展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

シャガール 三次元の世界

会場
東京ステーションギャラリー
会期
…2017年9月16日~12月3日

www.ejrcf.or.jp


感想

概要

…この展覧会はこれまで日本でほとんど紹介されてこなかったシャガールの立体作品に光を当てたもので、油彩・水彩70点に対して、彫刻・陶器60点が出品されています。私はシャガールが彫刻を作っていたことは初めて知りましたし、立体作品と合わせて下絵や同じ主題の平面作品を見比べるという企画も興味深く感じました。出品リストを見ると個人蔵の作品が多いので、普段はなかなか目にすることのない作品を見ることができる貴重な機会ではないでしょうか。今回、新たなシャガールの世界に触れることが出来て良かったです。展示構成は以下の通りです。
 ・絵画から彫刻へ――《誕生日》をめぐって
 ・空間への意識――アヴァンギャルドの影響
 ・穿たれた形――陶器における探究
 ・平面と立体の境界――聖なる主題
 ・平面と立体の境界――素材とヴォリューム
 ・立体への志向――動物モチーフ
 ・立体への志向――肖像、二重肖像
 ・立体への志向――重なりあうかたち
 ・立体への志向――垂直性

リアリスト

…私はシャガールと聞くと、重力を感じさせない幻想的で色鮮やかな作品をイメージするのですが、シャガール自身は「リアリスト」を自称していたということがまず意外でした。しかし、これは私に、リアルである=視覚に忠実で写実的な表現という思い込みがあるためでしょう。キュビスムは三次元の世界を平面上に構築するに当たり、一つの視点からは見えないはずの面をあえて描くことで、新たなリアルの表現を切り拓きました。シャガールもまたキュビスムの手法を取り入れていますが、モチーフを時間や記憶によって再構成している「四次元のキュビスム」に独自性があります。確かに今ここにいる私の背後には、そこに至る経験や記憶の積み重ねがあり、それらを通して世界と関わっています。そして作品のなかに時間があるということは、物語があり、感情の動きがあるということでもあります。記憶や感情は目に見えませんが、その人を形作る欠かせない要素であり、モノの集合にそうした要素を組み込むことで、世界に命が宿る、存在の本質の正確な把握が可能になると考えることもできるでしょう。目に見えるものを目に見えないあり方で描いたシャガールは、むしろリアルについて鋭い感性を持っていたのだと思います。

人の目をした動物たち

シャガールの作品には、しばしばシャガールが故郷で慣れ親しんだ動物たちが登場しますが、ちょっと怖いように感じるのは私だけでしょうか。今回、改めてよく見てみたら、動物たちの目が人間の目をしていることに気がつきました。例えば「逃避/村の上の雄鶏と雄山羊」に描かれた鶏の目は白目があって紡錘形をしていますが、本来の鶏の目は黒目の周りが黄色くて丸い形をしています。「ラ・バスティーユ」には牝牛が描かれていますが、牛の場合はほとんど黒目で、通常は白目はあまり見えません。怖いなと感じたのは、動物たちが人間の目をしていることによって、人間のような意思を持ち、何もかも見通しているかのような眼差しに感じられるためでしょう。シャガールの郷里で信奉されていたハシディズムでは罪人が動物に生まれ変わると信じられていて、動物が大切にされていたそうなので、そういったことも関係しているかもしれません。一方で、「緑の目」という作品に描かれた神の目にも通じるものがあるように思われます。シャガールの動物たちには郷里への愛着だけでなく、動物であって動物ではない存在の神聖さが感じられると思います。

二重肖像

…「彫刻された壺」という作品は女性の横顔が描かれた壺の頸が大きく張り出しているユニークな形をしているのですが、何気なく陶器の背後に回ったとき、抱き合う恋人たちが描かれていてはっとしました。シャガールはたびたび抱き合う恋人たちの姿を描き、また彫刻していますが、片時も離れず寄り添う姿には優しさ、安らぎ、一体感が感じられます。郷里の風景のなか、人々や動物たちに祝福されているかのような「村の恋人たち」も、画面一杯に大きく描かれた花の片隅で恋人たちがひっそり寄り添う「アトリエの窓」も、穏やかな幸福感に満ちていますね。中には恋人たちの距離がさらに縮まり、一体化している作品もあります。「たそがれ」はキャンバスに向かうシャガールにベラと思われる女性の横顔が重なっています。シャガールの身体が宙に浮き上がり、目を見開いたベラにキスする「誕生日」のちょうど逆ですが、「誕生日」では描かれていた身体が消えることで、肉体の重み、その中にもどかしく閉じ込められていた魂が自由に解き放たれているような印象を抱きます。「黒い手袋」ではベラとシャガール、さらに赤い雄鶏が一体となっています。一枚の作品のなかにありったけ詰め込まれたモチーフ、その中心を占めるベラは亡くなってもなおシャガールと一体であり、魂の核であり続けたのでしょう。微笑み合って口づける二人の顔と抱き合う手のみが残った「二つの頭部と手」は、そんな二人の魂の結びつきを表現しているように感じられます。見えないものを形にする、愛や幸福を繰り返し目で見て確かめ、石に刻んでその手触りを感じることで、ベラはシャガールの記憶の中で生きているだけでなく、何度でも生まれてくるのだろうと思いました。

立体作品

シャガールが陶器や彫刻を制作するようになったのは第二次大戦後、60歳を超えてからです。その理由については、移住先の南仏の自然や陶芸の伝統、産出される石材など環境に触発されたのではないか、あるいは、戦争中に愛妻ベラが亡くなり、故郷のヴィテブスクが破壊されたことなど喪失体験があったため新たな表現形式を必要としていたのではないかといった事情が推測されています。また、シャガールの立体作品はロマネスク彫刻との類似点があったり、ゴーギャンやロシアの芸術家ミハイル・ヴルーベリの影響があるのではないかと考えられていたりするようです。ただ、立体作品に取り組むに至った特定のきっかけや明確な道筋はあまりはっきりとしていないようです。なかなか、人の心の内を知るというのは難しいことですが、シャガールが晩年になってもなお新しい分野に挑戦する旺盛な意欲と好奇心、柔軟さを持ち続けていたと言うことはできるでしょうし、辛い経験を乗り越えるにも芸術活動が支えになったのだろうと思います。シャガールは同時代の芸術の動向を知っていたでしょうが、あくまで自分のタイミングで、自分の表現したい世界を形にするために取り組んだのではないでしょうか。
シャガールの絵画作品は鮮やかな色使いが魅力の一つだと思いますが、彫刻は無彩色で、その分素材による色や質感の違いが感じられました。石の粒子が粗く赤っぽい色をしたロニュの石は化石が混じっていることもあるそうで、思わず探してしまいました。また、作品の多くは比較的小型で、レリーフのような平面的な作品と、柱状の石材の一つの面あるいは複数の面を彫刻している作品、「空想の動物」のような鋳造したブロンズ像の概ね三通りがあります。シャガールの彫刻の師は近所に住む大理石工ランフランコ・リザレッリで、三十二年に渡りシャガールと共同で彫刻の制作に当たったそうです。
シャガールの彫刻作品は元の石の形が残っていて、像が石の中から顔を出している途中のような印象を受けました。「素材の前で、従順でなければならない」と語っているシャガールですから、初めからそのような形であったかのように、素材のあるがままに馴染む作品を目指していたのでしょう。また、シャガールの彫刻にはしばしば背景があることも特徴の一つです。たとえば「地上の楽園」では前景にロバ、中景に鳥が止まる樹木、後景にはアダムとイヴの姿があり、豊かに実った果実で隙間が埋められていますし、「聖書の女 サラとリベカ」は上下に分かれる画面のそれぞれで近景と遠景が表現される複雑な構図になっています。彫刻の場合、こだわりのあるモチーフのみを抽出して形にするという表現方法も考えられるのですが、それをしなかったのは、シャガールにとってモチーフが剥き出しのモノではなく、モチーフがまとっている物語とともに一つの世界を形作っていたからではないかと思います。素朴でありながら複雑、というのがシャガールの立体作品に対する私の印象です。華やかな絵画作品に比べると、より作為を離れた自然さへの志向が強まっている一方で、対象へのアプローチの仕方は絵画を制作するときと変わっていない、そう思いました。

その他

…実は鑑賞中、3階から2階の展示室に来たところで順路を飛ばしてしまったか?と慌ててしまいました。陶器のコーナーのあと「平面と立体の境界」より先に「立体への志向」が展示されていたためですが、係員の方に質問したところ、建物の構造が理由でリストの順番と会場内の順路が違っている箇所があると教えてくださいました。東京駅舎自体が重要文化財ですからね。慌てなくて良かったんだなと反省です。なお、「シャガール展」はBunkamuraザ・ミュージアムの「オットー・ネーベル展」、パナソニック汐留ミュージアムの「カンディンスキーとルオー展」とコラボしています(半券提示で入場料割引あり)。オットー・ネーベルの特に初期の作品は、色使いや構図にシャガールの影響を感じられるものがありますし、後期の抽象的な作風にはカンディンスキーの影響を感じることができます。そうした共通点を実際に作品を見て感じられるのも面白いと思います。
(2017年11月11日)