永遠のソール・ライター 感想
見どころ
…この展覧会は1960~80年代に商業写真で活躍し、2006年、『Early Color』をきっかけに「カラー写真のパイオニア」として脚光を浴びて、再評価されるようになった写真家、画家のソール・ライター(1923年~2013年)の2017年に続く回顧展で、モノクロ作品及びカラー作品200点以上から構成されています。
…ユダヤ教のラビだった父の反対を押し切り、画家を志してニューヨークに移り住んだソール・ライターは「私は色が好きだった。たとえ多くの写真家が軽んじたり、表面的だとか思ったりしても」*1と語っていて、モノクロ写真のみが芸術作品として評価されていた時代から多くのカラー作品を撮り続けてきました。ソール・ライターのカラー作品にはモノクロの雪風景を彩る赤い傘が印象的な《赤い傘》(1958年頃)や、窓の装飾があたかも宙に浮いた物体のように見える《黄色いドット》(1950年代)、影になった柵の隙間から垣間見える女性の後ろ姿を捉えた《青いスカート》(1950年代)など、街の風景の中からひと際鮮やかな色が浮かび上がり、目を引きつける作品がしばしばあるように思います。薄紅色の傘が作るアーチの下で、濡れた路面にピントのぼやけた車や街並みが写っている《薄紅色の傘》(1950年代)は、傘の色がそのまま広がり全体がうっすらと色づいているように感じられて個人的に今回の展覧会で一番気に入りました。
…私は会期最初の土曜日の午前中に見に行きましたが、混雑しておらず落ち着いて作品を見ることができました。モノクロ写真はサイズの小さなものが多く、近くで見る必要があると思います。カラー写真は比較的大きめです。個別の作品解説はありません。所要時間は90分程度を見込んでおくと良いと思います。なお、出品作の中には公式図録に掲載されていない作品があります。例えば、《ハーレム》(1960年)や《モンドリアンの労働者》(1954年)などは2017年の展覧会の図録である『ソール・ライターのすべて』に掲載されていて、今回の図録にはありません。図録が一般書籍としても販売されているため前回出品作については重複を避けたのでしょうが、好きな作品があるかどうか購入時に確認した方が良いと思います。
概要
【会期】
…2020年1月9日~3月8日
【会場】
…Bunkamuraザ・ミュージアム
【構成】
Part Ⅰ ソール・ライターの世界
1.Black & White
2.カラー(1)
3.ファッション
4.カラー(2)
Part Ⅱ ソール・ライターを探して
1.セルフ・ポートレート
2.デボラ
3.絵画
4.ソームズ
5.その他
…展示構成はソール・ライターが遺した膨大な作品から発掘されて初公開となるカラー作品、モノクロ作品を含む第1部と、写真家自身を紹介する第2部の2部構成になっています。
…第1部はモノクロ写真とソール・ライターの名を知らしめたカラー写真、ファッション誌のために撮影された商業写真に分かれています。カラー写真には2000年代に入ってからの作品も含まれています。商業写真の点数は少なめです。
…第2部はソール・ライター自身と家族やパートナーなど身近な人々、愛猫たちを撮影した作品です。デボラはソール・ライターの妹で、兄の活動に理解があり初期作品で兄のモデルを務めていましたが、その後精神障害を患い、2007年頃に亡くなっています。ファッション・モデルとしてソール・ライターと出会い、自らも絵画を制作していたソームズ・バントリーは40年以上ソール・ライターと生活を共にしたパートナーで、2002年に亡くなりました。また、「ここ数年、私は自分の絵のことを『キッチン絵画』と呼んでいる。ワインを買うとボトルのあいだにはさまれている小さな板に絵を描いている。私は夜中に目を覚まし、コーヒーのお湯を沸かす間に、絵をひとつ描く」*2とも語り、写真と並行して絵画の制作も続けていたソール・ライターですが、2017年の展覧会に比べると今回は絵画作品の出品は少なめです。
…会場では作品のほかコンタクトシート(フィルムを印画紙に密着させてプリントしたもので、フィルムの内容を一覧で確認することができる)が展示されていました。また、プリントされないまま遺された数千点に上るとされるカラー・スライドの一部が上映されていました。
…第2部の「5.その他」ではソール・ライターが使っていたパレットや椅子、ソール・ライター及びパートナーのソームズ・バントリーの絵画作品などが展示されているコーナーがあり、撮影可能です。
感想
…ソール・ライターの作品は、その多くが自身の住んでいたニューヨークの一角、マンハッタン東10丁目周辺の街と人を撮影した写真です。
…片隅にささやかな謎を宿した、少し距離のある間接的な街の風景。ソール・ライターの作品は代わり映えのしない風景の見方をいつもと少し変えただけで、新鮮な姿が見えてくることを教えてくれます。例えば《街の風景》(1957年)の濡れた路面に映りこんだ景色や、《無題》(1950年代)で車のボンネットに映り込み、曲面によって歪められたビルなどは、見慣れた風景やありふれた物体をこれまで見たことのない姿に変貌させています。「私が写真を撮るのは自宅の周辺だ。神秘的なことは馴染み深い場所で起きると思っている。なにも、世界の裏側まで行く必要はないんだ」*3。階段の格子の影が下にいる男性の背中に写って模様のようになっている《タナガー・ギャラリーの階段》(1952年)などもそうですが、ソール・ライターはぼんやりしていたら気づかなかったり、あるいは逆に当然と思って見過ごしてしまうような身近な日常のなかの偶然に遭遇したときの感動を捉えていると言えるでしょう。中には、赤白の屋根に印刷された「MR.」の文字の下にちょうど良い案配で男性が立っていて、絶妙の取り合わせがユーモラスな《MR.》(1958年頃)のような作品もあります。
…また、窓に映った風景や窓越しの風景を撮影した写真も多く、《ペンキのあと》(1948年頃)や《窓》(1957年)、《紙》(1950年代)、《靴》(2006年頃)など、ペンキの塗り痕や一部が剥げ掛かった窓の色ガラス、カーテンなどが絵画の背景や地のように映り込んでいる作品もあります。《帽子》(1960年)では、寒さで曇った窓の向こうに立つ人物の輪郭がぼかされて色彩が滲み、ガラスを伝い落ちる水滴が絵の具の滴りのように見えます。「雨粒に包まれた窓の方が、私にとっては有名人の写真より面白い」*4との言葉もあり、ソール・ライターがこうした写真を好んで撮影していたことが分かりますが、偶然や自然現象がもたらす絵画のような効果は、忙しない毎日に消耗し、硬直してしまった感覚に改めて驚きや喜びを与え、想像力を蘇らせてくれると思います。
…ソール・ライターの作品には多くの場合人物が写り込んでいるのですが、《そばかす》(1958年頃)のように正面から被写体の表情を捉えたものは少なく、後ろ姿や少し距離のある横顔を捉えたものが大半です。ソール・ライターは「人の背中は正面より多くのものを私に語ってくれる」*5と語っていますが、人に見られることを意識しない背中は無防備で、取り繕わない個性や感情が滲み出ているものかもしれません。《緑のドレス》(1957年頃)は緑のドレスを着た女性が店の男性と話している情景を捉えたものです。両手を腰に当てて立つ女性は熱心に話し込んでいるようで、ポーズからは怒っているようにも見えます。もっとも、この作品では緑のドレスからのぞく綺麗な背中がより印象的で目を奪われました。
…一方、デボラやソームズなど身近な人物を撮影した写真では近い距離から表情もはっきり捉えられています。人物の濃密な存在感が伝わる率直な表現は、ソール・ライターが愛着を持っていたボナールやヴュイヤールなどナビ派の作品に通じる親密な感情が窺われます。
…元々画家を志していたソール・ライターは、写真家として活動する傍ら、絵画も手掛けていましたが、写真を撮ることと絵画を描くことの間に違いも感じていたようです。「写真を撮ることは発見すること。それに対し、絵を描くことは創造することだ」。違いがあるからこそ、両方必要だったのかもしれませんね。写真の場合、絵画のように初めに自分の意志があってつくり出すのと異なり、「神秘的なこと」の出現を待つ、偶然に身を任せる面もありますが、意識のコントロールを手放すことによって、先入観に囚われない発見に出会うことも可能になるのでしょう。
…ソール・ライターの作品では、鏡や窓を透過して風景が何重にも重なり合っているものもあります。例えば《無題》(撮影年不詳)では歩道の消火栓と道路が窓に映っていて、窓越しの鏡にはカメラを構えた写真家が映っています。暗い店内と道の向かい側の影が重なっていてあたかも一続きのようになっていると思うのですが、カメラの背後に広がっている街の風景と正面の店内の様子、さらに鏡像が重なり合って実体と映像の境目が分からず、実体の確かさが揺さぶられる感覚を覚えます。しかし、無限の透明な空間における整然としたパースペクティブでなく、断片的で重層的なイメージの集積としての都市はかえって私たちの実感に近く、そこに生きる人々の日常の重なり合った奥行きのあるイメージが表現されているように思います。
…一方で、対象との距離を保ち、間接的に表現する好み、拘りには「私は有名になる欲求に一度も屈したことがない。自分の仕事の価値を認めて欲しくなかった訳ではないが、父が私のすることすべてに反対したためか、成功を避けることへの欲望が私のなかのどこかに潜んでいた」*6という言葉と何処かで通底した、ある種の躊躇いも感じます。
…こうした距離感は舞台の主役より脇役、あるいはむしろ本来なら注目されることのない観客へのまなざしにも感じられます。《マッカーサー・パレード》(1951年)や《野球》(1953年頃)はタイトルと裏腹に、肝心のパレードや野球そのものではなくそれを眺めている人々の姿が捉えられています。出来事を見つめる人を見ている写真家、人々の記憶を記録した写真という入れ子構造になっているんですね。華々しいスペクタクルの外側にいる「何もしていない人たち」は特別ではない無名の存在ですが、世界の圧倒的多数を占める彼らは一人一人がかけがえのない個人であり、彼らにもたらされる波紋や感興、刻まれる記憶の総体こそ歴史とみなすこともできるかもしれません。ソール・ライターは一歩引いて見る者にとどまりながら、省みられることなく、忘れられてしまうものを見逃さず捉えて残すことが、写真家としての自分にできることだと考えていたように思いました。