展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

鴻池朋子 ちゅうがえり 感想

 

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洗面器 顔、タンポポ(2020年)


www.artizon.museum

…今回、アーティゾン美術館にはクレーの新収蔵作品を見ようと思って来たため、鴻池さんの展覧会には何の心構えもなく入ってしまったのですが、じわじわと何だか面白いかも…という気持ちになり、見終わった後もふと思い返してあれは何だったんだろうと気になるような、後を引く面白さでした。
…作品は絵画だけでなくジオラマや手芸作品、影絵灯籠や襖絵のインスタレーションなどバラエティに富んでいて、絵画であっても毛皮に絵を描いた作品などもありました。会場も天井から毛皮やテープがつり下がっていたり、壁の背後に作品があったり、滑り台まであって、子供の頃、探検と称して物陰や細い道に入り込んで遊んだ記憶を彷彿させられました。
…作品のモチーフは人や動物、昆虫、さらに生物だけでなく竜巻や山や地球など無機物や気象現象も含まれ、自然に由来する森羅万象が鏤められていました。文明、文化、流行や習俗、個性や人格など人間性の次元はいくつもあると思いますが、作家はその中でも一番深い層、生物としてのヒトとしての感覚を取り戻すこと、根源的な生命力と結びつくことを意識しているのではないかと思いました。凧やすごろく、襖など懐かしさのある和のアイテムが取り入れられていたのも、日常生活にデジタルな人工物が溢れているなかで、アナログな感覚を呼び起こすためかもしれません。

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凧(会場入口、2018~2020年)

…また、この展覧会は現代美術家石橋財団コレクションとの「ジャム・セッション」ということで、展示コーナーのテーマや設定等から関連づけられるアーティゾン美術館のコレクションが要所で作家の作品と共に展示されていました。クールベの《雪の中を駆ける鹿》を見たときは、見覚えのある作品によく似ているけれど作家による模写だろうかと思ってしまったのですが、そのぐらい馴染んで嵌まっていました。

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クールベ《雪の中を駆ける鹿》(1856~57年)

…古典的な絵画の展覧会の場合、会場内の展示はテーマや関連性を踏まえた構成になっているものの、基本的に1枚の作品はそれぞれ個々の作品で完結している、逆に言えば1枚の中に世界が凝集されているのですが、この展覧会では作品が相互に呼応し合い、石や毛皮といったオブジェや照明などの効果も含めて総合的に作家の世界観を表現している印象を受けました。会場全体が一体となった作品とも言えそうで、新鮮な体験でした。
…会場の中心に設置された襖絵のインスタレーションには流れや月、竜巻などが描かれていました。なかでも地球断面図は周囲に展示された石やひと塊の鉱物、さらに岩の塊である山のジオラマと呼応し合って、ものを形作るミクロの単位とそれにより出来上がっているマクロな構造とが対比されていました。全体が部分から成っているなら部分の性質こそ全体を決定づけている、部分に全体が宿っていると考えることもできるでしょう。地球断面図は細胞のようなのですが、幾つもの命の集合である地球は一個の生き物のようであり、さらに大きな宇宙の細胞の一つなのかもしれません。襖の内側に設置されたスロープを上った先は滑り台になっていて、滑り降りることも可能なので、女性はスカートではなくズボンで見に来るのがお薦めです。

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襖絵(2020年)

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襖絵 部分(地球断面図)


…影絵灯籠はパラパラ漫画や幻灯機のようで、関連があるようで脈絡がないような、繋がっているようでありながらいつの間にか別のものに変化しているところが面白かったです。コマ送りのような影絵にストーリーを作り出すのは見る人の想像力なのでしょう。前の壁を通り過ぎていく影たちを見ていると、回っているのは灯篭ではなく自分のような錯覚が起きて軽く目眩を覚えました。

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影絵灯篭(2020年)


…スナップ写真やラフスケッチなどのコーナーには「ゆっくりと停止」という作家による文章も展示されていたのですが、作家にとって作れなくなるというのは、感覚を失うことで、生理的なものなのだなと思いました。それでも作らずにはいられず、他者の手を借り意欲を借りて制作したとあり、例えば今回の会場に展示されていたテーブルランナーなどもそれに該当するのでしょう。
…「物語るテーブルランナー」は鴻池さんが国内外の各地で人々の体験、記憶についてインタビューし、聞き取った物語を元にデザインした図案をそれぞれ物語った本人が自分で縫った作品です。テーブルランナーと共に物語が記載されたボードも展示されていて、ぱっと見て絵柄に興味を引かれたものをいくつか手に取って読んでみたのですが、昭和30年代の小学校で給食に家の野菜を持っていった話や、昭和初期に経済的な困難から流産するため女性が柿の木に上った話、仲間と別れて一人帰ろうと外に出たところ、ふいに自然のなかに魔が潜んでいるように感じられた夜の話など、面白い話や少し不思議な話、怖いような話など様々なエピソードがありました。物語る人の数だけ作品があり、一点一点それぞれに個性的なのですが、個別の作品よりプロジェクトそのものに意味があるのかもしれません。民俗学の仕事を連想したくなるのですが、作家は物語の真偽や記憶を記録するということには興味がなく、語りという行為そのものの芸術性を表現したかったそうです。それぞれの心の中に留め置かれる限りは埋もれたままだったものが語られるとき、人はただ語るのでなく情報を選別したり因果関係を見出したり、感情や時には想像も交えてこの世界に送り出すんですね。素朴で荒削りな物語は私たちが生きている剥き出しの現実――起きて働いて食べて寝る日々を繰り返す人々が生まれてはやがて死んでいく――をイメージの皮膜で柔らかく包むものであり、無駄や虚偽とは違う現実を超えたある種の真実と言えるのかもしれません。テーブルランナーは会場では壁に展示されていましたが、元はその用途どおり食卓に広げることを想定したものだそうで、それぞれの物語が一面に並べられていたら曼荼羅のようだろうなと思いました。
…「そこで作品を見ている人よ、何を見ている?」という問いかけで始まる「見る人よ何を見ている」という文章で、作家の創造も見ることから始まる、「見る」とは発見することであり「つくる」としています。私は自分で何かを描いたりするわけではなく、専ら美術作品を見ることを楽しんでいるのですが、見ることが単なる消極的受動的な行為でなく、積極的能動的なものとされていたのは素直に嬉しかったです。一方で、観客であるのに知識や許可は不要であり、勝手に判断、評価を下し、ときには作家の思いも寄らない地点へ飛躍するのも自由だともされていますが、どれだけ豊かなものを引き出せるかは見る側自身にもかかっているのだとも思いました。

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見ゆ~初雪(2012年)