展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

ゴッホ展 感想

見どころ

ゴッホ(1853~1890)の作品は人気が高く、展覧会の開催も多いのですが、今回の「ゴッホ展」はゴッホの作品とハーグ派、印象派の画家の作品をそれぞれ展示してゴッホが受けた影響を見るというものです。
ゴッホ印象派から受けた影響はある程度知られていると思うのですが、今回はハーグ派からの影響にも光が当てられていて、ゴッホのオランダ時代の作品も多数見ることが出来ます。オランダ時代の写実的な灰色のゴッホの作品と、フランスに移り住んで以降の明るく強烈な色彩を厚塗りのタッチで描いた作品とを比べると色彩や技法が大きく変化していることが分かるのですが、一方で働く農民達や自然への眼差しなど、ゴッホの関心の在処は初期作品から継続していることも感じられます。
…個人的には、今年の春のバレル・コレクション展で目にしたマウフェやマリス兄弟などハーグ派の作品を今回改めて目にしたことで、こんな画家たちがいたんだなという謂わば点の認識が、位置づけや影響関係など美術史の流れ、線として繋がったことが良かったです。オランダというと17世紀のレンブラントフェルメールのイメージが強いのですが、19世紀にも魅力的な画家たちがいたんですね。
…ハーグ派は19世紀後半、オランダのハーグを拠点に活動したフランスのバルビゾン派にも喩えられるグループで、田園や水辺の情感豊かな風景を、灰色や褐色を主とする繊細な色調で描いています。今回の出品された作品の印象ですが、ハーグ派はバルビゾン派に比べると風景以上にその中で生きる人々への関心が強く、また、憧憬や郷愁よりも日常的、現実的な身近さを強く感じました。そうした点はオランダの伝統的な風俗画の流れも汲んでいるのかもしれません。
…また、今回の展覧会では、アルルで共同生活をしたゴーギャンの他にもゴッホが様々な画家と交流のあったことが分かりました。ゴッホは自ら母に語っているように孤独を抱えていたかもしれませんが人間が嫌いなわけではなくて、たとえばゴッホに絵画の基礎を教えてくれたマウフェに対して、関係が悪化したあとも慕っているんですよね。また、画家になる以前に画商として仕事をしていたためかもしれませんが、手紙に残されたゴッホの言葉を読んでいると自分で描くだけでなく他の画家の作品を見ることも好きそうな感じがしました。ゴッホは巨匠の作品や同時代の他の画家の作品をよく見ていて、称賛を惜しまず、意見や助言を求めたりすることによって、独自の作品を生み出したのだと思います。
…私は10月の土曜日の昼13時過ぎに入場しましたが、チケット購入の列は出来ていたものの、入場待ちはなくてすぐ中に入ることが出来ました。ただし、会場内はずっと混雑していたためほとんど作品の一番前で見ることはできず、列の後ろのほうから見るのが精一杯の状態でした。図録の表紙はバラと糸杉の2種類があります。私は図録付のチケットだったのでレジでチケットを出したのですが、図録の種類は質問されず、渡されたものをそのまま受け取りました。幸い、選ぼうと思っていた方をもらえたので良かったのですが。図録付のチケットの場合は種類を選べないのかどうかは分かりません。

概要

【会期】

…2019年10月11日~2020年1月13日

【会場】

上野の森美術館

【構成】

1部 ハーグ派に導かれて
 ・独学からの一歩:ゴッホ6点
 ・ハーグ派の画家たち:ヨゼフ・イスラエルス4点、アントン・マウフェ3点、マテイス・マリス4点など18点
 ・農民画家としての夢:ゴッホ12点

2部 印象派に学ぶ
 ・パリでの出会い:ゴッホ3点
 ・印象派の画家たち:アドルフ・モンティセリ3点、クロード・モネ3点など13点
 ・アルルでの開花:ゴッホ9点
 ・さらなる探求:ゴッホ8点

…概ね時代順に2部構成となっていて、ゴッホの作品とゴッホに影響を与えた画家たちの作品とが交互に章立てされています。
ゴッホの作品は油彩画が主ですが、水彩画や版画もあります。
…ハーグ派の画家としてはゴッホに絵画の基礎を指導し、動物画を得意としたマウフェのほか、働く農夫や漁夫の姿を描いたイスラエルス、兄弟揃って画家だったマリス三兄弟の次男マテイス・マリスの作品が多く出品されています。
…フランスの画家たちとしては、自由で激しい筆遣いや厚塗りの絵の具による色彩でゴッホに影響を与えたモンティセリ、「モネが風景を描くように人物を描きたい」とゴッホが語った印象派のモネなどの作品が出品されています。
ゴッホは1880年に素描を手掛け始めてから1890年に亡くなるまで、10年という短期間に油彩画約850点、素描1000点以上と多くの作品を残しています。多くの人がゴッホらしいと感じるのはおそらくアルル以降の作品だと思いますが、今回の展覧会はミレーなど巨匠の作品を模写した最初期の作品やハーグ派の画家たちの影響が感じられる作品など、オランダ時代の作品に対してもフランスに移住して以降と同じぐらいの重きが置かれているのが特徴だと思います。出品作のうちゴッホのオランダ時代の作品は主にハーグ美術館の所蔵品、フランスに移り住んでからの作品はクレラー=ミュラー美術館の所蔵品が多く、展覧会の顔としてポスターなどに用いられている《糸杉》はメトロポリタン美術館の所蔵品です。

go-go-gogh.jp

感想

ヤン・ヘンドリック・ウェイセンブルフ《黄褐色の帆の船》(1875年頃)

…ヤン・ヘンドリック・ウェイセンブルフ(1824~1903)はハーグ派の第一世代の画家で特に海景画に優れ、ゴッホの作品を高く評価し、ゴッホがマウフェと関係が悪化したときには両者のあいだを取りなしたりもしたそうです。《黄褐色の帆の船》は水平線が低く空が大きいオランダらしい風景で、水と陸がなだらかに連なる地形のなかで水面に浮かぶ船の三角の帆がアクセントになっています。手前の岸辺に佇む母子は船の上の男性の家族でしょうか。見送りについて来たのか、それとも迎えに来たのかもしれませんね。広々とした空に湧く雲は背後で輝く太陽にくっきりと縁取られていて、雲の切れ間からのぞく空の青さが一際鮮やかに感じられる風景です。

ヨゼフ・イスラエルス《縫い物をする若い女》(1880年頃)

…ヨゼフ・イスラエルス(1824~1911)はハーグ派の第一世代の画家で、1850年代のバルビゾン訪問や自身の療養生活をきっかけに農民や漁民の暮らしを主題とした作品を制作するようになったそうです。《縫い物をする若い女》は仄暗い室内で椅子に腰かけ服を縫う若い女性の横顔や手元の衣装が、窓越しの柔らかい光に照らし出されています。フェルメールの作品などを思い出させる構図ですが、窓の外には木立が見えて、薄暗い室内は足温器があるだけで装飾品もないことから、ここが都市部の裕福な市民の家ではなく農村の慎ましい農家であることが分かります。女性の身に着けている服が質素で地味な色合いなのに対して縫っている衣装は純白ですが、女性は嫁入り支度をしているのかもしれないそうです。女性の頬が薔薇色に上気しているのもそのためかもしれませんね。静謐な空間を満たす温かな光とささやかな幸福が感じられる作品だと思います。イスラエルスの作品はオランダの風俗画の系譜を引き継ぎつつも、人の上にいる神を意識して教訓を込めるのではなく、人の姿の中に神を意識して精神の深みを表現しているところが19世紀的なのかなと思います。

アドルフ・モンティセリ《陶器壺の花》(1875~78年頃)

…アドルフ・モンティセリ(1824~1886)はパリとマルセイユを往復しながら激しい筆遣いや奔放な色彩、分厚いマチエールを特徴とする独自の画風を築いた画家で、ゴッホが大きく影響を受けたほか、セザンヌとも親交があったそうです。緑と白の縞模様のテーブルクロス上に置かれた花瓶の花を描いた《陶器壺の花》は、花も花瓶もざらりとした粗い質感が感じられて、色彩=光だった印象派の軽快さとは異質な重さを感じます。厚塗りの絵の具による物理的な質量はもちろんですが、印象派の色彩が透明な光であり、空気を透過した対象の色彩であるのに対して、モンティセリの色彩は不透明で、色そのものが形を持ち、光を発しているように感じられます。オランダからフランスに来たゴッホの作品が明るくなったのは印象派の影響が大きいのでしょうが、印象派にはない重さ、不透明感はモンティセリの影響もあるのかもしれないと思いました。

フィンセント・ファン・ゴッホ《ジャガイモを食べる人々》(1885年4~5月、ニューネン)、《鳥の巣のある静物》(1885年10月、ニューネン)、《秋の小道》(1885年、ニューネン)、《秋の夕暮れ》(1885年、ニューネン)

…1880年の夏に画家として生きる決意を固め、独学で絵を学び始めたゴッホは、1881年末にハーグ派の中心人物で従姉妹アリエットの夫であるアントン・マウフェに教えを請い、翌年からはハーグに移住してハーグ派の画家たちと交流しながら制作するようになったそうです。
ゴッホの初期作品を代表する《ジャガイモを食べる人々》はリトグラフが出品されていましたが、これは家族や友人に完成作を伝えるためにゴッホが制作したもので、左右反転しているのは石版に下絵を直接描き込んだためなのだそうです。穴蔵のように暗く、狭い部屋でテーブルを囲む5人の人物。ジャガイモにフォークを伸ばす男性、その隣で同じようにフォークを手にしながら男性を見上げる女性、向かい側にはカップにコーヒーを注ぐ女性、その女性に自分のカップを差し出す男性、交錯する仕草や視線が一つの場面にまとめられている複雑な構図ですね。画面のほぼ中央に描かれた後ろ向きの女性は部屋と人々を見渡す鑑賞者の視点と重なります。西洋絵画で食卓を囲む主題というと最後の晩餐などが頭を過るのですが、ゴッホはそうした巨匠たちの作品も意識していたのでしょうか。質素な食事を分かち合い、貧しいながらも助け合う人々を照らす灯火は彼らの心の拠り所を象徴しているようでもあります。ただ、リトグラフ自体は描写やコントラストに甘さもあるため友人のラッパルトから酷評されてしまい、その結果、ゴッホはラッパルトと疎遠になってしまったそうです。
…暗がりを背景に、無数の細い枝が組み合わされた三つの鳥の巣を描いた《鳥の巣のある静物》。ジュール・ミシュレの博物誌『鳥』に感化されたゴッホは鳥の巣自体が芸術品だと考えていたそうで、彼らの作品を忠実に捉えるべく緻密な筆遣いで描かれています。巣の中には綺麗な青い殻の卵もありますが、身近な鳥だとムクドリの卵が青いのだそうです。巣に抱かれた卵は安全や安心を感じさせますし、まだ目覚めていない未来の命、希望、可能性などがひっそりと育まれているようにも思われます。ゴッホはアルルを離れて療養するようになって以降、露地の植物や蝶などの昆虫をモチーフに花鳥画のような作品も描いているのですが、そうした山川草木の細部、小さな生き物への関心を早い時期から抱いていたことが感じられる作品だと思います。
…《秋の小道》と《秋の夕暮れ》は縦長と横長という画面の違いはありますが、どちらも同じ1885年に描かれた作品で、立ち並ぶ木立のあいだの道を歩く後ろ姿の人物という共通の構図、要素が用いられています。しかし、両作品から受ける印象は対照的で、《秋の小道》が雲の切れ間から差す秋の日差しがスポットライトのように人物とその行く手を照らす明るく穏やかな風景なのに対して、《秋の夕暮れ》は消えゆく残照に向かって人影が歩む暮色に包まれた寂しげな風景です。ある種の実験的な試みだったのでしょうか、色彩がもたらす効果、醸し出す情緒の違いが感じられて興味深かったです。

フィンセント・ファン・ゴッホタンギー爺さんの肖像》(1887年1月、パリ)、《麦畑とポピー》(1888年、アルル)、《オリーブを摘む人々》(1889年12月、サン=レミ)、《サン=レミ療養院の庭》(1889年5月、サン=レミ)、《糸杉》(1889年6月、サン=レミ)

…《タンギー爺さんの肖像》は画材屋の店主ジュリアン・タンギーをモデルに描いた作品です。前衛画家たちの作品を店に展示したり、画材と作品を交換したりして画家たちの面倒をみていた「タンギー爺さん」をモデルにしたゴッホの作品では浮世絵がバックに描かれたロダン美術館のものがよく知られていると思うのですが、出品作はオーソドックスな肖像画で、日ごろから世話になっているタンギー爺さんの飾らない姿を素直に捉えているように思います。明るい色彩や軽く素早いタッチなど、パリに来て1年弱のゴッホ印象派の手法を吸収していることが窺われる作品だと思います。
…《麦畑とポピー》は印象派的な点描で描かれたポピーと麦の、せめぎ合う赤と緑の対比が鮮やかな作品です。モネの風景画などでも見かけるポピー(ひなげし)ですが、ヨーロッパでは小麦畑に生える雑草だそうで、燃えるように咲き乱れる様からは与謝野晶子の歌が思い出されたりします。ポピーに侵食された麦畑の中で、まっすぐ立った麦の穂からは一筋の誇りのようなものも感じられるように思いました。
ゴーギャンとの共同生活が決裂して、激しい発作を起こしたゴッホは1889年5月に自らサン=レミの療養院に入院しました。入院して間もない時期に描いた《サン=レミ療養院の庭》では、大きく枝を広げた背の高い木も手前の低い木の茂みも花盛りで、木陰の小道にはベンチがあり、療養院ということを一瞬忘れそうな居心地の良さが感じられます。実際のところ療養院の庭は荒れ放題だったそうですが、手入れもされずに伸び放題の草木は、病院から出られないゴッホにとってはかえって外の気分を味合わせてくれたかもしれません。ゴッホは弟のテオに「さほど塞ぎ込んでいるわけではない」と手紙で書き送っているそうですが、自ら療養院に入ったのは早く健康を取り戻して作品に取り組みたいという意欲があったためではないかとも思いました。病院の建物や木の幹、下草などには輪郭線が描かれていて、ゴッホとしては色彩が淡く、筆遣いも繊細です。青い樹影に5月の日差しと風の爽やかさを感じる作品だと思います。
…サン=レミの精神療養院で暮らしていたゴッホは、糸杉とオリーブの造形や佇まいに惹かれて、自分のモチーフとして確立させるために繰り返し作品に描きました。《オリーヴを摘む人々》は描かれた時期が12月だったので気になって調べてみたところ、オリーブの収穫時期は品種や実の用途によって9月~2月と幅があるようなので、実際に見て描いたのでしょう。地面にはところどころ青い部分があるのですが、本来は赤い色だったものが褪色してしまったそうで、元は赤い大地と緑のオリーブとの対比が鮮やかだっただろうと思われます。手前でオリーブの実を摘む農婦は収穫の喜びに顔をほころばせていますね。《ジャガイモを食べる人々》に描かれた農村・農民像は困窮して打ちひしがれたイメージでしたが、南仏の田園風景は明るく輝かしいものに変わっています。オランダ時代のゴッホは、倹しい生活に耐えて過酷な労働に勤しむ農民の忍耐や誠実さに精神性の高さを見出していたのでしょう。一方で、《オリーヴを摘む人々》では自らの手で育て、実を結んだものを収穫する姿に、充足した人生の喜びが重ね合わされているように感じます。ゴッホの作品は奇跡や幻想ではない現実を描いているにもかかわらず、時として対象そのもの以上の何かを物語る作品だと感じられることがあるのですが、この作品も地に足をつけて生きる農民の姿を通して理想的な人間像が表現されているように思いました。
…緑の葉をうねらせて空へ伸びる糸杉の木。下草も白い雲もリズミカルにうねり、晴れた空には黄色の三日月が浮かんでいます。《糸杉》は厚塗りの絵の具により、うねるようなタッチで描かれたゴッホらしい作品です。キリストが磔にされた十字架は糸杉だったとも言われていて、西洋絵画であまり描かれてこなかったのは喪のイメージが理由なのかもしれませんが、ゴッホは「オベリスクのように」美しい糸杉を「ひまわりのように」自分のモチーフにしたいと考えていたそうです。オベリスク古代エジプトの神殿などに建てられた20~30mの記念碑で、オランダにはないのですが、フランスではパリのコンコルド広場とアルル市庁舎前という、いずれもゴッホと縁のある都市に建っているんですね。天と地を結ぶ聖なる建造物を連想しながら、ゴッホは不吉な陰を纏っている糸杉の持つ、シンプルな形体本来の天を目指す力を表現したかったのかもしれません。ところで、ゴッホが自分のモチーフにしたいと考えたオリーブと糸杉が、どちらも樹木なのは何故だろうとふと気になったりしました。もちろん身近な植物だったためなのでしょうが、オリーブは太陽の樹とも言われるそうですし、糸杉は形そのものが天を指し示しています。ゴッホの作品では教会に代えて太陽が宗教的なシンボルとして描かれているのですが、オリーブや糸杉は形を変えた太陽ではないかと思ったりもしました。光を受けてエネルギーを生み出し成長する樹木の姿は、太陽の力を蓄えたものとも言えそうですし、昼間の空に月が浮かんでいる不思議も、太陽と月という対で考えることもできるのかもしれません。

風景の科学 展――芸術と科学の融合 感想

概要

【会期】
…2019年9月10日~12月1日

【会場】
国立科学博物館 日本館1階企画展示室

www.kahaku.go.jp

感想

…「風景の科学展」は写真家の上田義彦氏の作品について、国立科学博物館の研究者が一枚ずつ解説するという企画です。入口そばの表示には、まず写真を見て、次に解説を読んでから改めて写真を見て欲しいとあったのでその通りにしてみたのですが、同じ物を前にしても人によって違うことを考えるのであり、同じ写真でも違うものが見えていると言っても良いぐらいだと思いました。たとえば三枚の果樹園の写真や屋久島の渓流を撮影した写真を見ても私は漠然と綺麗な景色だと思うだけなのですが、解説では写真が資料として分析され、それぞれに写る樹木の種類やその栽培の歴史、岩石に含まれる鉱物の種類について言及されていて、情報の解像度が違うと感じました。また、私の場合は写真を無意識のうちに芸術作品として受け止めてしまうため、緑の柳の葉が揺れるノルマンディーの池を見るとモネの絵が、暗い雨雲の垂れ込めるスコットランドの山岳地帯を見るとターナーの絵が浮かぶのですが、科学者は参照するデータベースも違っていて、それぞれ幻の珪藻や泥炭を燃料に作られるスコッチ・ウィスキーのことが連想されているのも予想外で興味深かったです。私は普段絵画作品を見ることが多くて、その表現方法に馴染んでいるためにそれが認識の枠組みになり、時には枷にもなっているということなのでしょう。対象が何によって出来ているか、どのように形成されたかを知り、それが拠って立つ因果を理解したとき、私たちは奇跡や偶然を超えた奥深く精妙な必然を見出して、一層の美しさを感じるのかもしれないと思いました。個人的には雪景色と見紛うホワイトサンズの真っ白な石膏の砂漠と、オリンピック公園の鬱蒼とした温帯雨林のファンタジーのような風景が印象的で、驚きと同時に地球の風景の多様さを改めて感じさせられました。また、オーストラリアに生息するバンクシアという植物の種子は、固い皮に包まれたままひっそりと眠っていて、危機的な状況=山火事が生じると飛散するそうですが、焼け野原を新天地として過酷な環境を生き延びる生物の適応力、システムの巧みさと逞しい生命力が印象に残りました。
…「風景の科学展」は常設展のチケットで入場可能です。私が行ったのは土曜日の午後で、科博は「恐竜博2019」開催中で家族連れで賑わっていましたが、特別展と合わせて観覧しても良いかもしれませんね。所要時間は60~90分程度を見込んでおくと良いと思います。公式図録は7,200円(税別)と高価なのですが、写真集として眺めても科学エッセイとして解説を楽しむこともできそうで、一般の書籍として通販などでも購入可能なようです。

オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち展 感想

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見どころ

…「オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち展」は、オランジュリー美術館が所蔵する「ジャン・ヴァルテル&ポール・ギヨーム コレクション」146点のうち、ルノワールを始めとする印象派やエコール・ド・パリ、さらにピカソマティスなど13人の画家、69点の作品で構成される展覧会です。同館から「ジャン・ヴァルテル&ポール・ギヨーム コレクション」がまとまって来日するのは21年ぶりとのことです。
…このコレクションを築いたポール・ギヨーム(1891~1934)は自動車修理工でしたが、偶然目にしたアフリカの彫刻に惹かれて収集を始め、詩人で美術批評家でもあったアポリネールを通じてパリの前衛画家たちと交流するようになり、モディリアーニやスーティンなど若い画家を積極的に支援する画商となりました。また、ポール・ギヨームは画商になるきっかけとなったアフリカ美術について写真集『ニグロ彫刻』(1917年)を編集するなど、その魅力の普及に率先して努める一方、自ら素描を嗜むこともあったようです。専門の美術教育を受けていなくても良き助言者に巡り会えたことと、何より美術への情熱があったことで画商として活躍し、優れたコレクションを築くことができたんですね。オランジュリー美術館というと私はモネの睡蓮の大装飾画が思い浮かぶのですが、今回の展覧会でポール・ギヨームの業績を知ることができ、また、アンドレ・ドランの作品を初めてまとめて見ることができて良かったです。なお、コレクション名にポール・ギヨームと共に名を連ねているジャン・ヴァルテルは建築家で、ポール・ギヨームの妻ジュリエット・ラカーズ(通称ドメニカ)の再婚相手なのですが、コレクションの設立には関与していないそうです。
…私は初日の開館直後に見に行ったため、チケットを持っている人、これから購入する人がそれぞれ数十人程度並んで列ができていたのですが、会場内では混雑はさほど気にならず、作品をじっくり見ることが出来ました。お昼頃には行列も解消していました。音声ガイドの解説のみの作品も目に付いたので、可能であれば音声ガイドも利用したら良いかもしれません。所要時間は90分程度、ポール・ギヨーム関連の展示コーナーで邸宅の模型が撮影可能です。

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ポール・ギヨームの邸宅:食堂

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ポール・ギヨームの邸宅:ポール・ギヨームの書斎

概要

【会期】

…2019年9月21日~2020年1月13日

【会場】

横浜美術館

【構成】

アルフレッド・シスレー(1839~1899):1点
ポール・セザンヌ(1839~1906):5点
クロード・モネ(1840~1926):1点
オーギュスト・ルノワール(1841~1919):8点
アンリ・ルソー(1844~1910):5点
アンリ・マティス(1869~1954):7点
キース・ヴァン・ドンゲン(1877~1968):1点
アンドレ・ドラン(1880~1954):13点
パブロ・ピカソ(1881~1973):6点
マリー・ローランサン(1883~1956):5点
モーリス・ユトリロ(1883~1955):6点
アメデオ・モディリアーニ(1884~1920):3点
シャイム・スーティン(1893~1943):8点
…展示は画家別の構成で、各画家の作品はいずれも油彩画です。上記の画家の名前は生年順に列記しましたが、会場では大雑把に括ると前半の展示室がシスレー、モネ、セザンヌなど印象派やポスト印象派、後半がモディリアーニユトリロ、スーティンなどエコール・ド・パリ、中心となるルノワールが両者のあいだの展示室に位置していました。展覧会はルノワールの名前を冠していることもあり、印象派の作品が多いのかと思いましたが、むしろ印象派以後の画家たちがメインで、20世紀前半の作品が多かったです。なかでもモディリアーニやスーティンは、ポール・ギヨームが発掘して世に送り出した関係の深い画家たちです。シスレー、モネ、及びセザンヌの作品の大半は妻のドメニカによってコレクションに加えられたものだそうですが、一方で彼女はピカソキュビスム時代の前衛的な作品やポール・ギヨームが情熱を傾けたアフリカ美術のコレクションを手放しているそうです。ルノワールは夫妻が共に好んだ画家でした。フォーヴィスムを担った主要な画家の一人であり、その後肖像画家として成功したアンドレ・ドランは国内外の多くの画商と交流を持っていましたが、1924年に契約を結んだポール・ギヨームとは画商が亡くなるまで緊密な関係が続いたそうです。ドランは夫妻それぞれの肖像画も手掛けていて、今回の展覧会にも出品されています。

artexhibition.jp

感想

アンドレ・ドラン《ポール・ギョームの肖像》(1919年)、アメデオ・モディリアーニ《新しき水先案内人ポール・ギヨームの肖像》(1915年)

…展覧会の冒頭を飾っていたのは、アンドレ・ドランによるポール・ギヨームとドメニカ夫妻の肖像画でした。バレル・コレクションを築いた海運王ウィリアム・バレルのように、肖像画を描かれることに消極的だったコレクターもいますが、ポール・ギヨームはドランをはじめ、契約を結んでいた画家たちによる様々な肖像画が残されています。ポール・ギョームはそれぞれの画家たちが自分をどのように捉えているか、そして表現の違いから感じられる画家たちの個性を楽しんでいたのかもしれません。ドランによる肖像画はポール・ギヨームが好んだという青を中心とした寒色系でまとめられていますが、柔らかく薄塗りのタッチで描かれているため温厚そうな人柄という印象を受けます。ポール・ギヨームは煙草を手に本を開いて寛いだ表情ですが、落ち着いた上品な雰囲気で、モデルに対する画家の親しみと敬意が感じられる作品だと思います。
…一方、モディリアーニによるポール・ギヨームの肖像画はアーモンド型の眼や首から肩、腕にかけての滑らかな曲線がモディリアーニらしいですが、図録13ページに載っているギヨームの写真を見るとその表情が忠実に捉えられていることが分かります。ドランによるナチュラルでスタンダードな肖像画に比べると、モディリアーニの作品は画家とモデルの個性がより強く出ている印象ですね。画家=鑑賞者に向かって微笑みかけるポール・ギヨームの瞳や口元からはエコール・ド・パリの画家と、彼が生み出す新しい具象絵画への関心や好意が感じられると同時に、その魅力的な微笑みに引きつけられるようなものを感じます。アフリカの彫刻などに影響を受けたモディリアーニの画風は単純化された形体が特徴ですが、ポール・ギヨームはアフリカ美術を熱心に愛好していましたから、価値観・美意識を共有する同志としての親近感もあるのかもしれません。ポール・ギヨームはモディリアーニよりも年下で、描かれた当時はまだ23歳なのですが、年齢よりも落ち着いた雰囲気があり、画家にとって頼りがいのある人物だったのだろうとも思います。モディリアーニやドランの作品を見ていると、ポール・ギヨームは画商としての信頼感があるだけでなく、人間的にも好ましい人柄だったのだろうと思いました。

マリー・ローランサン《ポール・ギヨーム夫人の肖像》(1924~1928年)、アンドレ・ドラン《大きな帽子を被るポール・ギヨーム夫人の肖像》(1928~1929年)

…ポール・ギヨームの妻ジュリエット・ラカーズ(1898~1977、通称ドメニカ)は南東フランスで生まれ、1910年代にパリのキャバレーで働くようになり、そこでポール・ギヨームと出会って結婚したと見られるそうです。ローランサン肖像画に描かれたドメニカはピンクのドレスを身につけ、花を手に小首を傾げて夢見るように微笑んでいて、少女のように可愛らしい印象ですね。一方、アンドレ・ドランによるドメニカの肖像画は、ローランサンのものと近い時期の作品ですが、大きな帽子を被り、ストールを羽織った富裕層の女性らしいエレガントな装いで、くっきりとアイラインの入った目は強い意志を感じさせます。輪郭も色調もシャープで明瞭なためか、整いすぎていて隙のない印象は、同じドランによる夫ポール・ギヨームの肖像画ともかなり雰囲気が違う気がします。画家自身の個性の違い、そしてモデルの捉え方の違いが感じられて興味深く思いました。

オーギュスト・ルノワール《ピアノを弾く少女たち》(1892年)、《バラをさしたブロンドの女》(1915~1917年)

…ピアノの前の二人の少女を描いた《ピアノを弾く少女たち》は、フランス政府から依頼を受けてルノワールが制作した作品のうちの一点です。画中に登場するアップライトピアノは18世紀末に開発され、19世紀には工場で量産可能になったことで中流階級の家庭にも普及し、女性達のあいだでピアノのレッスンが流行したそうです。伝統的な風俗画の場合、楽器を弾く女性という主題はしばしばロマンスの暗喩なのですが、この作品に描かれた少女達はもっと無邪気に音楽を楽しんでいる様子で、時代の変化を感じます。カーテンやリボンの青、ワンピースの白が画面を引き締め、爽やかな印象を高めています。片手で楽譜を捲りながらピアノを弾く白いワンピースの少女がピアノの練習をしている傍で、頬杖をつく赤いワンピースの少女は目を伏せて音色に耳を傾けているようです。画面の中心を占める二人の少女のうち、この作品では微笑みを浮かべてピアノを弾く白いワンピースの少女が中心に見えるのですが、最終的に国家に買い上げられた作品では赤いワンピースの少女の顔の角度や表情が変わっているためか、横向きのピアノを弾く少女より彼女に視線が引きつけられるんですよね。ポーズや表情の微妙な違いでこんな風に印象が変わるのも興味深いです。ピアノの装飾や背景の仕上げは大まかですが、その分絵筆の運びも伸び伸びとしていて、少女達のささやかな日常の一コマを生き生きと表現している作品だと思います。
…《バラをさしたブロンドの女》のモデル、アンドレ=マドレーヌ・ウシュリング(愛称デデ)は後に女優となり、ルノワールの次男で映画監督のジャン・ルノワールと結婚しているそうです。この作品が描かれた当時のデデは16~17歳で、《ピアノを弾く少女たち》とさほど年齢は離れていないと思うのですが、可憐な少女達と比べると若々しい中にもより成熟した女性らしさが感じられます。花に喩えるなら、つぼみが花開いて咲き初める最も瑞々しい時期でしょうか。《ピアノを弾く少女たち》が一瞬の場面に人生のほんのひとときである少女の時期を重ね合わせた作品だとするなら、こちらは女性の豊かな肉体に普遍的な生命力の豊かさを象徴させて表現していると言えるかもしれません。髪に挿したバラの花と同じ色合いの艶やかな唇が官能的で、全てが溶けるように柔らかい色彩に血の通った温かみを感じられる作品だと思います。

パブロ・ピカソ《布を纏う裸婦》(1921~1923年)、《タンバリンを持つ女》(1925年)

…《布を纏う裸婦》が描かれたのは1921~1923年頃、《タンバリンを持つ女》は1925年で2年ほどしか離れていないのですが、ピカソらしい振り幅の大きさが感じられる対照的な女性像です。《布を纏う裸婦》は、目を伏せて白い布で肌を覆う女性のずっしりとした実体の重みが印象的な作品です。画面左側に光源があり、女性の顔立ちは鑿で削られたように面ごとに塗り分けられていて、円筒形の腕や腿などは彫刻のような立体感があります。色味は少なく、白い布と女性のピンクがかった肌と暗褐色の長い髪、そして背景のグレーのみですが、よく見ると肌は黄みがかったグレーの点描が施されていて、光がもたらす微妙な階調が繊細に表現されています。一方、後者の《タンバリンを持つ女》は女性の帽子(又はターバン)やスカートの赤と空色のソファ、紫のクッションと黄土色のタンバリンといった鮮やかな色彩が対比され、平面的に描かれています。タンバリンを手にソファに横たわる女性の姿は横からの視点と上からの視点が組み合わされ、手前に置かれた果物の輪郭と色面とをずらす描き方なども、自然主義的な《布を纏う裸婦》とは対照的ですね。タンバリンは中近東起源の打楽器で、西洋音楽では東洋的雰囲気の演出に用いられたりするそうですから、この女性はオダリスク若しくはそれを模しているのでしょう。布で慎ましく身を隠す裸婦とは対照的に、女性は上半身を大胆に開けて右胸は誇張するように歪められていますし、手前に置かれた果物もエロティックなニュアンスを感じさせます。しかし、女性は愁いを帯びた表情で物思いに耽っているようです。ピカソはこの作品を手掛けていた頃、シュルレアリスムから影響を受けた作品を制作していたそうなので、背景の壁の左半分が黒く、途中から黄色になっているのも明暗の表現ではなく、昼間の明晰な意識と夜の無意識の夢想を表現しているのかもしれません。女性が夢を見ているのか、あるいは画家=鑑賞者が女性の夢を見ているのか、意識の揺らぎが硬直した日常の感覚も揺さぶるような作品だと思います。

アンドレ・ドラン《アルルカンとピエロ》(1924年頃)

…楽器を抱え、荒野を旅する二人の道化師。ドランの《アルルカンとピエロ》は青空を背負って踊る二人の身体が斜めに傾き、鑑賞者を見下ろす奇抜な構図が印象的です。アルルカンもピエロもいわゆる道化師ですが、快活なアルルカンと内気なピエロというコンビでひと組にされることもあるそうで、派手な色遣いのぴったりとした衣装を身につけたアルルカンとゆったりとした白い衣装を着ているピエロとは対照的な一対として描かれています。一方で、二人の表情が共に陰気でもの悲しく、戯けているように見えないのは道中の苦労のためでしょうか。ピエロの足元には投げ銭を入れる壷がありますが、荒野のただ中で観客がいるのか疑問にも思われます。彼らは徒労な努力の虚しさを噛みしめているのかもしれません。あるいは旅は人生の比喩であり、人は現世という舞台で滑稽な見世物を演じる道化師のようなもので、人を笑い、人に笑われながら、誰しも心のどこかにある虚しさやもの悲しさを拭い去ることができないのかもしれません。この作品はポール・ギヨーム夫妻の邸宅の居間を飾っていたもので、ピエロのモデルは所有者であるポール・ギヨーム自身なのだそうです。ポール・ギヨームは自邸の居間でこの作品を見上げながら、束の間の儚い喜びや楽しみ、一時の栄華に囚われることを戒めていたのかもしれないと思いました。

没後90年記念 岸田劉生展 感想

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見どころ

…この展覧会は日本の近代美術の歴史の中でもとりわけ独創的な絵画の道を歩んだ岸田劉生(1891~1929)の没後90年を記念する回顧展です。出品作は初期の水彩画、代表作《道路と土手と塀(切通之写生)》や愛娘麗子を描いた肖像画、「東洋の美」に目覚めて独学で取り組んだ日本画など、東京国立近代美術館をはじめ日本各地の美術館が所蔵する作品約150点で構成されています。
…岸田は二十年余りの画業の中で何度も画風を大きく変化させているのですが、変化のきっかけには幾つもの出会いがあるように思います。若干十四歳にして両親を失った岸田ですが、キリスト教の洗礼を受けたことで牧師の田村直臣と出会って画家になることを奨められ、さらに雑誌『白樺』を通じてゴッホゴーギャンマチスの芸術に衝撃を受けるとともに、親友となる武者小路実篤とも出会います。肺病と診断されたために戸外での写生ができなくなったことはマイナスの出会いなのですが、室内で制作できる静物画に取り組んで新たな境地を切り拓く強靱さもあります。最愛の娘・麗子の誕生は数々の麗子像として結実しました。今回の展覧会を通して、岸田の人生と作品は根底において相互に不可分に結びついているように感じました。
…私は9月最初の土曜日に見に行きましたが、落ち着いてじっくり作品を見ることが出来ました。作品数が多いので、所要時間は2時間以上を見込んでおくと良いと思います。図録には岸田の日記や論考などの記述も含めた日単位の詳細な活動記録が所収されているので、興味のある方は購入されることをお勧めします。

 概要

【会期】

…2019年8月31日~10月20日

【会場】

東京ステーションギャラリー

【構成】

 第1章 「第二の誕生」まで:1907~1913
 第2章 「近代的傾向…離れ」から「クラシックの感化」まで:1913~1915
 第3章 「実在の神秘」を超えて:1915~1918
 第4章 「東洋の美」への目覚め:1919~1921
 第5章 「卑近美」と「写実の欠除」を巡って:1922~1926
 第6章 「新しい余の道」へ:1926~1929 

www.ejrcf.or.jp

 感想

風景画:《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年11月5日)他

…風景画は岸田の画家としての始まりであり、終生描き続けたテーマです。最初期の作品である《緑》(1907年8月6日)は水彩による透明感と瑞々しさが爽やかな風景ですが、岸田は雑誌「白樺」を通じてゴッホマチスらの影響を受け、鮮やかで大胆な色遣いが印象的な《築地居留地風景》(1912年12月23日)などを描くようになります。出会いを契機に画風が大きく変化するのは、感性の鋭さや良いものを積極的に取り入れようとする柔軟さの証でもあると思うのですが、他の画家たちが築いた表現に飽き足らず、自身の目で見た表現を模索した岸田は、やがて結婚して居を構えた代々木近辺の風景を描くようになります。現在の代々木はビルのただ中にある街ですが、百年前の岸田の作品ではまだ建物がほとんどなく、道端には草が生い茂っていて、その変貌ぶりに驚きます。《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年11月5日)は開発が進む代々木の風景を克明に描いた写実的な作品ですが、坂道が坂道以上の意味を持って迫ってくる印象を受けました。真っ青に晴れた空に向かって赤茶けた険しい坂道が盛り上がり、明るい日差しを浴びる左手の石塀は奥行きが圧縮されて遠近感が強調されています。石塀は築かれて日が浅いのか白さが際立ち、逆光で影になっている向かいの暗い崖と対になっています。道を挟んで左側は人間の手による人工物、右側は切り拓かれる以前からの自然の山であり対峙する両者の静かな緊張感が感じられます。乾いた地面には雑草が生え始めている一方で、道端に立つ電柱の影も差していて、道の上で人と自然とが交錯していますが、せめぎ合う自然の生命力と人間の文明との対立とも共存とも受け取ることができそうです。世界の縮図のような一本の道は力強く上昇していて、未来に続いていることを予感させる作品だと思います。

人物画:《麗子肖像(麗子五歳之像)》(1918年10月8日)他

…1913年、「ゴッホの手法の感化」や「マチスの絵と理論」ではなく、自分の眼と頭で捉えた表現を模索していた岸田は、妻となる蓁との恋愛もあり人間への関心が特に高まったことも重なって、立て続けに肖像画を制作しています。例えば11月5日に《自画像》を描き、その翌日の11月6日には《清宮氏肖像》を描くなど、一日に一点油彩の肖像画を描いているような場合もあり、「首狩り劉生」と呼ばれたのも頷ける驚異的なスピードと集中力だと思いました。
…《黒き土の上に立てる女》(1914年7月25日)は、「大地とともに生きる女性」を描いた作品で、豊かな胸を開けて右腕に竹籠を携え、画面中央に堂々と立っている女性は妻の蓁がモデルだそうです。この作品が描かれた1914年の4月には娘の麗子が生まれているのですが、妻の姿は出産前のものなのか腹部に膨らみが見て取れます。竹籠は種が入っているのか、収穫物を入れるためなのかはっきりしませんが、出産=実りを暗示させる姿ですからあるいは収穫物を入れるためのものかもしれません。身重の妻の姿に裸足で大地を踏みしめる収穫と多産の象徴としての地母神を重ね合わせ、生命の豊かさ、力強さを表現した作品だと思います。
…《高須光治君之肖像》(1915年1月20日)は草土社展結成にも参加した画家の高須光治(1897~1990)の肖像画で、深い暗闇に沈む高須の姿が画面右側から差しこむ光によって浮かび上がり、眉根を寄せた沈痛な表情に一層ドラマチックな効果をもたらしています。肌の日焼けや染み、皺にいたるまで、高須の顔貌が極めて写実的に捉えられていますが、描かれているのは真摯に自己を見据える普遍的な人間の像です。岸田は後年、ルネサンス期の巨匠やデューラーなど「クラシックの感化」を受けた時期の自作を評価しなかったようなのですが、個人的には今回の展覧会の出品作の中でも特に強く印象に残った作品の一つです。
…岸田は愛娘・麗子の肖像画を数多く制作していますが、《麗子肖像(麗子五歳之像)》(1918年10月8日)はそのうちでも最初の作品です。ふっくらと丸みを帯びた赤みの差す頬や小さな手が子供らしく、櫛を通していない無造作な癖毛や右手に握られた犬蓼は麗子が手つかずの自然のように無垢な存在であることを感じさせます。一方で、つぶらな瞳は全てを見通しているかのように聡明な印象を与え、デューラーの肖像のように麗子をほぼ正面から捉えていることと合わせて、幼いキリストにも通じる気高さが感じられます。装飾的なアーチ型の枠に縁取られているのは母・蓁の肖像画《画家の妻》(1915年1月10日)とも共通していますね。古い歴史を感じさせるひび割れは壁龕に収まった由緒ある壁画を写した画中画のようでもあり、一人の少女の姿を通して時間が流れても変わることのない聖性を表現した記念碑的な作品だと思います。

静物画:《静物(手を描き入れし静物)》(1918年5月8日)他

岸田劉生と言うと風景画や麗子像のイメージがあり、静物画は初めて見たのですが、私がこれまで目にしたことのある静物画の先入観が覆され、異色の静物画という印象を受けました。静物画のモチーフは作為を感じさせないようにバランスを考慮しつつ無造作に並べられたり、器に盛られたりすることが多いと思うのですが、壷の口に林檎が置かれている《壷の上に林檎が載って在る》(1916年11月3日)や《林檎三個》(1917年2月)の均等に三つ並んだ林檎などは、まずその意表を突いた構図に引き込まれます。一見奇を衒った構図なのですが、対象を描きつつ寓意を踏まえていたり、あるいは色彩や形体の構成に関心の重きがあったりする作品とは異なり、画家の視線はむしろ対象自体にまっすぐ向かっていて、どうしてそれが、そこにそのようにあるのかという根本的な疑問や違和感が際立ちます。こうした作品の背景には、1916年7月に肺病と診断(実際は誤診だったそうです)され療養していた岸田の、自身が生きてこの世界に存在することや、人生の意味への問いがあるのでしょう。《二つの林檎》(1916年9月26日、1923年焼失)を描いた岸田は、「この二つの林檎を見て 君は運命の姿を思はないか 此処に二つのものがあるといふ事 その姿を見つめてゐると 君は神秘を感じないか それは美だ、在るといふ事の美だ。美は神秘の形だ」という言葉を書き残しています。岸田の静物画からは存在の神秘に迫り、物そのものを捉えようとする研ぎ澄まされた精神が感じられるように思います。
…《静物(手を描き入れし静物)》(1918年5月8日)では赤い林檎と白い器、左側の赤いカーテンと右側の紺のカーテンが対になり、ほぼ左右対称に構成されたモチーフのなかで、画面右奥にぽつんと置かれた1個の林檎のみが逸脱しています。現在は消されていますが、当初は濃紺のカーテンの陰から現れた右手が描かれており、1918年の第5回二科会展に本作を出品したところ「マジックのやうだ」、「悪趣味」などと評されて落選してしまったのだそうです。描き入れられた手は林檎をテーブルに並べる途中だったのでしょうか、テーブルから取り去るところだったのでしょうか。あるべきところにあるべきものをあるべきように配するのは神の手なのかもしれません。存在の神秘の背後にある、人知の及ばぬ意図を表現しようとした作品だったのだろうと思います。

松方コレクション展 感想

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見どころ

…「松方コレクション展」は国立西洋美術館の開館60周年を記念する展覧会です。
川崎造船所の初代社長を務めた松方幸次郎(1866~1950(慶応元年~昭和25年))は、日本の芸術家、人々のために美術館を作ろうと志し、1916年から1927年頃にかけてパリやロンドンを拠点に西洋の美術作品3,000点、フランスから買い戻した浮世絵8,000点も加えると総数1万点近い規模の美術品のコレクションを築きました。しかし、1927年の昭和金融恐慌による造船所の経営破綻、さらに第二次大戦の勃発という時代の荒波のなかで、コレクションは売却や火災、接収によって散逸してしまうのですが、戦後フランスから返還された作品375点と合わせて、1959年に松方コレクションをルーツとする国立西洋美術館が設立され、今日に至っています。
…私は松方コレクションと聞くとモネやルノワールなど印象派を中心とする近代フランス絵画をまず思い浮かべるのですが、今回の展覧会でコレクションの始まりはラファエル前派などのイギリス絵画だったことを知ることができました。また、西洋美術館のシンボルと言ってもいいロダンの《考える人》ですが、松方コレクション自体がロダン作品と縁が深いことも知ることが出来ました。1918年に松方はロダン美術館設立の中心人物だったレオンス・ベネディットとロダン作品の鋳造に関する契約を結びますが、資金を必要としていた草創期のロダン美術館にとってもロダン作品の大口鋳造契約は重要な意味があり、最終的に50点を超える世界有数のロダン・コレクションが築かれたのだそうです。さらに、ベネディットは松方のパリにおける作品購入の代理人としてフランス近代絵画の本格的な収集も行っていて、そうした経緯から松方コレクションがロダン美術館敷地内の旧礼拝堂に保管されることにもなったのだそうです。
…美術作品のコレクターにも色々なタイプがあるだろうと思うのですが、松方はブラングィンやベネディット、そしてモネと、多くの画家や美術関係者と積極的に交流を持っているのが印象的でした。また、個人のコレクションの場合、収集される作品はコレクターの愛好する作家やジャンル、あるいは価値観そのものを一定程度反映したものになり、そうした個性が魅力の一つでもあると思うのですが、松方の場合、日本のために美術館を作るという公的な目的をもっての収集だったためか、20世紀の美術作品から中世の古典美術まで収集範囲が広く、質の高さ、スケールの大きさを改めて実感させられました。時代の巡り合わせではありますが、もしも松方のコレクションの全てが揃って日本にあったならと思うと…夢のようですけどね。今回の展覧会で初公開されたモネの《睡蓮、柳の反映》は2016年にフランスで発見されて海を渡ったのですが、よく日本に帰ってきてくれたという気持ちになりました。大きく欠失した痛々しい状態は、松方コレクションの辿った激動の運命そのもののようにも思えます。芸術作品の命は人の一生を超える長いものですが、それだけに生き延びてきた作品は乗り越えてきた重い歴史を背負っているのでしょうね。
…私が見に行ったのは7月最初の土曜午後で、入場待ちはなかったもののかなり混雑していて、鑑賞者の列の後方から見た作品もありますし、会場内の休憩用の椅子もほとんど空きがなく座れない状態でした。会場内の照明は暗めに感じました。第1章の展示室では作品を壁面の上下に複数並べて展示していて、古い美術館のようだったのが面白かったですね。壁面の上部に展示された作品は少し後ろに下がると全体を見られると思います。展示室入口前のモネ《睡蓮、柳の反映》のデジタル推定復元図は撮影可能です。

概要

【会期】

…2019年6月11日~9月23日

【会場】

国立西洋美術館

【構成】

…概ね収集した時期・地域に従っての構成で、特に第1章の「ロンドン1916~1918」と第5章の「パリ 1921~1922」の出品数が多くなっています。作品数は150点余りで、国立西洋美術館のコレクションのほか、オルセー美術館大原美術館など国内外の美術館の所蔵品で構成されています。

プロローグ
 …モネ《睡蓮》(1916)

Ⅰ ロンドン 1916~1918
 …ロセッティ《愛の杯》(1867)、ミレイ《あひるの子》(1889)、セガンティーニ《羊の毛刈り》(1883~84)

Ⅱ 第一次世界大戦と松方コレクション
 …スタンラン《帰還》(1918)

Ⅲ 海と船
 …ブラングィン《救助船》(1889)、コッテ《悲嘆、海の犠牲者》(1908~09)

Ⅳ ベネディットとロダン
 …ロダン地獄の門》(1880~90頃、原型:1917、鋳造:1930~33)

Ⅴ パリ 1921~1922
 …クールベ《波》(1870)、ゴッホ《アルルの寝室》(1889)

Ⅵ ハンセン・コレクションの獲得
 …マネ《ブラン氏の肖像》(1879頃)

Ⅶ 北方への旅
 …ムンク《雪の中の労働者たち》(1910)

Ⅷ 第二次世界大戦と松方コレクション 
 …スーティン《ページ・ボーイ》(1925)、ルノワールアルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》(1872)

エピローグ
 …モネ《睡蓮、柳の反映》(1916)

artexhibition.jp

感想

第1章 ロンドン 1916~1918:ダンテ・ガブリエル・ロセッティ《愛の杯》(1867年、国立西洋美術館)、ジョヴァンニ・セガンティーニ《羊の毛刈り》(1883~84、国立西洋美術館)他

…1916年~18年にかけて、松方はロンドンを拠点に自社のストックボート(既成貨物船)を欧州に売り込み、その利益を資金として美術品の収集を始めました。ラファエル前派をはじめとするイギリス絵画はこの時期に収集されたんですね。
…ダンテ・ガブリエル・ロセッティ《愛の杯》は赤いローブの女性が金の杯を掲げていますが、この作品の額には「甘き夜、楽しき日/美しき愛の騎士へ」という銘文が入っているそうです。背後に描かれている鳥は忠誠の象徴の鳶なので、女性は杯の蓋を心臓に当てて、出征する恋人に変わらぬ愛を誓っているのでしょう。
…ルイ・ガレはロマン派の画家で、今ではあまり知られていないとのことですが、《芸術と自由》のヴァイオリンを手にした端正な音楽家の青年像は印象に残りました。青年が立っているのはバルコニーなのか、背後には自由を象徴するような青い海が見えますね。
カルロ・クリヴェッリヴェネツィア出身で、15世紀に中部イタリアで活動した画家ですが、19世紀のナポレオン戦争やイタリア統一戦争による混乱の中で作品が散逸してしまったそうで、《聖アウグスティヌス》も、本来は二段組三連祭壇画の一部だったとのことです。私はクリヴェッリの名を澁澤龍彦の文章で知ったのですが、クリヴェッリの作品は硬質な線描と装飾の華麗さ、眩い黄金が魅力だと思います。また、アウグスティヌスの司教冠を飾る宝石は手で触れられそうに盛り上がり、つま先は画面の中から鑑賞者の側に踏み出そうとしているように石段の先にはみ出していますが、絵画の世界が現実の三次元の世界に入りこんでくるような描き方もクリヴェッリの特徴の一つなのだそうです*1
…ジョヴァンニ・セガンティーニ《羊の毛刈り》では、羊小屋で毛を刈る農夫たちと、柵の外の牧草地に群れる羊たちが描かれています。柵に頭を載せて毛刈りの様子を見ている羊もいて微笑ましい情景ですが、のどかに見える羊の毛刈りはかなりの重労働だと聞いたこともあります。黙々と作業に励む慎ましい農夫たちの勤勉さと品格が感じられる作品だと思います。《花野に眠る少女》は花の咲く緑の野原に直に寝転ぶ少女の姿が、水彩とパステルの柔らかなトーンで描かれています。私はこの作品を見て「ロマンティック・ロシア」展(Bunkamuraザ・ミュージアム、2018年)に出品されていたニコライ・ドミートリエヴィチ・クズネツォフ《祝日》(1879年)を思い出しました。春という季節と若い少女を重ね合わせて、みずみずしい生命力を表現した作品だと思います。

第2章 第一次世界大戦と松方コレクション/第3章 海と船:テオフィル・アレクサンドル・スタンラン《帰還》(1918、国立西洋美術館)、シャルル・コッテ《悲嘆、海の犠牲者》(1908~09、国立西洋美術館)他

第一次大戦の最中にヨーロッパで収集活動を始めた松方は、戦争にまつわる同時代の作品も数多く収集しています。スタンラン《帰還》は戦場から戻ってきた兵士が、出迎えの恋人と抱き合って再会を喜び合っています。兵士の背後に蒸気機関車の影が描かれていますから、駅の情景なのでしょう。しかし、すぐ傍では夫を失って喪服を身につけた女性が、カップルを恨めしげに横目で見つつ子供の手を引いていますし、帰還できたとは言え戦場で傷を負った兵士もいるようです。戦争は終わってもなお、人々の日常に影を落としていることを描いた作品だと思います。
…ロンドンにおける松方の収集活動を支援し、松方のために「共楽美術館」のデザインも手掛けたフランク・ブラングィンは、海や船を主題とする作品を数多く制作していて、松方が最初に購入したのは造船所を描いたブラングィンの作品だとも言われているそうです。松方にとって、本業に縁のある海や船は思い入れのある主題だったのでしょう。ブラングィン《救助船》は、荒れた海のなかで大きく傾く蒸気船を救助向かう船が描かれています。蒸気船から上がる煙が強い風に吹かれて流されていますね。沈みかけている大型の蒸気船に対して、救助船はオールで漕ぐ小舟であり、両者の対比は自然の猛威の前では人間が非力であることを感じさせる一方、困難に怯まず立ち向かう人間の勇敢さも感じさせると思います。
…シャルル=フランソワ・ドービニー《ヴィレールヴィルの海岸、日没》は、灰色がかった空が夕暮れ時の朱い色にうっすらと染まり、海に落ちてゆく太陽が雲間から垣間見えています。暮色の迫る浜辺の人影は家路に向かうところでしょうか。みずみずしく爽やかな水辺の風景を数多く描いたドービニー晩年の作で、穏やかながらどこか寂寥感の漂う風景だと思います。
…シャルル・コッテ《悲嘆、海の犠牲者》はブルターニュ半島の西にあるサン島の情景を描いた作品で、鉛色の空をした港に大勢の村人が集まり、画面手前では土気色の肌の男性が粗末な木の担架に載せられ横たえられています。ブルターニュ半島とサン島のあいだの海域、サン水道はヨーロッパで最も危険と言われているそうで、横たわる漁夫もその犠牲者なのでしょう。担架が置かれた台は赤い布に覆われ、祭壇のようにも見えます。血の色でもある赤は、犠牲を象徴しているのかもしれません。布や船の帆の赤と人々が纏う喪服の黒との鮮やかな対比、停泊する漁船の重なり合う帆と立ち並ぶ家並みの単純化された幾何学的な形は画面に力強さを与えています。漁夫の周りに集まった人々は天を仰いで嘆く者、手巾で涙を抑える者やそれに寄り添う者とそれぞれに悲しみを露わにしていますが、おそらくピエタを踏まえた構図なのだろうと思います。ある者は項垂れ、ある者は手を合わせ、目を見開いて覗き込む者もあれば涙を堪えるように顔を背ける者もいて、衝撃、悲嘆の身振りが画面をざわつかせる中、厳かな静寂を保つ漁夫はキリストのようです。聖書にはキリストが十二使徒のペテロに「あなたを人間をとる漁師にしよう」と呼びかけた言葉があるそうで、例えばピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《貧しき漁夫》(1887~1892年頃)でも祈りを捧げる漁夫がキリストのように描かれています。名もなき庶民の死を気高く描き、人間の尊厳を表現した作品だと思います。

第4章 ベネディットとロダンオーギュスト・ロダン《瞑想》(原型:1900年以後、鋳造:1922年、国立西洋美術館

…松方のパリにおける美術品購入を支援したレオンス・ベネディットはパリのリュクサンブール美術館の館長であり、ロダンから作品目録の作成を託されてロダン美術館の設立準備を進めるなど、フランスの美術界に影響力のある人物でした。松方がベネディットとのあいだでロダン作品の鋳造を契約したのは1918年で、すでにロダンは逝去しているのですが、この時代の彫刻作品は、材料費や人件費などの事情から、まず彫刻家が石膏で原型を作成して公開し、注文を受けてからブロンズなどで鋳造するという手順になっていたそうです。松方はベネディットに自らのコレクションのカタログ作成も依頼し、家族ぐるみで交流していました。関係者の懐にどんどん入っていく松方はエネルギッシュで実業家らしい気がしますし、それだけ美術品への情熱も強かったのだろうと思いました。
…《瞑想》は元々ロダンのライフワークとなった大作《地獄の門》の人物像の一つで、扉の上部に位置するティンパヌムの右端で劫罰を受ける女性像が独立したものです。独立した像となる過程で普遍的な瞑想というタイトルがついたそうですが、大きく身を捩って苦悶するようなポーズは静かな物思いからは遠く、同じように《地獄の門》から独立した《考える人》が、座して頬杖をつき沈思するポーズなのとは対照的です。《考える人》の「考え」が意識的、理性的な思考を表現しているのに対して、「瞑想」はもっと直感的、あるいは霊的な深い想念を指しているのでしょうか。腕で顔を覆っているため表情は分かりませんが、重荷に耐えかねているのか、あるいは内心の真実を直視することに抗っているようにも見えます。元は劫罰を受ける像だったものにあえて瞑想というタイトルを付けたのは、心をかき乱す世俗的な苦悩から離れることの難しさ、そうした苦悩の渦中にあってこそ瞑想が希求されるということを示唆しているのかもしれないと思いました。

第5章 パリ 1921~1922:ギュスターヴ・クールベ《海岸の竜巻(エトルタ)》(1870、横浜美術館)、フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの寝室》(1889、オルセー美術館

…1921年から22年にかけて再びヨーロッパに滞在した松方は、ベネディットや姪の黒木竹子夫妻らの協力も得て、数々のフランス近代絵画を購入しました。この時期に収集された作品はクールベ《波》やモネ《舟遊び》、ルノワールアルジェリア風のパリの女たち》など現在の西洋美術館をイメージする時にまず思い浮かぶ画家、作品が多く、松方の収集活動が順調で充実したものだったことが窺われます。
クールベ《海岸の竜巻(エトルタ)》は岸に打ち寄せて砕ける白波と、雨と波しぶきで霞む海上から垂れ込める暗い雲に向かって巻き起こる黒い竜巻の姿が描かれています。雲の端で白く光るのは稲光でしょうか。1869年夏にエトルタに滞在したクールベは、窓に額をくっつけて荒れ狂う嵐の空や海を観察したとも言われ、翌年にかけて《波》をはじめとする嵐の海を題材とする多数の作品を制作しました。自然の作りだす一瞬の形象に究極の完全さを見出したような《波》とは対照的に、激しい嵐のただ中の混沌とそのエネルギーを描いた迫真の風景だと思います。
ゴッホ《アルルの寝室》は3つのバージョンがあり、出品作はサン・レミの精神療養所に入院したあとゴッホが母親のために描いた最後のバージョンです。実際の寝室は矩形の部屋だそうですが、ゴッホは長方形に単純化し、魚眼レンズで覗いた光景のように部屋の奥行きを強調する構図で描いています。青い壁や扉と黄色いベッドや椅子とが対比され、壁に掛かるスモックや麦わら帽子がこの部屋の主を示唆しています。画家の部屋なのに画架やパレットが見当たらないなと思ったのですが、休息のためのプライベートな空間ですし、ゴッホの場合は積極的に戸外に出て制作に取り組んだということもあるのでしょう。ゴッホ静物画を描いても画家の人物が滲み出て自画像のように感じられる場合があるのですが、この作品も同様で、身の回りの品と絵があるだけの簡素な室内からは、制作に打ち込むゴッホの人柄の一端が感じられます。「ぼくはまさに他の芸術家たちがぼくのように簡素を欲する気持ちを持って欲しいと願っている……日本人はいつも非常に簡素な室内で暮らしてきたが、それでも偉大な芸術家があの国で生まれたではないか」*2東京都美術館ゴッホ展 めぐりゆく日本の夢」では三作ある《寝室》のうち、ゴッホ美術館所蔵のオリジナルの《寝室》(1888年)が出品されていたのですが、オリジナルがアルルに着いた直後のユートピアを夢見ていた時期の作品であるのに対して、今回の出品作は精神療養所に入院したあとのものなんですね。つまり、この作品はゴッホの人生でも希望に満ちた幸福な時期と傷つき夢破れた苦難の時期の双方で描かれていることになり、その意味で画家自身と共にあったと言えるかもしれません。両者を比べてみると壁に掛けられている絵や視点の角度などが変わっているのですが、一番の違いはオリジナルが青と黄に加えて赤と緑の補色の対比も効果的に用いられ、床板が赤みを帯びた茶褐色で、ベッドカバーの赤と共に床板の継ぎ目や窓枠の緑と対比されていることで活気や華やかさが感じられる点だと思います。一方、1889年に描かれたこの作品では床板の色が薄くなって赤の印象が後退し、全体としてオリジナルより淡く落ち着いた雰囲気になっています。見る側としてはこの間の変化を踏まえて客観性と冷静さ、情熱や葛藤が洗い流された寂しさと穏やかさを読み取りたくなるのですが、澄んだ静かな明るさに満ちた作品だと思います。

第6章 ハンセン・コレクションの獲得/第7章 北方への旅:エドゥアール・マネ《ブラン氏の肖像》(1879頃、国立西洋美術館)、エドヴァルド・ムンク《雪の中の労働者たち》(1910、国立西洋美術館)他

…1922年、松方はデンマークの実業家ウィルヘルム・ハンセンの近代フランス絵画コレクション34点を各国のコレクターと競合した末購入しますが、その後川崎造船所の破綻などもあり、作品の多くは売却されてしまいます。ブリヂストン美術館が所蔵するエドゥアール・マネの《自画像》もその一枚ですが、マネの自画像はたった2点しか残されていないそうですから未完成とは言え貴重な作品です。散逸してしまったことは残念ですが、松方コレクションがこうして国内各地の美術館に受け継がれているのは救いでもあるでしょう。この《自画像》とよく似たポーズを取っているのが、同時期に描かれた《ブラン氏の肖像》です。青い上着に白いズボンという爽やかな季節に合った装いのブラン氏は、生い茂る木立のあいだの小道を散歩中にふと立ち止まったようなさりげなさで、腰のポケットに手を入れて木漏れ日の中に佇んでいます。マネは梢や木漏れ日を印象派的な素早いタッチで描き、戸外の光や風を表現しつつ、人物はシンプルな輪郭線と平坦な色面によって形を保って描いていて、新たな表現を模索していたことが見て取れます。この作品はブラン氏のために描いた肖像画を元に、マネが大きなサイズで描き直したものだそうなので、きっと画家は肖像画の出来栄えを気に入っていたのでしょうね。軽やかで洒落た印象の作品だと思います。
…1921年の松方の渡欧は、海軍から最新のドイツ潜水艦の設計図を入手するよう依頼されたためで、パリにおける収集活動はカムフラージュだったとも言われているそうです。小説のような話の真偽は不明だそうですが、松方は実際ドイツや北欧も訪れて作品を購入しています。
エドヴァルド・ムンク《雪の中の労働者》はこの時期に購入された作品のうちの一枚で、雪の中、ツルハシやスコップを手にした労働者たちが作業に勤しんでいます。前景ではスコップを担いだ男性が白い地面をしっかりと踏みしめるように立ち、後ろの男性が突き出したスコップは見る者に迫るように大きく描かれていて、力強さが感じられます。ムンクというと生と死、愛と性を象徴的に描いた作品のイメージが強いので、現実の社会と向き合って過酷な労働を担う人々の逞しさを表現したこの作品には新鮮な印象を受けました。
…《眠れるニンフとふたりのファウヌス》は《死の島》で有名なアルノルト・ベックリンの作品です。ファウヌスはギリシャ神話のパーンに当たるローマの神で、多産のシンボルでありニンフに恋する逸話も多く、夢魔のイメージもあるそうです。しかし、この作品ではむしろファウヌスのほうが夢見心地になっているかのように座り込み、陶然とした表情でニンフに見惚れています。画家はただそこにあるだけで見る者を惑わせ、虜にする女性のミステリアスな魅力を表現したかったのかもしれません。
ピーテル・ブリューゲル(子)《鳥罠のある冬景色》もこの時期に入手した可能性がある作品で、父ピーテル・ブリューゲルのオリジナルに基づき、長男ピーテル・ブリューゲルが手掛けた模写です。東京都美術館の「ブリューゲル展」(2018年)でも別の模写作品を目にしましたが、《鳥罠のある冬景色》の派生作は127点、長男のピーテルはそのうち40点余りを手掛けている*3そうですから、人気の高さが窺われますね。もっとも、模写と言っても完全に同じではなく、東京都美術館で見た作品は空全体がうっすらと白っぽいのに対して、今回の出品作は空が青く晴れ、樹木や家の壁の色も鮮やかで、そうした違いを見比べるのも面白いです。今回の出品作はピーテル・ブリューゲル(子)による模写の中でも特に質が良いものの一枚だそうです。
…なお、松方が北ヨーロッパを旅する中で購入したタピスリー《神話の一場面》は、スペースなどの都合なのでしょうが、第1章の展示室で展示されていました。

第8章 第二次世界大戦と松方コレクション:ハイム・スーティン《ページ・ボーイ》(1925、パリ国立近代美術館・ポンピドゥーセンター)、ピエール=オーギュスト・ルノワールアルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》(1872年、国立西洋美術館

…1927年に起こった昭和金融恐慌の影響で川崎造船所は経営破綻し、松方は1928年に社長を辞任します。国内では差し押さえられた作品が売却される一方、ロンドンの倉庫に保管されていた作品は1939年に火災で焼失し、パリのロダン美術館の旧礼拝堂に預けられていた作品は1940年に松方の部下である日置によってパリの北のアボンダンに疎開しました。大戦末期にフランス政府に接収された松方コレクションは、戦後、返還交渉の末に20点がフランスに留め置かれることになりましたが、日本に返還された作品群はル・コルビュジエ設計による国立西洋美術館に収められ、日本人のための美術館設立を目指していた松方の念願も叶えられることになりました。
…真っ赤な服が目を引くハイム・スーティンの《ページ・ボーイ》は、上述の日仏間の交渉の結果、フランスに留められた作品の一つです。ページ・ボーイとはホテルや劇場などで客を案内したり、用を言い付かったりする給仕・ボーイのことですが、慇懃で如才なく立ち働く職業というイメージとは対照的に、ここでは腰に手を当てて肩を怒らせ、立ちはだかるように足を開いた姿で描かれています。赤い服と暗い色調の背景、威圧的ななポーズとしぼんだ顔の憂鬱そうな表情とが対比されていて、華やかな世界に身を置きつつ人に傅く尊大さと屈託、疎外感が感じられる作品だと思います。
…一方、ルノワールアルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》は、文化財保護委員の八代幸雄がフランス側と粘り強く交渉した末に、日本へ返還されたルノワール初期の代表作です。ルノワール自身はこの作品を単に「ハーレム」と呼んでいたそうなので、舞台設定はオリエント世界だったのだろうと思いますが、座の中心である金髪の女性はヨーロッパ女性なので、後になって「アルジェリア風のパリの女たち」という名称が付けられたのでしょうか。この作品を制作した当時のルノワールはまだ実際にはアルジェリアを訪れたことはなく、ドラクロワの作品や神話などを元にオリエンタルなイメージを膨らませて描いたものなのでしょう。画面中央、肌の透ける薄い衣装をまとった金髪の女性は身支度をしているところで、仄暗い室内に差し込む光が女性の白い肌を照らし出しています。初期の作品ということですが、生命力を感じさせる豊満な肢体にはルノワールらしさを感じます。画面左側に座って装身具と化粧道具を手にした女性があらぬ方を振り返り、画面右奥で幾何学的な装飾の長持ちに腰掛けた女性が窓のほうに身を乗り出しているのは、女性たちが寛いでいるところに突然ハーレムの主がやってきたのでしょうか。侍女たちが外の出来事に気を取られているのをよそに、金髪の女性はすかさず鏡を見て自分の姿を確かめていますが、白い腿を露わにさらけ出さした官能的な姿態と裏腹に、眼差しは真剣なものです。遠い異国、あるいは夢想の後宮で、艶やかな女性たちが織りなす一瞬の緊張感を表現したロマンチックな作品だと思います。

プロローグ/エピローグ:クロード・モネ《睡蓮》(1916年、国立西洋美術館)、《睡蓮、柳の反映》(1916年、国立西洋美術館

…両作品は晩年のモネが睡蓮の大装飾画を制作する過程で生み出されたものです。制作途中の大装飾画の構想が外部に漏れることを嫌ったモネはこうした関連作品を売りたがらなかったのですが、ベネディットの支援や影響力、モネと親しい交流のあった松方の姪黒木竹子夫妻の仲介もあって、松方はこれらの貴重な作品を入手することができたそうです。
…ほぼ正方形のカンヴァスに描かれている《睡蓮》は、水面に映り込んだ緑から岸辺の様子が窺われるだけで、画面は水を湛えた池に占められています。睡蓮の群生する池の青は水の色であり、同時に空の色でもあるのでしょう。水面の緑は岸辺に生える緑が映り込んだものとも、水中の水草とも考えられます。モネは日々自邸の庭を見つめていたと思いますが、描かれたこの睡蓮の庭は実際に見たままを写したというより、モネの無数の経験、記憶を通して昇華された光景のように感じられます。
…《睡蓮、柳の反映》は第二次大戦中、疎開していた時期に損傷したと見られていて、その後所在が分からなくなっていたものが2016年にフランスで見つかり、修復を経てこのたび公開されることになったそうです。作品は右上から左下にかけて約半分が失われてしまっているのですが、この残存部分を元に、損傷する前に作品を撮影した写真や他のモネの作品なども分析した上で推定された全体像が今回、デジタルで復元されて公開されていました。復元図を見ると、水面に映る曲がりくねった柳の幹と葉を取り巻くように睡蓮が描かれています。睡蓮の葉は青みがかっているんですね。時間帯や天候にもよるのでしょうし、水面に映り込んだ柳の緑を際立たせるためでもあるのでしょう。同時期、同主題の《睡蓮》においては図が睡蓮で、地は池であるのに対して、《柳の反映》では地と図が逆転しています。この作品が完全な姿で残っていれば、かなり大きな画面ですから見る者は水の中に引き込まれるような印象を受けるんでしょうね。空と陸と水の三つの世界が一つに重なり合っている、水鏡の中だからこそ可能な世界に、唯一実体を持っている睡蓮だけが溶け合うことなく表面を漂い、現実と映像の境界を示している、そんな作品のように思いました。

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《睡蓮、柳の反映》デジタル推定復元図

 

*1:カルロ・クリヴェッリ画集』トレヴィル、P88-90

*2:ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」(東京都美術館、2017年)P84

*3:ブリューゲル展」(2018年、東京都美術館)P194

みんなのミュシャ 感想

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アルフォンス・ミュシャ黄道十二宮


見どころ

…「みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ――線の魔術」はアルフォンス・ミュシャ(1860~1939)の没後80年を記念する展覧会です。人気の高いミュシャの展覧会は日本でもしばしば開催されていますが、今回の特色はミュシャの作品と共に、その影響を受けた1960年代以降の英米のレコード・ジャケットやアメリカン・コミックス、日本のマンガなどサブカルチャーの作品も合わせて展示されていることでしょう。ミュシャの作品はポスター・素描・パステルなど100点以上で、ミュシャ出世作となった《ジスモンダ》などサラ・ベルナール出演作のポスターや《黄道十二宮》、連作〈四芸術〉などパリ時代の主要な作品が多数出品されています。
…私もミュシャの作品が好きで、これまでにも何度か展覧会に足を運んでいるのですが、今回は改めてミュシャの作品を埋め尽くす緻密で華麗な装飾デザインの豊富さに驚きました。ミュシャは作品の制作に当たって、文様事典の最高峰と言われる『装飾の文法』をはじめとするデザイン資料集や百科事典の活用していたそうです。また、ミュシャは自身のアトリエに故郷モラヴィアの民芸品や日本・中国の美術品・工芸品などから成る蒐集品を飾っていたそうですから、そうした品々からも着想を得ていたことでしょう。一方で、ミュシャは日頃から身近な周囲の人や物にも関心を持ち、注意深く観察してスケッチしています。「子どもの頃の私は、周囲の物事をじっと観察しているのが好きだった……花、隣人の犬や馬……陶芸職人の絵付け、職人が近所の家の壁に描く装飾画など、目にとまる様々な物の形やしくみに魅了された。そして私はそれらを絵に描くだけでなく、記憶の中にも正確に留めておこうとしたものだった」*1ミュシャの作品を彩る華麗な装飾は好奇心と探究心、様々な時代や国の文物・様式のリサーチと日々の観察の積み重ね、そして新たな意匠を生み出す創造力に裏打ちされたものなんですね。また、自分の作品だけでなく、他の職人やデザイナー、学生たちが役立てることができるように、自ら多数の図案を制作して『装飾資料集』や『装飾人物集』を編纂したことも画業に劣らぬ功績ではないかと思います。
ミュシャがパリで活動していたのは、技術の発展によって大判のカラーリ、トグラフの制作が可能になり、広告板に張られたポスターやキオスクに並ぶ雑誌の表紙絵が街に溢れるようになった時代です。版画に向いた明確で流麗な線描を持ち味とするミュシャの作品が技術や社会の変化を絶妙のタイミングで捉えたと言えそうですが、ミュシャの描く線はただ対象をなぞるだけでなく、それ自体が生き物のように自律的であるところが特徴だと思います。例えば《アーメン:『主の祈り』の最終ページ》のケルト幾何学パターンで構成されているフレームや、『鏡によって無限に変化する装飾モティーフ』のいくつかのデザインなどは、その線が何を意味するのか分からなかったり、あるいはもはや何を形作っているわけでなくても流れ自体が美しく、抽象画に近いと言っても良いぐらいに感じられました。また、連作〈月と星〉の《北極星》では北極星を中心とする天体の日周運動の軌跡が光の円弧で描かれていたり、《明けの明星》では星の輝きが放射状に広がる線によって描かれたりしていますが、こうした一種の効果線のような時間の経過を伴う運動の表現方法が、現代の漫画の表現にも繋がっているのだろうと思いました。
ミュシャは作品の制作に当たって写真を活用していて、様々なポーズを取るモデルたちを撮影した写真の中には、人物のポーズを正確に写すためかグリッド線が書き込まれた写真もありました。また、バレエを踊る裸婦の連作写真もありましたが、バレエは躍動感があるだけでなく、観客の目を引く印象的なポーズや役柄の感情を伝える身振りなどが洗練された動きによってふんだんに盛り込まれていますよね。ミュシャの作品に描かれた人物のポーズはバラエティに富んでいて、伝えるべきメッセージが分かりやすい身振りで視覚化されているのですが、こうした多くの習作の蓄積があってこそ生み出された表現なのだろうと思いました。
…私が見に行ったのは初日の開場直後だったのですが、いつものようにエスカレーターから地下の美術館に入場するのではなく、階段に並ぶよう指示されました。待ち時間は5分程度で、それほど待たず中に入れました。昼前に会場を出た時は行列は解消していたので、いつものことではなく混雑時の対応なのだろうと思います。会場内は前半がミュシャの作品、後半がミュシャの作品とミュシャの影響を受けた現代の作家の作品とを合わせて展示しています。入ってすぐの展示室は初期の作品やミュシャのコレクションなど小さめの作品が多く混雑しやすいようですが、後半の展示室に行くと混雑は緩和されていました。「3 ミュシャ様式の「言語」」の展示室の一部は撮影可能です。

 概要

【会期】

…2019年7月13日~9月29日

【会場】

…Bunkamuraザ・ミュージアム

【構成】

1.序――ミュシャ様式へのインスピレーション
ミュシャの初期の作品
ミュシャの蒐集品

2.ミュシャの手法とコミュニケーションの美学
…挿絵画家としてのミュシャ
…雑誌の表紙・レイアウトなどのデザイン

3.ミュシャ様式の「言語」
サラ・ベルナール出演作をはじめとするポスター作品
…《黄道十二宮》や連作〈四つの宝石〉など寓意画の装飾パネル
…『装飾資料集』や『装飾人物集』などミュシャの編纂したデザイン図案集

4.よみがえるアール・ヌーヴォーカウンターカルチャー
…1960年代以降のミュシャリバイバルに伴う影響
…レコード・ジャケットやポスター、アメリカン・コミックなどに引用されたミュシャのデザイン

5.マンガの新たな流れと美の探求
…日本におけるミュシャの影響
…明治期の影響:雑誌『明星』の表紙など
…戦後の影響:水野英子をはじめとする少女漫画や天野喜孝出渕裕のイラストなど

www.ntv.co.jp

感想

『マカルト・アルバム』(1880~1882年頃)他

ミュシャは1879年の秋から2年間ウィーンの舞台美術の工房で見習い背景画家として働いていて、この時期にエッチングによるハンス・マカルトの画集『マカルト・アルバム』を購入し、マカルトのフォルムや寓意的な表現の手法などを学んだと見られているそうです。実は東京都美術館の『クリムト展』に出品されていたフランツ・マッチュの《女神(ミューズ)とチェスをするレオナルド・ダ・ヴィンチ》(1889年)を見た時にアール・ヌーヴォー、特にミュシャの作品を彷彿させるように感じたのですが、マカルトの影響を受けた両者ですから共通の雰囲気を感じるのも自然なことだったんですね。また、ミュシャのアトリエは故郷モラヴィアの民芸品や日本・中国の美術・工芸品、蔵書などの蒐集品で飾られ「美の殿堂」と呼ばれていたとのことですが、これもマカルトのアトリエが様々な国のアンティークなどから成る豪華でエキゾチックなインテリアで飾られていたことを意識しているのでしょう。マカルトのアトリエは「画家のプリンス」としての自己演出であると同時に、自身の感覚を具体的な形にして展示する「総合芸術」だったそうです。ミュシャにとってもアトリエは自身の好みや興味、価値観といった形なき感覚を現出する空間であると共に、そうした環境に身を置くことによって新たなインスピレーションを得る創造のための空間だったのではないかと思います。

《『イリュストラシオン』誌・表紙 1896-1897年クリスマス特別号》他

…アカデミーで学んでいたミュシャは、1889年にパトロンだったエドゥワルト・クーエン=ベラシ伯爵からの学費援助が突然打ち切られてしまったため、挿絵画家として身を立てることになります。当時の多くの画家たちは原画の芸術性が損なわれる挿絵を画家の片手間仕事と見なしていたのですが、ミュシャは挿絵の仕事を通して画家としての鍛錬を続けようと考え、制作に当たってコンセプトからスケッチ、習作というアカデミックな手法を導入し、その確かな技術と丁寧な仕事ぶりによって評価を得ていきます。困難な状況に置かれても、目の前のことに真摯に取り組む姿勢が新たな展望を切り開いてくれるんですね。
ミュシャと言うと優美な女性像をイメージするのですが、《カリカチュア》(1882年)という素描では性別、年齢を取り混ぜてバラエティに富んだ個性的な顔貌が描かれていて興味深かったです。『ドイツの歴史の諸場面とエピソード』や『スペインの歴史の諸場面とエピソード』などの挿絵として、重厚で劇的な歴史的場面を描いた経験は、のちにスラヴ叙事詩を制作する際にも役立ったかもしれません。1896年~1897年のクリスマス特別号の表紙として描かれた《『イリュストラシオン』誌・表紙》はアザミを手にした女性の遺体を天使が白い布で包んで埋葬する場面を描いたものです。王冠を被った天使が影になっているのは生身の存在ではなく、霊的な存在であることを表現しているのでしょう。アザミは受難の象徴で、キリストの誕生日であるクリスマスにも結びつくモチーフです。白い布は雪のイメージであり、女性の死は一年の終わりを示唆するものと考えられますが、優美な表現とは言え一般に販売される雑誌の表紙に「死」を描いていることに驚きを覚えました。ユニークなのが画面左端に描かれた三組の手で、手首の先には歯車やネジが繋がっていて機械仕掛けなのが分かります。キリスト教では手は霊的なエネルギーの伝導体を、モミの木は生命力を象徴するそうですが、機械の厳密さや正確さに自然のサイクルの規則正しさを、あるいは人間の意志や感情に左右されない超越性を重ね合わせたのかもしれません。手はモミの木で装飾された扉または表紙を開こうとしているようにも見えるので、新たな一年の始まり、すなわち女性の復活をもたらそうとしているのでしょう。

黄道十二宮》(1896年)

…シャンプノワ社のカレンダーのためにデザインされた《黄道十二宮》は、その後他社のカレンダーや宣伝ポスター、装飾パネルなど他の作品にも転用されたという人気作です。大きな宝石が幾つも付いた豪華な飾りを額に嵌めている女性の横顔の背後には十二星座のシンボルが描かれていますが、円環はこの場合黄道、すなわち地球から見た太陽の軌道であり、一年という時間の周期の象徴でもあるでしょう。女性の髪が描く曲線も回転をイメージさせます。太陽暦太陰暦と、暦と切り離せない太陽と月は、画面下段でそれぞれひまわり及びアザミと組み合わされたモチーフで描かれています。太陽、月、十二星座と揃っていますから、中心に位置する女性は地球ということでしょうか。宝石も地中から産出されるものですし、大地=地球を象徴していると考えることができるかもしれません。天上の星と地中の宝石に彩られた煌びやかな作品だと思います。

連作〈四芸術〉(1898~1899年)

…連作〈四芸術〉は、女性と背後の装飾的な円環による「Q型方式」の構図が典型的に用いられている作品です。「Q型方式」とは擬人化された主題の女性が座る円環の「O」と、女性のドレスの裾が組み合わされてアルファベットの「Q」の形を成す構図のことで、ミュシャ様式のうちでも最も特徴的なものなのだそうです。この様式は装飾効果を高めるとともに、見る者の目を主題のメッセージに巧みに誘導する手段として考案され、1896年以降繰り返し用いられるようになりました。〈四芸術〉について、ミュシャは「芸術への霊感は自然から得られる」*2と考えて、芸術の各分野と自然のモチーフとを組み合わせることでイメージを豊かに広げています。《絵画》は円環の中の虹が中心にある花に視線を誘導していますが、同時に花から発せられたみずみずしい生気がハローのように外部へ広がっているようにも感じられます。女性が手に持つ赤い花は、背景に描かれたモチーフから推測するとひなげしでしょうか。《詩》は瞑想や思索を象徴する頬杖をつくポーズで、夕暮れの空に輝く星を見つめています。あるいは、輝く星は詩人のインスピレーションの一瞬の閃きそのものを象徴しているのかもしれません。古代ギリシャでは詩の競技の勝者に詩神アポロンに由来する月桂冠が贈られたと言いますが、この作品の円環の内側でも月桂樹が弧を描き、ちょうど冠のように女性の頭部を横切っています。《舞踏》は女性がドレスの裾を翻らせて、軽やかに舞い踊っている姿で表現されています。ミュシャは人物の動きに関心を持っていたそうで、舞踏する女性像はバレエを踊る裸婦の連作写真や、パステルで描かれた風の中を歩く女性とも通じるものがあるように思います。可視化された風とも言える舞踏ですが、旋回する女性は花びらを散らすつむじ風と一体化し、女性の舞踏が風を巻き起こしているようにも感じられる作品だと思います。

《メディア》(1898年)

…沈みゆく黒い太陽を背に、青ざめた顔で立ち尽くす黒いドレスのメディア。その手には血の付いた短剣が握られ、足元には不自然にねじ曲がった子供の亡骸が横たわっています。サラ・ベルナールが演じた他の演目のポスターの場合、設定やストーリーを踏まえつつも、キャラクターの人格を一定の普遍性をもって表現したある種の肖像画として描かれているように感じるのですが、《メディア》のポスターは劇中の具体的な一場面が描かれているという点で異色の作品です。一見しただけで状況の禍々しさが伝わってくる作品ですが、血腥いクライマックスの一瞬の表情を描いていることによって臨場感があり、人の眼を引きつけて強い印象を残すインパクトもあります。あえてショッキングな場面を選ぶ大胆さに驚く反面、現代で言うなら「ネタバレ」になるかもしれないとも思いましたが、メディアはギリシャ神話に登場する女性ですし、西欧の人にとってストーリー自体は既知のものなんでしょうね。メディアが頭部に戴いている棘のある冠は血を分けた我が子を殺害するという行為の恐ろしさを視覚的に表現しているのか、または大きく見開かれた焦点の合わない瞳と共に、本人の意志を超えた何かに取り憑かれ、突き動かされての行為であることを示唆しているのか、いずれにせよ、人間性の喪失を象徴しているように感じられます。人物の心情を一目で分かりやすく伝える誇張された表情は、後の漫画にも繋がる表現と言えるでしょう。

モナコモンテカルロ》(1897年)

…《モナコモンテカルロ》は、パリとコート・ダジュールを結ぶ鉄道の利用促進を図る鉄道会社PLM(パリ・リヨン・地中海鉄道会社)のために制作されました。装飾的な三つの花の円環は車輪を、画面左下から右上にかけて伸びる蔓の曲線はレールを象徴し、円環の上部で翼を広げて飛び立つ準備をしている小鳥たちは女性の浮き立つ気持ちを表現しているそうです。女性の背後に描かれた大きな円環にはライラックが、右隣はナデシコ、左下はスミレが用いられているのですが、いずれもヨーロッパでは春に咲く身近な花ですから、描かれた女性の素朴さや可憐さを感じさせて見る者に親しみや共感を抱かせると共に、これから夏を迎えるに当たりバカンスをどう過ごすか思案しているところであることを演出しているのでしょう。口元に両手を当てて天を見上げる女性のポーズは、憧れの感情を端的にイメージさせる身振りです。女性の背景にはごく自然に、しかし本来ここにはない女性の想像のなかのモナコが描かれています。虚構の景色が現実に挿入されて、異なる次元が併存しているところが漫画的ですね。さりげなさと分かりやすさを取り混ぜ、商業的な目的を効果的に伝えると共に美的でもある作品だと思います。

カウンターカルチャー、マンガへの影響

…第二次大戦後、冷戦下の西側諸国でミュシャの作品は忘れられていたそうですが、1963年にイギリスで二つのミュシャ回顧展が開催されたことをきっかけに再評価され、特に既存の体制や文化に対峙するサブカルチャーの世界でミュシャの流麗な曲線や装飾的なモチーフにインスパイアされた作品が次々と生み出されていきました。今回の展覧会の出品作を見ると、ミュシャへのオマージュとしてサラ・ベルナールのポスター《椿姫》を翻案したデヴィッド・エドワード・バード《ニューヨーク、トリトン・ギャラリーでの個展――ダンディーとしてのセルフポートレート》、クレイグ・ブラウン「ジプシー」のジャケット・デザイン(《黄道十二宮》の引用)やスタンレー・マウス&オールトン・ケリー《ジム・クウェスキン・ジャグ・バンド コンサート》のポスター(《JOB》の引用)などミュシャの作品がほぼそのまま用いられているケース、さらに何となくミュシャっぽいというものまで、様々な形でミュシャの様式が取り入れられていることが分かります。個人的に印象に残ったのはマライケ・コウガーの《ラヴ・ライフ》、《ブック・ア・トリップ》で、タイトルを除いてモノクロなため、ミュシャ様式の特徴や魅力の源泉が線にあることをよりはっきり感じることができました。
…日本では明治時代の一時期に文芸誌の表紙がミュシャ風に染まったあと、やはり忘却されてしまうのですが、意匠化された少女漫画の星や花、流れる髪の表現などの形で受け継がれ、1960年代末に北米の音楽シーンを経由して再認識されます。流麗な線描と平坦な色彩は漫画と相性が良いでしょうし、洗練された優美な女性像によってイメージを喚起するミュシャの手法がとりわけ少女漫画に親和的なのは間違いないと思います。一方、『ニュー・アベンジャーズ』や『ノヴァ』などマーベル・コミックスの表紙や天野喜孝のいくつかのイラストなどは、ミュシャの様式を男性像に応用している点で興味深く、ミュシャの考案した構図の象徴性や視覚的な効果が普遍的なものであることを感じました。今回の展覧会で展示されている以外にも、しばしばミュシャの作品のモチーフや様式を引用したものを目にするのですが、それだけミュシャの作品に国や時代を超えた魅力があるのでしょうし、広がりの大きさを感じます。様々な時代や地域の膨大な意匠や身近な自然の注意深い観察を基に華麗な装飾美に満ちた世界を生み出したミュシャですが、その作品は現代の作家たちの新たなインスピレーションの源泉になっているのだと思いました。

*1:図録P41

*2:ミュシャ展」(国立新美術館、2017年)図録P140

ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道 感想

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見どころ

…「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」展はウィーン分離派の活動を中心に、18世紀後半から20世紀初めのウィーンの芸術について当時の時代背景を踏まえつつ、絵画に加えて建築や調度品、服飾など総合的に紹介するものです。今回はウィーン・ミュージアムの建物の増改築に伴いコレクションの来日が実現したもので、出品数が非常に多く、一度で全てをしっかり見るのは難しいのではないかと思います。何度か足を運ぶことができれば良いのですが、そうでない場合は見たいものをある程度絞っておいた方が良いかもしれません。
…展覧会の冒頭に展示されているマリア・テレジアやヨーゼフ2世ら啓蒙君主の肖像画と、クリムト肖像画やシーレの自画像などを比べると、18世紀後半から20世紀初めまでのおよそ150年のあいだにいかに大きな変化が起きたか実感できます。こうした表現の変化は、絶対君主が統治していた時代から、科学・技術・産業が発展して市民階級が台頭し、日本を含む非西欧圏の文化が流入して関心を集めるなど、社会構造の変化や人々の価値観、世界観の変化が形となったものなのでしょう。特に従来の自然主義的な表現から離れて装飾的な作品を生み出したウィーン分離派による変化は決定的であり、不可逆的だったように思います。そうした変化は突然生じたものではなく、ビーダーマイアー時代など先行する時代、芸術家たちを通じて徐々に準備されていったことも理解することが出来ました。
…今回の展覧会では家具や食器など工芸品も多数出品されていたのですが、いずれの品々も機能性を備えつつ洗練されたデザインで目を引きました。現代でも、もし店頭で販売していたら普通に購入したくなりそうですし、日々の生活の中で実際に使うことが出来そうで(むしろ勿体ないぐらいですが)、19世紀が今の私たちと直接繋がっている時代であることを実感させられました。
…また、この展覧会は音楽の都ウィーンが舞台ということで、モーツァルトシューベルトヨハン・シュトラウスシェーンベルクなど、名だたる音楽家たちが展覧会の各章で登場するのも特徴だと思います。特にシェーンベルクが手掛けた絵画作品は初めて見ることが出来ました。音声ガイドでマーラーの5番を聴きながらクリムトの作品を鑑賞できたのも個人的には嬉しかったですね。美術だけでなく、音楽の好きな人にとっても楽しめる展覧会ではないかと思います。
…私が見に行ったのは6月の土曜日午前中でしたが、雨天のためか混雑はありませんでした。会場内の照明がやや暗く、写真や図面、版画など細部を見たい展示品もあったので、落ち着いて鑑賞することが出来たのは良かったです。クリムトの《エミーリエ・フレーゲの肖像》は撮影可能です。

概要

【会期】

…2019年4月24日~8月5日

【会場】

国立新美術館

【構成】

1 啓蒙主義時代のウィーン――近代社会への序章
 1-1 啓蒙主義時代のウィーン
 1-2 フリーメイソンの影響
 1-3 皇帝ヨーゼフ2世の改革

2 ビーダーマイアー時代のウィーン――ウィーン世紀末芸術のモデル
 2-1 ビーダーマイアー時代のウィーン
 2-2 シューベルトの時代の都市生活
 2-3 ビーダーマイアー時代の絵画
 2-4 フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー――自然を描く
 2-5 ルドルフ・フォン・アルト――ウィーンの都市景観画家

3 リンク通りとウィーン――新たな芸術パトロンの登場
 3-1 リンク通りとウィーン
 3-2 「画家のプリンス」ハンス・マカルト
 3-3 ウィーン万国博覧会(1873年)
 3-4 「ワルツの王」ヨハン・シュトラウス

4 1900年――世紀末のウィーン――近代都市ウィーンの誕生
 4-1 1900年――世紀末のウィーン
 4-2 オットー・ヴァーグナー――近代建築の先駆者
 4-3-1 グスタフ・クリムトの初期作品――寓意画
 4-3-2 ウィーン分離派の創設
 4-3-3 素描家グスタフ・クリムト
 4-3-4 ウィーン分離派の画家たち
 4-3-5 ウィーン分離派のグラフィック
 4-4 エミーリエ・フレーゲグスタフ・クリムト
 4-5-1 ウィーン工房の応用芸術
 4-5-2 ウィーン工房のグラフィック
 4-6-1 エゴン・シーレ――ユーゲントシュティールの先へ
 4-6-2 表現主義――新世代のスタイル
 4-6-3 芸術批評と革新
東京都美術館の「クリムト展」がクリムトの画業に焦点を絞っているのに対して、「ウィーン・モダン」ではクリムトをはじめとする19世紀末の分離派の活動の全体像について、歴史的文脈の中で捉えて展示されていました。構成は1~3章が導入部で、ウィーン分離派及び表現主義に関する第4章が中心ですが、1~3章だけでもかなりの情報量でした。クリムトの作品は《パラス・アテナ》(4-3-2)、《エミーリエ・フレーゲの肖像》(4-4)他、初期の寓意画やポスター等の版画、素描などが出品されています。素描(4-3-3)には《ベートーヴェン・フリーズ》のための習作《ゴルゴンたち》や、《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》の構想の元となった雑誌『ヴェル・サクルム』挿画用のペン画などもあり、東京都美術館の展覧会と合わせて見るとより興味深いのではないかと思います。また、裸婦を描いた官能的な作品もありましたが、特にスペースが仕切られたりはしていませんでした。その他、オットー・ヴァーグナの建築に(4-2)もかなりのスペースが割かれていて、図面や模型などが展示されています。ウィーン工房の応用芸術(4-5-1)ではヨーゼフ・ホフマンやコロマン・モーザーのデザインした調度品などがメインでした。エゴン・シーレ(4-6-1)の作品は《自画像》、《ひまわり》などが出品されています。

artexhibition.jp

感想

1 啓蒙主義時代のウィーン――近代社会への序章

…第1章ではヨーゼフ2世の啓蒙主義的政策、特に総合病院の設立や皇帝の狩猟地だったプラーターの一般開放などウィーンの都市空間にもたらした変化と共に、フリーメイソンの影響が取り上げられていました。存在自体が秘匿されているわけではないものの、フリーメイソンの活動は不明なことも多く、歴史の表側で正面から語られることはないと思っていたので、正直意表を突かれました。モーツァルトのオペラ『魔笛』がフリーメイソンの象徴などを取り入れているという説は聞いたことがあったのですが、フリーメイソンのロッジ(フリーメイソンを構成する各団体のこと)における入会儀式の様子を描いた《ウィーンのフリーメイソンのロッジ》(1785年頃)には『魔笛』の台本を書いたエマヌエル・シカネーダーと並んでモーツァルトの姿も描かれています。フリーメイソンが掲げていた自由、平等、友愛、寛容、慈愛という理念のうちの幾つかはフランス革命のスローガンを思い出させますね。フリーメイソンのロッジに属していた作家ヨーゼフ・フォン・ゾンネンフェルスは、マリア・テレジアやヨーゼフ2世に対して啓蒙主義的な改革の提案を行っていたそうですし、フリーメイソンの理念はそれを支持、賛同する文化人などを通じて政治的にも影響を及ぼしていたのでしょう。

2 ビーダーマイアー時代のウィーン――ウィーン世紀末芸術のモデル

…ビーダーマイアーとは元々1855年頃ミュンヘンの文芸紙に連載された風刺的な詩の架空の作者名だったもので、その後、ウィーン会議以降ウィーン三月革命までの1814/15年~1848年までをビーダーマイアー時代と呼ぶようになったそうです。この時代はフランス革命の勃発からヨーロッパ全体が巻き込まれたナポレオン戦争にいたるまでの激動の時代に対する保守反動の時代で、体制の安定を図るため検閲が徹底されて人々も内向きになりましたが、その分私的な時間・空間を充実させることに関心が注がれました。同時に、余暇を楽しんだり、瀟洒な調度品を購入したりすることのできる富裕な市民層が台頭し始めた時代とも言えるのでしょう。出品されているビーダーマイアー様式の家具や食器などはシンプルで実用性も考慮しつつ、現代のインテリアとして使われていても違和感がなさそうな洗練されたデザインで、現代にも通じる美意識がこの時代に萌芽したことを実感しました。
シューベルトは経済的に苦労して病気で亡くなったというイメージが強かったため、シャンデリアの下、着飾ったブルジョワの紳士淑女に囲まれて自作の曲を披露している《ウィーンの邸宅で開かれたシューベルトの夜会(シューベルティアーデ)》の姿を見て新鮮さを感じました。クラシック音楽と言うと固く考えがちなのですが、『野ばら』のような親しみやすい曲やドラマチックな『魔王』など、今も歌唱される様々な歌曲を世に送り出して人気を博した流行作曲家としての面もあるのでしょうね。また、シューベルティアーデは単なるシューベルトの友人たちのサークルというだけでなく、ビーダーマイアー時代の社会や生活を象徴する集いであって、市民たちは趣味を共有する仲間同士で交流し、郊外へのレジャーを楽しんでいたことも知ることが出来ました。
…この時代の絵画作品ではフリードリヒ・フォン・アメリングの《3つの最も嬉しいもの》(1838年)が印象に残りました。3つの最も嬉しいものとは酒、女性、音楽のことで、男性にとって嬉しいものを指すわけですが、この作品はむしろ女性の心理に焦点が当てられているように感じられます。グラスを手にした赤ら顔の男性が、リュートとおぼしき楽器を手にした黒髪の女性の肩を抱いて耳元で囁いていますが、酩酊して他のものが目に入らない様子の男性に対して、言い寄られている女性はどこか醒めた表情です。女性の右手は男性の手に重ねられているようにも、逆に押しのけようとしているようにも見えますね。意思を感じさせる女性の目は鑑賞者の側に向けられていて、どちらを選ぶのか問いかけられているようにも感じられました。また、フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラーの光溢れる克明で写実的な風景描写も印象的でした。

3 リンク通りとウィーン――新たな芸術パトロンの登場

三月革命後に即位したフランツ・ヨーゼフ1世のもとでウィーンは首都として街並みが一新され、人口も飛躍的に増大するなど大きく発展しました。特に1857年に都市を囲んでいた市壁が取り壊されたあと新たに開通したリンク通りとその沿道は、国会議事堂や市庁舎、ウィーン大学、ブルク劇場などが次々と建設されると共に、皇帝夫妻の銀婚式のパレードの舞台となり、近代的な都市に変貌した首都ウィーンを新たに象徴する場所となったと言えそうです。ナポレオン3世の治世下でオスマンによるパリの近代化が推進されたように、ウィーンでもフランツ・ヨーゼフ1世によって膨張する首都の整備が進められたんですね。こうした動きは産業革命が進行するヨーロッパ各国に共通するものだったのでしょう。
…若きクリムトがウィーンの工芸美術学校で学んでいた頃、ウィーンの美術界の第一人者だったのが「画家のプリンス」ハンス・マカルトで、マカルトは1879年4月に開催された皇帝夫妻の銀婚式の祝賀パレードの芸術総監督も務めました。会場でマカルトが祝賀パレードのためにデザインした連作スケッチを見ながら、バロック時代のルーベンスやベラスケス、あるいはルネサンス時代のレオナルド・ダ・ヴィンチなどが各々の主君のために舞台や儀式、祝祭の装飾や演出を手掛けていたことを思い出しました。絵画や彫刻といった枠組みにとどまらない総合的なイベントを指揮するには卓越した手腕が求められますし、やり甲斐もあると思うのですが、そうした芸術家の伝統的な役割と言えそうなものが19世紀にも引き継がれているんですね。一方で、この祝賀パレードは参加者1万4000人、沿道の観客30万人という壮大な規模のもので、王侯貴族だけでなく多数の市民も演者、観客として参加し、共有する祝祭空間であることが近代的と言えるかもしれません。現代で例えるならオリンピックの開会式のようなものでしょうか。今日まで語り継がれているというのも、その共有された経験が共同体の記憶として継承されている証拠なのだろうと思います。
肖像画家として活躍したマカルトですが、《メッサリナの役に扮する女優シャーロット・ヴォルター》(1875年)も一種の肖像画と言えるでしょうか。メッサリナは古代ローマの皇帝クラウディウスの妃でしたが、夫以外の男性と情事を重ね、ついには夫であるクラウディウス帝の暗殺を諮ったため殺されたそうです。背景に描かれた夜の街並みは古代のローマ=舞台のセットという設定なのだと思いますが、繁栄する世紀末のウィーンの暗喩のようにも感じられます。あえて悪女に扮した姿が選ばれたところに、ファム・ファタルという主題の流行ぶりが窺われるのですが、男性にも社会の常識にも束縛されない悪女の波乱に富んだ運命は女性にとっても魅力的だったのかもしれないと思ったりもしました。滑らかに仕上げられたシャーロット・ヴォルターに比べると、その後に制作された《ドーラ・フルニエ=ガビロン》(1879-80年頃)や《ハンナ・クリンコッシュ》(1884年以前)は技法が変化していて、素早いタッチで生き生きと描かれています。第1回印象派展の開催が1874年ですから、こうした変化は他国の美術の動向などとも連動しているのでしょう。ドーラ・フルニエ=ガビロンは椅子に腰掛けているようなのですが、赤と茶褐色に塗り分けられた背景は大胆かつ曖昧にぼかされていて、モデルの人となりを説明的に語るよりも構成や色彩を重視した装飾的な作品になっています。保守的なウィーン造形芸術家組合から脱退した芸術家たちによって設立されたオーストリア造形芸術家協会=ウィーン分離派ですが、彼らの目指す新しい芸術は先行する世代によって模索され、少しずつ準備されてきたことも実感することが出来ました。

4 1900年――世紀末のウィーン――近代都市ウィーンの誕生

…新たに整備されたリンク通りの沿道に建設された建築物はゴシックやルネサンスバロックなどかつての様式からインスピレーションを得ていたのですが、そうした歴史主義を脱して独自の様式を生み出したのがオットー・ヴァーグナーでした。ヴァーグナーの手がけた「郵便貯金局」は鉄とガラスという素材によって従来の建物にはない明るさを確保し、シンプルで機能的でありながら装飾性も兼ね備えていて、装飾を排したモダニスムの純粋さとはまた違う豊かさが感じられると思いました。
クリムトの作品は初期の寓意画や素描なども比較的多く展示されていました。ゲルラハ&シェンク社が出版した近代的な寓意画のための図案集『アレゴリーとエンブレム』掲載作品の原画である、《自然の王国》(1882年)の男性像はミケランジェロによるシスティナ礼拝堂の天井画を思わせますが、クリムトも初期は古典に倣って技術を磨きながら自分の表現を深めていったことが窺われます。一方で《愛》(1895年)の背景に浮かび上がる亡霊のようないくつもの顔は《鬼火》(1903年)に描かれた妖しく神秘的な女性たちの同類のようでもあり、「老い」や「死」など人生、運命を連想させるという点で《女の三世代》(1905年)に通じる部分もありそうで、クリムトの関心が初期から一貫していることも感じられました。
…エミーリエ・フレーゲクリムトの弟エルンストの妻ヘレーネの妹で、クリムトにとって最も親密な女性です。《エミーリエ・フレーゲの肖像》では左手を腰に当てて横向きに立つエミーリエが、顔だけこちらを振り向いた姿が描かれています。落款のようなクリムトのサインは日本美術の影響でしょうか。エミーリエは姉妹たちとファッション・サロン「フレーゲ姉妹」を経営し、改良服(リフォーム・ドレス)の制作・販売も取り扱っていたので、この肖像画で着ているドレスも改良服かと思ったのですが、図録の解説によると違うようです。確かにゆったりとしたラインが特徴の改良服と違って細身ですよね。縦に細長い画面も日本美術の影響が感じられますし、クリムトは生地を身体に巻き付ける和服のシルエットを意識したのかもしれません。ボリュームのある黒髪の周りに描かれた傘か帽子のような部分はよく見ると緑色の細い曲線によってエミーリエの左肩付近に繋がっていて、単なる背景の一部ではなさそうです。色彩もドレスと同じ青と緑を基調としていて関連性が感じられますし、エミーリエ自身から滲みでているもの、聖人の肖像の光背のようなもので、エミーリエの才気や生命力を象徴しているのかもしれません。ところで、女性の肖像画というと胸に手を当てたり、大きく膨らんだドレスに手を添えたりと慎ましい物腰で描かれる場合が多くて、腰に手を当てるポーズはあまり目にすることがないように思います。男性の肖像画であれば珍しくないポーズのためか、実はこの作品を見た時、エミーリエの自我を感じさせる表情と相まって男性的と言ってもいい毅然とした印象を受けました。ただ、エミーリエ本人は不本意だったのかこの作品を売却しているそうなので、画家の思いとモデルのすれ違いもあったのかもしれません。クリムトは性愛の象徴として数多くの艶めかしい女性たちを描いていますが、身内でもあり前衛的な芸術にも理解のあったエミーリエについては、本能ではなく知性と意志を以て行動する自立した一人の人間として表現したかったのではないかと思います。
クリムト以外の分離派の作品では、マクシミリアン・クルツヴァイル《黄色いドレスの女性(画家の妻)》(1899年)が印象に残りました。大きく広がった黄色いイヴニングドレスの裾が蝶の羽根のようで、女性の腰掛ける緑のソファとの対比が鮮やかです。両腕を水平に伸ばしたポーズはキリストの磔刑を連想させますが、僅かに首を傾げた女性は冷ややかで挑発的な表情を浮かべています。細くくびれたウェストはコルセットによるものでしょうか。こうしたファッションに対して、身体を解放して自然に還る、自由で動きやすい「改良服」が提案されたんですよね。コロマン・モーザーのデザインした「改良服」(1905年頃)は生地にプリントされた朝顔のモチーフに日本美術の影響が窺われます。裾が長く袖も広がっていて活動するには不向きにも思いますが、ゆったりと寛ぐことができそうなドレスだと思いました。
…装飾的、耽美で退廃的な世紀末芸術を堪能したあとで見るエゴン・シーレの作品は鮮烈なインパクトがありました。クリムトの作品も人間の苦悩が描かれているのですが、あくまで華麗な装飾と多義的な象徴、甘美な官能のヴェール越しのものであるのに対して、シーレの作品からは剥き出しの精神の鋭敏さが感じられます。鋭くも屈折したシーレの線描からは抑えられ、歪められた激情が迸る出口を求めて、身を捩り、痙攣するような印象を受けました。