、雨上がりのしっとりとした空気が伝わってくる《雨後(鶏のいるザンクト・アガータの庭)》はそうした中でも最初期の作品です。縦長の画面は日本の浮世絵の影響もあるそうですが、確かに花鳥画を描いた掛け軸の雰囲気もありますよね。柔らかな緑の草地は放し飼いにされている白や黒の鶏の羽で彩られ、装飾的に配された木立の間からは遠景の山の斜面が見えています。出品作を見ていて、クリムトの風景画では空があまり描かれず、どちらかというと目線に対して水平から地面にかけての風景が多いように感じました。点描によって描かれた《アッター湖畔のカンマー城Ⅲ》も視線が遠くに抜けずに建物で遮られていますが、黄色の壁の建物のすぐ背後に赤い屋根が見えているほとんど奥行きのない構図は望遠鏡を使って描いたためだと考えられているそうで、パノラマではなくクローズアップする風景画なのだなと思いました。樹木の合間から見える建物の矩形は樹木の有機的な形状によって縁取られ、全体像が見えなくなっていることで人工物の異質感が弱められていて、自然のなかに溶け込むよう腐心され、平面的に描かれた赤い屋根、茶色の屋根、黄色の壁と樹木の緑、そして湖の水面は上下に層のように積み重ねられていて、全体としての均質感を生み出しています。ここに人間は描かれていませんが、その存在の痕跡である建築を描くことによって、クリムトは人間と自然との融合、一体感を表現したかったのではないかと思います。《丘の見える庭の風景》は満開の花咲く庭が前景に、背後には青々とした緑の生い茂る丘の斜面が描かれています。花の描き方が特徴的なのですが、これは輪郭を先に描いて後から色彩で埋めていく方法で、ゴッホの影響を受けているそうです。一面に咲き誇る花を色彩の点描で表現せず、あえて一つ一つ形を描いているのは、たとえ小さくともそうした部分が全体を形作っているのであり、自然のミクロな部分と風景全体との調和を表現したかったからかもしれません。息苦しいほどにひしめく花や、空に向かって聳え視界を覆い尽くすような緑の丘からは、昼の明るい陽光の下に生命を燃焼させる自然の強さ、逞しさが感じられます。クリムトの風景画のテーマは空間の広がりや壮大な景観よりも地上の草花自体、その多様さや豊穣さ、またそうした豊かな自然と人間の営為との調和といったところにあるのかもしれません。夏の昼間の花盛りの庭を舞台に、宇宙、季節、生命といった世界の全てが頂点にある瞬間のエネルギーが感じられる作品だと思います。

《女の三世代》(1905年)

…《女の三世代》では、黒と灰色に分割された無彩色の背景の中央に、鮮やかな色彩で三人の人物が描かれています。背景のうち灰色の部分が黒ずんでいるのは使用された銀箔の一部が酸化したためで、完成直後はもっと明るい銀色だったようです。画面右側、幼児を抱いた若い女性が占める部分は青や緑が基調で、背景には円や渦巻、ピアノの鍵盤のような白黒の方形、足元には三角のパターンなど様々な模様が描かれています。白い花冠を被った女性の髪に花がちりばめられ、身体に緑の蔓が巻き付いている姿は樹木の化身のようでもあり、自然と女性を重ね合わせて、生長や豊穣を象徴しているように思われます。左側の老年の女性が占める部分は赤や黄が基調で、背景には鹿の子のような小さな円が描かれています。項垂れる女性の肩口は夕暮れを思わせるように赤く、足元には不吉な黒い影が差していて、終わりの時が近づいていることを暗示しているようです。若い女性は微睡む幼子を抱いて夢見るように瞼を閉じ、一方、老年の女性は老いを嘆いて、もしくは死を恐れるように顔を血管の浮き出た手で覆っていますが、描かれた三人のいずれも目を開けていない点は共通しています。これは《家族》(1909/10年)に描かれた母子の三人も同じで、眠りは死の似姿という言い習わしに従った表現かもしれません。老いた女性の衰えた肉体は克明に描写されていますが、官能的な女性美と表裏一体だった死の気配がここでは分離されることによって存在を顕わにしています。若くして父や弟を失ったクリムトは、自身を恐れさせた死をあえて具現化し、見据えるために描いているのかもしれなません。そう考えると、目を開けて現実を見るべきは描かれた人物たちより、むしろ作品の鑑賞者の側とも考えられます。《ベートーヴェン・フリーズ》において「敵対する力」の描写に特に力がこもっているように思われたことと同じものを感じるのですが、クリムトは自分が直視しなければならないもの、乗り越えなければならないものを正確に見つめ、自分の表現として捉え直し、自分の世界の中に取り込むことで乗り越えていこうという気持ちを持っていたのかもしれないと思いました。

印象派への旅 海運王の夢――バレルコレクション 感想

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見どころ

…この展覧会はイギリスの実業家ウィリアム・バレル(1861~1958)のコレクションが初来日するものです。グラスゴー市に寄贈された数千点に上るバレルのコレクションは、遺言により長らくイギリスの国外に持ち出すことができなかったのですが、2014年に女王の裁可を得て遺産条項が改訂され、美術館の大規模改修に伴い今回海を渡って日本へ来ることとなりました。バレルが蒐集した美術品は中世から近代まで、またヨーロッパにとどまらずイスラム圏や中国にまで及ぶ幅広いものですが、この展覧会は19世紀後半のフランス、オランダ及びイギリスの画家たちの作品を中心に、同じグラスゴーに所在するケルヴィングローヴ美術博物館のルノワールセザンヌなどの作品7点も加えた80点で構成されています。
…バレルは画商のアレクサンダー・リードと一緒にパリに行けばドガのアトリエに行くことが出来たかもしれないのに、と書き残すほどドガの作品の好み、22点も購入していますが、出品作全体ではクールベブーダン、コロー、ドービニーなど印象派以前から同時代に活動した印象派以外の画家たちが多く、華やかさや斬新さよりも写実的で落ち着いた雰囲気の作品が多いように思いました。また、バレル自身は海運業で成功した大コレクターなのですが、所有している作品には庶民の日常や田園風景など、気取りのない素朴で親しみやすい作品が多く、バレルの気質が垣間見えるようにも感じました。個人のコレクションですから、コレクター自身の美意識や価値観が反映されるのは当然なのですが、テオデュール・リボーやフランソワ・ボンヴァンなど19世紀後半のリアリズムの画家たちを新たに知る機会ともなり、彼らの作品を見ることが出来て良かったです。
…個人的には、先日「ドービニー展」(東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館)を見てきたばかりだったので、この展覧会でまた作品を見ることが出来たのが嬉しかったです。兄と共に家業の海運事業に携わっていたバレルが、海辺や川辺など水に因んだブーダンやドービニーの作品を所有しているのは自然なことに思いますが、実はこうした傾向にはコレクター個人だけでなく地域性も関係しているそうです。スコットランドのコレクターたちにはドービニーやアドルフ・エルヴィエ(1818~1879)など、海や川が含まれ、西スコットランドを思わせる淡い灰色の光に包まれている作品を多く描いた画家たちが特に好まれたそうです。
…そうした作品をコレクターたちにもたらした画商の存在、役割の大きさも今回、改めて意識させられました。グラスゴーの画商アレクサンダー・リード(1854~1928)はゴッホ兄弟とパリのアパルトマンで同居していた期間(1886~87)があり、画商のテオを介してドガをはじめ印象派の多くの画家たちとの繋がりもできたのだそうです。展覧会の冒頭にはゴッホによるリードの肖像画も展示されていましたが、物憂げで思慮深そうな顔立ちのリードが緑と赤の点描によって描かれていて、控えめながらも熱意を秘めているような印象を受けました。目利き、腕利きの画商たちの仕事があってこそ、優れたコレクター、コレクションも育つのですね。
…出品作は個人のコレクションということもありサイズの小さなものが多かったのですが、平日の午前中に行くことが出来たので、落ち着いてじっくり見ることが出来ました。所要時間は2時間程度です。なお、会場内は最後の「外洋への旅」の展示スペースが写真撮影可能でした。

概要

【会期】

…2019年4月27日~6月30日

【会場】

Bunkamuraザ・ミュージアム

【構成】

 序 ゴッホ「アレクサンダー・リードの肖像」
 第1章 身の回りの情景
  1-1 室内の情景
  1-2 静物
 第2章 戸外に目を向けて
  2-1 街中で
  2-2 郊外へ
 第3章 川から港、そして外洋へ
  3-1 川辺の風景
  3-2 外洋への旅
…「1-1 室内の情景」は主に人物画、「2-1 街中で」は風俗画に類する作品が多く、概ね主題のジャンル別の構成となっています。「2-2 郊外へ」、「3-1 川辺の風景」、「3-2 外洋への旅」は風景画が中心で、全体としては風景画の比率が高かったです。身辺から徐々に遠く離れ、描かれる世界が広がっていく章立ては、バレルのコレクションを通して旅をするイメージとのことです。数多くの絵画を蒐集したバレルですが、自身は控えめな性格で肖像画のモデルにはならなかったそうです。また、バレルは1911年から作品の購入簿を付けていて、いつどこで買った作品なのかは分かるものの、なぜその作品を購入したかについては分からないのだそうです。バレルは購入したフランス絵画を英国各地の美術館に積極的に貸し出していたそうなので、自身の楽しみや慰めのためである以上に、芸術は公共の財産という意識が強かったのでしょうね。

https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/19_burrell/

感想

テオデュール・リボー「勉強熱心な使用人」(1871年頃)

…テオデュール・リボー(1823~1891)は風俗画や静物画を得意とした画家で、「勉強熱心な使用人」は、料理人やお針子など庶民の日常を描いて人気を博した作品群のうちの一点だそうです。暗い背景を背に浮かび上がる白いエプロンを着けた女性は掃除の途中のようで、小脇に大きなはたきのような道具を抱えて立っていますが、掃除の手を止めて熱心に本を読んでいます。深緑色のクロスがかかったテーブルの上に積まれている本は、この屋敷の主人のものでしょうか。明暗のコントラストが強調された画面のなかで僅かに卓上の本だけが鮮やかな色彩を持ち、女性の円錐形のスカートがどっしりとした安定感を感じさせる構図となっています。女性は使用人ですからおそらく高い教育は受けていないと思われますが、文字が読めるんですね。伝統的な風俗画の場合、仕事を怠けている女中というモチーフは怠惰を戒める意味合いがあったりするのですが、この作品では労働の傍ら勉強している向学心として肯定的な意味合いに変化しているようで、上方から女性に降り注ぐ光はこの静謐な作品に気高い雰囲気を与えているように感じられます。バレル自身、十五歳で家業を継いだため美術史は独学で、娘には自分より高い教育を与えたいとフランス人の家庭教師を付けてもいます。バレルはこの作品を最晩年に購入したそうですが、教養を身につけることで人格を高め、人生を豊かなものにしたいという気持ちを終生変わらずに抱き続けていて、この作品を購入した動機となったのかもしれません。

フランソワ・ボンヴァン「狩りの獲物のある静物」(1874年)

…親密な室内空間を彩る静物画はどちらかというと小ぶりなものが多いと思うのですが、フランソワ・ボンヴァン(1817~1887)の「狩りの獲物のある静物」は静物画としてはサイズが大きく、堂々としたスケールがまず印象的でした。ボンヴァンは19世紀半ばのフランスにおける写実主義を代表する画家の一人であり、緻密な描写による兎の毛皮と艶やかな果物の質感の違いの描き分けが見事です。画面の中心を占める兎は足を括られた姿で、白いテーブルクロスに血が流れ落ちているのが生々しく感じられるのですが、ヨーロッパでは店先で売られる肉に羽根が残っていたり血が付いていたりするのは新鮮さの証拠であって、他にも例えばリボー「調理人たち」では羽をむしる若い調理人の頬に血が付いていたりします。バレルは狩猟を嗜み、仕留めた獲物を画商たちへの贈りものにしていたそうなので、コレクター自身にとっても生活の一部であり、好みに適った作品なのでしょう。こうした静物画は伝統的には生命の儚さを示唆する寓意画でもあったのですが、19世紀にはヴァニタスのニュアンスは後退して、画家たちはより客観的に対象を描くようになったそうです。収穫の豊かさや狩猟の成果に対する静かな充実感や喜びが感じられる作品だと思います。

エドガー・ドガ「リハーサル」(1874年頃)

ドガはバレエを主題とする作品を数多く手がけていますが、出品作の「リハーサル」は同主題を描いた油彩画のなかでも最初期の作品だそうです。斜めのフロアや画面左側を遮る螺旋階段など大胆な構図が臨場感を演出していますね。床が鑑賞者に迫ってくるように感じられるのは写真の影響かもしれません。足を高く上げてポーズを取るバレリーナたちには躍動感があり、画面右端では衣装を身につけているバレリーナが見切れていたり、よく見ると階段からフロアに降りてくる足まで描かれていて、まさに一瞬を切り取ったような場面なのですが、ドガは実際にあった場面をそのままを描いているわけではないのだそうです。しかし、ドガはリハーサルを繰り返し見ることで、舞台裏で練習を重ねるバレリーナたちの動作や表情、関係者の様子や全体の雰囲気を的確に把握し、実際以上のリアリティを再現することに成功していると言えるでしょう。踊るバレリーナたちと画面手前で休息している笑顔のバレリーナとの動と静、白いチュチュと鮮やかな青や黄色など上着の色彩、若いバレリーナたちと年配のダンスマスターや衣装係の女性など、入念に配置されたモチーフには巧みな対比が用いられています。印象派の一人とされるドガですが、床に映る影や光に透けるチュチュによって表現された淡く揺らぐ室内の陰影に、眩い外光とはまた異なる柔らかさ、繊細な魅力が感じられる作品だと思います。

マテイス・マリス「蝶」(1874年)

…花輪を手に横たわり、二匹の蝶を眺める女性。彼女はまだ少女と言っていいほどの若さです。女性のそばに白い花が咲いているところを見ると、彼女が横たわっているのは草原なのでしょうか。背景の空間は曖昧で判然としないのですが、実は11層もの絵の具を塗り重ねている場所もあるそうです。女性のブルーのドレスと豊かな長い金髪の対比が鮮やかですね。オランダ出身の画家マテイス・マリス(1839~1917)は褐色を偏愛したそうですが、1869年にパリに移住してから主題によっては華やかな色調も扱っていて、「蝶」はそうした作品の一つだそうです。この作品は写実的な出品作が多い中では異色の幻想的な雰囲気があり、印象に残りました。幼虫から蛹、そして成体へと変容する蝶は儚さと変わり目を象徴するそうで、女性が少女から大人に成長していくことを示唆しているのでしょう。マリスにとっては心ならずも描いた「売り絵」なのだそうですが、女性の夢見るような甘美な表情に鑑賞者も夢幻の世界に引き込まれるような作品だと思います。

ウジェーヌ・ブーダン「トゥルーヴィルの海岸の皇后ウジェニー」(1863年)、シャルル=フランソワ・ドービニー「ガイヤール城」(1870~74年頃)

ブーダン(1824~1898)やドービニー(1817~1878)は印象派には加わりませんでしたが、いずれも戸外での制作を積極的に行った画家たちです。ブーダン「トゥルーヴィルの海岸の皇后ウジェニー」に描かれているトゥルーヴィルは鉄道網の発達に伴ってパリ市民の避暑地として人気を集め、「浜辺の女王」とも呼ばれたそうです。前景には流行のドレスを纏って海岸を散策する皇后一行、後景には浜辺近くに集まっている中産階級の市民たちが描かれていますが、庶民も高貴な人々もこぞって同じ場所に出かけて楽しむ時代になったとも言えそうです。しかし、この作品の主役は何よりも大きく描かれた空でしょう。青空に浮かぶふんわりとした雲が生彩ある筆致で描かれ、はためく三色旗とともに爽やかな海風を感じさせる軽快な風景だと思います。当時の社会の流行が分かるブーダンの作品に対し、ドービニー「ガイヤール城」に描かれているのは、12世紀末にイングランドリチャード1世がセーヌ河岸に築いた城跡です。先日の「ドービニー展」を見た限り、ドービニーの風景画にランドマーク的なモチーフが登場することはあまりないようだったので珍しく感じましたが、イギリスにも縁のあるこの作品をバレルが手に入れた気持ちは分かる気がします。バレルはこの作品に描かれたガイヤール城を自分の居城に見立てていたそうなので、個人的にも思い入れを感じていたのでしょうね。波のない静かな川面に古城の影、生い茂る川岸の木立、うっすらと赤く色づいた雲が映り込んでいて、夕暮れ時の穏やかさに包まれるような風景だと思います。

アンリ・ル・シダネル「雪」(1901年)、「月明かりの入江」(1928年)

…インド洋に浮かぶ英領モーリシャスに生まれたアンリ・ル・シダネル(1862~1939)は、10歳で両親の故国フランスの地を踏んだのち国立美術学院に進学し、1890年代に象徴主義の影響を受けて独自の画風を展開しました。「雪」はノルマンディー地方ジェルブノワの街の一角を描いたものですが、まるで水滴で曇ったガラス越しに見るようなソフトフォーカスのかかった画面が特徴です。柔らかな触感が目で感じられるようですが、シダネルは雪の白にバラ色や灰色、青などの色を交えた細かな点描を積み重ねることでこの幻想的な画面を作り出しています。画面の中心、建物に囲まれた広場では、冬の日差しのなかドーム状の屋根が目を引く井戸が存在感を放っています。「月明かりの入江」も同様に、細かな点描を重ねたヴェールのかかったような画面で、青緑色のグラデーションで海と港の街並み、背後の山、そして夜空が描き分けられています。灯台や家の灯りが宵闇に包まれた風景のアクセントになっていますね。空に月は見当たりませんが、水面に映ったかすかな船影が優しい月明かりの存在を感じさせます。じっと見ていると入江に停泊する帆を畳んだ船の姿は、まるで眠っているようにも思えてきます。「雪」も「月明かりの入江」も、人気のない風景のなかから井戸や船といった声なきものの姿が立ち現れ、そのひっそりとした息づかいを感じさせる佇まいが静かに世界を満たして、温かみを感じさせる作品になっていると思います。