展覧会感想

西洋美術を中心に展覧会の感想を書いています。

コートールド美術館展 魅惑の印象派 感想

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見どころ

…コートールド美術館はロンドン大学付属コートールド美術研究所の展示施設で、印象派・ポスト印象派の世界的なコレクションを所蔵しています。今回の展覧会は美術館の改修工事に伴うもので、コレクションの中核となる作品60点が来日しています。私はマネの《フォリー=ベルジェールのバー》を初めて見ることが出来たのですが、有名だけど実物は見たことがない、そんな名作を実際に目にするまたとない機会だと思います。また、コートールド美術館は美術研究・教育と結びついていることから、展示構成なども研究・調査の成果を取り入れ、作品を読み解くことを意識したものになっていて、作品をより深く理解したいという美術好きの求めにも応える内容となっています。
…コートールド美術館の中核となるコレクションを築いたサミュエル・コートールドは20世紀初頭にレーヨン産業で成功した実業家で、1923年から1929年にかけて印象派の作品を集中的に収集しました。当時、イギリスでは印象派はまだ評価が定まっていなかったのですが、コートールドは印象派について、この上なく平等で誰にでも開かれた、力強く躍動的な美術運動の一つだと考えていたそうです。芸術への情熱を共有していた妻エリザベスの死を機に、コートールドは1932年にはイギリスで初めての美術史を専門とする研究・教育機関ロンドン大学付属コートールド美術館を創設して、コレクションの大半を寄贈しましたが、コートールドの友人チャールズ・モーガンによると、「コートールドの願いは、一般の人々を目利きにすることではなくて、セザンヌやマネやルノワールの作品をとおして、私たちひとりひとりの個人の生活を詩情溢れるものにしてほしいということだった」そうです。芸術は日々のことに消耗し、疲弊した人々の心に穏やかな安らぎや生き生きとした彩りをもたらすものであり、その効果が広く行き渡ることで社会全体の安定や発展に繋がる、印象派やポスト印象派の作品はそうした力を持っているとコートールドは考えていたんですね。確かに、印象派の作品の明るく調和の取れた色彩や親しみやすく身近な主題は、時間も場所も遠く離れた日本人の私にも幸福感をもたらしてくれます。印象派の作品を見て嫌な気持ちになる人は余りいないと思いますが、いつ見ても、誰が見ても良いというのはとてもすごいことだと思います。
…私はプレミアムナイトで鑑賞したのですが、落ち着いてじっくり作品を見ることが出来て贅沢な時間を過ごさせてもらったと思います。会場内では写真撮影も可能で、時間帯は指定されていましたが、作品に制限はありませんでした。図録では作品を読み解く手がかりとして、主要な作品については透明なフィルムのページが添付され、鑑賞のポイントが分かりやすく解説されています。出品数は60点と多くはありませんが、関連資料も多く見応えのある内容です。所要時間は90分程度を見込んでおくと良いと思います。

概要

【会期】

…2019年9月10日~12月15日

【会場】

東京都美術館

【構成】

第1章 画家の言葉から読み解く
 …モネ、ゴッホなど
 収集家の眼① ポール・セザンヌ…《カード遊びをする人々》他
第2章 時代背景から読み解く
 …ブーダンピサロシスレーなど
 …ドガ《舞台上の二人の踊り子》
 …マネ《フォリー=ベルジェールのバー》
 収集家の眼② ピエール=オーギュスト・ルノワール…《桟敷席》他
第3章 素材・技法から読み解く
 …スーラ、ボナール、ロダンなど
 収集家の眼③ ポール・ゴーガン…《ネヴァーモア》他
…コートールド美術館は美術史の研究機関であるコートールド美術研究所の展示施設であり、展示構成も作品を読み解くという観点からの章立てとなっています。このため、モネは第1章と第2章に作品があり、セザンヌの作品は第1章と第3章、ドガの作品は第2章と第3章にまたがるという具合に、他の展覧会ではあまりない構成になっています。また、各章ごとに「収集家の眼」と題してコートールドが特に注目し、熱心に収集した画家の作品がそれぞれまとめられています。
印象派、ポスト印象派以外では、ナビ派やエコール・ド・パリの画家の作品も出品されていて、第3章に展示されています。ナビ派はゴーガンとの関連もあって収集したのかもしれないですね。
…出品作のジャンルは風景画が最も多くおよそ半分、ついで人物画の割合が高くなっています。静物画は少なめで、セザンヌの作品が中心を占めています。また、彫刻としてはロダンの作品のほか、ドガルノワールなどの作品も出品されています。

courtauld.jp

感想

風景画 自然を描く

…出品作を見ると風景画の占める割合が大きくなっていますが、近い時期に制作された同じ風景画というジャンルでも、それぞれの画家の特徴、技法の違いが出ていて興味深く感じました。

クロード・モネ《秋の効果、アルジャントゥイユ》(1873年)

…モネ《秋の効果、アルジャントゥイユ》は川岸の黄葉が青空に映える作品です。色づいた木々の葉は細かな筆遣いで描かれていて、秋の日差しを浴びてきらめいています。一方、水面には空と黄葉が映り込み、画面下半分でも色彩が対比されて、その効果が増幅されています。モネは川に浮かべたアトリエ舟からこの作品を描いたそうで、目の前の水面は色が濃く波も大きいのですが、遠ざかるにつれて次第に水の色は薄く明るく、波も小さくなっていく様子が表現されています。大気の中で震えるように輝く色彩と、さざ波立つ川面を染めて揺蕩う色彩とが感じられる作品だと思います。

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モネ《秋の効果、アルジャントゥイユ》

フィンセント・ファン・ゴッホ《花咲く桃の木々》(1889年)

ゴッホの《花咲く桃の木々》は早春のアルルの田園を描いたもので、柵の向こうの果樹園では桃が満開の花を咲かせています。画面手前の道や空に施された規則的な点描はリズミカルで、春の兆しに目覚めた生命の息吹や鼓動のようにも感じられます。この作品を制作していた時期、ゴッホはサン=レミの療養院に入院する直前で不安定な精神状態だったそうですが、緑に覆われた大地や青い山並みの上に白い雲がたなびく風景は明るく穏やかで、春の到来の喜びが表現されているように思いました。

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ゴッホ《花咲く桃の木々》

ジョルジュ=スーラ《クールブヴォワの橋》(1886~1887年頃)

…ジョルジュ=スーラ《クールブヴォワの橋》は新印象派の技法がよく分かります。桟橋に船が横付けされた川岸の風景なのですが、対象は微細な点描で描かれ、随所に施された白い点描の効果なのか全体としてパステルカラーのように感じます。輪郭線はなく、川の上を煙を上げて遠ざかる蒸気船はあたかも空気に溶けていくように見えます。

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スーラ《クールブヴォワの橋》

ポール・セザンヌ《大きな松のあるサント=ヴィクトワール山》(1887年頃)

セザンヌ《大きな松のあるサント=ヴィクトワール山》は麓に広がる田園の向こう、画面の中心に画家が繰り返し描いた故郷の山が堂々と座しています。前景の松の枝はサント=ヴィクトワール山を縁取るように大きく画面に張り出し、空を遮ることで遠近感をもたらしています。上述の画家たちと比べるとサント=ヴィクトワール山の稜線や松の木の枝などの輪郭ははっきりしていて、色彩は大気を透過することで青みがかり、大きめの筆痕は剥き出しの岩肌の隆起など物体のボリュームを表現しています。西洋美術で山岳が芸術の主題となるのはようやく18世紀のことで*1歴史は浅いのですが、厳かに聳える山の姿からは単なる岩の塊を超えた神々しさが感じられると思いました。

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セザンヌ《大きな松のあるサント=ヴィクトワール山》
人物画 都市の情景

…19世紀後半は産業革命が進展して社会も大きく変化した時代ですが、変貌した都市の生活や人々の姿をどのように捉えるか、画家によりそれぞれ切り口があり、関心のありようが表れているように思いました、

ピエール=オーギュスト・ルノワール《桟敷席》(1874年)

…オペラグラスを手に劇場のボックス席に座る男女。オペラグラスをのぞいている男性は眼下の舞台ではなく客席を見ているようですが、この時代の劇場は舞台を見る観客たちもまた見られる側だったそうで、女性の太めのストライプが目を引く洒落たドレスもそうした視線を意識したものなのでしょう。しかし、女性の表情は口元こそ微笑んでいるものの、少し表情が固いようにも感じられます。期待していた相手が見当たらずに落胆しているのか、あるいはその相手が別の女性を連れていたのか、そんなドラマを想像したくなる一枚だと思います。

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ルノワール《桟敷席》

エドガー・ドガ《舞台上の二人の踊り子》(1874年)

…一方、劇場の舞台の上ではエドガー・ドガ《舞台上の二人の踊り子》のようなショーが披露されていたかもしれません。舞台の上に身を乗り出すようなユニークな視点は、日本美術の影響を受けたものだそうです。舞台の下手側から上手側を望む構図で、上手側の二人の踊り子によって重心が右上に偏っているのですが、画面の余白は広い空間へと向かう踊り子達の動きを予感させます。床の上に対角線に伸びる線はセットを動かすためのレールでしょうか。舞台の照明を浴びて踊る踊り子達の一瞬のポーズを、繊細なタッチで描いている作品だと思います。

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ドガ《舞台上の二人の踊り子》

アンリ・ド・トゥールーズロートレック《ジャヌ・アヴリル、ムーラン=ルージュの入口にて》(1892年頃)

…アンリ・ド・トゥールーズロートレック《ジャヌ・アヴリル、ムーラン=ルージュの入口にて》はステージから降りたダンサーの素顔を捉えています。季節は冬なのでしょうか、手袋を嵌め、毛皮に縁取られたコートを着たジャヌ・アヴリルは伏し目がちに肩をすぼめて物憂げな表情に見えます。ひっそりとした佇まいで、細い顔が埋もれるような襟元や厚い外套は自分の身を守り、あるいは隠しているかのようにも感じられます。物思いの理由は分かりませんが、華やかな舞台で観客を湧かせるダンサーとしての顔とは異なる内省的な表情のほうが、実は彼女の本来の姿に近いのかもしれません。

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ロートレック《ジャヌ・アヴリルムーラン・ルージュの入口にて》

エドゥアール・マネフォリー・ベルジェールのバー》(1882年)

…この展覧会の一番の注目作、マネ《フォリー・ベルジェールのバー》は想像していたより大きなサイズに感じました。おそらく、印象派前後の画家たちの作品が、制作方法(しばしばカンヴァスを戸外に持ち出して制作)や購入者層(貴族からブルジョワへ)などの変化によって比較的小型のものが多いためでしょう。バーカウンターに手を突いて立つバーメイドの女性。背後は鏡張りで、店内の様子――談笑する大勢の客や豪華なシャンデリア、ショーが上演されているのかぶら下がる軽業師の足なども見えています。柱に取り付けられた丸い照明は、絵画に描かれた人工照明としては最も早い時期の一つになるそうです。本作の特徴の一つが画面の大部分を占めるこの鏡像で、実際は狭く浅い空間が、鏡の効果によって大きく広がって感じられます。また、モデルの女性と合わせて、その女性が見ている世界も一つの画面に収められ、同時に見ることができるという効果もあると思います。文字ではなく絵ですから、女性が何を考えているか具体的には分からないのですが、彼女の見ている世界はそれを知る手がかりにはなるでしょう。よく見ると、画面右側にはバーメイドの後ろ姿とともに、女性の前に立つ男性が映り込んでいます。この鏡像は初めもう少し女性の近くに描かれていたのですが、リアリティを無視してもあえて少しずらす修正をした理由は不明だそうです。ただ、離れることで仕掛けに気づくまでの時間差が生まれ、先ずは描かれたものに、次に隠された物語へとより深く作品に引き込まれるという効果はあると思います。バーメイドの女性は男性とどんな会話をしているのでしょうか。この作品の習作では、女性が男性のほうにはっきりと身体を向けて微笑んでいるのですが、完成作の女性は虚ろな目をして曖昧な表情を浮かべています。バーメイドの女性はアルコールの提供だけでなく、娼婦となることもあったそうなので、男性の誘いに迷いや躊躇いを感じているとも考えられます。粗いタッチでぼんやりと描き出された鏡の中の世界は、華やかな夜のパリの虚ろで儚い鏡像かもしれません。

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マネ《フォリー・ベルジェールのバー》
裸婦画 西洋美術の伝統と異国の文化

…裸婦は西洋美術の伝統的な主題の一つですが、モディリアーニとゴーガンはそうした伝統を踏まえつつ、異国の文化にも関心を持ち、作品に取り入れて描いています。一方で、両者の裸体に込められた意味の違いも感じました。

アメデオ・モディリアーニ《裸婦》(1916年頃)

モディリアーニの《裸婦》は赤い椅子に凭れて目を閉じ眠る裸婦を描いたものです。実際には不自然で苦しいポーズだと思いますが、傾けた首から腰、腿にかけて捻られた身体は、優美なS字の曲線をなしています。女性の肌が点描風の筆致によって丹念に、複雑な色合いで描かれているのは、モディリアーニが一時期彫刻制作に打ち込んでいて、鑿で少しずつ彫り進めていく方法を絵画に応用しているためなのだそうです*2。輪郭線は明瞭で、表情は簡略化した線で表現されていますが、近い距離から描かれた裸体は赤みを帯びた滑らかな頬や胸元の血管の透けるような白さ、腹部の丸みなど生々しさを感じさせ、鑑賞者=画家の視線に無防備に差し出されているかのような印象を与えます。独自の技法や異国の文化を取り入れつつ、女性の裸体の持つ普遍的で甘美な官能性を表現した作品だと思います。

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モディリアーニ《裸婦》

ポール・ゴーガン《ネヴァーモア》(1897年)

…ゴーガンの《ネヴァーモア》はタイトルも描かれた図像も謎めいた作品です。西洋絵画の伝統的な裸婦を思わせるポーズで、ベッドに横たわる褐色の肌の女性。背後の窓枠には黒い鳥が止まり、開いた戸口では二人の人物が顔を寄せ合って密やかに言葉を交わしているかのようです。窓の外に見える赤い奇岩はタヒチの山でしょうか。植物を図案化した装飾は壁やベッドなど画面全体にあしらわれていて、平面的な空間表現とあいまって無国籍的、あるいは非現実的な空間を演出しています。画面左上の壁に書かれた「NEVERMORE」の文字は、ポーの詩「大鴉」で恋人を失った主人公のもとに現れる大鴉の鳴き声に由来すると考えられているそうで、ベッドに横たわる女性の耳を塞ぐような仕草は鴉の鳴き声を聞かないためとも思えますが、ゴーガンは窓に止まった黒い鳥を「悪魔の鳥」であるとして詩と作品の直接的な関係を否定しているそうです。悪魔の鳥は不運や災厄をもたらすのか、悪徳・堕落に誘惑するのか、女性は忌まわしいものと知りつつ心から完全に追いやることは出来ない様子で、視線は背後へと向けられています。
…ゴーガンは、本作について手紙で「私はただありのままの裸体によって、かつて未開人がもっていたある種の豪華さを想起させたかった。全体をわざと暗くくすんだ色彩で覆っている。この豪華さをつくり出しているのは、絹でもビロードでも麻布でも金でもなく、画家の手によって豊かになったマティエールなのだ」と記しているそうです。文明の影響から解放された原始的楽園のイメージを求めてタヒチに渡ったゴーガンにとって、ありのままの裸体は自然から切り離される以前の無垢で純粋な原始の生命力の象徴だったのではないかと思います。それは文明に対してより劣った野蛮を意味するものではなく、豪華な衣装を纏った王侯の肖像にも匹敵するものであり、神話画に描かれる裸体のように崇高な物語や神秘的な象徴性を担いうるものなのでしょう。対して、窓辺から楽園を窺う「悪魔の鳥」は文明を暗示する存在であり、高度な文明のもたらす便利さ・快適さはある種の退廃と引き換えで、一度その果実を味わうと二度と引き返すことができないものであることを意味しているとも考えられます。ゴーガンが描きたかったのは良くも悪くも物珍しい、西洋のアンチテーゼとしてのタヒチの文物、風俗というより、西洋、非西洋を問わず原初の人間、あるいは時代を問わず、人間が本来持っているはずの失われた高貴さだったのかもしれません。

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ゴーガン《ネヴァーモア》

 

*1:ターナー 風景の詩』P133

*2:オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち』P92

印象派からその先へ――世界に誇る吉野石膏コレクション 感想

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ルノワール《シュザンヌ・アダン嬢の肖像》


見どころ

…「印象派からその先へ――世界に誇る吉野石膏コレクション」はバルビゾン派からルノワール、モネなどの印象派、さらにモダン・アート、エコール・ド・パリにいたる72点の作品を見ることが出来る展覧会です。秋は多くの美術館で大型の展覧会が開催されていて、そうした中でこの展覧会に対してはやや控えめなイメージを持っていたのですが、予想以上に良質な作品が多く、19世紀後半から20世紀前半にかけてのフランス絵画を堪能することが出来ました。
…コレクションを所蔵する吉野石膏株式会社は1980年代後半からフランス近代絵画の収集を始めて、1992年からは公益財団法人山形美術館の常設展示室でコレクションを公開しているそうです。特にシャガール作品は国内有数のコレクションとして知られているとのことで、今回の展覧会でもシャガールの作品が10点出品されていました。
…私は11月の土曜日の午後に見に行きましたが、最初の展示室は混雑していたものの、その後は落ち着いてじっくり鑑賞することが出来ました。展示解説は多めです。所要時間は90分程度を見込んでおくと良いと思います。

概要

【会期】

…2019年10月30日~2020年1月20日

【会場】

三菱一号館美術館

【構成】

1章 印象派、誕生――革新へと向かう絵画
 …ルノワール7点、シスレーピサロ各6点、モネ5点など計36点
2章 フォーヴから抽象へ――モダン・アートの諸相
 …ヴラマンク4点、ピカソ・ルオー各3点など計20点
3章 エコール・ド・パリ――前衛と伝統のはざまで
 …シャガール10点など計16点
…概ね年代順、画家別の構成で、タイトルにもなっている印象派の作品が半分近くを占めています。ほぼ油彩画ですが、パステル画も3点(ルノワール《シュザンヌ・アダン嬢の肖像》、ドガ《踊り子たち》、ピカソ《フォンテーヌブローの風景》)含まれています。

感想

ジャン=フランソワ・ミレー《バター作りの女》(1870年)

…薄暗い室内で桶の傍らに立ち、バター作りに勤しむ女性。牛乳を攪拌する女性は手にした棒を恭しく捧げ持っているようでもあり、相似形をなす台形の桶と女性のスカートはどっしりとした安定感を感じさせて、働く女性の姿に厳かな重々しさを与えています。部屋の右側、出入口の先にある納屋では乳搾りをする女性がいて、更にその窓の外には小さく緑の牧場が見えますね。画面の奥行きが感じられると共に、牧草地で育った牛が納屋で乳を搾られ、その牛乳でバターが作られるという一連の過程が一つの絵に収められた異時同図法になっているようです。だまし絵のように石畳に刻まれたサインとあわせて、画家の遊び心も感じられる作品だと思います。

ウジェーヌ=ルイ・ブーダン《アブヴィル近くのソンム川》(1890~94年頃)

ブーダンというと明るい空の下、水辺で余暇を楽しむ人々を描いた作品のイメージがあるので、この作品を最初見たときすぐにブーダンとは分かりませんでした。上空高く昇った月が雲の影から姿をのぞかせ、川面に明るく映し出されています。昼間の太陽とは異なる白々とした月明りに照らされて、夜空に広がる雲が見せる微妙な表情が複雑な色調で描かれています。限られた色彩や素早く大胆な筆遣いなどは水墨画のようにも感じられました。

ピサロルーアンのエピスリー通り、朝、雨模様》(1898年)

…この作品は朝、まだ人通りが疎らなエピスリー通りを見下ろす視点から描かれています。空に雲は多いものの、灰色と褐色を主とする街並みの色彩には明るさが感じられ、石畳の通りを往来する人も傘は差していないので、弱い雨なのでしょう。画面奥に向かって伸びる道の先には大聖堂の塔が聳える一方、画面手前には色とりどりのポスターが掲示された広告塔が立っていて、一つの街に同居する古い歴史と新しい時代が感じられます。時刻や天候が添えられたタイトルがモネの連作《ルーアン大聖堂》(1892~94年)を思い出させるのですが、本作品とほぼ同じ構図、サイズで描かれた《ルーアン旧市場とエピスリー街》(1898年、メトロポリタン美術館蔵)という作品もあるようなので、ピサロによるルーアン連作の一点なのでしょうね。

アルフレッド・シスレー《モレのポプラ並木》(1888年)

…この作品は画家が居を構えたモレ=シュル=ロワンの風景を描いた一点で、ロワン川の岸に沿って緑のポプラ並木がリズミカルに立ち並び、空間の奥行きを効果的に演出しています。戸外の風が心地良い季節のようで、翻るポプラの葉に明るい日差しが白く反射し、梢の背後には白い雲の浮かぶ青空が広がっています。影が比較的長いので、空の色も踏まえると朝から午前中にかけての時間帯でしょうか。両岸ではそれぞれに寛いでいる人々の姿もあり、穏やかな時間が流れているように感じられます。きらめく光に満たされた印象派らしい風景画だと思いました。

モネ《サン=ジェルマンの森の中で》(1882年)

…モネ《サン=ジェルマンの森の中で》は華やかな色彩が印象的です。緑の森に鏤められた赤や黄の色彩に秋の森かと思ったのですが、この作品は初夏に描かれたそうなので、おそらく赤みが掛かった午後の日差しに照らされている光景なのでしょう。木々のあいだのトンネルのような道は日向と日陰が交互に連なり、森の奥へと続いています。点描で描かれた樹木の枝葉は見分けが付かないほど混じりあい、光と物体が渾然一体となっていて抽象画のような作品だと思いました。

エドガー・ドガ《踊り子達たち(ピンクと緑)》(1894年)

…この作品は舞台の袖で出番を待つ踊り子達を捉えたもので、斜め上から見下ろしているため踊り子の足が短縮されて描かれています。踊り子のチュチュや肌の色、床などピンクがかった色彩と対比されて、衣装の胴部の緑色が引き立っています。パステルのタッチはチュチュのふんわりとした感触を効果的に表現していますね。横顔の踊り子の表情はよく見えませんが、腰に手を当てて構え、爪先を立てている仕草、背中に浮き上がる筋肉などからは、舞台に躍り出る直前のエネルギーを蓄え気持ちを高めている様子が伝わってくると思います。

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ドガ《踊り子たち(ピンクと緑)》

フィンセント・ファン・ゴッホ《雪原で薪を運ぶ人々》(1884年)

…この作品はゴッホがオランダ時代に描いたもので、荒涼とした雪原を、外套も羽織らない質素な身なりの農民の家族が薪を運んで歩いています。一面の白い雪の中、暗い色彩で描かれた四人はいずれも俯き、貧しさや過酷な労働に打ちひしがれていて、背中の薪は彼らの背負う人生の重荷を象徴しているようにも見えます。画面左の沈みゆく真っ赤な太陽は教会などの宗教的モチーフに代わるものだそうで、そう思ってみると薪を背負う農民たちは十字架を背負うイエスのようにも見えてくる作品だと思います。

モーリス・ド・ブラマンク《大きな花瓶の花》(1905~1906年)

…この作品は今回の展覧会で個人的に一番印象に残りました。縦長の大きな作品で、素焼きの花瓶は陰影によって丸みが表現され立体感が感じられる一方、花瓶に生けられた花は形体が簡略化され、大きめの色の斑点で平面的に描かれています。花瓶の大きさに比べると花の背が高く、垂直性が強調されていますが、上に向かって伸びる花や葉と下に垂れる葉やテーブルに落ちた花とは互いに引き合いつつも釣り合っていて、画面に緊張感とまとまりを生み出しています。モチーフを形作る赤・褐色と緑、影になった部分の青と背景の黄という補色同士が対比されていますが、ただ強烈なだけでなく生き生きとした色彩の輝きを感じられる作品だと思いました。

モイーズ・キスリング《背中を向けた裸婦》(1949年)

…この作品はとても滑らかな絵肌が印象的で、それがそのまま傷一つない女性のつややかな背中であるかのように感じられました。頭にターバンを巻き、上半身露わな女性が振り返って流し目で微笑む構図は、マン・レイの《アングルのヴァイオリン》(1924年)の影響を受けているそうです。マン・レイの作品が女性の曲線美を抽象化し、諧謔を交えて表現しているのに比べると、キスリングのこの作品はより率直に女性美を讃えていて、生身の肉体が持つけだるい重々しさはマン・レイの作品のさらに元となったアングルの《ヴァルパンソンの浴女》に近いように思いました。

マルク・シャガール《逆さ世界のヴァイオリン弾き》(1929年)

…床と屋根がひっくり返り、部屋の中が壁の外にめくれているような奇妙な家でヴァイオリンを弾く男性。一目見て現実にはあり得ない光景と分かりますが、シャガールは時折キャンヴァスを回転させて描くこともあったそうです。画面の中心を占めるヴァイオリン弾きはどんな音楽を奏でているのでしょうか。聞こえることのない絵のなかの音楽を敢えて想像してみると、ヴァイオリン弾きのわくわくとした、夢中でヴァイオリンを掻き鳴らしているような表情やひっくり返った世界から、ゆったりとした曲ではなく目まぐるしい曲のように思われます。シャガールが生まれ育ったヴィテヴスクのユダヤ人社会で信奉されていたハシディズムというユダヤ教の一派では、歌や踊りを通して神との交感を果たすことが大きな意味を持っていたそうです。シャガールにはヴァイオリンを弾く叔父がいて、自分でも弾くことがあったそうですから、この作品は経験、実感を拠り所に音楽や踊りがもたらす昂揚感、忘我や酩酊を表現しているとも考えられます。幻想的な作風で知られるシャガールですが、自身をリアリストだとも語っているので、単なる夢や不思議ではなくこのように描かれる理由があっての作品なのだろうと思います。パガニーニのような超絶技巧でこの逆さ世界を操る、魔術師としてのヴァイオリン弾き。宙を舞う天使はそんなヴァイオリン弾き=画家に霊感を吹き込んでいるのかもしれないと思いました。

ゴッホ展 感想

見どころ

ゴッホ(1853~1890)の作品は人気が高く、展覧会の開催も多いのですが、今回の「ゴッホ展」はゴッホの作品とハーグ派、印象派の画家の作品をそれぞれ展示してゴッホが受けた影響を見るというものです。
ゴッホ印象派から受けた影響はある程度知られていると思うのですが、今回はハーグ派からの影響にも光が当てられていて、ゴッホのオランダ時代の作品も多数見ることが出来ます。オランダ時代の写実的な灰色のゴッホの作品と、フランスに移り住んで以降の明るく強烈な色彩を厚塗りのタッチで描いた作品とを比べると色彩や技法が大きく変化していることが分かるのですが、一方で働く農民達や自然への眼差しなど、ゴッホの関心の在処は初期作品から継続していることも感じられます。
…個人的には、今年の春のバレル・コレクション展で目にしたマウフェやマリス兄弟などハーグ派の作品を今回改めて目にしたことで、こんな画家たちがいたんだなという謂わば点の認識が、位置づけや影響関係など美術史の流れ、線として繋がったことが良かったです。オランダというと17世紀のレンブラントフェルメールのイメージが強いのですが、19世紀にも魅力的な画家たちがいたんですね。
…ハーグ派は19世紀後半、オランダのハーグを拠点に活動したフランスのバルビゾン派にも喩えられるグループで、田園や水辺の情感豊かな風景を、灰色や褐色を主とする繊細な色調で描いています。今回の出品された作品の印象ですが、ハーグ派はバルビゾン派に比べると風景以上にその中で生きる人々への関心が強く、また、憧憬や郷愁よりも日常的、現実的な身近さを強く感じました。そうした点はオランダの伝統的な風俗画の流れも汲んでいるのかもしれません。
…また、今回の展覧会では、アルルで共同生活をしたゴーギャンの他にもゴッホが様々な画家と交流のあったことが分かりました。ゴッホは自ら母に語っているように孤独を抱えていたかもしれませんが人間が嫌いなわけではなくて、たとえばゴッホに絵画の基礎を教えてくれたマウフェに対して、関係が悪化したあとも慕っているんですよね。また、画家になる以前に画商として仕事をしていたためかもしれませんが、手紙に残されたゴッホの言葉を読んでいると自分で描くだけでなく他の画家の作品を見ることも好きそうな感じがしました。ゴッホは巨匠の作品や同時代の他の画家の作品をよく見ていて、称賛を惜しまず、意見や助言を求めたりすることによって、独自の作品を生み出したのだと思います。
…私は10月の土曜日の昼13時過ぎに入場しましたが、チケット購入の列は出来ていたものの、入場待ちはなくてすぐ中に入ることが出来ました。ただし、会場内はずっと混雑していたためほとんど作品の一番前で見ることはできず、列の後ろのほうから見るのが精一杯の状態でした。図録の表紙はバラと糸杉の2種類があります。私は図録付のチケットだったのでレジでチケットを出したのですが、図録の種類は質問されず、渡されたものをそのまま受け取りました。幸い、選ぼうと思っていた方をもらえたので良かったのですが。図録付のチケットの場合は種類を選べないのかどうかは分かりません。

概要

【会期】

…2019年10月11日~2020年1月13日

【会場】

上野の森美術館

【構成】

1部 ハーグ派に導かれて
 ・独学からの一歩:ゴッホ6点
 ・ハーグ派の画家たち:ヨゼフ・イスラエルス4点、アントン・マウフェ3点、マテイス・マリス4点など18点
 ・農民画家としての夢:ゴッホ12点

2部 印象派に学ぶ
 ・パリでの出会い:ゴッホ3点
 ・印象派の画家たち:アドルフ・モンティセリ3点、クロード・モネ3点など13点
 ・アルルでの開花:ゴッホ9点
 ・さらなる探求:ゴッホ8点

…概ね時代順に2部構成となっていて、ゴッホの作品とゴッホに影響を与えた画家たちの作品とが交互に章立てされています。
ゴッホの作品は油彩画が主ですが、水彩画や版画もあります。
…ハーグ派の画家としてはゴッホに絵画の基礎を指導し、動物画を得意としたマウフェのほか、働く農夫や漁夫の姿を描いたイスラエルス、兄弟揃って画家だったマリス三兄弟の次男マテイス・マリスの作品が多く出品されています。
…フランスの画家たちとしては、自由で激しい筆遣いや厚塗りの絵の具による色彩でゴッホに影響を与えたモンティセリ、「モネが風景を描くように人物を描きたい」とゴッホが語った印象派のモネなどの作品が出品されています。
ゴッホは1880年に素描を手掛け始めてから1890年に亡くなるまで、10年という短期間に油彩画約850点、素描1000点以上と多くの作品を残しています。多くの人がゴッホらしいと感じるのはおそらくアルル以降の作品だと思いますが、今回の展覧会はミレーなど巨匠の作品を模写した最初期の作品やハーグ派の画家たちの影響が感じられる作品など、オランダ時代の作品に対してもフランスに移住して以降と同じぐらいの重きが置かれているのが特徴だと思います。出品作のうちゴッホのオランダ時代の作品は主にハーグ美術館の所蔵品、フランスに移り住んでからの作品はクレラー=ミュラー美術館の所蔵品が多く、展覧会の顔としてポスターなどに用いられている《糸杉》はメトロポリタン美術館の所蔵品です。

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感想

ヤン・ヘンドリック・ウェイセンブルフ《黄褐色の帆の船》(1875年頃)

…ヤン・ヘンドリック・ウェイセンブルフ(1824~1903)はハーグ派の第一世代の画家で特に海景画に優れ、ゴッホの作品を高く評価し、ゴッホがマウフェと関係が悪化したときには両者のあいだを取りなしたりもしたそうです。《黄褐色の帆の船》は水平線が低く空が大きいオランダらしい風景で、水と陸がなだらかに連なる地形のなかで水面に浮かぶ船の三角の帆がアクセントになっています。手前の岸辺に佇む母子は船の上の男性の家族でしょうか。見送りについて来たのか、それとも迎えに来たのかもしれませんね。広々とした空に湧く雲は背後で輝く太陽にくっきりと縁取られていて、雲の切れ間からのぞく空の青さが一際鮮やかに感じられる風景です。

ヨゼフ・イスラエルス《縫い物をする若い女》(1880年頃)

…ヨゼフ・イスラエルス(1824~1911)はハーグ派の第一世代の画家で、1850年代のバルビゾン訪問や自身の療養生活をきっかけに農民や漁民の暮らしを主題とした作品を制作するようになったそうです。《縫い物をする若い女》は仄暗い室内で椅子に腰かけ服を縫う若い女性の横顔や手元の衣装が、窓越しの柔らかい光に照らし出されています。フェルメールの作品などを思い出させる構図ですが、窓の外には木立が見えて、薄暗い室内は足温器があるだけで装飾品もないことから、ここが都市部の裕福な市民の家ではなく農村の慎ましい農家であることが分かります。女性の身に着けている服が質素で地味な色合いなのに対して縫っている衣装は純白ですが、女性は嫁入り支度をしているのかもしれないそうです。女性の頬が薔薇色に上気しているのもそのためかもしれませんね。静謐な空間を満たす温かな光とささやかな幸福が感じられる作品だと思います。イスラエルスの作品はオランダの風俗画の系譜を引き継ぎつつも、人の上にいる神を意識して教訓を込めるのではなく、人の姿の中に神を意識して精神の深みを表現しているところが19世紀的なのかなと思います。

アドルフ・モンティセリ《陶器壺の花》(1875~78年頃)

…アドルフ・モンティセリ(1824~1886)はパリとマルセイユを往復しながら激しい筆遣いや奔放な色彩、分厚いマチエールを特徴とする独自の画風を築いた画家で、ゴッホが大きく影響を受けたほか、セザンヌとも親交があったそうです。緑と白の縞模様のテーブルクロス上に置かれた花瓶の花を描いた《陶器壺の花》は、花も花瓶もざらりとした粗い質感が感じられて、色彩=光だった印象派の軽快さとは異質な重さを感じます。厚塗りの絵の具による物理的な質量はもちろんですが、印象派の色彩が透明な光であり、空気を透過した対象の色彩であるのに対して、モンティセリの色彩は不透明で、色そのものが形を持ち、光を発しているように感じられます。オランダからフランスに来たゴッホの作品が明るくなったのは印象派の影響が大きいのでしょうが、印象派にはない重さ、不透明感はモンティセリの影響もあるのかもしれないと思いました。

フィンセント・ファン・ゴッホ《ジャガイモを食べる人々》(1885年4~5月、ニューネン)、《鳥の巣のある静物》(1885年10月、ニューネン)、《秋の小道》(1885年、ニューネン)、《秋の夕暮れ》(1885年、ニューネン)

…1880年の夏に画家として生きる決意を固め、独学で絵を学び始めたゴッホは、1881年末にハーグ派の中心人物で従姉妹アリエットの夫であるアントン・マウフェに教えを請い、翌年からはハーグに移住してハーグ派の画家たちと交流しながら制作するようになったそうです。
ゴッホの初期作品を代表する《ジャガイモを食べる人々》はリトグラフが出品されていましたが、これは家族や友人に完成作を伝えるためにゴッホが制作したもので、左右反転しているのは石版に下絵を直接描き込んだためなのだそうです。穴蔵のように暗く、狭い部屋でテーブルを囲む5人の人物。ジャガイモにフォークを伸ばす男性、その隣で同じようにフォークを手にしながら男性を見上げる女性、向かい側にはカップにコーヒーを注ぐ女性、その女性に自分のカップを差し出す男性、交錯する仕草や視線が一つの場面にまとめられている複雑な構図ですね。画面のほぼ中央に描かれた後ろ向きの女性は部屋と人々を見渡す鑑賞者の視点と重なります。西洋絵画で食卓を囲む主題というと最後の晩餐などが頭を過るのですが、ゴッホはそうした巨匠たちの作品も意識していたのでしょうか。質素な食事を分かち合い、貧しいながらも助け合う人々を照らす灯火は彼らの心の拠り所を象徴しているようでもあります。ただ、リトグラフ自体は描写やコントラストに甘さもあるため友人のラッパルトから酷評されてしまい、その結果、ゴッホはラッパルトと疎遠になってしまったそうです。
…暗がりを背景に、無数の細い枝が組み合わされた三つの鳥の巣を描いた《鳥の巣のある静物》。ジュール・ミシュレの博物誌『鳥』に感化されたゴッホは鳥の巣自体が芸術品だと考えていたそうで、彼らの作品を忠実に捉えるべく緻密な筆遣いで描かれています。巣の中には綺麗な青い殻の卵もありますが、身近な鳥だとムクドリの卵が青いのだそうです。巣に抱かれた卵は安全や安心を感じさせますし、まだ目覚めていない未来の命、希望、可能性などがひっそりと育まれているようにも思われます。ゴッホはアルルを離れて療養するようになって以降、露地の植物や蝶などの昆虫をモチーフに花鳥画のような作品も描いているのですが、そうした山川草木の細部、小さな生き物への関心を早い時期から抱いていたことが感じられる作品だと思います。
…《秋の小道》と《秋の夕暮れ》は縦長と横長という画面の違いはありますが、どちらも同じ1885年に描かれた作品で、立ち並ぶ木立のあいだの道を歩く後ろ姿の人物という共通の構図、要素が用いられています。しかし、両作品から受ける印象は対照的で、《秋の小道》が雲の切れ間から差す秋の日差しがスポットライトのように人物とその行く手を照らす明るく穏やかな風景なのに対して、《秋の夕暮れ》は消えゆく残照に向かって人影が歩む暮色に包まれた寂しげな風景です。ある種の実験的な試みだったのでしょうか、色彩がもたらす効果、醸し出す情緒の違いが感じられて興味深かったです。

フィンセント・ファン・ゴッホタンギー爺さんの肖像》(1887年1月、パリ)、《麦畑とポピー》(1888年、アルル)、《オリーブを摘む人々》(1889年12月、サン=レミ)、《サン=レミ療養院の庭》(1889年5月、サン=レミ)、《糸杉》(1889年6月、サン=レミ)

…《タンギー爺さんの肖像》は画材屋の店主ジュリアン・タンギーをモデルに描いた作品です。前衛画家たちの作品を店に展示したり、画材と作品を交換したりして画家たちの面倒をみていた「タンギー爺さん」をモデルにしたゴッホの作品では浮世絵がバックに描かれたロダン美術館のものがよく知られていると思うのですが、出品作はオーソドックスな肖像画で、日ごろから世話になっているタンギー爺さんの飾らない姿を素直に捉えているように思います。明るい色彩や軽く素早いタッチなど、パリに来て1年弱のゴッホ印象派の手法を吸収していることが窺われる作品だと思います。
…《麦畑とポピー》は印象派的な点描で描かれたポピーと麦の、せめぎ合う赤と緑の対比が鮮やかな作品です。モネの風景画などでも見かけるポピー(ひなげし)ですが、ヨーロッパでは小麦畑に生える雑草だそうで、燃えるように咲き乱れる様からは与謝野晶子の歌が思い出されたりします。ポピーに侵食された麦畑の中で、まっすぐ立った麦の穂からは一筋の誇りのようなものも感じられるように思いました。
ゴーギャンとの共同生活が決裂して、激しい発作を起こしたゴッホは1889年5月に自らサン=レミの療養院に入院しました。入院して間もない時期に描いた《サン=レミ療養院の庭》では、大きく枝を広げた背の高い木も手前の低い木の茂みも花盛りで、木陰の小道にはベンチがあり、療養院ということを一瞬忘れそうな居心地の良さが感じられます。実際のところ療養院の庭は荒れ放題だったそうですが、手入れもされずに伸び放題の草木は、病院から出られないゴッホにとってはかえって外の気分を味合わせてくれたかもしれません。ゴッホは弟のテオに「さほど塞ぎ込んでいるわけではない」と手紙で書き送っているそうですが、自ら療養院に入ったのは早く健康を取り戻して作品に取り組みたいという意欲があったためではないかとも思いました。病院の建物や木の幹、下草などには輪郭線が描かれていて、ゴッホとしては色彩が淡く、筆遣いも繊細です。青い樹影に5月の日差しと風の爽やかさを感じる作品だと思います。
…サン=レミの精神療養院で暮らしていたゴッホは、糸杉とオリーブの造形や佇まいに惹かれて、自分のモチーフとして確立させるために繰り返し作品に描きました。《オリーヴを摘む人々》は描かれた時期が12月だったので気になって調べてみたところ、オリーブの収穫時期は品種や実の用途によって9月~2月と幅があるようなので、実際に見て描いたのでしょう。地面にはところどころ青い部分があるのですが、本来は赤い色だったものが褪色してしまったそうで、元は赤い大地と緑のオリーブとの対比が鮮やかだっただろうと思われます。手前でオリーブの実を摘む農婦は収穫の喜びに顔をほころばせていますね。《ジャガイモを食べる人々》に描かれた農村・農民像は困窮して打ちひしがれたイメージでしたが、南仏の田園風景は明るく輝かしいものに変わっています。オランダ時代のゴッホは、倹しい生活に耐えて過酷な労働に勤しむ農民の忍耐や誠実さに精神性の高さを見出していたのでしょう。一方で、《オリーヴを摘む人々》では自らの手で育て、実を結んだものを収穫する姿に、充足した人生の喜びが重ね合わされているように感じます。ゴッホの作品は奇跡や幻想ではない現実を描いているにもかかわらず、時として対象そのもの以上の何かを物語る作品だと感じられることがあるのですが、この作品も地に足をつけて生きる農民の姿を通して理想的な人間像が表現されているように思いました。
…緑の葉をうねらせて空へ伸びる糸杉の木。下草も白い雲もリズミカルにうねり、晴れた空には黄色の三日月が浮かんでいます。《糸杉》は厚塗りの絵の具により、うねるようなタッチで描かれたゴッホらしい作品です。キリストが磔にされた十字架は糸杉だったとも言われていて、西洋絵画であまり描かれてこなかったのは喪のイメージが理由なのかもしれませんが、ゴッホは「オベリスクのように」美しい糸杉を「ひまわりのように」自分のモチーフにしたいと考えていたそうです。オベリスク古代エジプトの神殿などに建てられた20~30mの記念碑で、オランダにはないのですが、フランスではパリのコンコルド広場とアルル市庁舎前という、いずれもゴッホと縁のある都市に建っているんですね。天と地を結ぶ聖なる建造物を連想しながら、ゴッホは不吉な陰を纏っている糸杉の持つ、シンプルな形体本来の天を目指す力を表現したかったのかもしれません。ところで、ゴッホが自分のモチーフにしたいと考えたオリーブと糸杉が、どちらも樹木なのは何故だろうとふと気になったりしました。もちろん身近な植物だったためなのでしょうが、オリーブは太陽の樹とも言われるそうですし、糸杉は形そのものが天を指し示しています。ゴッホの作品では教会に代えて太陽が宗教的なシンボルとして描かれているのですが、オリーブや糸杉は形を変えた太陽ではないかと思ったりもしました。光を受けてエネルギーを生み出し成長する樹木の姿は、太陽の力を蓄えたものとも言えそうですし、昼間の空に月が浮かんでいる不思議も、太陽と月という対で考えることもできるのかもしれません。

風景の科学 展――芸術と科学の融合 感想

概要

【会期】
…2019年9月10日~12月1日

【会場】
国立科学博物館 日本館1階企画展示室

www.kahaku.go.jp

感想

…「風景の科学展」は写真家の上田義彦氏の作品について、国立科学博物館の研究者が一枚ずつ解説するという企画です。入口そばの表示には、まず写真を見て、次に解説を読んでから改めて写真を見て欲しいとあったのでその通りにしてみたのですが、同じ物を前にしても人によって違うことを考えるのであり、同じ写真でも違うものが見えていると言っても良いぐらいだと思いました。たとえば三枚の果樹園の写真や屋久島の渓流を撮影した写真を見ても私は漠然と綺麗な景色だと思うだけなのですが、解説では写真が資料として分析され、それぞれに写る樹木の種類やその栽培の歴史、岩石に含まれる鉱物の種類について言及されていて、情報の解像度が違うと感じました。また、私の場合は写真を無意識のうちに芸術作品として受け止めてしまうため、緑の柳の葉が揺れるノルマンディーの池を見るとモネの絵が、暗い雨雲の垂れ込めるスコットランドの山岳地帯を見るとターナーの絵が浮かぶのですが、科学者は参照するデータベースも違っていて、それぞれ幻の珪藻や泥炭を燃料に作られるスコッチ・ウィスキーのことが連想されているのも予想外で興味深かったです。私は普段絵画作品を見ることが多くて、その表現方法に馴染んでいるためにそれが認識の枠組みになり、時には枷にもなっているということなのでしょう。対象が何によって出来ているか、どのように形成されたかを知り、それが拠って立つ因果を理解したとき、私たちは奇跡や偶然を超えた奥深く精妙な必然を見出して、一層の美しさを感じるのかもしれないと思いました。個人的には雪景色と見紛うホワイトサンズの真っ白な石膏の砂漠と、オリンピック公園の鬱蒼とした温帯雨林のファンタジーのような風景が印象的で、驚きと同時に地球の風景の多様さを改めて感じさせられました。また、オーストラリアに生息するバンクシアという植物の種子は、固い皮に包まれたままひっそりと眠っていて、危機的な状況=山火事が生じると飛散するそうですが、焼け野原を新天地として過酷な環境を生き延びる生物の適応力、システムの巧みさと逞しい生命力が印象に残りました。
…「風景の科学展」は常設展のチケットで入場可能です。私が行ったのは土曜日の午後で、科博は「恐竜博2019」開催中で家族連れで賑わっていましたが、特別展と合わせて観覧しても良いかもしれませんね。所要時間は60~90分程度を見込んでおくと良いと思います。公式図録は7,200円(税別)と高価なのですが、写真集として眺めても科学エッセイとして解説を楽しむこともできそうで、一般の書籍として通販などでも購入可能なようです。

オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち展 感想

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見どころ

…「オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち展」は、オランジュリー美術館が所蔵する「ジャン・ヴァルテル&ポール・ギヨーム コレクション」146点のうち、ルノワールを始めとする印象派やエコール・ド・パリ、さらにピカソマティスなど13人の画家、69点の作品で構成される展覧会です。同館から「ジャン・ヴァルテル&ポール・ギヨーム コレクション」がまとまって来日するのは21年ぶりとのことです。
…このコレクションを築いたポール・ギヨーム(1891~1934)は自動車修理工でしたが、偶然目にしたアフリカの彫刻に惹かれて収集を始め、詩人で美術批評家でもあったアポリネールを通じてパリの前衛画家たちと交流するようになり、モディリアーニやスーティンなど若い画家を積極的に支援する画商となりました。また、ポール・ギヨームは画商になるきっかけとなったアフリカ美術について写真集『ニグロ彫刻』(1917年)を編集するなど、その魅力の普及に率先して努める一方、自ら素描を嗜むこともあったようです。専門の美術教育を受けていなくても良き助言者に巡り会えたことと、何より美術への情熱があったことで画商として活躍し、優れたコレクションを築くことができたんですね。オランジュリー美術館というと私はモネの睡蓮の大装飾画が思い浮かぶのですが、今回の展覧会でポール・ギヨームの業績を知ることができ、また、アンドレ・ドランの作品を初めてまとめて見ることができて良かったです。なお、コレクション名にポール・ギヨームと共に名を連ねているジャン・ヴァルテルは建築家で、ポール・ギヨームの妻ジュリエット・ラカーズ(通称ドメニカ)の再婚相手なのですが、コレクションの設立には関与していないそうです。
…私は初日の開館直後に見に行ったため、チケットを持っている人、これから購入する人がそれぞれ数十人程度並んで列ができていたのですが、会場内では混雑はさほど気にならず、作品をじっくり見ることが出来ました。お昼頃には行列も解消していました。音声ガイドの解説のみの作品も目に付いたので、可能であれば音声ガイドも利用したら良いかもしれません。所要時間は90分程度、ポール・ギヨーム関連の展示コーナーで邸宅の模型が撮影可能です。

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ポール・ギヨームの邸宅:食堂

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ポール・ギヨームの邸宅:ポール・ギヨームの書斎

概要

【会期】

…2019年9月21日~2020年1月13日

【会場】

横浜美術館

【構成】

アルフレッド・シスレー(1839~1899):1点
ポール・セザンヌ(1839~1906):5点
クロード・モネ(1840~1926):1点
オーギュスト・ルノワール(1841~1919):8点
アンリ・ルソー(1844~1910):5点
アンリ・マティス(1869~1954):7点
キース・ヴァン・ドンゲン(1877~1968):1点
アンドレ・ドラン(1880~1954):13点
パブロ・ピカソ(1881~1973):6点
マリー・ローランサン(1883~1956):5点
モーリス・ユトリロ(1883~1955):6点
アメデオ・モディリアーニ(1884~1920):3点
シャイム・スーティン(1893~1943):8点
…展示は画家別の構成で、各画家の作品はいずれも油彩画です。上記の画家の名前は生年順に列記しましたが、会場では大雑把に括ると前半の展示室がシスレー、モネ、セザンヌなど印象派やポスト印象派、後半がモディリアーニユトリロ、スーティンなどエコール・ド・パリ、中心となるルノワールが両者のあいだの展示室に位置していました。展覧会はルノワールの名前を冠していることもあり、印象派の作品が多いのかと思いましたが、むしろ印象派以後の画家たちがメインで、20世紀前半の作品が多かったです。なかでもモディリアーニやスーティンは、ポール・ギヨームが発掘して世に送り出した関係の深い画家たちです。シスレー、モネ、及びセザンヌの作品の大半は妻のドメニカによってコレクションに加えられたものだそうですが、一方で彼女はピカソキュビスム時代の前衛的な作品やポール・ギヨームが情熱を傾けたアフリカ美術のコレクションを手放しているそうです。ルノワールは夫妻が共に好んだ画家でした。フォーヴィスムを担った主要な画家の一人であり、その後肖像画家として成功したアンドレ・ドランは国内外の多くの画商と交流を持っていましたが、1924年に契約を結んだポール・ギヨームとは画商が亡くなるまで緊密な関係が続いたそうです。ドランは夫妻それぞれの肖像画も手掛けていて、今回の展覧会にも出品されています。

artexhibition.jp

感想

アンドレ・ドラン《ポール・ギョームの肖像》(1919年)、アメデオ・モディリアーニ《新しき水先案内人ポール・ギヨームの肖像》(1915年)

…展覧会の冒頭を飾っていたのは、アンドレ・ドランによるポール・ギヨームとドメニカ夫妻の肖像画でした。バレル・コレクションを築いた海運王ウィリアム・バレルのように、肖像画を描かれることに消極的だったコレクターもいますが、ポール・ギヨームはドランをはじめ、契約を結んでいた画家たちによる様々な肖像画が残されています。ポール・ギョームはそれぞれの画家たちが自分をどのように捉えているか、そして表現の違いから感じられる画家たちの個性を楽しんでいたのかもしれません。ドランによる肖像画はポール・ギヨームが好んだという青を中心とした寒色系でまとめられていますが、柔らかく薄塗りのタッチで描かれているため温厚そうな人柄という印象を受けます。ポール・ギヨームは煙草を手に本を開いて寛いだ表情ですが、落ち着いた上品な雰囲気で、モデルに対する画家の親しみと敬意が感じられる作品だと思います。
…一方、モディリアーニによるポール・ギヨームの肖像画はアーモンド型の眼や首から肩、腕にかけての滑らかな曲線がモディリアーニらしいですが、図録13ページに載っているギヨームの写真を見るとその表情が忠実に捉えられていることが分かります。ドランによるナチュラルでスタンダードな肖像画に比べると、モディリアーニの作品は画家とモデルの個性がより強く出ている印象ですね。画家=鑑賞者に向かって微笑みかけるポール・ギヨームの瞳や口元からはエコール・ド・パリの画家と、彼が生み出す新しい具象絵画への関心や好意が感じられると同時に、その魅力的な微笑みに引きつけられるようなものを感じます。アフリカの彫刻などに影響を受けたモディリアーニの画風は単純化された形体が特徴ですが、ポール・ギヨームはアフリカ美術を熱心に愛好していましたから、価値観・美意識を共有する同志としての親近感もあるのかもしれません。ポール・ギヨームはモディリアーニよりも年下で、描かれた当時はまだ23歳なのですが、年齢よりも落ち着いた雰囲気があり、画家にとって頼りがいのある人物だったのだろうとも思います。モディリアーニやドランの作品を見ていると、ポール・ギヨームは画商としての信頼感があるだけでなく、人間的にも好ましい人柄だったのだろうと思いました。

マリー・ローランサン《ポール・ギヨーム夫人の肖像》(1924~1928年)、アンドレ・ドラン《大きな帽子を被るポール・ギヨーム夫人の肖像》(1928~1929年)

…ポール・ギヨームの妻ジュリエット・ラカーズ(1898~1977、通称ドメニカ)は南東フランスで生まれ、1910年代にパリのキャバレーで働くようになり、そこでポール・ギヨームと出会って結婚したと見られるそうです。ローランサン肖像画に描かれたドメニカはピンクのドレスを身につけ、花を手に小首を傾げて夢見るように微笑んでいて、少女のように可愛らしい印象ですね。一方、アンドレ・ドランによるドメニカの肖像画は、ローランサンのものと近い時期の作品ですが、大きな帽子を被り、ストールを羽織った富裕層の女性らしいエレガントな装いで、くっきりとアイラインの入った目は強い意志を感じさせます。輪郭も色調もシャープで明瞭なためか、整いすぎていて隙のない印象は、同じドランによる夫ポール・ギヨームの肖像画ともかなり雰囲気が違う気がします。画家自身の個性の違い、そしてモデルの捉え方の違いが感じられて興味深く思いました。

オーギュスト・ルノワール《ピアノを弾く少女たち》(1892年)、《バラをさしたブロンドの女》(1915~1917年)

…ピアノの前の二人の少女を描いた《ピアノを弾く少女たち》は、フランス政府から依頼を受けてルノワールが制作した作品のうちの一点です。画中に登場するアップライトピアノは18世紀末に開発され、19世紀には工場で量産可能になったことで中流階級の家庭にも普及し、女性達のあいだでピアノのレッスンが流行したそうです。伝統的な風俗画の場合、楽器を弾く女性という主題はしばしばロマンスの暗喩なのですが、この作品に描かれた少女達はもっと無邪気に音楽を楽しんでいる様子で、時代の変化を感じます。カーテンやリボンの青、ワンピースの白が画面を引き締め、爽やかな印象を高めています。片手で楽譜を捲りながらピアノを弾く白いワンピースの少女がピアノの練習をしている傍で、頬杖をつく赤いワンピースの少女は目を伏せて音色に耳を傾けているようです。画面の中心を占める二人の少女のうち、この作品では微笑みを浮かべてピアノを弾く白いワンピースの少女が中心に見えるのですが、最終的に国家に買い上げられた作品では赤いワンピースの少女の顔の角度や表情が変わっているためか、横向きのピアノを弾く少女より彼女に視線が引きつけられるんですよね。ポーズや表情の微妙な違いでこんな風に印象が変わるのも興味深いです。ピアノの装飾や背景の仕上げは大まかですが、その分絵筆の運びも伸び伸びとしていて、少女達のささやかな日常の一コマを生き生きと表現している作品だと思います。
…《バラをさしたブロンドの女》のモデル、アンドレ=マドレーヌ・ウシュリング(愛称デデ)は後に女優となり、ルノワールの次男で映画監督のジャン・ルノワールと結婚しているそうです。この作品が描かれた当時のデデは16~17歳で、《ピアノを弾く少女たち》とさほど年齢は離れていないと思うのですが、可憐な少女達と比べると若々しい中にもより成熟した女性らしさが感じられます。花に喩えるなら、つぼみが花開いて咲き初める最も瑞々しい時期でしょうか。《ピアノを弾く少女たち》が一瞬の場面に人生のほんのひとときである少女の時期を重ね合わせた作品だとするなら、こちらは女性の豊かな肉体に普遍的な生命力の豊かさを象徴させて表現していると言えるかもしれません。髪に挿したバラの花と同じ色合いの艶やかな唇が官能的で、全てが溶けるように柔らかい色彩に血の通った温かみを感じられる作品だと思います。

パブロ・ピカソ《布を纏う裸婦》(1921~1923年)、《タンバリンを持つ女》(1925年)

…《布を纏う裸婦》が描かれたのは1921~1923年頃、《タンバリンを持つ女》は1925年で2年ほどしか離れていないのですが、ピカソらしい振り幅の大きさが感じられる対照的な女性像です。《布を纏う裸婦》は、目を伏せて白い布で肌を覆う女性のずっしりとした実体の重みが印象的な作品です。画面左側に光源があり、女性の顔立ちは鑿で削られたように面ごとに塗り分けられていて、円筒形の腕や腿などは彫刻のような立体感があります。色味は少なく、白い布と女性のピンクがかった肌と暗褐色の長い髪、そして背景のグレーのみですが、よく見ると肌は黄みがかったグレーの点描が施されていて、光がもたらす微妙な階調が繊細に表現されています。一方、後者の《タンバリンを持つ女》は女性の帽子(又はターバン)やスカートの赤と空色のソファ、紫のクッションと黄土色のタンバリンといった鮮やかな色彩が対比され、平面的に描かれています。タンバリンを手にソファに横たわる女性の姿は横からの視点と上からの視点が組み合わされ、手前に置かれた果物の輪郭と色面とをずらす描き方なども、自然主義的な《布を纏う裸婦》とは対照的ですね。タンバリンは中近東起源の打楽器で、西洋音楽では東洋的雰囲気の演出に用いられたりするそうですから、この女性はオダリスク若しくはそれを模しているのでしょう。布で慎ましく身を隠す裸婦とは対照的に、女性は上半身を大胆に開けて右胸は誇張するように歪められていますし、手前に置かれた果物もエロティックなニュアンスを感じさせます。しかし、女性は愁いを帯びた表情で物思いに耽っているようです。ピカソはこの作品を手掛けていた頃、シュルレアリスムから影響を受けた作品を制作していたそうなので、背景の壁の左半分が黒く、途中から黄色になっているのも明暗の表現ではなく、昼間の明晰な意識と夜の無意識の夢想を表現しているのかもしれません。女性が夢を見ているのか、あるいは画家=鑑賞者が女性の夢を見ているのか、意識の揺らぎが硬直した日常の感覚も揺さぶるような作品だと思います。

アンドレ・ドラン《アルルカンとピエロ》(1924年頃)

…楽器を抱え、荒野を旅する二人の道化師。ドランの《アルルカンとピエロ》は青空を背負って踊る二人の身体が斜めに傾き、鑑賞者を見下ろす奇抜な構図が印象的です。アルルカンもピエロもいわゆる道化師ですが、快活なアルルカンと内気なピエロというコンビでひと組にされることもあるそうで、派手な色遣いのぴったりとした衣装を身につけたアルルカンとゆったりとした白い衣装を着ているピエロとは対照的な一対として描かれています。一方で、二人の表情が共に陰気でもの悲しく、戯けているように見えないのは道中の苦労のためでしょうか。ピエロの足元には投げ銭を入れる壷がありますが、荒野のただ中で観客がいるのか疑問にも思われます。彼らは徒労な努力の虚しさを噛みしめているのかもしれません。あるいは旅は人生の比喩であり、人は現世という舞台で滑稽な見世物を演じる道化師のようなもので、人を笑い、人に笑われながら、誰しも心のどこかにある虚しさやもの悲しさを拭い去ることができないのかもしれません。この作品はポール・ギヨーム夫妻の邸宅の居間を飾っていたもので、ピエロのモデルは所有者であるポール・ギヨーム自身なのだそうです。ポール・ギヨームは自邸の居間でこの作品を見上げながら、束の間の儚い喜びや楽しみ、一時の栄華に囚われることを戒めていたのかもしれないと思いました。

没後90年記念 岸田劉生展 感想

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見どころ

…この展覧会は日本の近代美術の歴史の中でもとりわけ独創的な絵画の道を歩んだ岸田劉生(1891~1929)の没後90年を記念する回顧展です。出品作は初期の水彩画、代表作《道路と土手と塀(切通之写生)》や愛娘麗子を描いた肖像画、「東洋の美」に目覚めて独学で取り組んだ日本画など、東京国立近代美術館をはじめ日本各地の美術館が所蔵する作品約150点で構成されています。
…岸田は二十年余りの画業の中で何度も画風を大きく変化させているのですが、変化のきっかけには幾つもの出会いがあるように思います。若干十四歳にして両親を失った岸田ですが、キリスト教の洗礼を受けたことで牧師の田村直臣と出会って画家になることを奨められ、さらに雑誌『白樺』を通じてゴッホゴーギャンマチスの芸術に衝撃を受けるとともに、親友となる武者小路実篤とも出会います。肺病と診断されたために戸外での写生ができなくなったことはマイナスの出会いなのですが、室内で制作できる静物画に取り組んで新たな境地を切り拓く強靱さもあります。最愛の娘・麗子の誕生は数々の麗子像として結実しました。今回の展覧会を通して、岸田の人生と作品は根底において相互に不可分に結びついているように感じました。
…私は9月最初の土曜日に見に行きましたが、落ち着いてじっくり作品を見ることが出来ました。作品数が多いので、所要時間は2時間以上を見込んでおくと良いと思います。図録には岸田の日記や論考などの記述も含めた日単位の詳細な活動記録が所収されているので、興味のある方は購入されることをお勧めします。

 概要

【会期】

…2019年8月31日~10月20日

【会場】

東京ステーションギャラリー

【構成】

 第1章 「第二の誕生」まで:1907~1913
 第2章 「近代的傾向…離れ」から「クラシックの感化」まで:1913~1915
 第3章 「実在の神秘」を超えて:1915~1918
 第4章 「東洋の美」への目覚め:1919~1921
 第5章 「卑近美」と「写実の欠除」を巡って:1922~1926
 第6章 「新しい余の道」へ:1926~1929 

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 感想

風景画:《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年11月5日)他

…風景画は岸田の画家としての始まりであり、終生描き続けたテーマです。最初期の作品である《緑》(1907年8月6日)は水彩による透明感と瑞々しさが爽やかな風景ですが、岸田は雑誌「白樺」を通じてゴッホマチスらの影響を受け、鮮やかで大胆な色遣いが印象的な《築地居留地風景》(1912年12月23日)などを描くようになります。出会いを契機に画風が大きく変化するのは、感性の鋭さや良いものを積極的に取り入れようとする柔軟さの証でもあると思うのですが、他の画家たちが築いた表現に飽き足らず、自身の目で見た表現を模索した岸田は、やがて結婚して居を構えた代々木近辺の風景を描くようになります。現在の代々木はビルのただ中にある街ですが、百年前の岸田の作品ではまだ建物がほとんどなく、道端には草が生い茂っていて、その変貌ぶりに驚きます。《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年11月5日)は開発が進む代々木の風景を克明に描いた写実的な作品ですが、坂道が坂道以上の意味を持って迫ってくる印象を受けました。真っ青に晴れた空に向かって赤茶けた険しい坂道が盛り上がり、明るい日差しを浴びる左手の石塀は奥行きが圧縮されて遠近感が強調されています。石塀は築かれて日が浅いのか白さが際立ち、逆光で影になっている向かいの暗い崖と対になっています。道を挟んで左側は人間の手による人工物、右側は切り拓かれる以前からの自然の山であり対峙する両者の静かな緊張感が感じられます。乾いた地面には雑草が生え始めている一方で、道端に立つ電柱の影も差していて、道の上で人と自然とが交錯していますが、せめぎ合う自然の生命力と人間の文明との対立とも共存とも受け取ることができそうです。世界の縮図のような一本の道は力強く上昇していて、未来に続いていることを予感させる作品だと思います。

人物画:《麗子肖像(麗子五歳之像)》(1918年10月8日)他

…1913年、「ゴッホの手法の感化」や「マチスの絵と理論」ではなく、自分の眼と頭で捉えた表現を模索していた岸田は、妻となる蓁との恋愛もあり人間への関心が特に高まったことも重なって、立て続けに肖像画を制作しています。例えば11月5日に《自画像》を描き、その翌日の11月6日には《清宮氏肖像》を描くなど、一日に一点油彩の肖像画を描いているような場合もあり、「首狩り劉生」と呼ばれたのも頷ける驚異的なスピードと集中力だと思いました。
…《黒き土の上に立てる女》(1914年7月25日)は、「大地とともに生きる女性」を描いた作品で、豊かな胸を開けて右腕に竹籠を携え、画面中央に堂々と立っている女性は妻の蓁がモデルだそうです。この作品が描かれた1914年の4月には娘の麗子が生まれているのですが、妻の姿は出産前のものなのか腹部に膨らみが見て取れます。竹籠は種が入っているのか、収穫物を入れるためなのかはっきりしませんが、出産=実りを暗示させる姿ですからあるいは収穫物を入れるためのものかもしれません。身重の妻の姿に裸足で大地を踏みしめる収穫と多産の象徴としての地母神を重ね合わせ、生命の豊かさ、力強さを表現した作品だと思います。
…《高須光治君之肖像》(1915年1月20日)は草土社展結成にも参加した画家の高須光治(1897~1990)の肖像画で、深い暗闇に沈む高須の姿が画面右側から差しこむ光によって浮かび上がり、眉根を寄せた沈痛な表情に一層ドラマチックな効果をもたらしています。肌の日焼けや染み、皺にいたるまで、高須の顔貌が極めて写実的に捉えられていますが、描かれているのは真摯に自己を見据える普遍的な人間の像です。岸田は後年、ルネサンス期の巨匠やデューラーなど「クラシックの感化」を受けた時期の自作を評価しなかったようなのですが、個人的には今回の展覧会の出品作の中でも特に強く印象に残った作品の一つです。
…岸田は愛娘・麗子の肖像画を数多く制作していますが、《麗子肖像(麗子五歳之像)》(1918年10月8日)はそのうちでも最初の作品です。ふっくらと丸みを帯びた赤みの差す頬や小さな手が子供らしく、櫛を通していない無造作な癖毛や右手に握られた犬蓼は麗子が手つかずの自然のように無垢な存在であることを感じさせます。一方で、つぶらな瞳は全てを見通しているかのように聡明な印象を与え、デューラーの肖像のように麗子をほぼ正面から捉えていることと合わせて、幼いキリストにも通じる気高さが感じられます。装飾的なアーチ型の枠に縁取られているのは母・蓁の肖像画《画家の妻》(1915年1月10日)とも共通していますね。古い歴史を感じさせるひび割れは壁龕に収まった由緒ある壁画を写した画中画のようでもあり、一人の少女の姿を通して時間が流れても変わることのない聖性を表現した記念碑的な作品だと思います。

静物画:《静物(手を描き入れし静物)》(1918年5月8日)他

岸田劉生と言うと風景画や麗子像のイメージがあり、静物画は初めて見たのですが、私がこれまで目にしたことのある静物画の先入観が覆され、異色の静物画という印象を受けました。静物画のモチーフは作為を感じさせないようにバランスを考慮しつつ無造作に並べられたり、器に盛られたりすることが多いと思うのですが、壷の口に林檎が置かれている《壷の上に林檎が載って在る》(1916年11月3日)や《林檎三個》(1917年2月)の均等に三つ並んだ林檎などは、まずその意表を突いた構図に引き込まれます。一見奇を衒った構図なのですが、対象を描きつつ寓意を踏まえていたり、あるいは色彩や形体の構成に関心の重きがあったりする作品とは異なり、画家の視線はむしろ対象自体にまっすぐ向かっていて、どうしてそれが、そこにそのようにあるのかという根本的な疑問や違和感が際立ちます。こうした作品の背景には、1916年7月に肺病と診断(実際は誤診だったそうです)され療養していた岸田の、自身が生きてこの世界に存在することや、人生の意味への問いがあるのでしょう。《二つの林檎》(1916年9月26日、1923年焼失)を描いた岸田は、「この二つの林檎を見て 君は運命の姿を思はないか 此処に二つのものがあるといふ事 その姿を見つめてゐると 君は神秘を感じないか それは美だ、在るといふ事の美だ。美は神秘の形だ」という言葉を書き残しています。岸田の静物画からは存在の神秘に迫り、物そのものを捉えようとする研ぎ澄まされた精神が感じられるように思います。
…《静物(手を描き入れし静物)》(1918年5月8日)では赤い林檎と白い器、左側の赤いカーテンと右側の紺のカーテンが対になり、ほぼ左右対称に構成されたモチーフのなかで、画面右奥にぽつんと置かれた1個の林檎のみが逸脱しています。現在は消されていますが、当初は濃紺のカーテンの陰から現れた右手が描かれており、1918年の第5回二科会展に本作を出品したところ「マジックのやうだ」、「悪趣味」などと評されて落選してしまったのだそうです。描き入れられた手は林檎をテーブルに並べる途中だったのでしょうか、テーブルから取り去るところだったのでしょうか。あるべきところにあるべきものをあるべきように配するのは神の手なのかもしれません。存在の神秘の背後にある、人知の及ばぬ意図を表現しようとした作品だったのだろうと思います。

松方コレクション展 感想

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見どころ

…「松方コレクション展」は国立西洋美術館の開館60周年を記念する展覧会です。
川崎造船所の初代社長を務めた松方幸次郎(1866~1950(慶応元年~昭和25年))は、日本の芸術家、人々のために美術館を作ろうと志し、1916年から1927年頃にかけてパリやロンドンを拠点に西洋の美術作品3,000点、フランスから買い戻した浮世絵8,000点も加えると総数1万点近い規模の美術品のコレクションを築きました。しかし、1927年の昭和金融恐慌による造船所の経営破綻、さらに第二次大戦の勃発という時代の荒波のなかで、コレクションは売却や火災、接収によって散逸してしまうのですが、戦後フランスから返還された作品375点と合わせて、1959年に松方コレクションをルーツとする国立西洋美術館が設立され、今日に至っています。
…私は松方コレクションと聞くとモネやルノワールなど印象派を中心とする近代フランス絵画をまず思い浮かべるのですが、今回の展覧会でコレクションの始まりはラファエル前派などのイギリス絵画だったことを知ることができました。また、西洋美術館のシンボルと言ってもいいロダンの《考える人》ですが、松方コレクション自体がロダン作品と縁が深いことも知ることが出来ました。1918年に松方はロダン美術館設立の中心人物だったレオンス・ベネディットとロダン作品の鋳造に関する契約を結びますが、資金を必要としていた草創期のロダン美術館にとってもロダン作品の大口鋳造契約は重要な意味があり、最終的に50点を超える世界有数のロダン・コレクションが築かれたのだそうです。さらに、ベネディットは松方のパリにおける作品購入の代理人としてフランス近代絵画の本格的な収集も行っていて、そうした経緯から松方コレクションがロダン美術館敷地内の旧礼拝堂に保管されることにもなったのだそうです。
…美術作品のコレクターにも色々なタイプがあるだろうと思うのですが、松方はブラングィンやベネディット、そしてモネと、多くの画家や美術関係者と積極的に交流を持っているのが印象的でした。また、個人のコレクションの場合、収集される作品はコレクターの愛好する作家やジャンル、あるいは価値観そのものを一定程度反映したものになり、そうした個性が魅力の一つでもあると思うのですが、松方の場合、日本のために美術館を作るという公的な目的をもっての収集だったためか、20世紀の美術作品から中世の古典美術まで収集範囲が広く、質の高さ、スケールの大きさを改めて実感させられました。時代の巡り合わせではありますが、もしも松方のコレクションの全てが揃って日本にあったならと思うと…夢のようですけどね。今回の展覧会で初公開されたモネの《睡蓮、柳の反映》は2016年にフランスで発見されて海を渡ったのですが、よく日本に帰ってきてくれたという気持ちになりました。大きく欠失した痛々しい状態は、松方コレクションの辿った激動の運命そのもののようにも思えます。芸術作品の命は人の一生を超える長いものですが、それだけに生き延びてきた作品は乗り越えてきた重い歴史を背負っているのでしょうね。
…私が見に行ったのは7月最初の土曜午後で、入場待ちはなかったもののかなり混雑していて、鑑賞者の列の後方から見た作品もありますし、会場内の休憩用の椅子もほとんど空きがなく座れない状態でした。会場内の照明は暗めに感じました。第1章の展示室では作品を壁面の上下に複数並べて展示していて、古い美術館のようだったのが面白かったですね。壁面の上部に展示された作品は少し後ろに下がると全体を見られると思います。展示室入口前のモネ《睡蓮、柳の反映》のデジタル推定復元図は撮影可能です。

概要

【会期】

…2019年6月11日~9月23日

【会場】

国立西洋美術館

【構成】

…概ね収集した時期・地域に従っての構成で、特に第1章の「ロンドン1916~1918」と第5章の「パリ 1921~1922」の出品数が多くなっています。作品数は150点余りで、国立西洋美術館のコレクションのほか、オルセー美術館大原美術館など国内外の美術館の所蔵品で構成されています。

プロローグ
 …モネ《睡蓮》(1916)

Ⅰ ロンドン 1916~1918
 …ロセッティ《愛の杯》(1867)、ミレイ《あひるの子》(1889)、セガンティーニ《羊の毛刈り》(1883~84)

Ⅱ 第一次世界大戦と松方コレクション
 …スタンラン《帰還》(1918)

Ⅲ 海と船
 …ブラングィン《救助船》(1889)、コッテ《悲嘆、海の犠牲者》(1908~09)

Ⅳ ベネディットとロダン
 …ロダン地獄の門》(1880~90頃、原型:1917、鋳造:1930~33)

Ⅴ パリ 1921~1922
 …クールベ《波》(1870)、ゴッホ《アルルの寝室》(1889)

Ⅵ ハンセン・コレクションの獲得
 …マネ《ブラン氏の肖像》(1879頃)

Ⅶ 北方への旅
 …ムンク《雪の中の労働者たち》(1910)

Ⅷ 第二次世界大戦と松方コレクション 
 …スーティン《ページ・ボーイ》(1925)、ルノワールアルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》(1872)

エピローグ
 …モネ《睡蓮、柳の反映》(1916)

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感想

第1章 ロンドン 1916~1918:ダンテ・ガブリエル・ロセッティ《愛の杯》(1867年、国立西洋美術館)、ジョヴァンニ・セガンティーニ《羊の毛刈り》(1883~84、国立西洋美術館)他

…1916年~18年にかけて、松方はロンドンを拠点に自社のストックボート(既成貨物船)を欧州に売り込み、その利益を資金として美術品の収集を始めました。ラファエル前派をはじめとするイギリス絵画はこの時期に収集されたんですね。
…ダンテ・ガブリエル・ロセッティ《愛の杯》は赤いローブの女性が金の杯を掲げていますが、この作品の額には「甘き夜、楽しき日/美しき愛の騎士へ」という銘文が入っているそうです。背後に描かれている鳥は忠誠の象徴の鳶なので、女性は杯の蓋を心臓に当てて、出征する恋人に変わらぬ愛を誓っているのでしょう。
…ルイ・ガレはロマン派の画家で、今ではあまり知られていないとのことですが、《芸術と自由》のヴァイオリンを手にした端正な音楽家の青年像は印象に残りました。青年が立っているのはバルコニーなのか、背後には自由を象徴するような青い海が見えますね。
カルロ・クリヴェッリヴェネツィア出身で、15世紀に中部イタリアで活動した画家ですが、19世紀のナポレオン戦争やイタリア統一戦争による混乱の中で作品が散逸してしまったそうで、《聖アウグスティヌス》も、本来は二段組三連祭壇画の一部だったとのことです。私はクリヴェッリの名を澁澤龍彦の文章で知ったのですが、クリヴェッリの作品は硬質な線描と装飾の華麗さ、眩い黄金が魅力だと思います。また、アウグスティヌスの司教冠を飾る宝石は手で触れられそうに盛り上がり、つま先は画面の中から鑑賞者の側に踏み出そうとしているように石段の先にはみ出していますが、絵画の世界が現実の三次元の世界に入りこんでくるような描き方もクリヴェッリの特徴の一つなのだそうです*1
…ジョヴァンニ・セガンティーニ《羊の毛刈り》では、羊小屋で毛を刈る農夫たちと、柵の外の牧草地に群れる羊たちが描かれています。柵に頭を載せて毛刈りの様子を見ている羊もいて微笑ましい情景ですが、のどかに見える羊の毛刈りはかなりの重労働だと聞いたこともあります。黙々と作業に励む慎ましい農夫たちの勤勉さと品格が感じられる作品だと思います。《花野に眠る少女》は花の咲く緑の野原に直に寝転ぶ少女の姿が、水彩とパステルの柔らかなトーンで描かれています。私はこの作品を見て「ロマンティック・ロシア」展(Bunkamuraザ・ミュージアム、2018年)に出品されていたニコライ・ドミートリエヴィチ・クズネツォフ《祝日》(1879年)を思い出しました。春という季節と若い少女を重ね合わせて、みずみずしい生命力を表現した作品だと思います。

第2章 第一次世界大戦と松方コレクション/第3章 海と船:テオフィル・アレクサンドル・スタンラン《帰還》(1918、国立西洋美術館)、シャルル・コッテ《悲嘆、海の犠牲者》(1908~09、国立西洋美術館)他

第一次大戦の最中にヨーロッパで収集活動を始めた松方は、戦争にまつわる同時代の作品も数多く収集しています。スタンラン《帰還》は戦場から戻ってきた兵士が、出迎えの恋人と抱き合って再会を喜び合っています。兵士の背後に蒸気機関車の影が描かれていますから、駅の情景なのでしょう。しかし、すぐ傍では夫を失って喪服を身につけた女性が、カップルを恨めしげに横目で見つつ子供の手を引いていますし、帰還できたとは言え戦場で傷を負った兵士もいるようです。戦争は終わってもなお、人々の日常に影を落としていることを描いた作品だと思います。
…ロンドンにおける松方の収集活動を支援し、松方のために「共楽美術館」のデザインも手掛けたフランク・ブラングィンは、海や船を主題とする作品を数多く制作していて、松方が最初に購入したのは造船所を描いたブラングィンの作品だとも言われているそうです。松方にとって、本業に縁のある海や船は思い入れのある主題だったのでしょう。ブラングィン《救助船》は、荒れた海のなかで大きく傾く蒸気船を救助向かう船が描かれています。蒸気船から上がる煙が強い風に吹かれて流されていますね。沈みかけている大型の蒸気船に対して、救助船はオールで漕ぐ小舟であり、両者の対比は自然の猛威の前では人間が非力であることを感じさせる一方、困難に怯まず立ち向かう人間の勇敢さも感じさせると思います。
…シャルル=フランソワ・ドービニー《ヴィレールヴィルの海岸、日没》は、灰色がかった空が夕暮れ時の朱い色にうっすらと染まり、海に落ちてゆく太陽が雲間から垣間見えています。暮色の迫る浜辺の人影は家路に向かうところでしょうか。みずみずしく爽やかな水辺の風景を数多く描いたドービニー晩年の作で、穏やかながらどこか寂寥感の漂う風景だと思います。
…シャルル・コッテ《悲嘆、海の犠牲者》はブルターニュ半島の西にあるサン島の情景を描いた作品で、鉛色の空をした港に大勢の村人が集まり、画面手前では土気色の肌の男性が粗末な木の担架に載せられ横たえられています。ブルターニュ半島とサン島のあいだの海域、サン水道はヨーロッパで最も危険と言われているそうで、横たわる漁夫もその犠牲者なのでしょう。担架が置かれた台は赤い布に覆われ、祭壇のようにも見えます。血の色でもある赤は、犠牲を象徴しているのかもしれません。布や船の帆の赤と人々が纏う喪服の黒との鮮やかな対比、停泊する漁船の重なり合う帆と立ち並ぶ家並みの単純化された幾何学的な形は画面に力強さを与えています。漁夫の周りに集まった人々は天を仰いで嘆く者、手巾で涙を抑える者やそれに寄り添う者とそれぞれに悲しみを露わにしていますが、おそらくピエタを踏まえた構図なのだろうと思います。ある者は項垂れ、ある者は手を合わせ、目を見開いて覗き込む者もあれば涙を堪えるように顔を背ける者もいて、衝撃、悲嘆の身振りが画面をざわつかせる中、厳かな静寂を保つ漁夫はキリストのようです。聖書にはキリストが十二使徒のペテロに「あなたを人間をとる漁師にしよう」と呼びかけた言葉があるそうで、例えばピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《貧しき漁夫》(1887~1892年頃)でも祈りを捧げる漁夫がキリストのように描かれています。名もなき庶民の死を気高く描き、人間の尊厳を表現した作品だと思います。

第4章 ベネディットとロダンオーギュスト・ロダン《瞑想》(原型:1900年以後、鋳造:1922年、国立西洋美術館

…松方のパリにおける美術品購入を支援したレオンス・ベネディットはパリのリュクサンブール美術館の館長であり、ロダンから作品目録の作成を託されてロダン美術館の設立準備を進めるなど、フランスの美術界に影響力のある人物でした。松方がベネディットとのあいだでロダン作品の鋳造を契約したのは1918年で、すでにロダンは逝去しているのですが、この時代の彫刻作品は、材料費や人件費などの事情から、まず彫刻家が石膏で原型を作成して公開し、注文を受けてからブロンズなどで鋳造するという手順になっていたそうです。松方はベネディットに自らのコレクションのカタログ作成も依頼し、家族ぐるみで交流していました。関係者の懐にどんどん入っていく松方はエネルギッシュで実業家らしい気がしますし、それだけ美術品への情熱も強かったのだろうと思いました。
…《瞑想》は元々ロダンのライフワークとなった大作《地獄の門》の人物像の一つで、扉の上部に位置するティンパヌムの右端で劫罰を受ける女性像が独立したものです。独立した像となる過程で普遍的な瞑想というタイトルがついたそうですが、大きく身を捩って苦悶するようなポーズは静かな物思いからは遠く、同じように《地獄の門》から独立した《考える人》が、座して頬杖をつき沈思するポーズなのとは対照的です。《考える人》の「考え」が意識的、理性的な思考を表現しているのに対して、「瞑想」はもっと直感的、あるいは霊的な深い想念を指しているのでしょうか。腕で顔を覆っているため表情は分かりませんが、重荷に耐えかねているのか、あるいは内心の真実を直視することに抗っているようにも見えます。元は劫罰を受ける像だったものにあえて瞑想というタイトルを付けたのは、心をかき乱す世俗的な苦悩から離れることの難しさ、そうした苦悩の渦中にあってこそ瞑想が希求されるということを示唆しているのかもしれないと思いました。

第5章 パリ 1921~1922:ギュスターヴ・クールベ《海岸の竜巻(エトルタ)》(1870、横浜美術館)、フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの寝室》(1889、オルセー美術館

…1921年から22年にかけて再びヨーロッパに滞在した松方は、ベネディットや姪の黒木竹子夫妻らの協力も得て、数々のフランス近代絵画を購入しました。この時期に収集された作品はクールベ《波》やモネ《舟遊び》、ルノワールアルジェリア風のパリの女たち》など現在の西洋美術館をイメージする時にまず思い浮かぶ画家、作品が多く、松方の収集活動が順調で充実したものだったことが窺われます。
クールベ《海岸の竜巻(エトルタ)》は岸に打ち寄せて砕ける白波と、雨と波しぶきで霞む海上から垂れ込める暗い雲に向かって巻き起こる黒い竜巻の姿が描かれています。雲の端で白く光るのは稲光でしょうか。1869年夏にエトルタに滞在したクールベは、窓に額をくっつけて荒れ狂う嵐の空や海を観察したとも言われ、翌年にかけて《波》をはじめとする嵐の海を題材とする多数の作品を制作しました。自然の作りだす一瞬の形象に究極の完全さを見出したような《波》とは対照的に、激しい嵐のただ中の混沌とそのエネルギーを描いた迫真の風景だと思います。
ゴッホ《アルルの寝室》は3つのバージョンがあり、出品作はサン・レミの精神療養所に入院したあとゴッホが母親のために描いた最後のバージョンです。実際の寝室は矩形の部屋だそうですが、ゴッホは長方形に単純化し、魚眼レンズで覗いた光景のように部屋の奥行きを強調する構図で描いています。青い壁や扉と黄色いベッドや椅子とが対比され、壁に掛かるスモックや麦わら帽子がこの部屋の主を示唆しています。画家の部屋なのに画架やパレットが見当たらないなと思ったのですが、休息のためのプライベートな空間ですし、ゴッホの場合は積極的に戸外に出て制作に取り組んだということもあるのでしょう。ゴッホ静物画を描いても画家の人物が滲み出て自画像のように感じられる場合があるのですが、この作品も同様で、身の回りの品と絵があるだけの簡素な室内からは、制作に打ち込むゴッホの人柄の一端が感じられます。「ぼくはまさに他の芸術家たちがぼくのように簡素を欲する気持ちを持って欲しいと願っている……日本人はいつも非常に簡素な室内で暮らしてきたが、それでも偉大な芸術家があの国で生まれたではないか」*2東京都美術館ゴッホ展 めぐりゆく日本の夢」では三作ある《寝室》のうち、ゴッホ美術館所蔵のオリジナルの《寝室》(1888年)が出品されていたのですが、オリジナルがアルルに着いた直後のユートピアを夢見ていた時期の作品であるのに対して、今回の出品作は精神療養所に入院したあとのものなんですね。つまり、この作品はゴッホの人生でも希望に満ちた幸福な時期と傷つき夢破れた苦難の時期の双方で描かれていることになり、その意味で画家自身と共にあったと言えるかもしれません。両者を比べてみると壁に掛けられている絵や視点の角度などが変わっているのですが、一番の違いはオリジナルが青と黄に加えて赤と緑の補色の対比も効果的に用いられ、床板が赤みを帯びた茶褐色で、ベッドカバーの赤と共に床板の継ぎ目や窓枠の緑と対比されていることで活気や華やかさが感じられる点だと思います。一方、1889年に描かれたこの作品では床板の色が薄くなって赤の印象が後退し、全体としてオリジナルより淡く落ち着いた雰囲気になっています。見る側としてはこの間の変化を踏まえて客観性と冷静さ、情熱や葛藤が洗い流された寂しさと穏やかさを読み取りたくなるのですが、澄んだ静かな明るさに満ちた作品だと思います。

第6章 ハンセン・コレクションの獲得/第7章 北方への旅:エドゥアール・マネ《ブラン氏の肖像》(1879頃、国立西洋美術館)、エドヴァルド・ムンク《雪の中の労働者たち》(1910、国立西洋美術館)他

…1922年、松方はデンマークの実業家ウィルヘルム・ハンセンの近代フランス絵画コレクション34点を各国のコレクターと競合した末購入しますが、その後川崎造船所の破綻などもあり、作品の多くは売却されてしまいます。ブリヂストン美術館が所蔵するエドゥアール・マネの《自画像》もその一枚ですが、マネの自画像はたった2点しか残されていないそうですから未完成とは言え貴重な作品です。散逸してしまったことは残念ですが、松方コレクションがこうして国内各地の美術館に受け継がれているのは救いでもあるでしょう。この《自画像》とよく似たポーズを取っているのが、同時期に描かれた《ブラン氏の肖像》です。青い上着に白いズボンという爽やかな季節に合った装いのブラン氏は、生い茂る木立のあいだの小道を散歩中にふと立ち止まったようなさりげなさで、腰のポケットに手を入れて木漏れ日の中に佇んでいます。マネは梢や木漏れ日を印象派的な素早いタッチで描き、戸外の光や風を表現しつつ、人物はシンプルな輪郭線と平坦な色面によって形を保って描いていて、新たな表現を模索していたことが見て取れます。この作品はブラン氏のために描いた肖像画を元に、マネが大きなサイズで描き直したものだそうなので、きっと画家は肖像画の出来栄えを気に入っていたのでしょうね。軽やかで洒落た印象の作品だと思います。
…1921年の松方の渡欧は、海軍から最新のドイツ潜水艦の設計図を入手するよう依頼されたためで、パリにおける収集活動はカムフラージュだったとも言われているそうです。小説のような話の真偽は不明だそうですが、松方は実際ドイツや北欧も訪れて作品を購入しています。
エドヴァルド・ムンク《雪の中の労働者》はこの時期に購入された作品のうちの一枚で、雪の中、ツルハシやスコップを手にした労働者たちが作業に勤しんでいます。前景ではスコップを担いだ男性が白い地面をしっかりと踏みしめるように立ち、後ろの男性が突き出したスコップは見る者に迫るように大きく描かれていて、力強さが感じられます。ムンクというと生と死、愛と性を象徴的に描いた作品のイメージが強いので、現実の社会と向き合って過酷な労働を担う人々の逞しさを表現したこの作品には新鮮な印象を受けました。
…《眠れるニンフとふたりのファウヌス》は《死の島》で有名なアルノルト・ベックリンの作品です。ファウヌスはギリシャ神話のパーンに当たるローマの神で、多産のシンボルでありニンフに恋する逸話も多く、夢魔のイメージもあるそうです。しかし、この作品ではむしろファウヌスのほうが夢見心地になっているかのように座り込み、陶然とした表情でニンフに見惚れています。画家はただそこにあるだけで見る者を惑わせ、虜にする女性のミステリアスな魅力を表現したかったのかもしれません。
ピーテル・ブリューゲル(子)《鳥罠のある冬景色》もこの時期に入手した可能性がある作品で、父ピーテル・ブリューゲルのオリジナルに基づき、長男ピーテル・ブリューゲルが手掛けた模写です。東京都美術館の「ブリューゲル展」(2018年)でも別の模写作品を目にしましたが、《鳥罠のある冬景色》の派生作は127点、長男のピーテルはそのうち40点余りを手掛けている*3そうですから、人気の高さが窺われますね。もっとも、模写と言っても完全に同じではなく、東京都美術館で見た作品は空全体がうっすらと白っぽいのに対して、今回の出品作は空が青く晴れ、樹木や家の壁の色も鮮やかで、そうした違いを見比べるのも面白いです。今回の出品作はピーテル・ブリューゲル(子)による模写の中でも特に質が良いものの一枚だそうです。
…なお、松方が北ヨーロッパを旅する中で購入したタピスリー《神話の一場面》は、スペースなどの都合なのでしょうが、第1章の展示室で展示されていました。

第8章 第二次世界大戦と松方コレクション:ハイム・スーティン《ページ・ボーイ》(1925、パリ国立近代美術館・ポンピドゥーセンター)、ピエール=オーギュスト・ルノワールアルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》(1872年、国立西洋美術館

…1927年に起こった昭和金融恐慌の影響で川崎造船所は経営破綻し、松方は1928年に社長を辞任します。国内では差し押さえられた作品が売却される一方、ロンドンの倉庫に保管されていた作品は1939年に火災で焼失し、パリのロダン美術館の旧礼拝堂に預けられていた作品は1940年に松方の部下である日置によってパリの北のアボンダンに疎開しました。大戦末期にフランス政府に接収された松方コレクションは、戦後、返還交渉の末に20点がフランスに留め置かれることになりましたが、日本に返還された作品群はル・コルビュジエ設計による国立西洋美術館に収められ、日本人のための美術館設立を目指していた松方の念願も叶えられることになりました。
…真っ赤な服が目を引くハイム・スーティンの《ページ・ボーイ》は、上述の日仏間の交渉の結果、フランスに留められた作品の一つです。ページ・ボーイとはホテルや劇場などで客を案内したり、用を言い付かったりする給仕・ボーイのことですが、慇懃で如才なく立ち働く職業というイメージとは対照的に、ここでは腰に手を当てて肩を怒らせ、立ちはだかるように足を開いた姿で描かれています。赤い服と暗い色調の背景、威圧的ななポーズとしぼんだ顔の憂鬱そうな表情とが対比されていて、華やかな世界に身を置きつつ人に傅く尊大さと屈託、疎外感が感じられる作品だと思います。
…一方、ルノワールアルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)》は、文化財保護委員の八代幸雄がフランス側と粘り強く交渉した末に、日本へ返還されたルノワール初期の代表作です。ルノワール自身はこの作品を単に「ハーレム」と呼んでいたそうなので、舞台設定はオリエント世界だったのだろうと思いますが、座の中心である金髪の女性はヨーロッパ女性なので、後になって「アルジェリア風のパリの女たち」という名称が付けられたのでしょうか。この作品を制作した当時のルノワールはまだ実際にはアルジェリアを訪れたことはなく、ドラクロワの作品や神話などを元にオリエンタルなイメージを膨らませて描いたものなのでしょう。画面中央、肌の透ける薄い衣装をまとった金髪の女性は身支度をしているところで、仄暗い室内に差し込む光が女性の白い肌を照らし出しています。初期の作品ということですが、生命力を感じさせる豊満な肢体にはルノワールらしさを感じます。画面左側に座って装身具と化粧道具を手にした女性があらぬ方を振り返り、画面右奥で幾何学的な装飾の長持ちに腰掛けた女性が窓のほうに身を乗り出しているのは、女性たちが寛いでいるところに突然ハーレムの主がやってきたのでしょうか。侍女たちが外の出来事に気を取られているのをよそに、金髪の女性はすかさず鏡を見て自分の姿を確かめていますが、白い腿を露わにさらけ出さした官能的な姿態と裏腹に、眼差しは真剣なものです。遠い異国、あるいは夢想の後宮で、艶やかな女性たちが織りなす一瞬の緊張感を表現したロマンチックな作品だと思います。

プロローグ/エピローグ:クロード・モネ《睡蓮》(1916年、国立西洋美術館)、《睡蓮、柳の反映》(1916年、国立西洋美術館

…両作品は晩年のモネが睡蓮の大装飾画を制作する過程で生み出されたものです。制作途中の大装飾画の構想が外部に漏れることを嫌ったモネはこうした関連作品を売りたがらなかったのですが、ベネディットの支援や影響力、モネと親しい交流のあった松方の姪黒木竹子夫妻の仲介もあって、松方はこれらの貴重な作品を入手することができたそうです。
…ほぼ正方形のカンヴァスに描かれている《睡蓮》は、水面に映り込んだ緑から岸辺の様子が窺われるだけで、画面は水を湛えた池に占められています。睡蓮の群生する池の青は水の色であり、同時に空の色でもあるのでしょう。水面の緑は岸辺に生える緑が映り込んだものとも、水中の水草とも考えられます。モネは日々自邸の庭を見つめていたと思いますが、描かれたこの睡蓮の庭は実際に見たままを写したというより、モネの無数の経験、記憶を通して昇華された光景のように感じられます。
…《睡蓮、柳の反映》は第二次大戦中、疎開していた時期に損傷したと見られていて、その後所在が分からなくなっていたものが2016年にフランスで見つかり、修復を経てこのたび公開されることになったそうです。作品は右上から左下にかけて約半分が失われてしまっているのですが、この残存部分を元に、損傷する前に作品を撮影した写真や他のモネの作品なども分析した上で推定された全体像が今回、デジタルで復元されて公開されていました。復元図を見ると、水面に映る曲がりくねった柳の幹と葉を取り巻くように睡蓮が描かれています。睡蓮の葉は青みがかっているんですね。時間帯や天候にもよるのでしょうし、水面に映り込んだ柳の緑を際立たせるためでもあるのでしょう。同時期、同主題の《睡蓮》においては図が睡蓮で、地は池であるのに対して、《柳の反映》では地と図が逆転しています。この作品が完全な姿で残っていれば、かなり大きな画面ですから見る者は水の中に引き込まれるような印象を受けるんでしょうね。空と陸と水の三つの世界が一つに重なり合っている、水鏡の中だからこそ可能な世界に、唯一実体を持っている睡蓮だけが溶け合うことなく表面を漂い、現実と映像の境界を示している、そんな作品のように思いました。

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《睡蓮、柳の反映》デジタル推定復元図

 

*1:カルロ・クリヴェッリ画集』トレヴィル、P88-90

*2:ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」(東京都美術館、2017年)P84

*3:ブリューゲル展」(2018年、東京都美術館)P194