ミケランジェロと理想の身体 感想
見どころ
…この展覧会はルネサンスを代表する芸術家ミケランジェロ・ブオナローティ(1475~1564)の彫刻「ダヴィデ=アポロ」と「若き洗礼者ヨハネ」の2点を中心に、ルネサンス期の美術に影響を与えた古代ギリシャ・ローマ時代の彫刻や壁画、及びミケランジェロと同時代のルネサンス期の彫刻、油彩など主にイタリア各地の博物館・美術館が所蔵する作品合わせて70点を展示し、両時代に追求された理想の身体の表現を紹介するものです。
…存命中から「神のごとき」と称賛され、彫刻をはじめ絵画、建築とあらゆる造形芸術で傑作を残したミケランジェロは、何より彫刻家であることを自認していました。しかし、現存するミケランジェロの大理石の彫刻作品は40点のみです。完璧主義者であったが故にその名声に比して完成作は少なめですが、同時代、そして後の世代に計り知れない影響を与えたという点はレオナルド・ダ・ヴィンチとも共通していますね。ミケランジェロの作品はその貴重さと重要さから所蔵先を離れることはなく、また、システィーナ礼拝堂の天井画やサン・ピエトロ大聖堂といった建築物などは、現地で見るしかない作品でもあります。これまでにも素描作品は来日していますが、今回はミケランジェロの真骨頂である彫刻に触れることのできる貴重な機会と言えるでしょう。
…この展覧会のテーマは「理想の身体」ですが、出品作は幼児から壮年、老年まで各年代の理想の男性美を表現した作品で構成されています。男性像ばかり70点というのはユニークな企画ですね。現代では違いますが、従来は男性作家が多かったこともあって女性美の追求はいつの時代も主流であり、展覧会でも妻や恋人をモデルとした作品、女神や聖母を主題とした作品を通してあえて意識しなくとも様々な女性美に触れる機会は多いように思います。女性美に比べると、男性美が正面からテーマとして掲げられる機会は少なめではないでしょうか。美を女性だけが独占するのも勿体ない話ですし、これまでになかった視点から多様な美を見出す試みが増えていくと面白いのではないかと思います。
- 見どころ
- 概要
- 感想
- 「プットーとガチョウ」(1世紀半ば、大理石)、デジデリオ・ダ・セッティニャーノに基づく「祝福する幼児キリスト」(15世紀、彩色されたスタッコ)
- マリオット・アルベルティネッリ「聖セバスティアヌス」(1509~10年、油彩)
- バッチョ・バンディネッリ「バッカスの頭部」(1515年頃、大理石)、ジョバンニ・デッラ・ロッピア周辺「バッカス」(1520~25年頃、多色の施釉テラコッタ)
- 「アメルングの運動選手」(紀元前1世紀、大理石)、「狩をするアレクサンドロス大王」(紀元前四世紀末~紀元前3世紀初頭、ブロンズ)、ジョヴァンニ・アンジェロ・ダ・モントルソーリ「ネプトゥヌス」(1530~50年頃、大理石)
- ミケランジェロ・ブオナローティ「ダヴィデ=アポロ」(1530年頃、大理石)
- その他 混雑状況、会場内の様子など
概要
会期
…2018年6月19日~9月24日
会場
構成
Ⅰ 人間の時代―美の規範、古代からルネサンスへ
Ⅰ-1 子どもと青年の美
Ⅰ-2 顔の完成
Ⅰ-3 アスリートと戦士
Ⅰ-4 神々と英雄
Ⅱ ミケランジェロと男性美の理想
Ⅲ 伝説上のミケランジェロ
…第Ⅰ章は古代及びルネサンス期の作品に表現された男性美について概観しています。1節では幼児や少年などの表現に見られる成人男性とは異なる美のありようについて、2節では顔貌についてクローズアップし、3節ではまさに身体が資本とも言うべきアスリートや戦士の像に表現された肉体美について、4節では神々や英雄といった理想の存在を造形した作品を通して男性美の表現が取り上げられています。
…第Ⅱ章ではミケランジェロの彫刻2点と主題を同じくするアポロ、ダヴィデ、洗礼者ヨハネについて、ミケランジェロが影響を受けた古代の作品、及びミケランジェロと同時代であるルネサンス期の作品と共に考察されています。
…第Ⅲ章では存命中からすでに神話的存在になっていたミケランジェロについて、同時代及び後世に制作された伝記や肖像など、弟子や他の芸術家から見たミケランジェロ像がまとめられています。
…ミケランジェロの彫刻がメインでもあり、全体を通して、掌サイズから実物大以上の大型のものまで彫刻作品が多く展示されていました。出品作70点のうち古代の作品は23点、ルネサンス期以降の作品は47点となっています。
「ダヴィデ=アポロ」と「若き洗礼者ヨハネ」
…今回出品されているミケランジェロの「ダヴィデ=アポロ」と「若き洗礼者ヨハネ」とは、一時期2点ともフィレンツェ公であるメディチ家のコジモ1世の手元にありました。しかし、その後「若き洗礼者ヨハネ」が長らく所在不明となり、さらにスペイン内戦で甚大な被害を受けたこともあって、両者が再び同じ場所に展示されるのは実に500年ぶりとのことです。以下、二つの彫刻に関わる人物と出来事を簡単にまとめてみました。
《二つの彫刻に関わる人物》
★ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(イル・ポポラーノ)(1463~1503)
…メディチ家の傍系で、ロレンツォ・デ・メディチの従兄弟。ミケランジェロの「若き洗礼者ヨハネ」の注文主。ボッティチェッリの注文主でもあり、「春」なども所有していた。
★教皇クレメンス7世=ジュリオ・デ・メディチ(1478~1534)
…ロレンツォ・デ・メディチの弟で、「パッツィ家の陰謀」で暗殺されたジュリアーノ・デ・メディチの遺児。1523年に教皇に選出されるが、1526年にフランス王フランソワ1世と同盟したことで、フランスとイタリアの覇権を争っていた神聖ローマ帝国皇帝、ハプスブルク家のカール5世(=スペイン王カルロス1世)によるローマ掠奪(サッコ・ディ・ローマ、1527年)を招く。
★アレッサンドロ・デ・メディチ(1510~1537)
…教皇クレメンス7世の庶子で、父の後ろ盾のもとでフィレンツェを統治していたが、1527年にローマ掠奪が起きると追放される。1530年にカール5世の支援を受けてフィレンツェに復帰し、1532年に初代フィレンツエ公となるが、1537年にロレンツィーノに暗殺された。
★ピエルフランチェスコ・ディ・ロレンツォ(ロレンツィーノ)(1514~1548)
…ロレンツォ・イル・ポポラーノの孫。アレッサンドロの暗殺を謀ったため、コジモ1世によってフィレンツェから追放される。追放に伴って、コジモ1世に没収された財産の中に「若き洗礼者ヨハネ」が含まれていた。
★バルトロメオ・ヴァローリ(1477~1537)
…もとは親メディチで、1530年のフィレンツエ包囲戦では教皇軍の司令官だった。反メディチ側だったミケランジェロが、教皇との和解を取り持ってもらうために「ダヴィデ=アポロ」を贈った人物。しかし、アレッサンドロの死後はコジモ1世に敵対したため、1537年に斬首された。処刑に伴って、コジモ1世に没収された財産の中に「ダヴィデ=アポロ」が含まれていた。
★コジモ1世(1519~1574)
…メディチ家の傍系だが、アレッサンドロの死によって直系が途絶えたため10代の若さでフィレンツェ公(1537~69年)となる。初代トスカーナ大公(1569~74年)。妻はスペイン王女エレオノーラ・ダ・トレド。ハプスブルク家の下でフィレンツェの統治と勢力拡大に務める一方、行政庁舎(現在のウフィツィ美術館)の建設に着手し、ジョルジョ・ヴァザーリやアニョロ・ブロンズィーノを宮廷画家として迎えるなど文化の面でも足跡を残した。1564年にミケランジェロの葬儀を行った。
《15世紀末~16世紀前半のフィレンツェ》
1492年
フィレンツェの事実上の支配者だったロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)死去。
1494年
フランス王シャルル8世がナポリ王国の継承権を主張してイタリアに侵入。ロレンツォ・デ・メディチの子ピエロ・デ・メディチが独断で領土の放棄やフランス軍のフィレンツェ入城を認めたため、フィレンツェはピエロを追放して共和制を宣言。メディチ銀行の解散。ドメニコ会修道士サヴォナローラの政治的影響力が強まり、虚栄の焼却(1497年、98年)によって美術品などが焼却される。
※この頃
ミケランジェロがロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチのために「若き洗礼者ヨハネ」を制作する。
1498年
サヴォナローラ処刑。
1501年
ミケランジェロがフィレンツェ共和国の委嘱を受けて「ダヴィデ」を制作。1504年にシニョリーア広場に設置される。
1512年
メディチ家がフィレンツェに復帰する。
1523年
メディチ家のジュリオ・デ・メディチが教皇クレメンス7世に選出される。
1527年
クレメンス7世とフランス王フランソワ1世の同盟に対してハプスブルク家のカール5世が教皇庁討伐軍を差し向け、ローマ掠奪(サッコ・ディ・ローマ)が生じる。教皇庁の威信が失墜し、ルネサンスが終焉する。メディチ家は再びフィレンツェから追放される。
1529年
教皇クレメンス7世とカール5世が和解し、フィレンツェを包囲。ミケランジェロは共和国側の築城総督となるが、1530年に共和国は降伏。再びフィレンツェに復帰したメディチ家のアレッサンドロは、1532年にカール5世によってフィレンツェ公の位を与えられ、名実共にフィレンツェの支配者となる。
※この頃
ミケランジェロは教皇との和解を企図して、教皇軍の司令官だったバルトロメオ・ヴァローリに贈る「ダヴィデ=アポロ」を制作する。
1534年
ミケランジェロ、ローマに居を移しフィレンツェを去る。翌年からシスティーナ礼拝堂祭壇画「最後の審判」の制作に着手。
1537年
フィレンツェ公アレッサンドロが暗殺され、傍系のコジモ1世がフィレンツェ公になる。アレッサンドロの暗殺を謀ったロレンツィーノの一族が追放され、「若き洗礼者ヨハネ」を含むロレンツィーノの財産がコジモ1世に没収される。また、コジモ1世に敵対したヴァローリが処刑され、「ダヴィデ=アポロ」を含むヴァローリの財産がコジモ1世に没収される。
※この後?
コジモ1世がハプスブルク家との関係を強めるため、カール5世の秘書官でイタリアとスペインの領地の責任者フランシスコ・デ・ロス・コボス・イ・モリーナにミケランジェロの「若き洗礼者ヨハネ」を贈る。
1564年
ミケランジェロ死去。
1569年
コジモ1世、トスカーナ大公になる。
…人物と諸国家が錯綜し、権力の所在が頻繁に入れ替わって本当にめまぐるしいですね…。ミケランジェロ自身も共和制への共感を持ちつつ、メディチ家から依頼された仕事も受けているので複雑です。「ダヴィデ=アポロ」は主題も制作年も議論の余地がある謎の多い作品ですが、財産目録の記述(ダヴィデ)よりヴァザーリの言及(アポロ)のほうが早く、また、ニューヨーク・モルガン・ライブラリーにあるロッソ・フィオレンティーノのアポロ像が本作のコピーだとすると制作年代が1527年より以前に溯ることになり、ヴァローリに贈るために制作したという前提も変わってくるのだそうです。ダヴィデだとしたらフィレンツェ共和国の象徴として制作された、同じダヴィデをその共和国の終焉に再び作ったことになり、巡り合わせにしてもあまりに皮肉で、かつてと同じ表現であり得ないのはむしろ当然のことに思えます。一方の「若き洗礼者ヨハネ」は、激動の時代に翻弄されて持ち主が変遷し、長らく所在不明だったあと1930年にようやく見つかったのも束の間、1936年にスペイン内戦で大きなダメージを受けるなど悲運に見舞われ続けた作品です。ミケランジェロの二つの彫刻が辿った運命は、ロレンツォ・デ・メディチの死後、混乱を続けた16世紀前半のフィレンツェの歴史そのものと言ってもいいでしょう。ミケランジェロもコジモ1世も、500年もの後に地球の裏側の国で両作品が再会するとは想像もしなかったでしょうね…海を越え、歴史の荒波を乗り越えてはるばる日本まで来てくれたこと自体が奇跡のようだと思います。
感想
「プットーとガチョウ」(1世紀半ば、大理石)、デジデリオ・ダ・セッティニャーノに基づく「祝福する幼児キリスト」(15世紀、彩色されたスタッコ)
…傍らにガチョウを抱いた幼児が、片手を伸ばして上を見上げている「プットーとガチョウ」。幼児の体つきは子どもらしくふっくらとしていて、石という素材の固さを感じさせません。それまで大人のミニチュア版にとどまっていた子どもの像ですが、ヘレニズム期に入ると成人とは異なる子どもそのものの魅力を表現した作品が作られるようになったそうです。プットーとはしばしば有翼の姿で表現される童子のことで、ガチョウは犬や猫と同様にペットとして家庭で愛されていました。実はこの彫像は噴水の一部だったもので、ガチョウの口から水が出る仕掛けになっています。こうした彫像は当時数多く作られたそうですから、子どもとガチョウが無邪気に戯れる愛らしい姿は噴水で憩う人々の目を和ませていたことでしょう。
…幼児の像は丸みを帯びた柔らかさが魅力ですが、一方で、しなやかな身体の線が引き立つコントラポストの美しさとは両立し得ないものでもあります。コントラポストとは片足に重心を置き、身体全体に緩やかなS字のカーブを生み出すポーズのことで、この展覧会でも多くの出品作に見られますが、幼い子どもをモチーフとする古代の作例にコントラポストは見られません。しかし、ルネサンス期に入るとコントラポストで幼児の姿を造形した作品も現れるようになります。幼い子どもの身体のリアリティに基づく自然主義より、表現としての優美さを志向する理想主義が勝っているということなのかもしれません。そうしたなかで、右手で天を指し、左手に荊冠を持つ幼いキリストの像「祝福する幼児キリスト」は、丸みを帯びた赤い頬や体つきで子どもらしさを表現しつつ、右足に重心を置くポーズに無理がなく感じられます。また、伏し目がちの思慮深い表情をしていて、優美さよりも救世主としての気高い佇まいが勝っていると言えるでしょう。本作のオリジナルは1461年に完成されるとたちまち非常な人気を博して、数多くのコピーが制作されたそうです。無垢な幼さと高い精神性の共存という意味では「若き洗礼者ヨハネ」と通じるものもある作品だと思います。
マリオット・アルベルティネッリ「聖セバスティアヌス」(1509~10年、油彩)
…聖セバスティアヌスは古代ローマのディオクレティアヌス帝時代に殉教した聖人です。同じ聖人を主題とした同時代の作品ではアスリートのような肉体美によって表現されているものが多いそうですが、この聖セバスティアヌスはほとんど少年と言っても良さそうな年頃で、すらりとした細身の体つきをしています。しなやかな身体を幾本もの矢で貫かれた聖人は、両腕を胸の前で交差して泰然と佇み、彼方の空あるいは天上の世界に思いを馳せているような遠くを見る目をしています。聖セバスティアヌスがローマ軍の司令官だったことを踏まえると、鍛えられて逞しい男性的な体つきのほうがリアリティのある表現に思えるのですが、中性的な若者の姿で表現された聖人は儚げで、処刑の凄惨さが一層強く印象づけられると思います。なお、画面右上に布のようなものが見えますが、本作は聖母子を中心に不特定の諸聖人を配する「聖会話」を描いた祭壇画の断片であり、布のようなものは天蓋の一部だそうです。
バッチョ・バンディネッリ「バッカスの頭部」(1515年頃、大理石)、ジョバンニ・デッラ・ロッピア周辺「バッカス」(1520~25年頃、多色の施釉テラコッタ)
…バッチョ・バンデイネッリの「バッカスの頭部」はすっきりと整った凜々しい顔立ちの青年の頭部ですが、よく見ると頭髪の周りに植物の実の飾りがついた花冠が巻かれていて、像の横に回ってみると項部分にも葉の彫刻が施されています。この植物は力強さを象徴するセイヨウヅタで、葡萄と共にバッカスに結びつけられるものなのだそうです。一方、ジョバンニ・デッラ・ロッピア周辺による「バッカス」は卵形の輪郭や弧を描く眉、柔らかな口元などが優しげで、女性的と言ってもいい印象です。神様の顔は誰も見たことがありませんから、多分に作り手のイメージに委ねられるわけですが、同じバッカスでもずいぶん雰囲気が違っていて面白いですよね。古代ギリシャ世界ではバッカスを含めオリンポスの神々やヘラクレスなどの英雄の像は作られましたが、実在の人物の肖像としてはアレクサンドロス大王が始まりで、それ以前は個別の人物の肖像は作られなかったそうです。ことに顔は個人を識別する目印であると共に、アイデンティティとも密接に結びついていて、自己にとっても他者にとってもその人自身と言っていいと思うのですが、古代ギリシャの彫刻などは抽象化、理想化が追求された結果、アトリビュートがないとどの神を表現したものか区別がつかなかったり、性別の見分けが付きにくい場合さえあるそうです。現代の感覚では不思議なことにも思えるのですが、実は古代ギリシャには人間の肉体的かつ道徳的な完全性の理想を意味する「カロカガティア」という言葉があり、外見の美と内なる善は深く結びついていて、卓越した肉体は公正さや徳の高さと一体のものと考えられていたそうです。作られるべきは不完全な個人に属する肖像ではなく、真の美しさ、普遍的な美しさを目に見える形にした作品であり、技術の高さもさることながら、そうした完全なる美のビジョンを持ち得ることが優れた作り手である証だったのかもしれません。
「アメルングの運動選手」(紀元前1世紀、大理石)、「狩をするアレクサンドロス大王」(紀元前四世紀末~紀元前3世紀初頭、ブロンズ)、ジョヴァンニ・アンジェロ・ダ・モントルソーリ「ネプトゥヌス」(1530~50年頃、大理石)
…「アメルングの運動選手」は両腕及び膝から下の両脚が失われ、胴体のみが残っている彫像です。しかし、残された腰骨の左右の高さなどから右足に重心が置かれていたことや、右肩付け根部分から右腕を上げていたことなどが見て取れます。こうしたことが分かるのも骨格や筋肉の形状や動きを正確に表現しているからですね。この像の男性は格闘技パンクラティオンの競技者又はボクサーと見られていて、頭部を保護するための三本の革紐からなる帽子のようなものを被り、革紐の左右の端が一つに合わさる部分を右手と左手で掴んでいるそうです。何故全体像が分かるかというと、ローマ人がギリシャ彫刻の名作のコピーを多数作ったことにより、同じ形体を持つと見られる像が出土すれば、それぞれの断片を繋ぎ合わせることで元の姿を推測することが可能なためです。「アメルング」というのも、実はこうした手法による研究を始めたドイツ人考古学者ヴァルター・アメルングの名に因んだものとのことです。個人的にはローマン・コピーに関する説明から、先日のブリューゲル展で知った、ピーテル2世が庶民向けに父ピーテル1世の「鳥罠」などの模倣作を量産していたエピソードを思い出しました。古代ローマとは時代も地域も全く異なるのですが、決して生活必需品というわけではない美術品を求める熱意はいつの時代の人々にも変わらずにあるんですね。また、そうしたコピーが多数作られるほど、オリジナルは素晴らしかったのだろうとも思います。
…「アスリートと戦士」という括りには入っていなかったのですが、最も躍動感を感じたのが「狩をするアレクサンドロス大王」のブロンズ像です。王侯の狩猟は古来戦闘の訓練の一環でもあったので、一種の戦士の像と思っても差し支えないかもしれません。大王は愛馬のブケファロスに乗り獅子を仕留めようとまさに槍を構えたところで、不安定な馬上で右足を跳ね上げてバランスをとっています。元はあった馬や槍は失われていますが、槍を構える大王の振りかざす腕や振り乱した髪、翻るマント(クラミュスと呼ぶそうです)などのダイナミックな動き、そして歯を食いしばった一瞬の表情が狩のクライマックスを余すことなく伝えていて、小型の像ながら迫真の表現になっていると思います。古代ギリシャの古典期の彫像などには切り取られた一瞬がそのまま永続するような調和の取れた安定感に美しさの源があるように思うのですが、「ラオコーン」などヘレニズム期の美術作品は動きがもたらす劇的なドラマが否応なく予感させられるために目が離せないような魅力を感じるのかもしれません。
…ジョヴァンニ・アンジェロ・ダ・モントルソーリの「ネプトゥヌス」は髭を生やした壮年の神の像ですが、筋肉が盛り上がり、引き締まって逞しい頑健な体つきは若者にも引けを取らない見事な肉体美だと思います。怪物を踏みつけ、眉間に皺を寄せて何者かを睨み据える目つきも鋭く、強大な神の威厳と漲る力が感じられます。本作を制作したモントルソーリは、ミケランジェロが設計を手掛けたメディチ家の墓所のための「聖コマコス像」の制作を託されるなど、ミケランジェロから高い評価を受けていた数少ない彫刻家の一人でした。この像はジェノヴァの提督アンドレア・ドーリアの邸宅のために作られた噴水の一部と考えられていて、像のモデルは注文主のドーリア自身と見られているそうですが、ネプトゥヌスの顔貌の特徴、ことにこぶのある鼻はミケランジェロとも一致するそうです。
ミケランジェロ・ブオナローティ「ダヴィデ=アポロ」(1530年頃、大理石)
…本作についてはジョルジョ・ヴァザーリが「アポロ」と述べている一方、メディチ家の財産目録では「ダヴィデ」と記録されていて、現在のところどちらとも判別がついていません。像の青年は矢筒の矢に手を伸ばそうとしているのか、石を投げる構えを取ろうとしているのか、肝心の部分が未完のままであり、ミケランジェロが制作途中で主題を変更した可能性も考えられるそうです。コントラポストよりも一段と捻りが加わり、重心側の腕を反対側に引きつけ、顔を腕とは逆向きにすることで頭部からつま先までが一つの螺旋を成しているポーズは、現実には無理があるにもかかわらず流れるような優美さで、「優美な人体とは、立ち上る蛇のよう、燃え上がる炎のようでなければならぬ」*1という言葉を彷彿させます。もし、この作品をダヴィデと考えるなら、かつて二十代のミケランジェロが手がけた毅然として緊張感に満ちたダヴィデと表現が全く違うことに驚きます。敵に立ち向かうにもこの像は大きくのけぞった不安定な体勢で、石を投げることも弓を射ることもできそうにありません。何より表情が静謐で、瞑想しているかのように伏せられた目は敵又は獲物を見てはおらず、血腥い荒々しさが感じられないという点ではダヴィデでもアポロでもないようにも思われるのです。穿った見方とは思いますが、傷を負い、死に瀕してまさに倒れようとしているのはこの像の青年なのかもしれません。以前、同じ西洋美術館であったミケランジェロ展*2で目にしたクレオパトラの素描(1535年)は、毒蛇に噛まれて従容と死を受け入れる女王が描かれた裏面に取り乱した表情のクレオパトラが描かれていたのですが、相反するものを文字通り表裏一体のものとして表現しようする意図が感じられました。また、新プラトン主義の思想に馴染んでいたミケランジェロは、魂は肉体という牢獄に囚われていて、死によって解放されるという考え方を持っていました。勝者と敗者、生と死が一つの肉体の中で融合していると思ってみるなら、脇腹を無防備に晒した不安定な体勢も納得がいきますし、瞑想的な表情は「瀕死の奴隷(囚われ人)」などと共通するのかと想像を逞しくすることもできそうです。「死こそは暗き牢屋の終わり」とペトラルカの一節を書き付けながら*3、大理石で、あるいは絵画で美しい肉体を作り続けたこと自体、ミケランジェロの最大の矛盾なのでしょうが…。個人的に「ダヴィデ=アポロ」は、ダヴィデかアポロかというより、射る者と射られる者、もしくは撃つ者と撃たれる者の一体化した甘美な死の陶酔を感じさせる作品のように思いました。
その他 混雑状況、会場内の様子など
…私が見に行ったのは土曜日の午後でしたが、会場内は混雑もなく落ち着いていたため、彫刻作品の周りを回ってゆっくり鑑賞することができました。展示室の温度が低めなので、半袖一枚では肌寒いかもしれません。浴衣姿の来場者もいらして、季節を感じましたね。会場内では第Ⅱ章で展示されているラオコーンの模刻のみ撮影可能です。作品の多くに解説表示があります。所要時間は90分程度を見込んでおくと良いと思います。
…大理石のレリーフ「ガニュメデスの誘拐」に関する音声ガイドの解説で、ミケランジェロがローマの青年貴族トンマーゾ・デ・カヴァリエーリに同主題の素描(本展には未出品)を贈ったエピソードが紹介されていたのですが、ミケランジェロのカヴァリエーリに対する情熱を恋と言い切っていて少し驚きました。カヴァリエーリはミケランジェロの後半生と関わりの深い人物なのですが、例えば2017年の「レオナルド×ミケランジェロ展」(三菱一号館美術館)でも友愛と説明されていて、従来は遠回しな言及の仕方が多かった気がします。なお、件のミケランジェロの「ガニュメデス」は「ティテュオス」の素描と一組でカヴァリエーリに贈られていて、それぞれ天上の愛、地上の愛を象徴しているそうです。